2025年11月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
岩の上に家を建てた賢い人
主題聖句(マタイ7:21~27)
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。
※ 揺り動かされない神様の堅い支え
私たちが地上の人生を歩んでいく中で、人生の嵐を耐え忍んで負けないためには、岩の上に家を建てていること、すなわち神様への信頼を持って歩んでいることが大切であるというのが、このたとえ話の教えていることです。
「岩」とは、不動の神様ご自身のことであり、その神様のおことばのことでもあります。
今日は、揺り動かされない神様の堅い支えが必要なのは、地上の人生の歩み方についてだけのことではないということを、前節の(マタイ7:21-23)からも見ていきたいと思います。
(マタイ7:21-23)
「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」
※ 天の御国に入れる条件
私たちも祈る時など、よくイエス様の名を呼びます。しかし、そのようにイエス様の名を唱えることが、天の御国に入る条件ではありません。
「主よ」と心からイエス様を呼び求める人の日々の歩みは、天におられる父のみこころを行う歩みです。口先だけの神を呼び求めるものではありません。「主よ」と呼ぶ限りは、ご主人である神様に従う心を持って、そのおことばを守るということが義務であり責任です。
そのように神様のみこころを行う者が、天の御国に入れる条件だとイエス様は仰っておられます。
イエス様を信じるということは、イエス様のおこころに従うということです。それほどに信頼していますという意味です。願い事を叶えていただこうと思うならば、私たちはご主人である神様のお考えを実行する者である、ということも含まれているのです。
イエス様が用意しておられる天の御国は、この世の人々にとっては関心が薄く興味の持てない所です。「イエス様を信じる者はみな救われます」と、いくら門戸を広げても、入る人は少ないのです。イエス様を信じるということが、いかに「狭い門」であるかがわかります。
願い事が叶うというところで留まるのではなく、天の父のみこころに目を向けて、従って参りましょう。
※ 神のさばきの日に
(マタイ7:22)の「その日」とは、地上の人生ではありません。神様がこの世のすべての罪、隠れた罪も裁かれる最後の審判の時です。
多くの者が、『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。』と言っています。
彼らは、主の名によって多くの良い働きをしていますが、神様は彼らに『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』と宣告しておられます。
最後の神の審判の日に、神の前に立ったその時に、岩の上に人生を築かず、自分の考えを土台として自分の人生を建て上げた人たちは、大きな洪水、即ちこの世の終わりに下る神の裁きである大患難の時には、全部流されて滅びてしまうという、これは「世の終わり」に関係したイエス様のたとえ話なのです。
この世の人生をいかに送るかということだけを教えているのではなく、世の終わりの神の裁きの時に、私たちが神の国に入ることが出来るためのたとえ話として、岩なる神様の上に自分の人生の土台を据えて、その上に自分の人生を建て上げなさい、そうすれば、世の終わりの神の裁きからも救われます、ということなのです
※ 「天におられる父のみこころ」とは何か
「神のみこころとは何ですか」という律法学者の質問に、イエス様は2つの答えを語っておられます。
①主なる神、創造主なる神を畏れ敬いなさい。力を尽くし、心 を尽くし、思いを尽くして、あなたの主なる神を愛しなさい。
②また、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。
これが旧約聖書で語られている、神様の御こころを現したルールです。神を愛してこそ隣人を愛することが出来るということが大事なポイントです。というのは、隣人を愛することが自分の誇りになると、神の助けは不要で、私が頑張りましたという自分中心の隠れた心で物事を行ってしまいます。
また、主よ主よ、と言っている人が、実は神のみ名を利用して自分の存在を高く評価してもらうために良いことや善行を行う、ということもあるわけです。
神を畏れ敬うことなく、立派な行動や慈善事業を行っても、それは砂の上に家を建てた者と一緒です。神の裁きの時には全部流されて無くなってしまいます。
人助けや善行は出来なくても、少なくとも神様を敬う敬虔なこころで自分の人生を精いっぱい歩んだ人の方が、神のみこころを行う者として天の御国に入ることが出来ると言えるでしょう。
自分の小さな罪にも気付いて、神の前にも隣人の前にもへりくだり改めることの出来る、そういう狭い門から入る敬虔な心掛けが大切です。
とりかえしのつかない大きな罪を犯すこともあります。こ
の世の法律で裁かれて刑を受けるということもあるでしょう。しかし、そこで自分の間違いを認めて心を入れかえ、イエス・キリストの救いを受け入れて、神を敬う尊い心を持つならば、誰であっても神の国に入ることが出来ます。
※ イエス・キリストの救い
神様が我が子として造られた大事な人類であるアダムとエバとその子孫たちが、罪のために死んで滅んでしまうことは、愛なる神様にとって耐えがたいことです。しかし正義である神様は罪を裁いて処分しなくてはなりません。
そこで、罪の無い神のひとり子イエス様が地上に来られ、私たちの罪を身代わりに十字架で処刑されてくださいました。私たちはイエス様の贖いの御業によって罪が赦されたことを受け止め、神を畏れ敬い、救い主イエス様を信じて生きていくことが出来ます。
それが神様の用意してくださった私たちのための罪の赦し、愛の御業なのです。
神様はご自分のかたちに似せて私たちを造られたお方ですから、私たちを子どもとして愛してくださっています。その創造主なる神様のお気持ちをちゃんと受け取めて「申し訳なかったなあ」とへりくだることが大切です。神様が一番願っておられることは、親を親として認めることなのです。
世界に色んな神々がいても、私たちの罪を赦すために神が人となって苦しみを受け、いのちを捨てられたのは、イエス・キリストだけです。この方以外に救いはないのです。
私たちには、地上の人生だけでなく、体が死んで後に魂の行く永遠というところがあります。その時に悔やむことのないように、いま、生きているこの時から、天地を造られたただお一人の神様と、そして神が人となられて世に来られた救い主イエス様を、畏れ敬い感謝する日々を過ごしてまいりましょう。
それが岩の上に人生を築いていく人の生き方です。