■2025年8月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

レビ23:2〜3  up 2025.8.17


主題聖句(レビ23:2〜3)
イスラエル人に告げて言え。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。
六日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休みの安息、聖なる会合の日である。あなたがたは、いっさいの仕事をしてはならない。この日はあなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。







 

 

 

 

 

 

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■2025年8月10日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)

この町に生きる使命  up 2025.8.10


主題聖句(エレミヤ29:7)
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろわたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。







 広島に生まれ、広島に生きる私たちは、この町の歴史や背景をよく知っています。広島は世界に「平和の象徴」として知られていますが、その歴史の重みは決して軽くありません。 被爆の悲劇、戦争の記憶、それらは今も私たちの心に深く刻まれています。
 今日の聖書箇所、エレミヤ書29章7節はこう言います。
「あなたがたはわたしがあなたがたを追いやったその町の平安を求め、そのために主に祈れ。」

・この町のために祈る使命
 これはバビロンに捕囚されたイスラエルの民に対する神の命令です。異国の地に置かれた彼らに、「その町の平安を求め、そのために祈りなさい」と命じられました。これは単に「平和活動家になれ」という意味ではありません。異国の地にあっても「神の民として、その町に住み、その町の平安を心から願い祈る」という使命を民に与えたのです。
 私たち広島に生きる者も同じです。広島は世界中から「平和」を想起される町です。この場所に住むことは偶然ではなく、神のご計画の中にあります。
 使徒1章8節にはこうあります。
「あなたがたは聖霊があなたがたに下るとき、力を受けて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
 私たちの存在そのものが証しです。この町の平和を祈る姿勢もまた、神の宣教の一部なのです。

・置かれた場で平和をもたらす
 次に、イエス様の言葉を考えていきます。マタイ5章13〜16節で、イエスは弟子たちを「地の塩」「世の光」と呼ばれました。「塩」は、味付けや保存の役割を持つものであり、必ずしも全体を塩辛くする必要はありません。
 同様に「光」も、全世界を一度に照らす必要はなく、足元と周囲を明るく照らせばその使命を果たせます。
 神は「全世界をあなた一人で平和にしなさい」とは命じず、「あなたが置かれた場所で平和をもたらしなさい」と呼んでおられます。
 私たちは、広島という町に置かれた者として、この町の中で良い影響を与え、平和をもたらす使命があるのです。

・小さな和解から始まる平和
 イエス様は言われました。
「わたしがあなたがたに与える平安は、世が与えるものとは違います。」ヨハネ14:27
 世の平和と神の国の平和は異なります。世の平和は条約や軍事均衡、抑止力に依存します。しかし、神の国の平和は赦し、和解、そして愛による一致に基づきます。
 平和の本質は、まず神との和解に始まります。心に神の平安を持つ者だけが、外の世界に真の平和をもたらすことができます。
 また、マタイ5章44節には、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とあります。これは人間の常識を超えた、神の国の平和の実践です。平和は国際政治の話だけではなく、日常生活の中にこそあります。
「できる限りすべての人と平和を保ちなさい。」
ローマ12:18
 私たちの証しは、家族や友人、隣人との関係の中から始まります。小さな争いを避け、関係の修復のために歩み寄り、和解の一歩を積み重ねることが、まさに平和の実践なのです。広島に住む者として、戦争や被爆の記憶を風化させず、平和への意識を次世代に伝えることもまた、私たちの使命です。

 エレミヤ29章7節の言葉は、ただの古代の命令ではなく、 今日を生きる私たちへの、神からの生きる使命です。
・この町のために祈ること
・置かれた場所で平和をもたらすこと
・小さな和解を積み重ねること
 これらは、国際政治や大規模な活動以上に、クリスチャンとしての証しを世に示す具体的な方法です。広島に置かれた者として、神が与える平安を内に持ち、この町に生きる使命を全うしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年8月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

あらゆる境遇に対処する秘訣  up 2025.8.3


主題聖句(ピリピ4:12)
私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。





 前週「神の標準に生きる」ということを学びましたが、今週の学びと関りがあります。

 パウロは「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を得る道です。 」とも言っています。これは様々な体験や経験を積み重ねて得られるクリスチャンの人生の秘訣です。
 しかし世の中はこのクリスチャンの持つ人生観を惑わしてきます。

※あらゆる境遇に対処する二つの秘訣
 旧約聖書からふたりの人物を通して学びます。

1)ヨブに学ぶ
(ヨブ記1:20〜22)
「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。『私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をぼさなかった。」
 
 彼は周りから尊敬される立派な義人でしたが、神様
の許可の元、サタンから大変な攻撃を受けました。子どもたちや財産を失い、さらには深刻な病気に侵されたのです。
 このような目にあっても、ヨブは信仰的な告白をしました。
 しかし、その告白とは裏腹に、彼は上着を引き裂き、頭をそって礼拝にのぞんでいます。
 上着を引き裂く行為は怒りを表し、頭をそるとは強く訴える姿勢を表しています。
 
 これは個人的なヨブの相当な怒りと苦しみ不満を表していて、正装して出るべき神への礼拝ではありえないような姿です。
 
 彼は自分の正直な気持ちを、洗いざらい神の前に持ち出し礼拝しています。そこにはごまかしはありません。自分の心を偽っていないのです。
 
 こういう矛盾を私たちはクリスチャン生活の中に持ちます。

 確かに喜べない感謝できない思いが湧いてくることがあるでしょう。しかし、人間的な標準で見るのではなく、神の標準に当てはめるならば、この不満や愚痴、喜べない思いはあくまで肉の思いであって、私たちの本心はそこにはない、新しくされた霊にあると気づくのです。
 肉に属する考え方に意識をもってそれが自分だと思わないようにしましょう。
 神への信仰によって意識して、霊にある自分を選び取りましょう。
 
 ヨブはその告白のあと、三人の友人に責められて苛立ち、ついには、自分の方が神より正しいと言ってしまいます。
 彼はこの大きな試練の前までは、神様に守られた経験、体験しかありませんでした。
 しかしサタンから激しく打たれた時、彼はただ恵みの中で守られるだけではなく、創造主であり、絶対的な権威をもった御方である神と出会ったのです。

(ヨブ42:1〜6)
「ヨブは主に答えて言った。あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。さあ聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ。
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。 」

 知識では神がどのような御方であるかをヨブは知っていましたが、4人目の若者の正しい指摘の後、神御自身が現れて色々な質問をヨブにされた時、ヨブはそのひとつも答えられませんでした。
 この時彼は理屈ではなく、神御自身とお会いすることによって、彼は自分が本当に塵にすぎないと体験したのです。
 創造主と被造物にすぎない自分との違いを悟り、圧倒されました。
(しかし、神はご自身が肉を持ち、人と同じ姿をとり、人生を経験されました。これがイエス.キリストです。
イエス様は私たちと同じ肉体を持ちながらも、罪をまったく犯さず完璧な正しい生き方を実践されました。それゆえ私たちの罪を贖うことがお出来になったのです。)
 ヨブは神と直接お会いすることによって、自分の愚かさを悟ることができたのです。

2)ダビデから学ぶ
(詩篇16:8〜9)
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。 」
 彼は国王でしたが、周囲には反感をもつ者もいて、息子に荒野に追いやられる経験をしました。しかし彼の人格を慕って多くの家臣がともにいました。
 荒野で食べることにさえ不自由をしていた時、彼は心から神を賛美したのです。
 明日どうなるかも分からないような環境の中にあっても、ダビデはいつも神がともにおられることを意識していました。
 「私の右」とは、主権、力を指します。神は自分の力となり、守ってくださる方であると体験していたのです。それゆえ彼は次のように告白しています。

(詩篇23篇)
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 」

 どんな苦しい境遇にあっても「主がともにいてくださる」ことこそが、あらゆる恐れ、不安からも解放される秘訣なのだとダビデは悟ったのです。
 どんなに敵が周りを囲んでいても、主がともにおられるから、食事を楽しむ余裕がもてるのです。
(ローマ8:28)
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 」

 知っていますとは、経験、体験をしたということです。
私が初心者の時は「何が起きても全てが益になる」が分かりませんでした。
 
 今、私自身が病気になっています。癒しの祈りをしてきた自分が病気になり、通り良いはずの管がつまってしまうという現状があります。
 
 マンネリ化していないかと、自身の生活習慣や霊的にも、このことを通して、さらに神様は知恵を与えてくださっています。そして改善していくことで、良い変化が起きてきます。より良くなるためには、変化し続けることが大切です。
パウロの伝道生活も試練の連続でした。

(第Ⅱコリント11:24〜27)
「牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」

 主を知り、体験しているからこそ、これらの試練の中にあっても、パウロは「神はすべてを益としてくださる」と信じ切ることができたのです。
 私たちの人生はそれぞれがみな違います。経験や体験も異なるでしょう。しかし、その経験や体験によって、主がともにいてくださることを知り、みことばを実行して主ご自身を知ることによって、これからどのような試練や困難が起きても、決してゆるがされない人生を全うすることができます。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年7月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神様の標準  up 2025.7.27


主題聖句(第2コリント5:16〜17)
ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。







神様の標準

 今日は、主題聖句(Ⅱコリント5:16-17)を通して、私たちの「ビューティフルコミュニティ」の特徴を理解し、チャレンジしていただきたいと思います。

※「すべては新しくなりました」
 「すべては新しくなりました(17節)」というのは、過去との繋がりが完全に切れて、思い出はあっても繋がりはないということです。そして、そのためには(16節)の「人間的な標準」で物事を測ったり考えたりしない、ということが大事なポイントになります。 
 私たちは洗礼を受けて新しく神の子として生まれ変わりました。そしてイエス・キリストと同じ神の子としての成熟した姿にまで到達するという目標(神様のご計画・約束)に向かって一歩一歩進んで行っています。
 
 私たちは救われて神の子として生まれましたが、まだ赤ちゃんです。成長していくという過程を通らないといけません。
 
 この地上での生活の経験・体験が、私たちの神の子としての人格を形成していきます。神の国に入るためには、地上での体験を通して成長することが必要なのです。

 生まれたての赤ちゃんには知識も力もありませんが、神様に与えられた能力を秘めています。成長と共にそれが開発されて、知識や力も段々と身に付いていき、やがて十分に能力を生かすことが出来るクリスチャンになっていくわけです。
※精錬されるクリスチャン 
 人は神のかたちに造られましたが、罪の力によって、問題だらけの人生になりました。この地上の生活は悪い苦しい辛い環境ですが、だからこそ逆に幸せや楽しみの価値を知ることが出来ます。それは素晴らしいことなのです。

 天国に行く前に、様々な辛い経験をして、それを乗り越えていくプロセスを歩むことが、どれほど永遠の御国において役立つことでしょうか。
 
 イエス様も私たちと同じように、母の胎内に宿られて9ヶ月間を過ごし、無力な弱い赤ちゃんとして地上にお生まれになりました。それから30年間、地上で人として生きることの労苦を味わわれ、罪の誘惑も色々あったでしょう。

 しかし一つも罪を犯すことなく神を信頼する敬虔な歩みをされて、最後の3年間はメシアとして人々の救いのために福音を宣べ伝え、十字架で贖いの御業を遂げられました。
  
 私たちも、この罪の世界にあって、神を敬う敬虔な人生が、神の国に相応しい者へと私たちを磨いてくれるのです。
 
 私たちは土から造られたものですが、純粋な神の子として磨き上げられていきます。火の中を通って不純物が燃え尽き、取り去られて、純金のような信仰と人格へ変えられていくのです。
 いま、火のような試練の中を通っているクリスチャンがおられるかもしれません。それはイエス様の御姿に変えられるためです。そのために、「人間的な標準」でものごとを判断しないように致しましょう。

※人間的な標準と神様の標準
 この「人間的な標準」のことを、ギリシャ語では「肉」という意味の言葉が使われています。
 
 キリスト教では、「肉」と「霊」を対照的に使って、信仰生活の教えを受けます。肉の働き、肉の欲求・欲望が動機となって、不敬虔な考えや行動を起こす、それを「肉」と聖書では表現します。「肉的な人」というのは不敬虔なことの多いクリスチャン、という意味です。
 次の2つの例話から、「人間的な標準」と「神様の標準」、あるいは「肉的」と「霊的」について学んでみましょう。

①(ルカ7:36-50)より  
 イエス様がパリサイ人の食事に招かれた時の出来事です。罪深い女(おそらく遊女)がイエス様の足元に来て、涙で御足を濡らし、髪の毛でぬぐい始めました。
  
 この家の主であるパリサイ人は、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから(39節)」と心ひそかに思いました。それは目に見える表面的なところでの感想、「人間的な標準」での判断でした。
 それに対してイエス様は、一つの例話をお話されます。
 500デナリ借金した人と50デナリを借金した人と、二人とも借金を返すことが出来ず、金貸しは二人とも赦してやりました。「二人のうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになったか」と、イエス様は弟子たちに質問します。弟子たちは、「多く赦された方です」と答えました。
 
 イエス様はこの例話から、「神様の標準」について教えようとされています。「(47節)だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし、少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
 
 これは罪の大少以上に、罪深さの自覚が問われています。罪は誰かと比べて大小を測るものではなく、自分の罪深さをどれほど自覚しているか、それによって、赦されたことによる神様への感謝は大きく、その後の生き方にも良い影響が与えられます。

 イエス様はその女性に言われました。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。(50節)」
 
 彼女はイエス様の十字架の死を見たわけではありません。
 しかし、イエス様のお話しを聞いて、神様はこんな罪深い自分を赦してくださり、愛してくださっているということを知って、感謝と喜びが湧き上がり、それを見えるかたちで現す者に変えられたのです。
②(ルカ18:9-14)より
(ルカ18:9-14)
「自分は義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もう一人は取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。≪神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一を捧げております。≫
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。≪神様。こんな罪人の私をあわれんでください。≫あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

 パリサイ人の祈りは人間的標準による祈りです。神様の標準で義とされたのは取税人でした。
 
 ①の教えと②の教えの共通点は何でしょうか。罪深さの自覚です。罪深さの自覚のある人は、他人に誇るようなことはしません。謙虚です。他人をさばくこともしません。
 
 パウロは、この世の常識、この世の道徳、この世の価値観、これら人間的標準で人を見たりイエス様のみことばを受け止めたりすることは、「もう、しません」と言っています。
 
 私たちはこの世の人々に受け入れられたいのではなく、神様に喜んでいただきたいので、神様のお考えに合わせていきたいと願います。これが「神様の標準」です。それに向かって私たちのクリスチャン生活は前進して行っているのです。
 
 人間的標準を出来るだけ捨てていって、神様の標準に従って歩む人生を、この不敬虔な世界でチャレンジしていただきたいと思います。

 その摩擦が私たちの人格を磨きます。辛くてしんどいけれど、必ず幸せがやってきます。

 純金のような価値ある神の子として成長していきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年7月20日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)

暗闇の中で光を放つ  up 2025.7.20


主題聖句(マタイ5:14、16)
あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。







 私たちが生きる今の時代は、聖書的には暗闇の時代と言われます。一見すると、「日本ってそんなに暗闇なの?」と思うかもしれません。経済的には安定し、生活は便利で、安全で、豊かな国です。しかし、心の中はどうでしょうか?
  •孤独を感じている人
  •誰にも頼れずに悩みを抱えている人
  •自分には価値がないと感じている人
  •希望を失っている人
 見えないけれど、心の暗闇が広がっている社会。それが、今の時代です。

◆光の源はキリスト
 そんな暗闇の時代の中で、クリスチャンは光の子として歩むわけですが、私たちが光を放つ前に、まず覚えたいのは、「光の源は自分ではなく、イエス様である」ということです。 ヨハネ8章12節でイエス様はこう言われました。
「わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
 この言葉は、私たちが「光」になる前に、主に照らされる必要があることを教えてくれます。祈りの中で、御言葉の中で、礼拝の中で、私たちは主の光を受け取るのです。

◆光としての行動へ
 主から光を受けた私たちに対し、イエス様ははっきりと言われました。「あなたがたは世の光です。」
 ここで大事なのは、「なりなさい」ではなく、「です」=すでにそうなのだ、という宣言です。私たちは光を「持っている」人ではなく、光を「放つ」ように造られているのです。
 その光とは、私たちの「良い行い」として現れると、イエス様は言われました。
•正直に生きること
•他人のために祈ること
•親切にすること
•許すこと
•忍耐をもって愛すること
 それが、「暗闇」の中で放たれる証しの光です。

◆光は伝染する
 パウロもこう言いました。
「あなたがたは、この曲がった邪悪な世の中にあって、傷のない者、純真な者、神の子どもとして、世の光として輝いているのです。」(ピリピ2:15)
 ここで重要なのは、「光は一人で終わらない」ということです。光は伝染します。変化も伝染します。
 たとえば、教会で誰かが新しく献身し始めると、その信仰の姿勢に刺激されて、他の人も祈り始めるでしょう。職場で一人が誠実に働くと、周囲もだんだんと影響されていきます。
 「でも、私が光を放っても、誰も変わらないように感じる」そんな経験、あるかもしれません。大切なのは、私が変わり続けることをやめないことです。主はその変化を、見えないところで用いてくださるのです。最初の一歩はいつも、「あなた」から始まるのです。

 神様は「世の光」として私たちをこの時代に立てておられます。この日本という"霊的に暗い"地に、私たちの光が必要です。かつて私たちが燃えていたように、今もその灯は主によって再び燃やされ、私たちの変化を通して、誰かの変化を引き起こす影響力となっていきましょう。変化はゆっくりですが、着実に伝染するのですから。

◆光の実戦チャレンジ
・今週、一人に「ありがとう」と言葉にする
・疎遠になっている人にLINE/電話で「元気?」と声をかける
・職場や家庭で、一つ"見返りを求めずに仕える行動"をする
・困っている人がいたら、「祈ってるよ」と言って実際に祈る
・毎日1分、「主よ、今日どこで光を放てばよいですか」と祈る
・SNS等で、み言葉や証をシェアする

 

 

 

 

 

 

 

■2025年7月13日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)

御国の価値観に生きる  up 2025.7.13


主題聖句(マタイ6:33)
まず神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。







 皆さん、「何を第一に求めて生きていますか?」

 生活のための仕事、家庭の安定、将来の不安、健康、人間関係…。私たちは日々、「優先順位」を決めながら生きています。
 けれども、イエス様はその真ん中に「神の国とその義」を置きなさいと語られました。

 これは、単なる「信仰の話」ではありません。私たちの生き方の軸をどこに置くか?という、人生全体にかかわる問いです。

 今日は、このマタイ6:33の御言葉から、「御国の価値観に生きる」とはどういうことかを、一緒に考えていきたいと思います。

Ⅰ.まず神の国を求めよ ― 天と地の価値観の違い

 イエス様が語られたこの言葉は、山上の説教の中にあります。そこでは、富について、心配について、祈りについて…といった「生活に直結する教え」が続きます。その流れの中で、「まず神の国とその義を第一に求めよ」と語られたのです。
 
 これは、「教会の中だけで霊的に生きなさい」という意味ではありません。むしろ、現実の生活の中で、何を優先し、何に信頼して生きるのかという話です。

Ⅱ.御国の価値観と、この世の価値観
 私たちが日常の中で直面している「価値観の違い」を見ていくと、例えば、魅力ある教会とは、どのよう教会を思い描きますか?世の価値観では「快適さ」「清潔さ」「音響や照明が整った空間」が「魅力ある教会」とされがちです。しかし御国の価値観では、それらはあくまで“入り口”であり、本質ではありません。

 本当に魅力ある教会とは、「神の臨在と愛が体験できる場所」です。美しさは、神の栄光を映し出すために用いられるものであり、それ自体が目的ではないのです。

Ⅲ.御国を第一に選び、満たされた「普通の人々」

「まず御国を求めた人は、すべてを加えて与えられる」
これは、特別な聖人の話ではありません。聖書には、「普通の人たち」が、御国を選んだ結果、祝福された物語がたくさんあります。

 外国人のやもめであったルツ、パンと魚の少年、マルタの妹マリアなどです。彼らは皆、“まず神の国を求めた人たち”です。そして、神はそのすべてを豊かに加えて与えられました。

Ⅳ.あなたも、御国の価値観に生きる一人

 私たちはどんな価値観に生きているでしょうか?私たちのまわりには、日々、世の価値観があふれています。しかし、イエス様は私たちを「世の光」と呼ばれました。つまり、この世の価値観の中に生きながら、御国の価値観を生きる人として、わたしたちを選ばれたのです。

 この世の常識や優先順位ではなく、神の国を第一にする生き方、それが「御国の価値観に生きる」ということです。今、私たちは「御国の価値観に生きる」決断を迫られています。

 次週はこのような御国の民が「暗闇の中で光を放つ」というテーマで、この時代にどのように神の光を現していくかを共に分かち合っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年7月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

イエスは主  up 2025.7.6


主題聖句(第1コリント12:3)
ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。







※主とは何か
 「主」という言葉は、最高権威者を表す言葉です。
私たちの主はイエス様です。イエス様が最高権威者であることを、私たちはどのように意識して、どれほど敬意を持って、その名を口にしているでしょうか。
 いま私たちは、イエス様を見ることも触ることも出来ません。しかし、イエス様の霊、御霊様が私たちの内に住んでくださっています。ご主人様が常に横におられるという状態です。
 例えば現在日本国の象徴である天皇陛下がすぐ側におられるのに、知らん顔して無視するような態度がとれるでしょうか。相手の立場にふさわしい敬意をもって対応するのではありませんか。
 
 主、すなわち天地万物の一番上におられる最高権威者、そういう意味で、「イエスは主」と告白できなければ、御霊によってイエス様のことを知っているとは言えません。「主」の意味が理解できていないと、ご利益信仰で終わってしまいます。

※きよい良心からの告白「イエスは主」
(ヨハネ15:26)
「わたしが父の元から遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」 
 神の霊(御霊様)が私たちの内におられるなら、その御霊様が、イエスは主であることを証明してくださいます。主とは、どういうお方であるかを悟らせてくださり、イエス様に対する敬意を表すことの出来るこころを準備するように、聖霊様が働いてくださいます。 
 現代の社会には、権威に従うことに反抗する風潮があります。それはサタンから来るものです。サタンは昔も今も、人々を神に逆らわせようと働いているからです。
 
 イエス様がこれから十字架で死なれるということを預言なさった時に、ペテロは「そんなことが、あなたに起きるはずはありません。」とイエス様を励ますつもりが、イエス様に「下がれ、サタン。」と言われてしまいました(マタイ16:23)。
 神のみこころや秩序、神の権威に反する人間的な思いや行動は、サタンの心に影響されているものであることをイエス様は教えておられます。 
 
 権威を恐れ従う気持ちには、二通りの恐れがあります。一つは、権威や力に対して身の危険を感じる「怖れ」です。もう一つは権威を畏れ敬う、畏敬の気持ちです。
 
 イエス様に対しては、何も恐がることはありません。私たちがイエス様を「主」と告白するのは、神を畏れ敬う「きよい良心」です。この「きよい良心」に聖霊様は、語りかけてくださいます。聖霊様の導きは、神を尊ぶ「きよい良心」の内に聞こえてくるのです。
 
 私たちがこの良心を持つことが出来るために、神はイエス様の血潮によって私たちの良心をきよめてくださったのです。

※イエス様の血潮(神の憐れみ)が私たちの良心をきよめる
(詩篇103:7-13)
「主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって、私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」
 
 万物の主権者、権威の最高行為者であられる神様は「あわれみ深く、情け深い」お方です。
 アダムもアダムの子孫である私たちも、罪を犯す罪人であり、欲望を満たすという自己中心の罪が常に心
を支配しています。

 しかし、神様は、私たちをさばくのではなく、私たちの代わりに、神のひとり子イエス様を十字架につけ、血を流し、その命を犠牲にされました。それは信じる者たちの罪を赦し、生かすためです。神様はそういう救いをご計画され、実行されました。それほどに神様は、私たちアダムの子孫を憐れんでくださっているのです。
 
 神様のこの憐れみを感じた人は、こころを入れかえます。憐れみを感じた人はどんな悪人でも、良心が健全な方向に向きます。神の憐れみを感じた人は、罪を犯すこと、神に反するようなことをすることに対して、抵抗を感じます。罪から離れたいと思います。これが清められた人の良心の証です。
 「父がその子をあわれむように」とあるように、イエス様は父親として子どもを正しく育てる親の愛を持って接してくださっています。親はさばき主ではありません。親は慈しむ者、憐れむ者、情け深い者です。
 神は父なる神です。さばき主でもありますが、それは終わりの時の話です。それまでは、憐れみと情け深さによって、私たちの間違いを正し、直し、健全な方向へと励まし続けてくださる父なる神様です。

※悟らせてくださる聖霊様
 私たちの罪深さ、心の問題、性格の悪さなどを思うと、どうして私たちが今もここに生きていられるのでしょうか。神の憐れみのゆえです。情け深さです。私たちがまだ神の子として造り変えられ、成長することができると信じてくださっているのです。
 
 私たちも、子どもは将来必ず良くなると信じて助け続けます。それは憐れみ深さ、情け深さ、父なる神様が持っておられる私たちに対する愛です。この憐れみ深さが私たちの良心を清めるのです。そして、このあわれみ深いお方こそが最高権威者に相応しい方だと悟るのです。
 
 これを悟らせてくださるのが聖霊様です。だから、御霊によらないでは、誰もイエスは主です、と告白することは出来ないのです。

 皆さん、私たちはどれだけイエス様が主であることを理解してきているでしょうか。
その理解している分、どれだけ敬虔な心でイエス様の前に、この贖って頂いたいのちを生かすことが出来るか、考えて頂きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年6月29日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)

御霊によって変えられる人生  up 2025.6.29


主題聖句(第2コリント3:18)
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。







 皆さんにとって、「変化する」ということは、どんなイメージでしょうか?ワクワクすることですか? それとも少し抵抗を感じますか?
 
 私たち日本人は、「空気を読む」「和を乱さない」ことを大切にしてきた民族です。変わることに対して、どこか「怖さ」や「違和感」を持ってしまうことがあるのではないでしょうか。
 特に、信仰歴が長くなると、どこかで「このままでもいいんじゃないか」という安心感が生まれることもあります。
しかし今日は、変化は単なる自己努力ではなく、”御霊によるいのちのしるし”であることを、聖書から見ていきたいと思います。

・ペテロの変化に見る御霊の働き
 まず一人の人物に注目しましょう。それは、イエス様の弟子、ペテロです。
 
 ペテロといえば、情熱的で、人一倍「イエス様、ついていきます!」と言っていた弟子です。
 
 ところが皆さんご存知のように、イエス様が捕らえられたとき、ペテロは何をしたか。聖書にはこうあります。
「ペテロは三度、イエスを知らないと言った。そしてすぐに鶏が鳴いた。」(マタイ26章)
 
 一番近くにいた弟子が、「そんな人、知らない」「私は関係ない」と三度も否認してしまったのです。彼の中にあったのは、人の目を恐れる心、空気に飲まれてしまう弱さ、そして何より、「自分の身が可愛い」という本音です。
 
 しかし、そのペテロが復活のイエス様に出会い、そして何より聖霊を受けたときに、まったく別人のように変えられていくのです。
 
 使徒の働き2章、ペンテコステの日。あの臆病だったペテロが、今度は堂々と群衆の前に立ち、イエス・キリストの福音を大胆に語りました。

 その言葉を聞いて、なんと三千人が救われたと書かれています。あの「知らない」と言って逃げた者が、

 今度は人々の前で、「この方こそキリストだ!」と宣言している。これは努力でできることではありません。御霊の力によって、内側から変えられた証拠なのです。

・変化は命のしるし、御霊のしるし
 では、なぜ聖霊は私たちを変えることができるのでしょうか?そして、その変化は義務なのでしょうか?しんどいプレッシャーなんでしょうか?
 
 そうではありません。変化とは、命あるものが自然にしていくことなのです。
 
 イエス様は、ヨハネの福音書15章でこう語っています。
「わたしにつながっている枝で、実を結ばないものは取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶために刈り込みをなさいます。」
 
 つまり、私たちがイエス様につながっていれば、実は自然に結ばれていくのです。

 ただし、そのプロセスには「刈り込み」痛みを伴う変化があるとも語られています。これは、罰ではありません。
もっと実を結ぶために、神がなさる愛のわざです。
 
 変化とは、「頑張れ!」ではなく、「あなたの命が生きている証拠だよ」というメッセージなのです。

・変わることを恐れる日本人と、神の文化
 さて、ここで少し日本人の文化と、聖書の文化の違いを考えてみましょう。

 日本では、「出る杭は打たれる」「前例がないことはやらない」「空気を読む」ことが求められます。
 
 変わることは、ときに“わがまま”とか、“自己主張”と見なされることさえあります。

 例えば政治の世界でもそうですよね。歯に衣着せぬ発言で注目を集める政治家が増えてきたように思います。

 既存の政府の体制にメスを入れようとする姿勢に一定の支持は集まりますが、現状の生活はほとんど変わりません。それは、正しいことを叫んでいると認識していても、まだ多くの人は「なんか変わってる」「怖い」と言って距離を置くことがあるからです。
 
 なぜでしょう?「本当のことを言われると、自分も変わらなきゃいけなくなる」からではないでしょうか。
 
 これは信仰の世界でも似ています。「そのままでいいよ」と言われたい。「このままでいたい」と願ってしまう。
でも、神様はこう語られます。
「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)
 神の御霊は、「空気」ではなく「真理」によって私たちを動かされます。
 御霊は、私たちを現状維持からキリストの似姿へと変えていく力なのです。
・変化は“強い信仰”ではなく、“正しい応答”
 ここで大切なのは、「変わる=強い信仰者の話」ではないということです。むしろ、変化する人は、神に素直に応答した人ではないでしょうか。

 主は、あなたを咎めるために語るのではありません。主は、「もっとあなたを祝福したい」「もっと豊かにしたい」から、語っておられます。
 
 エペソ人への手紙にはこうあります。
「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのです」(エペソ4:15)
 成長し続けること、変えられていくことは、神の願いです。
完成された信仰者なんて誰もいません。
 
 しかし、「変わることを恐れない人」は、神の手の中でどんどん豊かにされていきます。

・変化は義務ではなく、いのちの証
 今日改めて一人ひとりに、こう問いかけたいと思います。
あなたの信仰は、動いていますか?
 
 あなたの内に、今も生きて働く御霊の風を感じていますか?もし、最近何も変わってないな…と思ったら、それは責められることではなく、御霊に心を開くタイミングです。

 もう一度ペテロのように、「主よ、私を変えてください」
「あなたの力で私を用いてください」と祈ってみましょう。

 変わることは、重荷ではありません。それはあなたが生きている証であり、神の恵みの入り口です。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年6月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

主の御名を呼びなさい  up 2025.6.22


主題聖句(使徒2:21)
しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。







 今、ペンテコステというところから聖霊様との関係において、皆さんにお話しをしてきております。
 
 見える現象だけが聖霊の満たしではありません。聖霊の満たしの一番のしるしは、私たちの新しく生まれ変わった神の子の霊、魂が、イエス様と同じ姿に成長していくことです。

 私たちの内に居られる聖霊様により、肉の古い性質や自己中心が段々と征服されていき、隣人愛を優先していく、そのような価値観に私たちは変えられていきます。 
 
 今日は、聖霊様が、私たちの新しく生まれ変わった神の子としてのきよい良心と交わってくださる、ということについてお話いたします。聖霊様に聞き従う、導きを得る、御声が聞こえる、というのは、きよい良心の中に聞こえてくることです。
 
 パウロ先生も弟子のテモテに、きよい良心を捨てたために信仰の破船にあった人がいる、と教えています。
きよい良心をもつことはとても大事なことなのです。

(ローマ9:1)
「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によって証しています。」

 パウロ先生の新しく生まれ変わった神の子としての良心は、聖霊様が同感してくださるほど非常に近い関係にあることがわかります。
(へブル9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

 「御霊によっておささげになった」というのは、いかにイエス様がご自分より神様を大事にしておられるか、どれほど敬虔な心を持ったお方であるか、ということを示しています。

 私たちを救うために、御霊の導きによってイエス様は血を流し、いのちを捨ててくださいました。この愛とあわれみに触れることによって、私たちの良心はきよめられるのです。
 
 人間的な愛でも、良心はきよめられます。親の愛や友情によって、歪んだこころが癒され、立ち直るという話もよくきかれます。人の愛でさえも人の心を変えることが出来るのなら、神様の愛は尚更のことです。

 ただし、愛は理屈ではありませんので、触れられなくては変わりません。理屈的に信じている段階から、触れられて信じている段階へと両立していかないと、良心がきよめられた状態で、クリスチャン生活を送るのは難しいことです。
 
 年数を重ねれば重ねるほどに、神の愛に触れられ良心を働かせる成熟したクリスチャンへと成長していって頂きたいと願います。
 私たちの心には、罪の影響を受けた良心と、新しく生まれ変わった魂の中に与えられたきよめられた良心と、二つの良心があります。両方に意識が行ったり来たりして、迷ったり矛盾を感じたりすることがあります。そこで、今日は、きよい良心に意識をおく秘訣として、(使徒2:21)のみことばを紹介いたします。

(使徒2:21)
「しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」
 
 これは旧約聖書のヨエルという預言者の語られた言葉ですが、ペテロはこれを引用して五旬節の日に説教をしました。世の終わりにおける神様のさばきの日に、主の名を呼ぶ者はみな救われる、とイエス・キリストの救いをここで提案しています。
 
 今のこの時代でも、私たちのクリスチャン生活において、逆境の時、困難な時などに、主の名を呼ぶ者は、元の正しい所、安全な場所に立ち返ることが出来ます。
主の名を呼ぶことは、きよい良心に意識をおく秘訣なのです。
 しかし、主の名を呼んでも、きよい良心に意識が行かない人もいます。それは罪を持っている人です。「赦せない」という罪です。隣人を赦せているか、自分を赦せているか、この「赦し」こそが、イエス様の十字架の一番大きなポイントです。
 
 イエス様の十字架の赦しを受け入れる人は、自分を赦し、他の人も赦すことが出来ます。なぜなら、イエス様は私を赦してくださったのだから、私も、自分を含めすべての人を赦していこうという、きよい良心の価値観が生まれてくるからです。

(Ⅰペテロ3:21)
「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」
 
 正しい良心の神への誓いとして、私たちは洗礼を受けました。洗礼を受けた人は、「私は生涯イエス様を主とし神として従ってまいります」と、神の前に正しい良心をもって誓ったのです。「誓ってはいけない(マタイ5:34)」と言われたイエス様が、私たちの「誓い」を許しておられます。神様は、覚悟をもって正しい良心で誓うことを願っておられるのです。
 
 火の池に投げ込まれて永遠に滅びてしまう、そんな罪の処分を受ける永遠の苦しみから、私たちを救い出すために、神は人となられて地上に来られて、肉体の苦しみを味わいながら私たちの罪を贖ってくださいました。私たちの罪の代価をご自分のいのちで支払ってくださいました。
 
 それは唯々、私たちを、ご自分のかたちに似せて造られた我が子として愛しておられるからです。いのちを捨てるほどに、それほどに私たちを愛してくださっていることを、2000年前の十字架でお示しくださいました。
 
 この父なる神様の「親の愛」に触れられたら、絶対に良心はきよめられ、正しい良心に変わります。ですから洗礼を受ける時に、もうすでに良心はきよめられているのです。
 
 福音を聞きます。私たちの罪のために、イエス・キリストは人となられて、この地上で私たちの身代わりに苦しみを受けてくださいました。こんな愛を私たちは受けているのです。

 そして、心に感動を受けました。こんな罪深い私のために罪のないお方が犠牲になって私を救って下さった、罪の赦しを与えて下さった、新しく神の子として新しい人生を歩むように救って下さった。

 何度失敗しても、悔い改めればいつでも赦して頂けるという赦しの愛をも与えてくださっている、何という素晴らしい救いでしょうか。この愛に触れたら、もう罪から離れようと決意が出来るはずなのです。 
 
 きよめられた良心は、悪から離れます。たとえ罪に負けることがあっても、諦めず、心入れ替えてやり直します。神様は、私たちが何度失敗しても、心を入れかえてやり直すことを願われています。100回負けても101回目に勝利したら、勝利者なのです。私たちはそういう風に赦されて、いま神の子として育っているのです。 
 
 ですから、洗礼を受けるということは、正しい良心の神への誓いです。自分の最も正直な変わることのない本心です。そういう気持ちで、イエス様を信じた、その現れとして、水のバプテスマを受けるのです。 
 
 子どもは純真です。おとなになって行く中で正しい良心を学んで行きます。心の弱さを覚える時もあるでしょう。その度ごとに、「心を入れかえてもう一度イエス様の前に歩んでいこう」と周りの大人が励まし続けてあげる必要があります。ですから、子どもの時に洗礼を受けても問題はありません。

 (Ⅱテモテ2:19)
「それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。『主はご自分に属する者を知っておられる。』また、『主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。』」

 主の聖なる名が、罪や汚れと一緒になることは有り得ません。主の名を呼んだら、必ず正しい良心の方へ意識が行きます。その根拠がこのみことばです。
 
 理屈はともあれ、主の御名を呼ぶ者は皆救われるのです。罪から解放され、罪に勝利し、死からよみがえることができます。死んだ信仰もよみがえらせることができます。主の御名を呼びなさい。盲人のバルテマイのように、応えてくださるまで呼び求めるのです。
イエス様は求める者に応えてくださるお方です。

 主に意識を向けて、「主よー!!」と御名を呼び求めましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年6月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

いのちの御霊の原理  up 2025.6.15


主題聖句(ローマ8:2)
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。







 ペンテコステのメッセージを、ローマ8章の9節、10節、11節と、3回にわたってお話しして参りました。
(11節については木曜のリバイバル集会でお話してあります。)
 
 8章11節は、罪と死によって死んでいるからだを、聖霊様は生かしてくださる、よみがえらせてくださる。

 そして、イエス様が新しい栄光の姿でよみがえられたように、私たちも御霊によって包まれ、御霊のバプテスマを受けているならば、死と罪に包まれたこの肉体の中にあっても、御霊の復活のいのちによって、この肉体を支配する(生かす)ことが出来る、ということを結論としてお話し致しました。
 
 私たちは罪に悩み苦しむ必要はありません。勝利できるのです。
 イエス様の贖いを信じている私たちの魂は、罪と死から解放されました。罪の宿った肉体は罪を犯し続けるので、心に葛藤が起るのは当然です。パウロ先生も7章でその悩みを述べています。
 
 しかし、それで終わりではありません。ローマ8章で大切な真理が述べられています。今日は、(ローマ8章2節)から、そのお話を致します。

(ローマ8:2)
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」

 ここに「罪と死の原理」と「いのちの御霊の原理」という2つの原理(法則)が書かれてあります。「いのちの御霊の原理」の方が優っていて力強いので、私たちは「罪と死の原理」から解放される、ということが記されています。
 
 「原理」とは、ある現象を成り立たせるための基本的な法則です。そして優った法則は、劣った法則を征服できます。ですから、「いのちの御霊の原理」は「罪と死の原理」から私たちを解放し、死ぬべきからだをも生かしてくださるのです(8章11節)。
 
 しかし、折角、御霊が新しいいのちをもって私たちをよみがえらせてくださったのに、肉体にある「罪と死の原理」は、私たちに正しいことを守らせないように働いてきます。

 必ず私たちの正しい心に対して攻撃してきます。正しく生きようと思うのに、そうさせないように働いてくるのです。肉に宿る罪が、欲望を通して、私たちの新しく生まれ変わった魂に圧迫を与えてくるのです。
 
 ここでクリスチャンは、「罪と死の原理」が、新しくよみがえらされた神の子の魂を再び支配できるのだ、と勘違いしてはいけません。
 
 罪と死に勝利した復活のいのちは、二度と死にません。それが復活です。イエス様も二度と死なないからだで復活されました。

 なぜなら、死からよみがえった復活のいのちは、二度と罪と死に支配されないからです。
 
 だから、私たちは戦うことが必要です。罪と死の攻撃を受け入れてはいけません。聖霊様を信じて自制心を働かせるのです。私たちのその意思(正しい良心)に聖霊様は力を与えてくださいます。

(へブル9:14)
「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

 ここに「御霊によっておささげになった」と書かれてあります。
 
 イエス様は神の御霊をご存知でした。神の御霊は死からよみがえらせるいのちを持ったお方だと知っておられて、ご自分がよみがえることを信じて、御霊に導かれて十字架で苦しみ、血を流し、いのちをささげられたのです。

 復活することが目的です。罪と死に完全に勝利するためです。
 
 クリスチャンも、体は罪と死の中にありますが、魂は御霊の只中にいます(ローマ8章9節)。

 私たちは聖霊のバプテスマを受けたことにより、今復活の御霊の覆いの中で、御霊につつまれ、覆われ、浸透されて、御霊と一つになっているのです。
 
 復活のいのちと一つになっている状態です。それを死に追いやるものは何もありません。
 
 イエス様は神であられる方でしたが、人間として乙女マリヤより生まれ、人間としての人生をすべて体験し、人間としての死も味わわれました。

 そして、死に対してどうしても勝利できない人間に、死を打ち破ってよみがえるという希望を与えるために、神はイエスを、御霊の働きに導かれて一度は死ぬけれど、二度と死なない「いのち」に満たしてよみがえらせられたのです。
 
 同じように、私たちも体は罪と死の状態にありますが、内側にある私たちの霊は御霊にバプテストされているので、死んでいる体をもよみがえらせて神のために生かすことができるのです。
 
 これが「いのちの御霊の原理」です。「罪と死の原理」の働くところには、「いのちの御霊の原理」が働きます。これがクリスチャン生活です。そういう状態に私たちは置かれているのです。
 
 現実には私たちは肉体の五感のせいで罪の意識を強く感じて落胆します。

 しかし、罪を犯しても、よみがえってください。次はもう二度とこの罪を犯さないと告白してください。復活のいのちに意識を置くのです。正しい良心をもって神のみことばに従うのです。必ず勝利できます。
 
 新しく生まれ変わった神の子としての魂(聖霊に満たされた魂)は、様々な自己中心の欲求を「自制」します。「自制」は御霊の9つの実の一つです。あなたの自制心ではありません

 聖霊様に導かれるという信仰をもって、.正しい良心のうちに聞こえてくる御霊の声、みことばを聞き従うなら、あなたは死ぬべきからだを生かされるクリスチャン生活を送ることができます。
 
 私たちの体は罪の力によって病気になります。どんなに癒されてもいつか死にます。そんな地上の肉体をよみがえらせるのではなく、新しい天国でのからだを頂いてよみがえります。死に支配されることのないからだをもって天国に行くのです。
 
 私たちが考えるべきことは、信仰を働かせることです。「罪と死の原理」に勝る「いのちの御霊の原理」によって、私は生きることができるんだ、御霊の復活の力によって、罪と死に勝利できるクリスチャン生活が出来るんだ、自制心を正しく働かせることの出来るクリスチャン生活を送ることが出来るんだ、と信じることです。

 何回失敗しても、最後に勝利すれば、勝利者です。
 
 神のみことばの真理を、正しい良心によってしっかりと受け入れて、その道を歩んでいってください。
復活は二度と罪と死に支配されない、その理由をしっかりと悟ってください。

 

 <適用>

 罪と死の働きに立ち向かいましょう。それは自制心を働かせることです。
 
 主にゆだねましょう。聖霊様の復活のいのちにゆだねましょう。
 
 霊と肉を分けるという(ローマ8:10)の真理を体験して、それから(ローマ8:11)の真理に到達してください。それが、ペンテコステのゴールです。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年6月8日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)

主よ、私のうちに来てください  up 2025.6.8


主題聖句(ルカ11:13)
それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。






 今日はペンテコステ、聖霊が注がれた日を記念する、教会にとって特別な日です。

 イエス様の十字架と復活ののち、天に昇られた主は、約束どおり「助け主」としての聖霊を私たちに送ってくださいました。
 
 でも、こう思う方もいるかもしれません。「自分は聖霊のことをよくわからない」「異言もないし、何か特別な体験もしていない」と。聖霊は、特別な人のための特別な力ではありません。聖霊は、信じるすべての人に与えられる神のご臨在なのです。

1. 聖霊は「人格」であり、「神ご自身」
 まず覚えておきたいのは、聖霊はエネルギーや雰囲気ではなく、「神ご自身」だということです。

 「助け主(カウンセラー)」として、私たちのそばに、そして内に住まわれる神です。ヨハネ14章では、イエス様は「もう一人の助け主を、あなたがたに与える」と語られました。これは「イエス様の代わりに来る神ご自身」という意味です。つまり、今日、私たちが「聖霊に満たされる」とき、それは神との親密な関係が深まるときなのです。

2. 聖霊は「求める者」に与えられる
 もう一度、今日の聖書箇所を読みます。
「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」
 これは、私たちが完全になったから、きよくなったから与えられるのではなく、「求める者」に惜しみなく注がれる」という約束です。
 本来は聖霊の満たしに値する人なんて、誰もいません。しかし、「主をもっと知りたい」「もっと近づきたい」という思いを持つ人には、神は豊かに応えてくださるのです。

3. 満たされるとは「御霊の支配に自分を明け渡すこと」
 エペソ5:18ではこうあります。
 「酒に酔ってはいけません…御霊に満たされなさい。」
 ここでの「満たされる」とは、コップに水を注ぐような一度きりの出来事ではなく、「常に支配されて生きること」「主権を渡すこと」を意味します。つまり、「自分の人生の主導権を、神に明け渡す」という決断でもあります。

4. 「何かが起きる」よりも「心が開かれているか」が大事
 私たちは、主の御前に出て聖霊を歓迎する祈りの時間を持つとき、「異言を語れるようになるのか?」「何か感じるのか?」と考えてしまいます。しかし、そういうことよりも、大切なのは「主に心を明け渡しているかどうか」です。

 ペンテコステの日、弟子たちは「いつも心を一つにして祈っていた」と書かれています(使徒1:14)。
 そこから、神の働きは始まったのです。

 ですから今朝、私たちも静かに心を開いて、主にこう告白したいと思います。「主よ、私のうちに来てください。あなたの霊によって、私を満たしてください。」
 
 祈りましょう。「もっとあなたを知りたい、あなたの力ではなく、あなたご自身と共に歩みたい」と。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年6月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊がうちに居られるなら  up 2025.6.1


主題聖句(ローマ8:9)
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。






※御霊がうちに居られるなら
 ペンテコステのテーマは、今までは「聖霊を受ける」ということにポイントが置かれていましたが、今回は、聖霊様を受けたなら、どんな状況が現れ、どんな変化があるのか、異言を語るという表面的なことではなく、神の子として造り変えられたしるしはどのように内側に見られるのか、どういうことに目が開かれるのか、そういうことをお話していきます。
 
 たとえ異言を語っても語らなくても、内側に聖霊様がおられるということの「しるし」があります。それが本当に聖霊に満たされた人の証として確信をもって頂きたいことなのです。
 聖霊様が共におられなければクリスチャンとして歩むのは困難であるということに気付いて、聖霊様を求めて頂きたいと思います。
 
 先週は(ローマ8:9)から、私たちは聖霊様の内にいる、というお話を致しました。その特徴は、(ローマ8:5)ひたすら御霊に属することを考えるということでした。
 聖霊様と2人の心の部屋にいて、その持ち主は神様で、私たちはそこで同居させて頂いています。そしてそこで神様について、イエス様について、永遠という神様のご計画について、そういうことに心を向けることが多くなります。それが私たちが聖霊様の内にいることのしるしだというお話をいたしました。
 
 今週は続いて(ローマ8:10)から、「聖霊が内に居られるなら」というテーマで、その2つ目の特徴をお話しいたします。

※死んでいるからだと、義とされて生きている霊を区別できる
(ローマ8:10)
「もしキリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」
 イエス様はよみがえられて天に帰られましたが、その後、ご自分と同じ助け主を送ってくださると約束されたのが、真理の御霊、聖霊様のことでした。ですから、(ローマ8:10)は「御霊があなたがたの内におられるなら、からだが罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きています」と読み取ることが出来ます。
 
 聖霊に満たされた人は、霊の思いと肉の思いとを区別することができます。しかし、意識を「死んだからだ(肉の思い)」の中に置いている肉的なクリスチャンは、御霊の事がわかりません。御霊の声が聞こえません。みことばの解釈が難しい、そういう色んな困難を覚えます。

 信仰があれば皆救われるのですが、「信仰がある」というのは御霊の中にいる状態です。ですから御霊の中にいるということが、クリスチャンの自覚の基本、土台です。
 
 ペンテコステの教会では、異言や霊歌や預言など見えるかたちのしるしが、聖霊に満たされた証とされていますが、それは一時的です。最初の五旬節の日にも大きな風が吹き、建物が揺れて、人々の頭の上に火が現れたとも書かれていますが、それも一時的な現象でした。
 
 しかし、いつも聖霊を受けたらはっきりすることは、御霊の中に私たちは置かれて、常にひたすら御霊に属することを考えるようになり、考えが変わります。それが私たちが御霊の中にいるということの、一つの大きなしるし、自覚出来る証です。
 
 また、今までは心は一つと思っていたのに、心が二つに分かれることを感じ始めます。自分の思い通りにならない「死んだからだ(肉のこころ)」と、いつもイエス様に感謝し祈りを捧げる「神の子として新しく生まれた自分自身」とを意識することが出来て、からだと霊とは別問題だということに気付きます。
 
 私たちは救われて、魂が罪から解放されて、新しく神の子として生まれ変わりました。そして、私たちの生まれ変わった魂を、聖霊様が包んでくださって、覆ってくださって、守ってくださる、という現象が起こるのです。そして、神様のことを思うことが段々と増えて行き、神様の価値観に興味を抱き、魅かれていきます。

 聖霊様があなたの霊、魂を包むと、完全にからだと霊とは区別出来るという状況を発見します。異言だけがしるしなのではなく、一番大事なのは内側の変化です。これを重視して頂きたいと思います。

※見極めのポイント
(ローマ8:7)
「というのは、肉の思いは神に対して反抗する者だからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従出来ないのです。」
 「死んだからだ」という意味は、肉の欲求が強くて自己中心で、神様のおことばや神様のお考えよりも、肉の欲求、自己中心の欲求を優先してしまって、神様の戒めに服従出来ない、そういう死んだ状態です。
 
 聖書を読めば読むほど、死んだからだ(肉の思い)は反抗します。従いたくないのです。自己中心を止めて神様の愛に生きる、ということを選びたくないのです。
 
 神のおことばは恵みです。守らなければいけないというものではなく、守りたいものなのです。義のために生きたい、神様の愛のために生きたい、きよさを求めたい、という罪人が求めても得られなかったものを、イエス様の十字架の罪の赦しによって、それを得ることが出来る様にきよめてくださった、救って下さった、というのが今のクリスチャンの状態です。
 ですから、聖書を読む時、神様の教えを実行することが出来る、許可が与えられている、だから、喜んで楽しんでチャレンジしてみるのです。すぐには成功しなくとも、何回も失敗しながら熟練し、磨かれて身に付いていくものです。
 本当にあなたが善を求めて徳の高い人格者として成長したいという人生を願うならば、神様はそれが実現するように、この聖書のことばを恵みとして与えてくださっているのです。

※死んでいるからだの肉の思いは、神に反抗する

 死んでいるからだ(肉の思い)は、ことごとく神のおことばに反抗します。それは罪の働きです。
 イエス様を信じて、新しく生まれた神の子の霊は、救われた喜びにより、聖書のすべてのおことばを感謝出来ます。 聖書のお言葉は、クリスチャンにとってはすべて実行できる神の恵みのお言葉です。それを実現したいと思ってチャレンジするならば、クリスチャンは罪赦されているので、恵みによってそれを手に入れることが出来ます。
 しかし、自分に都合の良い自分の利益になるような御言葉ばかり考えているのは霊的に幼い子どもの状態です。

 成長したクリスチャンは、自分のことも隣人のことも大切にします。思いやりの心があり、与える心があります。ですから、神のおことばに反抗する時、成長したクリスチャンは、これは「死んだからだ(肉の思い)」だ、と見分けることが出来るのです。

※死んでいるからだは、神の律法に服従できない

 欲望という強い力は、絶対に服従しないほどの強い力を持っています。
 死んだからだの強い肉の思いと、新しく生まれ変わった神の子クリスチャンの霊とでは、ほとんどの場合、クリスチャンは肉の思いに負けてしまいます
 自分は肉の欲求に勝っている、私は神のみこころを行っていると思っても、自分の欲望を達成するために神のおことばを用いるという場合があります。それは神様の愛の奴隷ではなく、欲望の奴隷です。
 その見分け方は、みことばを多く知ることです。知れば知るほど、従えるみことばと従えないみことばが、分かれてきます。神のことばは生きていて力があります。そして私たちの心の思い、根本的な動機を見分けることが出来ます。
 成長したクリスチャン、長年のクリスチャンはその辺を巧みに操ることがあります。神のビジョンだと言いながら自分のビジョンを達成したり、神様から来たビジョンを自分の自己達成のために用いたりします。そういう人は、そのビジョンに対して注意されると、怒りを覚えたりします。
成長したクリスチャンはそこまで聖別されていくのです。

※弱さの現状(ローマ7:14∼25参照)

 (ローマ7:14∼25)には、死んだからだの思いと、義のゆえに新しく生まれ変わった魂との葛藤が、よく言い表わされています。皆さんもご自分でよく読んで深く考えて、肉に属する死んだからだに生きているクリスチャン生活になることのないように、気を付けてください。
 パウロは、こういう弱さの現状がありながら、世界中に福音を宣べ伝えることの出来る強いクリスチャン生活を歩むことが出来ました。何故でしょうか。

※御霊の中に居らせて頂く重要性

(ローマ8:11)
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中から読みがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」
 
 服従できない死んだ肉の思いを従わせることの出来るのは、死人をよみがえらせることの出来る御霊様だけです。肉の働きに完全に勝利できるためには、御霊様とともに歩み、復活のいのちを受けて生きることです。
 
 なぜ、イエス・キリストの復活が大事なのか、それは私たちの死に支配されている肉体をも御霊様は支配することが出来る、その証明としてイエス様は死からよみがえられて、その御霊を私たちにお遣わしくださったのです。これが復活の大事なポイントです。

 失敗して否定的になって諦めていく弱い私たちのクリスチャン生活を、勝利に導くのは、イエス様を復活させた御霊様です。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年5月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

御霊の中にいる  up 2025.5.25


主題聖句(ローマ8:9)
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。






 6月8日にペンテコステの記念礼拝を迎えます。そこで、今日と来週のメッセージは、実際に御霊様を内側に受け入れると、私たちはどうなっていくのか、ということについて、お話しさせて頂きます。
 私たちは、イエス様を信じたら、洗礼を受けます。洗礼を受けると賜物として聖霊が与えられます。この3つのことは神様の約束で、ワンセットです。別々に考えてはいけません。
 そして、賜物として聖霊が与えられたのに、追い出してしまっていないか、聖霊様がおられるのに、おられないかのような生活をしていないか、このような点も皆さんに考えて頂きたいと思います。

※助け主 聖霊様  

 今日の主題聖句には、もし御霊様が、イエス様を信じる私たち一人一人の内に住んでおられるなら、私たちは肉の中ではなく御霊の中にいるのです、と書かれてあります。
 「御霊の中にいる」とは、御霊様の家の中にいるように、御霊様によって保護された中に住んでいる状態です。心の中の、御霊様の所有の家の中で、私たちの霊、魂は、御霊様と同居させて頂いて、親しくお交わりをさせて頂いている状態です。
 なぜなら、イエス様が私たちを罪から解放するために、ご自分のいのちを代価として支払って、私たちを罪から買い戻してくださったからです。買い戻された私たちの霊、魂は、聖霊様の家で、聖霊様というコーチの側で、癒され、きよめられ、更に成長するように聖霊様は具体的にアドバイスをしてくださるのです。
※サウル王様とダビデ王様の違い

 サウル王様は、王として神様に選ばれたにもかかわらず、その選びに正しく忠実に応答しませんでした。自分の考えでやりたいようにやり、指摘されると言い訳をします。彼は王家の子孫にメシア(イエス様)が生まれるという啓示も意に介さず、今、王であることに執着し続けました。彼は、滅びかかった小さなベニヤミン部族の者で、何のとりえもないことに劣等感を持ち、それを隠すために権力や力を得ることに喜びを持つようになり、神様への誠実さを失って彼は失敗してしまいます。
 一方、ダビデは素直に神様のお考えに忠実に応答し、過ちを指摘されると、素直に従い誠実に改めました。彼は、遠い未来に子孫からメシアが現れるという預言を頂き、その恵みと祝福を心から喜びました。
 サウル王様もダビデ王様も油注がれた2人です。どちらも聖霊様の働きを受けることが出来ていた2人です。しかし、聖霊様の恵みに対し誠実であったか不誠実であったかということが、子孫に至るまでの神の祝福に大きな違いが出て来るのです。
 (出エジプト記34:6-7)に、「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎と背きと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」とあります。
 神様は「恵みを千代も保つ」と言われています。それほどに神の恵みは大きく、また不誠実な者に対して「罰すべき者は必ず罰する」と言われる神様であられます。
※恵みに生きる

 聖霊様の啓示に忠実であったダビデには、特別な礼拝の仕方が啓示されました。器具も仕切りの幕もなく、幕屋の中には「契約の箱」だけが置いてあり、その回りで祭司たちが神様を賛美し続けるという「ダビデの幕屋]です。これは教会時代を予表した神様のダビデに対する啓示でした。そして私たちサンビ教団のビジョンでもあります。

 (使徒行伝15:16-17)「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」 

 いま私たち異邦人に与えられているペンテコステの日は、聖霊様がはじめて地上の人々に与えられたことを記念して祝われています。
 「モーセの幕屋」のように、様々な規則に従う律法的なクリスチャン生活ではなく、神の愛とあわれみによって与えられた恵みに生きる生き方をするように、神様は願ってくださったのです。神様の愛と恵みに生きるという新しい契約を、イエス様を通して神様は私たちに与えてくださいました。その最も大きな恵みは、神の御霊を賜物として私たちの内に住まわせてくださったことです。

 

※御霊に属することを考える

 恵みとしての聖霊様が私たちの内におられるならば、どういうことが起るのでしょうか。
律法的な生き方はしなくなります。律法的に自分を裁いたり、他人をさばいたりしなくなります。すべて神の恵みによって赦されているので、感謝が湧き上がります。多く赦された者は多く愛するようになります。自分の罪深さをよく知っている者は、赦された喜びと感謝も大きいからです。
 ミッションバラバと呼ばれる集団は、ヤクザから回心したクリスチャングループです。罪深い自分に与えられた神の赦しの大きさを知った彼らは、大きな喜びと感謝をもって赦しの恵みを受け取りました。ここで人は価値観が180度変えられるのです
 ペンテコステの日に向かっての今日の皆さんへのお勧めは、皆さんは聖霊様の中にいる、ということです。
まだ、その実感のない人は、悔い改めてイエス様の名によって洗礼を受けるなら、賜物として聖霊様が与えられることを信じて、「私は御霊の中に生きているんだ」と受け止めて、クリスチャン生活を始めていってください。そして、聖霊様が気付かせてくださる一つ一つの罪から離れていくことです。
 聖霊様の中にいると、段々と私たちはきれいにされていきます。時間をかけて聖霊様と交わりをする中で、きよめられていき、親しい関係が築きあげられて行きます。
 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは御霊の中にいるのです。これが今日のポイントです。
 他の聖書箇所もご紹介しますので、参考にしてください。

(ローマ8:5)
「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」

(Ⅰコリント3:3)    
「あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。」

(ヤコブ3:14-15)
「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属する者です。」

御霊の中にいる皆さんは、御霊に属すること、すなわち互いに愛し合うクリスチャン生活を築き上げていって頂きたいと願います。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年5月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神から報いを受ける  up 2025.5.18


主題聖句(マタイ6:1)
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。






※神から報いを受ける  
 
 今日の主題聖句から気が付いて頂きたいことは、「私たちは人から報いられることを求めていませんか」ということです。
 
 「報い」というのは、働きに対する報酬ですから、二重に頂くわけにはいきません。誰かから報酬を頂いたら、もう報いは残っていません。

 ですから、報いを与えてくださる方が誰であるのか、ということが非常に重要になります。
 
 正しく報いてくださり、また働き以上に報いを与えてくださる恵み深い天の父なる神様からの報いを受けるのが、一番良いことだというのが、今日の皆さんへのお勧めです。
 
 この地上の生活にあって、人は見える回りの人々に目を注ぎ、回りの人々の反応や応答を気にします。
 
クリスチャンであっても、兄弟姉妹の間で理不尽なことを体験すると、怒りを覚えたり、愚痴や不平や不満が湧き上がったりします。
 
 自分が行った「親切」に対して、良い反応や応答が得られないと、心が傷つきます。深く失望します。私たちも無意識の内に、人からの報いを期待しているのです。
 
 「道徳」は神の御教えから発展したものです。その「善行」は、神を畏れる心から生まれてくるものですから、それを正しくさばくことが出来るのは神様だけです。クリスチャンはそれを信じて生活しています。
 
 自分の行った「善行」が正しく評価されなかったり、また悪い仕打ちを受けて傷ついたり悲しんだりすることもあります。

 しかし、神様が正しく報いてくださるという神様への信頼によって私たちは忍耐します。それがクリスチャンの日常生活での人間関係の捉え方です。
 
 それを悟り行うには時間がかかります。人からの報いは求めていない、と自分では思っていても、「人の目に良い者として映りたい、評価されたい、価値あるものに感じられたい」と、人に評価を期待したり、期待が応えられないとストレスを持ち続けて心を汚していくことがよくあります。 
 人は正しく報いてくれないけれど、全知全能の父なる神様は正しく報いてくださるに違いない、というのが私たちの神への姿勢、信仰です。
             
※神に報いて頂く
(へブル11:6)
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
 神は正しく報いてくださるお方です。期待以上の報いをもたらしてくださる素晴らしいお方です。そのような信仰、信頼を何故持てるのでしょうか? 
 
 私たちは、自分の罪のゆえに死んで永遠に滅びなければならない者でした。それなのに、イエス・キリストが2000年前に十字架の贖いの御業を成し遂げてくださり、私たちの罪の代価を身代わりに支払ってくださったのです。

 そこまで犠牲を払って、私たちに罪の赦しを与えてくださいました。それほどに、私たちのことを高価で尊いと見てくださっているのです。

 そうであれば、どうして信じる者に正しく報いてくださらないことがあるでしょうか。必ず報いてくださる、というのが私たちのイエス様への信頼です。
 
 時間が経ってもなかなか願いがきかれない、と思うことがあるかもしれません。神様は永遠の存在者ですが、地上での短い人生を生きる私たちは、なにごとも自動販売機のようにボタンを押してすぐ手に入るようでなければ、不安になりイライラします。

 しかし、永遠である神様は、私たちの永遠の人生をも考慮して、いま何が必要かを考えておられます。神様を尊んでいると言うのなら、応えてくださる神様の良い時を「待ちます」というのが私たちの取るべき姿勢ではないでしょうか。主権は神様にあるのです。
 
 
 今日の主題聖句にありますように、善行、施し(親切)、祈りは、隠れた所、人目に付かない所で行われたものを、神様は報いてくださいます。

 人に良く思われたいという自分中心の欲求は、貪欲の奴隷の姿です。気を付けなくてはいけません。

※正しく報いてくださるのは神様だけです。

 神様は私たちの願い通りに報いてくださるとは限りません。なぜなら、私たちは自己中心の価値観で報いを期待する者だからです。
 
 しかし、新しく生まれ変わった神の子としての正しい良心は、神様がどのような報い方をなさっても、それが一番正しいことを知っています。

 なぜなら、私の罪の赦しのために、ひとり子イエス・キリストのいのちを捧げてくださったほどのお方ですから、私のために良いことをしてくださらないはずがないからです。
 
 (申命記32:39)には「私は傷つけ、また癒す。」とも語られています。真珠は傷つけることによって、あのように美しい真珠の玉になります。

 神様は私たちを真珠以上の価値ある者と見てくださっていますから、傷や痛みを通して私たちがもっと素晴らしい結果を生み出すことが出来ると信じてくださっているのです。
(詩篇119:71)には、「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。」と語られています。

 苦しみは素晴らしい宝を生み出すための神の恵みです。そのように神様を信じて行くことが私たちの神への信仰です。
 
 そのように素晴らしいものが生み出されていく、それがビューティフルコミュニティーです。混乱と問題だらけの教会の中で、痛み苦しみぶつかり合いながら、それでも神様を信じ合って一つになって歩んで行こうとする、その姿がビューティフルなのです。
 
 世の人々は困難があると回りにぶつけ、復讐し、壊していくものです。しかし、クリスチャンは、困難を乗り越えて行く、困難を感謝する、困難の次には幸いが訪れるという神様への信頼をもって歩んでいきます。
 
 クリスチャンは人からの報いを期待していませんから、神が報いてくださるのを信じて待ちます。忍耐を働かせます。

 その忍耐は、クリスチャンを「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」としてくださいます。(ヤコブ1:4)
 
 隠れたところで見ておられる神様に報いて頂きましょう。そのように、「善行」「施し」「祈ること」を心がけて頂きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年5月11日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希 牧師)

主のそばにとどまる   
〜ヨシュア 中腹にとどまる献身〜  up 2025.5.11


主題聖句(出エジプト24:13)
そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。





 本日こうして、牧師としての最初のメッセージの機会を与えられたことを、心から感謝しています。

 この大切な場で、私はまず一人の若者の姿を紹介したいと思います。その人の名は──ヌンの子ヨシュアです。

 出エジプト記24章。モーセが神の山に登るとき、ヨシュアは一緒に登りました。彼は山の中腹まで付き従い、神の語りかけを直接聞くことはなかったかもしれません。しかし、モーセの従者であった彼はその場にとどまりました。

 私は16歳のとき、このヨシュアの姿に心を打たれました。「私もこうありたい。主のそばに、見えない場所で仕える者でありたい」彼の忠実に仕える姿勢が、私の信仰生活と歩みの原点です。

 18歳で私は献身しました。主がどう導かれるのか、将来どうなるかは見えませんでしたが、ただ「主のためになにかしたい」と思ったのです。

 その後の歩みは、決して計画的なものではなく、信仰に押し出されるような連続でした。

 22歳で結婚。
 
 28歳で伝道師として按手を受け、29歳には勤めていた会社を辞めて、教会にフルタイムで仕える決断をしました。

 30歳では神学校へ。毎週広島と関西を単身で往復しながら学びを続ける2年間。
 
 同時に、認可外保育園の立ち上げも始まりました。
 33歳で法人化し、保育園を認可へと拡大。
 
 36歳では広島CLCの働きを引き継ぐこととなりました。

 そして今年、41歳で牧師按手。今日、皆さんの前に立たせていただいています。

 これらすべての歩みは、私自身の力や計画によるものではありません。その都度、「主がそう導いておられる」と信じて、一歩を踏み出した結果でした。

 未知で、不安のある道もありました。でも、振り返ればこう言えるのです。
「主のなさることは、時にかなって美しい」(伝道者の書3:11)まさにこれが、私の人生の証しです。

 ヨシュアのように、私たちは主のそばにとどまる者でありたいと思います。見えないところでも、評価されなくても、主のそばにいたい、主のためになにかしたい。そのような心が、神様のご計画に用いられる器となっていきます。

 今日、私の歩みを通して一つでも受け取っていただきたいことがあるとすれば、それは、「主は良いお方であり、そのご計画は、時にかなって美しい」ということです。

 これから牧師として、皆さんと共に、信仰の旅を歩んでいけることを心から感謝し、期待しています。
主に信頼して、共に従ってまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年5月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

キリストの満ち満ちた身たけにまで達する

  up 2025.5.4


主題聖句(エペソ4:11〜13)
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。





※キリストの満ち満ちた身たけにまで達する

 これは、クリスチャン人生の大きな希望です。
 「満ち満ちた身たけ」とは何でしょうか。
 イエス様のうちには完全な神様が満ちあふれておられます。神が人となられたお方であるイエス様、私たちがそこまで達することが出来るように、神様はご計画して進めてくださっておられます。

<エペソ4:11>
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」

 教会には、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という5つの務めをする人が立てられます。何のためでしょうか。

<エペソ4:12>
「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」

 この5つの務めを持った働き手によって、私たちはキリストのからだとして建て上げられ、整えられていきます。
 5つの務めを、複数人の牧師が担う教会もありますし、私たちの教会のように一人の牧師が5つの務めを担うこともあります。いずれにしても、目的は「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」です。
<エペソ4:13>
「ついに、私たちがみな、信仰の一致と御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

 牧師のこの5つの務めは、私たちが「完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけに達するため」の働きです。私たちは自分一人で勝手に成長出来るわけではありません。この5つの務めを通して成長出来るのです。
 一人の牧師が5つ全ての務めを担う教会もありますし、複数人の牧師によって5つの務めを担う教会もあります。 
 いずれにしても、教会がキリストの身たけにまで成長するためには、牧師が必要なのです。そのために神は教会に牧師を立てられるのです。
 
 現在、特にプロテスタント教会では、教会の代表者を「牧師」と呼んでいますが、それは5つの務めの働きをする者としての「牧師」であり、五役者(使徒、預言者、伝道者、牧師、教師)の中の一つの務めである「牧師」ということではありません。
 
 今日、和希先生が牧師の油注ぎを受けられましたから、当教会には私(辻牧師)と和希先生が牧師として立てられていますが、誰がどの務めをするのか、ということは今は決まっていません。これからの働きによって段々とはっきりして行くことでしょう。
 
 また、当教会には、伝道師、献身者、ワーカーと呼ばれる方たちもおられます。教会の成長のために、牧師(五役者)を補助し助けて行く献身的な協力者です。

※神のご計画は、教会がキリストの満ち満ちた身たけにまで達することにある

 立派な人が集まっているのが教会ではありません。神様は色んな人を地方教会に集めます。集まった一つの地方教会の一人一人がキリストの満ち満ちた身たけにまで達することを願って、そこに立てられた牧師を通して導いてくださいます。この器を通して聖霊様が働いてくださるのです。
 
 広島には、広島エルサレムプランという地方教会のビジョンがあり、また、ホーリーバイブルチャーチには初代牧師の村田先生ご夫妻によって「キリストの花嫁なる教会」というビジョンがあります。 
 
 それぞれの地方教会のビジョンは、神様のご計画実現のために与えられたものですが、その共通のゴールは、キリストの満ち満ちた身たけにまで達することです。神様はそのために一人一人に働きかけ、関わりを持ってくださるのです。
 
 クリスチャンである神の子としての「おとな」というのは、その見える形としては、福音書に書かれてあるイエス・キリスト、そして細かい内面的な具体的なクリスチャン生活は、使徒行伝やパウロの牧会書簡に記されています。

(Ⅱコリント3:18)
「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 御霊なる主は、個人的にも働きかけてくださいますが、五役者を通して語りかけ働きかけてくださいます。目的はキリストの満ち満ちた姿へと成長し前進することです。
 
 私たちは素晴らしい成長の希望を与えられています。時間がかかっても、この希望を抱いて前向きに聖書から教えられ、指導者から助言を受けながら、互いに励まし合っていきましょう!

 

 

 

 

 

 

 

■2025年4月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

ピリピ3:10〜11
〜起死回生〜

  up 2025.4.27


主題聖句(ピリピ3:10〜11)
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。





※「死者の中からの復活に達したい」
 パウロ先生は、異邦人に福音を伝えるために遣わされた最初の指導者です。当初サウロと呼ばれていた彼は、キリスト教徒を迫害する急先鋒でした。
 
 彼がクリスチャンを縛り上げるためにダマスコ近くに来た時、天からの光に照らされて地に倒れ、自分に語り掛けられるイエス様(よみがえられた後、天に昇られたイエス様)の声を聞きました。その時に目がみえなくなったパウロはダマスコで祈っていました。
 
 一方、アナニヤという弟子も幻の中でイエス様に命じられ、パウロのところに行って彼に手を置くと、パウロの目が開かれました。そこでパウロはバプテスマを受け、イエス様のことを「この方こそ神の子です」と宣べ伝え始めたのです。
 
 それ以来パウロは大変な苦難の中を通らされ続けましたが、決して神様に文句を言ったり愚痴ったりすることはありませんでした。主題聖句(ピリピ3:10-11)にありますように、彼は「死者の中からの復活に達したい」という望みと信念を持っていたからです。
 
 「死者の中からの復活」というのは、イエス様が再臨されて、死者がよみがえり、全てのクリスチャンがイエス様の元に集められる時のことですが、その復活にあずかるために、パウロは「キリストの死と同じ状態になる」ということを求めています。
 
 死んだも同然の絶望的な人あるいは状況が、一気に回復して素晴らしい成果をあげることを「起死回生」と言いますが、イエス様の復活は「起死回生」です。
 
 単によみがえっただけではなく、よみがえって2000年後の今に至るまでも、その復活の力で多くの人々を「起死回生」に導いてくださっています。

 そして、(ピリピ3:10-11)によれば、私たちがイエス様の復活のいのちにあずかって生きるためには、「キリストの死と同じ状態になる」ことが求められています。それはどういうことでしょうか。

※「キリストの死と同じ状態になる」

 パウロ先生は、伝道のために世界を旅する間に、石打の刑によって一度は死んだこともあり、船が難破して海を漂ったことも数度あり、自然災害や人々からの迫害は数知れず、まさに死んだも同然の状態になったことが、しばしばありました。

 それをパウロ先生が喜びとして受け入れたのは、「キリストの死と同じ状態」になり、死者の中からの復活に達するという起死回生の人生、復活の本当の力にあずかりたいという彼の願いがあったからです。
 
 私たちはイエス様を信じた当初、罪赦されて、ああ天国に行けるんだという喜びを感じ、幼子のように感謝が心に溢れました。

 しかし、年数を重ねると、復活のいのちを頂いたのに、まだ復活していない肉体を持っているがゆえに摩擦が生じ、そのために労苦するというクリスチャン生活の苦しみも味わいます。

 神の子として新しく生まれ変わった魂は、その労苦も含めて全てを感謝します。その辛さも喜んで受け入れます。それが新しく生まれ変わった神の子の魂の捉え方です。
 
 イエス様は100%人間として十字架で苦しみを受け、100%人間として死なれました。ですから、奇跡によって十字架の苦しみから逃れるということもしないで、恥も苦しみも痛みも全て受け止め、人として行き詰った最後の姿を全世界の人々にさらされました。
 
 イエス様の十字架での最後のことばは、「父よ、我が霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)」でした。これがイエス様の死の状態です。この状態と同じようになってこそ、私たちは復活のいのち、復活の力を知ることが出来るのです。
 
 私たちが、人としてはもう成す術もない絶望的な状況、あとは死ぬだけというような状態の時、「神様、あなたが私に死ぬことを望まれるのなら、私はそれに従います。十字架から降りることを望まれるなら、それも従います。わたしの願いは、私の霊を御手にゆだねることです。
 100%あなたを信頼して、あなたのみこころ、御考え、御業に、私のいのちをお預けいたします。私の存在はあなたの御手にあるのです」という神様への全き信頼と従順を告白できるでしょうか。それがキリストの死と同じ状態です。

※「起死回生」はビューティフル!
 
 創造主なる神様を知ることは大事なことです。父なる神様の御心、御考えをイエス様は知っておられました。だから、御手に委ねることが出来たのです。最悪の状態にあっても、「死よりも強い天の父なる神様が、私を支えてくださっている」という確信と希望を持って告白できたのです。
 
 今日、もし皆さんが行き詰まっているなら、それは最高に素晴らしい「起死回生」の時です。イエス様の復活の力によって、一発逆転、完全勝利、ビューティフル !!です。
 私たちは行き詰った中からよみがえり、回復します。そして更にすぐれた働きをするところまで進みます。様々の問題があっても、イエス様の復活の力によって前に進むこの教会は、まさにビューティフルなのです!!
 
 皆さんにチャレンジして頂きたいことは、イエス様が追い詰められた状態から御霊によってよみがえらされたように、あなたのクリスチャン生活も、逃げるのではなく、また甘えるのでもなく、神様にすべてを委ねるという決心をもって、御霊によってよみがえらされる起死回生の歩みを体験して頂きたいということです。
 私たちのクリスチャン生活は復活のクリスチャン生活です。行き詰ってこそ復活にあずかることができます。それが今日のメッセージです。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年4月20日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

復活と罪の赦し  up 2025.4.13


主題聖句(第1コリント15:17、20)
そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。





 福音は、私たちにとって良き知らせです。私たちに罪が入ったゆえに、神様との間に決して埋めることのできない隔てがありましたが、私たちの罪が赦されるために、十字架の贖いのみ業がなされました。
 
 イエス様が復活されたという事実は、この十字架の御業が完璧であったことを表しています。

 それは、私たちの身代わりとしてのイエス様という代価は、イエス様の死をもって完璧に役割が果たされました。完璧な身代わりだからこそ、新しい栄光のからだとして父なる神様はイエス様を復活させることができたのです。
 
 イエス様の復活は、聖書の中に登場する死から蘇った人たちのそれとは違います。彼らの蘇りは、厳密には蘇生です。

 それは、死から一時的に戻された状態であり、その後、再び通常の死を迎える朽ちる肉体に戻された状態を指します。
 一方イエス様の場合は、再び死ぬことのない朽ちない栄光の体としての復活でした。この復活は私たちに多くのことをもたらします。

・死に勝利した証
・信じる者にも復活の希望がある
・罪からの解放
・新しい人生の始まり

 
 聖書が語る私たちへの福音は、信じる者が救われることです。救いは、イエス様の死と復活がセットで完成されました。

 それにより、罪が赦されるだけでなく、神との関係が回復され、義と認められました。死で終わりでない新しい人生を、主のために全うしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年4月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

第1ペテロ2:24  up 2025.4.13


主題聖句(第1ペテロ2:24)
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。





Ⅰ)十字架の苦しみの3つのポイント

①罪をその身に負われた
 罪の無いイエス様は、私たちの罪をご自分の罪として負い、私たちの代わりに十字架で苦しんで死んでくださいました。
 
 私たちの罪とは、神様に対する私たちの借金(負債)です。この借金は大きすぎて自分では返せません。
 
 誰かが肩代わりして、その借金を返済するしかありません。それが出来るのは、自分には借金(罪)のない方、イエス様だけです。しかし、何のためにそんな借金の肩代わりをイエス様はしてくださるのでしょうか。

②義のために生きるため
 イエス様が私たちの罪を負って十字架にかかってくださった目的は、私たちが罪赦されて、罪から離れて義のために生きる者となるためです。 
 
 私たちが神のかたちとして造られた神の子として立ち返り、神の子として生きるためです。

 罪赦されて、また同じように欲望を満たす罪の生活に戻る為ではありません。
 
 イエス様の願いは、私たちが罪赦されて一からやりなおしてほしい、義のために生きてほしいということです。そして、義のために生きる決心をするために、イエス様の指導を受けることが大事です。
 イエス様を信じない人は、イエス様による罪の赦しの恵みに与ることができません。罪赦されても、また同じ罪の生活にもどってしまいます。
 
 それでは罪を赦してあげたいという、私たちに向けられているイエス様の深い愛とあわれみを踏みにじることになります。その罪は大きいのです。

③キリストの打ち傷のゆえに、いやされた
 罪を赦して頂くと、身も心も軽くなって、一からやり直しますという平安な心で歩んでいくことが出来ます、それを「癒される」と言います。

 そういう人は、イエス様の愛とあわれみに信頼して、「どうぞ、私を二度と同じような罪の生活に陥らないようにご指導ください、あなたの親切に報いたいのです。」というのが正しい態度です。神様の親切に報いることこそ、十字架で犠牲となってくださったイエス様、今は天で祈ってくださっているイエス様の心を慰める唯一の方法です。
                     
Ⅱ)契約の保証
(へブル7:22)
「そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。」

 イエス様の受難というのはどういう苦しみであったのか、肉体の苦しみや、黄泉に下る苦しみとは別の苦しみがあったことを(へブル7:22)から知って頂きたいと思います。
「イエスは契約の保証となられた」
(神様がキリストを通して私たちの罪を赦し、赦し続けるための負い目を全部、イエス様が身代わりに保証人として立て替えます、という意味)

 (連帯)保証人というのは、借金の当事者が返済不能の時、代わりに無条件でその借金を全額返済する義務を負う人です。
 
 イエス様は私たちの罪のための保証人になってくださいました。

 すなわち、私たちがどんなに罪を犯しても、保証人のイエス様が私たちの罪の借金(負い目)を全部身代わりに支払い続けてくださるのです。支払ってくださいます。そこまでしてでもイエス様は、私たちに「やりなおさせてあげたい」と願ってくださるのです。

 そこまで私たちを愛して親切を施してくださるイエス様のお心を無にしてはいけません。
 
 私たちは悔い改めてやりなおしましょう。赦してくださった方のために生きていきましょう。イエス様の親切、保証人となってくださったその覚悟、その心、深い愛とあわれみを信じて、心入れ替えてイエス様の愛に報いようと生きて行くのです。
 
 悔い改めて、義のために生きて行きましょう。
 私たちへの神様の愛と憐れみ、十字架の痛み、苦しみが無駄にならないように、自分に出来るところから、祈ります、聖書を読みます。黙想します。教えて頂きます。 
 
 神様のおこころを少しでも感じることが出来る様に、私の心を造り変えて頂くために、救い主イエス様を信じて歩むことを決心します。これが私たちクリスチャンの心です。

 保証人になってくださったイエス様、今も私たちの
ために苦しみながら、悔い改めるように義のために生きるようにと、天でとりなしてくださっているイエス様、そのご愛に私たちは支えられて、未熟なクリスチャンの歩みであっても、いつしか成長し、イエスキリストの姿へと近づいていくことが出来るのです。

 私たちは、行いによって義とされることはない罪人です。だからこそ私たちは、イエス様が血潮を流してくださった十字架を見上げて、イエス様の苦しみは私のためであることを、今もイエス様は苦しんでくださっていることを心に覚えて、悔い改め、心を入れかえ、義のために生きる決心を新たにしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年4月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

新しく始まった  up 2025.4.6


主題聖句(第2コリント5:17)
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。





 今日は小学校の入学式に因んで、4つのみことばを新一年生に当てはめてお話をしたいと思います。

 50年ほど前には、「人生をやり直したい」と思って教会に来られる方が、多くおられました。

 そして、「やりなおしたいけれど続けられない」と言われる方たちや、また、「私には出来ないけれど神様には出来る」と信じ続けて、少しづつ造り変えられていったクリスチャンもおられました。

 その根本は「新しく造り変えられた」というところからの出発なのです。

 私たちは同じ失敗をすると、新しく造り変えられたということが実感できません。目に見えるところに頼ってしまうからです。

 しかし、神様への私たちの信頼は、「イエス・キリストを信じる者は誰でも新しく造られた者です」という神様のおことばを信じて、一歩一歩進んでいくことなのです。

Ⅰ) 主題聖句内容観察

①「だれでもキリストのうちにあるなら」 
 キリストのうちにある者とは、イエス・キリストを、私の救い主、私を造り変えてくださる力ある神様と信じる者、そしてその後も、私の主、私の神として心から信頼して歩む者のことです。

②「新しく造られた者」
 このように神に対する新しい心が生まれるというのは、そのように心を変えることが出来るように、神の御霊が、一人一人の霊、魂に語りかけて決意を与えてくださるからです。
 
 神のことばは生きていて力があります。私たちが信頼してついていくなら徐々に影響されて、やがて新しい自分、依然と違う自分を発見するようになります。
 
 一番大事な変化は、キリストを信じるという心です。それは神の恵みによって与えられる心です。自分の努力ではありません。御霊様から働きかけられて、心が全く新しく造り変えられる、そこからがスタートなのです。

③「古いものは過ぎ去った」
 新しく造られた自分を自覚するためには、キリストを信じていなかった過去の自分との完全な断絶を決意することが必要です。
 
 たとえ過去の自分の行動や思いや考えが出たとしても、「それは過去の私なのだ、今の私はイエス・キリストを信じて神の子とされたんだ、新しく造り変えられたんだ」というキリストへの信仰と、その御ことばへの信頼を告白することが必要です。
 
 過去の失敗はすべてイエス様が十字架で負って処分してくださいました。私たちはイエス・キリストにあって、すべての罪が赦されたのです。そして永遠に赦され続けるのです。

 それは私たちがやりなおすことが出来るためです。それが神様の私たちへのあわれみ深さ、情け深さです。そのおかげで、私たちは前を向いて生きて行けるのです。

④「すべてが新しくなった」
 キリストを信じて私たちはすべてが新しくされました。しかし肉体は古いままです。

 肉体は将来新しくされる、というのが神様の私たちへの約束です。神様の約束は必ず実現しますから、私たちはその約束を信じて、体も共にすべてが新しくされた、と受け止めて良いのです。

【デボーション】
 新しく生まれ変わった、造り変えられた、罪人だったのに罪の無い神の子とされた、このような自覚をもって、これを目指し、求め、進んで行く、これが私たちの神への信仰です。

Ⅱ)『新しい人を着た』
(コロサイ3:9-10)
「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

①「古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて」
 「古い人を脱ぎ捨てる」と表現されています。汚れた服をいつまでも着る人はいません。

 新しい服に着替えます。罪の汚れは自分で取ることは出来ませんが、脱ぎ捨てて新しい服を着ることは出来ます。

②「新しい人を着たのです」
 私たちは今、罪赦された神の子という「新しい人」として生きています。それが「新しい人を着て歩む」ということです。この自覚のために、古い人を脱ぎ捨てるという気持ちがどうしても必要なのです。

Ⅲ)『子どものことをやめる』
(Ⅰコリント13:11)
「わたしが子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」

 私たちは自然に子供から大人に成長する中で、子どものようなことは止めて、大人のことを始めます。

 今日入学した新一年生も、新しい制服やランドセル、新しいものを身に着けてピカピカです。新しい心、新しい気持ちで喜んでスタートを切った新一年生が、再び幼稚園児に戻るということはありません。
 
 過去には楽しかったことも今はドンドン捨てて、小学生として成長していきます。
 皆さんは、「おとなになったときには、子どものことを【やめました。】」というような決心を、どこまでされたでしょうか。
 
 罪赦されて救われて神様に愛されている者が、以前の罪の習慣に戻るというようなことはありません。
 
 新一年生が過去を切り離して新しい学びをしていくように、私たちも罪人としての生活はもう過ぎ去ったこととして切り離し、神の子として新しい人生の学びを生涯続ける決意をもって未来に向かって歩んでいって頂きたいと思います。

Ⅳ)『始まりの大事なこと』
(ガラテヤ6:15)
「割礼をうけているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」

 パウロがイエス様の福音を人々に伝え始めた頃のことです。一部のユダヤ人クリスチャンが、旧約聖書で定められているように割礼を施さなくては救いは完全ではない、と言い始めました。
 
 そこでパウロは、肉体に施された割礼(神に選ばれた民という目に見えるしるし)が大事なのではなく、神様が望まれているのは心に割礼を受けること、すなわち、真心からの神様への誠実な信仰を持つこと、それが大事であると語りました。
 
 主イエス様を信じ愛する心が与えられるなら、私たちは自然と、礼拝し、賛美し、祈り、聖書を読み、献金し、兄弟姉妹と交わり、隣人を大切にし、みことばを実行したくなるものなのです。それが心に割礼を持った者の自然な行動なのです。
 
 私たちは心が新しく創造され、神の子としての人生を始めました。そして日々新しくされて行きます。成長させてくださるのは神様です。そういう神様の働きに対する信頼をもって、今年一年ビューティフルコミュニティーを目指して歩んで参りましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年3月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

ローマ6:3〜4   up 2025.3.30


主題聖句(ローマ6:3〜4)
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。





 今日は卒業式にちなんでこのタイトルにしました。一般的に卒業とはある段階やある時期を通り過ぎることで、その節目に卒業式というイベントがあります。

 卒業には必ず未来があります。小学校、中学校、高校、大学、就職など未来に備えて準備していく段階を表します。
 
 体験し学んできたことを、次の段階に活かしていくための節目が卒業です。
 
 葬儀でよく言われることは「人生を卒業する」ということばです。この世での段階を過ごしてきたという意味でしょう。
 
 一般的に人生の卒業とは死ぬことで、死なないと次にはいけないと信じられています。しかしクリスチャンは生きながら人生を卒業できます。

主題聖句(ローマ書6:3〜4)
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」

 このみことばは、洗礼の教えです。洗礼式は一度死んで再びよみがえって新しく生まれることです。それを可能にしてくださったのが、イエス・キリストの十字架の死と葬りと復活です。
 私たちは罪人であり、いくら神を信じ敬っていても、それだけでは救われません。何故なら罪が赦されていないからです。
 罪の赦しの保証は、洗礼を受けることで得られます。私たちの過去、現在、未来のすべての罪をイエス様は十字架で贖ってくださいました。
 
 その赦しを受け入れ信じて洗礼を受けることによって、私たちは救いを得ることができます。
 
 2千年前のイエス様の十字架の贖いは、イエス様の再臨まで有効です。これはアダムの子孫に与えられた赦しの御業です。
 この洗礼の真理を知らないでいたら、せっかく新しく生まれ変わった人生なのに、しっかりと生きることができません。

 洗礼はただのセレモニーではありません。単に教会の会員になるための儀式ではありません。洗礼によって天に名前が記されるのです。天国の国民になるのです。
 
 国籍が天になるので、文化も考え方も価値観も変わります。
自分の属する国(天)の主権、力に守られて生きることができるようになります。

 天国に勝る力ある国はどこにもありません。ハデスの門もこれに打ち勝つことはできないのです。このハデスの門をくぐられたのはイエス・キリストです。そして三日目に新しい体をもってよみがえってくださったのです。

 私たちはこのイエス様にあずかって洗礼を受けます。水から上がるとき、新しい生命をもってあがることができるのです。

 ただし、私たちは肉体はまだそのままです。イエス様だけが御霊の体をもって天に上がられています。

 そして私たちの救いの完成は、この肉体もイエス様のように変えられる時に成就します。
それゆえ再臨を待ち望みつつ、今この地上の生活を送っています。
 体はまだそのままですが、私たちの魂と霊は神の子として天の国籍をもって生きるよう変えられています。

 洗礼を受けて卒業し、天の国籍の生き方を始めています。
魂と霊は、みことばを受け入れ失敗や成功を体験することによって成長していきます。

 では、洗礼を受ける前の人生ではどんな段階や時期を通り過ぎたのかを次のみことばから見ていきましょう。

(第1ペテロ4:2〜3)
「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。 」

 異邦人の生き方は自分の欲望をみたしたいという生き方です。
 その欲が善であるか悪であるかは別として、欲を満たしたいという事自体は悪いことではありません。むしろ無欲になるというのは生きている意味がありません。

 ただし欲には悪い方向と良い方向と2つの道があります。

 洗礼を受ける前は自分の欲しいままに生きる道に欲を使っていました。

 しかしもう欲望に従って生きる人生に疲れて、イエス様を信じて洗礼を受けてからはその人生を卒業して新しく生まれ変わり、神を畏れる人生へと変えられていきます。

 欲望に従う人生を卒業することがクリスチャンの洗礼式です。欲望はあっても、神を畏れることが何よりも優先されます。
 神を畏れることは良心をきよめることにつながるので、欲望を善と悪に分けることができるようになります。

 そして悪を行ったときには咎めをもち、善を行ったときには喜びに満たされ充実感が与えられます。

 その理由は神の子として新しく生まれ変わった魂ゆえに、善を行うことに対して希望と喜びと感謝が溢れ出てくるからです。

 欲望を優先した自己中心の生き方から、私たちは神を優先させる新しい生き方に入れられました。この新しい人生をしっかり生きましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年3月23日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

神は愛です  up 2025.3.23


主題聖句(第1ヨハネ4:7〜8)
愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。





 神様の愛からわかることは、私たち人がその愛を注ぐために創造され、今も全ての人を気にかけてくださっているということです。

 特に、神様はその愛を具体的な形で私たちに示されました。罪の赦しのためにイエス様を送ってくださったことです。

 絶対に出来ないと思われることを神様はしてくださいました。

 私たちもその愛なる神様にならい、愛を実践していきましょう。

 無関心を働きかける世から一定の距離を置き、来る日まで、愛を徹底するコミュニティとして教会を進めていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年3月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

Communityの国籍は天  up 2025.3.16


主題聖句(ピリピ3:20)
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。





 ≪Beautiful Community>である『主を求める人々の群れ』の概念の4つ目が(ピリピ3:20)の【国籍は天にある】です。
 今日は、私たちが天の故郷に帰るための旅人であり寄留者であるということと、救い主イエス様が再び来られるのを待ち望む気持ちについてお話したいと思います。

Ⅰ.主イエス様が戻ってこられるのを待ち望んでいる
(ルカ19:15-17)
「さて、彼が王位を受けて帰って来た時、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。さて、最初の者が現れて言った。『ご主人様。あなたの1ミナで、10ミナをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、10の町を支配する者になりなさい。』」

◉良い忠実なしもべ→主人を敬っている

 商売をするようにと主人から与えられた1ミナを用いて、10ミナを儲けたしもべ(16節)と、5ミナを儲けたしもべ(18節)がいます。

 主人はしもべたちの報告を聞いて、2人とも「小さな事に忠実であった」ので、「よくやった。良いしもべだ」と言って喜びました。しもべたちのもうけの違いは全く気にしていません。
 
 そのように、神様が人を見られるのは、どういう働きをしたか、どれだけ成功したかという能力ではなく、神様を敬う心、小さいことにも忠実に仕える心を大事なものとして見ておられます。

 ですから私たちも、どういう働きをしたかということで互いを比べ合うのではなく、神様を愛し敬う心、そしてイエス様への忠実さを大事にしたいものです。

 神様は、「あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、10の町を支配する者になりなさい」「5つの町を治めなさい」と、報いを与えておられます。

◉不忠実なしもべ→主人に対して批判的 

 もう一方で、主人から与えられた1ミナを「布に包んでしまっておいた」というしもべ(20節)がいます。主人が厳しい人なので、失敗するのが怖くて、与えられた1ミナをそっくりそのまま返そうと思ったようです。
 主人に対するしもべの心には問題がありました。主人を敬う心がないので、忠実さに欠けています。主人と良い関係が出来ていません。彼は主人の帰りを喜ぶことも出来ませんでした。
 
 神様のおことばを批判するのは、神様を愛し敬っていない心の現われです。全能者であり、絶対者である神を信じ愛し敬っているのであれば、至らない自分の知識や経験や能力では理解できなくても、神様のお考えを信じて従うことが出来ます。
 
 「舟の右側に網を下ろしなさい」とイエス様に言われたペテロが、自分の否定的な考えを横に置いて、「先生が言われるのならば、そうします」と言って、網を下ろしたら、大漁でした。

 私たちもペテロのようなイエス様への尊敬を持つためには、「交わり」が必要です。「私たちの交わりとは、御父及び御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1:3)」とあるように、その交わりの中で神様への畏敬の念を深めていくことが必要なのです。
 
 従順なしもべと不従順なしもべの違いは、主人に対する心の姿勢の違いです。なぜ批判的になるのでしょうか、それは神様のおことばやお考えを尊ぶより、自分の思いや考えを優先して自分中心にものごとを見るので批判的になりやすいのです。

★「待ち望む」理由は、主人が戻ってこられることであって、もうけたことをほめていただくことが目的ではありません。
 
 大事なことは主人との関係です。小さな事に対する忠実さ。主人の命令を守り、主人の帰るのを楽しみに仕事をし、主人との交流を喜び、幸せを感じるその関係。それを神様は一番喜ばれます。
 この天国の世界の考え方を私たちは忘れてはいけません。
 イエス様はもう一度帰ってこられます。イエス様とお会いできる日を楽しみに、イエス様に忠実な心で生活し、チャレンジし、改め続けて前に進んで行くこと、結果がどうであれ、イエス様への忠実な心、愛と尊敬の気持ちを神様は喜んでくださいます。

Ⅱ.天の故郷に帰る旅人であり寄留者
(へブル11:13-16)
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、即ち天の故郷に憧れていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

◉旅人・寄留者は定住者ではない → 一時的なもの
 地上の人生は一時的なものですから、この世に最終的な目標や価値を見いだして、力を入れすぎて、天の故郷を見失うことがありませんように、この世の人生にあっても天の故郷を望み見て生きて行きましょう。

◉天の故郷にあこがれるているかどうか  
 鮭は、生まれた川から大海に出て、また産卵のために必ず生まれた川に帰ってきます。私たちも必ず天の故郷に帰るんだという気持ちを忘れないように、天の故郷の素晴らしさを、聖書を通して、またクリスチャンとの分かち合いを通して、聖霊様を通して、教えられていきましょう。

◉天の故郷の存在を保証するのが十字架の贖罪。
 イエス様が十字架で私たちの罪の赦しのためにあれほど苦しまれたのは、天に私たちの故郷、天国があるからです。十字架の贖罪の御業は、天に私たちの故郷がある証拠なのです。

【デボーション】
《衣錦還郷》のために備えましょう。
(イキンカンキョウ)とは、立身出世して故郷に帰ること。故郷に錦を飾ること。

 この《衣錦還郷》という4字熟語には、人格的に成長した姿で故郷に帰るという意味も含まれています。
(Ⅰペテロ2:11)
「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」

◉「肉の欲を遠ざける」ことについて自分自身のことを考えてみましょう。それが、《衣錦還郷》に備えることになるのです。

 肉の欲は避けられません。しかし、遠ざけることは出来ます。
 そういう生活を重ねて行くと、間違いなく私たちの国籍のある天に帰ることが出来ます。神様のことば以上に肉の欲の影響を受けることがないように気を付けてください。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年3月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

『御霊による自由』Community

  up 2025.3.9


主題聖句(第2コリント3:17)
主は御霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。





 「主を求める人々の群れ」という教団の大きなテーマのもとに、私たちのコミュニティーの特徴について、2回お話しをしてきております。

①善をもって悪に打ち勝つコミュニティ
②さばき合わない(赦し合う)コミュニティ

 今日は③として、主題聖句(Ⅱコリント3:17)の、「主の御霊のあるところには自由がある」というコミュニティーについて、「自由」というポイントでお話をさせていただきます。

(Ⅰ)主と御霊は同じ方です。主はどのようなお方でしょう。

(出エジプト34:6-7)
「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。『主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。』」

 この6-7節全体が「愛」を語っています。「神の愛」とはどういうものでしょうか。優しさ、恵み深さだけでなく、罰する(損失を償う)ということも愛の一つであることが、ここに記されています。

【デボーション】
(出エジプト34:6-7)である御霊がおられるところに、なぜ自由があると思いますか?

◉「あわれみと情け深さ」→「自由」
 あわれみ深く、情け深い、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、罪も失敗もゆるしてもらえる、そんな環境であれば誰しも自由に大胆に振舞うことが出来ます。

◉「罰すべき者は必ず罰する」→「さばき」

 しかし、自由が放縦になると、秩序が壊れてしまいますから、ルールとそれを守るための指導や罰が必要となります。
 ここで忘れてはいけない大事なことは、自分たち人間は罪の性質をもっている罪人である、ということです。そして、その罪人に対して神様は、あわれみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられ、咎とそむきと罪を赦すお方であるということです。

◉『愛』が満ちているところには自由がある

 神様は私たち罪人にも自由をもたらしてくださるお方です。但し、すべてが自由ではありません。罰すべき者は必ず罰する、という基準を持っておられます。

 神様の愛とあわれみを無視する者には、神様は裁きをくだされる、ということを忘れてはいけません。
 
(Ⅱ)聖書が教える「自由」
(ヨハネ8:34)
「イエスは彼らに答えられた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。』」
 聖書の教える「自由」とは、「罪の奴隷」から解放されること、罪の力から自由となること、という意味が含まれています。単に思い通りに好きなことが何でもできる、というのが自由ではありません。

◉罪の欲望に逆らうことができていますか?
 「真理」を知れば自由になります。

(ヨハネ8:32)
「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

◉だれが真理へ導いてくれますか?
(ヨハネ16:13)
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」

 「真理の御霊」といわれる神の御霊が私たち罪人を、罪の奴隷から真理へと導いて、私たちを自由にしてくださいます。

【デボーション】
自由とは真理を知ることです。何故なのかを考えてみましょう。

 神様は愛なるお方です。自由を大事にされるお方です。
罪の無いイエス様は、私たちの重い罪を全部背負って身代わりに十字架にかかり、私たちの罪をすべて処分してくださいました。その結果、私たちは赦されて神様から罪無き者と見なしていただけます。
 
 それほどに神様は私たちを愛して大事に思って、罪から自由にしたいと願ってくださっているのです。
 
 神が人となられたイエス様の罪の無い聖い血は、全人類の不敬虔な罪の赦しの代価となる価値あるいのちです。

 ですから「イエス・キリストは私の救い主」と告白する者は誰でも、どんな宗教の人であっても、神様からの赦しの切符をいただくことが出来るのです。
 
 このような神様の憐れみ深さと情け深さに触れる者は、どのように心が変えられるでしょうか。
 
 神様はこんなに罪深い私たちに、「あなたは高価で尊い」と言って下さり、私たちのために、ご自分の尊い聖いいのちを差し出してくださいました。

 その御恩に報いたい、神様から受けたあわれみと情け深さを大事にして新しい人生を生きていきたい、罪を犯すための自由ではなく、善を行うための自由な人生を生きて行きたいと、強制されてではなく、自発的にそのような願いが湧き上がってくるのです。

Ⅲ.与えられた「自由」には報いがともなう。
(黙示録22:12)
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えてくる。」
 イエス様は、罪赦された人間がその自由をどのように生きたか、それに対する報いを持ってこの地上に再び来られます。
 
 神の愛の御国に集められるのは、神様の愛、あわれみと情け深さに報いたいという、心に湧き上がる神への愛の応答、尊敬、敬虔さを持っている人たちです。
 
 直接に神様の憐れみと情け深さを体験出来ない人がいても、人間関係(親子の愛や友情など)を通して、あわれみ深さや情け深さは体験できます。

 それをきっかけに、神様は私にそのように罪の赦しや、あわれみや、情け深さを注いでくださっているのだと、知識的に知ることが出来ます。

 そして十字架の歴史的事実により、神が憐れみと情け深さを私たちに注いでくださっていることを知って、心を入れかえて、神様の愛に報いる生き方をしよう、と決心することができるのです。
 
 心を入れ替えても入れ替えなくても個人の自由ですが、それぞれのその生き方に対して神様は神様の基準に応じて報いられます。

【デボーション】
罪の奴隷から解放してくださったイエス様の十字架の贖いによる「自由」を大切にしましょう。

 例えば、クリスチャン同士の中で、良い態度をとってくれない兄弟姉妹がいたとします。

 イヤな態度を取る人も、イヤな態度を取られた人も、それでどうするかは自由です。

 愚かにならないで賢く、与えられた自由を用いていきましょう。

 

【みことば川柳】
        
あわれみと  恵みの中に  包まれて
 
自由奔放  大事に生きる

 

 

 

 

 

 

 

■2025年3月2日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

神のみこころを行う者は永遠に生きる

  up 2025.3.2


主題聖句(第1ヨハネ2:15〜17)
あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。
すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。
世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。





 (1ヨハネ2:15ー17)
「あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」
 
 上記のみことばは、私たちクリスチャンの信仰がどうあるべきかの本質を言い表しています。

 “この世とこの世にあるものを愛してはいけない”とはっきりと私たちに語っています。

 神を愛するとは、世を愛さないということなのです。

 この世に生きる者にとっては、ハードルが高いように感じ、この箇所を排他的だと捉える人もいるかもしれませんが、私たちクリスチャンにとっては、とても大切なことなのです。

 世を愛さないとは、すなわち世の価値観ではなく、神の価値観で生きることです。

 世の価値観とは、肉の欲を満たすことを優先したり、目の欲によって偶像を求めるようになったり、暮らし向きの自慢をすることで虚栄心に走ることを指します。
 これらの世から出るものは一時的なものであり、過ぎ去ります。神の価値観で生きる人は、神のみこころを行う者として永遠に生きることができるのです。

 ここで、もう一つの重要なポイントが出てきます。
 “永遠”についてです。
 クリスチャンは、福音の本質の一つでもある”永遠のいのち”についてどのように受け止めているでしょうか。

 この地上で精一杯生きてきた人の中には、もうこれ以上生きるのはしんどい、と永遠に対してマイナスな印象を持つ人もいるかもしれません。

 しかし、“永遠のいのち”の対なるものとして、“永遠の火”、もしくは“永遠の滅び”という存在があることを忘れてはいけません。(マタイ18:8)

 永遠について今一度しっかりと受け止め、神のみこころとは何か、すなわち、私たちが救われた目的、神の価値観を知り、この世がもたらすものが一時的だということを正しく理解し、信仰生活に反映し、神の価値観で生きることを心がけていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年2月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

『さばき合わない』Community

  up 2025.2.23


主題聖句(ルカ6:37)
さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。





※≪Beautiful Community≫である『主を求める人々の群れ』の概念の二つ目が(ルカ6:37)にある【人をさばかない】である。

 神の国は人をさばきません。さばくのは神様だけです。私たちはそれをよく忘れてしまいます。罪の大きさを正しく測り、相応の罰を与えて償いをさせることは、人間には非常に難しいことです。それが完璧に出来るのは神様だけです。

※主を畏れる敬虔な人は、他の人をさばいたり、罪に定めたりせず、人を赦します。
 自分の努力では限界がありますが、助け主聖霊様が私たちと共にいてくださって、人を裁くことがないように、「裁くのは神様です」と諭してくださいます。

※それはなぜか?
 唯一の神、創造主イエス・キリストだけが、さばいたり、罪に定めたりすることが出来るさばき主だからです。

※主エスのみことばは真理であり、「法」です。万物を統治するための「法」はこの方によって制定され、行使されているのです。
 神の国においては、主権者である神様がすべてのルールをお決めになり、その違反に対する裁きも、主権者である神様が決断されると私たちは信じています。
 
 私たちが何度違反をしても、愛と憐れみの神様は、すぐに裁きを降されることはなさいません。心を入れ替え、やりなおして、元に戻ってほしいという気持ちを持って、しばらくのあいだ見逃されます。しかし、ここが限度と思われる時には、裁きを降されます。
 
 旧約聖書のイスラエルの歴史には、それがよく表れています。いかに神様は、未熟な人類の成長を忍耐強く望み、待ってくださっておられることでしょう。本当に有難いことです。
 
 罪の処分について旧約時代では、神様の怒りをなだめるために何度も何度も動物のいけにえを捧げ、そして神様は一時的に罪を赦してくださっておられました。それが旧約時代のいけにえ制度でした。このいけにえは、やがて来られる本物のいけにえ、イエス・キリスト(永遠の罪の赦し)を象徴していたのです。
 
 2千年前にイエス様は、私たちの罪の赦しのためのいけにえとして、十字架で罪の無い聖いいのちを捧げてくださいました。ですから、それを信じる者たちはもう罪を裁かれることはありませんし、動物のいけにえを神に捧げる必要もなくなりました。
 
 イエス・キリストを信じた者にとって、罪の処分は終わっている、というのが神様のお考えです。
 
 私たちはもう罪の罰を受ける必要はありません。しかし、「赦して頂いた」という神様の愛と憐れみに対して、心からのへりくだりをもって神を敬う、そういう生き方をすることを神様は望んでおられます。それを私たちはよく悟っておかねばなりません。

(ヨハネ8:1-11)より
「イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼等に教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに行った。「先生。この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それはイエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けて止めなかったので、イエスは身を起して言われた。「あなたがたのうちで罪の無い者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面にかかれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちからはじめて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起して、その女に言われた。「夫人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定めるものはいなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」』

Ⅰ.律法学者とパリサイ人の質問の動機は?
 律法学者とパリサイ人はイエス様を「試し」ました。モーセの十戒の中には「姦淫してはならない」とあり、これを犯す者は死罪と定められています。それほどに姦淫は重大な罪、「死」に至る罪でした。
 
 日頃から神の愛と恵み、赦し、あわれみを説いておられるイエス様は、姦淫の罪を犯したこの女性についてどう裁くだろうか、彼らの質問の動機には、イエス様への悪意があり、イエス様を陥れよう、告発しようという罪が働いていました。
 
 旧約聖書の律法は、処罰することが目的で定められたものではありません。罪の重さを示すために、大小さまざまな罪に対する裁きやルールを細かく記して、違反するとこのように処罰されるということを民に知らせて、ルールを守るようにするのが目的です。
 
 神様は、裁きを一時的に遅らせるために、動物のいけにえ制度をも定めておられます。救い主イエス・キリストが本物のいけにえとして来られ、十字架の御業が成就するまでの、神様の仮の処置です。
 
 そのことによって私たちは何を悟るべきでしょうか。処分されない罪は残ります。罪は償われることを通して完全に処分されたとみなされます。イエス様は私たちの代わりに、いけにえとなってくださいました。

 キリストにおいて神が私たちを赦してくださったということへの感謝と、神への畏敬の心を持つことが、赦された者としての償いの生き方です。
 
Ⅱ.人を罪に定めることができる人とは?
 彼らは、女もイエス様も罪に定めたかったようですが、結局、自分自身が裁かれるべき罪人であることを知らされ、皆その場から立ち去って行きました。人を罪に定めることができる人とは、罪を犯していない人けです。

Ⅲ.婦人に対し「わたしも罪に定めない」と語られた理由は?
 パリサイ人たちは自分に罪があることを認めて去って行きましたが、イエス様は罪の無いお方です。この女性を裁く権利を持っておられました。しかし、「私もあなたを罪に定めない」と言われました。罪に定める権利もあれば、罪に定めない(赦す)権利もあったイエス様は、あわれみによって赦すことを選ばれたのです。
 
 それでは処分されずに残ってしまった女性の死罪という罪はどうなるのでしょうか。イエス様はやがて十字架におかかりになります。その時にこの婦人の姦淫の罪をご自分が負うことになるのを分かっておられて、「罪に定めない(赦す)」と言われたのです。
 
 罪に定めなかったイエス様の思いは、「あわれみ」と、そして女性に、「もう一度生きるチャンスを与えること」でした。

Ⅳ.「今からは決して罪を犯してはなりません」と語られたイエス様の心境は?
 罪の裁きから救われたのですから、これからは神を畏れて敬虔な人生を送るようにしなさい、というのがイエス様のこの女性に対するお気持ちです。罪の赦しの目的はここにあることを、クリスチャンは悟って頂きたいと思います。
 
 罪を犯す弱い性質は誰もが持っていますが、敬虔な態度、敬虔な姿勢の日々の生活というものを、皆さんはどれだけ意識しておられるでしょうか。日々、罪を犯していることにどれだけ気付いておられるでしょうか。
 
 私たちが罪を犯すたびに、イエス様は十字架で私の罰の苦しみを身代わりに受けてくださっています。だから、いま私は罰を受けないで済んでいるのです。

 そこまでして、私たちを赦してくださるのは何のためでしょう。それは、私たちが罪を犯さないようになるためです。
 イエス様は私たちが罪を犯さなくなることを望んでおられます。私たちが滅んでしまわないように、何度失敗しても、やり直しさせてあげたい、だからイエス様はさばきの日まで私たちを赦し続けてくださるのです。
 
 そんな神様の愛とあわれみの深さを知って、神を畏れる心を持ち続け、罪から離れようとする毎日を歩んでいく時、私たちの正しい良心は強められて、必ず罪から離れることが出来るようになります。これが私たちが罪に勝利するための神様のお考えです。

【だから、さばき合わないのです。】

 Ⅰ〜Ⅳまでの流れから、「だから、さばき合わないのです。」という結論が見えてこられたでしょうか。皆さんで話し合い、分かち合い、デボーションをして悟って頂きたいと思います。

 

【みことば川柳】

主を畏れ  敬う人は  無罪放免

 

 

 

 

 

 

 

■2025年2月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

『善をもって悪に打ち勝つ』Community

  up 2025.2.16


主題聖句(ローマ12:21)
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。





 Beautiful Communityを今年の目標としてあげています。不可能に思えるかもしれません。しかし、その不可能にチャレンジするのが神の子の特権です。私たちは自分の力を信じてやり通すのではなく、神の子として神からいただいたいのちを通し、神のみことばの助けを受けて、その力を信じてやり通すことができます。

 神はひとりひとりに励ましと力を与えてくださいます。
ですから、あきらめないことが大切です。「義人は七度倒れても、また起き上がる」とあります。倒れることがあっても、正しい人は失敗したままでは終わりません。倒れても、また起き上がって前に進もうとします。それが正しい人の生き方です。
 
 私たちはまだ幼く未熟です。ですから周りを裁くのではなく、まず自分と神の関係において「成長させてくださるのは神」と信じて、神に信頼をおきましょう。
 
 私たちの交わりの中心には最高の品性をもっておられる神がおられます。その交わりを妨げる罪を取り除くために、イエス様は地上に来てくださったのです。それゆえどんなに幼い未熟な人でも、この交わりに入ることができるのです。

(ローマ12:21)
「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」
 このみことばはチャーチスクールのモットーです。善をもって悪に打ち勝つ強い大人になってほしいと願っています。
 そのためには勉学だけでなく人格が磨かれることが大切です。ご両親がそれを望んで参加させてくださっています。
 
 我が子が悪に負けない、善をもって悪に打ち勝つ強い大人になってほしいという志は、チャーチスクールに参加しておられなくても、全ての親にもっていただきたいと思います。

《Beautiful Community》である「主を求める人々の群れ』の概念の一つが(ローマ12:21)にある【善をもって悪に打ち勝つ】である。

 私たちは自分の願望を満たすことを求めるのではなく、この志しをもって主を求めている人々の群れです。どんなに相手が反則しても、正当なルールを守って打ち勝つのです。

 「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)とあります。私たちは世の光です。悪に取り込まれて消えてしまうような弱い光ではありません。
光をもって罪に打ち勝つ志しをしっかり持ちましょう。神はいつも助けてくださいます。

●主を畏れる敬虔な人は、善をもって悪に打ち勝つ生活を心
がけている。
 今日から神の子として、生活の中に実践していく努力をしていきましょう。

●それはなぜか?
唯一の神、創造主イエス・キリストがおられるからである。
 神の存在を信じているからこそ、敬虔な生活を目指します。
 日本には日本の憲法や法律があります。秩序のある国家を保つためです。日本を愛するなら、憲法や法律を守ろうとします。
 ユダヤの人々は例え外国に住んでいても、年に一回はイスラエルに来て律法を学びました。彼らは日の昇る時から集まって半日学ぶそうです。

 新約の新しい契約時代の私たちは、週に一度集まって、神のルールを聖書から学んでいます。そして、この学びを通して日々神の愛と恵みの中に生きていこうと、心を新たにして進んで行くことができます。

 「善をもって悪に打ち勝つ」根本は神の存在があるからです。それがないと虚しくなります。

 自分ひとりの人生ではありません。私たちは多くの隣人とともに生きています。この不敬虔な世界は神を否定し、自分中心に考えます。そこには放縦と罪が満ちています。
 しかし、私たちは唯一の神を信じています。

●主イエスのみことばは真理であり、「法」であるから、畏れ尊んで教えに従う。
 神のおことばによって全宇宙は造られ、そのルールによって動いています。
 私たちは隣人を愛するのでルールを守ります。周りの人々のために、みことばは導いてくださいます。
この大切なみことばを3つ挙げます。

Ⅰ.主イエスのことば
(ルカ6:27〜28)
「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」

Ⅱ.12使徒ペテロからの手紙
(Ⅰペテロ3:9)
「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」

 祝福を受け継ぐ私たちが呪いとなるような否定的なことばを出してはいけません。今は愚痴や不平、裁くことばが出てしまっていても、日々チャレンジしていきましょう。

 あきらめたら敗北です。あきらめないで何度でもやり直していきましょう。それが神への信仰であり、神の子としての生活の実です。そういう生き方こそ、周りの人々への証しとなります。

 倒れている兄弟姉妹を見たら、励まし合い共に進んで行きましょう。それが Beautiful Communityです。

Ⅲ.異邦人使徒パウロからの手紙
(ローマ12:14)
「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」
 この3つのみことばは素晴らしいみことばです。このみことばが私たちに実現したら、天国の報いはどんなに大きいことでしょう。神のことばは生きていて力があります。このみことばを理想として励まされて生きていきましょう。

【デボーション】
「上記のようなみことばは実行できない」と考えてしまうのは、どうしてでしょうか?
 どのような的外れの考え方によるのでしょう。原因が分からないと直しようがないし、対策を練ることもできません。
 
 自分自身を吟味して自分の心を客観的に見て問題を見つけ、それを基に聖霊の導きを祈り、実際的な生活の中に活かしていくことが大切です。

★ヒント
(ヘブル10:30)
「私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる』と言われる方を知っています。」

 私たちは日本の憲法を知っています。それを守る人にとっては平安ですが、守らない人は後で違反者として裁かれると知っているので平安ではありません。
 
 もし、憲法を破っても裁かれないなら、守っていく意欲は失せてしまうでしょう。憲法を守るために、破る人に対して権威をもって立ち向かう警察がいます。そういう力が必要なのです。ルールには正しい人を守り違反する人を罰する力が必要です。
 神は力ある神です。善に対しては報いを、悪に対しては裁かれる力をもっておられるのです。
 人は肉体だけは殺せます。しかし神はその魂までも滅ぼすことがおできになる唯一の御方です。だから神を畏れなければなりません。
 神のルールに照らし合わせて、この地上で過ごした全てに対する正しい報いを、人は神から受けるのです。
 
 みことばは人々が共に生活するために必要なルールです。
旧約聖書の士師記はリーダーのいない時代で、それぞれが自分の思い通りに過ごしたとあります。その結果国として立ち行かなくなり、他の国に支配されることになりました。

 しかし民は神を求めるのではなく、目に見える王を求めてしまいました。その結果、王によって様々な境遇を民は味わうことになりました。
 誰が真の裁き主であるかを悟らないとなりません。神おひとりだけが裁き主です。この方を敬うか敬わないかで自分の心が変わってきます。

【みことば川柳】

「主よ、主よ」と 敬う言葉 本物か
  敵をあわれむ 手のわざによる

 

 

 

 

 

 

 

■2025年2月9日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

見ないで信じる人は幸い  up 2025.2.9


主題聖句(ヨハネ20:29)
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たち(見ずに信じる者)は幸いです。」





 12弟子の一人であるトマスは、イエス様が復活されたことをすぐに信じることが出来ませんでした。しかし、イエス様は責めるのではなく、上記のことばを言われました。

 イエス様が天に戻られて2000年間、イエス様を直接目で見た人はいません。しかし福音は世界中に広まり、私たちのもとにも届き、現在の信仰に至ります。

 1ヨハネ1:3で、”私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝える”とあるように、イエス様と生活を共にした弟子達は、イエス様との生活の中での多くの奇跡と体験を語り、当時多くの人たちが信じ受け入れました。
 
 イエス様の受肉を否定する偽教師が現れた時代でもあったので、イエス様の信実性を弟子達は力強く訴えてきたのです。

 時代を越えて私たちも同じイエス様を信じることが出来ているのは、まさに奇跡と言えるでしょう。見ないで信じる人たちは幸いという祝福の言葉は今も生きて働いているのです。

 イエス様の恵み、父なる神の愛を、イエス様から直接聞いてはいませんが、人を通して聞き、人生の中での体験を通して信じた私たちの集まりは、幸いなコミュニティなのです。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年2月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

敬虔な日々に失望はない  up 2025.2.2


主題聖句(ローマ10:11〜12)
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。





 今日のテーマの「敬虔な日々に失望はない」というのは、クリスチャンは失望を感じることがあっても、イエス様を知れば知るほど、それは希望につながるということが見えてくるので、クリスチャンも教会も、失望させられることがない、という意味です。
 
Ⅰ)サンビ教団という単位のcommunityは、『主を求める群れ』です
【教団ビジョンの聖句】(使徒の働き15:16-17)
「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を立て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を立て直し、それを元通りにする。それは残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」

 イスラエルの人々は神に選ばれた特別の民族という自覚がありました。それは、神様がアブラハムという個人を選び、その子孫(イスラエル)を星の数ほど増やし、パレスチナの土地を与え、神の国を象徴するような国家を建て上げると約束されたからです。
 
 神様がパレスチナの地を選ばれたわけは、そこにいる7つの原住民が皆、偶像を拝み、神様の目にあまりにも罪深い民族であったため、悪い影響が地上に広がることのないように、イスラエルの民を用いて裁き滅ぼすためでした。
 
 イスラエルの選民思想は、異邦人は救いようのない汚れた人種という差別意識を生み、その優越感はやがて神に対して敬虔な心を失わせ、宗教儀式も形だけのものとなり、内にある貪欲を他の神々を通して求めるという堕落した信仰に変わりました。へりくだるようにと預言者が多く遣わされましたが、イスラエルは悔い改めることが出来ませんでした。
 
 神様はそんなイスラエルを、アッシリアとバビロニアによって裁き、最終的にはローマ帝国によって滅ぼし、ユダヤ人は世界中に散らされていきました。
 
 キリスト教はユダヤ教の異端と思われていましたが、しかし、使徒パウロの働きにより、異邦人にもキリストの福音が伝えられ、また世界に離散していくユダヤ人の中にも、キリストを信じるユダヤ人が多くいて、キリスト教は大変な勢いで広がって行き、今では世界中に信者は23億人と言われています。

 クリスチャンとはどういう人たちでしょうか。
 私(辻牧師)がクリスチャンになった時の最初のイメージは、何と罪深い者であるか、ということでした。聖書の聖い教えを聞けば聞くほど、内側は貪欲と汚れでいっぱいの自分に気が付きます。聖い敬虔な生活を実践していくことも、なかなか出来ません。
 
 しかし、ゴールである完全な清めに至るためのクリスチャン生活であるということに気が付いた時、イエス様を信じ続けることによって、自分は今も罪深いクリスチャンではあるけれど、イエス様は「それはいいから前に進みなさい」と励ましてくださっている、ということに気が付いたのです。
 
 犯した罪は過去のものとしてイエス・キリストが処分してくださっておられますから、私たちは未来に向かって敬虔な日々を建て上げていくことができるのです。だから、敬虔な日々に失望はないのです。
 
 異邦人である私たちが、選ばれたイスラエルの民のように赦しを得て、永遠に対する望みを持つことが出来る様に、神様は「ダビデの幕屋を立て直す」と宣言されました。

◉ダビデの幕屋
細かい規定によらず、ただ恵みと信仰によって神との交わりが回復された。

 イスラエルには2つの幕屋がありました。一つは「モーセの幕屋」です。神様と交流するために、いけにえ制度やその他、細かい捧げものの規定や、実現不可能と思われるようなルールを守って、やっと神様とお出会い出来る場所が、モーセの幕屋(会見の幕屋)の至聖所というところです。
 
 それに対して、誰でも恵みと信仰によって神の前に出ることができる、そういう救いを神様はダビデに啓示されました。それは至聖所だけの幕屋で、捧げものなどの規定は一切なく、そこに入ったらすぐ神様に祈りと賛美と願いを捧げることができる、というものでした。

(エペソ2:8)
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
 私たちの罪は、イエス・キリストがすべて十字架によって身代わりに苦しみ、その裁きを受けてくださっているので、私たちは自分で自分の罪のための裁きを受ける必要はありません。だから、罪はイエス様の十字架に任せて、私たちは未来に向かって敬虔な歩みを建て上げていくようにと励ましてくださっているのが、世界の人々に対するイエス・キリストの救いの大事なポイントです。

【デボーション】
 誰でも神の恵みと信仰によって、神との交わりが可能になりました。クリスチャン生活の中で、みことばに親しんで、神との交わりがいかに魅力的であるか、気付いてください。
 
 祈りを通して心を打ち明けて、聖い良心の内に語られる神様のおことばを受け止めて、神様との語り合いをしていかれることをお勧めします。そして神様との交わりの魅力を感じ取って頂く時として頂ければと思います。

 主を求める求め方には、大まかに3つのタイプがあるように思われます。一つ目は一心に主を求める人です。二つ目は自己中心的に主を求める人、三つ目は自由奔放に主を求める人です。
  
 どれが一番いいのかという問題ではなく、神様は自由に私たちに委ねておられます。それに対する神様の応え方は、「それぞれの仕業に応じて報いられる」ということです。
 救われることはゴールではありません。入り口のスタートラインです。ゴールはビューティフルコミュニティです。

Ⅱ)私たちの交わりは『金蘭之交』
(きんらんのまじわり)の意味
金をも切断するほど堅く、友情のかぐわしさは蘭の花のように香り高いという意味から、堅く親密な友人関係のこと。

◉ 2025年主題聖句(Ⅰヨハネ1:3)
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」
 御父と、御子キリストと、私たちの交わりは、ビューティフルコミュニティー、すなわち、金蘭の交わりです。

【デボーション】
自分の力では失望してしまい、あきらめてしまうでしょう。しかし、主イエスに信頼するなら失望させられることはありません。
 新約聖書の大前提は、イエス・キリストが私たちの罪や失敗を十字架で背負って裁きを既に受けておられるので、私たちは失敗したとしても過去に縛られる必要はないということです。心を改めて未来に向かって一歩一歩進んで行くように、というのがイエス様の十字架の救いの素晴らしい所です。
 
 ダメなクリスチャンだと気付くのは大事なことです。この愚かな私の罪のために、イエス・キリストは罪の無いお方なのに私の代わりに罪の裁きをお受けくださって苦しんでくださった、それは私たちが罪のために滅びてしまわないで、永遠の未来に対する希望を持って歩むためです。

 そのためのイエス・キリストの十字架の救いなのです。
「過去に犯した罪は私に任せておきなさい、あなたは未来に向かって進んでいきなさい」そういうメッセージが十字架にはあるのです。

≪JFHへの主のみこころ≫
Beautiful Community
(詳しくは総会資料をご覧ください)

①神の魅力ある教会
 神様の御霊の働きが豊かに現れて、神様のご臨在を誰でも、ノンクリスチャンの方にも感じて頂けるような教会

②落穂ひろいの教会
 諦めて失望している人々が、もう一度希望を持って立ち直って主とともに歩んでいける教会

③交わりの教会
 罪人の性質を持ったままの私たちです。だからこそ互いに赦し合って交わりを大切にする教会

④敬虔な教会
 神の前にきよい良心を持って、忠実、真実、誠実に生き、主の大宣教命令を担う教会

 20年前に紹介させて頂いた、JFHへのビジョンです。
不可能に見えることかもしれません。しかし、これは神様の御心であり、ご計画です。神様から与えられたゴールの姿ですから、必ず神様イエス様は実現してくださるにちがいありません。
 
 私たちのイエス様への信仰と信頼を弱らせることのないように、全能の神、愛の神、恵み深い神だから、憐れみ深いお方だから実現できるんだと、あきらめず、希望を持って、信仰を立て直して頂きたいと思います。

【みことば川柳】

みこころは  必ず成ると  希望もつ

 

 

 

 

 

 

 

■2025年1月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

敬虔の源  up 2025.1.26


主題聖句(Ⅰヨハネ4:10)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。




 クリスチャンにとって、この罪の世を生きていくのは大変な労苦を伴うことかもしれません。そういう中で、いかに神様の前に「敬虔」であり続けることが出来るでしょうか。
 今年は「ビューティフルコミュニティ」というテーマで、それを目指して歩んでいこうとしております。
 
 元旦礼拝では、黙示録22章11節の「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」ということについて、お話し致しました。
 
 神様の方からするべきことは、もう最善が尽くされています。あとは、そのことを通して私たちがどちらを選ぶのか、どういう生き方をするのか、その選択が私たちの自由意志に任されています。成人者はそれを自分の責任で選ぶことが大切です。
 
 私たちが選んだ行動に対して、神様は報いを与えられます。そのために、イエス様はもう一度この地上に来られることが黙示録で語られています。
 
 敬虔な生活は人格の成熟に比例するものですから、パウロ先生は、「敬虔のために自分を鍛練しなさい。」と勧めておられます。そして、「今のいのち(この人生)にとっても、未来のいのち(御国の人生)にとっても、敬虔であることは有益である」と教えてくださっておられます。

 今日は「敬虔の源」と題して、敬虔なこころが湧き上がってくる動機についてお話いたします。

Ⅰ.『敬虔』は湧き上がってくるもの
 ビューティフルコミュニティーについて、敬虔が大事なポイントとなることを、お話してきております。
そして今日は主題聖句(Ⅰヨハネ4:10)の中の「ここに愛があるのです。」と語られていることに着目して、愛の意味を探ってみました。

【主題聖句(Ⅰヨハネ4:10)より】
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」

 私たちが神様に愛されていることが分らない、そういう状態の時に、神様はすでに私たちを愛してくださいました。(エペソ1:4)には、「神は私たちを世界の基の置かれる前から、彼(キリスト)にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」と書かれています。
 
 天地も人類も存在しない時から、神様は私たちを選んでくださっていたと語られています。

 神様は、天地創造の前から、愛する対象者としてアダムとその子孫を選んでおられて、彼らが罪を犯すことも予測できていて、キリストによる罪の贖いの御業を計画することも、元々、神様の思いの中に描かれていたのです。それが実現されてきているのが現代です。

 神様は罪人を「御前で聖く傷のない者にしよう」と、今もそれを推し進めておられます。 

【デボーション】
幼子は親に愛されていることの自覚がありません。いつ頃から親の愛に気がつくのでしょう?

 私たちも神様の愛に気付かなかった者です。そんな時でも神様は私たちを愛し続け、育て続けてくださっていました。
 
 親の愛を一番感じる時は、人を育てるという経験をする時です。自分の子でも他人の子でも社員でも弟子でも、人を育てる時に、その大変さを知って、親の愛に気付くものです。
 
 私(辻牧師)は若いころ、表具師の世界に弟子入りし
ました。技術は未熟で何をしても手直しがいります。苦情が出たら、師匠は「おまえのせいだ」と責めることもせず、師匠の責任としてカバーします。そういうところを弟子は通って一人前に育っていきます。
 
 心の未熟さも同じです。心の未熟な者は、親にも他人にも迷惑をかけることが多く、自立できず、責任を取れません。しかし、大人になると、自分だけでなく周りにも配慮できるようになります。
 
 私たちの人格も幼い時は、神様の愛に気付くことが少なく、欲しいものが手に入るようにと自分中心に求め続けます。

 しかし神様は、私たちが未熟で自己中心な罪人であることはご存じで、それでも諦めずに愛し続けてくださり、 最後は、交わりを持つことが出来るように、私たちの罪を除くために、救い主イエス・キリストをこの地上に送られました。もしくは、ご自身が人となって、十字架で罪無きいのちを捧げてくださいました。そのことによって、「ここに愛があるのです。」と、私たちへの愛をお示しくださったのです。
 
 そして今日、皆さんにもう一つ気付いて頂きたいのは、そんな未熟な我儘な罪人である私たちの罪を取り去るために、神ご自身が身代わりとなって、苦しみを負って耐え忍ばれた、それは何と畏れ多い行動だろうか、という「尊敬」です。

 「ここに愛があるのです」というのは、「ここに、本当に尊敬すべき神への思いが湧いてくるのです」というように受け止めて、今日お話しさせて頂いております。

Ⅱ.『罔極之愛』(もうきょくのあい)
 →報いることができないほどの限りなく大きな愛のこと。両親に対する尊敬の気持ちを表す熟語。

【主題聖句より】
「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
 これは、神様の最高の愛を、罪人である私たちに、見えるかたちでお示しになった歴史的事実です。
 罪人の私たちのために、罪を取り除き赦す為に、御子イエス様をなだめの供え物として犠牲にしてくださった、これほどに私たちを愛してくださる神様が他にいるでしょうか。
 そんな神様の犠牲の愛を知ると、神様に対して畏れ敬う敬虔なこころが湧き上がってきます。

 こころが成長すればするほど、十字架の偉大さが実感できます。尊敬の心が大きくなればなるほど、御前にひれふし、へりくだり、心からの賛美を捧げることが出来る様になるのです。

【デボーション】
キリストによる罪の贖いは、報いることのできないほどの神の愛が明らかにされた出来事です。心でその愛に気付いたなら、あなたの心にどのような変化が起こって来るでしょう?

 労苦して私たちを育ててくださった地上の親に対して、その罔極の愛に触れられて、私たちは深い尊敬の念を抱くようになります。

 そのように、御子キリストによる十字架の贖いを実行してくださった父なる神様の罔極の愛に気付いた時、私たちの内には神様への敬虔な心が湧き上がってくるのです。そこから神様を称える心からの賛美がささげられていき、敬虔な生活を送る力が与えられてくるのだと思います。 

【神への敬虔の表明としての聖餐式】
(Ⅰコリント11:23-26)
「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」

 パンはイエス・キリストの傷ついた体、杯はイエス様の罪の赦しの契約のしるしとして流された血潮を象徴しています。

 神様がここまでして示してくださっている罔極の愛に、深い畏敬の念をもって、ひれふし崇めて、敬虔にお応えして参りましょう。   

【みことば川柳】

十字架の  無限の愛に  畏敬の念

 

 

 

 

 

 

 

■2025年1月19日 日曜礼拝メッセージより(辻 和希伝道師)

神の前にも人の前にも最善を  up 2025.1.19


主題聖句(使徒24:16)
そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。



 2025年の教会のテーマは、ビューティフルコミュニティーと掲げ、父なる神様との交わりが豊かな共同体を目指す一年となります。
 
 私個人として、このテーマを聞いてまず思い浮かべたのが“キリストのからだ”でした。そのことを説いたパウロは、上記の聖書箇所で、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように最善を尽くしていた、と言葉を残しています。注目したいのは、神様の前だけでなく、人の前にも最善を尽くすことが大切だということです。

 初代教会には、多くの人が集いました。そこには持ち物を共有するほどに救いの喜びに溢れていました。しかし人が多く集まると、問題も発生します。

(使徒6:2)
私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。

 食事の配給に意図せぬ不公平が発生してしまい、これらのことに従事する担当が決められました。ペテロ達が食事のことに気を遣わなくてもよいための措置でした。

 一方で、イエス様は、このように語っています。

(ルカ22:27)
食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。

 一見矛盾しているように見えますが、これこそが神様の前にも人の前にも最善を尽くす共同体の姿勢だと思うのです。

 マルタとマリアという姉妹は、それぞれ神様への愛の表現をしました。姉のマルタは給仕、妹のマリアはイエス様の側でみことばを聞いていました。

 マルタは、妹が手伝うようにイエス様に訴えましたが、イエス様はマリアの行動を取り上げてはならないと言われました。このことから給仕することが重要なことでは無いと捉えるのは早計だと言えるでしょう。

 神様が建てた教会には、からだの各器官のように、様々な必要と役割があり、それらが満たされるために、神様の前にも人の前にも、どちらにも最善を尽くす共同体が、美しい教会なのですから。

 

 

 

 

 

 

 

■2025年1月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

神を敬う敬虔なCommunity  up 2025.1.12


主題聖句(使徒10:35)
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。



 元旦礼拝では、メッセージを聞くにあたっての心構えや聞き方について、(黙示録22:11)から語らせていただきました。
 「不正を行う者はますます不正を行い、正しい者はいよいよ正しいことを行い、」とあるように、善と悪、どちらかの道に進むという選択を、各自、自己責任で行うように、ということでした。 
 
 神様は、罪の赦しの救いの道を既に完成されて、神様の愛と憐れみは注ぎ続けられております。その愛と憐れみを私たちは受け止めて、正しい良心を持って、ますます正しいことを行う歩みを心掛けていきたいと思います。
 
 今年のモットーのみことばは、(Ⅰヨハネ1:3-4)です。
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」
テーマは「ビューティフルコミュニティー」と致しました。
 
 先週の新年礼拝で、「ビューティフルコミュニティー」とは、すばらしく洗練された共同体であることを、(詩編133篇)からお話し致しました。大事なポイントは、「兄弟たちが一つになって共に住むこと」。
 それは、イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合う姿です。そういう人たちの集合体、共同体を、神様は大変喜ばれて、いのちの祝福を命じられるということでした。

  今日の主題 「神を敬う敬虔なコミュニティー」
主題聖句(使徒10:35)
「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。」 

※コミュニティー・・・共通の目的や興味、地域などによって結びついた人々の集団。情報交換、協力、支援、などを通して、メンバー間の絆を深め、個々の生活を豊かにする役割を果たす共同体
 教会というコミュニティーの共通の志は、「神への誠実な心をもってイエス・キリストを信じること」です。ヤコブ書には「信仰も、行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。」と記されています。信仰も誠実さも、心の中にあるもので、目には見えませんが、その実(結果)は、生活の中に敬虔な行いとして目に見えるかたちで現れるものなのです。
 ですから、「神を敬う敬虔なコミュニティー」というのは、心の内に神を畏れ敬う誠実さ(信仰)を持っているとともに、それがかたちとして見える日々の敬虔な生活を送っている人々の集団と言えます。

Ⅰ)神に受け入れられた敬虔な異邦人(使徒10:1-3)
「さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で。全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼の所に来て、『コルネリオ』と呼んだ。」

 異邦人のコルネリオは、百人隊長としてユダヤ地方でユダヤ人と関わる中で、天地万物の創造者なる神の存在を知り、聖書(旧約)を読んで、ユダヤ人の信じている神様は唯一のまことの神であることを悟ったと思われます。 
 そして、全家族とともに敬虔な生活をし、いつも祈り、ユダヤ人のために多くの親切な施しをしていた、と書かれてあります。
 
 神に受け入れられた人は、救われる一歩手前です。コルネリオは聖書の神様を知っていましたが、イエス・キリストを知りませんでした。ですから、神様はコルネリオのもとにペテロを遣わして、すべての人の主、イエス・キリストについて語らせられました。
 
 すべての人の罪の処分のために身代わりとなって死んでくださり、三日目によみがえられたイエス様のこと、生きている者と死んだ者のさばき主として神が定めた方イエス・キリストのこと、そして、この方を信じる者は誰でも罪の赦しを受けられること、旧約の預言者もそれを証していること、これらのことをペテロが話をしている時に、コルネリオ達に聖霊が降りました。

◉キリストを信じる最初の異邦人コミュニティー
 それは、コルネリオに関係する人々の集まりでした。そして、ここに集まった人々は、コルネリオのような敬虔な人たちでした。
 神様は彼らを受け入れて、その上に聖霊が注がれ、彼等は異言を話し、神を賛美し始めました。そこでペテロは彼らに洗礼を授けて、救いが成就しました。そして、最初の異邦人の教会が出来たのです。

【デボーション】
コルネリオの敬虔な生活は、どのようにして整えられたのでしょう?
 ユダヤ人からユダヤ教の神様のことを聞いて、すごい神様だと、悟ったコルネリオは、純粋にまことの神様を求めていたと想像することが出来ます。そして神様は、ますます聖書を読むように、悟るようにと導かれ、敬虔な生活へと導かれていったと思われます。
 
 皆さんもクリスチャン生活を送るようになったいきさつを思い出してみて、御利益的だったか、神を敬う敬虔な心だったか、振り返ってみてください。
 
 クリスチャンの中にも何か災いが起きると、なぜ神様は防いでくださらないのか?と不信仰な気持ちになる人がいます。不信仰になる人は自分中心の世界を持っていて、神様は私の補助者で都合のいい時だけ信じて助けて貰おうという御利益的信仰の人です。

 また、なぜ?と疑問を抱いても、祈って答えをいただく人もいます。いいこともあれば、悪いこともある、それでも神を敬う心に変わりはありません、と言える人は敬虔な信仰の人です。

Ⅱ)敬虔なコミュニティーの信条

≪使徒信条≫
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり、かしこよりきたりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン

【デボーション】
敬虔なコミュニティーのメンバーとして、あなたの信条を堅く信じて守っている事柄を書いてみましょう。
 私(辻牧師)の場合、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」というヨハネ福音書のみことばでした。
 私の求めていた魂の平安はこれだ!人生は空しいと考えていた心を癒してくれるものはこれだ!と、私の魂にフィットしてくれたみことばでした。そうしてイエス様に対する敬虔な姿勢が始まりました。
 
 皆さんにもイエス・キリストを敬うための神のおことばがある筈です。このみことばによって心が変えられたとか、神への誠実な心が生まれたとか、そういうみことばを幾つか挙げてみましょう。

 そして、日曜礼拝が始まる5分前には私語も挨拶もやめて、神の前に心を整える、その時に使徒信条を告白したり、自分の信条のみことばを告白したりして、礼拝前の準備をされては、いかがでしょうか。チャレンジしてみてください。

【敬虔のための「金科玉条」を聖書から】
「きんかぎょくじょう」
黄金や宝石に例えられるほど立派な法律や規則。転じて、自分を支える絶対的な教訓や信条、または人が最も重視すべき法律や規則のこと

 私たちも、敬虔に関する金科玉条のみことばを見つけておいて、敬虔なクリスチャン生活の実践として、そのみことばをチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

【例】Ⅰテモテ4:7-8
“俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。”

 鍛練の「練」の字は洗練するという意味があります。絹糸が水の中で練られて美しくなるように、私たちは敬虔のために、クリスチャン生活の実践で、洗練されていきます。
 
 もし兄弟姉妹の間で、赦せない、愛せない、受け入れられない、そんな仕打ちや非難が起きる時は、それはキリストのからだに対し罪を犯していることになりますから、神の前にその罪を告白して、そして赦せるように愛せるように敬虔さを身に付けるように鍛練していきます、と心を改める告白を致しましょう。
 
 神様の愛と憐れみ、イエス様の血潮の恵み、この神様のおこころを軽んじることのないように、聖餐の式は、そのためにイエス様が定められた尊い儀式です。

【みことば川柳】

キリストを  畏れ敬う  コミュニティー

御国を目指し  今年も進む

 

 

 

 

 

 

 

■2025年1月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

父なる神が喜ばれるCommunity  up 2025.1.5


主題聖句(詩篇133篇)
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
それは頭の上にそそがれた尊い油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。



●Community=地域社会、共同体。
 交流を持つ、何かの共通のものをもって共同体として生活していく。教会も共同体であり、Communityです。

●Beautiful Community=素晴らしく洗練された共同体。
 外国では、完璧に整えられた状態で洗練された美しさを Beautifulと言います。

Ⅰ.いのちの祝福を命じられるコミュニティー
(ヨハネ5:24)
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 」

 『死からいのちに移っている』というところがポイントです。
 いのちに満ちていく姿、神が命じられたことは必ずそのようになると信じる人々のコミュニティーです。
 この「いのち」とは、単に生物学的ないのちを表しているのではありません。
 
 生きて存在していても死んでいる人がいると聖書は言っています。
 神様のみこころを選んでいく人々のことをいのちを得ると言い、神様のみこころを捨てて拒む人々を死んだ状態であると聖書は言っています。
 いのちにあふれる状態、生き生きした状態、神様のみこころを知る喜びを知ることによって、ますますいのちの祝福は満ちていきます。
この「いのち」とは何かを互いに学んでいきましょう。

Ⅱ.兄弟たちが一つになって共に住むコミュニティー
 兄弟たちが一つになって共に住むところに神様はいのちの祝福を命じられます。
(Ⅰコリント12:27)
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
 一つになるとは周りと同じようになるということではありません。
 
 『一つのからだのように』なるということです。 からだには同じ器官はなく、色々な器官があります。キリストの体に、頭である(脳)キリストからの司令をきかない器官があると困ります。

 からだの器官が勝手に動くのは不健康です。頭であるキリストに従ってひとつになって動くことが大切です。
  
 からだの動きは、一つの目的のために各器官が能力を発揮する、活かし合う必要があります。

Ⅲ.尊い油が頭に注がれたコミュニティー
 油が頭に注がれるとは、旧約聖書には多く出てくる状況です。

(使徒10:38)
「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。 」
 
 尊い油とは霊的な意味で、救い主イエス・キリストに注がれた神の力、権威を象徴しています。この神の権威が注がれたという見える証しとして、頭に油を注ぎました。
 この油は聖霊なる神様の象徴です。クリスチャンはみんな聖霊の賜物が与えられています。
 
 イエス様は病人や貧しい人や悪魔に縛られている人々を助けるために、この権威を用いられました。

 私たちも自分のためではなく、自分よりも弱い立場の人々のために、この権威を用いることが必要です。

Ⅳ.ヘルモンの露のようなコミュニティー
(ヨハネ7:37,38)
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 
 「ヘルモンの露」とは尽きることのないBeautifulな潤いをもたらします。

 ヘルモン山では雨が降らない時でも、まるで雨が降ったように毎日露が潤してくれるそうです。周りは乾燥地帯なのに、この露のおかげで植物が育つほどです。永遠に枯れない露です。
 
 潤いの豊かさは健全さを意味しています。
 
Ⅴ.【デボーション】
 父なる神が喜ばれるコミュニティーが現実としてどのようなものであるかを思い描き、その実現への期待と信仰を働かせましょう。

 ひとりひとり描いてください。一つには決められません。
 コミュニティーとはひとりでは成り立ちません。そこには人間関係があります。

 ひとりのためだけではなく集団全体の幸せが作り出されるために、みんなが助け合い協力していく、その美しさ、麗しさがあふれている交流がなされている、そういう集団を Beautiful Communityと言います。
 
 実際どんな人間関係がそうなるのかを想像して描いてください。理想社会です。お金があってもなくても麗しい素晴らしい共同体を持つことができます。この世はお金がないと幸せでないと考え、お金で幸せを買えると言います。そのために心が鈍っています。
 
 確かにある程度は自分の願い通りのことがお金で解決できます。しかし、自分だけが願い通りになることで、本当に幸せなのでしょうか。
 
 「互い」にということばが聖書に出てきます。
 自分さえ良ければいいと、してもらうことばかり要求するのは正しい良心ではありません。肉に汚された良心です。
 
 自分が幸せに感じるのはあなたが幸せであるからだと、お互いに感じ合えるにはどういうことが必要なのでしょうか。
 
 これが今年一年のメッセージのテーマになります。
 心からそのようなBeautiful Communityになりたいと願えるようになりましょう。
 
 聖霊に導かれて歩み続けるなら、さらに具体的になっていきます。

【みことば川柳】

初夢は 洗練された 教会が 
再臨の主に まみえる様子