■2023年9月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
敬虔のための鍛練
主題聖句(第1テモテ4:7~8)
俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。
肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。
《敬虔は、困難、苦しみ、試練を通して練られ、鍛えることができるものである。》
敬虔さというのはその人の持っている性質ではなく、鍛えることの出来るものです。放っておくと弱りますが、鍛えれば熟練に至る、そのようなものです。
敬虔さが足らないと思う人は、鍛練してないのかもしれません。敬虔さを鍛練しないで放っておくと、信仰は弱り、後退し、躓きやすく倒れやすくなり、ついには無くなってしまいます。
これは正しい良心とも深く関係します。(第1テモテ1:19)には、「正しい良心を捨てた者は、信仰の破船に遭う」と書かれてあります。敬虔と正しい良心とは一体です。正しい良心(健全な良心)とは、神を敬う心で物事を判断することですから、鍛えられた敬虔はクリスチャンには欠かせない重要なものです。
【敬虔さはすべてに有益】
◎万事が有益となるための鍛練
敬虔さが弱いと、愚痴不平不満が多くなります。敬虔さが鍛えられると、愚痴不平も少なくなっていきます。何故でしょうか。
(ローマ8:28)→神を愛する敬虔さ
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
良いことも悪いことも、苦しいことも悲しいことも、神様がすべてのことを働かせて、神を愛する人(敬虔な心を持った人)のために、すべてが益となるように働きかけてくださいますから、そういう神様であることを私たちは信じているので、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝することが出来ます。
困難、苦しみ、試練などに遭うと、私たちは「神様を信じているのに、どうして守ってくださらないのだろう」というような気持ちになることがあります。
試練、苦しみに遭うことは、敬虔さを鍛えられるためです。正しい良心が強められるためです。それを感謝する心が敬虔さを鍛えることにつながるのです。
(マタイ5:11)→迫害は敬虔さの鍛練
「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。」
なぜ迫害を受けることが幸いなのでしょうか。それは、すべてを有益に変える敬虔さが鍛えられるからです。
「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」とイエス様は言われています。真理であるイエス様を信じてイエス様の教えに従うことは、真理に従うことであり、正しいことです。
しかし、不敬虔な人々にとってはそれは不都合なことですので、真面目なことを主張する人々に圧力をかけてきます。
それでも同調しないで正しくあろうとする人たちは、付き合いにくい人、和を乱す人として、敬遠されたり悪口を言われたりします。
そういう迫害の時に、イエス様に従い通し正しいことを貫き通して、敬虔さが鍛えられていくので、幸いだとイエス様は言われます。
(ヤコブ1:3-4)→忍耐こそ敬虔の鍛練
「信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。」
キリストを信じ真理を貫き通す、その苦しみを耐え忍ぶ人は、成長を遂げた完全な者となります。このみことばから、人間の完全性というのは「敬虔深さ」であることがわかります。
忍耐は人を磨くとよく言われますが、特に神様を信じるものにとって忍耐は敬虔さを鍛える時なのです。
年数を重ねても、信仰がスタートした時と同じような幼い霊的状態のままでは成長できていないと考えることができます。忍耐の苦しみを嫌がっていてはいけません。忍耐することは完全な者へと成長することなのです。
(箴言20:4)→困難さが良い実を結ぶ
「なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても何もない。」
畑は冬の間に耕して種まきのための準備をします。豊かな収穫のためにはどうしても必要なことです。寒い冬苦、困難さが、後に良い実を結ぶ豊かな収穫につながるからです。
労苦も困難もいやだ、楽をしたいと言って、すべきことをしないと、刈り入れの時の収穫はゼロです。
神を愛するゆえに、忍耐を働かせて困難なことをこらえる、その忍耐が刈り入れの時に多くの良い実を結ばせます。
「敬虔」という鍛えられた霊的な実のためには、困難な時の忍耐が必要です。
※苦しみは敬虔さのための鍛練
誰しも苦しみは避けたいものです。しかし、いま困難に耐えて、やるべきことをやっておかねば、将来に実を得られないわけですから、この苦しみは敬虔さのための鍛練と思って忍耐を働かせましょう。
【デボーションポイント】
どのように鍛練するのか?
(ユダ1:15-21)
「すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らすもので、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きなことを言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」
どのように鍛練するのかについて、(ユダ1:15-21)から、次の3点を考えてみてください。
●不敬虔な者の特徴は何か?
●最も聖い信仰とは何か?
●実際的な敬虔のための鍛練とは!
※主は鍛練のための環境や状況を備えてくださるが、それを受け止めるかどうかは個々による。
鍛練は造り主なる神様のされることです。これは鍛練の時だ、と受け止めるかどうかは、各人に任されています。逃げることも避けることも出来ますが、鍛えられるためには受け止めるしかありません。
苦しいということだけに目を向けるのではなく、すべてのことを有益とされる、信心深さを鍛えられる、という将来に向けて忍耐をされてはいかがでしょうか。
【短歌】
つらい時 イエスを見上げ 耐え忍び
いのちに至る 鍛練受ける