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■2026年5月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
父なる神の約束 up 2026.5.24
主題聖句(使徒1:4)
彼らといっしょにいるときイエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
本文はしばらくお待ちください。( - _ - )

■2026年5月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
正しい良心の重要性 up 2026.5.17
主題聖句(第1ペテロ3:21)
そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。
前回、「解放と自由」を意味する≪ヨベルとペンテコステ≫についてのお話を致しました。
また、(ローマ8:2)から、御霊による働きによって私たちは罪と死の原理から解放され自由にされる、ということについてもお話し致しました。
私たちはイエス・キリストを信じる迄は欲望の奴隷でありましたが、キリストを信じてからは、聖霊様によって聖いいのちが与えられたので、肉の行い・自己中心・不敬虔などの罪から自由になることが出来ます。
今日は(Ⅰペテロ3:21)から≪正しい良心の重要性≫についてのお話をしたいと思います。
(Ⅰペテロ3:21)
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」
*「そのこと」
旧約聖書にある「ノアの箱舟」の出来事のことです。
地上に悪が満ちたために神様は大洪水によって世界を裁こうと思われました。
その時、ノアだけが神の前に敬虔な心をもっていたので、神様はノアに語りかけて舟を造らせ、ノアとその家族は神様のおことばに従って箱舟に入り、大洪水から救われたという出来事です。
*「バプテスマ」
水の中に浸され、水から上がるバプテスマ(洗礼)によって、私たちはイエス・キリストの死と葬りと復活に合わせられます。私たちの罪を負って死んで、よみがえられたイエス様に、私たちは合わせられて一つとされて、私たちも死んで新しく神の子としてのいのちを受けて新しい人生を再出発するというのが、バプテスマの意味するところです。
*「肉体の汚れ」
私たちの中に宿っている罪のことです。
アダムとエバが罪を犯してから、人類には罪が宿るようになりました。本来は健全な筈の欲求が、罪の働きによって、自制できない「貪欲」となり、私たちはその奴隷となって罪を犯してしまうのです。
*「正しい良心の神への誓い」
バプテスマは、「肉体の汚れ(→罪)」を取り除くものではありません。バプテスマは、正しい良心の神への誓い、すなわち神を愛し敬う敬虔な神の子としての人生を望み願う決心・決意を表明するものです。
*「イエス・キリストの復活による」
実際に、その願いを実現してくださるのは聖霊様です。その聖霊様が私たちの内に送られるためには、私たちの罪が処分されることが必要です。
そのためにイエス様は十字架で、私たちの受けるべき罪の裁きを身代わりに受けて死んでくださいました。
イエス様ご自身は罪のない正しいお方でしたので、父なる神様はイエス様を死んだままにはされないで、死からよみがえらされました。
イエス様の死と復活は、イエス様には罪がなかったという証明であり、それは信じる者たちの罪の赦しのために有効で、正しい良心の神への誓いを全うすることが出来るということを示しています。
更に、イエス様を信じる者たちの内に聖霊様が来られたということは、神様が私たちの罪を赦してくださったという、私たちにも実感できる明らかな証しです。聖霊様を受けるということは、罪が赦されているという神さまからの応答なのです。
私たちの意思表示は水のバプテスマです。正しい良心による信仰の告白、キリストを畏れ敬う敬虔な心、その心を持ち続ける決心の表明として、私たちは水のバプテスマを受けます。
そして神様はイエス様の十字架を通して私たちに罪は無いと認めてくださり、そのしるしとして、聖霊様を私たちに送ってくださいます。聖霊様はこの肉体に宿り、罪の力を制する働きを与えてくださるのです。
◉正しい良心の重要性
(Ⅰテモテ1:19)
「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。」
ノアの箱舟は神のさばきからの救いの象徴です。箱舟は神への正しい良心を示しています。箱舟が壊れると大洪水の中で舟は沈没してしまうように、正しい良心を捨てると、神のさばきを受けて滅んでしまいます。
だから、正しい良心を捨ててはいけないと、パウロ先生は弟子たちに教えているのです。
◉良心をきよめるのは、神の愛による
(へブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
創造主なる神を敬わない人の良心を、汚れた良心と言います。汚れた良心は、神の愛を知ることによってきよめられます。
「イエス様のお捧げになったその血」とは、わたしたちを罪による滅びから救い出したい、という神さまの愛のお心です。神様の愛に触れなければ人の心は変わりません。
神様がどれほど私たちを愛してくださっているかを知れば知るほど、私たちの良心はきよくなっていきます。神を敬う心が生じます。そして神様に愛されている者として、神様の愛に正しく応答したいという気持ちが生まれてきます。
◉正しい良心に留まるために、毎日心がけて頂きたいこと
(Ⅰテサロニケ5:16∼18)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」
①神の愛の箱舟の中で守られているから、いつも喜ぶ。
神様の愛とあわれみによって箱舟に入り救われたノアたちのように、今は、わたし達もイエス・キリストという神の愛の箱舟の中に留まっています。神のさばきの日がいつ来ようとも、箱舟の中に居さえすれば安心です。
しかし私たちは、箱舟に留まり続けることを喜びと出来るでしょうか。箱舟の外で自由に振舞いたいという誘惑に勝てるでしょうか。
必ずやってくる神様の裁きから、私たちは救われているのです。神様から約束を頂いているのです。その確信を持って、いつも喜べるようでありましょう。
②キリストへの敬虔な心を意識するための祈り
世に神々はいっぱいあふれています。しかし、私たちは救い主イエス・キリストの名によって、天地を造られた創造主なる神様に祈ります。場所や状況は関係ありません。
いつ、どこであっても、祈り心をもって神様を意識できるようでありましょう。
③すべてのことは、永遠の救いに至るためであることを感謝する。
地上での違反による罰も裁きも、隠したり逃げたりせずに、受けるべきは受け、償うべきは償うべきです。
困難、災難、苦しみ、試練、すべては天にある永遠の救いに至るためであることを感謝して、試され、磨かれて参りましょう。

■2026年5月10日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
開き続ける教会 up 2026.5.10
主題聖句(使徒2:42〜45)
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
先週は、「閉じない」というとてもシンプルなことをお話ししました。聖霊を待つのではなく、すでに共におられる方に心を開く。分からなくても、閉じない。とてもシンプルなことですが、実はこれが一番難しいのかもしれません。
今日はその続きとして、「開く」ということが、一度のことではなく、どのように続いていくのか。
「開き続ける教会」とは何かを、共に見ていきたいと思います。
今日の主題聖句には、聖霊が与えられた後の教会の姿が描かれています。私たちはつい、ペンテコステというと、激しい風のような音や炎のような舌、異言、そういった“出来事”に目を向けがちです。しかし聖書は、それ以上に大切なこととして、「その後、教会がどうなったか」を記しています。彼らは、使徒たちの教えにとどまり、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていました。とてもシンプルです。むしろ、地味に見えるかもしれません。
しかし、その中に一つ、非常に重要な言葉があります。 43節です。「すべての人に恐れが生じた」この恐れは、何かに怯えるような恐怖ではありません。
これは、神が本当におられる、神がここで働いておられるということに触れたときに生まれる、「畏れ」です。
言い換えるなら、「自分中心ではいられなくなる感覚」です。
それまで、自分の考え、自分のペース、自分の都合で動いていた人たちが、神が中心であるという現実に触れるとき、自然と姿勢が変わっていきます。私たちは、放っておくと、自分のペース、自分の考え、自分の都合に戻っていきます。
では、初代教会の人たちはなぜ違ったのでしょうか。それが、この「恐れ(畏れ)」です。神が本当におられる。神が中心である。その現実に触れたとき、人は変わります。
自分が中心ではなくなるのです。そして人々に神への畏れが生じるときに、「神の介入」が起こるのです。
続きにはこう書かれています。「多くの不思議としるしが行われた」これらはある条件のもとで起きています。それは、人々の中に「神への畏れ」があったときです。
神を畏れるとき、神が働かれる余地が生まれるのです。
逆に言えば、自分が中心でいるとき、神の働く余白がなくなってしまう。だから私たちは、何かを起こそうとするのではなく、神が働かれる余白を持つことが大切です。これが、「開き続ける」ということです。
そしてその結果、何が起きたのか。44節です。「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有していた」
この共有は、単なる制度や「そうしなければならない」と決められたルールでもありません。心が変えられた結果として、自然に起きたことです。神を畏れるとき、人は自分を握りしめることができなくなります。だから、持っているものを分かち合う。当時は、実際に物質的な共有が行われていました。
では、今の私たちにとっての共有とは何でしょうか。それは、物だけではありません。時間であったり、労力や賜物、心だったりします。言い換えるなら、「人生を分かち合うこと」です。しかしこれは、簡単なことではありません。なぜなら、私たちはすぐに自分中心に戻るからです。だからこそ必要なのが、『聖霊の働き』です。
努力だけでは続かない。意思だけでは変わらない。でも、聖霊が働かれるとき、人は変えられます。
神を畏れるとき、神が働かれ、人が一つになる。これが、開き続ける教会の姿です。
私たちの教会は、賛美と交わりを大切にしてきました。でもその中心にあったのは、神が本当におられるという実感だったはずです。
もしそれが薄れてしまうなら、賛美は形式になり、交わりは活動になってしまいます。だから私たちは、何かを変えようとするのではなく、常に思い出していたいのです。神が中心であること、神が働かれること、人が一つとなれることを。
ペンテコステが近づいています。私たちは、あの出来事を再現しようとしているのではありません。あのとき始まった教会の姿に、立ち返ろうとしているのです。そして、もう一度そこに立つことを選ぶ日です。これが、聖霊に対して開かれ続けている教会です。
私たちは、何か特別なことを起こすために準備するのではなく、 神に対して開かれたまま、その日を迎えたいと思います。そして、神が何をなさるかは、神に委ねます。

■2026年5月3日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
開いて迎える教会 up 2026.5.3
主題聖句(使徒1:4〜5)
使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
ペンテコステが近づいてくるこの時期、教会の中で「聖霊」というテーマが語られることが多くなりますが、
今日は、「何が起きるのか」ではなく、「私たちはどう神に向き合うのか」そこに目を向けていきたいと思います。
(使徒1:4–5)
使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」
イエス様は弟子たちにこう言われました。「エルサレムを離れないで、父の約束を待ちなさい」これは提案でなく命令であり、方向を示された言葉でした。
しかし、この時の弟子たちは、すべてを理解していたわけではありません。それでも彼らは、エルサレムにとどまりました。
ここに一つの大切な姿があります。それは、「理解していたから従った」のではなく、「信じたからとどまった」
という姿です。
ここで、私たちにとってとても大切な整理をしたいと思います。弟子たちは、「これから与えられる約束」を待っていましたが、私たちは、すでに聖霊が与えられている時代に生きています。
神様はすでに、私たちに助け主なる聖霊と送ってくださり、私たちの内に住んでくださっています。
ですから、私たちは「聖霊を待つ」のではなく、「聖霊に対して、自分を開くこと」をすることが大切です。これが、今の私たちにとっての「待つ」にあたる姿です。
私たちは時に、自分の理解で神様を測ろうとします。
しかし、気づかないうちに心を閉じてしまうことがあります。だからこそ、今問われているのはこうだと思います。
私たちは、「何かが起きるのを期待する教会」なのか。
それとも、「聖霊に対して開かれている教会」なのか。これは、とても大きな違いです。何かが起きることを求めると、起きなければ失望します。期待通りでなければ戸惑います。
しかし、聖霊に対して開かれているなら、どんな時でも、聖霊との関係は続いていきます。
今日、私たちにできることは、とてもシンプルです。すべてを理解することではなく、完璧になることでもありません。
ただ一つ、「閉じない」ことです。分からなくて、不安があっても、閉じなければ、聖霊は必ず働かれます。
ペンテコステに向けて、何かを起こそうとするのではなく、私たち自身が、聖霊に対して開かれた教会でありたいです。すでに共におられる方に、もう一度、心を開きましょう。

■2026年4月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
御霊による自由 up 2026.4.26
主題聖句(第2コリント3:17)
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちの罪のためにいのちを捨ててくださり、私たちを義とするために三日目によみがえってくださった救い主イエス様を、信頼し感謝し従っていく、その心を持った人の内に賜物として聖霊が与えられる、ということが使徒行伝2章38節に記されています。
それは神様の約束ですから、どうすれば聖霊様が来てくださるのかと考えるのではなく、すでに賜物として聖霊様が私たちの内におられて、私たちの内に7つの働きかけ(前回までのメッセージ参照)をしてくださっているのだと、素直に信じて応答することが大事です。
今日は、主題聖句(Ⅱコリント3:17)の「主の御霊のあるところには自由があります」という「自由」について、聖書から見ていきたいと思います。
★旧約聖書のヨベルの年
(レビ25:10)
「あなたがたは第50年目を聖別し、国中のすべての住民に開放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰る、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。」
旧約聖書では50年に一度、「ヨベルの年」(大安息の年)がやって来ます。レビ記25章に記されていますが、「すべてを元に戻す」という意味で、全ての負債、土地も奴隷も借金も、50年目に全部赦されて、負債のない元の状態に戻されるという「解放の年」です。
元の状態というのは、モーセによってエジプトを出たイスラエルの民が、ヨシュアによって導かれたパレスチナの土地を、12部族に分割分配された時の最初のかたちです。
★新約聖書のペンテコステの日(聖霊降臨)
(Ⅱコリント3:17)
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」
旧約聖書のヨベルの年(大安息年)は、50年毎に全負債が赦されて、元の自由な姿に戻れる年でした。
新約聖書では、イエス様が復活されて50日目の日に、聖霊様が地上に来られて私たちと共に住まわれるという、聖霊降臨の出来事が起きました。
私たちが罪赦されて罪の束縛から解放されて立ち返る元の姿とは、神の似姿です。罪を犯したために神の似姿を失って罪の奴隷となっていましたが、聖霊様の働きによって自由にされ、あるべき姿に立ち戻ることが出来るのです。
解放され自由にされ、あるべき姿に立ち戻る、そういう意味が、ペンテコステとヨベルの年、どちらも「50」と言う数字で繋がっています。御霊にある自由と安息を、皆さんもぜひ味わって頂きたいと思います。
◉肉の行い・自己中心・不敬虔からの解放
(ガラテヤ5:19〜21)
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」
たとえイエス様を信じて洗礼を受けても、その後の人生がこのような罪に浸ったままで一生を終えるとしたら、そういう人は神の国に入ることはできないと、厳しく忠告されています。
私たちは神の国の相続人として、この地上の人生においては試みられ、鍛えられ、磨かれ、きよめられて、そして天に引き挙げられていくことを神様はご計画しておられます。
父なる神様を畏れ敬い続け、イエス様を信じ従い続け、そして御国に入って報われることを目指して頂きたいと思います。
◉御霊の自由を得るために正しい良心の重要性
(Ⅰテモテ1:19)
「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。」
神を畏れ敬う正しい良心を捨ててしまう時、信仰という船は、座礁し破損し、時には沈没してしまいます。
最後の目的地に至るまで、破損したらすぐ修理して(悔い改めて)、正しい良心を働かせ続けて人生を航海することが必要です。
◉良心のきよめ【正しい良心】
(へブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
良心のきよめがなければ、私たちの神への信仰は、願い事ばかりの自己中心なご利益宗教になってしまいます。
私たちを贖うために、イエス様が十字架でいのちを投げ出してくださった、この意味が分からないと、良心がきよめられたとは言えません。悔い改めることも出来ません。
自分の心の内をよく吟味して、自己中心になっていないか、不敬虔になっていないか、神様より人の目を気にしていないか、神様への思いが弱っていないか、自分の心を見張り守ることが必要です。
(へブル9:14)に書かれてある通り、良心がきよめられなければ、生ける神に仕える者にはなれません。良心のきよめが不十分だと、そのうち聖書も読まなくなり、祈らなくなり、クリスチャンとの交わりもしなくなり、教会にも行かなくなります。
私たちの良心がきよめられるのは、「キリストの血」によってだけです。罪ある私たちを永遠のさばきから救い出したいという神の愛と憐れみを象徴しているのが、イエス様の血潮です。
私たち罪人をもう一度、我が子として取り戻したい、という父なる神様の御思いを御子イエス様はご自分の思いとして、十字架にかかることを良しとされました。
イエス様は自ら両手を広げて十字架におかかりになりました。抵抗することなく両手両足にくぎを打たれました。それがお出来になったのは、“愛する者のため”だったからです。
罪人を贖うために、血を流し、いのちを捨ててくださった御子イエス様と、そこまでしてでも私たちを取り戻したいと願ってくださった父なる神様の、そのきよいご愛を、私たちは絶対に忘れてはいけません。
それがクリスチャンの敬虔なこころ、正しい良心です。

■2026年4月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
肉の働きを制する up 2026.4.19
主題聖句(ローマ8:13)
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
聖霊様による働きがなければ、私たちは救われた後、神の子として成長し御国を相続するということは非常に困難です。ですから、聖霊様の働きを受け入れて、イエス様の似姿に変えられていくことを、願いとし目標として頂きたいと思います。
神様は人を神のかたちとして神に似せて造られましたが、現実には神のかたちに似ていないような状況があります。それを取り戻すために、イエス様の十字架の罪の赦しがあり、そのイエス様を信じた者の内に、助け主聖霊様は宿ってくださり、私たちの霊をきよめ、成長させ、永遠の希望に向かって導いてくださるのです。
私たちの内におられる聖霊様のお働きについて、これまでに6つのことを学んで参りました。
⑴いのちをもたらす
⑵イエスについて証言する
⑶イエスの光を伝承する
⑷死ぬべきからだを生かす
⑸真理に導き、神のみこころを示す
⑹罪と死の原理からの解放
今日は、聖霊様の7つ目のお働きについてお話いたします。
⑺肉の働きを制する
(ローマ8:13)
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
a)肉に従って生きるとは?
ⅰ)貪欲は偶像礼拝
(コロサイ3:5)
「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」
欲望にひれ伏す偶像礼拝の姿、神ならぬものに頭を下げ、従う状態をもたらすのが「むさぼり」です。
◉アダムとエバは肉に従ったためにエデンから追い出された
「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創2:17)」と神様は一つの戒めを、アダムとエバに与えられました。それは、神様に対する彼らの誠実な純真な心を示す証でもありました。
そのたった一つの戒めを、アダムとエバは守ることが出来ませんでした。沢山ある他の木の実に満足できず、「食べたら死ぬ」という神様のおことばより、食べたいという欲に従ってしまいました。
その結果2人はエデンの園から出て行かなくてはなりませんでした。そして、肉欲に従う人類の争いの歴史が始まったのです。
ⅱ)肉欲だけが目的ではない
(マタイ4:4)
「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
肉体を養い成長させることも大事ですが、更に大事なこは、霊.魂が養われることです。そのためには、神様の一つ一つのおことばによって生きるということを常に心がける必要があります。
荒野でイスラエルの民は、「水がない、パンを食べたい、肉が欲しい」と、食欲を満たすことばかり求めて、不平不満を訴え続けていました。そういう窮地の時こそ、愚痴や文句、呟きではなく、誠実に、ことばなる神様に祈り求めるべきでした。
私たちは神様に似せて造られた者ですから、肉欲や感情に振り回されるのではなく、それをコントロールできるように、そのためには御霊の働きが必要です。
エジプトから出て来て、荒野で呟き続けたイスラエルの大人たちは、約束の地に入れず荒野で死に絶えてしまいました。
b)御霊によってからだの行いを殺すとは?
ⅰ)みことばの剣
(エペソ6:17)
「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」
エペソ6章16節〜17節に、盾、胸当て、兜など、身を守るための武具がいろいろ紹介されていますが、相手を倒す武器は剣だけです。
「御霊の与える剣」とは「神のことば」です。
◎肉欲の働きを、みことばの剣で切り裂いたイエス
(マタイ4:1∼4)
イエス様は荒野で40日40夜断食して空腹になられた時、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように言いつけなさい」という悪魔の誘惑を受けられ、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」というみことばによって、誘惑を退けられました。
ⅱ)心を見分ける剣
(へブル4:12)
「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
なぜ判別する必要があるのでしょうか。私たちの動機というものがよく見えていないと、みことばに従っているつもりで肉欲に従っているようなことが起ります。そうして、いつも肉欲を優先するような習慣が身についてしまうと、魂を養うことが疎かになって、肉だけで生きるクリスチャンになってしまいます。
聖書を読むと、私たちの本心は何かを示されます。聖書が読みたくない、という気持ちの原因は、動機を見破られて咎められる気がするからです。肉の欲を満たしたいのか、神様の愛に報いていきたいのか、みことばは生きていて力があるので、私たちの心の動機をあらわにされるのです。
ⅲ)神の愛に生きる決意
(ガラテヤ2:20)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
私たちの罪の赦しのために、身代わりに裁きを受けて死んでくださったイエス様を信じる信仰によって、今私たちは生きているのだと語られています。
私たちに対する父なる神様の愛と憐れみ、イエス様の罪の赦しの恵み、その両方を信じる信仰によって、私たちは生きています。この決意が聖霊様によって与えられます。
その決意が弱いと、私たちは肉の欲求と妥協しやすくなります。
決意が強くなるには体験が必要です。肉から御霊へと動機が段々変わっていくプロセスが私たちを鍛え成長させるのです。少しづつ神への信頼を強めていくことを神様は喜んでくださいます。チャレンジするのを諦めないでください。
ⅳ)まごころから神に近づく
(へブル10:22)
「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」
◉主を畏れることに意識を向け続ける
旧約聖書において最も大事なことは、まず主を畏れること、神様を心から尊び敬うことです。私たちにどのようなことを神様はしてくださっているのか、それを深く感じ取ることによって、神様を畏れ敬い愛する心が自然と内に湧いてきます。これが正しい良心です。
(へブル9:14)「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
神様が人を愛しておられるように、イエス様も父なる神様と一つ愛となって、人々の赦しの為のいけにえとして、十字架でいのちを捨てる決心をされました。御霊の愛の働きによるものです。
そこまでしてでも、愚かな私たち罪人の罪を赦して、神の子として立ち返ることを望んでくださった天の父のご愛と、そして救い主イエス様へのご恩を、私たちは一生、一瞬たりとも忘れません。
黙示録には、新しい天と地においても「屠られたと見える子羊」としてイエス様が存在しておられます。イエス様の贖いの御業は、永遠に覚えられているのです。
主を畏れる心とは、良心がきよめられた心であり、それによって必ず肉の働きを殺すことができると、パウロは語っています。

■2026年4月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
罪と死の原理からの解放 up 2026.4.12
主題聖句(ローマ8:2)
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
【復習】
Ⅰ「いのちの光を持つ者」について
今年のテーマのみことば(マタイ5:16)から、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。」ということで、「いのちの光を持つ者」についてお話いたしました。
Ⅱ. みことばを聞いて従う者について
みことばを聞いて行う者の内に、いのちの光は注がれます。
そういう人は、
①賢い人・・「岩の上に家を建てた人」のたとえ話・・
最後の審判に備える人は、救われる。
②御霊による働きのために御霊が注がれる。
いのちの光は、私たちの内に住まわれる聖霊様から放たれる。人々はその光を見て、私たちの内に共におられる神をあがめるようになる。
私たちの内に住まわれる聖霊様のお働きは、
⑴いのちをもたらす
⑵イエスについて証言する
⑶イエスの光を伝承する
⑷死ぬべきからだを生かす
⑸真理に導き、神のみこころを示す
【今日のメッセージ】
⑹罪と死の原理からの解放
(ローマ8:2)
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
罪赦されて永遠のいのちを与えられ神の国に導き入れられる、という「いのちの御霊の原理」が、永遠の滅びである「罪と死の原理」から、私たちを解放してくださった、というみことばです。
≪罪と死の原理≫
(ヤコブ1:15)
「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」
欲が働くと、欲を満たすために的外れな方向にドンドン進んで、ルールを破ってでも欲を満たそうとするのが、人の罪の性質です。
その裁きとしての死が、創世記の初めに神様によって定められています。ルールを守って秩序と健全さを保つための裁きです。
≪いのちの御霊の原理≫
(へブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
罪の赦しの為のイエス様の救いの御業は、「とこしえの御霊によって」為されました。御霊様は神の霊、神の愛そのものです。
イエス様は、神の愛に動かされて、罪人の為にご自身を犠牲にして身代わりに私たちの裁きを受けてくださいました。それは愛から出たことである、というのが「神におささげになったその血」の意味するところです。
「良心」というのは、善悪を判断する心の働きです。
私たちクリスチャンは、イエス・キリストを善悪の判断の基準としています。
イエス様が「私たちの良心をきよめて」くださり、私たちを、創造主なる「生ける神に仕える者」としてくださいます。
イエス様の十字架によって神様の愛を感じた人は、良心が神の愛に触れられて、「私は神様の愛によって罪赦されたんだ、もう一度やりなおそう」と思います。
そして、今までの自分勝手な基準から離れ(死んだ行いから離れ)、きよめられた良心(神様の愛に則った良心の考え方、神様のおことば、教え)を基準として生きることを決心します。それが「生ける神に仕える者とする」ということです。
これが「いのちの御霊の原理」であり、私たちのクリスチャン生活です。私たちは今それを鍛えられている途上にあります。
『御霊の自由』
(Ⅱコリント3:17)
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」
★神の御霊のあるところには「自由」があります。それは、どのような自由なのでしょうか。
次の3つのみことばから、各自で黙想し、各々に示される神様のおこころを受け止めていただきたいと思います。
⑴ガラテヤ5:13
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」
神様はどういう自由を私たちに示そうとしておられるのでしょうか。私たちには何でも自由に選ぶ権利が与えられています。肉欲の動機も、愛の動機も、自由に取捨選択できます。神様はどのような自由を与えてくださったのでしょうか。
⑵Ⅰコリント6:12
「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」
私たちには自由が与えられています。しかし、自由な選択の結果がすべて自分の益になるわけではありません。善には善の、悪には悪の報いがあります。
神様が私たちに与えてくださった自由は、善を行う自由、隣人を愛し仕える自由です。
⑶(Ⅰペテロ2:16)
「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」
私たちには自由が与えられています。賢い人は、その自由を、神様のおことばに従い実行することに用います。
私たちに示された神様の愛ゆえに、私たちは神様のものとして神様の愛に応えて、神様を愛し神様に仕えて生きていきたい、そういう自発的な願いが起こされるのです。
この3つのみことばを参考にして、皆さんも自由に賢い選択をしていただきたいと思います。

■2026年4月5日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
奴隷ではなく、子として生きる up 2026.4.5
主題聖句(ローマ8:15)
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。
イースターおめでとうございます。先週、私たちはイエス・キリストの十字架を覚えました。
イエス様は、私たちのために苦しみを受け入れられました。本来、それは私たちが受けるべきものでした。しかしローマ8章1節はこう言います。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」 これは神の宣言です。十字架によって、私たちの“終わり”は取り消されました。ではその先に、何が与えられたのでしょうか。
・復活は父の行為
ローマ8章11節
「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が…」
ここで大切なのは、父なる神がイエス様をよみがえらせたということです。十字架は終わりに見えました。しかし神は、それを終わりにしませんでした。復活とは「まだ終わりではない」という神の宣言です。そしてその御霊が、今、私たちの内に与えられています。
・奴隷ではなく子として
ローマ8章15節
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。」
ここで言われている「奴隷の霊」とは、神に不安で恐れながら近づく状態です。つまり神の前で安心できない関係です。しかし私たちは、「子としての霊」を受けました。そして、「アバ、父」と呼ぶとあります。
私にはまだ小さい息子がいます。その子が「ダディ、ダディ」と呼んでくれるんです。それが本当に嬉しいんです。ただ呼んでくれる、それだけで嬉しい。だからこう思うんです。父なる神も同じではないかと。私たちは、ちゃんとしないといけないと思ってしまいます。でも神が求めておられるのは、「お父さん」と近づいていくことそのものです。復活とは、恐れの関係が終わり、父との関係が始まったことなのです。
・苦難の先にある栄光
ローマ8章17節
「私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている…」
人生には苦難があります。クリスチャンでも同じです。しかし違うのは、終わり方です。イエス様は十字架で終わりませんでした。復活がありました。同じように、神は私たちの人生を苦難で終わらせません。
復活とは、奴隷として生きる人生が終わり、子として生きる人生が始まったことです。恐れの中で神を見るのではなく、父として神を知る人生です。
もし今日、神を遠く感じているなら、難しいことは必要ありません。ただ一つです。「アバ、父」と呼んでください。神はそれを喜ばれます。

■2026年3月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
死について up 2026.3.29
主題聖句(ローマ8:13)
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
来週はイエス・キリストの復活を記念したイースター礼拝です。その前の1週間は、イエス様が十字架におかかりになるという受難週です。そこで今日は「死について」と題して、お話しさせて頂きます。
今日の主題聖句(ローマ8:13)
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ」とありますが、この「死ぬ」ということを、聖書ではどのように教えているのか、見ていきたいと思います。
(創世記2:17)
「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
神様がアダムとエバに、善悪の知識の木の実を食べたら死ぬと言われたのは、その木の実に毒が入っているのではありません。神様のおことばに従わないことが、人の死の一番の原因である、ということです。
ヘブル語の≪死ぬ≫という言葉は、「殺す、破壊する」という意味をもっています。ですから、(創世記2:17)のみことばは、「神のことばを守らないことは、自分を殺すことであり、自分を破壊することである。」更に、「神のことばに聞き従わなければ、神のかたちを破壊することになる。」という意味に受け止めることが出来ます。
創世記ではその後、アダムとエバの息子たちのカインとアベルが神様に捧げものをした時、神様はカインの捧げものには目をとめず、アベルの捧げものに目をとめられました。
アベルは神様を敬う心を大切にして、神のかたちを守ろうとして、神の前にささげ物をしたからです。
しかし、自分のささげ物には目をとめていただけなかったカインは、そのことで「ひどく怒り」、そして、アベルを殺してしまいました。
アベルは死にました。同時にカインは、自分の「神のかたち」を破壊したのです。
それ以降、人類は「神のかたち」を守ろうとする人たちと、「神のかたち」を捨てる人たちの二つに分かれて行きます。
今日のみことば(ローマ8:13)意訳
「もし、肉(貪欲)に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ(自分を殺す、破壊する)のです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺す(破壊する)なら、あなたがたは生きる(神のかたちを保つ)のです。」
≪死は復活の為≫
(Ⅰコリント15:42-44)
「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」
このみことばは、私たちが更に優れた完成された状態になるために、一度死ぬことが必要である、ということを私たちに啓示しています。一度死んで、そこからよみがえった姿が、本来の人間の完成された姿だということです。
しかし、死から復活するためには、神の愛を体験しなくては復活できません。神の愛を認めなければ死んだままです。神がイエス・キリストを遣わされたのは、私たちの罪をイエス様が全部負って、私たちの身代わりに十字架で死ぬためでした。ここに愛があるのです。
≪イエスの死≫
(イザヤ53:5)
「しかし、彼は私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
「復活」というのは、以前のものが、全く質の違う新しいものへと造り直される、ということです。そのための代価として、尊いイエス様のいのちが支払われました。そのおかげで、いま私たちは完全に造り直されるという復活を、約束していただいているのです。
(Ⅰペテロ3:18)
「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」
「神のみもとに導く」とは、私たちが創造された目的である神のかたちに立ち返り、もう一度新しく造り直されることです。そのためには、私たちは一度死ぬことが必要です。
だからイエス様は私たちの代わりに死んでくださいました。罪の無いきよいご自分のいのちを代価として支払って、私たちを買い戻してくださったのです。それは私たちを愛してくださっているからです。
そうして、私たちは造り直され、成熟と完成に向かうことが出来るのです。それは信じる者に与えられる神の恵みです。

■2026年3月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
真理に導き、神のみこころを示す up 2026.3.22
主題聖句(ヨハネ16:13)
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
御霊様はどんな働きを私たちの内にもたらしてくださっているかについて、前回までに
⑴いのちをもたらす
⑵イエスについて証言する
⑶イエスの光を伝承する
⑷死ぬべきからだを生かす
というテーマでお話し致しました。
今日は、⑸として、「真理に導き、神のみこころを示す」と題してお話しさせて頂きます。
※⑸真理に導き、神のみこころを示す
(ヨハネ16:13)
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」
◉真理とは
キリスト・イエスは唯一の創造主の神。他に神はいない。
(Ⅰコリント8:6)
「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。」
天地万物を造られた神は唯一人で、他に神はいない、という聖書のおことばを前提として、私たちは聖書から真理を教えられています。
日本には八百万(やおよろず)の神というように、自然の中にも、どこにでも神を見出すという日本特有の宗教観があります。その考え方が日本社会の秩序や道徳性を、ある程度守ってきたことは否めません。
そのような精神風土を持つ日本に、欧米のキリスト教のような一神教は、排他的で「和を乱す」ものである、とさえ述べる政治家もいます。
私たちの神は、御父、御子、御霊の、3つのご性質を持った唯一人の神である、と聖書は教えています。また、(Ⅰコリント8:6)には、「すべてのものはこの神から出ており」とも書かれてあります。
では、日本社会の考える「神々」とはどういう意味なのでしょうか。そのヒントとなることが聖書の中に記されていますので、ご紹介いたします。
*水をつかさどる御使い(黙示録16:5)
「また私は、水をつかさどる御使いがこういうのを聞いた。『今いまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。」
*火を支配する御使い(黙示録14:18)
「すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。『その鋭い鎌を入れ、地のぶどうの房を刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。』」
黙示録によると、水や火をつかさどり、支配する(管理する)御使いがいます。御使いは、水や火の力を神様から分担して委ねられ、神様は御使いを通して自然界を支配しておられることがわかります。
古代の日本では、あらゆるものに精霊が宿っている、と考えられていました。そして火の神、水の神、何々の神、という呼び方をしていますが、実は唯一なる神様がそれぞれの分野に遣わしたその御使いたちのことを、古代の日本人はその不思議な働きや力を恐れ、また感謝する気持ちから、勘違いして「神」と呼んだ、と理解できるのではないでしょうか。
*守護天使(使徒12:14-15)
「ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。彼らは、『あなたは気が狂っているのだ』と言ったが、彼女はほんとうだと言い張った。そこで彼らは、『それは彼の御使いだ』と言っていた。」
ここで「ペテロの御使い」という言い方がされています。
当時のユダヤの地方には、一人一人に、守って下さる天使(守護天使)がついている、という考え方がありました。
唯一の神様は、天使を創造し、それぞれの分野に天使(御使い)を遣わして世界を統治なさっているという考え方からすると、世の人々が言っている神々とは、「天使」のことであり、天使を創造されたのも、天使を遣わされるのも唯一の神様ですから、「すべてのものは神から出ている(Ⅰコリント8:6)」と言われているのです。
◉罪ある人間が、神の子として創造された目的に立ち返るための真理 とは?
イエス・キリストは、罪人を贖うために人となられて死なれ、葬られ、よみがえられた唯一の救い主です。
(使徒4:12)
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
アダムとエバが、神様のおことばより自分の欲望に従うことを選んだことにより、人類は欲望に縛られる罪人になりました。
世に宗教は多くありますが、なぜイエス・キリストだけが救い主なのでしょうか。それは、イエス様以外に私たちを罪のさばきから救ってくださる方はいないからです。すなわち、私たちの罪を贖ってくださったのはイエス様だけだからです。
アダムとエバが罪をおかしたその時から、神様はすでにキリストによる救いを預言しておられました。ですから、神様は他のどの宗教にも、身代わりの死、贖いによる救いという方法は与えておられません。
聖霊様が私たちの内に働きかけて、この真理を教え諭し理解させてくださるのです。
イエス様は、神が人となって33年間のご生涯を罪を犯すことなく過ごされて、その罪の無い聖いいのちを、私たちの救いのための代価としてくださり、十字架で身代わりのさばきを受けてくださいました。
イエス様が罪のない正しい方であったことは、イエス様の復活によって神様が証明しておられます。イエス様の贖いの御業は有効だと神様が保証しておられます。
キリストの死と復活を証しするために、私たちはこの地上で、内にある光を輝かせます。あきらめないで最後まで信じて、たとえ失敗しても希望をもって何度でも悔い改め、やりなおし、神を愛し、隣人を愛し、互いに赦し合って、敬虔な人生をチャレンジし続けて参りましょう。

■2026年3月15日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
十字架へ向かうイエス up 2026.3.15
主題聖句(ルカ9:51〜62)
さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。
イエスは顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。
最近、私の周りでいくつもの「人生の節目」がありました。先日、長男の高校の卒業式がありました。三年間の歩みが終わる寂しさがあると同時に、新しい人生へ送り出される喜びもあります。
同じ時期に、教会では長く共に信仰を歩んできた姉妹が天に召されました。私は牧師として、初めて告別式を司式する機会をいただきました。人生の終わりという場面に、牧会者として立つことの重みを感じました。
人生にはいくつもの節目があります。聖書を見ると、イエス様の人生にも一つの決定的な節目がありました。それが「十字架へ向かう時」です。今日の聖書箇所は、その場面です。
ルカ9章51節にはこう書かれています。
「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。」
ルカの福音書はこの場面から大きく方向を変え、これまでガリラヤで宣教をされていたイエス様は、エルサレムへ向かって旅を始めます。その旅の終わりには十字架があります。この「御顔をまっすぐ向けられた」という言葉は、非常に強い決意を表す表現です。後ろを振り向かない、揺るがない決意です。
イエス様は、この先に何が待っているかを知っておられました。裏切り、嘲り、鞭打ち、そして十字架。それでもイエス様はエルサレムへ向かいました。偶然でもなく、流れに押されたのでもありません。イエス様は自ら十字架へ向かわれました。なぜでしょうか。その答えをイエス様ご自身が語っておられます。
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、
また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10章45節)
イエス様は、自分の命を与えるために来られました。つまり十字架は救いの計画でした。
その旅の最初に起こった出来事が、サマリヤの村での出来事です。イエス様は弟子たちを先に送り、サマリヤの村で宿を取ろうとされました。しかしその村の人々は、イエス様を受け入れませんでした。当時、ユダヤ人とサマリヤ人の間には深い対立があったため、サマリヤ人は、エルサレムへ向かうイエス様を拒絶したのです。その時、弟子たちは怒りました。ヤコブとヨハネは言いました。「主よ、私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」とても過激な反応です。しかしイエス様は彼らを叱られました。なぜでしょうか。イエス様が来られた目的は、滅ぼすことではなく、救うことだったからです。拒絶されても、侮られても、敵意を向けられても、イエス様は十字架へ向かう歩みを止めませんでした。
弟子たちは、エリヤのように火を降らせて敵を裁くメシアを期待しましたイエス様は違いました。イエス様は火を降らせるためではなく、十字架にかかるために来られたのです。ここに、イエス様の愛の深さがあります。
興味深いことに、このサマリヤ人の拒絶のすぐ後で、イエス様は「善いサマリヤ人」のたとえを語られます。弟子たちはサマリヤ人を敵と見ましたが、イエス様は、彼らを隣人として見るように教えられたのです。
そしてこの後、三人の人がイエス様に「ついていきます」と言います。ここで見えるのは、イエス様の決意と、人間の迷いの対比です。イエス様は十字架へ向かって進んでおられます。しかし人間は迷います。「ついて行きます」と言いながら、心のどこかでためらっています。
私たちも同じです。信仰を持っています。しかし迷い、時には立ち止まります。後ろを振り返ることもあります。しかし今日覚えたいことがあります。それは、私たちの決意が救いを生んだのではなく、イエス様の決意が、私たちを救いに至らせたということです。
私たちがまだ弱かったとき、まだ迷っていたとき、まだ罪人であったとき、イエス様は十字架へ向かって歩き続けられました。それが福音です。そしてその愛を知るとき、私たちの心にも一つの変化が起こります。最初は「お客さん」のようだったかもしれません。礼拝に来て、神様の恵みを受け取り、祝福をいただく。それも大切です。しかしイエス様を知れば知るほど、こう思うようになります。「この方について行きたい。」それが弟子の歩みです。無理に背負う重荷ではありません。愛への応答です。イエス様は、私たちのために十字架へ向かいました。
イエス様は、私たちを救うために十字架へ向かう決意をされました。私たちの決意が救いを生んだのではなく、イエス様の決意が私たちを救ったのです。だから私たちは、この愛に信頼し、この方について歩んでいきます。
そしてこの旅は、まだ続いていきます。この道はエルサレムへ向かい、そこには十字架があり、墓があります。しかしそれで終わりではありません。復活があります。
あと三週間でイースターを迎えます。十字架は敗北ではありません。救いの勝利です。イエス様は十字架へ向かいました。わたしたちのために。だから私たちはこの方に信頼します。そしてこの方について歩んでいきます。

■2026年3月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
死ぬべきからだを生かす up 2026.3.8
主題聖句(ローマ8:11)
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
◉今年のモットーのみことば
(マタイ5:16)
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
私たちを通して神様が尊敬され信頼されていくような、そんな歩みをすることが、私たちの敬虔な心の大切な部分です。
私たちは父なる神様から、イエス・キリストを通して、罪の赦しを受けている者です。その愛と憐れみ、寛容さを忘れずに未来に向かって歩んで行きたいと願っています。
今の自分があるのはイエス様の十字架のおかげです。
イエス様があがめられることは私たちの一番の喜びです。
今年もぜひイエス様が崇められるようなクリスチャンになりたいと、それを目指して参りましょう。
◉神に従う者が受ける利点は、
①(マタイ7:24-27)
神様の永遠のさばき、滅びから救われます。
②(使徒5:32)御霊が注がれます。
御霊様のお働きとして、
⑴御霊はいのちをもたらす(ヨハネ6:63)
「**いのちを与えるのは御霊です**。肉はなんの益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
⑵御霊はイエスについて証言する(ヨハネ15:26)
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その**御霊がわたしについてあかしします**。」
御霊様は、イエス様がどんなお方か、教えてくださいます。
⑶イエスの光を伝承する(ヨハネ16:14)
「御霊はわたしの栄光を現します。**わたしのものを受けて、**あなたがたに知らせる**からです。」
御霊様は私たちをイエス様の弟子とするように導いてくださいます。
※今日のメッセージ
⑷死ぬべきからだを生かす(ローマ8:11)
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、**あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださる**のです。」
「イエスを死者の中からよみがえらせた方」、すなわち、キリストを死から復活させるという救いのご計画を実現された天の父なる神様は、ご自分を信じ従う者たちの内に、神の御霊、聖霊様を住まわせてくださり、私たちを生かしてくださるお方です。
日本には八百万(やおよろず)の神々の霊を崇めるような環境があります。しかし、私たちが信じている神様は、ただお一人です。救い主イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた天の父なる神様、「ヤーウェ」と呼ばれる創造主なる神様だけです。
私たちは罪人です。私たちの罪が赦されるために、イエス様は十字架で身代わりに死んでくださり、そして復活してくださいました。
これを計画し実行された神様が、私たちの内に霊として住んでいてくださって、私たちが罪のない神の子として、復活の人生を歩むことが出来るようにしてくださったのです。
A) 死ぬべきからだとは?(ガラテヤ5:19-21)
「**肉の行いは明白**であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが**神の国を相続することはありません**。」
一度罪赦されたにも関わらず、その後も自分の肉の行いに対して何の対処もせずに、元の罪の生活を続けていくならば、それは救いを手放すことであり、神の国を相続することは出来ません。死ぬべきからだとして永遠の滅びに向かって行ってしまいます。
B)『生かす』について(ローマ6:13)
「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を**義の器として神にささげなさい**。」
義の武器→悪と戦うため
罪ゆるされて、新しい人生を与えれらたのですから、自分はもう神にささげられる「義の器」なのだということを意識しなさい。そういう意識があれば、罪の誘惑、肉の行いにも抵抗することが出来ます。
(ローマ12:1)
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたの**からだを**、神にうけ入れられる、聖い、**生きた供え物としてささげなさい**。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
不品行や汚れや・・・様々の肉の行いを全部無くしてから、あなたの聖いからだを捧げなさい、ではありません。肉の行いを持っているあなたのからだを、聖い供え物として神に捧げなさい、とパウロは言っています。
このからだは実際は罪を犯すので聖くありません。しかし、イエス様が私たちの代わりに十字架で死んでくださり、よみがえってくださったので、イエス様を信じる私たちも、イエス様と共に死に、イエス様と共に聖い者としてよみがえったと神様は見てくださいます。
ですから、私は聖い生活をする者なんだ、神様からの語りかけ、働きかけに対して応答する者なんだ、と意思決定して、そこに向かって生きて行くのです。それが信仰です。
信仰は未来に希望を託します。今はどうであれ、必ず神に喜ばれる者に成長しますと期待して、イエス様の十字架の贖いのみわざを信じて生きて行く、これが私たちの信仰です。
聖い生きた供え物として生きていく決心をしていきましょう。
★主イエスの光りを輝かせるために、きよい良心に御霊を 迎えて御霊に任せなさい!
【俳句】
聖霊に 自分を任せ 光を放つ

■2026年3月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
イエスの光を伝承する up 2026.3.1
主題聖句(ヨハネ16:14)
御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
今年の目標のみことばから語らせて頂いております。
少し振り返って、流れを思い出してみましょう。
〇今年の目標のみことば(マタイ5:16)
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
私たちが良い行いをする動機は、イエス様を通して神様の愛に触れられて、自分も良いことを進んでおこなっていきたいと思う、神様への愛の応答です。人々がその良い行いを見て、父なる神様を崇め信じるきっかけになるように、という神様の願いが、今日の主題聖句(マタイ5:16)に語られています。
なぜイエス様を信じる者が、敬虔な心を持つ証しとなるのでしょうか。それは私たちが当然受けなければならない罪のさばきを、イエス様が身代わりに十字架で受けてくださったからです。神様はそこまでして私たちの罪を赦し、私たちを永遠の滅びから救いたいと思ってくださっているからです。そのように歴史の中に現してくださった神様の私たちへの愛とイエス様の十字架の愛と犠牲を知った時、私たちのこころに、父なる神様、御子イエス様への敬虔な心、信仰と愛が生まれるのです。
私たちは今、イエス様を通し、みことばを通し、神の霊を通して、神様の愛に触れられて、少しずつイエス様への信仰が強められ、善を行う聖い生活へと実を結んでいっているところです。
〇今年は、天のお父様が崇められるようなクリスチャン生活を目指していこうというテーマで、それは聖霊様のお働きによる、というお話をして参りました。
◎従う者が受ける利点
私たちはまず内に光を持たないといけません。光は、イエス様に従う者に与えられます。
①従う者は賢い人
(マタイ7:24-27「岩の上に自分の家を建てた賢い人のたとえ」より)イエス様のみことばを実践する人は、人生の嵐にも耐えられる賢い人です。
②御霊による働きのために、従う者に御霊が注がれる
(使徒5:32)「私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった御霊もそのことの証人です。」
御霊が注がれると、どのような実を結ぶのでしょうか。
⑴御霊がいのちをもたらす
(ヨハネ6:63)「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
肉は神の国に対して何の益ももたらしません。いのちを与える御霊様の働きで、肉を制御することが必要です。
⑵イエスについて証言する
(ヨハネ15:26)「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊が私について証します。」
イエス様が御霊様を私たちにお遣わしになると、私たちは御霊様によって、実在するイエス様と直接、関係を持つことが出来るようになります。
※ 今日のみことばとメッセージ
⑶イエスの光を伝承する
(ヨハネ16:14)「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」
聖霊様がイエス様のものを受けて、それを私たちに知らせてくださると、イエス様の栄光が、私たちを通して現わされます。
A)『知らせる』とは?
ギリシャ語の意味=詳細に報告する、リハーサルする、示す=受け継がせる、啓示を受ける、悟る
⇒伝える者が、自分の得ていることに対する確信と同じものを、相手に手渡すこと⇒**伝承する**=昔から伝えられてきたものを、間違いなく受け継いで、それを未来に正しく伝えていく、手渡していく。
B)イエス様の弟子から、弟子へ(伝承)
(Ⅰヨハネ1:5)「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」
*「伝える知らせ」
イエス様の12弟子の一人であるヨハネは、イエス様から受けた全ての教えを、他の教会の弟子たちに伝え、それは教会から教会へ、弟子から弟子へと、伝えられていきました(伝承)。そうして、イエス様が仰ったように、あらゆる国の人たちが弟子となっていきました。
中世には、教会の暗黒時代と言われる時代もあり、イエス様の教えが曲げられた時期もありましたが、ルターの宗教改革以降、神様は再び、神のみことばと御霊によってキリストの弟子として、イエス様のそのままを受け継いでいく人々が起こされてきているところです。
*イエスの光の伝承→弟子となる
イエス様は「私は世の光です」と仰いました。12弟子がまず、その「イエス様の光」を受け継ぎました。イエス様が天に帰られて後、聖霊様により、更に多くの人たちが「イエス様の光」を伝承して、弟子となりました。
「あなたがたの光を人々の前で輝かせ(マタイ5:16)」という「あなたがたの光」は「イエス様の光」です。イエス様の光を輝かせる、というのはイエス様の弟子であるという意味です。
イエス様の光を受けて、それを自分の生活の中で輝かすのを見て、人々は天の父を崇めるようになる、と(マタイ5章16節)は語っています。
私たちが光を輝かせて、その元であるイエス様が輝いて、イエス様を遣わされた父なる神が崇められるようになる、この流れが(ヨハネ16:14)の意味としてお伝えしたいことです。
C)十分訓練を受ける弟子
(ルカ6:40)「弟子は師以上には出られません。しかし、十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」
クリスチャンも十分訓練を受けているかどうかで差がつくことはあります。いま到達しているレベルに差があるのも仕方ありません。他人と比べてはいけません。それぞれに、師であるイエス様のおことばに、諦めずチャレンジしていくことで身に付くものがあるのです。イエス様のご性質、ご性格、というイエス様の光を継承させていただきましょう。
★主イエス様の光を輝かせるために、きよい良心に御霊を迎えて光の伝承が必要です!。
光を伝承できるのは御霊様だけです。一人一人の内におられる御霊様からイエス様の光を伝承させて頂きましょう
【短歌】
草餅の 味を伝える 毎年は
光の伝承 御霊の働き

■2026年2月22日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
整えられていく教会 up 2026.2.22
主題聖句(エペソ4:13)
私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身文にまで達するのです。
先日、大阪で結婚式がありました。そして今日、義妹の婚約の発表がありました。結婚という出来事が続く中で、改めて思わされています。
結婚は突然完成するものではなく、準備の期間があるということです。
聖書の中でも、準備の期間を経て王妃となった人物がいます。それがエステルです。エステル記には、エステルが王の前に出るまでに、長い整えの期間があったことが書かれています。彼女は自分の考えではなく、宦官ヘガイの助言に従いました。王妃になるために重要なことは、自分で完成することではなく、整えられていくことでした。
この姿は、教会に重なります。聖書は教会を「キリストの花嫁」と呼びます。教会は完成した存在ではなく、整えられていく存在です。
■ 教会はキリストの花嫁
花嫁という言葉は、愛の関係を表します。教会はまず、働きの集まりではなく、キリストに愛されている共同体です。ここが出発点です。花嫁とは、努力して価値を得る存在ではなく、すでに愛されている存在です。そして同時に、花嫁は整えられていきます。聖さとは、競争ではありません。比較でもありません。愛の関係の中で整えられていくことです。
私たちの教会も、主に整えられてきました。そして今も整えられています。
■ 教会はキリストのからだ
聖書はもう一つの比喩を使います。教会はキリストのからだです。からだという言葉が意味するのは、有機的な結びつきです。教会は、建物ではなく、単なる組織でもない、キリストと結ばれた存在で、頭はキリストです。方向を決めるのもキリスト。成長させるのもキリストです。
そして、からだには多様な部分があります。役割の違いは、優劣ではなく機能です。どの部分も必要です。つまり教会は、参加する場所ではなく、自分が一部である存在です。
■ 成長とは成熟
私たちは「成長」と聞くと、数や規模を思い浮かべがちです。しかし、聖書が語る成長は成熟です。それは、キリストに似ていくことであり、結びつきが深くなることであり、各部分が機能することです。
教会の成長も同じです。これまで私たちは確かに主に導かれてきました。そして今、主はさらに成熟へ導いておられると感じます。
■ 教会は送り出される共同体
教会は週末の場所だけではありません。主から始まり、主へ遣わされる共同体です。礼拝は終わりではなく出発です。花嫁であることは、閉じることではありません。からだであることは、内向きになることでもありません。むしろ逆です。キリストのからだは、この世にキリストを表すために存在します。
■ 御霊の働き
では誰がこれを実現するのでしょうか。私たちの努力でしょうか。熱心さでしょうか。聖書の答えは明確です。聖霊です。
教会は自分で教会になるのではなく、御霊によって教会にされていきます。
御霊が花嫁を整え、御霊がからだを結び合わせ、御霊が成長させ、御霊が賜物を与え、御霊が遣わすのです。
御霊は特別な人のために存在するのではありません。教会のために与えられています。だから御霊は、理解できない領域の話ではなく、教会が教会であるための中心です。
教会は、御霊によって整えられ、キリストの花嫁として愛され、キリストのからだとして結ばれ、成熟へと成長し、この世界へ遣わされていく存在です。だから私たちは、集まるだけの信徒ではなく、御霊に整えられながら、それぞれの持ち場でキリストを表し、遣わされて歩んでいきましょう。

■2026年2月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
イエスについて証言する up 2026.2.15
主題聖句(ヨハネ15:26)
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
三位一体の神様を理論的に知識的に理解しようとしても無理です。
愛、親切、憐れみなど目に見えないものを深く感じることができるのは、世の中でいう知識ではなくむしろ感情です。
私たちは、どのように見えない神様を信じられるのでしょうか。また、どのようにイエス様を知ることができるのでしょうか。
それは、霊とたましいに神の霊である聖霊様がふれてくださることによります。
心、たましいのスキンシップがなされると、五感全てに神様を感じ、イエス様を知ることができるようになります。
聖霊様は個人個人にイエス様についての証言を与えてくださる御方です。
しかし、もしイエス様のことが、まだよく分からないという方がおられるなら、その方は聖霊様との関係が、まだあまり深くないと言えるでしょう。
A)「証しする」とは?
ギリシャ語の意味は、証拠を提出する、良い報告を得るということです。
御霊による働きは、私たちのたましいにイエス様について良い報告の証拠をもって示してくださいます。
B) 正しい良心に示される
(ローマ9:1)
「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。
この良心は神様を信じ敬う良心です。」
パウロの良心と聖霊様との関係がここで語られています。この良心ということばは、イエス様を信じた後の神を深く畏れ敬う良心です。
パウロはこの手紙は自分の考えからではなく、聖霊様によって自分のきよめられた良心に、神様から啓示された内容であると告白しています。
きよめられた良心のみが聖霊さまと関係をもつことができます。
C) 預言をするダビデ
(使徒4:25)
「あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの父であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。」
ダビデは敬虔深い王として、正しい良心をもって国を統治しました。神は聖霊によって、そのようなダビデの口を用いて民に語られたのです。
神様はその人の人格を無視して語らせるようなことはされません。ダビデは神を畏れ敬う心をもって判断して民に語った人です。
ただ、罪を犯さなかったわけではありません。罪を犯してその罪が明らかにされた時、神を畏れる心をもって、言い訳せず、自らへりくだって、心を砕いて裁きをうけました。
その正しい良心、深い敬虔な心を神は愛し用いられたのです。聖霊様がダビデの正しい良心に語られたことを、ダビデは民に語りました。
聖霊様は神様の深いみこころをダビデのたましいにふれて啓示されたからこそ、ダビデは深い畏敬の念をもつことができ、従順にそのことばを民に語れたのです。
D) イエスの十字架への決意
(ヘブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
御霊がイエス様の良心に父なる神の愛を証しされたので、ご自身をささげられる決意を持たれました。
ゲッセマネで、イエス様は苦しみ祈られました。人としての弱さを表され苦しまれたのです。そこで、今の私たちと同じ弱さを表してくださったのです。
イエス様が人としては逃げたい激しい苦しみの前に、それでも逃げなかったのは、父なる神様の深い大きな愛に聖霊様によってふれていただいていたからです。
愛にふれて、苦しみを乗り越え、神様のみこころに従順に従い、自らをささげられたのです。
すべては神様の愛を知ることによります。私たちも愛を知れば、犠牲を払うこともできるようになるでしょう。
御霊は直接たましいにふれてくださるので、強い確信をもつことができます。聖霊様が証拠による確信を与えてくださいます。
内にある主イエス様の光を輝かせるには御霊を受け良心の聖めが必要です。
御霊を受けることと、聖められることは同時進行です。
そのことを、ぜひ経験し、味わってください。
【俳句】
従順は 御霊の証し イエス知る
神様の愛を知ったからこその従順です。

■2026年2月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
御霊がいのちをもたらす up 2026.2.8
主題聖句(ヨハネ6:63)
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。
わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
私たちの教会は、御父、御子、御霊との交わりの教会です。神の家族としての交わりが深められていきます。私たちは罪のからだを持っていますから、罪を犯してしまうことはありますが、イエス様は悔い改める者に赦しを与えて、やり直す機会を与えてくださるお方です。
「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)」という気持ちで、諦めないで歩んでいきましょう。
*今年のモットー「御霊による働き」(マタイ5:16)
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
私たちの日頃の敬虔なクリスチャン生活を通して、天のお父様が崇められる、これが今年目指している私たちの愛の方向です。
*いのちの光を持つ(ヨハネ8:12)
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
世の光であるイエス様に従う人、すなわち、ことばなる神である主イエス様の御教えに従う人は、いのちの光を持っている人です。
*従うために必要なことは信頼(Ⅰヨハネ4:10)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
まず神様が私たち罪人を愛して、私たちの救いのためにイエス様を遣わしてくださいました。この神様の愛を知らなければ、私たちは神様に心を向けることも愛を知ることも難しかったでしょう。
ですから私たちはイエス様が再び来られる日まで、神様の愛を常に覚えて、聖餐式を行いイエス様の死と葬りと復活を象徴するパンと杯にあずかっているのです。
❶従う者は賢い人(マタイ7:24〜27より)
神様の愛に応えて従っていく人とは、イエス様のおことばを聞いて実行する人です。その人は最後の審判の時に救われます。
❷御霊による働きのために、従う者に御霊が注がれる
(使徒5:32)
「神が御自分に従うものたちにお与えになった聖霊も、そのことの証人です。」
今年私たちは、「御霊による働き」によって父なる神様が崇められるようにする日々を心がけています。肉の働きによっては、神の栄光、イエス様の光を、世の人々に見て頂くことは出来ません。御霊による働きのために、神様は従う者に御霊を与えられるのです。
前回、従う者に御霊が注がれるということで、7つお話を致しました。その中から今日は「御霊がいのちをもたらす」ということについて、少し詳しくお話し致します。
⑴ 御霊がいのちをもたらす(ヨハネ6:63)
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、また、いのちです。」
A)『いのち』とは、創造の目的にそった存在
人間が造られた目的にそって生活する時、「いのちのある生き方をしている」と言います。
神は人をご自分のかたちに似せて造られました。創造主を天の父として敬い愛する存在、それが人を造られた目的です。神は父であり、私たちは子である、という親子の愛の関係が、私たちの「いのちある生活」なのです。
神様を愛するとは、そのおことばに従うことです。感情的に愛があるか無いかではなく、神様のおことばに心から敬意をもって従うかどうか、それが神様への愛の証です。
そのような神様との関係を切ってしまうのが「罪」です。
欲望は私たちが神のおことばに信頼し従うことを妨げようとします。神のおことばよりも自分の願いや欲望を優先して、神から離れた生活、罪の生活、死んだクリスチャン生活をするようになります。
私たちは救い主イエス様とお出会いし、イエス様を通して神様との関係が、最初の創造の目的に立ち返ることの出来る「救い」を与えられました。
私たちと神さまとの間の懸け橋となっておられるのが救い主イエス様です。イエス様の名によって祈る時、イエス様が懸け橋となってくださり、祈りが神様に届けられます。救い主を通して私たちは神様との交流を持つことが出来るのです。
B)いのちを与える働き
(ローマ5:5)
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
イエス・キリストによる罪の赦しと永遠の救いは、神様が与えてくださった私たちの未来への希望です。私たちはこの希望を必ず手に入れることが出来ます。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊様が、神の愛を私たちの心に注いでくださっているからです。聖霊様のいのちを与える働きとは、神を愛する愛を与えてくださる働きなのです。その愛によって、私たちと神様との交わりが、祈りを通して生まれます。
交わりを続けていきましょう。永遠の神様の愛を知るために、永遠に交わりを持ち続けていきましょう。
C)良心の聖めが必要
(へブル9:14)
「ましてキリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
神を愛する愛がないと神に仕えることはできません。良心をきよめられなければ、神様の愛が注がれても心に触れることが出来ません。
自己中心に判断する良心や、欲望を判断の基準としている良心は、汚れた良心です。これらは神を敬わない人々の良心です。
すべての善悪の判断の基準は、神を愛する心から出てきます。これが聖められた良心です。聖められた良心を持つためには、「とこしえの御霊によって神におささげになった血」が必要です。聖餐式のブドウ汁は、その「血」を象徴しています。
※『とこしえの御霊によって神におささげになったその血』とは、父なる神を愛し、私たち罪人を救う愛のことです。
御子イエス様は、父なる神様を心から敬い、愛し、100%の従順を父なる神様に向けておられました。
父なる神様は、ご自分のかたちに似せて造られたアダムの子孫がもう一度自分の元に立ち返って、我が子としての交流を持つことが出来るようになることを望んでおられました。罪の処分をしなければ、その関係は隔てられたままです。
イエス様は父なる神様を心から愛しておられますから、神様の思いを受け止めて、また、私たちをも愛して、私たちの罪の支払う報酬である死を十字架で身代わりに受けてくださいました。
神様はその血を私たちの罪の赦しの「契約」としてくださいました。それが2千年前の十字架で実現したのです。
※神を畏れ敬う敬虔な志しが湧き上がり、信頼と愛による従順を決意する心があふれてくる。
この「血」に触れたもの、この「血」を受け入れてその意味が深まっていくと、敬虔な志しが湧き上がってきます。そして信頼と愛による従順を決意する心が生まれます。
※そして、聖められた良心に神への希望が湧き、どのような状況であっても『神は良き方』と前向き(信仰的)になる。
不信仰な心の強い人、良心の清めが中途半端な人、神様に対する応答の弱い人、それは神様の愛を強く感じる体験が少なかったからです。御霊様との関係が薄いと、愛が施されていても、その愛が伝わってこないし触れることもできないのです。
※聖められた良心→父なる神を愛する愛→創造の目的の存在→いのちを持つ者
聖められた良心とは、父なる神様を愛する愛です。その愛により、創造の目的である健全な存在の状態に私たちの魂が回復しします。そしてそれが、いのちを持つ者です。
※内にある主イエスの光を輝かせるには、御霊を受けることが必ず必要です!
【俳句】
紅に 神の愛みる 梅の花
梅の花が咲く季節、イエス様の血潮のような紅の花に、私たちへの神様の愛を見るようです。

■2026年2月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
御霊による働きのために、従う者に御霊が注がれる up 2026.2.1
主題聖句(使徒5:32)
私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。
※ 『御霊による働き』
(マタイ5:16)
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
イエス様を信じて御国に歩んでいく神の子として救われた歩みをしていきましょう、という福音宣教を目指したみことばです。
この働きは、御霊による働きです。
※ 『いのちの光を持つ』『いのちの光を持つ者』
(ヨハネ8:12)
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
イエス様に従う者が、いのちの光を持つ者です。
※ 『従うために必要なことは信頼関係』
(Ⅰヨハネ4:10)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
神様の愛に触れられた時、私たちの内にイエス様への愛と信頼が生まれ、イエス様に従う決心を持つことが出来ます。この信頼関係が大切です。ご利益宗教的な神への従い方ではありません。
❶『従う者は賢い人』(マタイ7:24〜27)
ことばなる神イエス様を信じて人生を建て上げた人は、世の終わりに、神のさばきが大洪水のように押し寄せても、しっかりと立つことが出来、救われます。
※ 岩の上に家を建てる実践
(箴言16:24)
「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」
親切な言葉遣いから、自分の人生を岩の上に建て上げていくことをチャレンジしていきましょう。
――今日のテーマ――
❷御霊による働きのために、従う者に御霊が注がれる
(使徒5:32)
「私たちはそのことの証人です。神が御自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」
聖霊様が私たちの内に住み、働いてくださるのは、私たちが神様に従う者であるからです。
皆さんは洗礼を受けたときに、最初に神様の前に従順を示しておられますから、聖霊様が賜物として皆さんの内に注がれています。
内に聖霊様がおられるかどうかは、神と神のおことばに私たちが従っているかどうかによって見極めることができます。
神様がまず私たちを愛して、私たちのいのちを買い取ってくださった、その神様の愛に報いて生きて行きたいというのが、神を信頼し従っていく私たちの動機です。
御霊様の働きがどんなに私たちに必要であるか、そのお働きを示す7つのみことばを紹介いたします。
⑴御霊はいのちをもたらす
(ヨハネ6:63)
「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
聖書が語る「いのち」「死」というのは、神様との関係において生きているか、死んでいるか、という意味です。
⑵御霊はイエスについて悟す
(ヨハネ15:26)
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについて証します。」
イエス様について御霊様の証されることを受け入れないと、イエス様のことは理解できません。
⑶御霊は真理とみこころへと導く
(ヨハネ16:13)
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」
御霊様は私たちを真理に導いてくださり、私たちは、示されたみこころ(真理)を行動に現していきます。すると、そういう私たちの姿、生活を通して、聖霊の働きが光として輝いてくるのです。
⑷御霊はイエスの栄光を輝かす
(ヨハネ16:14)
「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」
内におられる聖霊様は、イエス様の栄光を、まず私たちの内側に現されます。すると、私たちの魂、霊が力づけられ、それが生活の中の行動やことばに現れていきます。
以前には無かった力、イエス様のような心、考え方、価値観がその人の内に生まれ、赦せなかった者が赦せるようになり、人のした悪を思わず、寛容や親切、善意で人々のお世話が出来るなど、イエス様の愛を自然に実行することが出来るようになります。
そのように、キリストの栄光を現わすとは、私たちの内側からキリストのご性質が輝いて現れ、生活の中に見えるようになることです。この働きは聖霊様による働きです。
⑸御霊は罪と死の原理から解放する
(ローマ8:2)
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」
罪と死の原則に縛られているクリスチャンがいます。それは、御霊による働きがその人の内に実現していないからです。聖霊様は私たちにキリストの姿が現れるようにと働いてくださるお方です。
⑹御霊は死ぬべきからだを生かす
(ローマ8:11)
「もしイエスを死者の中からよみがえらさせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
もし、聖霊様が内に働いておられれば、神様にとって役に立たない罪の奴隷のような肉体も、神様のために用いられ、神様に対して生きるものとしてくださいます。
⑺御霊は肉の働きを制御する
(ローマ8:13)
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
殺すとは完全に制御すること、その力は御霊の働きによります。
以上のように、御霊様が私たちの内に働きかけてくださって、私たちは内側からキリストの栄光を輝かせることができます。そのためには、御霊を受け入れること、即ち、みことばに従うことが大切です。
【俳句】
助け主 御霊を宿し 「福」放つ

■2026年1月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
岩の上に家を建てる up 2026.1.25
主題聖句(箴言16:24)
親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。
※ 先週までの復習
【今年の主題聖句】
(マタイ5:16)
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
天の父なる神様、救い主イエス・キリストが崇められるようなクリスチャン生活であるために、内側に頂いている神様のみことばの光を輝かせるような毎日を目指していきましょう。
【いのちの光を持つ】
(ヨハネ8:12)
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
私たちの内に、いのちの光(イエス様)を持つためには、イエス様に従うことが必要です。それによって私たちは闇の中を歩むことがありません。
「人は一度死ぬことと、死んだ後、神の前でさばきを受けることが定まっている」(へブル9:27)と書かれてある通り、神様は生きている間に犯した違反をすべて最後にまとめて、一人一人を裁かれます。
しかし、その罪のさばきを、私たちの代わりに受けてくださった方がおられます。2000年前、神が人となられて、その罪の無い聖いいのちを十字架で犠牲にしてくださったイエス様です。
このイエス様を救い主として信じ従っていく人は、罪の赦しを得ます。そして、ルールを守って生活する喜びを知るようになります。
【従うために必要なことは信頼】
(Ⅰヨハネ4:10)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
神様はまず私たちを愛してくださって、私たちの罪を見るより先に私たちの存在の素晴らしさを見てくださり、この人々の為ならいのちをかけてでも救いたい、と思ってくださいました。
イエス様は私たちの罪の赦しのために、自らを、神様の怒りをなだめるための供え物となってくださいました。
それがイエス様の十字架の御業です。ここに神の愛が現わされました。
その愛に応えていきたい、従っていきたいと、神様の愛に応答する愛が私たちの内に生まれます。ここに、私たちの愛があるのです。
御子イエス様への愛が自分は不十分だと思う人は、神様がまずどれほど自分を愛してくださったかを、人生を通して生活の中で実感していくことです。
そうすれば、自ずと父なる神様そしてイエス様への愛が湧き上がり、従っていく気持ちも段々と強くされていくのです。
【いのちの光を持つ者】
(ヨハネ8:12)
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
❶従う者は賢い人
(マタイ7:24-27)
「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩のうえに自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」
★神は必ず罪を裁かれます。見逃される罪は一つもありません。
★イエス様の罪の赦し(神の愛)を深く感じる人に、罪の赦し は成就します。
★創造主なる神は存在します、これが岩なる真理です。
★真理を悟るには、真理への飢え渇きと忍耐が必要です。
★諦めないで、創造主イエス・キリストへの希望を持ち続けましょう。
これらの教えを素直に受け止めて信じ行う人は、岩の上に家を建てる賢い人です。嵐が来ても倒れません。
※ 今日のテーマ
【岩の上に家を建てる実践】
(箴言16:24)
「親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。」
親切なことばは、蜂蜜のように、私たちの疲れた魂を癒し、心も体も元気に回復させる力を持っています。
素直に、蜂蜜をなめるように、親切なことばを受け入れましょう。
親切なことば、優しいことばを受ける機会が少ないと、心身の健全な成長が妨げられます。
どうぞ、親切なことばを受け入れるように、また発するように、少し意識して、この一週間を過ごしてみてください。岩の上に家を建てる実践の第一歩です。
【短 歌】
配慮ある 思いやりある 親切は
優しいことばの あいさつから
思いやりのある優しいことばを語っていくにあたって、まず挨拶から人間関係をしっかりとつないでいく神の家族、兄弟姉妹でありたいと思います。

■2026年1月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
いのちの光を持つ者 up 2026.1.18
主題聖句(ヨハネ8:12)
わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。
※2026年の主題聖句
(マタイ5:16)
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
燭台の光は、暗い所を照らすために輝きます。私たちも、内にある光、今も生きて働いておられる神、ことばなる神イエス・キリストを、隠さないで現しましょう、みことばの光を放っていきましょう、という願いで、(マタ5:16)が今年の主題聖句として与えられました。
私たちは、創造主であり救い主であるイエス・キリストが、私たちを通して人々から信頼されることを願います。それはキリストの良き知らせを伝えるという意味をもっています。
*なぜ、イエス・キリストを人々に信頼してほしいのですか
神様は、永遠を光の世界と闇の世界に区別される「さばき」を行われるからです。
闇の世界に行ってほしくない、滅びてほしくない、光の世界で永遠を生きてほしい、自分だけでなく全ての人が救われてほしい、せめて家族、友人、知人、身近な人々、広島の人々がイエス様を信頼して救われてほしい、と思うのです。
神を愛する皆さんの心が光として周りの人々に見えるような、そういう日々を目指して頂きたいと思います。
※いのちの光を持つ
(ヨハネ8:12)
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
いのちの光を持つための条件は、世の光であるイエス様に従うことです。「従う」というのは、聖書のおことばやイエス様の御教えを聞いて実行することです。
何をもって皆さんはイエス様を信じ、従うことが出来るのでしょうか。
*従うために必要なことは信頼
(Ⅰヨハネ4:10)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
神の御子イエス・キリストは、罪ある私たちの身代わりに、十字架のさばきを受けて死んでくださいました。
私たちの罪が赦されるように、救いをお与えくださるほどに、神は私たちを愛してくださいました。
そして、神様が私たちを愛してくださっている、ということが分かると、私たちの心には自然と神様への愛が、信頼が、湧き上がってくるのです。
*「いのちの光を持つ者」とはどういう人でしょうか。
❶従う者は賢い人
(マタイ7:24-27)
「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩のうえに自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」
⑴洪水や嵐でも倒れなかった
洪水は「神のさばき」を象徴しています。創世記のノアの時代に大洪水が起きました。その大洪水は、世に罪が満ちたことへの「神のさばき」でした。
世の終わりの時には、神様による「最後の審判」(罪のさばき)が全宇宙的規模で行われれます。
神のさばきから救われるためには、ノアのように、岩(神のおことば)の上に家(人生)を建てる必要があります。
この地上だけのことではなく、永遠のいのちがかかっていることですから、賢く、神様のおことばを土台としたクリスチャン生活を歩んで頂きたいと思います。
⑵賢さとは?
★神は必ず罪を裁かれる
この世の法律では見逃されることがあっても、神の前にごまかされる罪は一つもありません。それをよく理解しておくことが大切です。
★将来(永遠)に備える
神様のさばきの日には、すべての罪をまとめて、公平な間違いのない裁きが行われます。
(マタイ13章)の「毒麦のたとえ」のように、良い麦も毒麦も最初は区別がつきません。途中で心を入れかえる人もいます。ですから神様は、裁きは収穫の時まで待ってくださいます。
そして収穫の時には、良い麦は永遠のいのちに、毒麦は永遠の滅びに、間違うことなく分けられます。
神様は、ご自分から離れてしまったように見える人も、人生のどこかでまた神様のもとに戻ってくるかもしれないと、信頼と希望をもって見ておられるのです。
★岩(真理)を求める
真理とは、天地を創造された唯一人の神がおられることです。主の主、王の王、神々の神なるお方を求めていきましょう。
★忍耐強い(諦めない)
真理を求めるには忍耐が必要です。諦めず、トコトン追及します。
★創造主への希望を持つ
真の神、創造主なる唯一の神様は、私たちを単に裁くだけの方ではありません。
私たちをご自分のかたちに創造されたからには、将来に対するご計画は素晴らしいものを考えておられる良き神様です。
今はだめでも、そこから未来に向かって進む者に報いをもたらされる、ということを知っている人は賢い人です。
【俳句】
みことばに 従う者には 希望あり

■2026年1月11日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
見られる信仰、あがめられる神 up 2026.1.11
主題聖句(第2コリント3:17〜18)
主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
2026 年、2 回目の日曜礼拝を迎えました。
先週、今年の最初の礼拝で、主任牧師から 2026 年のモットー「御霊による働き」、そして年間聖句として マタイ 5 章 16 節 が示されました。
今日は、そのモットーそのものを詳しく語るというよりも、私たちがどのような視点と姿勢で、この一年を歩んでいくのか、その土台を一緒に確認したいと思っています。
私たちの教会は、長い時間をかけて、一つの流れの中を歩んできました。
2024 年は「御霊によって歩もう」
これは、日常の中で、考え方、選択、態度、生き方そのものを御霊に委ねて歩んでいこう、という招きでした。
2025 年は「ビューティフル・コミュニティ」
御霊によって歩む一人ひとりが集められ、美しい交わり、分かち合い、共同体が形づくられていく。
そして 2026 年、「御霊による働き」
これは突然、何か新しいことが始まる、というよりも、内側での歩みが、やがて外側に現れていく、その自然な深化だと受け取ることができます。御霊によって歩む。その歩みが積み重なると、御霊による「働き」として現れていく。今日は、その「現れ方」について、聖書から学びたいと思います。
主題聖句の中で、とても大切な言葉があります。それは、「反映する」という言葉です。
私たちは、光そのものではありません。光源ではないのです。私たちは、鏡のように、主の栄光を反映する存在です。鏡は、自分で光を放ちません。向けられている方向によって、何を映すかが決まります。
同じように、私たちの信仰、行い、生き方が輝くとき、それは「自分がすごいから」ではありません。聖書ははっきり言っています。「これは、主の御霊の働きによるのです。」変えられるのも、用いられるのも、影響が与えられるのも、すべて 主の御霊の働き です。
ここで、ひとつ大切な確認があります。御霊の働きは、私たちを目立たせるためのものではありません。御霊は、人を有名にするために働かれるのではありません。御霊は、人を誇らせるために働かれるのでもありません。御霊が働かれるとき、最終的にあがめられるのは、いつも神ご自身です。
そのことが、はっきり現れている場面があります。使徒 3 章です。美しの門で、生まれつき足の不自由な人が癒されました。誰の目にも分かる、明らかな奇跡です。
人々は驚き、ペテロとヨハネを見つめました。そのとき、ペテロはこう言いました。「なぜ、私たちを見つめるのですか。」ペテロは、注目を集めることを喜びませんでした。
「私たちがやったのではない」「私たちを見るな」これが、御霊に満たされた人の自然な反応です。御霊の働きは、人の視線を人に集め続けません。むしろ、神に向けて、そっと戻していくのです。
年間聖句であるマタイ 5 章 16 節には、こう書かれています。
「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるためです。」
信仰は、見られます。生き方も、見られます。しかし、あがめられるのは、私たちではありません。父なる神です。これが、御霊による働きの方向です。
2026 年、私たちは無理に目立とうとしなくていい。成果を演出しなくていい。ただ、御霊によって歩み続ける。そうすると、主の御霊が、必要な形で、必要なところに、光を反映させてくださいます。そして、その光は、必ず神の栄光へと戻っていきます。
「すべてのことが、神から出て、神によって成り、神に至ります。栄光が神にありますように。」アーメン。

■2026年1月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
御霊による働き up 2026.1.4
主題聖句(マタイ5:16)
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
イエス様が再臨されるにあたって、イエス様の救いの福音はすべての国々の民に宣べ伝えられ、それから終わりがくる、ということが聖書に記されており、この8年間は、そのための備えをして参りました。
今年は9年目になります。福音を伝えるにあたって、私たちの能力や才能を更に神様が用いてくださるために、御霊様が私たちを用いてその働きをしてくださるという意味で、「御霊による働き」というタイトルを付けました。
私たちの失敗をも神の栄光のために変えてくださるということをも含めて、聖霊様によって私たちは、罪の赦し、神の愛、神の憐れみと恵みを証しし、宣べ伝えていくという、そういう一年を目指していこうと思っています。
今年一年のモットーのみことば
(マタイ5:16)
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良いおこないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
このみことばから、3つのポイントを挙げてみました。
⑴あなたがたの光
⑵人々の前で輝かせる
⑶父をあがめるようにしなさい
私たちの光を人々の前に輝かせることを通して、私たちの生活を見た人々が自然と父なる神様を崇めるようになる、そういうイエス・キリストの救いの証を、今年は目指していこうと思います。
人々が信じたくなるような魅力を、私たちの内側から輝かせていく、そのためには御霊による働きが必要です。
どんな人でも、イエス・キリストを信じて、内側に光を持ってそれを輝かせるなら、天の父なる神様が崇められるようになります。
今日はまず一つ目のポイント、「あなたがたの光」について、お話しさせて頂きます。
※「あなたがたの光」とは、どういうことでしょうか。
①(ヨハネ8:12)
「私は世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
イエス様ご自身が「私は世の光です。」と仰っておられます。そして、イエス様に従う者は闇の中を歩まず、「いのちの光を持つ」とも言われています。
イエス様のおことばに従うことは、その人の内に「光」があるしるしであり、みことばを聞いても行わない人やあきらめた人は、「いのちの光」を内に持っていないということです。
みことばを聞いたらチャレンジし続ける、行い続ける、そういう姿勢の人が、内に「いのちの光」をもっている証です。それは「イエス様自身を持つ」ということに繋がっていきます。
②(ヨハネ1:1-4)
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずに出来たものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」
「イエス様を持つ」とは、「人の光」であるイエス様を内側にもつことです。その「光」とは、ことばなる神であり、そのおことばを私たちが生活の中で実践していくならば、私たちの内に、ことばなる神イエス・キリストが住まわれるのです。
このお方は万物を創造された方です。万物は神のことばによって創造されました。そのことばとはイエス・キリストのことです。このイエス・キリストは「人の光」です。
「光」は、明るい。よく物が見える。ずっと先まで見える。足元だけでなく、人生の先の方まで見ることが出来る。希望。暗闇がないので、つまづき倒れることがない。そういうイメージがあります。
私たちが生きて行く中で、「人の光」であるイエス・キリストが内に存在してくださるなら、そういう「光」をもった人生の歩みを続けることが出来、主題聖句(マタイ5:16)のみことばが成就するのです。
③ (ヨハネ1:5)
「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
闇とは、先が見えない、目がみえない、何もわからない、手探りで生きて行く、人生における様々な試練や苦しみ、辛さ、不幸、災い、そのゆえに、生き方が分からなくなる状態です。
しかし、私たちの内には、「人の光」であり「神のことば」であるイエス・キリストがおられます。人生の闇の中、どうしてこんなことが?というような出来事の中にあっても、私たちの内には「神の約束のことば」「人を照らすまことの光」が輝いているので、闇は退きます。闇は光に勝てないのです。
※ 人を照らす真の光
私たちの体が病気になって死んだとしても、それは闇におおわれた人生ではありません。魂は永遠です。神の真理のおことばである聖書がそのように教えています。
私たちの魂は、真の光なるイエス・キリストによって、永遠の未来に向けて希望を持って前に進んで行けるのです。
病気、事故、災いという暗闇の中でも、イエス・キリスト、御ことばの光をもって、今もこれからも歩むことが出来ますから、私たちは安心です。
クリスチャンは「光」を持っているのですから、暗闇ばかりを見て、希望のない生活にならないように、足の灯であり、道の光でもある「御ことばの光」に照らされて前進していきましょう。
人を照らす真の光イエス・キリストを信頼して、御霊様の働きを信じて、みことばの約束の成就を体験しながら、希望を持って一歩一歩前に進んでいきましょう。
※ 適用・チャレンジ
逆境の中で輝く神のことばを信じて生きる
今年みなさんにチャレンジしていただきたいことは、逆境の中で輝く神のことばを信じて生きるということです。
今年、どんな逆境がやってくるか私たちには分かりませんが、もし来たらそれはチャンスです。光は闇の中で輝くものです。
闇の中にいる自分に気が付き、神の光を体験しましょう。聖書のみことばに導かれ、守られ、助けられて、日々聖霊様と共に生活していく一年となりますように、チャレンジしましょう。
【俳 句】
みことばに 生きる喜び 新年は
暗闇の中で輝くみことばを生きる喜びを体験しましょう。今年はそのような新しい年として進んで頂きたいと思います。
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