■2026年6月21日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
主の前に立つ礼拝
主題聖句(第1列王記17:1)
ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
聖書に、エリヤという人物が登場します。彼は、ある日突然現れます。どこの出身か、何をしてきたのか、ほとんど説明がありません。ただ、王の前に立って、こう言うのです。
「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」
この言葉は、直訳すると本来の意味はこうです。
「私が、その御前に立っている主は、生きておられる。」
なぜ彼は王の前でもそのように恐れずにはっきりと宣言できたのでしょうか。それは、彼が王の前に立っていたからではなく、人の前に立っていたからでもなく「神の前に立っていたから」です。
神の前に立つ、とはどういうことでしょうか。それは、神を、“今ここにおられる方”として向くことです。そして、自分を神のまなざしの中に置くことです。
ここで、私たちに問いかけたいと思います。私たちは誰の前に立っているでしょうか。
礼拝は整っています。賛美があり、献金があり、メッセージがあり、祈りがあります。しかし、もし“向き”がズレてしまったら、どうなるでしょうか。流れはあっても、神を見ていない。歌っていても、神に向いていない。聞いていても、神を求めていない。そういうことが、起こり得るのではないでしょうか。
礼拝とは何でしょうか。それは、集まることではありません。礼拝とは、「神の前に立ち直ること」です。私たちが礼拝の中でしている一つ一つのことは、すべて、そのためにあります。
賛美は、歌うためではありません。
神に向かうためです。
献金は、出すためではありません。
神に感謝を返すためです。
メッセージは、聞くためではありません。
神に向くためです。
聖餐は、飲み食いするのではありません。
十字架の主を見るためです。
主の祈りは、読むためではありません。
神への信仰を告白するためです。
頌栄は、終わるためではありません。
神に栄光を帰すためです。
祝祷は、終わりではありません。
神から祝福を受ける時です。
すべては「神の前に立つため」です。エリヤは、一瞬だけ神の前に立ったのではありません。立ち続けていたのです。誰もいない場所でも。人々の前でも。
私たちはどうでしょうか。礼拝の最初から最後まで、神の前に立っているでしょうか。それとも、途中で別のものを見てしまっているでしょうか。
先日、あるメッセージを聞きました。ザアカイの話です。そこでは、こう語られていました。
「イエス様は、今日、あなたの名前を呼んでいる。」
ザアカイは、木の上からイエス様を見ていましたが実はイエス様の方が、ザアカイを見ていたのです。そして、名前を呼ばれました。「ザアカイ」と。
礼拝も同じです。私たちは神に向こうとします。同時に神の方が、私たちを見ておられるのです。そして今日も、あなたの名前を呼んでおられます。だからエリヤは言えたのです。「私は主の前に立っている」と。
私たちは、今日も私たちを見ておられる神の前に立ちます。私たちの名前を呼んでおられる神の前に立ちます。今日の礼拝、特別なことはしないかもしれません。でも、向きを変えることはできます。
今、主の前に立ちましょう。心を主に向けましょう。