2024.4.14- Devotion note

主の家に入るために



イザヤ26:1~2
その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。

城門を開ける→門が閉ざされている→門である入口から入ることができない

(1)入れない理由


こうして神は、「いのちの木への道」を守るために、“エデンの園の東”に「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」=(門番)を置かれた(創世記3:24)→不正に入って来る者は、「回る炎の剣」で打たれる。

※不正とは、罪人。即ち、アダムとエバがエデンの園を
 追い出された時の罪を犯した(神のみことばへの不従順、
 即ち、神のおことばと神の権威を畏れない)状態にある者たち。

創世記3:24
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
 


門の向こう(エデンの園)には、「いのちの木」がある。この門は、「いのちの木」への道であり、その門が閉ざされている間は「いのちの木」の所に行けない。この「いのちの木」は「永遠の不老、不死、いのち」の“木”である。
 


人が始め神によって造られた時、この門の中に置かれ、「いのちの木」に与ることができる状態にあった。しかし、人間の祖のアダムとエバは選択を誤った。(創世記3:6)即ち、「いのちの木」を取らず、「善悪を知る木」からその実を取って食べた。そのことにより、アダムとエバは「エデンの園」から追放された。(創世記 3:22~23)

創世記3:6
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

創世記3:22~23
神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
 


私たちは、アダムとエバが罪を犯したため「エデンの園」から追放されて後、この世に生まれて来たアダムとエバの罪のDNAを受け継いだ子である。

※それは、サタンの誘惑、惑わしのことばに従い、神のことばを
 退け、神以上に自分の価値観、自分の判断で善悪の判断を神の
 ようにする者(ルシファーの高ぶりと神への反抗を持つ存在に
 似た者)となった。

※もし、エデンの園にいて、悪の権現となり、「いのちの木」
 から食べることによって、永遠の存在者となると、世界は永久
 に悪と暗やみで覆われる。それゆえ、神は、いのちの木から
 取って食べ、永遠に生きる者とならないよう、アダムとエバを
 エデンの園から追放された。
 

(2)このエデンの園は、神が来られ、アダムとエバに直接交わりを持ち、語られる所であった


地上でそれを「型」として表しているのが「モーセの幕屋の至聖所」で、「契約の箱」の上の「贖いのふた」にある“2つのケルビム”の間から”シェキナー”の“神の栄光”と“ご臨在の光”が放たれ、そこで神が大祭司と1年に1度会われ、語られた所を示している。きよく正しい、傷のない“血”をたずさえずに「至聖所」に入れないだけでなく、神の声を「贖いのふた」の上から聞けない。※この”血”は、「イエス・キリストの血」を表している。
 


エデンの園は、天にある「本物の幕屋」である。天に「本物の幕屋」があり、今神と御子、主イエス・キリストご自身がその御座に着座されている。
 

(3)地上にある「モーセの幕屋」には、ケルビムの描かれた「垂れ幕」があり、“前の聖所”と“奥の至聖所”をへだてていた


イエスは「十字架の死と葬りと復活」により、「いのちの木」への「生ける道」となってくださった。それは、神殿の幕が裂かれたことにより、「至聖所」に入るための「道」が開かれた。

“すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。”(マタイ 27:51前半)
 


イエス様は、ご自身の「傷のない血」をたずさえて天にある「本物の幕の内」に入って下さった。

※“また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、「まことの聖所」=天にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。”(ヘブル9:12)
これによって、私たちが垂れ幕の内側である神の御座に近づく道(門)が開かれたのです。
 


閉ざされた“エデンの園の門”を守る「ケルビムと回る炎の剣」である「門番」が彼(イエス)のため、その門を開いた。

“「門番」は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。”(ヨハネ 10:3前半)
 


その「門」に入る「条件」は、「罪のないイエス・キリストご自身の血」によってのみ「門」を通ることができ、エデンの園への入口である道が開かれた。

※“イエスは彼に言われた。「わたしが「道」であり、「真理」であり、「いのち」なのです。わたしを通してでなければ、だれひとり「父のみもと」に来ることはありません(神の御座に近づくことはできません)。”(ヨハネ 14:6)
 


私たちも、イエスの肉体という「垂れ幕」の道を通って、「霊的エデン」=「至聖所」=「霊的神の国」に入れる。

“こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、「イエスの血」によって、大胆にまことの聖所(天の聖所、御座)にはいることができるのです。イエスは“ご自分の肉体”という「垂れ幕」を通して、私たちのためにこの「新しい生ける道」=「永遠のいのちへの道、神に近づく道、エデンの園に入る道、至聖所に入る道」=「霊的神の国に入る道」を設けてくださったのです。”(ヘブル 10:19~20)
 

(4)「城門を開ける」この学びの霊的意味


アダムとエバが「エデンの園」を追い出された原因である罪が、「イエスの十字架の死と葬りと復活」によって処分され、イエスを「主」、「救い主」と信じる者の罪が赦された。それによって「霊的エデンの園」の中に入るため、「ケルビムと回る炎の剣」で「検問」されている門が「イエスの十字架」により、「イエスという門」に開かれたので、信仰を持つ人は誰でも「イエスという門」を通って入っていくことができる。それは、「イエスの十字架の血」により、「霊的エデンの園」に入る「城門」が開けられたからです。

“わたしは「門」(=垂れ幕)です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。”(ヨハネ 10:9)

“彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。”(ヨハネ 10:4)
 


「霊的エデン」は、「神の国」、「神の支配される所」、「神の御座のある所」、「主がご臨在される所」、即ち「主の家」です。
 


「主の家」に入るのに、その「城門」=“イエスのからだ”という「垂れ幕」を通って、私たちは今「イエスの名」のもとに、「信仰によって」、神の御そば近く呼び出され、神の声を聖霊様によって聞くことのできる者とされていることを、心から神に感謝します。

※“そのようなわけで、私たちは、「心に血の注ぎ」を受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、「全き信仰」をもって、「真心から」(=心を尽くして主を愛する心をもって)“神に近づこう”ではありませんか。”(ヘブル 10:22)