聖霊のバプテスマへの入門4



 「恵みの雨」と「聖霊のバプテスマ」   

 

☆恵みの雨

(申命記28:12)主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。
 
(使徒14:17)とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。
 
神さまが雨を降らせてくださらなかったら、実は実らないのです。


☆雨の季節

(ヨハネ1:17)というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
 
雨は恵みです。そして神の雨の季節、霊的雨の時期は、イエス・キリストによって実現し、はじまったです。今、私たちは雨の季節にいます。

 
☆霊的恵みの雨

(エペソ1:7)私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
 
御子の血による贖い、罪のゆるしは神さまの恵みです。今、雨のように、神のゆるしが注がれているのです。この雨があるから、私たちは収穫でき、育てていくことができるのです。
 
(ヘブル10:29)まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
 
恵みの御霊もこの地上に降り注がれています。今は聖霊の働きがあります。聖霊の季節です。イエス・キリストの和解とゆるしがあったので、聖霊の季節が訪れたのです。
 
罪の赦しがあったので、御霊の働きも注がれています。人をゆるし自分をゆるす時、聖霊の働きが訪れます。和解が実らなければ聖霊の働きがないのです。ゆるしと聖霊の働きは表裏一体なのです。

 
☆雨が降るたびに変化がある

ゆるし + 聖霊の働き = 成長
 
雨が降ることで、耕作や種まきができ、成長や実りをもたらします。聖霊のバプテスマも同様です。
私たちが「ゆるしの雨」をうけとめて、神が自分をゆるされているから、自分も自分をゆるし人をゆるしていくことです。そうすることで、聖霊のバプテスマが与えられ、私たちに成長が与えられるのです。
  
  

              雨期/聖霊の季節
  
←←← 乾期 ← ミ      雨   期      マ → 乾期 →→→ 
         …先の雨…  …大 雨…  …後の雨…
          秋の雨    冬の雨    春の雨
           耕作  種まき        実り 収穫
 
         初臨               再臨
              (ヤコブ5:7)
 
イスラエルの季節には乾期と雨期があります。雨期は3つに分かれていて、「先の雨」(秋の雨)のとき、「大雨」(冬の雨)のとき、そして「後の雨」(春の雨)のときがあります。先の雨の時期に耕作や種まきをし、冬の雨をとおって、後の雨で実が結ばれて収穫をします。

先の雨でイエスさまが初臨されました。そして、ヨハネから洗礼をうけた時、御霊が鳩のように下り、聖霊のバプテスマをうけて、神様の働きが開始されました。雨の季節のはじまりです。それは終わりの時の再臨=収穫までつづきます。1900年初頭にアメリカのアズサストリートで聖霊の注ぎがありました。後の雨の始まりだと言われています。そして今、私たちは収穫の時に来ているのです。聖霊の雨の中で、穂に実が入る時です。実りとは、種であるみことばが成長すること、みことばを実行すること、行いにまで、外側にまで形が現れて実となることです。
 
神のゆるしの雨をうけながら、穂に実が入らない、何も変わらない、成長が与えられないのは悲しいことです。今は雨の季節だから、父の約束、聖霊のバプテスマは求めれば与えられるのです。私たちは聖霊のバプテスマを求めるより、他のことで自分が満たされるほうが手早いと考えていませんか?神様の目的は収穫です。ゆるしの雨の中で、ただ立っているだけでは、主が再臨された時に収穫されないで残されてしまいます。
 
信仰とは内側のきよめからはじまり、外にまで影響が及ぶものです。はっきりと分かるような形で、私たちは成長できるのです。穂に実は入ります。神様の恵みのゆるしを受け取り、私たちもゆるしあいましょう。そして、聖霊のバプテスマを求めてまいりましょう。


2009.5.28 JFHリバイバル集会 辻秀彦師メッセージ 
 
 

 
 

  


 
 

 
  
 
 

 

 

聖霊のバプテスマへの入門3



 主の証人のためのしるし   

 
C. 主の証人のためのしるし

(1)個人における主観的体験

聖霊のバプテスマを受けると尋常でない神の臨在を感じます。それは畏敬の念を伴います。


(2)他の人に対する明白なしるし

聖霊のバプテスマは、人を神の臨在へ、生き生きとした神の現実へ、神の栄光へと導くので、他の人が見て分かるほどの物理的な変化を引き起こします。
 

聖霊のバプテスマは、見聞きした人々に影響をあたえました。

使徒2:32 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

使徒2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

見えるところ、語ることに変化があります。
 
使徒6:15 議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。

第1テサロニケ1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
 
聖霊のバプテスマとは、神様の臨在の中におかれることです。だから、そこにおかれると、おかれた人々からきよらかな輝きが写し出されるのです。それは、「主が生きておられる」という証しです。
 
聖霊の注ぎによるビジョンは聖霊の注ぎによって実現されるのです。
 
私たちはビジョン達成のために努力をします。そして達成できることもあるでしょう。それは私たちの力です。確かに私たちの力を通して神さまの栄光を表せる部分もあるでしょう。しかし、それだけではありません。私たちの力以上のものが、聖霊の油注ぎによってなされていくことが大切です。

もし、成長してきたクリスチャンが、なおも世の中で得られなかった自分の達成感や自己満足のために、ただ教会に来ているのならば、教会は自己アピールの場になってしまいます。

私たちの正しい良心はきよい神さまのご臨在を求めているのです。私たちはキリストの証人として成長していくために召されているのです。
神さまのご臨在に満たされることよりも、別の多くのもので自分を満たして満足させていたことを悔い改めましょう。
主ご自身を求めていきましょう。
ひとりひとりに、神さまのきよいご臨在が訪れますように。


2009.5.21 JFHリバイバル集会 辻秀彦師メッセージ 
 
 

 
 

  


 
 

 
  
 
 

 

  

聖霊のバプテスマへの入門2



 聖霊の働きの区別   

 
A. 聖霊の働きの区別

(1)間接的御業(通常の御働き)

聖霊は私たちの知性を啓発し、理解を与えてくださいます。聖書に目を向けさせ、教師や説教者を用いられます。


(2)直接的御業(特別な御働き)

聖霊は私たちのからだをご自分のからだとして直接用いられます。また、リバイバルの状況において分かるように、尋常でない特別なかたちで活動されます。 

この二つの聖霊様の働きかけが私たちにあります。そして、聖霊のバプテスマは直接的御業といえます。

 

 

  

  聖霊に満たされる   

 
B. 聖霊に満たされる

(1)エペソ5:18

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

このみことばは聖化に関する聖霊の間接的御業のことで、もっぱら私たちの行いにかかっています。これは命令であり、奨励(忠告)のことばです。
 
あなたの意志にあわせて、あなたに聖霊が働かれます。あなたの許可を通して働かれるのです。


(2)ローマ8:15〜16

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 
「アバ、父」と「呼びます」これは、聖霊の直接の御業によって内側に込み上げてくる強烈な叫びを意味しています。

『アバ、父』と私たちが叫ぶのに対して、聖霊はこれを確証(証印)されます。直接的御業を私たちの内に行なわれます。

つまり、ひとりよがりではない感覚が内側に感じられるのです。
聖霊に満たされる、とは、直接的御霊の働きがあり、御霊の声を感じ、ことばとなる思いが与えられることです。聖霊の満たしは、いろいろな日常の場面でありうるのです。聖霊の満たしは、単なる感情的高揚以上のものです。

あなたはどのバプテスマを求めますか?
間接的御業の聖霊の働きを求めるならば、聖霊様はあなたの意志以上に働くことはありません。

世の終わりの時に、神さまは花嫁となる教会を建て上げようとされています。
また、世の終わりには、人間の力をこえた聖霊の助けが必要になります。自分の守りのためではなく、敵対する力に攻撃を加えるほどの力も必要なのです。そのためには、直接的御業の聖霊の働きの聖霊に満たしが必要です。

御霊を消してはいけませんと、聖書にしるされていますが、私たちは毎週の集会の中での神さまの臨在やみちびき、日常生活の中での聖霊様のみ声をどれだけ大切にしているでしょうか?その御声を無視したり、導きの中に入ろうとしないのであれば、私たちと神さまとの関係は一体どうなのでしょう?
 
神さまとあなたとの日ごとの関係をどれだけつかんでいるかが本当に大切になってきます。
神さまと心が一つになった関係になっていますか?自分の願いごとをただ一方的にぶつけるような関係は、神さまのおこころを無視して神さまの力を利用しているようなものです。
神さまのおこころを神さまに聞く前に知って、あなたが動く、そんな親密な関係になりたいですね。 
 

2009.5.7 JFHリバイバル集会 辻秀彦師メッセージ 
 
 

 
 

  


 
 

 
  
 
 

聖霊を受ける〜聖霊のバプテスマの入口〜1

 

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」 ヨハネ20:21〜23 

 聖霊のバプテスマの入口   

 
A. 主イエスの働きと聖霊の働き

(1)聖霊の働き
神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。 第1コリント12:3 
 
イエスは主であるといえるのは聖霊の働きです。信じる者の内には、すべて聖霊が宿っておられるのです。
クリスチャンになれるのは、聖霊が私たちの内側で働かれ、啓発、知識、理解力、信じる力を与えてくださるからなのです。

(2)主イエスの働き
 
私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』 ヨハネ1:33 

主イエスが聖霊を用いて私たちになされる御業が聖霊のバプテスマなのです。
聖霊のバプテスマは賜物として受けるとしるされています。(使徒2:38)賜物とは、与える側の意志が働きます。誰にいつ与えるかは、自動的ではなく、与える側の意志によるということなのです。
 

B. 救いの信仰を持つことと、救いの確信を持つこととは違う
  
(1)信仰を持つ
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 エペソ2:8

神さまはすべての人に救いを与えようとしておられます。だから、すべての人に信仰の賜物を与えています。神さまが一方的に、私たちが信じることができるように、信仰をも与えてくださったのです。これが聖霊の働きであり、今もすべての人に働いているのです。

信じることができるように、聖霊が働かれるのは、神さまから出たことです。 
 
(2)確信を持つ
またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。 エペソ1:13 
 
信じながらもなお、聖霊の証印が押された=確証が与えられた

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。 第1ペテロ1:8〜9
 
確信と、証印と証人とのつながりを使徒1:8から考えてみましょう。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 使徒1:8

救いは悔い改めて救い主を信じることによって自動的に与えられます。確信がなくても、信じているから救われているのです。それは内住の聖霊の働きによるのです。

しかし、この内住の聖霊とは違う、聖霊のバプテスマがあるのです。
それはあなたのためではなく、あなたの働きのために与えられるのです。その働きとは、証人となることです。

キリストを確信をもって、影響力を与えるほどに伝える力は聖霊のバプテスマ、働きのためのバプテスマから来るのです。

C.  聖霊のバプテスマは体験的なもの

(1)与えられるもの
ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」ルカ3:16
 
聖霊のバプテスマに関しては、私たちは受け身です。バプテスマを授けられるのは主イエスで、主はご自分のやり方でご自分の望まれた時にそれをなされるのです。

(2)よく確認できる
さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。使徒8:14〜19

上記の聖霊を受ける場面は一例であり、使徒の働きの書簡にいろいろな例がしるされています。
共通していえるのは、聖霊を受けた時、本人に確証がないとか、他の人が見ていてどうかなというようなものとは違う、はっきりとしたしるしがあるということです。

内住の聖霊の働きは私たちのきよめ、聖化です。
しかし、聖霊のバプテスマは働きのための力です。

働きのための力である聖霊のバプテスマを求めていきましょう。今、私たちに聖霊のバプテスマがあるのかと問う時、どうかな?とか、他の人が見ていてもはっきりしないのであれば、以前は受けたかもしれないのですが、再び聖霊を受け、力を受ける、今がその時です。キリストの証人となるためにです。私たちが世に出ていっても、力がなければ、キリストの証人として大胆に証しできません。広島が神に愛される平和の街となるために、神の平和が、キリストのすばらしさが広まっていくためには、力が必要なのです。広島エルサレムプランには聖霊のバプテスマが不可欠なのです。

聖霊を与えてくださるご意志はイエスさまにありますが、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊を与えてくださったそのペンテコステの祭りに聖霊を求めることは、大きくイエスさまが心を動かしてくださるはずなのです。まずは今年のペンテコステの祭り、5月31日に照準をあわせて求めていきましょう。

 

2009.4.30 JFHリバイバル集会 辻秀彦師メッセージ

 

 

 

 

 

 

 

 

  

ポジティブとネガティブ 掌上明珠の視点から

 

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。 ヤコブ4:1〜4 

 世を愛しているしるし  

 
上記ヤコブ書では何が原因で争いや戦いがあるといっていますか?

(1)欲望が原因で互いに争う。
(2)自分の思いどおりにならないと争う。
(3)自己中の楽しみという悪い動機。
 
神さまは私たちを『掌上明珠』、すなわち、非常に大切にされている人また、最も大切にしているものだと語ってくださっています。大事にされているからこそ、安全な場所に守ってくださるし、良くなってほしいという動機で、私たちに忠告を与えてくださいます。
 
快楽とは自分の欲を満たしたいということです。
現代人は五感から感じる欲求があたかも人格のある自分であるかのように錯覚して行動しています。明治、大正時代のような精神文化を重んじる頃とは違い、肌に感じ、五感にたよったバーチャルな自分に意識がいって、振り回されています。
 
私たちはその中で、いつの間にか自分を満足させたいという欲望に心がとらえられていませんか?そして、心の中で葛藤という争いをおこしたり、人と争ったり、また、自分の満足のための動機で行動していませんか?

聖書では、自己中心の楽しみを悪い動機といっています。この悪い動機を私たちはどうして認めることができないのですか?また、認めたくないのですか?それは、欲望があるからです。欲望にあやつられているのです。
 
神に敵していることから目を背けている。それが貞操のない世の友となることです。
自分は悪くない、自分は悪い動機は持っていないといっていませんか?気づいていないのではなく、少し知っているけれども、認めようとしないという心の動きをしていませんか?
 
欲望は御霊に反し、神さまのおこころに反します。偽りの自分を自分としないように、まずは自分の心を見据えましょう。

 
 『掌上明珠』の自分を大事に生きる  


---- 御霊をねたむほどに慕われている ---- 
 
それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」 ヤコブ4:6
 
これは、いかに神があなたを慕っているかという最高の表現です。自分はとるに足らない、ダメな弱い者であると自己評価をしたとしても、神さまの評価はあなたを宝だといってくださっているのです。自分の満足を求めなくても、つまり高い自己評価の自分になりたいと求めなくても、神はすでにあなたに満足してくださっているのです。

  
---- 神に従い、悪魔に立ち向かう ----
 
ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。 ヤコブ4:7

神さまの私たちへの評価は高いのですから、どんなに悪魔が私たちの弱さや罪をついてきても、ポジティブに神様に愛され、宝とされている者であると立つことができるのです。
敵である悪魔の前では、臆病になってはいけません。
おそれおののき、背を向けてはいけません。
堂々とたって、良いものを輝かせましょう。くじけてはいけません。あきらめてはいけません。
自己評価でどれだけ悲観的になっても、神はあなたを守ってくださり、宝物としてくださっているのですから、敵の前では、神さまの評価で出ていくのです。
ネガティブな自分を受け入れましょう。
あなたはネガティブでも、神の評価はポジティブであるのだと敵の前でポジティブに立つことができるのです。

 
 
---- 苦しみもだえて、主の前にへりくだる ----
 
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。 ヤコブ4:8〜10
 
私たちは神さまの前には罪人であり、ネガティブなものだと認めていくことが大切です。
救われた私たちの魂が、どうしてなお、この罪の宿る肉体の中に留まっているのでしょうか?
救われたのだから、すぐにこの肉体を離れ、天国で自由に過ごしたほうが、罪の力が及ばないので、どれほど楽ではありませんか?
肉体の中に救われた魂が留まっているのにも、訳があるのです。
それは、神の前にへりくだるため、それが魂のうちにしっかりと刻み込まれるためにです。

サタン、敵の前には、私たちは宝の民、神に愛されているものとしてポジティブだと認めます。
しかし、神の前には私たちは弱い、罪人であるとネガティブを認めるのです。
鉄が熱くされ、打たれたら、冷やされ、そのようにして精錬されていくように、私たちも敵の前でポジティブに進みでて熱くされ、また人から打たれ、そして神の前に進みでる時には罪人であるネガティブな自分を認めて冷やされていく。これが、私たちの精錬であり、きよめなのです。
 
この過程を多く通れば通るほど、私たちは強くなり、変えられていくのです。
ただ、この行程で大切なのは神さまの前にへりくだる、プライドを捨てて砕かれることです。
もしこの行程で、自分はダメなものだけれどもやり直そうと、プライドを持ったまま砕かれずに立ち上がる場合、また同じ失敗を繰り返すことになります。プライドを捨てて、砕かれて、神さまの悔い改めに甘んじていく姿勢が大切です。
悔い改めは恵みです。私たちがきよめられていく重要なポイントです。

神はさらに豊かな恵みを与えておられます。手を洗いきよめ、二心を清める悔い改めが自分を大事にすることです。

いつネガティブを、いつポジティブを効果的に用いるのか?苦しみ悶える時と、喜び感謝する時とをわきまえられるものになりましょう。悔い改めのめぐみを受け止めてまいりましょう。そして、神さまに愛されている自分を大事にしていきましょう。
 

 

2009.4.23 JFHリバイバル集会 辻秀彦師メッセージ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

ポジティブ生活 〜土崩瓦解〜

 

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」 ヨハネ11:25 

 信じる者は死んでも生きる  

 
信じる者は死んでも生きるとはどういうことなのでしょう。死んでも回復し、復活することを自分の生活、人生に当てはめて考えてみましょう。

(1)肉体の死後、永遠の神の国にはいる。
(2)死んだ人生でも、信じる者は生かされる。
(3)役に立たないからだでも、心が生きる。

 
 「死ぬ」ことの重要な意味  

 
なぜ、「死」があるのでしょう?天使の堕落により「死」をつくりだしたルシファーのせいでしょうか?なぜ、神は死を残されたのでしょうか?「死」はとてもネガティブです。しかし、神は、ネガティブをポジティブにすることができるお方なのです。信じる者は死んでも生きるのです。

(1)古き人の「土崩瓦解」
 
  ・ネガティブが崩壊する
  ・不敬虔が崩壊する
  ・自己中心が崩壊する

死ぬということをどのように理解していますか?死ぬとは、存在は残るが、役に立たない状態であるということです。古き人の存在があっても、すでに崩壊しているので役に立たない状態なのです。私たちが自己葛藤する時、すでに根底から崩れている古き人をみて、深刻になることはありません。形はあっても力はない古き人は、無視したらよいのです。「死」の状態になって復活、回復か訪れるのです。
 
(2)毎日が「土崩瓦解」
 
 一日たリとも同じ日はありません。神は、創造の初めから、一日という区切りをつけられました。いつも、全く違う新しい一日が待っています。昨日の続きではありません。今日一日が新しい一日であるととらえるのは、昨日は死んだととらえているのです。
 新しさを意識する時、死を意識することと同じなのです。毎日が新しい一日だと意識していきましょう。

 そして、十字架をおう毎日です。毎日、あなたも死ぬのです。そのとき、毎日が新しい自分となります。クリスチャン生活とは、毎日が復活、回復なのです。

 もともと人は神に似せて造られたので、ポジティブです。近年の脳の研究でも、人の前頭葉には、はじめから物事を前向きにとらえる楽観回路が備わっていると分かってきているのです。それなのにネガティブなのは、習慣によるのです。人はもともと根が明るいのです。
 毎日が死んでも生きる、復活と回復の中に生きていきましょう。
 イエスさまはあるべき自然の姿に私たちをとりもどしてくださいます。
 

 

2009.4.16 JFHリバイバル集会 辻秀彦師メッセージ
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ポジティブ生活 〜主についていく〜

 

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 
詩篇23:4 

ポジティブな羊飼いについていく時、私たちがどれだけネガティブでも大丈夫なのです。ついていきさえすれば、そして、羊飼いに私たち自身をおまかせすれば、私たちは羊飼いと同じようなポシティブな心に変えられていくのです。
それでも、ポジティブ生活になれないのならば、そこにどんな問題点があるのでしょうか。
 
(1)ついていきたくない
誰にでもついていきたくないという気持ちがおこります。ついていきたくない気持ちがダメなのではなく、ついていかせない力が働くから、ついていくかどうかと考え、ついていく意識を持つことが大切なのです。もし、何も問題がなく、逆の力が働かないのならば、自発的に主についていっているのかどうかが分かりません。この肉のうちに私たちがとどめられているのは、逆の力が働く環境におかれて、信仰が強くなるためでもあるといえるのです。
 
(2)今、欲求を満たしたい
欲求不満がおこるとストレスがたまり、反抗心がうまれます。今、満たしたいという心を強く持つと、今の環境に不平不満をもちます。つまりネガティブになるのです。今ではないことを受け入れることが大切です。ちょうどよい時に主は私たちの必要にこたえてくださる方であるという信頼を持ちましょう。
 
(3)関心が薄い
関心が薄いとは、心がつながっていないということです。しかし、関心がなくても、人格者として重要度をはかる必要があります。

ポシティブ生活、主についていく生活、それは魅力ある教会の姿です。魅力ある教会とは、魅力ある羊たちが育っている群れです。
魅力ある羊が育つところには、魅力ある羊飼いがおられるのです。魅力ある教会として成長するには魅力ある羊飼いについていくことが最も大切なのです。それは、聖霊に導かれることです。

 
みことばに働く聖霊様についていくことが大切です。みことばに光が差し込むとき、みことばが心にストンときたとき、それはみことばに働く聖霊様があなたをその入口で迎えてくださっているのです。みことばは門です。すべてのみことばは、神の国にはいっていく入口です。一つのみことばからイエスさまの部屋にはいっていくことができるのです。
 
みことばをくわしく知ることはイエスさまをくわしく知ることです。すべてのみことばは真理に達し、イエスさまに達するのです。聖霊様が導かれるみことばの入口から、みことばを学んでみましょう。ひとつのみことばから、例えば『愛』が示された時、『愛』の使われている聖書の箇所を書き出して、『愛』をいろいろな側面からみてみるのです。『愛』を立体的に深く知ることができるのです。その時、あなたは主のすばらしさにとらえられ、イエスさまの魅力にふれるのです。

 

2009.4.9 JFHリバイバル集会 辻秀彦師メッセージ

 

 

 

 

  

早朝のめぐみ 〜あなたも朝型人間に!〜

 

ことわざより、
「朝の一時は晩の二時に当たる」
「早起きは三文の得」
 
聖書より
「朝にあなたのめぐみを聞かせてください。
 私はあなたに信頼していますから。
 私に行くべき道を知らせてください。
 私のたましいはあなたを仰いでいますから。」
    旧約聖書 詩篇143:8より

また、詩篇23篇2節の「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」とあるのを、早朝と考えてみましょう。

朝からいやしと回復をうけ、輝きが与えられるならば、その一日はなんとすばらしいでしょうか。たましいのいやしと回復、また力は、霊の食物である聖書のことばをいただくことが大切です。

現在の日本社会の兆候として、朝型人間の増加傾向があるそうです。外朝族、席朝族のために朝だけメニュー、朝専用コーヒーなど、食品関係にも影響が現れているそうです。朝、習い事をする人も出てきているようです。

朝についての実態調査〜20代から30代のビジネスマン〜
(1)朝型になった人 42.9%
(2)夜型になった人 20.3%
(3)朝活用できている 33.3%
(4)これから朝を活用したい 43.3%

さらに、「朝型」に対するイメージは「できるビジネスマン」だそうです。

神さまはすべての人に早朝のめぐみを与えてくださいました。

早朝の時間を、わたしたちが神さまと交わる祈りの時、神さまのおことばを黙想するデボーションの時とするならば、どれだけ大きな力となることでしょうか。朝の時間、あなたはどのようにつかっていきますか?

 

2009.3.26 JFHリバイバル集会 辻秀彦師メッセージ

 

 

 

 

 

 

 

  
クリエイティブ(創造的)で、望みにあふれる人生

 
 

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。 ローマ15:13
 
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 詩篇23:3
 


 主は望みの神 

   
 私たちは、落胆と失望におちいり、死んだ状態のようになることがあります。そのような状態になると、自分はダメな人間なのだとレッテルをはってしまう、否定的な習慣がついてしまっていませんか?
 死んだ状態、火がきえかかった状態であっても、それがダメなのではありません。誰でも心の上り下がり、人生においての良い時、悪い時はあります。
 
 大切なのは、羊飼いは羊にとって明日への希望だということです。私たちのたましいはいやされるのです。私たちの羊飼いは死んだ状態の時に望みをもたらせてくださる、望みの神です。
 
 あなたはどのような明日への希望を抱いていますか?自分ひとりで悩んでいませんか?
 たとえ今日、悪い方向にいったとしても、羊飼いについていく限り、羊である私たちをいきかえらせ、治療してくださいます。

  信仰による日々の満たし 

 羊飼いについていく羊にはとぼしいことがないとは、どういうことでしょう?
 今日という一日は、羊にとって緑の牧場、いこいの水のほとりです
 
 私たちの口から愚痴不平が出てくるのはどうしてでしょう?自分の願っているものが満たされていないと思って、主観で判断していませんか?
 羊飼いは、今日、羊に必要なものすべてを与える方です。
 日々、どのように主についていっていますか?

  義の道に導かれる 

 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 ローマ8:14

 聖霊に導かれる人は神の子どもです。義の道を歩むのは神の子どもたちです。私たちが造られた目的にそって生きることが義の道を歩むことです。
 聖霊の導きを体得できていますか?
 正しい良心のうちに語られる神のおことばを啓示していただけるよう、聖霊様との関係を大切にしましょう。聖霊様は人格をもたれていますから、一遍通りの導き方をされる方でありません。いろいろなかたちで導きを与えてくださいます。仕事をしている時、家事をしている時、勉強をしている時、散歩をしている時、何をしていても導きを感じることができるようになりたいですね。

 聖霊の力による望み 

 存在の目的=義=聖霊の創造の力 

 
聖霊様とのかかわりの中で、あなた自身が創造的に生きることができるのです。あなたらしい一日が造り出されるのです。creaiveな毎日があなたの前にあります。日々新しく創造され、あなたらしくされていく、そのような聖霊様との関係を大切にしましょう。

 存在の目的に従って人生を創造的に導かれる聖霊様、その聖霊様にどう反応し、応答したかを記録しておくと、自分を吟味し、導きに対しての良かった点悪かった点を振り返ることができます。

 死灰復燃のビジョン 

 ビジョンはあなたの義の道です。聖霊の力によって創造的にビジョンが進んでいくよう、望みにあふれさせてくださるために、主は、たましいを生き返らせてくださいます。全能者の気高い聖なる名にかけて成し遂げてくださるのです。  
 
 望みにあふれて喜んでビジョンに向かって歩めるよう、あなたらしい創造的な毎日を歩めるよう、聖霊様に導かれることを体得しましょう。そのために、聖霊様との関係を築く祈りを大切にしましょう。

  

2009.4.2 JFHリバイバル集会 辻秀彦師メッセージ