■2017年8月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
 神の愛に忠実 

(私たちを愛してくださった神の愛ゆえに、真心からみことばに従うこと。)

 

主題聖句(マタイ24:45)
主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。

 「神の愛に忠実」とは、私たちを愛してくださった神の愛ゆえに、真心からみことばに従うことを意味しています。神の愛とは、見えない神の形として、神様の愛の現れであるイエス・キリストのことです。
 この忠実とは、心に仕える態度、姿勢のことです。金もうけや利害関係ではありません。
 その家のしもべたちを任されるという主人の判断は、忠実な思慮深いしもべと認めて任せたと読み取ることができます。

「忠実」の意味
日本語=真心をもってよくつとめること。その通りにすること。
ギリシャ語=信頼できる。ゆだねることができる。信心深い。

 このみことばを、ギリシャ語に当てはめると、「食事をきちんと与えるような信頼できる思慮深いしもべとは」となります。日本語では、「真心をもってよくつとめること」と、行動を表現していますが、ギリシャ語は、心の内面を重視して表現しています。
 神様の愛に忠実、イエス・キリストに忠実とは、日本語的な意味からの、神様の愛に対して真心をもってよくつとめること、言われたその通りにすることですが、ギリシャ語から考えると、神の愛に信頼できる、ゆだねることができる、と逆の意味になります。このタイトルをギリシャ語からするなら、「神様から信頼できる者」「神様があらゆることをゆだねることができる者」と言えると思いますが、今回は日本語的に主題をつけています。
 
 私たちは、外面的な忠実さではなく、内面的な忠実さを神様の前の姿勢として崩さないようにしましょう。行いは100%忠実であることは難しい私たちの罪の性質がありますが、正しい良心、神を愛する聖い良心の内には、「忠実でありたい」「忠実に歩もう」という志があります。それを崩すことがないようにしていきましょう。

1.忠実さの源(使徒16:14~15)
「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、『私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。』と言って頼み、強いてそうさせた。」

★パウロが語る神の愛の福音を聞いたルデヤ。
★どれほど愛されているかを知ると忠実な心が生まれる。
 
 これは、彼女自身からパウロに対してバプテスマを受けた後、と言いました。当時紫色は、紫貝からしか色がとれない貴重な色で、紫は王が羽織る色として、高級品として使われていました。だから、紫布の商売は王族との商売だったので、ルデヤはとても裕福だったのです。どの神かは書いてありませんが、神に対しては敬虔な心を持っていたので、神様は、パウロの福音を聞くように彼女の心を開かれたのです。ルデヤは、自分は地位の高い人とのお付き合いがあるのだと、見下げてパウロの言葉を聞いた横柄な金持ちではなく、へりくだってパウロの語ることに心を向けたのです。ルデヤは福音に興味を持ちました。神が私たちを愛してくださり、その罪の赦しのために、ご自身が人となってこの地上に来られ、身代りにその罪の裁きのための苦しみを受けられ、救いを成就してくださったとパウロが語ったことを通して、ルデヤはバプテスマを受けたのです。そして、もっとお話を聞きたいと、「主に忠実な者、信頼できる者として私を認めてくださるなら、私の家に来てお泊りください。」と、パウロに家に来てくれるように頼んだのです。
 
 ルデヤは、福音を聞いた結果としての、神に対する忠実さを持っているということです。忠実さとは、忠実さを示す相手との人間関係、つながりの中で生まれてくるものです。それも、単なる親切ではなく、命に関わるほどの助けを受けるという受け止め方をすることができた人は、助けてくださった方への忠実な心というものを自然に持つことができるのです。
 ルデヤはパウロの話を聞いて、「神は本当に私のために、罪の赦しのための救いを表してくださった」と真剣に受け止めたので、「私はこの神様にだけに従って行こう」という忠実な心が湧いてきたのです。ルデヤは神様が愛してくださっているという熱い愛が燃え上がっていたのです。
 
 その人が何らかの愛を感じて、忠実さというものが内から湧き上がってきているかどうかが、本当に忠実であるかを見分けることができるポイントであると言えます。
 今日のメッセージを聞いて、「忠実にならないといけない」と律法的にとらないでください。自分の行いの状況や結果を見て、「私は不忠実だ」と、神様の愛を無視した自己判断や自己評価をしないように、気をつけてください。忠実さをあなたが願っているのなら、もっと神様の愛を知るように努めていただきたいと思います。そうすれば、努力なしに忠実になることができます。私たちの努力すべきことは、神の愛を知ることです。

2.忠実さを評価する主人(マタイ25:21、23)
「主人は言った、『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」
★もうけの金額ではなく、忠実に働いたことを評価した主人。
 5タラント預けられた者と、2タラント預けられた者がいて、どちらも、もう5タラント、もう2タラントもうけました。そして主人が帰って来た時に、それを差し出しました。主人は、「あなたは5タラントに対して5タラントももうけたので、良い忠実な僕だ」とは言わなかったのです。「少しのものに忠実であったから」と言いました。5タラントとは、大きな金額です。たいていの主人は、金額で良い僕かどうか判断します。
 
 例えば、トイレ掃除をしておいてと頼まれた時、一応さっとやるのと、臭いが全くしないほどにしっかりとしたのとでは違いがあります。任された責任を問題なくやり遂げると、確かに見た目には忠実に見えます。「主人は臭いが消えるほどにちゃんと掃除してね。」とは言っていません。しかし、臭いが消えるまでにきれいに掃除すると、主人は「きれいにしてくれてありがとう。」と言うと思います。それは、その掃除した人の心の姿勢を喜んでいるということです。主人が喜ぶことを考えること、主人が願っていること、主人の心に忠実な人は、そこまで考えて掃除をすることができます。しかし、責任・義務という段階で、そこまで考えない人がいます。忠実とは、義務を果たすこととは全く違います。表面的な仕え方ではなく、心に仕える心の姿勢が重きに置かれています。だからギリシャ語の意味では「信頼できる、ゆだねることができる者」とあるのです。
 
 主人である神様は、何をもって忠実な心だとほめたのでしょうか。「お金をもうけた」というのは結果であって、「主人と一緒に喜んでくれ」と言ったように、「主人の心の思いにに応えた」という忠実さがここで評価されているのです。もうけた金額ではなく、忠実に働いたということを主人は評価しました。神様もそうです。行いの結果で忠実であるかどうかを見られる方ではなく、その忠実な心の姿勢に対しての評価をされます。たとえ結果が悪くても、あなたはよく忠実に働いてくれたと評価してくれます。
 しかし、5タラントに対して5タラントもうけたという結果は、いかに100%忠実であったかということの実なのです。だから、神に忠実に教えられたことを行えば、5タラントからもう5タラントを生み出す結果が生まれるという、忠実さの実をもこのたとえは示しています。だから、5タラントに対して4タラントだったという例は書いてないのです。忠実であれば、全うすることができる、結果もきちんと出るということを意味しています。どうぞ、結果を出すために忠実になるのではなく、忠実であれば自然と結果は良いものが生まれてくるということをここで読み取ってください。「心だけ忠実であったらいいのですね」という間違った忠実さをとらえないようにしてください。

★いのち(存在そのもの)の価値は、忠実さにもよる。
 人のいのちは、同じ価値があります。どんな人でも、人間のいのちは同じ重さです。しかし、主人にとって、平等のいのちの価値ですが、どちらのいのちが評価が高いかというと、一つは「忠実」といういのちの使い方をする人の方を、「良いしもべだ」と高く評価したのです。忠実というのは、いのちそのものに価値を積み重ねること、徳を高めていく一つの要素です。主人である神の目に尊い者として受けとめられる一つの条件が、忠実であるということです。神も忠実な者を喜ばれます。

3.本物の忠実さ(ルカ16:10)
「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」
★小さい事に忠実であるかどうかで見分ける。
★小さい事→この世での生活
 忠実というのは心の姿勢ですから、事の大きいも小さいも関係なく、どちらも同じ忠実さが適用されているかどうかが大切です。ですから、本物の忠実さは、小さい事に忠実であるかどうかで見分けることができます。

 昔、東京の渋谷駅の前で主人の帰りを待つ、忠実なハチという犬がいました。この犬のご主人の上野教授は、非常に犬を大事にする人でした。この教授が、急に学校で脳卒中で倒れて亡くなりました。なかなか帰って来ない主人をハチは、忠実に迎えに行きました。最初はどこの犬だと周りの人に相当いじめられたそうです。朝は9時の見送りの時間に行き、帰る時間に迎えに行きました。なんと、その犬が死ぬまで10年間もそれを続けたのです。このハチは、親戚など持ち回りで引き受けたのですが、最終的には元の家の近所の方が引き取っていました。そこから朝夕、ほぼ毎日通っていたのです。犬でさえも飼い主の恩を忘れずに、飼い主に心を向ける忠誠を持ち続けて貫き通す、主人に対する忠実な心を示す行動をしたことで、今でも渋谷駅の前に銅像があるのです。

 また、明治時代の名将軍と言われる乃木大将という人の話があります。彼は西南戦争で、軍旗を敵に奪われるという大失敗をし、飲んだくれになったそうです。しかし、数年たって国からドイツに一年間だけ軍事の学びをするように派遣されて、心が完全に変わって日本に帰ってきました。飲んだくれだったのが、規律正しい陸軍曹として帰ってきました。彼が日本の陸軍の規律を全部やり直し、成果は日清戦争で表れました。
 しかし、日露戦争で大変な目にあいました。結果的には勝利したのですが、旅順の要塞を陥落させるために、相当の兵士が犠牲になり、自分の二人の息子もそこで亡くなりました。日本国内では、いつまでそこで戦っているのかと、奥さんの残された家に、石や卵を投げられ、罵倒を浴びせられて大変な状況でした。それでも戦い続け、数年かけて勝利したのですが、10万人以上の犠牲がありました。そのことが彼にとっては大きな心の傷となり、勝利して帰ったのに凱旋にもパーティ−にも出ず、天皇陛下の前に出る時は責任をとって自害すると申し出ました。
 しかし、明治天皇は「死ぬのなら私が世を去ってからにしてくれ」と言い、彼はそのご慈悲に感動し、「この命はもう自分のものでなく陛下のためのものである」と、今度は軍隊ではなく教育に力を注ぎ、学習院の院長となり、明治天皇は孫の昭和天皇の教育係に乃木大将を任命しました。乃木大将がどれだけ国に忠誠をもって一生懸命戦い、犠牲を払って勝利に導いたか、その忠実な心を見て信頼され、慈悲を与え、孫の教育を任せたのです。昭和天皇は乃木将軍から道徳性、品性を引き継がれ、命を大事にし、兵士たちの命を心から心配される方でした。最後まで乃木将軍は忠実であったのです。彼は最後の侍と呼ばれました。
 自分の存在、命に関わる慈悲、恩を受けたとわかった人は、命をかけてでも忠実でありたいという願いが湧き起こるのです。心からの忠実さは、小さいも大きいも関係なく、ゆだねられたことを一生懸命果たすのです。それは、やりなさいと言われたことだけをやるのではなく、それを大きく発展させ前進させていくように、一生懸命従事していくのです。
 
 私たちが永遠の滅びから救われるために、神のひとり子が私たちの罪のための犠牲として十字架で苦しみを受けられ、三日間ハデスに下り、よみがえられたという大きな愛の犠牲を神様は私たちに示してくださいました。それなので、私たちの命は自分のものではなく、キリストのものであるとパウロは語っています。そこまで神様の愛と救いに対して恩義を感じるなら、忠実さというのは言われてするのでも、教えられて気付くものでもなく、自ら内側に湧き上がってくる自然な愛に対する応答の心の動きであるのです。忠実な心というのは、愛を知れば自然に持つことができるのです。どんなに愛されているのか、その愛に触れたなら、大小に関係なく忠実にその与えられたお言葉を守っていくのが、自然な愛の応答の姿勢なのです。

【デボーション参考ポイント】
神はいつ、私たちを忠実な者と信頼してくださったのでしょう。
 
 人は、状況や様子を見て、忠実かどうかを測ります。私たちは、神様を知らない時は、不忠実の極みの中にいました。不忠実な罪の中にあった私たちのために、神は私たちを愛して御子を遣わされました。忠実なものと信じて罪のための犠牲を払ってくだいました、ここに愛があるとヨハネは言っています。私たちは小さな事に忠実であるように、まず今任せられているものに対して、愛のゆえに忠実でありましょう。

 
「尽忠報国 神の国」

 「尽忠」→君主や国家に忠義・忠誠を尽くすこと。

 「報国」→国のために力を尽くして国の恩に報いること。

★神の愛に忠節を尽くし、神の国の恩に報いる

◎「尽忠報愛」

 私たちを愛して罪の贖いを成し遂げられた王の王、主の主であられるイエス・キリストの恩に報いて忠義を尽くす。

【俳句】
    うだる日に 蟻から学ぶ 忠実さ