■2026年5月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

父なる神の約束 

 

主題聖句(使徒1:4)
彼らといっしょにいるときイエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。

 今日の主題聖句(使徒1:4)にあります「私(イエス・キリスト)から聞いた父の約束」というのは、聖霊様(神の御霊様)が私たちの内に住まわれて、私たちを聖霊なる神の宮として用いてくださるという約束です。

そのことが、まず五旬節の日に弟子たちの上に実現しました。そして聖霊に満たされた弟子たちの中からペテロが立って、声を張り上げて人々に語りかけ、この聖霊降臨の出来事が旧約聖書のヨエル書の預言の成就であることを説教しました。

⑴神の霊が注がれる
(ヨエル2:28)
「その後、わたしは、私の霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。」
 ヨエル書では、神様の霊が「すべての人」、即ち、アダムの子孫すべてに注がれることが預言されています。 

 しかし、聖なる神様の霊が私たちの内に注がれるためには、神様に対する私たちの「不敬虔」(神を神と認めない私たちの一番大きな罪)を取り除く必要があります。

 そのために御父なる神様は、御子イエス様を救い主として地上にお遣わしになりました。

 罪の無いイエス様は、罪ある私たちの身代わりに十字架による裁きを受けて死んでくださり、私たちの罪の処分を成し遂げてくださいました。そしてよみがえられて、弟子たちの前に現れ、「私(キリスト)から聞いた父の約束(ヨエル2:28)を待ちなさい」と仰ったのです。
 
 この約束は、当時の信者たちだけでなく、今に至る私たちにも与えられた約束です。私たちも弟子たちのように素直に約束を信じて待ち望み、感謝して聖霊様と共に歩む敬虔な心が必要です。

⑵ 新しい霊と心が与えられる
(エゼキエル36:26-27) 
「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石のこころを取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」

 「新しい心、新しい霊」⇒ 神様の霊

 「石の心」⇒ 神様に対する頑なな反抗的な傲慢な心

 「肉の心」⇒ 血が通った柔らかい生きた心

 聖霊様が私たちの内に注がれると、迎え入れた印しとして、神様に対する私たちの「石の心」が「肉の心」に変えられます。神様に対する態度が、柔らかな生きたものに変わるのです。それは私たちが体験出来るものです。

 イエス様が現してくださった贖いの御業に、神様の愛を見出して心に受け止めた人には、すぐに聖霊様がその心の内に来られて、神に対する頑なな心は取り除かれ、柔らかい生きた心(正しい良心)が与えられます。

 もし、聖霊様があなたの心に触れられ、また、内に住んでくださっていると信じているなら、あなたの心には変化が与えられているはずです。

 どんなに異言を語っても、どんなに奇跡やしるしをイエス様の名によって行ったとしても、神様を敬う生きた心が生まれていなければ、それらは何の役にも立ちません。

 神の御前に心を柔らかくし、神を敬う敬虔な心が生まれて来てこそ、それは神の御霊が私たちの内に宿っている印しとなります。あなたの内に、イエス様に対する敬虔な心がどこまで磨き上げられ、成長し、鍛錬されているでしょうか。
 パウロ先生は弟子のテモテに、「神を敬う敬虔のために自分を鍛練しなさい。」と言っています。
 
 今、労苦の中にいる人は、永遠の神の国に備えて、神を敬う心が鍛えられているということですから、幸いです。

⑶へりくだる者に注がれる
(箴言1:23)
「わたしの叱責に心を留めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの霊を注ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。」
 
 イエス様は神の知恵でもあります。その知恵からくる叱責を無視せず心に留めるなら、神の霊がすぐに注がれる、と書いてあります。

 叱責されると腹が立ったり、忠告されても自分は正しいと思って益々頑なになる、そのように神様からの教えを受け入れられず無視するような態度では、神の愛は留まりません。
 
 叱責を受けて一瞬、怒りの感情が起きたとしても、それは古い石の心の残骸からの反応だと気付いて、今は新たに私たちに与えられた新しい心に意識を向けると、怒りも消え去り叱責も受け入れることが出来る様になります。 
  
 新しく生まれた私たちのこころは、神の前にへりくだる心です。そのへりくだる心に神の霊は注ぎ続けられて、そこに存在し続けてくださいます。

そして聖霊様は私たちを様々な取り扱いへと導いてくださるのです。

 【俳句】

 聖霊は  神ご自身の  いのちそのもの