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■2026年7月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
歓天喜地の神の国4 up 2026.7.26
■2026年7月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
歓天喜地の神の国3 up 2026.7.19
前回までの復習 「歓天喜地の神の国」 (ローマ14:17) 神の国の喜びは、飲み食いなどの目先の願望が叶って満足する喜びではなく、人格的な喜び、魂の喜び、聖霊による喜びであることをお話しして参りました。 (Ⅰ)神に愛されている喜び(6/14) (Ⅱ)神に選ばれている喜び(7/5) 今日は、(Ⅲ)神に聖別されている喜び というテーマでお話いたします。 (Ⅲ) 神に聖別されている喜び ① Ⅰペテロ1章2節 「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」 『御霊の聖めによって』 そして御霊によってイエス様が流された血潮には、私たちの良心をきよめる力があると語られています。神様の愛が私たち罪人の良心をきよめるということです。 今日は、(Ⅰペテロ1:2)の冒頭の「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって」という部分から、「聖められた喜び」について、皆さんにも考えて頂きたいと思います。 ※「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって」 アダムとエバが罪を犯したことにより、地上は不敬虔な世界となり、人は罪の奴隷となってしまいました。 それでも父なる神様は、神を敬う敬虔な人々がいるということを予知されて、御霊の聖めをご計画されました。 すなわち、一人子なるイエスキリストの血潮をもって、罪を赦す贖いの御業を、十字架において歴史の中に刻まれたのです。皆さんはそのようにして選ばれ贖われた一人一人なのです。 罪の奴隷となっているけれども、そこから救われたい、そのような苦しみから解放されたい、正しい道に帰りたい、そういう魂のうめきを持っている罪人が存在することを神様は予知されていました。 神を愛し敬う敬虔なこころは、良心が清められなければ持つことはできません。神様の存在に心を向けるように、聖霊様が私たちを導いてくださって、今ここに共に礼拝を捧げることが出来ているのです。 ② コロサイ1章22節 「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によってあなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」 神様は、キリストにあって私たちと和解してくださいました。その目的は私達を、聖く傷なく非難されるところのない者として、神様の前に立たせるためです。そのために私たちに必要なものは唯一つ、「神への敬虔なこころ」です。 ※聖別は「光彩陸離」の喜び (光彩陸離=美しい光がまばゆいほどに輝くようす。) ある人々を、ある条件で、神様が他の様々な人の中から特別に御自分のために選り分けることを「聖別」と言います。 神様と和解させて頂いて、赦しを与えられた人の喜びは、いのちの光が眩いほどに輝く「光彩陸離」の喜びです。 私たちはイエス様を信じて罪赦されて、神に愛されている喜びを与えられ、心の底から湧き上がる感謝をもって生きています。 イエス・キリストを信じるだけで、神様は私たちに敬虔な心があると見てくださいます。その敬虔な人々のために特別に計画された十字架の罪の贖いは、測り知れない神の愛です。 罪赦されて、世の光としてこの世で輝くようにと、神様は私たちに求めておられます。すべての事を感謝し、いつも喜び、神の前に敬虔な祈りの生活を積み重ねていくという、「光彩陸離」の喜びの生き方をして参りましょう。
短歌 聖別は 敬虔な心 持つ人に 注がれている 特別な愛
■2026年7月12日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
父なる神に向かう礼拝 up 2026.7.12
ここまでの2週で、私たちは礼拝について見てきました。「主の前に立つこと」そして「霊とまことによる礼拝」です。 まず一つ目、「奴隷の霊ではない」とあります。奴隷とは、恐れに支配されている状態です。神に近づくときも、怒られるかもしれない。拒まれるかもしれない。ちゃんとしなければならない。そのような恐れの中にいる姿です。 しかし、私たちはそうではありません。二つ目のポイントに、「子とする霊を受けた」とあります。ここで、はっきりと立場が変わっていることがわかります。 私たちは、遠くから仕える者ではなく、神の家に迎えられた子とされました。もう外の人ではなく、家の中にいる存在です。 さらに三つ目のポイントして、「アバ、父と呼ぶ」関係にあることがわかります。これは知識ではなく、関係です。神を「父」と呼ぶことができる。しかも「アバ」という、とても親しい呼び方で。 つまりこの箇所は、私たちがどのように神に向かうのかを示しているのです。恐れからではなく、子として、父に向かう姿こそが、まことによる礼拝なのです。 ここで一つ、イメージしてみてください。最近のスポーツ、特にワールドカップなどを見ていると、選手だけでなく、ファンもユニフォームを着ています。同じ色、同じデザインを身に着けて、「自分はこのチームの一員だ」と表します。周りから見ても、「あのチームの人だ」とすぐに分かります。これはとても分かりやすい“所属”の表現です。では、私たちは、何の“ユニフォームを着ている人”でしょうか。神のユニフォームと言いたいところですが、私たちは、神のファンとして礼拝に出席しているのでしょうか。いえ、私たちは神の子だから父なる神を礼拝しているのです。 子どもはユニフォームを着なくても、すでに家族なのです。私たちは、神のファンではありません。神の子です。だから聖書は言います。「奴隷の霊ではなく、子とする霊を受けた」 奴隷は恐れで動きますが、子どもは違います。愛されている前提で、近づきます。だから、「父」と呼ぶことができるのです。ここで、礼拝をもう一度考えたいと思います。 私たちの礼拝は、どちらになっているでしょうか。ちゃんとやらなければ。正しくしなければ。間違えてはいけない。 もしそうなっているなら、それはどこかで、奴隷の礼拝になっているかもしれません。 しかし本来、礼拝はそうではありません。子として、父に向かうものです。父の前に来るとき、恐れではなく、安心があります。 拒絶されるかもしれないではなく、受け入れられているという確信があります。だから礼拝は、義務ではなく、関係から生まれます。私たちは、父に向かって礼拝しているのです。 これまで見てきたように、礼拝は「主の前に立ち」「御霊と真理」によるものです。 今日もう一つ加えます。それは、「どのように立つか」です。奴隷としてではなく、子として立つ。恐れではなく、愛の中で立つ。そして、呼びかけるのです。「父よ」これが、父なる神に向かう礼拝です。
■2026年7月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
歓天喜地の神の国2 up 2026.7.5
今年のモットーは「御霊による働き」ということで、半年が過ぎました。今年の後半は「歓天喜地の神の国」というテーマを中心に進んでおります。「歓天喜地」とは「天を仰いで歓び、地にうつむいて喜ぶこと」という非常に大きな喜びの意味です。 主題聖句は(ローマ14:17)「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」 今日はその2回目です。前回は(Ⅰ)『神に愛されている喜び』、自分の存在そのものの価値を感じるような愛が注がれている喜びについてでした。今日は、(Ⅱ)『神に選ばれている喜び』についてお話し致します。 (Ⅱ)神に選ばれている喜び ①Ⅰテサロニケ1:4 ②Ⅰコリント1:27 この世とは不敬虔な世界を意味しています。不敬虔な世の価値基準と神様の価値基準は違います。この世に望みを持ち、この世に楽しみを考え、この世に生きる喜びを見いだそうとする人は、この世の価値観に合わせようとするでしょう。 しかし合わせようと思っても合わせられない人々もいます。例えば、宗教に熱心な人々などは、この世の基準では、神の存在に頼る人、自立できない弱い人と思われるかもしれません。 しかし、皆さんが毎週日曜に教会に来られるのは、神への強い敬虔な心の姿勢です。肉体は死んでも、永遠のいのちを保つことの出来る罪の赦しを成就してくださった神様、イエス様ですから、仕事を失おうが肉体の命を失おうが、永遠の神の国に入る救いに勝るものはないと考えます。 いずれ神様はこの罪の世を罰して滅ぼされます。神様は、ご自分を信じる者たちがその時一緒に滅びることがないように、その救いとして、罪の赦しを与える贖いの御業であるイエス様の十字架を歴史の中で成就してくださいました。 ですから、私たちは日曜でも礼拝に出席して、そこで神様のおことばを聞き、そのおことばに生きる日々を目指すという強い意志を持って、神様に頼っていくという信仰生活を送ってきているわけです。 それが難しい状況の人たちもおられます。神様はそういう人々にも恵みと寛容をもって赦しを与えながら、一人一人が神様の前にどのような敬虔な思いや態度、心の姿勢を持って生きて行くかを見ておられます。 神様が示してくださった私たちへの愛に対して、心からそれを尊び従っていきたいという心で神に従っていくのが、私たちの神への愛であり、信仰です。 神様の選びの基準は、私たちの罪のゆるしのための救いを成就してくださった愛なる神様を畏れ敬い、その敬虔な心を持ち続ける人を神は選ばれる、と(Tコリント1:27)から読み取ることが出来ます。 ③エペソ1:4 なぜ、敬虔な人を選ばれるのでしょうか。神に従わず信頼しない、そういう心の姿勢では、神の働きかけを受けることが難しいからです。行いまでは出来ていないけれど敬虔な心を持っている人を選んで、そこから神様はきよく傷のないものにしようと、導かれるのです。 創造主なる神様を心から敬う敬虔な心を持っている証は、神が人となって人々の罪のために十字架で苦しみを身代わりに受けてくださった救い主イエス・キリストを信じること、そしてこの救い主を送られた創造主なる父なる神を心から敬うこと、それが敬虔な心のしるしです。 選びの目的はキリストを信じる敬虔な者を、ご自分の清さに預からせること、この目的があってこその選びです。 ④コロサイ3:12 私たちは、神が認めてくださるような「聖なる者」ではないにもかかわらず、むしろ選ばれるはずのない罪人なのに、神様はご自分の愛を注ぐ対象者として、私たち人類をご自分のかたちに似せてお造りくださいました。 特別な者として私たちを選り分けてくださり、愛を注いでくださっているそのお気持ちを深く思い見る時に、私たちはこのままの状態であるのは申し訳ない、出来るか出来ないか分からないけれど、深い同情心と慈愛と謙遜と柔和と寛容を身に付けるようになろう、と思えるのではありませんか。それが、選ばれ、愛されている喜びの応答の力なのです。 私たちはいつも自分の現状を見て、無理だと諦めてしまいますが、神様は諦めてはおられません。 あなたの内に、選ばれた喜び、愛されている喜びがあれば、この深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けていこうという意欲が必ず湧いてくるはずです。イエス様のようなご人格、ご性格に成長していけるのです。 あなたには出来る、と神様が愛をもって私たちを選んでくださったのです。その喜びをしっかり内に持って、それを力として、神様のきよめに応えて参りましょう。聖霊様が、その新生と新創造を、助け導いてくださいます。
短歌 選ばれた 歓天喜地の 人々の きよめを目指す 輝く姿
■2026年6月28日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
御霊と真理による礼拝 up 2026.6.28
先週、私たちは「主の前に立つ」ということを見てきました。礼拝とは、何かをすることではなく、神の前に立ち直ることでした。 ヨハネの福音書4章に、サマリヤの女性の話があります。イエス様が井戸のそばに座っておられたとき、一人の女性が水を汲みに来ました。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は良い関係にありませんでした。さらに彼女は、人目を避けるように一人で来ていました。 これは私たちにも重なります。どんな賛美がいいのか。どんなスタイルがいいのか。先週、あるカンファレンスに参加しました。大きな会場で、素晴らしい音響と演奏がありました。 「父は、そのような礼拝者を求めておられる」どのような礼拝でしょうか。「御霊と真実による礼拝」です。 しかし礼拝は、神に向かうものです。御霊による礼拝とは、外側を通して、内側が神に向いている状態です。真実による礼拝とは、偽りのない姿です。作らない、飾らない、そのままで神の前に立つことです。つまり、外側と内側が一致している礼拝です。 手を上げていても、心が向いていなければ意味がありません。逆に、静かでも、心が神に向いていれば、それは礼拝です。そして大切なのは、外側が内側を助けているかどうかです。 先週、私たちは「主の前に立つ」ことを見ました。今日はもう一歩進みます。ただ立つだけではなく、どう立つか。神は外側ではなく、内側を見ておられます。そして今も、そのような礼拝者を求めておられます。
■2026年6月21日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
主の前に立つ礼拝 up 2026.6.21
聖書に、エリヤという人物が登場します。彼は、ある日突然現れます。どこの出身か、何をしてきたのか、ほとんど説明がありません。ただ、王の前に立って、こう言うのです。 なぜ彼は王の前でもそのように恐れずにはっきりと宣言できたのでしょうか。それは、彼が王の前に立っていたからではなく、人の前に立っていたからでもなく「神の前に立っていたから」です。 神の前に立つ、とはどういうことでしょうか。それは、神を、“今ここにおられる方”として向くことです。そして、自分を神のまなざしの中に置くことです。 礼拝は整っています。賛美があり、献金があり、メッセージがあり、祈りがあります。しかし、もし“向き”がズレてしまったら、どうなるでしょうか。流れはあっても、神を見ていない。歌っていても、神に向いていない。聞いていても、神を求めていない。そういうことが、起こり得るのではないでしょうか。 礼拝とは何でしょうか。それは、集まることではありません。礼拝とは、「神の前に立ち直ること」です。私たちが礼拝の中でしている一つ一つのことは、すべて、そのためにあります。 賛美は、歌うためではありません。 すべては「神の前に立つため」です。エリヤは、一瞬だけ神の前に立ったのではありません。立ち続けていたのです。誰もいない場所でも。人々の前でも。 私たちはどうでしょうか。礼拝の最初から最後まで、神の前に立っているでしょうか。それとも、途中で別のものを見てしまっているでしょうか。 先日、あるメッセージを聞きました。ザアカイの話です。そこでは、こう語られていました。 「イエス様は、今日、あなたの名前を呼んでいる。」 礼拝も同じです。私たちは神に向こうとします。同時に神の方が、私たちを見ておられるのです。そして今日も、あなたの名前を呼んでおられます。だからエリヤは言えたのです。「私は主の前に立っている」と。 私たちは、今日も私たちを見ておられる神の前に立ちます。私たちの名前を呼んでおられる神の前に立ちます。今日の礼拝、特別なことはしないかもしれません。でも、向きを変えることはできます。
■2026年6月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
歓天喜地の神の国 up 2026.6.14
この世は飲み食いの世界です。人はそれを楽しみ、年老いても健康に飲み食い出来ることを目標として生きております。 しかし神の国は、体を養うことが本命ではありません。神の国の喜びは、飲み食いではなく、義と平和と聖霊による喜びであると、パウロ先生は教えています。 神様は、死の向こうに神の国の新しい人生を用意してくださっておられ、それこそが本命の人生なのだと、2千年前にイエス様を通してお示しくださり、そのおことばを聖書の中に集められました。 私たちはそのおことばを信じて、死の向こうに向かって、今歩んでいるところです。死んで終わり、ではないのです。 Ⅰ. 神に愛されている喜び ①(ヨハネ3:16) ※罪に満ちたこの世を神様は愛された、すなわち、罪に縛られ滅んでいく世界を、神様は憐れんでくださった それゆえ、神様は、罪無き神の御子イエス・キリストを世に送り、私たちの身代わりのいけにえとして十字架で犠牲になさいました。 そして神の愛そのものであるイエス・キリストを信じる者たちは、永遠のいのちを持つという救いの約束を与えてくださいました。それほどまでに神様は世を愛してくださっておられるのです。 ②(ローマ5:5) 聖霊によって神の愛が心に注がれると、希望は失望に終わることはない、と語られています。失望する状況があっても、神の愛は希望を復活させる力があるからです。 神の愛が心に注がれていることを、どうして分かるのでしょうか。それは私たちの心に与えられた聖霊様によって分かります。聖霊様を受けることはクリスチャン生活の土台です。 天の神様と地上にいる私たちとの間が聖霊様によって繋がります。聖霊様の絶え間ない注ぎの関係が大切です。イエス様の御名によってよく祈ることが大事です。 ※『愛による喜び』は、どのような方から愛されているかに気付いたとき、溢れてくる。 初めに、ご自分のかたちに似せて人を造られた神様は、私たちを最後の最後まで、愛ゆえに責任をもって面倒をみてくださるお方です。 ③(エレミヤ31:3) ※永遠のいのちに至るように、誠実を尽くし続けてくださった神の愛。 神様とわたしたちの間には、罪という隔てがあります。 神様に背を向けて歩んでいるクリスチャン、それに気付くことも出来ないクリスチャン、心が遠く離れている罪人、それでも神様は、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。誠実を尽くし続けた。」と言ってくださっておられます。 何でも言うことをきいてくれるのが愛や誠実ではありません。私たちが罪の奴隷となって永遠の滅びに至らないようにと忠告をし、導き、正しく善を行うことを励ましてくださる、それが本当にあなたの魂を愛してくださるしるしです。
俳句 神の国 歓天喜地に 満ちている
■2026年6月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
荒野の人生に移山造海 up 2026.6.7
移山造海(いざんぞうかい) →自然を造り変えること (不敬虔という荒野と荒地のこの世界に、みことばによる新しい人生の道と、御霊の交わりを通して、いのちの水の川を設けてくださる) 神を敬う者にとって、この世は霊的には厳しい荒野のような、荒地のような世界だと言えます。どこに道があるのか、どこに水があるのかと途方に暮れている方々もおられるでしょう。今日はそのような方たちのための希望という意味で、みことばを語らせて頂きたいと思います。 これは、イスラエルに向けて語られた神様の預言のおことばです。実際に、1948年にイスラエルが建国され、全世界から帰って来たユダヤ人は、荒地も荒野も開拓し、道を造り、川を造って、今では自給自足が出来る国にまで成りました。 この(イザヤ43:19)のみことばは、自然環境についてだけのことではありません。もし私たちが、知らぬ間に世の価値観に影響されて、敬虔であることに喜びや平安が感じられず、クリスチャン生活が空しいと感じるようになったら、それは霊的に荒野や荒れ地にいる可能性があって、クリスチャンとして歩む道がわからないとか、また、聖霊様のいのちの水を頂くことが出来ていないのかもしれません。 ①みことばのイエスが≪道≫ ヨハネ1章では、イエス様が「ことばなる神」であることが教えられています。イエス様は私たちに「ことば」を与えて、「道」を示してくださいます。 すなわち、クリスチャンとして歩む人生の方向性、目的、神様の願い、そういうことを、「ことば」によって教えてくださるのが、ことばなる神イエス様です。私たちはイエス様を信じて、示されたその道を歩み切ることが出来ます。まさしくイエス様は「道」であり、「真理」であり、「いのち」なのです。 もし、神の子としての歩み方を示す「おことば」が、あなたの心に響いて来なかったら、ずっと荒野で迷い続けることになります。 私たちを造り愛してくださった父なる神様は、不敬虔で自己中心の私たちが滅んでいくのを憐れみ、わが子として心配し大事に思って、良い方向に育て導きたいという愛をもって、御子イエス・キリストの十字架による贖いの御業を実現してくださいました。 その愛に出会わなければ、敬虔な神様の教えに生きていこうという願いは起こってこないのです。人は愛を感じなければ、愛してくださった方の思いを受け入れてその方向に歩んで行こうという決心・決意は出来ないのです。 ②御霊のいのちの水の≪川≫ 旧約聖書には、成人男子だけでも60万人いたというイスラエルの民が、エジプトを出て神様の示された地まで行く間、途中で水がなくなってしまったことがありました。しかし神様は、岩の裂け目から水を出し、川を造るほどに止めどなく流れ出させて、すべての民を40年間、潤してくださいました。 神様は、40年間も荒地に川を設けることの出来る創造主なるお方であります。これは、クリスチャン生活の荒野を歩んでいる状況の中で、神様はいのちの水を与えてくださるお方であることを私たちに示してくださっています。 ③移山造海を受けたナアマン 【ナアマン将軍の話】 ナアマン将軍は持参していた贈り物をエリシャに渡そうと引き返しましたが、エリシャは受け取りませんでした。見える人に頼るのではなく、見えない神様、ことばなる神様に頼る信仰が大事だったからです。 最後にナアマン将軍はエリシャに、「しもべはこれからはもう、主以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを捧げません。」とイスラエルの神、天地の創造主なる神への信仰を告白することが出来ました。 ユダヤ人でもない異邦人のナアマン将軍が、傲慢という心が砕かれて、へりくだって神のおことばに単純に従ったことによって、病の癒しと神への信仰という救いを与えられたというお話です。 まとめ ●道を示す預言者からの神のことば *ナアマン将軍は、反発したが従った。 ●川の中に7回、全身を浸す。 *6回までは何の変化もなかった。 *身を浸すことは、神の前にへりくだること。 *水に全身が覆われる?御霊との交わり ★敬虔な心で最後まで従う 俳句 頑なな 心砕いて 主に従う
■2026年5月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
人の生きる推本溯源 up 2026.5.31
推本遡源(すいほんそげん)とは、物事の根本を考えて、そのすべてを知ろうとすること。 また、イランの核開発やホルムズ海峡の運行をめぐって、イスラエルとアメリカ対イランの争いも起きています。 「欲がはらむと罪を産み、罪が熟すると死を生みます。」と、ヤコブ書にある通り、罪と死の原理がこの世界に働いているのがよく分かります。 ①≪湧水の泉を得る≫ ②≪生ける水≫ イエス様を信じるすべての者に、神の御霊すなわち聖霊様が注がれる、と先週もお語り致しました。 ③≪ぶどうの木に繋がる枝≫ 主の祈り 天にまします我らの父よ 願わくは御名をあがめさせたまえ 御国を来たらせたまえ 御心の天に成るごとく、地にも成らせたまえ 我らの日用の糧を今日も与えたまえ 我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ 我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ 国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり 【短歌】 枝として ぶどうの木から いずみ得て 実をむすんでこそ 真の人生 聖霊様こそがすべての根本である、と深く悟ってまいりましょう。
■2026年5月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
父なる神の約束 up 2026.5.24
今日の主題聖句(使徒1:4)にあります「私(イエス・キリスト)から聞いた父の約束」というのは、聖霊様(神の御霊様)が私たちの内に住まわれて、私たちを聖霊なる神の宮として用いてくださるという約束です。 そのことが、まず五旬節の日に弟子たちの上に実現しました。そして聖霊に満たされた弟子たちの中からペテロが立って、声を張り上げて人々に語りかけ、この聖霊降臨の出来事が旧約聖書のヨエル書の預言の成就であることを説教しました。 ⑴神の霊が注がれる しかし、聖なる神様の霊が私たちの内に注がれるためには、神様に対する私たちの「不敬虔」(神を神と認めない私たちの一番大きな罪)を取り除く必要があります。 そのために御父なる神様は、御子イエス様を救い主として地上にお遣わしになりました。 罪の無いイエス様は、罪ある私たちの身代わりに十字架による裁きを受けて死んでくださり、私たちの罪の処分を成し遂げてくださいました。そしてよみがえられて、弟子たちの前に現れ、「私(キリスト)から聞いた父の約束(ヨエル2:28)を待ちなさい」と仰ったのです。 ⑵ 新しい霊と心が与えられる 「新しい心、新しい霊」⇒ 神様の霊 「石の心」⇒ 神様に対する頑なな反抗的な傲慢な心 「肉の心」⇒ 血が通った柔らかい生きた心 聖霊様が私たちの内に注がれると、迎え入れた印しとして、神様に対する私たちの「石の心」が「肉の心」に変えられます。神様に対する態度が、柔らかな生きたものに変わるのです。それは私たちが体験出来るものです。 イエス様が現してくださった贖いの御業に、神様の愛を見出して心に受け止めた人には、すぐに聖霊様がその心の内に来られて、神に対する頑なな心は取り除かれ、柔らかい生きた心(正しい良心)が与えられます。 もし、聖霊様があなたの心に触れられ、また、内に住んでくださっていると信じているなら、あなたの心には変化が与えられているはずです。 どんなに異言を語っても、どんなに奇跡やしるしをイエス様の名によって行ったとしても、神様を敬う生きた心が生まれていなければ、それらは何の役にも立ちません。 神の御前に心を柔らかくし、神を敬う敬虔な心が生まれて来てこそ、それは神の御霊が私たちの内に宿っている印しとなります。あなたの内に、イエス様に対する敬虔な心がどこまで磨き上げられ、成長し、鍛錬されているでしょうか。 ⑶へりくだる者に注がれる 叱責されると腹が立ったり、忠告されても自分は正しいと思って益々頑なになる、そのように神様からの教えを受け入れられず無視するような態度では、神の愛は留まりません。 そして聖霊様は私たちを様々な取り扱いへと導いてくださるのです。 【俳句】 聖霊は 神ご自身の いのちそのもの
■2026年5月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
正しい良心の重要性 up 2026.5.17
前回、「解放と自由」を意味する≪ヨベルとペンテコステ≫についてのお話を致しました。 今日は(Ⅰペテロ3:21)から≪正しい良心の重要性≫についてのお話をしたいと思います。 (Ⅰペテロ3:21) *「そのこと」 *「バプテスマ」 *「肉体の汚れ」 *「正しい良心の神への誓い」 *「イエス・キリストの復活による」 そのためにイエス様は十字架で、私たちの受けるべき罪の裁きを身代わりに受けて死んでくださいました。 イエス様ご自身は罪のない正しいお方でしたので、父なる神様はイエス様を死んだままにはされないで、死からよみがえらされました。 イエス様の死と復活は、イエス様には罪がなかったという証明であり、それは信じる者たちの罪の赦しのために有効で、正しい良心の神への誓いを全うすることが出来るということを示しています。 更に、イエス様を信じる者たちの内に聖霊様が来られたということは、神様が私たちの罪を赦してくださったという、私たちにも実感できる明らかな証しです。聖霊様を受けるということは、罪が赦されているという神さまからの応答なのです。 私たちの意思表示は水のバプテスマです。正しい良心による信仰の告白、キリストを畏れ敬う敬虔な心、その心を持ち続ける決心の表明として、私たちは水のバプテスマを受けます。 そして神様はイエス様の十字架を通して私たちに罪は無いと認めてくださり、そのしるしとして、聖霊様を私たちに送ってくださいます。聖霊様はこの肉体に宿り、罪の力を制する働きを与えてくださるのです。 ◉正しい良心の重要性 (Ⅰテモテ1:19) ノアの箱舟は神のさばきからの救いの象徴です。箱舟は神への正しい良心を示しています。箱舟が壊れると大洪水の中で舟は沈没してしまうように、正しい良心を捨てると、神のさばきを受けて滅んでしまいます。 ◉良心をきよめるのは、神の愛による 創造主なる神を敬わない人の良心を、汚れた良心と言います。汚れた良心は、神の愛を知ることによってきよめられます。 「イエス様のお捧げになったその血」とは、わたしたちを罪による滅びから救い出したい、という神さまの愛のお心です。神様の愛に触れなければ人の心は変わりません。 ◉正しい良心に留まるために、毎日心がけて頂きたいこと (Ⅰテサロニケ5:16∼18) ①神の愛の箱舟の中で守られているから、いつも喜ぶ。 しかし私たちは、箱舟に留まり続けることを喜びと出来るでしょうか。箱舟の外で自由に振舞いたいという誘惑に勝てるでしょうか。 ②キリストへの敬虔な心を意識するための祈り ③すべてのことは、永遠の救いに至るためであることを感謝する。 地上での違反による罰も裁きも、隠したり逃げたりせずに、受けるべきは受け、償うべきは償うべきです。 困難、災難、苦しみ、試練、すべては天にある永遠の救いに至るためであることを感謝して、試され、磨かれて参りましょう。
■2026年5月10日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
開き続ける教会 up 2026.5.10
先週は、「閉じない」というとてもシンプルなことをお話ししました。聖霊を待つのではなく、すでに共におられる方に心を開く。分からなくても、閉じない。とてもシンプルなことですが、実はこれが一番難しいのかもしれません。 今日はその続きとして、「開く」ということが、一度のことではなく、どのように続いていくのか。 今日の主題聖句には、聖霊が与えられた後の教会の姿が描かれています。私たちはつい、ペンテコステというと、激しい風のような音や炎のような舌、異言、そういった“出来事”に目を向けがちです。しかし聖書は、それ以上に大切なこととして、「その後、教会がどうなったか」を記しています。彼らは、使徒たちの教えにとどまり、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていました。とてもシンプルです。むしろ、地味に見えるかもしれません。 しかし、その中に一つ、非常に重要な言葉があります。 43節です。「すべての人に恐れが生じた」この恐れは、何かに怯えるような恐怖ではありません。 これは、神が本当におられる、神がここで働いておられるということに触れたときに生まれる、「畏れ」です。 言い換えるなら、「自分中心ではいられなくなる感覚」です。 では、初代教会の人たちはなぜ違ったのでしょうか。それが、この「恐れ(畏れ)」です。神が本当におられる。神が中心である。その現実に触れたとき、人は変わります。 自分が中心ではなくなるのです。そして人々に神への畏れが生じるときに、「神の介入」が起こるのです。 続きにはこう書かれています。「多くの不思議としるしが行われた」これらはある条件のもとで起きています。それは、人々の中に「神への畏れ」があったときです。 神を畏れるとき、神が働かれる余地が生まれるのです。 そしてその結果、何が起きたのか。44節です。「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有していた」 この共有は、単なる制度や「そうしなければならない」と決められたルールでもありません。心が変えられた結果として、自然に起きたことです。神を畏れるとき、人は自分を握りしめることができなくなります。だから、持っているものを分かち合う。当時は、実際に物質的な共有が行われていました。 では、今の私たちにとっての共有とは何でしょうか。それは、物だけではありません。時間であったり、労力や賜物、心だったりします。言い換えるなら、「人生を分かち合うこと」です。しかしこれは、簡単なことではありません。なぜなら、私たちはすぐに自分中心に戻るからです。だからこそ必要なのが、『聖霊の働き』です。 努力だけでは続かない。意思だけでは変わらない。でも、聖霊が働かれるとき、人は変えられます。 神を畏れるとき、神が働かれ、人が一つになる。これが、開き続ける教会の姿です。 私たちの教会は、賛美と交わりを大切にしてきました。でもその中心にあったのは、神が本当におられるという実感だったはずです。 もしそれが薄れてしまうなら、賛美は形式になり、交わりは活動になってしまいます。だから私たちは、何かを変えようとするのではなく、常に思い出していたいのです。神が中心であること、神が働かれること、人が一つとなれることを。 ペンテコステが近づいています。私たちは、あの出来事を再現しようとしているのではありません。あのとき始まった教会の姿に、立ち返ろうとしているのです。そして、もう一度そこに立つことを選ぶ日です。これが、聖霊に対して開かれ続けている教会です。 私たちは、何か特別なことを起こすために準備するのではなく、 神に対して開かれたまま、その日を迎えたいと思います。そして、神が何をなさるかは、神に委ねます。
■2026年5月3日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
開いて迎える教会 up 2026.5.3
ペンテコステが近づいてくるこの時期、教会の中で「聖霊」というテーマが語られることが多くなりますが、 (使徒1:4–5) イエス様は弟子たちにこう言われました。「エルサレムを離れないで、父の約束を待ちなさい」これは提案でなく命令であり、方向を示された言葉でした。 ですから、私たちは「聖霊を待つ」のではなく、「聖霊に対して、自分を開くこと」をすることが大切です。これが、今の私たちにとっての「待つ」にあたる姿です。 私たちは、「何かが起きるのを期待する教会」なのか。 今日、私たちにできることは、とてもシンプルです。すべてを理解することではなく、完璧になることでもありません。 ペンテコステに向けて、何かを起こそうとするのではなく、私たち自身が、聖霊に対して開かれた教会でありたいです。すでに共におられる方に、もう一度、心を開きましょう。
■2026年4月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
御霊による自由 up 2026.4.26
私たちの罪のためにいのちを捨ててくださり、私たちを義とするために三日目によみがえってくださった救い主イエス様を、信頼し感謝し従っていく、その心を持った人の内に賜物として聖霊が与えられる、ということが使徒行伝2章38節に記されています。 それは神様の約束ですから、どうすれば聖霊様が来てくださるのかと考えるのではなく、すでに賜物として聖霊様が私たちの内におられて、私たちの内に7つの働きかけ(前回までのメッセージ参照)をしてくださっているのだと、素直に信じて応答することが大事です。 今日は、主題聖句(Ⅱコリント3:17)の「主の御霊のあるところには自由があります」という「自由」について、聖書から見ていきたいと思います。 ★旧約聖書のヨベルの年 旧約聖書では50年に一度、「ヨベルの年」(大安息の年)がやって来ます。レビ記25章に記されていますが、「すべてを元に戻す」という意味で、全ての負債、土地も奴隷も借金も、50年目に全部赦されて、負債のない元の状態に戻されるという「解放の年」です。 ★新約聖書のペンテコステの日(聖霊降臨) 新約聖書では、イエス様が復活されて50日目の日に、聖霊様が地上に来られて私たちと共に住まわれるという、聖霊降臨の出来事が起きました。 私たちが罪赦されて罪の束縛から解放されて立ち返る元の姿とは、神の似姿です。罪を犯したために神の似姿を失って罪の奴隷となっていましたが、聖霊様の働きによって自由にされ、あるべき姿に立ち戻ることが出来るのです。 解放され自由にされ、あるべき姿に立ち戻る、そういう意味が、ペンテコステとヨベルの年、どちらも「50」と言う数字で繋がっています。御霊にある自由と安息を、皆さんもぜひ味わって頂きたいと思います。 ◉肉の行い・自己中心・不敬虔からの解放 たとえイエス様を信じて洗礼を受けても、その後の人生がこのような罪に浸ったままで一生を終えるとしたら、そういう人は神の国に入ることはできないと、厳しく忠告されています。 私たちは神の国の相続人として、この地上の人生においては試みられ、鍛えられ、磨かれ、きよめられて、そして天に引き挙げられていくことを神様はご計画しておられます。 父なる神様を畏れ敬い続け、イエス様を信じ従い続け、そして御国に入って報われることを目指して頂きたいと思います。 ◉御霊の自由を得るために正しい良心の重要性 最後の目的地に至るまで、破損したらすぐ修理して(悔い改めて)、正しい良心を働かせ続けて人生を航海することが必要です。 ◉良心のきよめ【正しい良心】 良心のきよめがなければ、私たちの神への信仰は、願い事ばかりの自己中心なご利益宗教になってしまいます。 私たちを贖うために、イエス様が十字架でいのちを投げ出してくださった、この意味が分からないと、良心がきよめられたとは言えません。悔い改めることも出来ません。 自分の心の内をよく吟味して、自己中心になっていないか、不敬虔になっていないか、神様より人の目を気にしていないか、神様への思いが弱っていないか、自分の心を見張り守ることが必要です。 (へブル9:14)に書かれてある通り、良心がきよめられなければ、生ける神に仕える者にはなれません。良心のきよめが不十分だと、そのうち聖書も読まなくなり、祈らなくなり、クリスチャンとの交わりもしなくなり、教会にも行かなくなります。 私たちの良心がきよめられるのは、「キリストの血」によってだけです。罪ある私たちを永遠のさばきから救い出したいという神の愛と憐れみを象徴しているのが、イエス様の血潮です。 私たち罪人をもう一度、我が子として取り戻したい、という父なる神様の御思いを御子イエス様はご自分の思いとして、十字架にかかることを良しとされました。 イエス様は自ら両手を広げて十字架におかかりになりました。抵抗することなく両手両足にくぎを打たれました。それがお出来になったのは、“愛する者のため”だったからです。 罪人を贖うために、血を流し、いのちを捨ててくださった御子イエス様と、そこまでしてでも私たちを取り戻したいと願ってくださった父なる神様の、そのきよいご愛を、私たちは絶対に忘れてはいけません。 それがクリスチャンの敬虔なこころ、正しい良心です。
■2026年4月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
肉の働きを制する up 2026.4.19
聖霊様による働きがなければ、私たちは救われた後、神の子として成長し御国を相続するということは非常に困難です。ですから、聖霊様の働きを受け入れて、イエス様の似姿に変えられていくことを、願いとし目標として頂きたいと思います。 私たちの内におられる聖霊様のお働きについて、これまでに6つのことを学んで参りました。 ⑴いのちをもたらす 今日は、聖霊様の7つ目のお働きについてお話いたします。 ⑺肉の働きを制する a)肉に従って生きるとは? ◉アダムとエバは肉に従ったためにエデンから追い出された ⅱ)肉欲だけが目的ではない b)御霊によってからだの行いを殺すとは? ◎肉欲の働きを、みことばの剣で切り裂いたイエス ⅱ)心を見分ける剣 ⅲ)神の愛に生きる決意 私たちの罪の赦しのために、身代わりに裁きを受けて死んでくださったイエス様を信じる信仰によって、今私たちは生きているのだと語られています。 ⅳ)まごころから神に近づく ◉主を畏れることに意識を向け続ける 旧約聖書において最も大事なことは、まず主を畏れること、神様を心から尊び敬うことです。私たちにどのようなことを神様はしてくださっているのか、それを深く感じ取ることによって、神様を畏れ敬い愛する心が自然と内に湧いてきます。これが正しい良心です。 (へブル9:14)「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」 神様が人を愛しておられるように、イエス様も父なる神様と一つ愛となって、人々の赦しの為のいけにえとして、十字架でいのちを捨てる決心をされました。御霊の愛の働きによるものです。 黙示録には、新しい天と地においても「屠られたと見える子羊」としてイエス様が存在しておられます。イエス様の贖いの御業は、永遠に覚えられているのです。
■2026年4月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
罪と死の原理からの解放 up 2026.4.12
【復習】 Ⅰ「いのちの光を持つ者」について Ⅱ. みことばを聞いて従う者について ②御霊による働きのために御霊が注がれる。 私たちの内に住まわれる聖霊様のお働きは、 ⑴いのちをもたらす ⑵イエスについて証言する ⑶イエスの光を伝承する ⑷死ぬべきからだを生かす ⑸真理に導き、神のみこころを示す 【今日のメッセージ】 ⑹罪と死の原理からの解放 ≪罪と死の原理≫ ≪いのちの御霊の原理≫ イエス様が「私たちの良心をきよめて」くださり、私たちを、創造主なる「生ける神に仕える者」としてくださいます。 そして、今までの自分勝手な基準から離れ(死んだ行いから離れ)、きよめられた良心(神様の愛に則った良心の考え方、神様のおことば、教え)を基準として生きることを決心します。それが「生ける神に仕える者とする」ということです。 『御霊の自由』 ★神の御霊のあるところには「自由」があります。それは、どのような自由なのでしょうか。 ⑴ガラテヤ5:13 神様はどういう自由を私たちに示そうとしておられるのでしょうか。私たちには何でも自由に選ぶ権利が与えられています。肉欲の動機も、愛の動機も、自由に取捨選択できます。神様はどのような自由を与えてくださったのでしょうか。 ⑵Ⅰコリント6:12 神様が私たちに与えてくださった自由は、善を行う自由、隣人を愛し仕える自由です。 ⑶(Ⅰペテロ2:16) 私たちには自由が与えられています。賢い人は、その自由を、神様のおことばに従い実行することに用います。 この3つのみことばを参考にして、皆さんも自由に賢い選択をしていただきたいと思います。
■2026年4月5日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
奴隷ではなく、子として生きる up 2026.4.5
イースターおめでとうございます。先週、私たちはイエス・キリストの十字架を覚えました。 イエス様は、私たちのために苦しみを受け入れられました。本来、それは私たちが受けるべきものでした。しかしローマ8章1節はこう言います。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」 これは神の宣言です。十字架によって、私たちの“終わり”は取り消されました。ではその先に、何が与えられたのでしょうか。 ・復活は父の行為 ここで大切なのは、父なる神がイエス様をよみがえらせたということです。十字架は終わりに見えました。しかし神は、それを終わりにしませんでした。復活とは「まだ終わりではない」という神の宣言です。そしてその御霊が、今、私たちの内に与えられています。 ・奴隷ではなく子として ここで言われている「奴隷の霊」とは、神に不安で恐れながら近づく状態です。つまり神の前で安心できない関係です。しかし私たちは、「子としての霊」を受けました。そして、「アバ、父」と呼ぶとあります。 ・苦難の先にある栄光 人生には苦難があります。クリスチャンでも同じです。しかし違うのは、終わり方です。イエス様は十字架で終わりませんでした。復活がありました。同じように、神は私たちの人生を苦難で終わらせません。 復活とは、奴隷として生きる人生が終わり、子として生きる人生が始まったことです。恐れの中で神を見るのではなく、父として神を知る人生です。 もし今日、神を遠く感じているなら、難しいことは必要ありません。ただ一つです。「アバ、父」と呼んでください。神はそれを喜ばれます。
■2026年3月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
死について up 2026.3.29
来週はイエス・キリストの復活を記念したイースター礼拝です。その前の1週間は、イエス様が十字架におかかりになるという受難週です。そこで今日は「死について」と題して、お話しさせて頂きます。 今日の主題聖句(ローマ8:13) (創世記2:17) 神様がアダムとエバに、善悪の知識の木の実を食べたら死ぬと言われたのは、その木の実に毒が入っているのではありません。神様のおことばに従わないことが、人の死の一番の原因である、ということです。 ≪死は復活の為≫ ≪イエスの死≫ (Ⅰペテロ3:18)
■2026年3月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
真理に導き、神のみこころを示す up 2026.3.22
御霊様はどんな働きを私たちの内にもたらしてくださっているかについて、前回までに ⑴いのちをもたらす ⑵イエスについて証言する ⑶イエスの光を伝承する ⑷死ぬべきからだを生かす 今日は、⑸として、「真理に導き、神のみこころを示す」と題してお話しさせて頂きます。 ※⑸真理に導き、神のみこころを示す (ヨハネ16:13) ◉真理とは (Ⅰコリント8:6) そのような精神風土を持つ日本に、欧米のキリスト教のような一神教は、排他的で「和を乱す」ものである、とさえ述べる政治家もいます。 私たちの神は、御父、御子、御霊の、3つのご性質を持った唯一人の神である、と聖書は教えています。また、(Ⅰコリント8:6)には、「すべてのものはこの神から出ており」とも書かれてあります。 では、日本社会の考える「神々」とはどういう意味なのでしょうか。そのヒントとなることが聖書の中に記されていますので、ご紹介いたします。 *水をつかさどる御使い(黙示録16:5) *火を支配する御使い(黙示録14:18) *守護天使(使徒12:14-15) 唯一の神様は、天使を創造し、それぞれの分野に天使(御使い)を遣わして世界を統治なさっているという考え方からすると、世の人々が言っている神々とは、「天使」のことであり、天使を創造されたのも、天使を遣わされるのも唯一の神様ですから、「すべてのものは神から出ている(Ⅰコリント8:6)」と言われているのです。 ◉罪ある人間が、神の子として創造された目的に立ち返るための真理 とは? イエス・キリストは、罪人を贖うために人となられて死なれ、葬られ、よみがえられた唯一の救い主です。 (使徒4:12) アダムとエバが、神様のおことばより自分の欲望に従うことを選んだことにより、人類は欲望に縛られる罪人になりました。 世に宗教は多くありますが、なぜイエス・キリストだけが救い主なのでしょうか。それは、イエス様以外に私たちを罪のさばきから救ってくださる方はいないからです。すなわち、私たちの罪を贖ってくださったのはイエス様だけだからです。 アダムとエバが罪をおかしたその時から、神様はすでにキリストによる救いを預言しておられました。ですから、神様は他のどの宗教にも、身代わりの死、贖いによる救いという方法は与えておられません。 聖霊様が私たちの内に働きかけて、この真理を教え諭し理解させてくださるのです。 イエス様は、神が人となって33年間のご生涯を罪を犯すことなく過ごされて、その罪の無い聖いいのちを、私たちの救いのための代価としてくださり、十字架で身代わりのさばきを受けてくださいました。 イエス様が罪のない正しい方であったことは、イエス様の復活によって神様が証明しておられます。イエス様の贖いの御業は有効だと神様が保証しておられます。 キリストの死と復活を証しするために、私たちはこの地上で、内にある光を輝かせます。あきらめないで最後まで信じて、たとえ失敗しても希望をもって何度でも悔い改め、やりなおし、神を愛し、隣人を愛し、互いに赦し合って、敬虔な人生をチャレンジし続けて参りましょう。
■2026年3月15日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
十字架へ向かうイエス up 2026.3.15
最近、私の周りでいくつもの「人生の節目」がありました。先日、長男の高校の卒業式がありました。三年間の歩みが終わる寂しさがあると同時に、新しい人生へ送り出される喜びもあります。
■2026年3月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
死ぬべきからだを生かす up 2026.3.8
◉今年のモットーのみことば (マタイ5:16) 私たちを通して神様が尊敬され信頼されていくような、そんな歩みをすることが、私たちの敬虔な心の大切な部分です。 私たちは父なる神様から、イエス・キリストを通して、罪の赦しを受けている者です。その愛と憐れみ、寛容さを忘れずに未来に向かって歩んで行きたいと願っています。 今の自分があるのはイエス様の十字架のおかげです。 今年もぜひイエス様が崇められるようなクリスチャンになりたいと、それを目指して参りましょう。 ◉神に従う者が受ける利点は、 ①(マタイ7:24-27) 御霊様のお働きとして、 ⑴御霊はいのちをもたらす(ヨハネ6:63) ⑵御霊はイエスについて証言する(ヨハネ15:26) 御霊様は、イエス様がどんなお方か、教えてくださいます。 ⑶イエスの光を伝承する(ヨハネ16:14) 御霊様は私たちをイエス様の弟子とするように導いてくださいます。 ※今日のメッセージ ⑷死ぬべきからだを生かす(ローマ8:11) 「イエスを死者の中からよみがえらせた方」、すなわち、キリストを死から復活させるという救いのご計画を実現された天の父なる神様は、ご自分を信じ従う者たちの内に、神の御霊、聖霊様を住まわせてくださり、私たちを生かしてくださるお方です。 私たちは罪人です。私たちの罪が赦されるために、イエス様は十字架で身代わりに死んでくださり、そして復活してくださいました。 これを計画し実行された神様が、私たちの内に霊として住んでいてくださって、私たちが罪のない神の子として、復活の人生を歩むことが出来るようにしてくださったのです。 A) 死ぬべきからだとは?(ガラテヤ5:19-21) 一度罪赦されたにも関わらず、その後も自分の肉の行いに対して何の対処もせずに、元の罪の生活を続けていくならば、それは救いを手放すことであり、神の国を相続することは出来ません。死ぬべきからだとして永遠の滅びに向かって行ってしまいます。 B)『生かす』について(ローマ6:13) 義の武器→悪と戦うため 罪ゆるされて、新しい人生を与えれらたのですから、自分はもう神にささげられる「義の器」なのだということを意識しなさい。そういう意識があれば、罪の誘惑、肉の行いにも抵抗することが出来ます。 (ローマ12:1) 不品行や汚れや・・・様々の肉の行いを全部無くしてから、あなたの聖いからだを捧げなさい、ではありません。肉の行いを持っているあなたのからだを、聖い供え物として神に捧げなさい、とパウロは言っています。 このからだは実際は罪を犯すので聖くありません。しかし、イエス様が私たちの代わりに十字架で死んでくださり、よみがえってくださったので、イエス様を信じる私たちも、イエス様と共に死に、イエス様と共に聖い者としてよみがえったと神様は見てくださいます。 ですから、私は聖い生活をする者なんだ、神様からの語りかけ、働きかけに対して応答する者なんだ、と意思決定して、そこに向かって生きて行くのです。それが信仰です。 信仰は未来に希望を託します。今はどうであれ、必ず神に喜ばれる者に成長しますと期待して、イエス様の十字架の贖いのみわざを信じて生きて行く、これが私たちの信仰です。 聖い生きた供え物として生きていく決心をしていきましょう。
★主イエスの光りを輝かせるために、きよい良心に御霊を 迎えて御霊に任せなさい!
【俳句】 聖霊に 自分を任せ 光を放つ
■2026年3月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
イエスの光を伝承する up 2026.3.1
今年の目標のみことばから語らせて頂いております。 〇今年の目標のみことば(マタイ5:16) 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 私たちが良い行いをする動機は、イエス様を通して神様の愛に触れられて、自分も良いことを進んでおこなっていきたいと思う、神様への愛の応答です。人々がその良い行いを見て、父なる神様を崇め信じるきっかけになるように、という神様の願いが、今日の主題聖句(マタイ5:16)に語られています。 なぜイエス様を信じる者が、敬虔な心を持つ証しとなるのでしょうか。それは私たちが当然受けなければならない罪のさばきを、イエス様が身代わりに十字架で受けてくださったからです。神様はそこまでして私たちの罪を赦し、私たちを永遠の滅びから救いたいと思ってくださっているからです。そのように歴史の中に現してくださった神様の私たちへの愛とイエス様の十字架の愛と犠牲を知った時、私たちのこころに、父なる神様、御子イエス様への敬虔な心、信仰と愛が生まれるのです。 私たちは今、イエス様を通し、みことばを通し、神の霊を通して、神様の愛に触れられて、少しずつイエス様への信仰が強められ、善を行う聖い生活へと実を結んでいっているところです。 〇今年は、天のお父様が崇められるようなクリスチャン生活を目指していこうというテーマで、それは聖霊様のお働きによる、というお話をして参りました。 ◎従う者が受ける利点 私たちはまず内に光を持たないといけません。光は、イエス様に従う者に与えられます。 ①従う者は賢い人 (マタイ7:24-27「岩の上に自分の家を建てた賢い人のたとえ」より)イエス様のみことばを実践する人は、人生の嵐にも耐えられる賢い人です。 ②御霊による働きのために、従う者に御霊が注がれる (使徒5:32)「私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった御霊もそのことの証人です。」 御霊が注がれると、どのような実を結ぶのでしょうか。 ⑴御霊がいのちをもたらす (ヨハネ6:63)「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」 肉は神の国に対して何の益ももたらしません。いのちを与える御霊様の働きで、肉を制御することが必要です。 ⑵イエスについて証言する (ヨハネ15:26)「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊が私について証します。」 イエス様が御霊様を私たちにお遣わしになると、私たちは御霊様によって、実在するイエス様と直接、関係を持つことが出来るようになります。 ※ 今日のみことばとメッセージ ⑶イエスの光を伝承する (ヨハネ16:14)「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」 聖霊様がイエス様のものを受けて、それを私たちに知らせてくださると、イエス様の栄光が、私たちを通して現わされます。 A)『知らせる』とは? ギリシャ語の意味=詳細に報告する、リハーサルする、示す=受け継がせる、啓示を受ける、悟る ⇒伝える者が、自分の得ていることに対する確信と同じものを、相手に手渡すこと⇒**伝承する**=昔から伝えられてきたものを、間違いなく受け継いで、それを未来に正しく伝えていく、手渡していく。
B)イエス様の弟子から、弟子へ(伝承) (Ⅰヨハネ1:5)「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」 *「伝える知らせ」 イエス様の12弟子の一人であるヨハネは、イエス様から受けた全ての教えを、他の教会の弟子たちに伝え、それは教会から教会へ、弟子から弟子へと、伝えられていきました(伝承)。そうして、イエス様が仰ったように、あらゆる国の人たちが弟子となっていきました。 中世には、教会の暗黒時代と言われる時代もあり、イエス様の教えが曲げられた時期もありましたが、ルターの宗教改革以降、神様は再び、神のみことばと御霊によってキリストの弟子として、イエス様のそのままを受け継いでいく人々が起こされてきているところです。 *イエスの光の伝承→弟子となる イエス様は「私は世の光です」と仰いました。12弟子がまず、その「イエス様の光」を受け継ぎました。イエス様が天に帰られて後、聖霊様により、更に多くの人たちが「イエス様の光」を伝承して、弟子となりました。 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ(マタイ5:16)」という「あなたがたの光」は「イエス様の光」です。イエス様の光を輝かせる、というのはイエス様の弟子であるという意味です。 イエス様の光を受けて、それを自分の生活の中で輝かすのを見て、人々は天の父を崇めるようになる、と(マタイ5章16節)は語っています。 私たちが光を輝かせて、その元であるイエス様が輝いて、イエス様を遣わされた父なる神が崇められるようになる、この流れが(ヨハネ16:14)の意味としてお伝えしたいことです。 C)十分訓練を受ける弟子 (ルカ6:40)「弟子は師以上には出られません。しかし、十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」 クリスチャンも十分訓練を受けているかどうかで差がつくことはあります。いま到達しているレベルに差があるのも仕方ありません。他人と比べてはいけません。それぞれに、師であるイエス様のおことばに、諦めずチャレンジしていくことで身に付くものがあるのです。イエス様のご性質、ご性格、というイエス様の光を継承させていただきましょう。 ★主イエス様の光を輝かせるために、きよい良心に御霊を迎えて光の伝承が必要です!。 光を伝承できるのは御霊様だけです。一人一人の内におられる御霊様からイエス様の光を伝承させて頂きましょう
【短歌】 草餅の 味を伝える 毎年は 光の伝承 御霊の働き
■2026年2月22日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
整えられていく教会 up 2026.2.22
先日、大阪で結婚式がありました。そして今日、義妹の婚約の発表がありました。結婚という出来事が続く中で、改めて思わされています。 ■ 教会はキリストの花嫁 ■ 教会はキリストのからだ ■ 成長とは成熟 教会の成長も同じです。これまで私たちは確かに主に導かれてきました。そして今、主はさらに成熟へ導いておられると感じます。 ■ 教会は送り出される共同体 ■ 御霊の働き 教会は、御霊によって整えられ、キリストの花嫁として愛され、キリストのからだとして結ばれ、成熟へと成長し、この世界へ遣わされていく存在です。だから私たちは、集まるだけの信徒ではなく、御霊に整えられながら、それぞれの持ち場でキリストを表し、遣わされて歩んでいきましょう。
■2026年2月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
イエスについて証言する up 2026.2.15
三位一体の神様を理論的に知識的に理解しようとしても無理です。 A)「証しする」とは? B) 正しい良心に示される C) 預言をするダビデ ダビデは敬虔深い王として、正しい良心をもって国を統治しました。神は聖霊によって、そのようなダビデの口を用いて民に語られたのです。 D) イエスの十字架への決意 イエス様が人としては逃げたい激しい苦しみの前に、それでも逃げなかったのは、父なる神様の深い大きな愛に聖霊様によってふれていただいていたからです。 愛にふれて、苦しみを乗り越え、神様のみこころに従順に従い、自らをささげられたのです。 すべては神様の愛を知ることによります。私たちも愛を知れば、犠牲を払うこともできるようになるでしょう。 御霊は直接たましいにふれてくださるので、強い確信をもつことができます。聖霊様が証拠による確信を与えてくださいます。 内にある主イエス様の光を輝かせるには御霊を受け良心の聖めが必要です。 御霊を受けることと、聖められることは同時進行です。 【俳句】 従順は 御霊の証し イエス知る 神様の愛を知ったからこその従順です。
■2026年2月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
御霊がいのちをもたらす up 2026.2.8
私たちの教会は、御父、御子、御霊との交わりの教会です。神の家族としての交わりが深められていきます。私たちは罪のからだを持っていますから、罪を犯してしまうことはありますが、イエス様は悔い改める者に赦しを与えて、やり直す機会を与えてくださるお方です。 *今年のモットー「御霊による働き」(マタイ5:16) 私たちの日頃の敬虔なクリスチャン生活を通して、天のお父様が崇められる、これが今年目指している私たちの愛の方向です。 *いのちの光を持つ(ヨハネ8:12) *従うために必要なことは信頼(Ⅰヨハネ4:10) ❶従う者は賢い人(マタイ7:24〜27より) ❷御霊による働きのために、従う者に御霊が注がれる 前回、従う者に御霊が注がれるということで、7つお話を致しました。その中から今日は「御霊がいのちをもたらす」ということについて、少し詳しくお話し致します。 ⑴ 御霊がいのちをもたらす(ヨハネ6:63) A)『いのち』とは、創造の目的にそった存在 私たちと神さまとの間の懸け橋となっておられるのが救い主イエス様です。イエス様の名によって祈る時、イエス様が懸け橋となってくださり、祈りが神様に届けられます。救い主を通して私たちは神様との交流を持つことが出来るのです。 B)いのちを与える働き C)良心の聖めが必要 神を愛する愛がないと神に仕えることはできません。良心をきよめられなければ、神様の愛が注がれても心に触れることが出来ません。 ※『とこしえの御霊によって神におささげになったその血』とは、父なる神を愛し、私たち罪人を救う愛のことです。 御子イエス様は、父なる神様を心から敬い、愛し、100%の従順を父なる神様に向けておられました。 ※そして、聖められた良心に神への希望が湧き、どのような状況であっても『神は良き方』と前向き(信仰的)になる。 ※聖められた良心→父なる神を愛する愛→創造の目的の存在→いのちを持つ者 ※内にある主イエスの光を輝かせるには、御霊を受けることが必ず必要です! 【俳句】 紅に 神の愛みる 梅の花 梅の花が咲く季節、イエス様の血潮のような紅の花に、私たちへの神様の愛を見るようです。
■2026年2月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
御霊による働きのために、従う者に御霊が注がれる up 2026.2.1
※ 『御霊による働き』 イエス様を信じて御国に歩んでいく神の子として救われた歩みをしていきましょう、という福音宣教を目指したみことばです。 この働きは、御霊による働きです。 ※ 『いのちの光を持つ』『いのちの光を持つ者』 イエス様に従う者が、いのちの光を持つ者です。 ※ 『従うために必要なことは信頼関係』 神様の愛に触れられた時、私たちの内にイエス様への愛と信頼が生まれ、イエス様に従う決心を持つことが出来ます。この信頼関係が大切です。ご利益宗教的な神への従い方ではありません。 ❶『従う者は賢い人』(マタイ7:24〜27) 親切な言葉遣いから、自分の人生を岩の上に建て上げていくことをチャレンジしていきましょう。 ――今日のテーマ―― ❷御霊による働きのために、従う者に御霊が注がれる 聖霊様が私たちの内に住み、働いてくださるのは、私たちが神様に従う者であるからです。 皆さんは洗礼を受けたときに、最初に神様の前に従順を示しておられますから、聖霊様が賜物として皆さんの内に注がれています。 内に聖霊様がおられるかどうかは、神と神のおことばに私たちが従っているかどうかによって見極めることができます。 神様がまず私たちを愛して、私たちのいのちを買い取ってくださった、その神様の愛に報いて生きて行きたいというのが、神を信頼し従っていく私たちの動機です。 御霊様の働きがどんなに私たちに必要であるか、そのお働きを示す7つのみことばを紹介いたします。 ⑴御霊はいのちをもたらす 聖書が語る「いのち」「死」というのは、神様との関係において生きているか、死んでいるか、という意味です。 ⑵御霊はイエスについて悟す イエス様について御霊様の証されることを受け入れないと、イエス様のことは理解できません。 ⑶御霊は真理とみこころへと導く 御霊様は私たちを真理に導いてくださり、私たちは、示されたみこころ(真理)を行動に現していきます。すると、そういう私たちの姿、生活を通して、聖霊の働きが光として輝いてくるのです。 ⑷御霊はイエスの栄光を輝かす 内におられる聖霊様は、イエス様の栄光を、まず私たちの内側に現されます。すると、私たちの魂、霊が力づけられ、それが生活の中の行動やことばに現れていきます。 以前には無かった力、イエス様のような心、考え方、価値観がその人の内に生まれ、赦せなかった者が赦せるようになり、人のした悪を思わず、寛容や親切、善意で人々のお世話が出来るなど、イエス様の愛を自然に実行することが出来るようになります。 そのように、キリストの栄光を現わすとは、私たちの内側からキリストのご性質が輝いて現れ、生活の中に見えるようになることです。この働きは聖霊様による働きです。 ⑸御霊は罪と死の原理から解放する 罪と死の原則に縛られているクリスチャンがいます。それは、御霊による働きがその人の内に実現していないからです。聖霊様は私たちにキリストの姿が現れるようにと働いてくださるお方です。 ⑹御霊は死ぬべきからだを生かす もし、聖霊様が内に働いておられれば、神様にとって役に立たない罪の奴隷のような肉体も、神様のために用いられ、神様に対して生きるものとしてくださいます。 殺すとは完全に制御すること、その力は御霊の働きによります。 以上のように、御霊様が私たちの内に働きかけてくださって、私たちは内側からキリストの栄光を輝かせることができます。そのためには、御霊を受け入れること、即ち、みことばに従うことが大切です。
【俳句】 助け主 御霊を宿し 「福」放つ
■2026年1月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
岩の上に家を建てる up 2026.1.25
※ 先週までの復習 【今年の主題聖句】 (マタイ5:16) 天の父なる神様、救い主イエス・キリストが崇められるようなクリスチャン生活であるために、内側に頂いている神様のみことばの光を輝かせるような毎日を目指していきましょう。 【いのちの光を持つ】 (ヨハネ8:12) 私たちの内に、いのちの光(イエス様)を持つためには、イエス様に従うことが必要です。それによって私たちは闇の中を歩むことがありません。 【従うために必要なことは信頼】 (Ⅰヨハネ4:10) 神様はまず私たちを愛してくださって、私たちの罪を見るより先に私たちの存在の素晴らしさを見てくださり、この人々の為ならいのちをかけてでも救いたい、と思ってくださいました。 それがイエス様の十字架の御業です。ここに神の愛が現わされました。 その愛に応えていきたい、従っていきたいと、神様の愛に応答する愛が私たちの内に生まれます。ここに、私たちの愛があるのです。 【いのちの光を持つ者】 (ヨハネ8:12) ❶従う者は賢い人 (マタイ7:24-27) ★イエス様の罪の赦し(神の愛)を深く感じる人に、罪の赦し は成就します。 ★創造主なる神は存在します、これが岩なる真理です。 ★真理を悟るには、真理への飢え渇きと忍耐が必要です。 ★諦めないで、創造主イエス・キリストへの希望を持ち続けましょう。 ※ 今日のテーマ 【岩の上に家を建てる実践】 (箴言16:24) 親切なことばは、蜂蜜のように、私たちの疲れた魂を癒し、心も体も元気に回復させる力を持っています。 どうぞ、親切なことばを受け入れるように、また発するように、少し意識して、この一週間を過ごしてみてください。岩の上に家を建てる実践の第一歩です。 【短 歌】
■2026年1月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
いのちの光を持つ者 up 2026.1.18
※2026年の主題聖句 (マタイ5:16) 私たちは、創造主であり救い主であるイエス・キリストが、私たちを通して人々から信頼されることを願います。それはキリストの良き知らせを伝えるという意味をもっています。 *なぜ、イエス・キリストを人々に信頼してほしいのですか 闇の世界に行ってほしくない、滅びてほしくない、光の世界で永遠を生きてほしい、自分だけでなく全ての人が救われてほしい、せめて家族、友人、知人、身近な人々、広島の人々がイエス様を信頼して救われてほしい、と思うのです。 神を愛する皆さんの心が光として周りの人々に見えるような、そういう日々を目指して頂きたいと思います。 (ヨハネ8:12) いのちの光を持つための条件は、世の光であるイエス様に従うことです。「従う」というのは、聖書のおことばやイエス様の御教えを聞いて実行することです。 何をもって皆さんはイエス様を信じ、従うことが出来るのでしょうか。 *従うために必要なことは信頼 (Ⅰヨハネ4:10) 神の御子イエス・キリストは、罪ある私たちの身代わりに、十字架のさばきを受けて死んでくださいました。 私たちの罪が赦されるように、救いをお与えくださるほどに、神は私たちを愛してくださいました。 そして、神様が私たちを愛してくださっている、ということが分かると、私たちの心には自然と神様への愛が、信頼が、湧き上がってくるのです。 *「いのちの光を持つ者」とはどういう人でしょうか。 ❶従う者は賢い人 (マタイ7:24-27) ⑴洪水や嵐でも倒れなかった 洪水は「神のさばき」を象徴しています。創世記のノアの時代に大洪水が起きました。その大洪水は、世に罪が満ちたことへの「神のさばき」でした。 世の終わりの時には、神様による「最後の審判」(罪のさばき)が全宇宙的規模で行われれます。 神のさばきから救われるためには、ノアのように、岩(神のおことば)の上に家(人生)を建てる必要があります。 この地上だけのことではなく、永遠のいのちがかかっていることですから、賢く、神様のおことばを土台としたクリスチャン生活を歩んで頂きたいと思います。 ★神は必ず罪を裁かれる ★将来(永遠)に備える そして収穫の時には、良い麦は永遠のいのちに、毒麦は永遠の滅びに、間違うことなく分けられます。 神様は、ご自分から離れてしまったように見える人も、人生のどこかでまた神様のもとに戻ってくるかもしれないと、信頼と希望をもって見ておられるのです。 ★岩(真理)を求める 真理とは、天地を創造された唯一人の神がおられることです。主の主、王の王、神々の神なるお方を求めていきましょう。 ★忍耐強い(諦めない) 真理を求めるには忍耐が必要です。諦めず、トコトン追及します。 ★創造主への希望を持つ 真の神、創造主なる唯一の神様は、私たちを単に裁くだけの方ではありません。 私たちをご自分のかたちに創造されたからには、将来に対するご計画は素晴らしいものを考えておられる良き神様です。 今はだめでも、そこから未来に向かって進む者に報いをもたらされる、ということを知っている人は賢い人です。 【俳句】 みことばに 従う者には 希望あり
■2026年1月11日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)
見られる信仰、あがめられる神 up 2026.1.11
2026 年、2 回目の日曜礼拝を迎えました。 2025 年は「ビューティフル・コミュニティ」 そして 2026 年、「御霊による働き」 主題聖句の中で、とても大切な言葉があります。それは、「反映する」という言葉です。 同じように、私たちの信仰、行い、生き方が輝くとき、それは「自分がすごいから」ではありません。聖書ははっきり言っています。「これは、主の御霊の働きによるのです。」変えられるのも、用いられるのも、影響が与えられるのも、すべて 主の御霊の働き です。 そのことが、はっきり現れている場面があります。使徒 3 章です。美しの門で、生まれつき足の不自由な人が癒されました。誰の目にも分かる、明らかな奇跡です。 人々は驚き、ペテロとヨハネを見つめました。そのとき、ペテロはこう言いました。「なぜ、私たちを見つめるのですか。」ペテロは、注目を集めることを喜びませんでした。 年間聖句であるマタイ 5 章 16 節には、こう書かれています。 2026 年、私たちは無理に目立とうとしなくていい。成果を演出しなくていい。ただ、御霊によって歩み続ける。そうすると、主の御霊が、必要な形で、必要なところに、光を反映させてくださいます。そして、その光は、必ず神の栄光へと戻っていきます。
■2026年1月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
御霊による働き up 2026.1.4
イエス様が再臨されるにあたって、イエス様の救いの福音はすべての国々の民に宣べ伝えられ、それから終わりがくる、ということが聖書に記されており、この8年間は、そのための備えをして参りました。 今年は9年目になります。福音を伝えるにあたって、私たちの能力や才能を更に神様が用いてくださるために、御霊様が私たちを用いてその働きをしてくださるという意味で、「御霊による働き」というタイトルを付けました。 私たちの失敗をも神の栄光のために変えてくださるということをも含めて、聖霊様によって私たちは、罪の赦し、神の愛、神の憐れみと恵みを証しし、宣べ伝えていくという、そういう一年を目指していこうと思っています。 今年一年のモットーのみことば (マタイ5:16) このみことばから、3つのポイントを挙げてみました。 私たちの光を人々の前に輝かせることを通して、私たちの生活を見た人々が自然と父なる神様を崇めるようになる、そういうイエス・キリストの救いの証を、今年は目指していこうと思います。 ※「あなたがたの光」とは、どういうことでしょうか。 ①(ヨハネ8:12) イエス様ご自身が「私は世の光です。」と仰っておられます。そして、イエス様に従う者は闇の中を歩まず、「いのちの光を持つ」とも言われています。 イエス様のおことばに従うことは、その人の内に「光」があるしるしであり、みことばを聞いても行わない人やあきらめた人は、「いのちの光」を内に持っていないということです。 ②(ヨハネ1:1-4) 「イエス様を持つ」とは、「人の光」であるイエス様を内側にもつことです。その「光」とは、ことばなる神であり、そのおことばを私たちが生活の中で実践していくならば、私たちの内に、ことばなる神イエス・キリストが住まわれるのです。 このお方は万物を創造された方です。万物は神のことばによって創造されました。そのことばとはイエス・キリストのことです。このイエス・キリストは「人の光」です。 「光」は、明るい。よく物が見える。ずっと先まで見える。足元だけでなく、人生の先の方まで見ることが出来る。希望。暗闇がないので、つまづき倒れることがない。そういうイメージがあります。 私たちが生きて行く中で、「人の光」であるイエス・キリストが内に存在してくださるなら、そういう「光」をもった人生の歩みを続けることが出来、主題聖句(マタイ5:16)のみことばが成就するのです。 ③ (ヨハネ1:5) ※ 人を照らす真の光 私たちの魂は、真の光なるイエス・キリストによって、永遠の未来に向けて希望を持って前に進んで行けるのです。 病気、事故、災いという暗闇の中でも、イエス・キリスト、御ことばの光をもって、今もこれからも歩むことが出来ますから、私たちは安心です。 クリスチャンは「光」を持っているのですから、暗闇ばかりを見て、希望のない生活にならないように、足の灯であり、道の光でもある「御ことばの光」に照らされて前進していきましょう。 人を照らす真の光イエス・キリストを信頼して、御霊様の働きを信じて、みことばの約束の成就を体験しながら、希望を持って一歩一歩前に進んでいきましょう。 ※ 適用・チャレンジ 今年、どんな逆境がやってくるか私たちには分かりませんが、もし来たらそれはチャンスです。光は闇の中で輝くものです。 闇の中にいる自分に気が付き、神の光を体験しましょう。聖書のみことばに導かれ、守られ、助けられて、日々聖霊様と共に生活していく一年となりますように、チャレンジしましょう。 【俳 句】 みことばに 生きる喜び 新年は
暗闇の中で輝くみことばを生きる喜びを体験しましょう。今年はそのような新しい年として進んで頂きたいと思います。
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