模範になること 

 

年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。 第1テモテ4:12

  
 ここでは、若いテモテ対してにパウロが模範になりなさいと記されています。
 模範とはお手本ということです。
 
 みなさんには、模範とする人がいますか?どんな人が模範ですか?
 私たちは、誰かをお手本として、その目標に向かって努力することができます。

 しかし、聖書のこの箇所では、「模範になりなさい」といっています。誰かがあなたを見て、あなたのようになりたいと思われる存在になりなさいといっているのです。

「あなたのようになりたいのです!」
 と思っている人たちのために、自分を磨く努力したいですか?
 それとも、
「あの人のようになりたい!」
 と思って、自分を磨く努力したいですか?
 
 この二つの努力は、何がどう違うのでしょう?
 もし、あの人のようになりたいと思って努力するのならば、それはあなたの願いです。だから、くじけやすいかもしれません。
 でも、「あなたのようになりたい」と思ってくれている人のために努力するのならば、あなたがくじけたら、あなたを理想としている人の人生にまで影響を与えることになります。そうすると、あなたはそう簡単に努力を放棄できません。確かに、プレッシャーはありますが、自分の思っている以上のよい結果を得ることもできるのです。誰でも、自分のために物事にとりくむ時には、限界があります。しかし、人のためにと思ってそれにチャレンジする時、その限界が打ち破られます。
 人は皆誰でもだれかのために生きるという、本来の性質をもっています。それは、神さまのもっておられる性質と同じです。
 
 誰かを模範とするのも素晴らしいことです。それにくわえて、あなた自身も誰かの模範となリ、また、あなたを模範とする人々に希望を与える存在として、自分を磨いていきましょう。
 

 

 2009.5.28 JFH チャーチスクール 辻 秀彦師メッセージ
 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 人に喜ばれること 

 

このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。ローマ14:18
 


クリスチャンは神さまに喜ばれることを自然に考えますが、人に認められ、喜ばれることを強調しないかもしれません。

人に認められることを求める時、自分を喜ばせようという動機が働いてしまうことがあります。だから、人に認められ、喜ばれること自体が悪いことのように感じて、それを遠ざけてしまっているのかもしれません。

血管外科医の大木教授は、困難でリスクが高いにもかかわらず、それによって人々のいのちを助ける最先端の手術を担当しています。出勤は朝の6時、昼休憩もせず、深夜まで働きづめ。空腹感の中で集中するように自分を鍛え、年に800回手術をします。

なぜ彼はそのような緊張感と困難の多い仕事を繰り返し続けることができるのでしょう?

「世界で一番、人を喜ばせる仕事をしたい。」

すべてがこの動機。患者さんの身内の方から「私の大切なお父さんをお願いします。」「私の妻のいのちを助けてください。」と頼まれる。そして、それに応え、喜ばれ、「ありがとう」と感謝されること。それが大木教授の生きがいだそうです。それがなかったら、こんな仕事はできないそうです。
 
人の喜ぶ顔を見たい。これは、人としての生きがいです。神さまは私たちを「隣人を愛する」ように創ってくださっているのです。そして、大木教授のように、自分の体力、時間、精神力などをすり減らしてでも、一途に人を喜ばせたいために努力を重ねていく姿は本当に魅力的です。
 
大木教授が血管外科を選んだ頃、日本には、その治療を必要とする患者が少ない時代でした。そのため、彼は自費でアメリカに行き、大学で無料で研究をさせていただく道を選びました。しかし、当時のアメリカの血管外科分野はエリート中のエリートだったので彼は相手にされず、研究実験用の動物の世話の仕事しかあたえられずに、手術にも立ち会うこともできない状況だったそうです。
しかし、彼はその中で、自分の仕事が終わった後、研究室に残り、手術に使用する器具の改良を自分なりに研究し、試作していたのです。それをたまたま見つけた教授が「彼は天才だ。」といい、彼のその技術が生かされていくのです。

大木教授でさえ、初めから人を喜ばせる仕事が順調にできた訳ではありません。行き詰まりや困難さはあったのです。でも、行き詰まった時に、あきらめないで努力をし、道を探し出すことができたのです。
 
私たちも、人に喜ばれることをしたいという動機を大切にしましょう。そして、壁にぶつかる時に、あきらめないで、目標に向かって前に進んでいきましょう。私たちのうちに大きな強い動機があり、その目標に向かって進んでいくとき、隠れた能力が引き出されていきます。
 
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。エペソ5:10
 
私たちがどういう喜びを求めているかも吟味しましょう。相手に喜ばれることでも、相手の思い通りになって喜ばれることと、相手の困っていることを助けることとでは、動機も、そこからうまれる結果もずいぶん違ってきます。

相手の思い通りになって喜ばれるのは、相手に好かれたい、嫌われたくないという、自分を喜ばせる動機があるのでしょう。でも、困っている人に助けを与えることは、人間本来の正しい心から出てくる欲求です。私たちが無意識に行動する時、心のどこかに罪の力が働き、自分中心な動機で動いていることが多いかもしれません。どういう喜びを求めているのかを見分けましょう。私たちには選びとる自由があたえられています。

 

 2009.5.21 JFH チャーチスクール 辻 秀彦師メッセージ
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 勤勉さのすばらしさ 

 
勉強は、良い点数をとるためにしているのでしょうか?
成績をよくするための勉強ではなく、学んだことが役に立つように勉強していけたらいいですね。

勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。箴言21:5
 

勤勉さは利益をもたらすということです。勤勉さがあると、利益につながり、役に立つということです。
自分の学んだことが役立つために、勤勉さが必要だということです。

役立つために、成功を求めることは大切です。しかし、失敗もあります。失敗してはいけないのでしょうか?
 
良い点数をとることを基準にしていたら、悪い点数は失敗です。しかし、利益をもたらし、役に立つことを基準にしていたのならば、悪い点でもいい点でも問題はありません。益になるなら、役に立つのならば、成功しても失敗してもいいのです。

ここで、大切なのは、失敗も、成功も、役に立つようにプラスになるように考えることです。
どのような時にも、役立つようにプラスに考えることが勤勉さなのです

私たちが何かを直そうとする時、例えば集中力のなさを直そうとする時、なんとか集中力をつけようと考えます。つまり、ないものをあるものにしようと試みるのです。これも一つの直し方です。

しかし、ないものをあるものにしなくても、ないまま、すなわち状況はそのままでとらえ方を変えるという直し方もあるのです。

集中力のなさ、中途半端さ、そのような自分の欠点と思っている性質を、どう役立つために用いることができるかと考えることも勤勉さなのです。

勤勉な人の計画、それは、いかに役立つように変えていくことができるかと考えていくことこそ私たちに利益をもたらすのです。

神さまは私たちの心に勤勉さという性質をおいてくださいました。
そして、この大自然を私たちにつくって与えてくださいました。
勤勉さと材料があれば、私たちは神さまの子どもなので、創造力をもって、いろいろなものをつくり出していけるのです。
飛行機も、地球の素材とさまざまな原則(ジェット気流、抵抗等)を用いて、いかに空を飛ぶかという利益をもたらすように工夫研究し、すなわちその勤勉さから、生まれてきたのです。人間がつくり出したさまざまなもの、それはすべて役に立つためにという、勤勉さから生まれてきたと考えるとおもしろいでしょう!

利益をもたらす勤勉さを大切にいかしていきましょう。

 

 2009.4.30 JFH チャーチスクール 辻 秀彦師メッセージ

 

 

 

 

 

 

 

 

 どんな人になりたいですか? 

 
みなさんは、どんな人になりたいですか?
自分がなりたい人間になるために、それを生かすことのできる仕事を探すのも、若い人々に与えられているチャンスです。
どういう人間になりたいか、というところから、自分の将来を考えていくことは大切です。

人の役に立つ人、困っている人や苦しんでいる人を助ける人、おもしろい人、立派な人、正義感のある人、優しい人など…
私たちにはいろんななりたい『人』の姿を持っていて、無意識にその方向に向かっています。

その中で、クリスチャンにはなりたい『人』の共通のポイントがあります。
それは、『良い行いをする人』です。

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。エペソ2:10
 

たとえおもしろい人になっても、誰かをひきさげたり、傷つけて人を楽しませていたら、そこに良い行いはありません。弱い人を助ける人でも、奪い取った物を与えて助けていては、良い行いではないのです。
 
私たちのいのちは、自分の思いどおり、好き勝手に生きるためにあるのではありません。良い行いができるように、キリストの十字架のいのちの犠牲によって罪が赦され、救いと義が与えられているのです。「義」とは本来あるべき姿です。本来あるべき神さまの作品、神さまの子どもとして良い行いをするようにすべてのものが備えられているのです。

私たちは、そんないのちをついつい自分勝手に生きているかもしれません。悔い改める心が残されていることに感謝しましょう。悔い改めて、正しく生きようとする心は、良くなろうという気持ちがあり、チャンスがあり、自由があるのです。

もし、知識では分かっていても、自分勝手をやめられない、やめたくない、どうしてやめなくてはいけないのか、と思うのならば、その心は、サタンに染まり、悪に縛られてしまっています。それは悪に染まってしまっているのです。悲しいことです。心を変えることができない状態になってしまっているのです。

『良い行いをする人』となるために、それが妨げられないために、チャーチスクールがありホームスクールがあります。この土台をつくることはとても大事です。そして、人生の土台は20才ぐらいまでで決まってくるのです。
 
どんな良いことをしていけるだろうかと、さまざまな勉強に取り組むことが大切です。国語、数学、理科、社会、英語、美術、技術、体育などさまざまな分野の扉を開いておくことが大切です。私たちには能力が与えられています。チャレンジしてやってみるかどうかが大切です。

そして、一つの分野が開かれてきたら、その分野に関してのさまざまな角度からの勉強のアプローチにより、ひらめきや想像力がつきます。そのひらめき、想像力は、将来の人生の家を建てる時の大きな支えとなります。私たちは勉強が嫌いだ、いやだとその開かれる扉を開こうとしていないかもしれません。あなたのうちの力が閉ざされたままになってしまうのはもったいないことです。

若い頃、嫌な物、嫌いで苦手な物に出くわすと、それをやめる、脳の活動を停止する、眠たくなるなどの習慣をつけてしまうと、その土台をなかなか取りのけにくくなり、社会に出た時に、仕事を簡単に変えられなかったり、苦しい状態に出くわす時に、そこをクリアーできなくなり苦しむことになります。今こそ、人生の土台をつくる時です。『良い行いをする人』となるために、いろいろな分野の扉を開き、学んでいってみましょう。好きな分野ができたらどんどんそれを伸ばして、ひらめきや想像力をつくっていきましょう。苦手な分野は、辛くても、それをすこしずつ乗り切ることをしましょう。ゆっくりでもいいのです。続けていくことで、好きになったり、何かのきっかけで乗り切る体験ができるはずです。

あなたは、どんな人になりたいですか?
今がチャンスの時です。

 

 2009.4.23 JFH チャーチスクール 辻 秀彦師メッセージ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 親から叱られる時… 

 
みなさんは、親から懲らしめられていますか(叱られていますか)?
親は子どもを助けたいと思い、愛する子どもを懲らしめます。
目標からそれているとき、罪、滅びにむかっているときに、懲らしめを受けるのです。
でも実は、それが慰めであり、力づけなのです。
 
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
詩篇23:4
 
わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。
主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、
むちを加えられるからである。
ヘブル12;5〜6
 

詩篇23:4から、「むち」は「なぐさめ」であり、ヘブル書では、「むち」は「懲らしめ」のことだと読み取れます。

みなさんは親から懲らしめを受けて(叱られて)、反抗していませんか?
なぜ、反抗するのでしょうか?

自分の子どもが、今から泥棒をしにいく友だちについていこうとする時に、叱らない親がいるでしょうか?
その時に、叱られるのを嫌う子どもは、『罪』を自分の親としているのです。
あなたの親が、あなたにむかって、
「どうしてゲームを止めるんだ!勉強なんかするな!ゲームをやり続けなさい!」
といったら、どうしますか?
 
『罪』は禁止されると、やりたくなるように働く性質があります。
あなたの心が『罪』にむかっているとき、懲らしめを、やりたいことを禁止されているように受け止めるのは、あなたの肉にやめたくない罪の力が働き、反抗心が生まれ、離れたくないという偽りの心を自分の気持ちとするからです。
 
懲らしめの『懲』という漢字は『徴』と『心』から成り立っています。
『徴』には、しるし、証拠として召し出すという意味が含まれています。
つまり、『心にしるし、証拠を残す』という意味があるのです。
懲らしめは心にしるし、証拠を残すことです。
 
親からの懲らしめに「放っといて!うるさい」というのならば、あなたを愛してあなたのために助けを与えたいと思っている親との関係を切りたいと言っていることになってしまうのです。
 
あなたにとって、むちはなぐさめであり、助けを受けるものであることを、わすれないようにしましょう。その懲らしめを心にしるしましょう。そして、懲らしめを受ける時に、かしこく受け止められるようになっていきましょう。
 

 

 2009.4.9 JFH チャーチスクール 辻 秀彦師メッセージ

 

 

  

 

 

 

 

 バランス生活 

〜ばかりしていないで…しなさい

といわれたことがありませんか?

バランスがとれた生活をするように知恵を与えることばです。
遊んでばかりでも、勉強ばかりでも、バランスはとれません。
 
バランスをとれる位置があります。それを探し出すことが大切です。
 
バランスをとるためによく考えてみましょう。そして実際に実験することが大事です。
実験する時にたくさんの失敗をするでしょう。
失敗が多いほど、かしこくなります。
 
ただ、同じ失敗を繰り返すことでかしこくなるのではありません。
勉強と遊びのバランスがとれないからといって、いつも同じだけ遊び続けるのは、同じ失敗の繰り返しです。
同じだけ遊び続けるのではなく、遊ぶ時間を増やしたり、減らしたり、遊ぶ時間帯を変化させたりなど、どうしたらバランスがとれるかをためすのならば、よく考えて、実験することになります。
違う失敗をしましょう。
 
多くの失敗を通して、バランスのある生活をしましょう。
 

 

 2009.4.7 JFH チャーチスクール 辻 秀彦師メッセージ