■2025年12月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

永遠の刑罰

 

主題聖句(マタイ25:45~46)
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

 

 

 先々週は、「永遠を考える」というテーマで、お話をさせていただきました。そして、(ヨハネ3:16)から、永遠には二つの世界があること、イエス様によって永遠は二つに分けられたこと、それは永遠のいのちの世界と永遠の滅びの世界であること、そしてイエス様は永遠のいのちを得る人々のためにこの地上にお生まれになったことなどをお話しさせて頂きました。
 今日の主題聖句(マタイ25:45-46)では、「永遠のいのち」と「永遠の刑罰」という表現がされていますそして、人はそのどちらかの世界に入ると語られています。
今日は「永遠の刑罰」に少し心を向けて、お話を進めたいと思います。

※ふたつの永遠
(へブル9:27)
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」 
 人は体が死んでも存在全部が消え去るのではありません。永遠に存在する者として「さばき」を受けることが定まっています。いのちに入るか、刑罰に入るか、そのどちらかに分けられるためです。
 多くの不敬虔な人は、この「最後の審判」すなわち、神様が人々をさばく、ということが理解できません。クリスチャンはこれを人々に説明できるように、自分自身のクリスチャン生活も神のさばきがあることを前提に、この地上の人生を歩んで行かなくてはいけません。
 もし、この世界に善悪を裁く裁判所がなかったら、と想像してみてください。力のある者が弱い者を支配し、自分に都合の悪い人は抹殺する、そんな弱肉強食の世界になってしまいます。
 聖書の「創世記」では、神様がカインの捧げものよりアベルの捧げものを喜ばれたということで、カインは嫉妬してアベルを殺してしまいます。人類初の殺人が行われました。それに対して神様はカインに「さばき」を行われました。それによって、カインに非があったこと、殺人は悪であることを、人は判断することが出来ます。神様が基準となって人は善悪を判断するということが、人類の歴史の最初から始まりました。
 しかし人は、神様のルールに従うより、ルールを破ってでも自分の欲望に従いたい、自分の願いや思いを通したい、それが違反者の動機です。欲望をコントロールできず、ルールに違反した者は裁かれて罰を受けます。
 神様の裁きは、その都度なされるのではなく、最後に一回行われます。この世で裁かれなかった罪も全部、死後、神様の前に立って裁かれるのです。それが最後の審判です。
 神を信じるということは、罪が裁かれること、善には報いがもたらされることを信じることです。
 世には多くの神々がある中で、私たちはイエス様を信じて、神の裁きに対する準備をしています。イエス・キリストの十字架の御業を信じて罪が赦され、永遠のいのちに至るというキリストの救いを信じています。それが神の裁きから救われる唯一の方法だからです。
 では、人間は死後、どのようにさばかれるのでしょうか。(マタイ25:31-45)からみてみましょう。神様の最後の審判について、イエス様が教えておられる例え話です。

※(マタイ25:31ー45)のあらすじ
 すべての国々の民が、王様の前に集められ、羊飼いが羊と山羊とを分けるように民をより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
 羊として右に分けられた人々に王様は、「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」と言われます。理由は、「わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、渇いていた時に飲ませ、旅人であった時に宿を貸してくれ、裸の時に切るものを与え、病気をした時に見舞ってくれて、牢にいたとき訪ねてくれたから」です。しかし、彼らは、王様にいつそんな親切をしたか覚えがありません。王様は彼らに答えて言われます。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」と。
 左に山羊として分けられた人々は逆でした。「おまえたちは、私が空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも止まらせず、裸であった時にも切るものをくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」つまり、「この最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのです。」
 ということで、今日の主題聖句「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」に続きます。

※さばきの基準は憐れみ深さ
 このたとえ話から、神様のさばきの基準は、「憐れみ深くしたか、憐れみ深くしなかったか」にあることがわかります。
 強い人は憐れみをもって弱い人を助けるべきです。それが強い者の役割です。弱い人は助けてくれた人に感謝し、祝福を祈ります。
強い人も弱い人も、それぞれに存在の役割があるのです。
 世の中に親切は多く見られますが、自分の利益につながらない親切が少なくなりました。不道徳な考え方が世に蔓延しています。この世の法では裁けないことも多くあります。だから、すべてを裁くことの出来る真の神が、最後の審判をなされるのです。
 真の神は、まずイスラエルにそのことを律法として教えました。そして違反の罪のさばきから救われるように、救い主を送ることも預言者を通して語られました。それが成就したのが、イエス・キリスト、罪の赦しをもたらしてくださる救い主のご降誕です。人類に対する愛と憐れみによる神様の救いのご計画です。
 悪は誰かが裁かないといけません。裁きが無いと、この世はすべて悪に染まってしまいます。正しいものが苦しむ社会になります。
 神様はそういうことを無くすために、キリストが愛してくださったように、互いに愛し合うこと、という基準を設けられました。
 使徒行伝時代に、イエス様の隣人愛に基づいて教会が形成されていきました。彼らは財産を売ってお金を持ち寄り、貧しい人に分け与えて、みんな公平に生活できるようにと捧げました。
 私たちもそういう隣人愛を目指したいのです。財産のある人は教会に持ってきて、食費も医療費も出ないような本当に貧しく助けを必要としている人々のために手を差し伸べる、そういう隣人愛を目指したい。難しいことですが一歩でもそれに近づきたいというビジョンを持つべきです。
 私たちが行くべきところは永遠のいのちです。
キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合う、という基準で、永遠のいのちに至るか、永遠の刑罰に至るかが決められます。それが神様のさばきです。

【俳句】
  永遠の  さばきの基準  隣人愛 

 裁かれていない罪が裁かれる、神様の最後の審判の時が来るのを、クリスチャンは信じています。ですから私たちはイエス様を信じて、自分の罪を赦して頂いて、隣人愛に生きる道を選んでいきます。