■2026年6月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
歓天喜地の神の国
「かんてんきち」
天を仰いで歓び、地にうつむいて喜ぶこと
(ローマ14:17)
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
この世は飲み食いの世界です。人はそれを楽しみ、年老いても健康に飲み食い出来ることを目標として生きております。
しかし神の国は、体を養うことが本命ではありません。神の国の喜びは、飲み食いではなく、義と平和と聖霊による喜びであると、パウロ先生は教えています。
神様は、死の向こうに神の国の新しい人生を用意してくださっておられ、それこそが本命の人生なのだと、2千年前にイエス様を通してお示しくださり、そのおことばを聖書の中に集められました。
私たちはそのおことばを信じて、死の向こうに向かって、今歩んでいるところです。死んで終わり、ではないのです。
神の国に入って行く私たちが、この世で飲み食いの楽しさだけを追っていたのでは、大きな後悔を招くことになります。
神の国は、義と平和と聖霊による喜びです。今日は特に、「聖霊による喜び」についてお語りします。どんな過酷な状況にあっても喜びが絶えない、そのような救いを神様は私たちに与えてくださったことを気付いて頂きたいと思います。
Ⅰ. 神に愛されている喜び
自分の願い通りに思い通りに相手が動いてくれることが、愛されているしるしだと、愛を勘違いしている人が多くいます。
赤ちゃんは本能的に母親の愛を感じ取り、母親にだけニコっと笑顔を向ける時期があります。それは母親に愛されていることを魂に感じる喜びの笑顔です。
私たちの霊、魂も、神様に愛されていることを、正しい良心によって感じることが大事です。3つのみことばから見てみましょう。
①(ヨハネ3:16)
「神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
※罪に満ちたこの世を神様は愛された、すなわち、罪に縛られ滅んでいく世界を、神様は憐れんでくださった
それゆえ、神様は、罪無き神の御子イエス・キリストを世に送り、私たちの身代わりのいけにえとして十字架で犠牲になさいました。
そして神の愛そのものであるイエス・キリストを信じる者たちは、永遠のいのちを持つという救いの約束を与えてくださいました。それほどまでに神様は世を愛してくださっておられるのです。
②(ローマ5:5)
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
聖霊によって神の愛が心に注がれると、希望は失望に終わることはない、と語られています。失望する状況があっても、神の愛は希望を復活させる力があるからです。
神の愛が心に注がれていることを、どうして分かるのでしょうか。それは私たちの心に与えられた聖霊様によって分かります。聖霊様を受けることはクリスチャン生活の土台です。
天の神様と地上にいる私たちとの間が聖霊様によって繋がります。聖霊様の絶え間ない注ぎの関係が大切です。イエス様の御名によってよく祈ることが大事です。
※『愛による喜び』は、どのような方から愛されているかに気付いたとき、溢れてくる。
私たち罪人を愛して、私たちの罪の身代わりに十字架できよいいのちをお捧げになった神は、イエス・キリスト以外にはありません。
初めに、ご自分のかたちに似せて人を造られた神様は、私たちを最後の最後まで、愛ゆえに責任をもって面倒をみてくださるお方です。
その神様の愛が、私たちの内に直に触れることの出来る愛として、聖霊様によって私たちの内に注がれる時、私たちの心には神に愛されている喜びが自然に湧き上がってくるのです。
③(エレミヤ31:3)
「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。』」
※永遠のいのちに至るように、誠実を尽くし続けてくださった神の愛。
神様とわたしたちの間には、罪という隔てがあります。
神様に背を向けて歩んでいるクリスチャン、それに気付くことも出来ないクリスチャン、心が遠く離れている罪人、それでも神様は、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。誠実を尽くし続けた。」と言ってくださっておられます。
何でも言うことをきいてくれるのが愛や誠実ではありません。私たちが罪の奴隷となって永遠の滅びに至らないようにと忠告をし、導き、正しく善を行うことを励ましてくださる、それが本当にあなたの魂を愛してくださるしるしです。
神様はそのような愛をもってあなたを愛しておられます。
俳句
神の国 歓天喜地に 満ちている