■2026年10月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

「高徳慈愛」のイエスの十字架

 

主題聖句(第1テサロニケ5:9)
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。

★40周年を迎えて 

 40年前の10月4日に家族4人で大阪から広島に引っ越して来ました。

 この10月4日という日は、マリア先生の誕生日であり、ホーリーバイブルチャーチの設立日であり、また主任牧師の村田牧師が召された日でもあるという、記念すべき日の重なった不思議な日であります。

 そして10月10日に、ジーザスフェローシップ広島の教会の牧師就任式を致しました。その間も、そしてその後もずっと、百合子先生、そしてホーリーバイブルチャーチの村田先生、艶子先生の祈りに支えられてきたことを感謝します。
 
 そんな中で私が特に感じているのは、今日のテーマの「高徳慈愛のイエスの十字架」です。

 測り知れない徳の高さと、見極めることの出来ない神の慈愛が、イエス様の十字架で証しされているということです。
  
 私たちには地上で生きて行かなければならない社会的責任や仕事があります。そういう時間に阻まれて、神様のお心に深く触れるとか、十字架を味わうということが、なかなか出来ないものです。

 神様はそのこともよく御存知です。少しの時間であっても、それが神様のおこころに引き込まれていくような貴重な時間となるように、日々のクリスチャン生活を過ごして頂きたいと思います。

★今週の主題聖句

(Ⅰテサロニケ5:9) 
「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」

*主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになった

 罪を犯したアダムとエヴァも、その子孫である私たちも、神の御怒りにあって全て滅ぼされるのが律法の定めでした。
 
 しかし、その定めよりもさらに優れた定めを神はお造りくださいました。それが新約聖書です。

 主イエス・キリストにあって救いを得るという新約の定めは、罪に定める旧約の律法の定めよりも、更に優れた定めであると、(Ⅰテサロニケ5:9)は語っています。
 
 この(Ⅰテサロニケ5:9)のみことばを深く味わっていくためには、少なくともイエス・キリストの死と葬りと復活という福音の3本柱についての聖書の知識を深めていく必要があります。

 特に復活については、理屈で理解するのは難しく、そのまま信じるしかありません。ぜひとも日々、福音書をよく読んで、イエス様の十字架、罪の贖いの御業について、皆さんの魂と霊で実感して頂きたいと思います。

 毎週の礼拝でも、聖餐式に導くために、メッセージのまとめの部分で、十字架に心を向けるようにと、出来る限りお勧めをさせて頂いております。
 皆さんも、この(Ⅰテサロニケ5:9)のみ言葉から、神様の「高徳慈愛」を分かち合うように、お交わりをして頂ければ効果的だと思います。

≪お定めになった≫

※なぜ神様は、キリストの救いに私たちを至らせるようにお定めになったのでしょうか。

 神様のみこころを知って、これが私の信頼すべき神様のお考えだ、間違いない、と自分の魂でしっかりと決意する、それがイエス・キリストを信じる私たちの心の今の状態です。
 
 そこが揺らいでいる人もおられるかもしれません。誰しも固まるまでには時間がかかります。私たちは不完全な者です。
 
 しかし、イエス様の再臨の時には、私たちは揺るがされることのない霊、魂としてイエス様と同じ姿に変えられます。

 今は揺さぶられやすい罪の性質ゆえに、新しく生まれ変わった魂が影響を受けそうな時は、「私は揺さぶられない!」と意志を表明します。

 そして新しい魂の決心として「私は新しく生まれ変わったので、肉の生き方をしません。

 イエス様の愛に報いるために、私の全てを捧げます。」という決心の告白をするようにします。そうすると、段々と揺らがなくなっていきます。
⑴ 意志決定された御父のお気持ちはどうであったろうか。

 アダムとエバが罪を犯した時から、私たちは皆、神の御怒りを受けて裁かれるはずの罪人です。しかし今に至ってもまだその裁きの日を延ばしておられます。なぜでしょうか。

 それは、イエス・キリストにあって罪の赦しを与えるという定めをお造りになっているからです。
 
 裁きがなくなったのではなく、世の終わりの時の神の怒りの日、最後の審判の時まで、神様は耐え忍んでおられるのです。

⑵この世界が残されている理由

 アダムとエバが罪をおかした時に、なぜ、神様はそこですべてを裁いてしまわなかったのでしょうか。罪が蔓延するこの世界を残されている理由は何でしょうか。

※神の高徳慈愛を黙想することによって、主を畏れる知識と知恵と悟りを得ることにチャレンジする。

 神様を信じている皆さん。自分の意志を働かせて、神様の高徳慈愛について、この1週間黙想してみてください。

 聖書の御言葉が思い出されたらその聖書の御言葉を何回も黙読し、その前後の出来事をも考えながら、なぜこのみ言葉が語られたのだろうかとか、心の視野を広めて知識を得てください。

 知識を得たなら、自分の実際のクリスチャン生活の仕事場や家庭で、その知識から得たものを実践して、その知恵が実を結ぶとき、ああ、こういうことなんだという悟りを得られるように、チャレンジして頂きたいということです。
 
 信仰が弱い理由は、神の高徳慈愛に対する受け止め方が浅いからです。深く分かればわかるほど、聖書の神は唯一無二の愛なる真実な聖なるお方だということが、実感出来てくるものなのです。

 聖書をよく読んでください。メッセージを聞いているだけではダメなのです。
 
 自分で神のみことばを直接黙想して、あなたの霊、魂が、聖霊様によって、みことばを実感するという体験の積み重ねが必要なのです。

 そして、「主は生きておられる」という体験をして頂きたいというのが今日の重要なポイントです。