■2026年8月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

天佑神助(てんゆうしんじょ)


主題聖句(詩篇116:5~7)
主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。
主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
私の魂よ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。」

 

 「天佑神助」
 信心深い者が受ける、天の助け、神のご加護のこと。
 (偶然の助け)

 (箴言14:26)の前半「力強い信頼は、主を畏れることにある」というみことばには、色々な訳し方があります。

*共同訳「主を畏れるところには、強い信頼が生まれる。」
 ⇒主への強い信頼のしるしは、主を畏れることである

*フランシスコ会訳「主を畏れる者は、安全な城壁がある。」
 ⇒主を畏れる者を、神は必ず守ってくださる。

*新共同訳「主を畏れれば、頼るべき砦を得る。」
 ⇒主を畏れる者は、必ず神が外敵から守ってくださる。

*口語訳「主を畏れることによって、安心を得る。」
 ⇒畏れ敬うことは、信頼の証としての私たちの心の態度です。

 親に対する子の敬虔な心は、親が子を守ってくれるという本能的な信頼と安心のしるしです。ですから、私たちの本当の性質は、親への信頼と愛の心であると言えます。
 
 そういう愛をもって親を尊敬する時、親は、注意、忠告、助言、援助などを与えて、その子を守ろうと愛を注ぎます。私たちの魂はそういう愛を求めています。

 それは、上から下にくだされる愛というよりも、母親の子に対する慈愛の愛です。

 私たちの本性は、神の慈愛を心から望み求め、そしてそれを人々の間にも願います。互いに憐れみ合い、親切にし合う、そういう関係を心から求め、平和を願うのです。
 神様の愛を信じている人は、神様の大きな力、偉大さを信頼し委ねて安心します。それが「子たちの避け所」となります。
私たちは何に恐れや不安を抱くのでしょうか。

★人は「死」におびやかされる
(詩篇116:3∼4)
「死の網が私を取り巻き、黄泉の恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。その時、私は主の名を呼び求めた。『主よ。どうか私のいのちを助け出してください』」

 旧約時代には、すべての死者の魂は肉体を離れて黄泉の世界に行くと考えられていました。黄泉には二つの場所があり、神を信じる敬虔な人たちの魂が行く「アブラハムのふところ」と呼ばれる平安な場所(天国ではありません)と、もう一つは暗闇の世界です。
 この詩編の記者は、死に直面して、黄泉の恐怖ゆえに、苦しみと悲しみの中で、『主よ。どうか私のいのちを助け出してください』と、主を呼び求めています。

★人は死と神に向き合うべきである。
 その理由は、主なる神を畏れる心が生まれるためです。
人は死と向き合うと、死後の世界や神の存在を思うようになるものです。

★敬虔な者を救われる神
(詩篇116:5-7)
「主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神は憐れみ深い。主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。私の魂よ、おまえの全き憩いに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。」

 これは、私(辻牧師)の若い頃の個人的な体験です。日本の一般的な神概念は、仏様、御先祖様を敬うことでしたが、この宇宙万物を秩序正しく創造された神は、色々おられるのではなく、唯お一人の神である筈だと思うようになりました。
 
 そして、人生に対する虚しさから、「もし天地を創造された真の神がおられるのであれば・・・」と、祈り求めた丁度その時に、2人のクリスチャンが私の処に訪問してくださり、「あなたの言う神様はここに書いてありますよ」と聖書を差し出され、それがきっかけで教会に通うようになりました。
 
 神様は、私が心で願い念じていた敬虔な思いに応えて、クリスチャンを遣わしてくださったのです。まさに、天の助け、「天祐神助」でした。
 
 それからの50数年の信仰生活の中で、神は計り知れないほどに奥深く、憐れみ深く、愛と正義と公平の神であることを深く味わわせてくださいました。

 神様の前でいい子でなくてはいけないという縛りがなく、神を敬う心から出てくる様々な思いや考えを神の前に生きて行くことが出来るような、そういう自由を与えられました。その救いを今も体験しているところです。

 神様は敬虔な者を救われる神です。私たちは罪人であっても敬虔な心を持つことが出来ます。ただ、敬虔な心があっても、罪ゆえに、それが行動に現れてこないという弱点があります。
 
 神はイエス・キリストを通して、私たちから罪の影響力を無くしてしまうという救いを与えてくださいます。罪は宿っているけれど、罪の力に勝利することが出来る「罪からの解放」です。
 イエス・キリストによって自分は罪赦され、罪の力から自由になっていると気付いた時に、私たちは、邪悪な心、罪の性質、罪の感情、怒り、嫉妬や妬みなどに、立ち向かうことが出来るようになります。戦う力が与えられるのです。
 
 主と同じ姿に変えられるまで、戦いは続きます。そうして日々強められていきます。何度失敗しても、勝利出来る日まで神様は私たちを赦し続け、試み続け、そして私たちはチャレンジし続けるのです。

 すると、神を敬い信じ続ける霊の力が強められ、どんなに難しい問題が起きてもくじけないで、神の助けを待ち望む信頼を持ち続けることが出来ます。主を畏れるということは強い信頼につながります。

☆デボーション

*「死」と向き合うことによって恐怖を知る。
 死の恐怖を知った時、神の救いへの願いが起きます。
恐怖を知っているから、神の救い、安心、平和が分かります。
恐怖を知らずして神の救いは理解できません。

*「死」とその恐怖から救い出すことができる救いの神は誰であるかを求める。

 クリスチャンも、その答えに確信が持てるようにならなくてはいけません。真の神は誰であるかということが分からなければ、真の神への敬虔な心は持てません。それでは救われてないのと同じです。
 
 救いはキリストへの敬虔な心から来るものです。それが私たちの信仰です。キリストへの敬虔な心の第一歩は、キリストの名による洗礼を受けて、罪の赦しを得ることです。最初は安易な気持ちで信じた人も、信じ続けると、クリスチャン生活を通して真の神キリストへの敬虔な心が育っていきます。
 
 キリストが再臨された時に御許に引き上げられるために、イエス・キリストへの敬虔な心、主を畏れる心に、もっと目覚めて頂きたいと思います。

⇒復活の救い主イエスへの信仰

 この方こそ私の罪を赦すことの出来る救い主です。なぜなら私の罪を背負って、代わりに神の裁きを受けられたお方、そして、イエス・キリストには罪がないという証として神はイエスをよみがえらされました。

 こんな完璧な救いの御業を歴史の中に刻まれたのは、御父、御子、御霊の三位一体の神しかありません。
 
 イエス・キリストが本当の救い主であることを、トコトン神様と向き合って、確信を得て頂きたいと思います。

 復活の救い主イエス・キリストへの目覚めた信仰を、皆さん目指していきましょう。