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自分育て

最終更新日2010/1

  
キリスト教会 ジーザスフェローシップ広島の日曜礼拝、
他各種集会etcのメッセージから、テーマ別に収録しています。
徐々に増やします。時々お立ち寄り下さい。
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前向きに生きる

 1.前向きになれない理由
 2.積極・大胆さの秘訣
 3.楽観回路を生かす
 4.心機一転


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1.前向きになれない理由

 
 私たちがものごとを積極的に、大胆にとらえられないのは確固たる裏付けがないからです。特に日本では封建社会が長い間基盤となってきましたので、積極的に考えられる人は、ごくわずかです。
 前向きにものごとを考えられないのには大きく2つの理由があります。
(1) 比較社会の中で常に優劣をつけられ続けた結果、心に傷を受け、傷が痛む場合。
(2) 失敗の結果、存在価値を否定され、自分の存在理由、価値を見失った場合。
 これらの傷は救われていやされるのですが、いやされただけでは大胆にはなれません。積極、大胆になるためのには、そうなれる裏付けが必要です。

2001/1/21日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)より 


 
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2.積極・大胆さの3つの裏付け
 

(1)
受容の愛に支えられる
 
 愛は多くの罪をおおうからです。(第一ペテロ4:8 )
 
 受容の愛とは無条件にそのままの状態で受入れ、愛してくれると言う意味です。みことばでは『愛は多くの罪をおおう』とあらわされています。では多くの罪をおおう愛とはどういうものでしょう。2つの意味があります。
 1つめは、おおい隠すこと。罪を犯し、汚れた私たちの上に受容の愛が神から注がれると、その愛は私たちの汚れをすっぽりと包み隠すコートのようになります。
 2つめは、身代わりになること。悪い種を蒔くとその刈り取りは自分ですることになりますから、当然、蒔いた者の上に災いや病気がやってきます。そのように攻撃してくるものと、種を蒔いた者との間に受容の愛は立ちはだかり、当然受けるべき悪い報いを身代わりに受けてくれます。それは罪を犯した者がその報いによって滅ぶことのないようにするためのものです。これこそ十字架の愛です。
 この『多くの罪をおおう愛』を知っていれば失敗を恐れなくなります。
 聖書に登場するあるひとりの女性(ヨハネ4:28〜29)は、この愛を受け止めたから大胆になれました。どうしてなのでしょう。
 彼女はサマリア人でした。サマリア人はユダヤ人と他民族との混血で、神から選ばれた民の血を汚したとしてユダヤ人からは話すことも、一緒にいることも忌み嫌われていました。また彼女には5回も離婚歴があるうえに、一緒に暮らしている男性は正式な夫ではありません。当時は女性というだけで男性よりずっと身分の低いものとされていましたが、離婚歴があると更にその地位は下がり、人前に出るのもはばかられるほどでした。ですから普通の女性は朝早く一日の最初の仕事として井戸に水を汲みに来るのに対し、この女性は、わざわざ人と顔を合わさない時間を選んで水を汲みに来たのです。それだけでユダヤ人であるイエス様と普通ならば声をかけられるどころか目を合わせることすらありえないことでした。サマリア人にとってユダヤ人と会話することさえ恐怖だったのです。
 ところがイエス様はこの女性に、「わたしに水を飲ませてください。」と声をかけられました。ユダヤ人どうしで話すように、優しく話しかけたのです。それは対等な立場をとった話し方でした。当時、男性と女性が対等に人目もはばからず話すことは社会的制裁を覚悟しなければならないほどの大変なことでした。しかし、イエス様の優しい語調で、彼女は受容の愛を感じとり、大胆にイエス様と話し続けることができたのです。

(2)
絶えず赦しが与えられる
 
だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』(ルカ7:47)
 
 失敗した時にゆるされなければ、もう二度とやってみたいという気持ちにはなれません。しかし、失敗しても何度でも成功するまでやってみなさいとゆるされ続ければ挑戦する勇気が持てるようになります。
 (ルカ4:47)の女性がしたことを現代に置き換えて説明するとこうなります。風俗を職業としている女性が、国会議員の家に招かれ、食卓についておられるイエス様の足にしがみつき涙で御足をぬらし、髪の毛で拭い、香油を塗りました。冷ややかな目で見ている議員達であるパリサイ人に対し、イエス様は「この女の多くの罪は赦されています。と言うのは、彼女はよけい愛したからです。・・・」と言われました。
 彼女の行動は普通では考えられない大胆さがあります。赦された感謝をどうしてもイエス様に伝えたいというあふれる感謝からこの大胆さは生まれました。それは自分が赦されているという確信が裏付けとなっているのです。
 多く赦されるとは、絶えず赦され続けるということです。1度で成功することは希です。10回で成功する人もいれば1000回やって成功する人もいます。けれども1000回失敗し続け成功した人のほうが、1度で成功した人よりも多く感謝し、愛すると神は言われます。
 罪を神が喜ばれないことをクリスチャンは皆知ってます。それでも弱さから罪を犯してしまうのですが、すぐに裁かれないのは赦されているからに他なりません。なぜ赦され続けるのでしょう。それは、失敗を恐れず積極、大胆になれる者に変えられるためなのです。 悔い改めとは、「神様もう一度チャンスをください。」と求め、チャレンジしていくことで、「失敗しました。もう二度としません。」とじっとしていることではありません。チャンスをくださるのですから、時間一杯までチャレンジしていこうではありませんか。

(3)
期待される存在である
 
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。(ヨハネ15:16 )
 
 私たちは役立たずではありません。神が期待し選び、神の子となるよう任命してくださったからです。任命するとき人の可能性に期待して選びます。神は私たちに、神のご計画の中で素晴らしい働きをすることを期待して選んでくださいました。選ばれたからこそ、生きていく意味を見いだせるのです。

 私たちは心痛み大胆になれないことがあります。そんな時、この3つの裏付けをもって痛みを包み、決断していくことです。どんな自分でも変わりなく愛し続けてくださり、失敗しても赦し、何度でもチャンスをくださる上に、大いなる成功に期待してくださる神がいることを確認することで、積極、大胆な生き方ができる勇気がわきあがってきます。

2001/1/21日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)より

  


 

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3.楽観回路を生かす

 私たちはあれがなければ幸せになれない、これがないと不幸だと、環境によって幸せか不幸かを決めてしまいます。しかし本当は、環境や持ち物によって幸せかどうかを決めるのではないそうです。
 最近の脳科学の発達により、幸せは目の前に起こっている出来事に対して、脳がどう評価するかによって、幸せか不幸せであるか判断するそうです。脳の感じ方で、幸せかどうか決まるのです。ですから、お金があるからといって幸せだと感じるのではないのです。何か足らない、幸せはこんなものではないと、更に幸せを求めていくのです。
 私たちの頭の中には『楽観回路』というのがあるそうです。
「最近、脳の『楽観回路』についての研究が進んでいます。前頭葉を中心にした楽観的に物事を考える回路があるというのです。この前頭葉の働きが活発になると、幸せをたくさん感じるようになり、何事においてもプラスの行動がとれるようになります。つまり、不信仰(ネガティブ)から信仰(ポジティブ)へと、良いほうに向かうのです。この『楽観回路』の働きを活発にするのが、いのちのみことばなのです。」
 脳には、信仰を働かせるために必要な機能が備わっているのです。希望の神様に私たちが心を向ければ、『楽観回路』が活発になり、前向き、肯定的、ポジティブにすべて受け止めていくことができるようになります。
 人生の成功者というのは、どんな苦境の中にあっても全部前向きにとる人です。松下幸之助さんは良い例です。悪いこともすべて良い方にとり、新しいアイディアが生まれてくるのです。人間にはそういうポジティブな回路があるのです。不況になると宝くじがはやるのは、楽観回路が働くからです。
 しかしこの世的な楽観と、クリスチャンの楽観は違います。クリスチャンの楽観は、前向きに変えることであって、問題を見ずに物事を進めることではありません。足元を見ずに進んでいけば、当然つまずくことが多くなります。問題を見て、それをいかに幸せだと感じるか、これが楽観回路の働きです。
 世の中の楽観は、問題を見ようとせず、いいことばかりを見ようとするので、実現しないのです。橋のない川を渡ろうとして、「向こうはいいなー」とそのまま進もうとしても、そこには川という問題があるのです。しかし楽観回路は、「川の向こうに行きたい。でも橋がない。そうだ、橋を作ろう!」という発想ができるのです。これを、神様は私たちの脳に機能として与えておられるのです。
 その考えのきっかけを作るのが、創造的神のみことば、約束のみことばです。マイナスをプラスに、冬が春に変わるように、苦しみが幸せに変わるのです。これが私たちの脳の働きの中にあるのです。

『楽観回路活性化』1(エレミヤ書29:11)
“わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
ー主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。”
 あなたのネガティブな考え方をポジティブに変えるきっかけのみことばを、何回も黙想していく内に、みことばには力があるので、否定的な思いが変えられるのです。黙想の中で、聖霊様が脳に働きかけて、みことばの前向きな捉え方を啓示してくださいます。

☆『楽観回路活性化』の黙想ポイント
「主は、私たちのために立ててくださった計画を、よく知ってお  られる。」
 誰がこのことばを語っているのでしょう。天地を造られた全能の神様が、私たちに語られているのです。あなたのために神が計画を立てられたのなら、それを必ず、その計画通りに進めていかれるお方です。そのような神への信仰が聖霊によって啓示されると「私の力や努力ですることではなく、神様に協力していくことなんだ。」とわかってきます。すると、自分の無能さは問題ではなく、神様に協力していくかどうかが問題なのだ、ということがわかるのです。
神様と共にしていけば、必ず計画は進んでいくのです。

「私たちのために立てられた計画に悪いものはない。」 
 神様は、私たちをいじめるために造られたのでしょうか。神様が悪いものを、私たちのために計画されたはずがありません。

「未来を見据えた、入念な計画に失敗はない。」
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている」と神様は言われます。例えばバイオリンを習っていて、芸大に行きたいとします。しかし、なぜこんなつまらない練習曲ばかりしないといけないのかと生徒は思いますが、先生は「私はあなたのために立てた計画をよく知っている。」と言います。それは、必ず希望の大学に入れるためのプランを立てていて、あなたに合った練習方法を計画しているということです。「よく知っている」というのは、その通りにしたら必ず願いがかなうということです。それに気づいたら、喜んで練習をします。
 クリスチャン生活もそうです。神様のご計画があなたにあるにも関わらず、その計画に気づかなければ、クリスチャン生活は辛いばかりです。しかし、神の目的は、私たちを造り主のかたちに似せてて、ますます新しくすることです。単にご利益宗教的にキリストの元に来て、そこで留まっていたら損です。もし、バイオリンで生活が立てられるという才能があるのに、そのままで留まっていたとしたら、もったいないことです。神様はあなたの将来に対して、念入りな計画を立てておられ、自信を持っておられるので、「よく知っている」と宣言しておられるのです。ついてきたら大丈夫だよ、と言われているのです。
 これらの裏付けを通して、いやだなーと思うことがあっても、喜びに変えていくことができます。神様についていけばいいのです。あなたが何かする必要はないのです。言われた通りにしていけば、1つ1つ進んでいくのです。
「神様の計画は、『冬』で終わるものではありません。ですから、みことばを黙想し、聖霊様によって「楽観回路」を活発にしていただき、『一陽来復』の人生を楽しみましょう。」

『楽観回路活性化』2(ローマ人への手紙8:32)
“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。”

☆『楽観回路活性化』の黙想ポイント
「ご自分の御子をさえ惜しまずに、私たちの罪を贖うための十字架を歴史に刻まれた父なる神様。」
 この歴史的事実があるからこそ、神の計画を信じて、楽観的に受け止めることができるのです。私たちの信仰は、空虚なものを信じているのではありません。神様の立てられた計画が歴史的事実として刻まれているということは、神様の実行力に対する信頼が高まります。実行力のある人についていくと、安心できます。神様についていくだけで良いのです。ここで、気をつけなくてはいけないのは、神様がやってくれるので、神様にまかせて、自分は罪の欲望を満たす、という考え方です。本当の楽観とは、物事に対して強い信頼を持つことができるから、安心して物事を前向きに考えられるのです。裏付けがあるからです。イエス・キリストは預言通り、この世に遣わされた神の御子、救い主です。これは事実です。
 ついていくとは、みことばにチャレンジすることです。できるかできないかではなく、やってみることがついていくことです。
「言葉や口先だけの神様ではない証拠としての預言の成就は、神への信頼を高め、「楽観回路」の活発化によって、あなたを「一陽来復」としてくださるのです。」

『楽観回路活性化』3(ヨハネの黙示録2:5)
“それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。”

☆『楽観回路活性化』の黙想ポイント
「どこから落ちたかを知らなければ、何をどのように戻せばよいのかわからない。問題から目をそむけることが楽観ではない。」
 悔い改めのポイントは、どこから落ちたかを知ることです。道を外れたら、その途中から方向を変えても、根本から直さないと元に戻りません。そのためには、思い出しなさいと言われています。時間がかかります。しかし思い出す中で一つ一つ改めていけば、最後は必ず根本的な問題に到達するのです。聖霊様は必ず助けてくださいます。その作業が大事なのです。過去を思い出すことは、悔い改めてもっと悲しい思いをせよと言われているのではなく、ずれた地点を正確に認めて、そこから直せば、もっと正確に悔い改めができるからです。
そこで必ず「難しい」という思いが出てきます。
「わたしの『難しい』という思いには、どのような意味が含まれているのか。いつから持つようになったのか。」
 チャレンジする前から、無理だ、私にはできない、という意味です。「難しい」ということは、できないことではないのです。
 難しいとごまかして取り組まないのではなく、できないなら「できません」と神様にハッキリと言ってください。神様は必ずみことばによって働いてくださり、計画を用意してくださっています。神様についていけば、必ず成るのです。楽観とは、ついていくことです。

「悔い改めは季節の変わり目と同じ。「一陽来復」のときです。そこには未来への希望があります。「楽観回路」が活動し始める時です。」
 悔い改めを通して、迷いの道を通して、冬から春に変わるのです。
 私(辻師)は以前は、春が来るとまた冬が来るというネガティブな考え方をしていました。いいことがあったら必ず悪いことが来るから、楽しいことをしたくありませんでした。しかし、聖霊の働きによって楽観回路が働き、冬が来ると必ず春が来る、苦しければ必ず楽しい時がやってくる、とまったく変えられたのです。
 私たちの脳には、悪いことがあるけど、必ず良いことに変わるという機能があるのです。それが罪によって逆にされ、的外れになってしまったのです。しかしイエス・キリストの十字架によって、冬から春になるというポジティブな元々の神様のご性質、能力を取り戻せるのです。
 どうぞ、悔い改めは、悩んでください。苦しんでください。でも春が来ます。ネガティブな人は、心がいやされることが必要です。そのいやしのみことばも聖書にあり、その実現は歴史の中に刻み込まれています。
 あなたはどちらに留まりたいのですか。神様は全部十字架で完成しておられるので、あとはついていくだけです。

2009/2/22日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)より

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4.心機一転 


あることをきっかけとして、気持ちがすっかり良い方向へ変わること。

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
(ヘブル11:4)

  

(1)内なるカインとアベル
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(創世記4:3〜6)
 
心機一転を計るためには、まず私たちは自分の心の中の現状をよく知る必要があります。私たちの心の内には、カインの心とアベルの心のふたつが存在します。それはアダムとエバ以降、罪が人類に宿ったからです。アダムとエバが欲望に負けて罪に従ってしまってから、罪は私たちを欲望によって支配するようになりました。これが肉の思い、自己中心であってカインの心です。アベルの心とは、もともと神の形に似せて造られた私たちの魂のことで、本来の私たちの心は、このアベルのような、神を敬い、正しいこと、きよいことを求めたいという正しい良心によって成っていて、これが本音なのです。
このカインとアベルはいつも私たちの心の中で戦っています。私たちが神さまを畏れ、信じる時、このアベルの心はカインの心に対抗できるようになりました。
しかし、神さまを受け入れない時はカインの心がアベルの心を抑えていて、欲求のまま、感情のまま過ごすことが多かったのではないでしょうか。それはカインはアベルを殺した…と聖書にあるからです。神さまを受け入れない時、カインは常にアベルを殺すことが出来ました。カインの方が強かったのです。つまり、抵抗できないほど自己中心が強かったために、カインの心がまるで自分の心そのものだと思って生きていたのです。しかし神さまを畏れ、信じると、アベルの心がカインに抵抗します。負けることが時にあったとしても、抵抗することができるのです。
ただ負けてしまうことがあるのはどうしてでしょうか。それは、次にあげる信仰による心機一転にかかっています。
  

 
(2)信仰による心機一転
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ人への手紙8:2)

 
原理とは、定まったひとつのパターンがあるということです。そしてそこに縛られて、それに従わざるを得ない状態なのです。私たちが罪と死の原理の中にいる時は、アベルの心はカインの心に勝つことはできませんでした。なぜなら、それが罪と死の原理だったからです。カインとアベルの物語は「罪と死の原理」を現しています。どんなに努力して頑張って修行しても、絶対にこの原理を変えることはできません。ただ、環境を変えることによって、一時その原理から解放されたかのように感じることはあっても、それは一時期カインの心を静められただけに過ぎません。
修行僧とか、いろいろな修行者の人たちがいますが、彼らは世の中では生きていけません。山奥でないと修行できないのです。それはなお、罪と死の原理に縛られているため、世に戻るとまたこの原理が強く支配してくるからです。しかしクリスチャンたちはいのちと御霊の原理野中に生きているので、修行しなくても、世の中で生きていくことができます。いのちと御霊の原理の中にいるので、もはや罪と死の原理が働くことはありえません。この事に目覚め、気づくことが「心機一転」なのです。この事に気づくのが信仰です。しかし、偽られ、だまされていると、なおも罪と死の原理の中に生きているかのように錯覚して、そのような生き方をしてしまいます。クリスチャンはだまされてはいけません。心機一転とは、罪の偽りを見破る信仰の働きです。いつの間にか、自己中心や欲望のままのカインの心で歩んでいたと気づくことです。
聖書を読んだり祈ったりしている時に、聖霊様があなたに気づかせてくださいます。それゆえ毎週一回の礼拝は、義務的に参加するのではなく、心機一転するためのきっかけとして参加しているのです。
一週間どっぷりと世の中の考え方や欲望の影響を受けるような生活をしてきても、この礼拝で語られるみことばや賛美の中で心がいやされ、平安に満たされ、聖霊様の働きによって、何かはっと気づかされるような心機一転のきっかけが与えられます。そして偽りに気づき、新たに歩み直すことができるようになります。
それでは、カインとアベルを見分けるために、その違いを見ていきましょう。
(1)のポイントに戻ってみてください。
ある時期…子供の時はカインもアベルも、父親を通して神との正しい関係を保っていました。しかし今度は自分自身が神との正しい関係を持つ時がきます。それは成人した時を示しています。
ささげ物…自分自身の心を見える形で表したもののことであり、そのささげ物を通して、自分の心が表現されます。神への思いがどういうささげ物をどのようにささげるかによって表されます。
二人のささげ方の違い…アベルは自分の持つ最良のもの、一番良い大切なものを選びました。しかしカインは選ぶことをせず、義務的にただささげればいいというささげ方をしました。しかもアベルは自分自身で持って来たとあるのに、カインはありません。カインは他の人に代わりにささげに行かせたのかもしれません。神への尊敬の心が欠けているのです。自ら持って行ってあいさつすることは、相手を大切に思い敬う気持ちがあるからです。カインにはその思いがありませんでした。
ここにカインとアベルの心の姿勢の違いがあります。ささげ物の種類ではなく、神がこだわられたのはささげ方であり、そこに表された神への心の姿勢です。肉の心を中心に物事を考えると、毎週の献金だからと何も考えずに、事務的に習慣的にささげます。しかし、感謝する出来事があるとその金額も変わるはずです。それは普通のことではないでしょうか。一般的にもいつもより感謝するようなことが起きたら、誰でも相手に対して、いつも以上に感謝をしたくなるようにです。ここが大切なポイントです。カインは父に教えられた通りにささげました。しかし、アベルは父に聞いた神様の気持ちを大切にしてささげたのです。
カインはこう考えたのではないでしょうか。どうせ神様は最もいい物をささげても食べられるわけではないし、まして火で焼くなんてもったいないではないかと。肉欲を中心に考えていると、ルールに従ってさえいればいいではないか、そこまできまじめにこだわらなくてもいいではないか、もったいないとなってくるのです。さらにもう一つ特徴があります。カインはひどく怒り、顔を伏せたとあります。わがままで、どうにもならない子供のように、思い通りにならなかった時、怒りを表すのです。フンと顔を背けるのは、ひどい怒りの表現です。物事が自分の思い通りに行かなかったら怒るというのが、肉的に歩んでいる人のもう一つの特徴です。怒りがおさめられないのです。
もしアベルに神がささげ物を受け入れてくださらないということが起きたとしたらどうでしょうか。アベルは正しい良心で悲しみ、反省します。怒りません。
怒りは支配欲の表れであり、周りを従わせようとします。もしカインが反省していたら、神はそれを受け入れられたはずです。大切なのは心遣いです。各々が力に応じて最高の物を捧げることが、神への敬虔さの表現です。金額が問題ではありません。しかし、正しい良心で、最良のものを決めているかどうかが大切です。ここでカインの心とアベルの心が戦います。クリスチャンはこの葛藤が大変です。カインに殺されたアベルがイエス様のあがないの救いによって生き返り、カインと戦うからです。クリスチャンの心の中に起きるこういった葛藤は、正常な状態です。この戦いの中で心機一転をしないと、カインの心に押し切られてしまいます。そこで、自分がいのちと御霊の原理の中にいると気づかなければなりません。
(使徒行伝2:38)は最初の体験であり、クリスチャンはみないのちと御霊の原理の中にいます。原理の中にいるとは、努力によらず、自然に行えるということです。ゆだねていたら、そのことが自然にできるようになるのです。
それならなぜカインの心がまだ残されているのでしょうか。それはカインの心がアベルを育てるからです。しかしからだが贖われ、キリストの再臨の時はこの罪とも完全に切り離されるのです。それまではカインの心との戦いによってますます磨きをかけられ、すぐれた神の子となっていきます。希望を持ちましょう。そして心機一転によって、意志的に信仰を働かせましょう。
そのようにして、いのちと御霊の原理の中にいる自分を自覚して人生を見ていくなら、どのように失敗が多くても、希望を持ってあきらめずに心機一転してやり直すことができます。ささげ物とは、あなたの人生を指します。
心機一転し、アベルの心をもって、神の前に出ていきましょう。
 
2006/3/12日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)より 

 

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