■2026年7月26日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
歓天喜地の神の国4
前回までのお話し
(Ⅰ)神に愛されている喜び
誰にも愛されていない、尊ばれていない、自分は孤独だ、と思うような時に、誰か一人でも愛を示してくれる人がいると、私たちは希望を持って生きて行けるものです。神に愛されている喜びは、生きる希望です。私たちは神様からどれほど愛されているかをいつも考えていきましょう。
(Ⅱ)神に選ばれている喜び
素晴らしいと言われて選ばれるということは、本当に嬉しいものです。私たちは天地創造の神様に選ばれた者として、今ここにこうして集まっています。
(Ⅲ)神に聖別されている喜び
花婿にとって花嫁が特別な存在であるように、神様はある特定の人々を特別な存在として選り分けられました。それを聖別といいます。教会はキリストの花嫁です。私たちはイエス様のために聖別された花嫁の存在なのです。
今日のお話し
(Ⅳ)魂が救われている喜び
(Ⅰペテロ1章8-9節)
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
イエス様を直接見たことも触れたこともない人々が、イエス・キリストを信じ、愛し、喜んで、集まって来ています。そういう人々にペテロは、「あなたがたは罪赦されて、たましいの救いを得て、神の国に入れる資格を頂いているのですよ」と、励ましを与えています。
①見たことがない者への愛
(Ⅰヨハネ4:10)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
私たちは自分から神を愛しキリストを信じたのだと錯覚しているかもしれません。実は先に神が私達を愛して、御子キリストを遣わし、アダムの子孫であるすべての人々の罪を赦し愛しているということを、2000年前の十字架において示してくださったのです。
だから私たちは神様の愛に触れるチャンスが与えられて、そのチャンスを生かすことが出来て、こうして礼拝に集い、みことばを聞き、賛美をすることが出来ているのです。
神様に愛され、選ばれ、聖別された、そういう中で、私たちは魂の救いを実感し、栄えに満ちた喜びを得ることが出来るのです。
※見たことのない人から愛されていることがわかるものがある。
私たちは聖書を読んで、イエス・キリストの十字架による贖いの事実を知る時、自分がどんなに神様に愛されているかを悟ることが出来ます。
どんなに未熟で、心が頑なで、反抗的であっても、神様は諦めず私たちの魂の救いを支え続けてくださっています。これが救いです。
神が人の肉体をとって世に来られ、十字架で私たちの罪の身代わりに十字架にかかって苦しんで死んでくださった、そんな愛なる神様はイエス・キリストだけです。
見たこともないお方が、今も私たちを愛し、見守り続け、最後までこの人生を神の前に敬虔に正しい良心をもって歩むようにと、切望し心配し見守ってくださっているのです。
神の栄光を捨て、人として肉体をもって苦しみを受け、死をも味わい、そこまでして真剣に私たちを愛してくださっているのです。
②見ていないことを信じる
旧約聖書のエリヤという預言者は、3年間雨が降らない時に、神様から「雨を降らせる」と示されて、しもべに山に登らせ海の方を確認させますが、何の兆候もありません。
それを何回か繰り返し、7回目に、晴天の空の遠い所に、手ほどの雲を見つけた時、「これから雨が降る」と確信し、祈るのをやめました。そして、その通りに雨が降ったという出来事が記されています。エリヤの神への信仰、信頼の素晴らしさを知らされます。
今私たちは、「手ほどの雲」のような小さなしるしではなく、衝撃的な大きなしるしを私たちの内に与えられています。
(ローマ5:3-5)
「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
患難とは、長く続く災いです。今私たちの生活の中で患難と言えるような迫害や困難はないかもしれません。
しかし、イエス様を信じ神を敬う者の心は、小さな罪にも敏感になります。それで苦しむクリスチャンも多いのです。その苦しみは、私達がイエス様の姿にかえられていく一歩です。正しい良心が成長すればするほど、小さな罪に対しても敏感になり悩ましく感じるものです。
私たちが聖餐式を受けるのはそのためです。内なる良心のきよめが本物であることを信じ、受け入れるために、イエス様の血潮によって罪赦されたしるしであるパンとブドウ汁を、私たちは毎週頂きます。
イエス様を見たことはないし、聖霊の御声も聞いたことがない。しかし、良心の咎めを神の前に感じるという小さなしるしが、私たちの魂が救われている一歩なのです。
見ていないことを信じることが出来る神からのしるしとして、私たちの内に聖霊様が与えられています。それは罪に対して良心の咎めを持つという、手ほどの雲です。
だから患難さえも喜べる、とパウロは語っています。なぜなら患難の苦しみで妥協してしまったら、イエス様の罪の赦しの救いから離れてしまうからです。
だから忍耐するのです。今のこの地上での苦しみより、永遠の滅びの苦しみは桁違いに大きいのです。
※神が教えておられる『信仰』とは、『神の約束』を信じること。
神の約束は聖書の中に記されています。神のことばは、イエス・キリストご自身です。イエス・キリストを信じるとは、神の約束を信じるという意味なのです。
神様は、将来実現する約束を私たちがいま信じることを通して、神への信頼を築き上げるように、試みを私たちに与えておられます。
約束を信じないことは、約束された方の御人格も存在も否定することであり、神はいないと信じることにつながります。これが、神様に対する一番大きな罪なのです。
③栄に満ちた喜び
約束を心から信じたことの結果として、栄えに満ちた喜びが湧いてきます。そして、約束が成就する日まで、喜びは続きます。
天国に行けるという約束を信じた時から、私たちも喜んで生活することが出来るのです。
ダビデの喜び
(Ⅱサムエル7章より)
未来に対する神の約束をダビデが信じることが出来たのは、主なる神が約束を必ず守られる方であることを知っていたからです。
神様は素晴らしい約束をダビデに与えてくださいました。彼の子孫の中に、ダビデの王国を確立し、永遠の国をうち建てるイエス・キリストが生まれるという約束です。
ダビデが生まれてからイエス・キリストが現れるまで、約1000年です。神様はそんな遠い先の約束を、ダビデに与えられたのです。
ダビデは様々な患難に見舞われましたが、いつも神様に守られ助けられ導かれていました。だから神が約束してくださったことは必ず成就する、と信じて感謝しました。
神様とそういう人格的関係にあったダビデだからこそ、神様は1000年先の約束をも与えてくださったのです。
信じる者は皆、罪赦され、義とされ、救われます。何千年経とうが神は約束を守られるお方です。
それを信じるのが、聖書が教える神への信仰です。
短歌
約束を 信じる事は その人の
存在信じる 喜びとなる