■2026年4月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊による自由

 

主題聖句(第2コリント3:17)
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。


 

 私たちの罪のためにいのちを捨ててくださり、私たちを義とするために三日目によみがえってくださった救い主イエス様を、信頼し感謝し従っていく、その心を持った人の内に賜物として聖霊が与えられる、ということが使徒行伝2章38節に記されています。

 それは神様の約束ですから、どうすれば聖霊様が来てくださるのかと考えるのではなく、すでに賜物として聖霊様が私たちの内におられて、私たちの内に7つの働きかけ(前回までのメッセージ参照)をしてくださっているのだと、素直に信じて応答することが大事です。

 今日は、主題聖句(Ⅱコリント3:17)の「主の御霊のあるところには自由があります」という「自由」について、聖書から見ていきたいと思います。

★旧約聖書のヨベルの年 
(レビ25:10)
「あなたがたは第50年目を聖別し、国中のすべての住民に開放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰る、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。」

 旧約聖書では50年に一度、「ヨベルの年」(大安息の年)がやって来ます。レビ記25章に記されていますが、「すべてを元に戻す」という意味で、全ての負債、土地も奴隷も借金も、50年目に全部赦されて、負債のない元の状態に戻されるという「解放の年」です。
 元の状態というのは、モーセによってエジプトを出たイスラエルの民が、ヨシュアによって導かれたパレスチナの土地を、12部族に分割分配された時の最初のかたちです。

★新約聖書のペンテコステの日(聖霊降臨)
(Ⅱコリント3:17)
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」
 旧約聖書のヨベルの年(大安息年)は、50年毎に全負債が赦されて、元の自由な姿に戻れる年でした。

 新約聖書では、イエス様が復活されて50日目の日に、聖霊様が地上に来られて私たちと共に住まわれるという、聖霊降臨の出来事が起きました。

 私たちが罪赦されて罪の束縛から解放されて立ち返る元の姿とは、神の似姿です。罪を犯したために神の似姿を失って罪の奴隷となっていましたが、聖霊様の働きによって自由にされ、あるべき姿に立ち戻ることが出来るのです。

 解放され自由にされ、あるべき姿に立ち戻る、そういう意味が、ペンテコステとヨベルの年、どちらも「50」と言う数字で繋がっています。御霊にある自由と安息を、皆さんもぜひ味わって頂きたいと思います。

◉肉の行い・自己中心・不敬虔からの解放
(ガラテヤ5:19~21)
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」

 たとえイエス様を信じて洗礼を受けても、その後の人生がこのような罪に浸ったままで一生を終えるとしたら、そういう人は神の国に入ることはできないと、厳しく忠告されています。

 私たちは神の国の相続人として、この地上の人生においては試みられ、鍛えられ、磨かれ、きよめられて、そして天に引き挙げられていくことを神様はご計画しておられます。

 父なる神様を畏れ敬い続け、イエス様を信じ従い続け、そして御国に入って報われることを目指して頂きたいと思います。

◉御霊の自由を得るために正しい良心の重要性
(Ⅰテモテ1:19)
「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。」
 神を畏れ敬う正しい良心を捨ててしまう時、信仰という船は、座礁し破損し、時には沈没してしまいます。

 最後の目的地に至るまで、破損したらすぐ修理して(悔い改めて)、正しい良心を働かせ続けて人生を航海することが必要です。

◉良心のきよめ【正しい良心】
(へブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

 良心のきよめがなければ、私たちの神への信仰は、願い事ばかりの自己中心なご利益宗教になってしまいます。

 私たちを贖うために、イエス様が十字架でいのちを投げ出してくださった、この意味が分からないと、良心がきよめられたとは言えません。悔い改めることも出来ません。

 自分の心の内をよく吟味して、自己中心になっていないか、不敬虔になっていないか、神様より人の目を気にしていないか、神様への思いが弱っていないか、自分の心を見張り守ることが必要です。

 (へブル9:14)に書かれてある通り、良心がきよめられなければ、生ける神に仕える者にはなれません。良心のきよめが不十分だと、そのうち聖書も読まなくなり、祈らなくなり、クリスチャンとの交わりもしなくなり、教会にも行かなくなります。

 私たちの良心がきよめられるのは、「キリストの血」によってだけです。罪ある私たちを永遠のさばきから救い出したいという神の愛と憐れみを象徴しているのが、イエス様の血潮です。

 私たち罪人をもう一度、我が子として取り戻したい、という父なる神様の御思いを御子イエス様はご自分の思いとして、十字架にかかることを良しとされました。

 イエス様は自ら両手を広げて十字架におかかりになりました。抵抗することなく両手両足にくぎを打たれました。それがお出来になったのは、“愛する者のため”だったからです。

 罪人を贖うために、血を流し、いのちを捨ててくださった御子イエス様と、そこまでしてでも私たちを取り戻したいと願ってくださった父なる神様の、そのきよいご愛を、私たちは絶対に忘れてはいけません。

 それがクリスチャンの敬虔なこころ、正しい良心です。