幸いを見る目 〜ゆがんだ心を直す〜


1996/3/3ジーザスフェローシップ広島日曜礼拝メッセージより

心の曲がった者は幸いを見つけない。
偽りを口にする者はわざわいに陥る。
箴言17:20

楽しい時→時間が早く過ぎるように感じる
     脳から良いホルモンが全身に解放感を伝え
     元気になる
苦しい時→時間が遅く過ぎるように感じる
     脳から悪いホルモンが全身に悲しみを伝え
     病気になりやすくなる
 物事をプラスにとるかマイナスととるかによって、私たちは体調に影響を受けます。知識が増すと悩みが増えます。それは先のことまで、「もしも」と考えて準備してしまうからです。
 将来起きるかもしれない様々な災いを想像することで、私たちはかえって幸いが来るのを妨げてしまっているのです。
 箴言17:22に「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」とあります。私たちは常に陽気でありたいと望みますが、それが難しく思えませんか?特に思い煩いがあるとき、いくら陽気になろうとしても、なかなか心のコントロールができないのはなぜなのでしょうか。

陽気になれない理由
 箴言17:20に「心の曲がった者は幸いを見つけない」とあります。あえて幸いを見ようとしないで、嫌なことや災いに目を留めることにいつも心がけているという意味です。
 「心の曲がった」とは「ゆがめられた心」と言えます。
 ですからここでは「ゆがめられた心は幸いを見ることができない」といっているのです。
 色眼鏡をかけると周囲が変わって見えます。たとえば、赤い色眼鏡だと全部赤く見えてしまって、肝心の赤い字は見えません。
 これと同じように、心に色眼鏡がついていると、何を見てもその色にしか見えなくなります。それはいつも不幸を見る眼鏡がついていると、すべて身の回りに起きて来ることが不吉であって大変な災いに見えるようなものです。
 そのようにゆがめられた心の人は、いくら「あなたは幸いだ」と人にいわれても本人には不幸にしか見えず、幸いが見えません。そしてまた、幸いを見つけようともしないのです。
 この世の様々な考え方に影響されて、いろいろな色眼鏡でまわりを見るようになっていないでしょうか。

例 「高価なものほど良い」という色眼鏡
   →それを利用したセールスに騙される

ゆがめられた原因
1.自分の存在が脅かされるとき
 人から否定的なことをいわれるときです。

例 小さいときは「女の子のように可愛い」といわれていた
  大きくなるにつれて「男らしくない」と逆に否定される
  (心の傷)
   ↓
  男らしくしようと無理に色々なことに挑戦する
   ↓
  男であることのプライドを傷つけられるようなことを
  女性からいわれると怒りが沸き上がってくる
   ↓
  女性に対して敵対心を持ち、押え付けようとする
   ↓
  全ての人が神の前に同じ価値だと悟らされた時
  いやされる

 だれでも、自分の性格を省みるとき、どこかでこのような脅かされた体験をしていることでしょう。また、この比較競争社会では、かならずどこかで傷を受けるものです。

2.親子の心のふれあいで、温かさを得られなかったとき
 小さいときからの英才教育等、まわりの人々との比較のみで叱られて、そこに温かさを感じないときに、人は傷つきます。

3.育つ環境で、真理がわからなくなるとき
 価値観の違いがわかるようになって、自分の意見が単に少数意見だということだけで、どんなに正しく思えても多数決の社会のゆえに認められないとき、良心が混乱してきます。

 どんな人も、大なり小なり、こうした出来事によってゆがめられてしまっています。正しく物事を判断するためにはこうした心のゆがみをいやされる必要があります。

いやしと解放のポイント
1.これ以上ゆがめられない世界に移る
 生きる世界を変える必要があります。この世の価値観で生きる限り、圧迫を受けます。闇の世界から光の世界へと移るのです。
 光と闇のどちらで生きるかはあなたの決断によります。
 例えばあなたの家系が王族であっても、一般の人と同じように生きようとするなら、あなたは王族であっても生活は一般人と変わらなくなります。
 周りの生活の情報が多いほど、自分がどのように生きたら良いのか、惑わされてしまいます。
 しかし私たちが光の中に生きる決断をしたなら、そのように生きるのです。

2.真理を知る
 真理を知ることで偽りから解放されます。聖書のことばの真理を知ることによって、他者との比較で生きるのではない、ひとりの魂として神の前に生かされるという価値観にかえられ、偏見から解放されます。
 自分の考えだけに焦点を合わせてみるときに、不満ができますが、聖書のことばによってその不満が取り去られます。
 例えば、世の中では性格の不一致で離婚しますが、聖書のことばによるなら、この違いこそ大切で、夫婦はお互いに違うところを補いあって一体となります。しかし、自分だけが正しいと思い込み、真理を真理として受け入れないなら解放されません。

3.造り主の権威を認める
 あなたが神を造り主として認めないなら、親を親とも思わないと同じです。それは不幸なことです。私たちの存在は、偉大な創造主、父なる神によると知ることによって価値あるものとなります。
 親を頼るように、私たちは父なる神に頼ることによって温かな安らぐ場を得られます。人生の様々な試練の中で、立ち上がる力を与えてくれるのは霊的親である神です。尊敬している親からの励ましはどんなに力となることでしょうか。
 父なる神はいつも光のことばをかけてくださいます。神は十字架によって命がけで私たちを救い出してくださいました。親としての私達子どもに示された精一杯の愛です。
 まったきいやしと解放を受けるために、私たちは日々、神に信頼して生きる者となりましょう。私たちは神の深い愛を受けているのです。その愛がわかるように歪んだ心をいやしていただきましょう。



 



 
良い知らせを受け取る 〜罪から離れる決心〜


1999/3/14ジーザスフェローシップ広島日曜礼拝メッセージより

私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、またそれによって立っている福音です。
1コリント15:1

 福音=良い知らせ=good new そして、良い知らせとは、素晴らしいプレゼントがいただけるという知らせですが、聞いて信じて受け取りにいくのは、自分自身でしなければなりません。

人生最大の問題とは何か?
 
柔道の達人 嘉納治五郎のことば
 『人に勝つより、自分に勝て』
 相手に勝つより自分に勝つことが究極の勝利です。私たちの真の戦いは自分との戦いであり、自分の内側の問題が、結局は一番の難問なのです。

ギリシャ哲学者 ピタゴラスのことば
 『己を制し得ぬ者は、自由人とは言えない』
 自由にやっているつもりであっても、自分の意志とは関係なく、様々な欲望や思いが湧いてきて、そちらの方に引っ張られていってしまうことがどれだけ多いことでしょう。
 引っ張る力にそのままついていってしまうことが「自由」だと勘違いしている人がいます。

 しかし、自由とは選択する力があることです。

 自分の願いと違う、無気力さや怒り、ねたみによって振り回されないために、私たちの人生は自分自身との戦いであると言えるでしょう。
 いかなる環境、状況であっても、それをしっかりと受け止められる自分であるかどうかが、人生の大切なカギになります。

 人生最大の問題とは何でしょう。
 ところで、聖書には人は「罪の奴隷」の状態であるといっています。奴隷とは、逆らうことができず、服従されている状態です。
 そして、この「罪」が人生最大の問題のもとなのです。
 聖書のローマ書7:15〜21で、著者パウロも同様の力を感じ、自分でないもの「罪」が自分のうちに存在していることを指摘しています。

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。 ローマ書7:15〜21

 このように自分の心に、同じような人格的思いをもたらしてくる存在「罪」が肉に宿っているという原理を見い出したのです。
 これこそ人生最大の敵であり、今まで自分だと思い込んで、悩んでいた相手だったのです

 貪欲という行き過ぎは健康を害します。しかしやめたいと願っても止められないのは、その人の意志とは関係なく、からだが要求するからです。肉は自分の心とは違うものを持っています。
 それを見分けるために、聖書のことば(神の律法)が必要です。どちらも自分の心だと思っていたら、要求の強い方にひかれていくのは当然です。

例 けんかをした→相手をゆるしたい、ゆるすべき   …本心
     ↑  →相手をゆるさない、ゆるす必要はない… 罪
   神のことば「たがいにゆるしあいなさい」

福音の力
 この罪が、神のことばによって、本心と切り離され、自分ではないと拒絶できるようになることが、福音の力です。
 あなたがもし肉の思いを切り離したくないと思っているなら救われません。罪と自分が一体化しているので、罪が罰せられるとき、共に滅ぼされてしまうからです。
 しかし、本心が罪と離れたいと反抗し続けるなら、罪の要求が何度来ても心が拒絶し続けるので、神の助けが与えられ、肉体が罪とともに滅びるとき、魂は救われます。肉体が罪とともに滅びても、心は滅びないように与えられた救いが、イエス・キリストのあがないの救いです。

私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。 聖書 テトスヘの手紙3:3〜7

 悪い考え、思いは全て罪がもたらしてくるものであなたの思いではないことを知ってください。
 そして、この罪との戦いで、罪よりも自分の意志が優位になってゆく、罪を自分の本心に従わせる、罪を無視して本心を生かすことができるという素晴らしい望みを、福音によって神からイエス・キリストを通して与えられているのです。

 この福音は、罪なき神の子イエス・キリストの十字架の犠牲の愛によって、私たち全人類の罪のゆるしがあらわされ、私たちが良くても悪くても、すべての人を救いたいの願われて、神がプレゼントしてくださったのです。
義を与えてくださったのです。
 この手渡された義は、神の霊が私たちの心に宿る条件です。神の霊は罪人の中には入れませんが、神の一方的許しによって聖い霊を受けることができ、それによって義人となっているしるしが与えられています。
 聖霊は「新生と更新」の働きを通して、私たちを日々変えてくださり、罪に打ち勝つ強さが与えられていくのです。

 この素晴らしい福音を受け取りましょう。そして、真の自由人として光の中を輝いて、本心をいかして歩んでいきましょう。

私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 ヘブル12:1〜2

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 ローマ10:9