■2026年5月10日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師))
開き続ける教会
主題聖句(使徒2:42~45)
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
先週は、「閉じない」というとてもシンプルなことをお話ししました。聖霊を待つのではなく、すでに共におられる方に心を開く。分からなくても、閉じない。とてもシンプルなことですが、実はこれが一番難しいのかもしれません。
今日はその続きとして、「開く」ということが、一度のことではなく、どのように続いていくのか。
「開き続ける教会」とは何かを、共に見ていきたいと思います。
今日の主題聖句には、聖霊が与えられた後の教会の姿が描かれています。私たちはつい、ペンテコステというと、激しい風のような音や炎のような舌、異言、そういった“出来事”に目を向けがちです。しかし聖書は、それ以上に大切なこととして、「その後、教会がどうなったか」を記しています。彼らは、使徒たちの教えにとどまり、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていました。とてもシンプルです。むしろ、地味に見えるかもしれません。
しかし、その中に一つ、非常に重要な言葉があります。 43節です。「すべての人に恐れが生じた」この恐れは、何かに怯えるような恐怖ではありません。
これは、神が本当におられる、神がここで働いておられるということに触れたときに生まれる、「畏れ」です。
言い換えるなら、「自分中心ではいられなくなる感覚」です。
それまで、自分の考え、自分のペース、自分の都合で動いていた人たちが、神が中心であるという現実に触れるとき、自然と姿勢が変わっていきます。私たちは、放っておくと、自分のペース、自分の考え、自分の都合に戻っていきます。
では、初代教会の人たちはなぜ違ったのでしょうか。それが、この「恐れ(畏れ)」です。神が本当におられる。神が中心である。その現実に触れたとき、人は変わります。
自分が中心ではなくなるのです。そして人々に神への畏れが生じるときに、「神の介入」が起こるのです。
続きにはこう書かれています。「多くの不思議としるしが行われた」これらはある条件のもとで起きています。それは、人々の中に「神への畏れ」があったときです。
神を畏れるとき、神が働かれる余地が生まれるのです。
逆に言えば、自分が中心でいるとき、神の働く余白がなくなってしまう。だから私たちは、何かを起こそうとするのではなく、神が働かれる余白を持つことが大切です。これが、「開き続ける」ということです。
そしてその結果、何が起きたのか。44節です。「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有していた」
この共有は、単なる制度や「そうしなければならない」と決められたルールでもありません。心が変えられた結果として、自然に起きたことです。神を畏れるとき、人は自分を握りしめることができなくなります。だから、持っているものを分かち合う。当時は、実際に物質的な共有が行われていました。
では、今の私たちにとっての共有とは何でしょうか。それは、物だけではありません。時間であったり、労力や賜物、心だったりします。言い換えるなら、「人生を分かち合うこと」です。しかしこれは、簡単なことではありません。なぜなら、私たちはすぐに自分中心に戻るからです。だからこそ必要なのが、『聖霊の働き』です。
努力だけでは続かない。意思だけでは変わらない。でも、聖霊が働かれるとき、人は変えられます。
神を畏れるとき、神が働かれ、人が一つになる。これが、開き続ける教会の姿です。
私たちの教会は、賛美と交わりを大切にしてきました。でもその中心にあったのは、神が本当におられるという実感だったはずです。
もしそれが薄れてしまうなら、賛美は形式になり、交わりは活動になってしまいます。だから私たちは、何かを変えようとするのではなく、常に思い出していたいのです。神が中心であること、神が働かれること、人が一つとなれることを。
ペンテコステが近づいています。私たちは、あの出来事を再現しようとしているのではありません。あのとき始まった教会の姿に、立ち返ろうとしているのです。そして、もう一度そこに立つことを選ぶ日です。これが、聖霊に対して開かれ続けている教会です。
私たちは、何か特別なことを起こすために準備するのではなく、 神に対して開かれたまま、その日を迎えたいと思います。そして、神が何をなさるかは、神に委ねます。