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■2005年2月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
明哲保身 めいてつほしん up 2005.2.27
道理に従ってものごとをうまく処理し、自分の身を誤ることなく安全に保つこと。また、ものの道理をわきまえた賢明な人は、ものごとを適切に処理するので、身を誤ることがないということ。
『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。
(マタイ5:38〜42)

道理をわきまえることは私たち自身を安全に保つことです。
道理とは天地を造られた真理の神様を基準にしていきます。
神の道理の中に「目には目で、歯には歯で。」ということばの中に表されています。
●2/28(月)「目には目を…」(コロサイ人への手紙1:20)
ユダヤ人たちは神のこの戒めを復讐のことばとして、報復の正当性を訴える口実として用いて、互いに傷つけ合っていました。
イスラエルは神に選ばれた民であるならば、選ばれた民として、ふさわしい「明哲保身」すなわち、道理をわきまえた行動をして欲しいと願われて、このことばをイエス様は語られたのです。
損失を受けたなら、それど同等のものを要求する権利があり、損失を与えたなら、それと同等のものを償う義務があるという意味です。
創造主なる神に対して罪を犯した私たちは、どのようなもので償うことができるのでしょうか。
同等のものをもって償い、弁償し、もとの状態に戻すことが「目には目を…」という意味です。
創造主に対して罪を犯した私たちは、何をもって償うことができるでしょうか。神に対して犯した私たちの罪の損失は罪のない御子の尊い血潮をもって、神と和解が成立したのです。
神が納得できる和解の代償は、罪のない聖いイエス・キリストの生命しかなかったのです。
●3/1(火)「悪い者に対して」(气eサロニケ人への手紙5:15)
単に左の頬を出すのではありません。
それはどんな時でも、誰に対してでも善を行うことの証しなのです。相手にとって祝福となるように対処していきましょう。
悪者に対して手向かってはいけませんと言われています。
右の頬を打たなければならない関係問題があったという、相手の気持ちを受け入れることです(へりくだった態度です)。
正しい良心からの態度は、相手の良心に訴え目覚めさせ、殴ることができなくなるのが一般的です。感情、力、理論でぶつけたら、感情、力、理論で返ってきます。正しい良心で返せば、正しい良心で返ってくるのです。
左の頬を出すということは、相手を気遣い、相手を理解し受け入れ(受容)ることです。へりくだることです。
神の子はいつでも平和を造り出す者です。
ローマ人への手紙12:21…善をもって悪に打ち勝ちなさい。
气yテロの手紙3:9…悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。
●3/2(水)「告訴する者に対して」(ヘブル人への手紙13:16)
告訴して下着を取るとは、あなたが告訴されるような損失か罪を犯して、相手は下着を取らないと和解しないということです。そういう者に対して「上着を与えなさい」とイエス様は言われました。(この当時、下着は高価なもので、貧しい人は持つことができませんでした。上着は下着よりも高価なものでした。)
下着(相手の要求)に対して、上着(要求以上のもの)を与えて、相手と和解することは善を行うことであり、神に喜ばれるいけにえとなります。
例えば、告訴した者は20万の請求に対してそのまま20万返してもらっても感情にしこりが残りますが、20万は当たり前のこと、5万は告訴された者のお詫びの気持ちとして25万返してもらうと心が楽になります。
相手の要求以上のものを返して和解する、これが善を行う者の態度、平和を造り出すコツなのです。
義を通す者は「目には…」という当たり前のことをしているだけで、何一つ善は行っていません。神に誉められ、喜ばれる者は、当たり前以上のことをすることを、イエス様はここで教えておられます。
●3/3(木)「強いる者に対して」(コリント人への手紙9:7)
1ミリオン行けと強いる者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。10キロ行くように言われて、10キロも行くの、と思うと苦痛に感じますが、20キロ行こうと決めることで楽になります。
人は心に決めている以上のことを進められると、強いられると聞こえます。献金においても、献金の話をされると強制されると感じる人がいます。それは心に決めているからです。
ささげることのできないものを要求される場合も、ささげられるのにしないで良いと言われる時も圧迫感があります。人から強いられてではなく、神の前に正しい良心をもってささげることが大切です。
圧迫感を受けずに、勧められたおことばを気持ちよく受け止めることのコツが、強いる者に対する態度です。
10キロ行こうと言う者に20キロ行きましょうと、これがコツです。
大きい目標を持ちましょう。願いを大きく、心を広く持ちましょう。
●3/4(金)「求める者に対して」(使徒行伝20:35)
求めるとは、助けが必要な人のことです。貪欲、怠け者に対してではないのです。困窮の人のことです。
与えるという気持ちを持たずに返してもらおうと思って助けをすると、心の圧迫とゆがみがやってきます。
親切をしたら恩を返してもらおうという考えでいたら、心が傷つき、失望します(不信仰に陥ります)。
道理(真理)を良くわきまえて、対処しなければなりません。
お金の助けなのか、心の内面の助けが必要なのか、見分けなければなりません。神に祈って、助けの必要な人には、惜しむ心でなく与えることが大切です。与える心を失わないようにしましょう。
●3/5(土)「明哲保身」(詩篇111:10)
知恵を持ち、良い明察(分別、見分ける力、物事を理解する能力)これを身につけるコツは、主を畏れることが始めです。
明哲、道理をわきまえる始めは、天地を造られた神を畏れる心をまず、自分の心に起こすことです(正しい良心を意識すること)。正しい良心が知恵をもたらし、よい明察(見分ける力)をもたらす主を畏れる心をもって物事を見分ける時に、知恵とわきまえが生まれて来るのです。
心の目がイエス様の十字架を見上げるようにしましょう。人は見るものに影響されるのです。欲望から勝利するためにイエス様の十字架を見上げましょう。そこに聖霊様が働いて勝利できるのです。
神の御心の道理をわきまえて物事に対処するなら、敬虔さを保ち身を誤ることがありません。

■2005年2月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
海誓山盟 かいせいさんめい up 2005.2.20
山や海がいつまでも変わらないように、非常にかたい誓いのたとえのこと。また、男女の愛情がかたく結ばれて変わらないことのたとえ。
さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
(マタイ5:33〜37)

現代はあまりこういった誓いをすることはなくなりました。イエス様は「誓うな」と言われましたが、それは何一つ誓うなという意味ではありません。約束する時、それがいかに真剣なものかを示すのに誓うこともあります。
当時、ユダヤの人々の間では自分を正当化し、自分の主張を直すために必要以上にこの「誓う」という行為をしていました。モーセの律法に「みだらに神の御名を唱えてはならない」というのがありますが、それは誓うという行為にも言えることです。誓うということと神の御名を唱えるということには、深いつながりがあります。
今週のタイトルの「海誓山盟」のように、本来近いとは、いつまでも決して変わらないほど強いものです。この誓いを神の前に効果的に用いるための学びをしてゆきましょう。
●2/21(月)「誓いとは」(マタイ5:33〜37)
「誓う」とは必ず神を証人として呼び出すほど真剣なもので、約束を守るために強い拘束力をもつものです。そして、互いの厚い信頼関係の上に初めて成り立ちます。
しかし近年は「誓い」がただ形式的なものとして軽視されるようになっています。その一つの例が結婚式です。正しい意味を知らずに、ただ単に洋風のムードに憧れて、教会で挙式するカップルが増えています。結婚は神の前に誓わなければならない大切なことです。結婚の誓いによって、夫婦は互いの愛によって縛られます。それは互いが一体となるべきものとして、神が巡り会わせくださった伴侶であると認めることです。
結婚は真剣なものであり、重要なものです。取り消しのきかないものです。それゆえ互いに、誓ったことばへの真実を日々の生活で果たしてゆくことが大切です。この誓いは正しい良心からの誓いであって神の前に、神を呼び出してなされるものなのですから、軽々しくなされるものではありません。
●2/22(火)「黙らせるためではない」(ヘブル6:16)
「誓い」の特徴に、すべての反論をやめさせる、黙らせるという意味があります。「誓う」といった以上。その人が責任をもってやると言い切っているので、周りの人はまるで反論できなくなってしまい、力によって周りの意見をねじ伏せてしまうという悪い使い方になることがあります。
こういうやり方を当時、ユダヤの人々が幾度もやって、実際は片端から破っていくということが多かったので、イエス様は「誓わないように」と戒められたのです。
間違った「誓い」の仕方があります。それは自分があたかも神のように主権者にでもなったかのように誓って、周りの人々を黙らせてしまうという「誓い」です。私達は主権者ではありません。神を畏れず、むしろ神の権威を利用して、自己主張するための誓いとしてゆくことは罪です。
私達は敬虔な心をもつことが大切です。敬虔な心をもつなら、そう簡単に「誓う」ことはできないと知るはずです。敬虔な心とは、良心を働かせるということです。
勝ち負けにとらわれた誓いはしてはなりません。自我を通すためでも、プライドを守るためでもいけません。感情的、思想的でもだめです。
私達は神の主権を認め、神を畏れ敬う真実な良心から出た心で、神の前に約束を守りたいという真剣な覚悟で「誓う」ことが本当の誓いです。それゆえ軽々しく何度も誓うということはありえないのです。
間違った誓いをしないようにしましょう。たとえ誓うということばを使わなくても、高慢な心で、自己主張を通し、相手を黙らせようとするなら、それは間違った「誓い」の姿勢と同じ悪いものです。気をつけないといけません。
●2/23(水)「はい、いいえ」(ヤコブ5:12)
「はい。」を「はい。」「いいえ。」を「いいえ。」とするのはどういう意味でしょう。まず最初の「はい。」とは、神の目から見て、「はい。」といえるものです。道徳的に最も優れた神から見た判断での「はい。」です。あなたの主観ではありません。つまり、神が「はい。」と言われることにはあなたも「はい。」とし、逆に、神が「いいえ。」といわれることは、あなたも「いいえ。」としなさいということです。それゆえこの「はい。」と「いいえ。」の判断はあなたの神を敬い畏れる正しい良心からの判断であるべきです。感情的になったり、自己中心になってはなりません。むしろ自分の間違いは素直に神の前に認めて改めましょう。自分の間違いを認めず言い張ってはなりません。
2/24(木)「さばきへの覚悟」(ヤコブ5:12)
誓いは約束を守るためにあるので、もし破ったら、どんな裁きでも受ける覚悟があるということを意味します。芸能人の中に教会で神の前に誓って結婚しても、「性格の不一致」ですぐ別れてしまうカップルがいます。それで「誓う」という意味が全くありません。誓って結婚をしたのであれば、性格の不一致という理由で別れ、しかも財産の分与で裁判所に行くというのはおかしなことです。むしろ誓いを破って離婚するのであれば、どんな裁きを受けてもかまわないという覚悟をするのが本来の誓いの意味です。
もし夫が約束を破ったのであれば、妻の請求をすべてのまないとなりません。その逆も言えます。誓いは絶対に約束の内容や意味を変更しないという意味があります。誓った以上は「できません。」とは言えません。できるよう努力していくしかありません。結婚式で一番大切なのは、いかにしっかりとした心構えで誓うかにあります。安易な気持ちで誓ってはなりません。互いにいかに神の前に敬虔であるかが、夫婦関係で最も大切になります。
●2/25(金)「必然的誓い」(ヘブル6:17)
神はご自分以上の存在がないので、ご自身のプライドにかけて誓いをされました。それは、私たちがイエス・キリストを信じるなら永遠の救いを受け、裁きから解放されるという約束の誓いです。これは誓う必要のある約束です。このようにどうしても誓わなければならない必然的誓いがあります。その一つは結婚の誓いです。
神との関係も誓いの関係です。私たちが永遠の神の国に入る者として育てようとしておられます。神は私たちを永遠の御国に入れようと誓われました。それゆえその誓いを守るためひとり子なるイエス様をこの地上に送ってくださったのです。
神はこの救いを父として当然の行為として私たちのためにしてくださったのです。子である私たちはそれを当然と受け止めるのでなく、むしろその誓いを守ってくださっている父なる神の愛を敬虔な気持ちで受け止めることが大切です。
結婚の誓いが「健やかなる時も病める時も…」とあるように、どのような状況がおきても決して変わらないように、父なる神も私たちに対して、神の子として愛してくださるお気持ちは、例え私たちが罪を犯しても、決して変わることがありません。必然的誓いは、このような深い関係においてなされるものであり、私たちも結婚の誓いのように、誓うべき時には、誓わなければならないものです。
●2/26(土)「クリスチャンの誓い」(第1ペテロ3:21)
単なる約束ではなく、正しい良心の神への誓いとして私たちはバプテスマを受けます。ここで注意して聞いていただきたいのは、バプテスマは神と共に歩む人生を決心したということであり、行いによるのではないということです。決心を変えないことが大切であって、行いができなかったら、決心を変えてしまうということではありません。行いが不完全であっても、「神と共に歩む」という心をもち続けることが誓いを守るということになるのです。
クリスチャンであり続けるとは、例えクリスチャンらしくないことをしてしまっても結果が出るまでその決心をもち続けることです。これを聖書では「信仰」といっています。神は私たちの心がもろく弱いことを知っておられます。しかし神はあなたが初めの決心を捨てず、あきらめず、共に歩んでほしい、幾度でもやり直してほしいと願ってくださっています。決してあきらめてはいけません。
イエス様はあなたが決してあきらめず、その決心を捨てないよう今も十字架でとりなしてくださっています。この決心は正しい良心でできます。感情やプライドでは、決心を長続きさせてゆくことはできません。毎週私たちは礼拝の時に、この正しい良心によって、クリスチャンとして歩むことを決心してゆきましょう。

■2005年2月13日 日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 百合子 師)
主との交わりの回復 up 2005.2.13
○「主との関係」を築き直すことを最優先とする。
○「祈りの祭壇」をしっかり築くことが大切。

2005年2月13日メッセージ

■2005年2月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
魚游釜中 ぎょゆうふちゅう up 2005.2.6
煮られるのも知らず、魚が釜の中で泳いでいる様子から、切迫した災いや危険を悟らずに、安逸をむさぼるたとえ。
『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。
(マタイ5:27〜32)

ここでイエス様は、体の一部を失っても、体全体がゲヘナに落ちるよりはましだと言われています。
それほど、罪に対する裁きは厳しいものなので、油断してはいけないと言われているのです。
この世の中は神を畏れません。憲法に引っかからなければいいのだという考え方です。特に姦淫に対しては、憲法で罰せられないので、不道徳であってもいいのだという安易な考え、漁遊釜中の状態です。
神は道徳的な津もを厳しく裁かれます。
私たちは釜の中で泳いでいる魚のように神を畏れないで自由に泳いでいると、いつしか神の裁きによって、ゲヘナの釜の中で煮られる魚のようであると言えます。
罪というのは、実際に行動を起こす前にすでに心の中で犯してしまっているのです。神様の目から見た罪は、それほど厳しくはっきりと叱責されるということを、ここでイエス様は言い表しておられます。
姦淫だけでなく、これを通してクリスチャンたちに何を知らせようとされているのかを見ていきましょう。
●2/7(月)「契約の関係」(マタイの福音書26:28)
『姦淫』→結婚した女性(人妻)と関係を持つこと。=契約を放棄すること。
結婚とは契約を結ぶことです。何のために契約をするのでしょうか。それは、約束を絶対に守ります、という証として契約をするのです。約束には契約がなければ、それを破られた時に公平な裁きができません。契約があってこそ、約束が生きてきます。
神様の前にはごまかすことができません。結婚の時、最高の権威のあるお方、神様の前で誓うということは
絶対に約束を破りません、という意志表明なのです。
姦淫とは、女性が結婚の契約を破ることを言います。
クリスチャンにとってとらえるべき姦淫の意味は、神様にとっての私たちは、キリストの花嫁、妻としての契約関係であるということです。
いつ契約したのでしょう。それはイエス様を信じ、この方以外に救い主はいないと決心し、洗礼を受けた時です。それを裏切って偶像の神、欲望の神との関係を持つようなことはあってはなりません。
救い主に対する信頼と敬虔な心を表明しているのですから、夫がいる妻のように、しっかりと主に信頼していきましょう。
●2/8(火)「契約厳守のために」(ヘブル人への手紙8:10)
誘惑とは、他のものに目を向けさせる働きのことです。私たちの心には何が書き付けてあるのでしょうか。それは神様の愛、神への信頼です。
その信頼から目を離させようとする誘惑がやってきます。もし契約の内容を忘れてしまうなら、損をしてしまいます。神様は私たちとどんな契約をしてくださったのでしょうか。
イエス様は心を入れ替えてやり直したいという人々のために、救い主として来られました。何度失敗してもいいから、私たちが前向き前進していくために、十字架で苦しみを受けられたのです。
「私はクリスチャンとして失格だ」とあきらめてしまう人のために「大丈夫だよ」と十字架から励ましてくださる、赦しの契約を私たちと結んでくださったのです。
だからあきらめないで、神の子として進んでいきましょう。
●2/9(水)「むさぼり状態」(第1コリント人への手紙10:6)
イスラエルの人々はエジプトでの奴隷の状態から救われ、約束の地に出発したのですが、荒野において「ああ、私たちはエジプトでは腹一杯ごちそうを食べることができたのに」とぐちを言いました。むさぼりは、自分を義とし、正しい者を悪とみなす、反抗的な心が生まれてきます。姦淫もむさぼりからやってきます。破ってはならない約束を破るほどの強い力、それがむさぼりです。
むさぼりとは、それをせずにはおれない、満たさずにはおれないという強い欲望、貪欲です。私たちはむさぼりに気をつけなければなりません。エジプトから出てきたイスラエルの人々は、荒野で皆死に絶え、彼らの子供たちが約束の地に入りました。
むさぼりは神の国をつぐことができないのです。むさぼりの心が少しでも出てきたら、早い内にイエス様の前に正直な心を持って悔い改め、むさぼりを捨てていつも神と共にある自分を意識することが必要です。
●2/10(木)「むさぼりを起こさないために」(ヘブル人への手紙13:5)
感謝の心が少なくなってくると、「むさぼり」に捕らえられてしまうのです。金銭に心を奪われてしまうと、むさぼりにとらわれてしまい、正しい判別ができなくなります。
そうならないために、今もっているもので満足しなさいと言われています。それは、「感謝の心を持つ」という意味の満足です。今与えられているもので、一つ一つ感謝していくと、むさぼりという大きな力につかまれることはありません。
●2/11(金)「むさぼりを持ち込まない」(コロサイ人への手紙3:5)
むさぼりとはl、生理的な欲求を捕らえてやめさせない、不摂生な状況をもたらす力です。
むさぼりが欲を統括してやめさせないようにするのです。このむさぼりが偶像礼拝と言われています。
イエス様は「心で罪を犯したのだ」と言われました。それは「むさぼり」という力を心に受け入れてしまったことによって、姦淫という罪に至ったためです。
偶像とは神ならぬものに頭を下げて、その言いなりになることを言います。本来私たちは神のおことばに従うべき者ですが、欲望に従って、欲のままに自分を動かしている、これが偶像礼拝の状態なのです。
むさぼりというのはそれほどまでに私たちを従わせ、ひれ伏させる力があるのです。
このむさぼりに心が影響されていたら、正しい良心という働きはそこに表れてきません。欲を満たすために理解し、認識し、意識を働かせるという状態が起こります。
むさぼりを切り捨てて、神の前に正しい良心を持って生きることを決心し続けなければ、むさぼりが偶像となって、あなたの心を支配してしまうことになります。
むさぼりを心に持ち込まないように気をつけましょう。
●2/12(土)「心を向けるべきこと」(ローマ人への手紙13:14)
人は、自分の関心事に心を向けます。その関心事は、自分が何者であるかというところから広がっていきます。
クリスチャンとは一体何者なのでしょうか。その自覚がなくしての関心事は、欲望の関心事となってしまいます。私たちは神の子です。この自覚から心を向けるべきものは何であるかを、正しい良心を持ってしっかりとわきまえていきましょう。
「自分は神の子である」という自覚がなければ、欲望を意識してしまいます。自覚が自制心を生み出します。神様はあなたの心に働きかけて、むさぼりから引き起こされる姦淫、すなわち契約を破ってしまうことのないように、正しいクリスチャン生活へと、私たちを導いてくださいます。

■2005年1月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
四海同胞 しかいどうほう up 2005.1.30
世界中の人々が兄弟のように仲良くしなければならないという意
昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。
(マタイ5:21〜26)

先週は律法について話しました。
律法があってこそ、信仰は大切なものなのです。信仰とは「神を愛し、隣人である兄弟姉妹を自分と同じように愛すること」です。律法の中の一つで「人を殺してはならない」とは、心の内側の問題を取り扱うことをイエス様は説明されたのです。
「四海同胞」とは陸地は四方を海に囲まれています。すなわち世界中の人々は同胞です。兄弟のように仲良くしなければならないという意味です。
カインとアベルはささげ物のことでねたみとしっとが起こってしまい、兄弟の意識がなくなり、殺人を起こしてしまったのです。
今週は兄弟という意味について学んでいきましょう。
●1/31(月)「兄弟とは」(第1ヨハネ3:16)
ここで、人のためにいのちを捨てると言わず、兄弟のためにいのちを捨てると言っています。
兄弟という関係を意識づけているのです。
兄弟とは血のつながった同種族、同氏族、に属する仲間であり、友人、同胞、隣人、共闘者、同労者と同じ意味を持ちます。目的を達成するために集まる時、兄弟と呼ぶように発展していきました。したがってイエス・キリストを信じる同胞は兄弟なのです。神に愛され、神を愛する者たちの集まり、民族です。兄弟という意識をしっかり持ちましょう。
クリスチャンとして、神様を信じ尊び、正しい良心を持って、共に生きていこうと決心した者同志、互いに信頼関係をもって、協力しあっていきましょう。これが教会の集まりです。
兄弟=同じ、という意味が聖書ではどのように説明しているが、(火)(水)(木)と三つから見ていきましょう。
●2/1(火)「キリストのからだとして」(第1コリント12:27)
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
兄弟という意味はからだの一肢体同志という意味です。
自分はイエス・キリストのからだのどの部分でありたいか考えます。ほかの期間と比較して目立っているか、すぐれているかいないかを考えてしまう時は、一肢体同志(兄弟)と見ないで自分しか意識しない状況にあるのです。自分だけを意識してしまうと人と比較してしまいます。
目の美しさは他の器官が支えているのです。
すべての体の存在は、お互いそれぞれ各器官の存在によって支えているのです。これが兄弟なのです。
●2/2(水)「平和のために召された兄弟」(コロサイ3:15)
キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。あなたがたは召されて一体となったのですとの理由が書かれています。それは、キリストの平和が心を支配するように、兄弟として召されたということです。
主義主張は違ってもお互いに兄弟なのです。
家庭を、社会を、世界をキリストの平和がもたらされるように召されたのです。神は兄弟愛を全世界に満たそうとして福音伝道に召されているのです。
●2/2(木)「神と御子が一つであるように」(ヨハネ17:11)
神と御子が一つであるように、私たちは兄弟と一つであるようにということです。
それぞれ人格はあるけれど、一つの人格者になるように、一人一人思いや価値観、能力が違うけれども、一人の人となるように、父と御子は二つの人格である、あるけれど一つの人格のように働いておられます。
私たち多くはいるけれども一人の人格のように動き、働く、そういう関係の者ということです。
私たち兄弟という認識は、正しい良心から生まれて来るのです。
●2/4(金)「闇の中にいるとは」(第1ヨハネ2:11)
兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。闇が彼の目を見えなくしたからです。
腹を立てる、能なし、ばか者と言ったりする者は闇の中にいる者のことをさしているのです。それは兄弟を憎む表現です。
腹を立てる→感情的になり、さばく心を持つこと。
「能なし」と言う→中身のない無知なものと見下し、恥辱を与える
「ばか者」と言う→思慮のない無礼な者と決めつける
これらは罪が私たちの感情をとらえ、古き知識を用いてこのように兄弟を憎ませる心へといざなう(引っ張っていく)のです。罪の働きをしっかりと理解しておかなければなりません。
「私は罪にあやつられ、罪に動かされているなんとみじめな人間なのだろう」と恥を感じなければ、人は悔い改めに進みません。恥は正しい良心が働かなければ感じません。
罪に同意し、感情に動かされて闇の中に留まるか、古き自分を悔い改めて神に立ち返るか、どちらかを選ぶべきです。
自分の本心はどちらにあるかをはっきり知るべきです。
私たちは「神の真理の言葉に従います」と信仰の告白をして、心を光に向けて歩みましょう。
●2/5(土)「神のさばきは完全である」(ローマ2:16)
私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。
このみことばは、最後の1コドラント(1デナリの60分の1)を支払わなければ、獄屋から出してもらえませんということです。
罪を隠していたら、イエス様はどんな小さな罪でも裁かれ、それを処分するまで赦しはありえませんよと語っておられます。罪を悔い改め、離れる努力をしていなければ、悔い改めているとはみなされないのです。
誘惑がやってきた時、止めるのはあなたの悔い改めの決心の強さと神に対する敬虔な心の姿勢によるのです。
クリスチャンは誘惑がなくなったのではなく、決心をしているので
蹴っていけるのです。自分の身から離し遠ざけるのです。
神の裁きは完全です。私たちは神の前にいつも正しい良心をもって罪を認め、告白し(悔い改めの姿勢)切り離していく心を失わないようにすることです。
特に兄弟に対する人間関係、神が久しく愛してくださった兄弟、神がお造りになった兄弟としての関係を忘れないようにしましょう。
神は全人類をそのようにお造りになったのです。

■2005年1月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
破戒無慙 はかいむざん up 2005.1.23
出家した者が、戒律を破っても恥ずかしいと思わないこと
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。
(マタイ5:17〜20)

イエス様は「幸い」についての教えをされたあと、律法について話されました。
それは、イエス様の教えが、モーセの十戒を無視したもので、律法を守らなくても良いというものだという誤解を、人々に与えないためでした。
旧約時代、神はモーセを通して「十戒」を与えられましたが、この戒めを誰一人、守ることができませんでした。
それ由、神のあわれみによって、律法を破ったためにいけにえを捧げるという宗教儀式を行うことにより、赦されていました。
律法はいうなれば設計図のようなものです。設計図が実物として完成した時、それは成就したといいます。だから、律法はまだ成就していなかったのです。イエス様は、神の言われた律法を成就するという役割を果たすために来られました。また、山上の垂訓は新約聖書の「十戒」のようなものです。
私たちは律法を守ることに窮屈さを感じがちで、神は信仰を与えられたのだからと、律法をないがしろにすることは間違いです。
仏教用語でいう「出家」とは、自分をきよめ道徳性を高めるために、俗世界を捨てて、仏の道に入ることを言います。クリスチャンも、新約聖書の教えで要求されていることは、出家した者と同じです。一般の信徒だからといって、戒めを守らなくてもいいわけではありません。だからといって、信仰が無になってしまうような極端な受け止め方にならないために、律法について正しく理解するために今日はお話しします。イエス様が成就されたならば、その御足の跡をついて行けば、戒めを破っても恥さえ感じないような鈍感なクリスチャン生活を歩むことはないと思います。
●1/24(月)「律法は違反者のため与えられた」(第1テモテへの手紙1:9〜10)
イスラエルの人々に律法が与えられた理由は、彼らは罪人だからです。違反をしない正しい人には律法は必要ありません。
クリスチャンは律法は良いものであるとわかってますから、間違いに気づくとすぐに悔い改めて立ち返るので、律法に縛られることはありません。
でも縛られていると思う人は強制的に従わせられるというイメージを持ちます。強制的に従わせられると感じる人は自分が正しいと考える人です。神が正しいのか、あなたが正しいのか、これを問われるのが律法の内容です。
あなたが聖書を読んで窮屈だと感じる時、何か神の御心とは違うことをしようとしていないだろうかと反省してみましょう。
正しい良心を持って聖書を読んだら、みんな「アーメン」と心から素直に同意することができるはずです。しかし良心的な考えを軽んじる人は、頭で理解しても気持ちでは受け入れられないので、「今はできない」と言い訳をつけて違反しようとします。違反しようとすると、余計に律法はあなたを違反させまいと縛るので、窮屈に感じるのです。
しかし、窮屈に感じるほうがまだ安全です。窮屈にも感じなくなったらおしまいです。まだ圧迫を受けるほうが見捨てられてないと思ってください。「何それっ」と思うようになってしまったらますます簡単に罪を犯してしまうような不敬虔な横柄な心になってしまっているということです。
そうならないうちに、神のおことばが私の生きる道なのだということを悟ってください。
●1/25(火)「律法は違反を示すためにある」(ガラテヤ人への手紙3:19)
交通ルール等のルールは、あなたひとりが幸せになるために与えられたのではありません。すべての人が平等に幸せに暮らせるために守るべき原則です。
あなたの間違いを示し、人に迷惑をかけていることを示すために、律法、憲法、神のみことばがあります。だから、聖書のみことばを良く知らなかったら、罪を犯していても罪を犯していることが解らないために、主からの恵みを受けることができなくなっているかもしれません。
律法を正しく理解していないと「なぜこんなに教会に来て祈っているのに、神様はこれ以上何もしてくれないの」というような、祈りの聞かれない状況になることがあります。
何が間違っているのか見えていないことがあるのです。
聖書をしっかり読んで違反に気づかせていただき、気がついたら素直に悔い改める時、再び恵みを受けることができます。
素直なあなたが本物で、素直でないあなたは罪の力です。
●1/26(水)「律法は罪を示すためにある」(ローマ人への手紙5:13)
違反に至るまでに罪の働きかけがあることに気づくことが、罪を犯すことを止める最善策です。
聖書を読んでいる人は、あなたのうちに宿っている罪の動きを見つけることができます。なぜなら律法は罪を示すからです。
だから、自分の人生観で自分の心を見ても、罪がわからないのですが、聖書を読むと、できないと思えることが多く、苦しい思いになります。それはあなたの内に罪が宿っていることを、神が示しておられるということです。
いくらやっても成功しないのは、罪の力があなたをコントロールしている部分があって、それにごまかされ、後ろで操られていることに気がつかないでいるからです。聖書を読めば、それが明らかになってきます。心を刺されながら、じっくり読んでいくと、自分の醜さ、力の弱さ、罪の力が内側に潜んでいることに気づきます。
罪はあなた自身ではありません。そうなると、自分と罪とを区別できるようになります。
●1/27(木)「律法は罪を目覚めさせる」(ローマ人への手紙7:8)
罪とはまるでコップの中に沈殿した泥のようなもので、律法という棒で水をくるくるっとかき回すと汚れがパーッと出てきます。しかし、長い年月で固く沈殿していたら、いくらかき回しても、汚れは出てきません。そういう時は、溶かすものが必要です。この溶かすものが、イエス様の血潮の力です。
神の愛の象徴である、イエス様の血潮があなたの心に入ってくると、固くなった泥が柔らかくされて、自分の醜さが出てきます。
もうこれ以上見せないでほしいと思うほど、自分が罪に対して弱く、情けない人間だということを感じさせるのです。
「オレは何てみじめな人間だろうか」「私はなんと愚かなんでしょう」罪人の頭と言われても仕方のない者だと、自分を卑下し、悩み、心に死ぬほどの痛みを感じることは大切なことです。
「それがどうしたの?」と開き直ってしまう心、痛みを感じなくしてしまう心は良くない心です。悩む心のほうが、まだ神に喜ばれ、恥を感じてこそ、神の前に敬虔さが持てるのです。そしてあなたが、自分はダメだと思えば思うほど、神はそんなあなたを愛してくださって、「それでもいいから、きよめられることを願っていますか?その罪から離れたいですか?」と聞いてくださるのです。
「主よ、そうです。私にはできないけど、あなたにはおできになります。」と主を信頼するへりくだった心を持って、祈り求めることができます。これが大切なことです。
律法は私たちの心に潜んでいる罪を目覚めさせて、私たちをへりくだらせて、神の前に敬虔な心で正しい良心を持って祈ることができるようになるための働きをしてくれるのです。
●1/28(金)「律法は正しさの証」(ローマ人への手紙2:13)
行いという実が成ることは大切です。でもその種である動機が悪ければ、どんなに美しい実でも神は喜ばれません。
律法の言う正しさは、根本的には、あなたのあるべき姿、存在の目的を教えられることです。
ですから、聖書を読むとき、神は私にどういう者であるように望んでおられるか、私は何のためにこの地に現れて、命をいただいたのかを知りたいという目的を持って読んでいるかを考えなければいけません。何を聖書から得たいのかを心に持って読むなら、あなたの求めているものに対して、みことばが光を放ちます。
「主よ、今日、あなたの御心はどこにあるのでしょうか?」と祈って聖書を読むと、聖霊様があなたの良心に示しを与えてくださるのです。
●1/29(土)「愛は律法を全うする」(ローマ人への手紙13:10)
律法は愛を実現するためのルールで、互いに愛し合っていないということを教えます。
しかし、互いに愛し合うということは、聖書の文字では全部を表すことはできません。なぜなら、ひとりひとりの能力や価値観など、すべてが違うからです。ですから愛するということは、律法を守ることによっては義とされないのです。
愛することにおいて、神の前に正しいとされるかどうかの判断は、あなたの良心がする部分です。
言葉に表せない細かい部分は、聖霊が働いて、良心が教えます。
「これは罪ですよ。これはみことばに沿わないものだな」と良心がとがめ、良心に恥を感じる時は、これは違うんだなというようにして、ひとりひとりの良心が、愛を全うするための最大の役割を果たすのです。
その良心が磨かれていくための知識を、聖書は与えているのです。
一般的な基本的な基準を心に蓄えて、さらにその時、その場所、その状況、人、などのすべてを見て、良心が判断するのです。

■2005年1月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
黒白分明 こくびゃくぶんめい up 2005.1.16
善と悪、是と非、正と邪などの区別がはっきりしていること
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
(マタイ5:13〜16)

黒と白にわけることは、悪と善をはっきりさせる(わける)事を意味します。クリスチャンは地の塩、世界の光として妥協のない生活をつらぬくという存在の役割があります。
塩と光の存在と働きを一週間を通して学んでいきましょう。
●1/17(月)「塩という存在」(ピレモンへの手紙1:7)
『塩』は腐敗を防ぐ力を持っていて、きよめの象徴として用いられます。神様はこの世が罪の腐敗から守られ、神の形という良い影響を受けるため、クリスチャンを『塩』の働きのできる役立つ存在として用いたいと願っておられます。
神の役に立つ存在として造られたと思えば、それを目標として様々な誘惑がきても自制しながら前進していくことができるでしょう。
しかしながら『塩け』が少ないと、腐敗が進み、その役目を果たせないので『塩け』のあるクリスチャンであることが必要です。ピレモンへの手紙1:7では、パウロや聖徒たちがいかに彼から喜びとなぐさめを受け、力づけられたかということが語られています。
ピレモンはまさに『塩け』のあるクリスチャンとしての働きを全うしたのです。
●1/18(火)「塩けという力」(使徒行伝24:16)
『塩け』とは責められるところのない良心(神を中心とする道徳心)であり、それは主を畏れる心をもって、神の子として生きることです。
まず主を畏れるということがなければ、善を追い求めることはできません。
旧約では安息日を守り、神のくださる恵みの中から10分の1をお返しするという行動を通し、神の主権を認め、神を畏れる心の姿勢を表しています。
イエス様のように父なる神を畏れ、心からあがめる心を持って人々に近づいていく時、汚れた世の中で傷ついた人々の心が回復し、心に力が与えられていくのです。
人々が正しい良心をもって人生を歩める、という希望を持つためにクリスチャンは『塩け』を持ち続けましょう。
●1/19(水)「塩けのないクリスチャン」(第1ヨハネの手紙2:4)
未信者の人がクリスチャンを見る時、どのような点で神を敬っていると感じるのでしょうか?
毎週礼拝を守っている事
どこに行くにも聖書を携え、それによって「私はクリスチャンです」ということを人々の前で明らかにし、罪の誘惑から守られたきよい生き方をする事…
神を敬っている態度を表すことにより『塩け』を保ったクリスチャンとなることができるのです。
しかし名前だけのクリスチャンで留まっていると、『塩け』がないので、人々はクリスチャンに対する信頼を失い、腐敗は広まり、不敬虔な人々がさらに増えることになります。
世の中で『塩け』を保つ働きをするクリスチャンの責任は大きいのです。
●1/20(木)「光という存在」(エペソ人への手紙5:14)
『光』は人々を照らす希望と喜びの象徴です。
神様は暗闇のような世界にあって、クリスチャンの存在を通して光を輝かすようにと願って、その役目をクリスチャンに託されました。世の中の人々も本心では世界の光として生きることにどんな価値があるのか興味があるし、神を畏れて正しく生きることのすばらしさを見て味わいたいと思っています。
しかしその一方で、正しいことをしても悪いことをしても何も変わらないと思っている人も多いのです。
なぜでしょうか…?
神を畏れない生き方をしている『塩け』のないクリスチャンに責任があるのかもしれません。
地上から教会がなくなったら、人々は絶対に善を求めることをしなくなります。今、地上にいる間に『光』としての存在を表していきましょう。
●1/21(金)「光の持つ力」(ヨハネの福音書3:20〜21)
『光』は暗闇を退け、存在を明らかにする力があります。クリスチャンがクリスチャンであることをはっきりと表明し、光を輝かせて人々に近づいていくと、光を好む人(白)と好まない人(黒)にはっきり分かれてきます。
それによって真の友となる人(永遠のいのちを共に生きる人)とそうでない人にも分かれます。
主を畏れ、敬う心を人々の前でもっとはっきりと表して行きましょう。
●1/22(土)「人々の前に輝かす」(第1コリント人への手紙6:20)
光は隠しておくためではなく、人々の目に映るためにあります。神は私たちが自分のからだをもって神の栄光を表すために、代価を払って買い取ってくださいました。
神の栄光を表すとは、神が造ってくださった目的を結果として出すことです。
神のみことばを聞いて一つ一つ生かしていくという小さな積み重ねによって、神の栄光を表すことができます。
世の人々は本心ではクリスチャンの中に住んでおられる(生きておられる)イエス様のもとに行きたいと願っています。ですから塩けを保ち、光をしっかり輝かせるクリスチャンとして共に励まし合いながら、神の栄光を表す者となりましょう。

■2005年1月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
王道楽土 おうどうらくど up 2005.1.9
王道によって治められている平和な楽しい国
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
(マタイ5:10〜12)

天の御国は、王道楽土ということばでも言い表せます。
●1/10(月)「王道楽土」(箴言8:12〜15)
王の徳の高さによって治められるならば、王道とは、理想的な政治体制と言えます。私たちを治める王は、私たちの主であるイエス・キリストであり、最高の徳を持った方だからです。
イエス様は私たちの心の中まで知ってくださり、決まりよりも私たちの気持ちを重んじてくださり、あわれみを好まれる方です。
あわれみを好まれるということは、私たちの弱点を理解し、私たちが正しく歩めるように導き、正しい裁きをしてくださるということです。
しかし、神の国、御国は死んでからではありません。イエス様は、神の国はあなた方のただ中にあると言われました。
イエス・キリストを王として迎える人々の集まりの中にあるのですから、神の国は教会の中にあるのです。
教会がさらに理想的な地上の御国となるように、私たちは願っています。人にとって最も楽しいことは成長していくことです。
私たちはイエス様を王とした王道によって、しっかりと導かれ、成長することが大切です。それは家庭でも同じことです。
力で治めるのではなく、徳の高さで治めるために、その徳を高める秘訣は(箴言8:12〜15)に書いてあります。
知恵と分別によって王は政治をします。私たちも家庭や職場等で正しくリーダーシップをとるために、知恵である神のことばを良心に貯えていきましょう。
●1/11(火)「義のため」(イザヤ書51:7)
義のために迫害されている者たちに語られた慰めのことばです。
「義」とは何でしょうか。義とは「物事のそうあるべきすじみち」と言われています。義ということばは、神の存在によって出てきたことばです。
善か悪かの最終的判断は、神によります。法律や律法による善悪の判断は国によって異なります。それらの決まりよりさらにすぐれた徳の高さによって判断されるものが義です。宗教的用語と言ってもいいでしょう。漢字を見てみると「我」の上に「羊」という字が重なっています。これは、人が義とされるのは、その罪を取り除くいけにえとなる小羊を通してであるという意味を持っています。
「義のために迫害を受ける者は幸いである」とは、人間が人間であるべきために迫害を受ける人は幸いであると言い換えられます。
神が造ってくださった人としての存在の目的を守り、その人格者としての自分をしっかりと保つことが大切です。人は永遠を考え、見えないものを信じる心が与えられており、これが動物とは違うところです。それは創造主なる神と霊的交わりを持つためです。
人は神の形として造られました。それを守り通すのが義です。たとえそのために周りの人々から嘲笑され、迫害されても、その姿勢を貫きましょう。神はその迫害に対する報いを与えてくださいます。物質的、刹那主義的な生き方はやめましょう。
「良心」を働かせると、「私は何のために生きているのか」と人生を悩み始めます。その悩みに対し、そんなことを考えても無意味だと答えを与えないのが世の中です。しかし、それは人が人であるために大切なことです。その存在の理由は木曜にあります。
●1/13(木)「神の義とは」(ローマ人への手紙1:17)
すべての存在目的が「義」です。神は何のために私たちを造られたのでしょうか。それは「愛する」ためです。神は私たちを「愛する者」として造られました。それゆえいくら罪を犯したからといっても決して見捨てられないのです。愛するゆえに、失いたくないのです。この地球上に「あなた」は唯一人であって、他に同じものはないのです。あなたは神にとってかけがえのない存在です。
神は罪を犯した私たちを、罪から購い、さらに優れた作品へと造り変えてくださっています。それは私たちの存在が神の栄光となり、神の存在あってこそ私たちの存在価値があるからです。
神は私たちの存在を、御自身の栄光の輝きとしてさらに輝かせるために私たちを造られ、私たちを「高価で尊い」と言ってくださるのです。
私たちの存在価値を、神はこれほどに重要に考えてくださっています。神の義とは私たちと神がひとつになることであり、ひとつになって、互いの存在を高め合うことです。これ以上の存在目的があるでしょうか。その存在目的を尊び、守るために、私たちは決して自分の品性を下げてはなりません。この存在目的が神の義です。
●1/12(水)「自分を義とする者」(ヨブ記40:8)
神がヨブに語られたことばを見てください。
ヨブはいつも神の前に正しく歩もうと精一杯生活していました。サタンに試みられた時、すべてのものを失ってもへりくだっていました。しかし、そこに三人の友人が来て、もろもろの災難がヨブに降りかかってきたのは、ヨブが罪を犯したからに違いないと責め立てた時、ヨブの心に潜んでいた自己義が引き出され、ついに自分の義を激しく主張し始めました。その時、神が語られたことばが、「自分を義とすることは、神を罪に定めること」と等しいということです。
「義」は私たちにはつくれません。義をつくることができるのは神のみです。なぜなら、義とは存在の目的とその意味だからです。
自己義とは、自分を存在目的を定義する立場におくことであり、すべてのものに意味を与え、定義するのが自分であると主張することです。これは大きな罪です。
自分が創造主であるなら、すべてを定義し、義とすることができます。しかしすべてを造られるのは神のみであって、人は被造物に過ぎません。
ヨブはそれを悟って、神の前に深く悔い改めました。
このことを正しく知らないゆえに、不敬虔な人々は、自分の義をもって神の義を量るという愚かなことをしているのです。
●1/14(金)「義のために迫害を受ける」(第2テモテへの手紙3:12)
一般の人々は教会に行くことに関して、ほどほどに、あまり熱心になるなと忠告してきます。しかし祈るのも、聖書を読むのも、奉仕をするのも強制ではなく自発です。
私たちが洗礼を受けたのは、不敬虔な人生をやめて敬虔に生きたいと願ったからです。
敬虔に生きようとする時、迫害を受ける理由は、不敬虔な人々が多いからです。不敬虔な人々は自分の義でもって私たちを量り、支配したがります。これは宗教に限ったことではありません。何にせよ、熱心になると反対されるものです。確かにやりすぎはいけませんが、熱心さは必要です。みんなが同じようにしていた方がいいというこの世の考えは、熱心に励む人々の足を引っ張ります。
ひとりひとりは自由が与えられています。互いに足を引っ張り合ったり、強制してはいけません。教会の中で、お互いに裁き合うのはやめましょう。
ただ各々、神の前にどのように敬虔に生きるかを求めていきましょう。
●1/15(土)「キリストのために」(第1コリント人への手紙1:30)
イエス様は私たちの存在目的を明らかにする方、義となられました。
クリスチャンの存在目的はイエス様にあります。それゆえ、イエス様のために迫害されることは必ず出てきます。
クリスチャンが敬虔に生きようと悔い改めて生きる時迫害してくる人々は、悔い改めて敬虔に生き、神の裁きから救われるということを事実であると認めたくない人々です。
神の裁きを認めたくない人々が、クリスチャンたちを迫害してきます。
しかし、私たちは死んで終わりではないこと、死後報いがあることを知っています。
迫害された時、踏み絵を踏まなかったクリスチャンたちは、自分が神を信じキリストのものとして生きること、人としての存在目的を全うする決意を表明したのです。
私たちもキリストのために正しい良心を働かせ、神の前に敬虔に生きる決心をしていきましょう。

■2005年1月2日 日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 百合子 師)
肉に頼る人生との決別 up 2005.1.2

振り返ってみると、昨年は嫌な出来事が多くありました。津波では多くの尊い命が失われ、日本でも地震によって今なお苦しみと困窮の中に多くの方々がおられます。人生において安心と思っている伝統的なものがどんどん崩れ始めてきました。日本経済もバブル崩壊後、崩れてきました。貯金をしてもカードで勝手に引き出されたり、詐欺にあったり、家に置いていても強盗が入ってきたりすることもあり、いずれも安心できません。また、人間的に見て立派と思える職業の方々が問題を起こしたり、年金を払っていても将来の保証があるとは言えず、安心と思われる会社も次々と問題が起こったり…。私たちが一体何を頼りにすればよいのか、どうすれば平安でおられるかを考えていくとき、今、あまりにも不安にさせる要因が多すぎて、安心できる時代は過ぎ去って「物質主義に頼る生き方はできない時代」=「絶対にこれで安心とは言えない時代」が到来したと言えます。
安心を外側にだけ求めているのなら、この地上には決して安心と言えるものが存在しないように感じていますが、皆さんはいかがですか。
物質主義の崩壊がどんどんきている中で、私たちが平安を得る材料は私たちの内側にあります。私たちの内側にあるものは、誰も奪い取ることができません。内側に宝を持っているなら、奪い取られることはありません。しかし、内側でも自分の心のプライドや虚栄を持っているなら、自分自身に信頼をおいているのと同じで、いつかは消えていきます。
また今なお安易に注意も警戒もせず、この世の物質主義である貪欲に入っていく人もまだおられます。津波があったのに「今度はないだろう」「グアム島ならいいだろう」と行こうとする人がいますが、誰が今回の津波を予想したでしょうか。
聖書ではわたしたちに何と言っているでしょうか。
●1/3(月)(ルカの福音書12:15)
貪欲は物質主義に土台を置いています。どんな貪欲にも注意してよく警戒するように聖書は教えています。私たちの安心を外側にばかり求めているなら、それはすぐに過ぎ去ります。いくら物質的に豊かな人でも、人のいのちは財産にないと言っています。いのちの平安、魂の平安は外側にありません。内側になくてはいけません。
(ルカの福音書12:16〜19)には魂の平安をこのように考えていた人のことが書かれています。
●1/4(火)(ルカの福音書12:16〜19)
今の世の中のことをすでに2千年前にイエス様が教えてくださっています。
「人間の罪深さ」や「どこに平安を求めるか」はアダムとエバが創造されてから今日に至るまで変わっておらず、同じことを繰り返しています。アダムとエバが神に反逆して罪を犯した時から人の性質は全く変わっていないと言えます。魂の平安を外に考え、物質をしっかり貯えれば、魂に「安心して食べて飲んで楽しめ」と言おうと。しかし今夜いのちが取られたら、「その貯めたものは誰のものになるのか」と主は語られたのです。
ある不動産業者は何十億という財産を病院に寄付したそうです。貯えて使い切れないお金を持っても、使い切れず世を去っていかねばならないわけです。まさに聖書の言っている通りです。
では私たちは安心をどのように内側に持つことができるのでしょうか。それは神様が個人個人にいろいろな時、場所、問題の中で、個人的に語られることばを“レーマ”として受け取り、信仰する時です。それによってこそ不動の安心が与えられます。聖書にどんなことが書かれているか知るためには、通読も大事です。しかし、祈りの中で神のみことばが心の中に語られると、今まで問題や嵐の中で解決の手だてがわからない混沌の中にあっても、そのみことばがあなたの魂に「いのち」となります。
●1/5(水)(詩篇119:105)
「レーマ」として輝いてくるみことばは、問題や嵐の中で私たちの道の光として暗闇を照らし、心の中に行くべき方向を与えてくださり、希望、確信、いのちとなります。ですから神のことばを「レーマ」として心の中でいただくまで祈ることが大切です。
そしてレーマとしてのみことばに信頼するとき、岩の上にしっかり乗っているようなものです。スリランカの津波の時も、石のようにしっかり建てられていた家は流されなかったようです。洪水があって不安はあっても安心しておれるように、私たちは人生の嵐や敵の攻撃にあっても、高い岩の上に乗っているなら安心です。この岩は岩なるイエス様、みことばなるイエス様です。
●1/6(木)(詩篇127:6〜8)
みことばに信頼する時、主が私たちの砦となってすべての問題、すべての敵から私たちを助け出し、守ってくださいます。下に洪水が流れていても、岩の上に立つことができ、神に信頼することによって、主が私たちを守り続けられます。
●1/7(金)(ルカの福音書1:45)
親類のエリザベツによってマリアに語られたことばです。主によって語られたことは絶対に必ず成就すると信じることができた人は幸いです。
こうして私たちが創造主であり父なる神様の存在が絶対であり、またその方の語られることばも絶対に正しいと知るなら、その方のことばに信頼をもって、しっかり握りしめて生きることがどんなに平安で安心で幸いかを聖書は語っています。
そこで今年、神さまからのチャレンジとして、今までのことばを土台にどのように生きていくかを見てみましょう。
●1/8(土)(ヨシュア記1:1〜4)から5つのポイント
(1)わたしのしもべモーセは死んだ
「モーセ」とはヨシュアやイスラエルの民にとってエジプトの地から導いてくれた人です。人間的に頼れる安心の源でした。その方が「死んだ」とは、肉において信頼していたものが取り除かれた、断たれたということです。物質主義、貪欲への安住が根こぎにされてしまった、外側のもの(環境、金、家持ち、ものなど人間的に考えられるすべてのもの)を整えて安住するという考えが根こぎにされてしまったのです。
まさに人生の節目であり、過去を引きずって生きるか、新しく生きるかをはっきりした心構えを持つときです。
(2)立って
立ち上がるときには固い決意が必要です。モーセが死んで30日間嘆き、頼りにしていたものを取り除かれ、どうして生きていけばよいかわからないという沈み込んだ状況から、神様は「立ち上がれ」と言われます。「立ち上がる」とは、人間的に頼るもの、物質世界や肉における信頼できると思えるものすべてから決別することです。
「固い決意をもって立ち上がりなさい」とここで言われています。
(3)ヨルダン川を渡り
イスラエルの地に入るためにはヨルダン川を渡らねばなりません。「ヨルダン川」とは古き自分の完全な死を表します。ヨルダン川を渡ると、神様の約束の地「カナン」に導かれます。この新しい地に留まった生活とは「キリストと共に生きる人生」であり、「キリストのために生きる人生」です。「キリストのために自分を完全にあけ渡して献身的に生きる人生」が「ヨルダン川を渡る」ことに表されています。
私たちは過去にいつまでもしがみついていてはいけません。神様は新しいものを送ろうとしておられます。もし肉における安心を求めているならば、新年がきてもまた同じ繰り返しをすることでしょう。
しかしそのようなものと決別し、神様と共に生きる道を選ぶことが、私たちにとって新しい道となります。どの位、神様と共に生きる決意をされますか。ヨルダン川で死ぬことです。完全に神様に従ってついていこうとする決意が必要です。
(4)「与えようとしている地へ行け」
神様が与えようとしている地とは、神様の御心であり、導きがあります。神様の御心、導きに従った方向に生きていくようにとここで言っています。それは神様がくださる信仰の霊的領域であり、生きておられる神様に信頼し、自分の全存在を神様のことばにかけられるならどんなに幸いでしょうか。これが神様と共に生きる人生です。「神様のことばが、その通りである」と信頼し「みことばに従う人生」です。
(5)「ことごとく与えている」
各々信仰の年数は違っていても、神様が聖霊様を通して私たちをここに導かれました。誰一人聖霊様の助けなくして「イエス様を主」と呼べません。
すべての人は神の子であり愛されており、祝福を同じように与えたいと願っておられます。与えられた御心の場所を自分の足でしっかり踏んでいくことが大切です。約束とその言葉に踏み出すために戦いもあるでしょう。祝福を奪うため、敵が問題を持ってきても、神様は「与えた」と言われるのですから、疑わずに神様の導きに従っていきましょう。みこころのすべてを受け取るように。「ことごとく」です。欠けることなく神様の祝福と幸いと繁栄を、今年ぜひ自分のものとされるよう神様は願っておられます。
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