■2017年10月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
 あわれみ深い神との出会い 

主題聖句(第1ペテロ1:20)
キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。
 (キリスト=あわれみ深い神の見えるかたち)

 

 神様のご性質であるあわれみ深さについて今みことばから学んでいます。そして、神様のあわれみは私たちに注がれているということを今週もみことばから見ていきたいと思います。

 私たちが出会う神様は、あわれみ深い神であるということは、なんという幸いな知らせでしょうか。神様は裁き主でもありますが、悪人をも救いたいと願われ、あるべき姿に立ち返らせようとされる、あわれみ豊かなお方です。
 
 そのあわれみ深い神様は、イエス・キリストという神の愛の見える形として、この地上に現れてくださいました。キリストの存在、神様のあわれみ深さは世の始まる前から知られていました。なぜなら神は愛だからです。
 
 この世の終わりが近い時に、自己中心な私たちのために、神様は出会ってくださいました。この神様のあわれみに触れられることによって、私たちの人生は変わるのです。あわれみ深い神様の子どもとして成長していくのです。

1.神のあわれみであられるイエス様と出会った人々
A)10人のツァラアト
(ルカ17:12~13)
「ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください』と言った。」

◎イエス様についての福音を聞いていた。 
 このツァラアトというのは、罪を象徴する病気として聖書に出てきます。「声を張り上げて」とありますから、遠くから呼びかけている場面です。

 彼らは一度も会ったことのないイエス様のことを見分けることができました。しかも、「先生」と呼んでいます。これは、イエス様についての良き知らせを聞いていたのです。イエス様についての情報が彼らに届いていました。福音がしっかりと届いていたのです。
 
 私たちも、イエス様を伝える時に、ぼやかすのではなく具体的に語ることのできる心構えが必要だと思います。

◎イエス様に出会うために出かけた。
 ツァラアトの人々は、人前に現れてはならないという律法があったので、ひっそりと隠れて暮らしていましたが、イエス様を探しにそこから出てきたのです。この病気から解放されるために、唯一の望みである救い主が現れたということを信じて、人々の批判も受けながら、癒されて救われたいと願い、出てきたのです。
◎神のあわれみを求めた。
 彼らは家族からも距離を置かれるみじめな人生を送らなければなりませんでした。彼らは、「癒してください」ではなく、「あわれんでください」と願いました。あわれみを求めて、神様に近づいたのです。
 
 神様はあわれみ深い方ですから、あわれみを求めて来る者にはあわれんでくださるのです。
 
 罪人が受け入れられる唯一の条件は、あわれみです。あわれみを受けるということは、へりくだらないといけません。ごう慢な人にはあわれみは注がれにくいものです。心砕いて、「自分は弱く、無きに等しいものです。あなたこそ正しい唯一のお方です。」と、へりくだった心を持って神様のあわれみを求めることが大事です。そうしたら、あわれみの見える形であるイエス様に出会うことができます。

B)38年間病気の男性
(ヨハネ5:5~6)
「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』」

◎38年間待ち続けていた。
 神殿の中のソロモンの廊という所にベテスダの池というのがありました。その水面が波打つことがあると、一番に飛び込んだ人が癒されるという伝説があり、多くの病人が集まっていましたが、一人しか癒されませんでした。
 
 自分で池に入ることができない人は、誰かに助けてもらわないと入れません。しかし、助けてくれる人はいなく、他の人がいつも先に入ってしまい、彼は38年も待ち続けていたのです。

◎イエス様の方から近づかれた。
 彼のように動けない人には、イエス様の方から近づいてくださいました。イエス様から出会いに来てくださったのです。
◎イエス様は、彼を深くあわれまれた。
 「よくなりたいか」とイエス様は語られました。これは、深くあわれみの心を持たれたおことばでした。多くの病人の中でも、どれほど神様の心が彼に注がれていたのでしょうか。

 彼は38年間、人々に裏切られながら、あきらめてもおかしくないのに、それでも誰か池に入れてくれる人はいないかと待ち続けたのです。人は誰も彼をあわれまなかったのに、神が彼の心をずっと見ていてくださり、神のあわれみの見える形であるイエス様が、彼の方に近づいてくださり、「よくなりたいか。」と、深いあわれみの心を示されました。
 
 神様は彼の事情を全てご存知ですが、彼の気持ちを確認され、おことばを与えられ、癒されたのです。

 私たちも、簡単にあきらめてしまうような願いでは、深い神様のあわれみを引き出すことができません。あきらめずに待ち続け、期待し続け、葛藤し続ける心の労苦に対して、神のあわれみはますます神様のうちに大きくあふれてきて、必ず深い神様のあわれみをもって、神様の方から救いの手を差し伸べてくださるのです。 
 
 神様のあわれみをまず第一に求めていきましょう。神様はあわれみ深く情け深いお方です。
 
 罪人の願いを聞いていただくためには、神様のあわれみを引き出すことが重要です。策略ではなく、悩み苦しむ中で、あわれみ深い神は、必ずこの心を見てくださるという、神様のあわれみに期待する心を持って、祈りを積み重ねていただきたいと思います。
 
 あわれみ深い神様は、私たち罪人にとって良き知らせです。罪人にとって唯一の希望は、あわれみです。自分の弱さを知り、へりくだることによって、神様のあわれみに触れることができるのです。
2.今はいつでも出会える
(ヘブル10:19)
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」

◎聖所=あわれみ深い神との出会いの場所
 旧約聖書の神殿や天幕は、神様に出会う場所として象徴的に記されています。また、神殿や幕屋は、神の見える形で地上に現れたイエス・キリストを象徴しています。見えない神が天幕の中にご臨在してくださり、そこで出会うことができるので、会見の天幕とも言われていました。

◎神の深いあわれみを信じる者は、イエス様の十字架によっていつでもあわれみ深い神に出会える。
 今は、イエス・キリストの血によって、だれでもこの神様に出会う聖なる場所に入ることができます。十字架による贖いのみわざによって、罪人である私たちが罪なき者として神に出会うことができるのです。このイエス様の血潮は、私たちを愛してくださっているという、神のあわれみのしるしとして流されたのです。

 あわれみは赦しも含まれています。赦しを実現するために、イエス様が身代りに裁きを受けてくださいました。この神様のあわれみを信じて、いつでもどこでも、祈りを通して神様の前にでることができます。

◎神の深いあわれみに影響される。
 私たちは多くの人と出会いますが、出会う回数の多い人に影響されます。たくさんの人に私たちは出会いますが、神様にもっと多くお出会いすることによって、あわれみ深い神様の影響を受けることができます。

 自分にはあわれみがないと思う方は、あわれみ深い神様に出会う回数が少ないのではないでしょうか。神様の愛を信じて、祈りの中で出会っていただきたいと思います。いつでもできます。
【デボーション参考ポイント】
 あわれみ深い神と出会うポイント
(ローマ9:15~16)
「神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

 あわれみとは、心の部分です。マニュアル通りに条件を満たしたからといって、神様のお心を動かすとは限りません。10人のツァラアトの人々がどんな気持ちをもってイエス様の元ににあわれみを求めてきたのか、その心境まで追い込まれないと、あわれみ深い神様の前に心砕かれて出ることはできません。

 38年間の男性は、あわれみを受けなければ自分は助からないのだと、あわれみに対する期待と希望を失いませんでした。

 私たちも、神様のあわれみを本当に信じて求めて祈っているのか、神様に見分けていただかないといけません。神様が判断されるのです。

 真剣にクリスチャン生活を悩み、苦しんでいる中に、神様はご自身のあわれみを示してくださいます。神様が唯一の主権者であると認めない限り、このみことばを理解することはできません。主権者なる愛の神様は、愛によって物事を判断しておられるということを表わしているみことばです。

 理屈ではなく、愛の心から全てのことを見分け、判断してくださる神様なのです。理屈では私たちは罪人として滅びるべき者ですが、その理屈に勝る神の愛とあわれみによって、滅びるべき罪人が救われるという望みをいただいたのです。神様のあわれみに触れる祈りをしていくように心がけていきましょう。
【俳句】

  あわれみを  作物荒らす  鹿に見る

 鹿というのは季語です。畑を荒らされる農家の人にとってはいやな存在ですが、鹿の事情も理解してあげないといけません。それがあわれみの目で見るということです。

 なぜ山奥から人里におりてくるのでしょうか。食べ物を探し求めて歩いているうちに、食べ物がたくさんある畑をたまたま見つけて、くせになったのです。

 自然のバランスを壊している人間の科学や文化が、人里に鹿が現れてくるようになる状況を長い年数をかけて生み出したのです。そのようにあわれみをもって考えると、作物を荒らすのもしかたがないと理解することができるのです。

 神様も、欲にひかれて律法を守ることのできない、神の豊かな恵みを荒らすような罪人である私たちのことをご存知で、理解してくださり、しかたがないと赦してくださり、イエス・キリストを信じて、神の恵みをいただけるようにしてくださるあわれみ深いお方です。

 自分があわれまれるべき愚かな者であることを自覚しながら、賢い神の子として成長できるように、更に神様のあわれみの道を歩めるように心がけていきましょう。