■2017年10月29日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 主の弟子となるために  up 2017.10.29


主題聖句(マタイ28:19)
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
A)クリスチャンの任務
 先週は、エドモンド・チャン先生をお迎えしての、広島クリスチャンセミナーが持たれました。キリストの弟子、というテーマのセミナーでした。多くのポイントがあった中で、私が教えられ、また気付かされたポイントをお分かちします。
 私は、下記の2点が一番心に残っています。

1.イエス様はまもなく再臨される。
2.イエス様の再臨にまでに、緊急を要する任務は世界宣教。
 
 チャン先生が提唱する”弟子化”は、この2点のゆえであると強調されました。イエス様がもう一度この地上に来られるということは、聖書を通して、またメッセージを通して、私たちは知っていますし、信じています。しかし、それはまだ遠い先の話であって、自分が生きている間は関係ないと、どこかで思っている自分に気付かされました。
 そして、そのために、私たちがこの地上でするべき任務をもう一度はっきりさせることが出来ました。それは世界宣教です。福音を宣べ伝えることです。いつの間にか、教会生活を充実させることだけに意識を置いてしまい、内側ばかりで外に目を向けることをしないでいたことに気付かされました。この二つの気付きは、私の信仰生活をもういちど一新させる良い機会となったことを感謝いたします。

【横路伝道師メッセージ】
B)主の弟子となる(弟子とするまえに)         
 マタイ28章19節を終わりまで読んでみましょう。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また私があなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイ28:19−20)  

1.私は主の弟子になっているか、何が問題か
 エドモンド・チャン先生のメッセージは「弟子化」についてでした。それは、マタイ28章の「あらゆる国の人々を弟子としなさい」という天に帰られる時のイエス様の最後のお言葉からのものです。
 イエス様の周りには12弟子や70人の弟子など、たくさんの弟子がいて、いつも共に生活し、愛しておられました。この弟子達に対してイエス様は、「他の人を弟子としなさい。」と言われました。神様は世界宣教を弟子を通してなさいました。
 私たちもその弟子の一人ですが、他の弟子を作っているでしょうか?その前に私たちは、イエス様の弟子となっているでしょうか?自分が本当の弟子になっていないと、周りが救われてこないとしたらそれは、まずいですね。何が問題なのでしょう。
 いろいろなことがうまくいかないのは何が問題か…教会が悪いのでしょうか?いいえ、教会が悪いのではありません。人が悪いのです。そして、人が悪いのではなく人の心が悪い。どんな心が問題かというと、主に従う従順な心があるかないかであり、それはまた信仰が問題であり、私たちが主を愛しているかが問題なのであると、チャン先生はおっしゃいました。

2.私は主を愛しているか
 私たちは主を愛しているかと自問自答する時、少し不安になります。愛しているときもありますが、忘れているときもある…。本音と建て前を使い分けていないか、都合の良い自分勝手なクリスチャンになっていないか、イエス様への愛が冷えて、生ぬるい者、飢え渇きのない者になっていないかと、問われます。それらを言われるとズキンときます。
 では、どうすればいいかといいますと、イエス様を愛するように私たちが変えられていくことであります。愛については教会でもずっとお話しいただいていますので、愛するとはどういう状態をいうのか、考えてみました。

3.愛するとはどんな状態か                  
1)共にいたいと願う気持ち 
 一緒にいたい、離れたくないと思う、これが愛していることの大きな条件となります。イエス様と一緒にいたい、離れたくない、という気持ちがどれくらいあるでしょうか。

2)交わりたいという気持ち 
 イエス様と分かち合いたい、自分のことを話したい、会話をしたい、自分の話を聞いてほしい、イエス様のことをもっと知りたい…これは交わりたいということです。
 イエス様と私たちの関係をわかりやすいように、神様は親子関係や夫婦関係で教えておられます。
 例えばお母さんは子どもを愛して育てます。十ヶ月あまり、おなかの中で守り育て、非常な痛みをもって産み出して、夜中もお構いなしに泣かれて、授乳して、あらゆるお世話をして、やっと1歳になり2歳、3歳…と、どれほど愛を注いできたことでしょう。
 神様も私たちをどれほど愛しておられることでしょう。生まれて間もない乳飲み子のような信仰の私たちを、育てて愛して命を守って、愛のみことばである乳や柔らかい食物を与えて下さっておられます。
 夫婦も愛していれば、一緒にいたい、一緒に話がしたいと思います。神様との関係も同じです。もっと神様のことを知りたい、もっと私たちのことを神様に知ってもらいたいと思って、祈るのです。聖書を読むのです。御ことばを学び教会に行くのです。愛しているからです。

3)良いものを与えたいという気持ち
 悪いものを与えるのはサタンです。神様は良いものを与えて喜ばせたいのです。魚を求めているのに蛇やサソリを与える親はいません。
 神様に対して私たちも自分の持てる良い物を捧げたいと願います。仕えたい、献身したい、具体的な方法は違いますが、愛しているからです。礼拝に来るのも賛美するのも捧げものも、神様を愛しているから、良いものをお返ししたいのです。

4)相手を優先したいという気持ち
 愛がなければ自分優先です。自分勝手です。誰かの為に仕え、相手の為に自分を犠牲にするのは、相手を優先することです。愛があるからできるのです。クリスチャンは日曜日の朝の大切な時間を神様を優先する愛の心から礼拝に出席しているのです。

5)相手をいきいきと元気にさせたいという気持ち
 神様は私たちを愛しておられるから、いきいきと元気なクリスチャン生活を送ってほしいと願っておられます。私たちがそのようにいきいきと生きている時、私たちは神様を愛していることになるのです。

6)成長してほしいと願う気持ち
 愛は成長することを喜びます。はえば立て、立てば歩めの親心です。いつまでも赤ちゃんのようであることを願ってはおられません。愛すること、赦すことにおける霊的成長を神様は長い時間をかけて育て愛し忍耐して待って下さいます。

 これらの気持ちをイエス様に対してもっていれば、すばらしい弟子になっていると言えますが、私たちはまだそこまでなっていません。しかし、イエス様はそれを願っておられます。

4.具体的弟子訓練
 どのようにすれば、私たちは自分を育てて良い弟子となっていくことができるのでしょうか。チャン先生は次のように言われていました。

1)日々、主と交わる時間を持つ。
 デボーションをすること、聖書を読んで祈って主とよくお話をすることです。

2)ノートを作る。
 祈ったり交わったり教えられたり実践したことを記録する。神様と自分のノートです。それによって振り返りチェックできて、成長の跡を見ることができます。

3)それらをいつも誰かと分かち合う。
 その時、神様を中心とした交わりがそこにできるのです。そういう交わりをする人を作ることが弟子作りの始めになるのです。伴侶でも家族でも友人でもよいのです。分かち合い祈り合い、そうして自分も相手も主にあってよい弟子となっていく、これが具体的弟子訓練です。

5.主の証人となる
 私たちはイエス様に救われて、主の証人となります。ペテロたちは捕えられ、議会で「イエスはまことの神」と証言をしましたが、証人となったものが証言をするのです。まず主の証人となることが大事です。
 どんな証人となれば良いかについて、次のように教えられました。
1)主を愛している姿をあらわす証人となりなさい。
2)隣り人を愛している証人となりなさい。
3)失われた魂を愛している証人となりなさい。
 
 教会に行く姿、礼拝する姿、夫婦仲良い姿、家族を愛している姿、良きサマリア人のように、敵を愛して祈る姿、イエス様を知らない人たちのために祈り働く姿、いずれも証人の美しい敬虔な姿です。
 人は個性も環境も違い、一人一人与えられていることも違います。それぞれが自分のできる形で主を愛していきましょう。ベッドの中で寝たきりになっても、主を愛して多くの魂のために祈る奉仕ができるのです。
 
 主を愛すること、これが私たちが真の弟子となり、弟子を作っていく者となることの鍵であることを、このセミナーで学ばせていただきましたので、その分かち合いをさせていただきました。

 

 

 

 

 

■2017年10月22日 日曜礼拝メッセージより(カベナント福音自由教会 アン・チャン師)

 神様からの3つの約束  up 2017.10.22


主題聖句(第1サムエル21:1〜10)
ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない。』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」ダビデは祭司に答えて言った。「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません。」そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、主の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。――その日、そこにはサウルのしもべのひとりが主の前に引き止められていた。その名はドエグといって、エドム人であり、サウルの牧者たちの中のつわものであった。――ダビデはアヒメレクに言った。「ここに、あなたの手もとに、槍か、剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまり急だったので。」祭司は言った。「あなたがエラの谷で打ち殺したペリシテ人ゴリヤテの剣が、ご覧なさい、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それは何よりです。私に下さい。」ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。

 

 

 

【カベナント福音自由教会牧師 エドモンド・チャン師のご挨拶】
 今日皆さんとともに礼拝できることを心から喜んでいます。施設も、皆さんの心も、ほんとうに美しい教会、賛美も素晴らしいです。私たちの教会も、同じように主への喜びにあふれた礼拝をもっています。
 私は43年前に妻を信仰に導きました。しかし、そのときはあまりはっきりした信仰をもっていたわけではありませんでした。妻が「イエス・キリストは本物ですか?」と聞いてきたので、「本物です」と答えると、「なぜそうと分かるのですか?」と聞かれました。それで一生懸命調べて、それを分かち合うと彼女は信仰を持つようになりました。私が彼女を信仰に導いたのですが、彼女は私を信仰に戻してくれました。それで結婚しました。ともに神学校に入り、その後30年間、牧師夫婦として牧会の働きをしてきました。25年間主任牧師として仕え、その後6年間、世界中を周り、弟子化の重要性について分かち合ってきました。
 弟子化について、私は4つの固い信念を持っています。1つは「主イエス・キリストがもう間もなく再臨されること」。2つめは「主の再臨が近いからこそ、世界宣教において弟子化が最も急がれるべき課題であるということ」です。そして「世界宣教の中で最も重要なことは弟子を作るということ」であり、「弟子を作るための鍵は、自分たちが心から主を愛し、主に仕える弟子となること」なのです。
 私たちの教会は、主イエス・キリストの恵みにより、弟子を生み出す教会となりました。私たちの教会の信徒たちにいつも言っているように、皆さんにも励ましたいと思います。ぜひ、出て行って弟子を作ってください。必要なことはただ3つです。「神を愛すること・互いに愛し合うこと・失われた魂を愛すること」、これだけです。皆さんに神様の祝福がありますように。

【アン・チャン師のメッセージ】
 今日皆さんに聖書から分かち合いできることを喜び、感謝します。
私たちは日本に大きな重荷を感じています。そして日本の皆さんを心から愛しています。この思いは神様から与えられたものと信じています。神の子どもたちが立ち上がることができるように、強められてもう一度福音が広がっていくようにと、日本のために祈っています。東日本大震災のとき、私たちの教会から仙台への支援金を募ることができました。その2年後、私たち夫婦は仙台に行く機会が与えられたのですが、そこで見た悲惨な光景に「この国の神の子たちを立ち上がらせてください!」と心から主に叫びました。
 そのとき、ある牧師先生から日本のキリスト教の歴史を教えていただきました。今から400年ほど前には、最もキリスト教信者が多く、人口の12%にも上ったということでした。現在は0.5%に過ぎません。神の子どもたちが立ち上がり、大胆に伝道していく、弟子を作っていくことが重要です。私は外国人ですが、自分の育った国と同じように、この国で福音が広がるようにと心から祈っています。
 
 私が幼い頃、祖母から戦争中に日本軍がシンガポールで行った様々な事について聞いていました。祖母はとても悲しく辛い経験をたくさんしていたため、苦々しい思いを心に抱えていました。95歳で亡くなるその2年前に祖母は救われました。クリスチャンになったとき、祖母はすべてが赦されたと私に言ってくれました。これはまさに神様のなさることです。苦々しい思いの代わりに、恵みと愛の種を私たちの心に蒔いてくださるのです。過去の戦争について、私たちには責任はありません。しかし、私たちの先祖がそれを行ってきたということは事実です。今日私が皆さんにお伝えしたいのは、希望のメッセージ・いのちのメッセージです。今の時代、顔に壁を立てているような、まったく無表情な人たちが多くみられます。それは人々が生きる目的を見失っていることが原因だと思います。多くの人が様々な欲にとらわれ、悪い欲望にあふれているのです。そして、その心は神に向けられることがないのです。
 今日は、神様が私たちに与えてくださる3つの約束についてお話したいと思います。

 第1サムエル21章1〜10節から見ていきましょう。このときのダビデは、いのちを狙うサウル王から追われ、逃亡生活を送るという非常に苦しい状況にありました。この箇所を通して、神様は私たちのことを気遣い、痛みをケアしてくださるということがわかります。広島には被爆という悲惨な過去がありますが、それでも神様はここに住む一人一人を心から大切に気遣ってくださっています。
 今日皆さんにお伝えしたいのはこのことです。あなたがダビデのようにひとりぼっちで寂しい思いをすることがあっても、神様はあなたのことをを気にかけておられます。そのことをぜひ覚えていてください。私たちにとって理解しがたい出来事が起こり、それを受け入れるしかない、という状況になるかもしれません。例えば、戦争や、ある人が権力を手に入れようとするときなどです。しかし、理解できないことや悲惨なことが起こっても、私たちは、これらが神様の許しの中で起こったことだと受け入れることができるようになります。
 ダビデは、本当にひとりぼっちで寂しくて、恐れでいっぱいでした。しかしここから、神様の3つの約束を見い出すことができます。それは「わたしはあなたとともにいる」、「わたしはあなたの必要を備える」、「あなたを守る」という約束であり、3つの質問を通して与えられています。多くの場合、私たちは予想もしなかったような状況で神様と出会い、その中で神様が私たちに与えてくださる真実を見つけるのです。

1.わたしはあなたとともにいる
 最初の約束は1節に見ることができます。ここで聞かれる質問は「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」でした。サウル王からいわれのない妬みと嫉妬を受け、いのちを狙われ、追われる身であったダビデの心は恐怖で満ち、誰も信頼できない状況になっていました。何人かの忠実なしもべたちが一緒にいたのですが、その人たちをも置いて、たった一人で神殿の中に入って行きました。
 私たちの人生においても、誰も信頼できなくなって親しい友人からも離れて一人になったり、また、周りに家族や友人がいても、何か孤独で寂しいと感じることがあるのではないでしょうか。それは過去の深く傷ついた経験や信頼を裏切られたという経験などが引き起こしているものなのです。そのような時、多くの人は買い物に行ったり、遊びやゲーム、SNSで時間を過ごし,寂しいという現実から逃避しようとします。寂しさの中で神様の御もとに行こうとする人は本当に少ないのです。神様が私たちの最も近くにいてくださる、最も親しい存在でいらっしゃるにもかかわらず、です。
 寂しさや痛みを感じるのは、誰でも経験することです。しかし、神様が与えてくださる約束は、「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人ではない。」というものです。たとえあなたは一人だとしても、ひとりぼっちと感じる必要はないのです。一人になることは決して悪いことではありません。意味のあることなのです。
 娘が2歳くらいのとき、買い物に連れて行くと、よく洋服の中に隠れたりしていました。ある時、いつものようにかくれんぼしているうちに私を見つけることができず、不安になって大声で「ママ!ママ!」と泣き叫びました。店内アナウンスを聞いてレジのところにいた娘のところに行き「どこにいたの?」と聞くと、娘は「違う、ママはどこにいたの?私を見失ったでしょう?…」とまた泣き始めました。私は娘に「ママは同じ場所にいて、どこにも行っていないよ。あなたがあちこち走り回って、違うところに行ってしまったのよ。」と話しました。
 神様も同じです。少しも動かず同じ場所にいらっしゃるのですが、私たちが走り回って、迷子になってしまうのです。神様は「わたしはずっとここにいました。ずっとあなたとともにいましたよ。」と言われます。しかし、私たちの心が落ち着いていなかったり、音楽で紛らわせたりしてしまっていて、神様のご臨在を感じることが出来なくなっているのです。このような状況にならないように、私たちは毎朝神様との時間を取り、御前に心を静め、みことばを通して語っていただくことが大切です。メモ帳を用意し、毎日読む聖書箇所や教えられたこと、祈っている人の名前を書き込んでください。そのように、神様とともに時間を過ごし、神様のご臨在に気づくということを習慣づけていかなければ、私たちは永遠に寂しいままです。

2.わたしはあなたの必要を備える
 興味深いことにダビデは空腹を覚えて神殿に向かいました。3節にあるように自分としもべたちの食糧を求めて神殿に来ているのです。私たちの中で「牧師先生、お腹が空いたのでご飯ください」という人がいるでしょうか?ダビデはまさにそれをしたのです。そしてそこにあったのは、神様への供え物として聖別されたパンだけでした。神様のご臨在をあらわす聖別されたパンは、祭司以外は食べてはいけないことになっていましたが、ダビデたちは自分をきよく保っていたので、これを受けることができました。
 私たちもダビデのように何か必要を覚えることがあります。私たちは色々な必要を持って教会に来るのですが、ただ神様を礼拝するためだけに教会に来るということはあまりないかも知れません。「教会に行ってさえすれば、神様は必要なものを何でも与えてくださる」と考えているかも知れません。それぞれに必要を求めて教会に来ていますが、愛そのものについては、まちがった場所やまちがったことに求めていることが多いのではないでしょうか。私たちは、人生を神様とともに歩む必要に気づいていないのです。
 1年前に日本に来たとき、「NEET(ニート)」という人が多いと聞きました。学校にも行かず、就職しようともせず、職業訓練も受けない人のこと、特に若者に多いとのことでした。多くの場合、学校や仕事を辞め、中には人生を諦めたような人もいるようです。彼らは家族や友人、職場の人たちも信頼できなくなり、社会全体をも厭(いと)うようになってしまっているのです。米国では、このような人たちが家に引きこもってしまい、そのことで家族も負担とストレスを感じつつ、何もできないでいるという状態があると言われています。心の中で、希望が失われているのです。もしそのような人を知っているなら、その人たちに神様から新しい希望といのちが与えられるように、祈ってください。なぜなら、神様は「あなたの必要を備える」と言ってくださっているからです。
 
 ある米国の黒人家族に4人目の子どもが生まれようとしていました。しかし出産のために必要な1,000ドルを彼らは持ち合わせていませんでした。夫であるジムは仕事帰りに大雪の中で止まっている車に気づきました。心配して声をかけると、中にいた年配の女性が「タイヤを交換したいのだけど、自分ではできないのでここで神様の助けを待っているのです」と答えました。ジムは「私の車の中で待っていてください。その間にあなたの車のタイヤを交換しましょう。」と言いました。すべてが終わった後、年配の女性は心から感謝してお礼を言い、お金を渡そうとしました。彼はお金を受け取らず、「神様の祝福を受けてお帰りください」と送り出しました。年配の女性はそのまま車を走らせ、少し行ったところにあるレストランに入りました。食事もおいしく、ウェイトレスは妊娠中でしたがとても良いサービスをしてくれたので、彼女は神様の祝福を感じました。そして封筒にお札を入れ、チップとしてテーブルに置いておきました。その封筒には「あなたの出産のために使ってください」と書いてありました。ウェイトレスは喜んで感謝して、家に持ち帰りました。たくさんのお札をチップに入れることは普通ありません。彼女は「ジム、今日このチップをいただいたのよ。」と夫に封筒を手渡しました。中を開けて数えてみると、ちょうど1,000ドルありました。
 神様はいつも私たちの必要を満たしてくださいます。盗んだり、うそをついたりする必要はまったくありません。皆さんは今日、神様に何を願っていますか?どんな必要を満たしてほしいと思っていますか?どうぞそれを祈ってください。そして、神様がどんな奇蹟をもって満たしてくださるかを期待して待ってください。神様は予想もできないようなかたちでいつも私たちの必要に答えてくださいます。またその解決、備えはいつも完璧です。

3.わたしはあなたを守る
 ダビデは祭司に「あなたの手もとに、槍か、剣はありませんか。」と聞きます(8節)。神殿は神に祈るところであり、戦いをするようなところではありません。そこで「武器はあるか」というのはそもそもおかしな質問です。しかし、いのちの危険を感じていたダビデはこのように求めました。そして、神様が私たちの期待を超えて備えをしてくださるのと同じように、ただ1つだけ、剣が備えてあったのです。しかもそれは、かつてダビデがゴリアテを倒したときに使ったものでした。
 私たちは将来について恐れや不安を抱えることがあります。たとえ「将来が不安だから」という間違った理由で結婚して子どもを育てても、大きくなったら子どもは巣立っていきます。遠いところに離れて住むこともあります。どこに保証がありますか?もし私たちが人に頼ると、結果的には失望することになります。私たち夫婦は二人の娘を養子として迎えました。娘たちには「大人になったら、私たちのことは気にしないで、自分の人生を生きなさい。私たちはお互いの面倒を見るし、何より神様が私たちの面倒を見てくださるから。」と話しています。私たちは神様により頼み、安心を得るのです。人にではありません。神様は「わたしこそ、あなたを守る神である」と教えてくださいます。
 50代以上の皆さんにイザヤ46章4節のみことばを贈りたいと思います。
『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。』(イザヤ46:4)
 これは私が退職後の計画として受け取っているみことばです。ぜひ皆さんにもそのように受け取っていただきたいと思います。どんな年金よりもすばらしいものです。ここで「わたしこそ、あなたの世話をする神である」と語ってくださっています。

“あなたは一人かも知れないけど、ひとりぼっちではありません。
 わたしはあなたとともにいます。
 あなたの必要を満たすのはわたしです。
 あなたの子どもでも誰でもない、わたしだけです。
 あなたを守るのもわたしです。
 わたしのほかには、何ものもあなたを守ることはできません。“

 私たちが教会に集まる時、宗教活動をしているわけではありません。6日間、毎日一人で神様に祈り、礼拝し、7日目に集まって、共同体としてともに神様を礼拝するのです。これこそ、ほんとうの弟子化、キリストとともに歩むことです。単なる宗教的活動に関わるとか教会に参加するということではなく、真の弟子化というのは神様とともに歩み、本当の意味で神様を礼拝することなのです。私の願いは、私たちが真の弟子として、キリストにあって成長していくことです。
 神様の祝福がありますように。

 

 

 

 

 

■2017年10月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 あわれみの心を開く  up 2017.10.15


主題聖句(第1ヨハネ3:17)
世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

 

 

 

【内容観察】
「兄弟を助けることができる者が、困っている兄弟にあわれみの心を開くなら、神様の愛はその人に留まっているのです。」

 私たちは神様に愛され、神様の愛に歩み生きる。その愛に導かれて今年も歩んでいこうと年頭に皆さんにおすすめをさせていただいて、聖い神様の愛の中に生きていくことを心掛けています。
 受けた神様の愛を、今度は流し出していくために、私たちも互いに愛し合う、助け合うということを、みことばより学んでいます。
 神様の愛が私たちの内に留まっている「しるし」は、どのようなことを通してわかるのでしょうか。このみことばでは、あわれみの愛が強調されています。みことばの表現の仕方の逆を言えば「内容観察」のような捉え方になるでしょう。
 私たちも神様の愛を受けたけれども、それを無駄にしてしまわないために、神様の愛を内に留めて、その愛によって互いに愛し合うということを目指し「あわれみの心を開く」1週間としていきましょう。

1.貧しさをもたらすもの(箴言20:13)
「眠りを愛してはいけない。さもないと貧しくなる。目を開け。そうすればパンに飽き足りる。」

◎自分の思い通りにならない貧しさ
◎周りと比べてみた貧しさ
◎強者によってもたらされる貧しさ

 貧しさの中には、いろんな種類があると思います。
 1つ目は、「自分の思い通りにならない貧しさ。」お金で何でもできる時代ですから、お金が少なければ、自分の思いを自由に達成することが出来ない私たちは貧しいと思ってしまうことです。
 
 2つ目は、周りと比べてみた貧しさ。自分より豊かな人が現れると、自分は貧しいと思ってしまうような感覚です。
 
 3つ目に、強者によってもたらされる貧しさ。これは、第3者的な働きによって貧しくさせられてしまうことです。いろんな強者がいます。権力、財力、地位のある者や能力などの強者によって、独り占めされることによって、他の者が強制的に貧しい状況に落とされてしまうことです。
 
 今、この3つ目が世界の各地で物質的な貧しさをもたらしている原因であると思います。日本社会では、どちらかというと、上の2つが貧しいという感覚を与える原因ではないかと思います。
 皆さんの「貧しい」という言葉は「足らない」「弱い」と言い換えてもいいかもしれません。本当に私たちは貧しいのだろうかということをしっかりと考えて、あわれみの心を閉ざすことがないようにしたいと思います。
 あわれみの心があるのに、それを閉ざしてしまう。その理由は、「惜しむ心」があるからです。惜しむということは、もったいないという自己中心の欲が働くのです。助けが必要なことは理解できるけれども、もったいない。内にある欲望・欲求・自己の利己的な欲望が強くて、あわれみの心があっても、閉ざしてしまうということが多いのかもしれません。

 例えば、マッチ売りの少女の物語を皆さんは知っているでしょうか。大人になってから見ると、本当に幸せなのか、不幸なのかわからないような話です。
 マッチ売りの少女は、毎日毎日、マッチを売りながら町を歩くのですが、誰一人、振り向かなかったのです。誰一人、彼女の困っている状況を助けてあげられなかったのです。
 いろいろな理由があるかもしれません。特に、クリスマスの時期に裸足で、みじめな服を着て、「マッチいりませんか」と元気のない声で声を掛けたら、誰でも寄ってくるなといいたくなります。いかにも困って貧しい、本当に大変な状況だと見た目にもわかるにも関わらず、その貧しい少女を嫌う人々ばかりだったということです。あわれみの心が全然なかったのです。
 
 そのマッチ売りの少女から比べたら、町の人々は、明らかに豊かです。帰るべき家がある。家族がいる。そしてクリスマスだということでお祝いができるという環境にある中で、一人だけマッチを売りに出されて、売れなかったら叱られて、夜遅くまで働かされていた。そんな毎日を過ごしている彼女の背景も考えることもなく、むしろ無視して、あえて見て見ぬふりをして、通り過ぎていく。聖書の例話である、よきサマリヤ人の祭司やレビ人のような感じです。でも、よきサマリヤ人の例話は、サマリヤ人が助けたのです。しかし、マッチ売りの少女は助ける人がいなかったのです。
 
 なぜそんな貧しさが彼女を襲って来たのでしょうか。それは、強者によってもたらされた貧しさです。豊かな人々は、貧しいこの少女に目を向けなかった。強い者が弱い者を顧みるという、そのようなあわれみの心を閉ざしてしまった。キリスト教国であり、クリスチャン文化が発達しているヨーロッパで、富める人々は教会に行って、いかにも敬虔なクリスチャン生活をしているように見えるにも関わらず、神様のあわれみによって罪赦されて、神の子とされているということが、どんなに富めることなのかということを悟れず、ただ形だけの信仰、宗教的な信仰のキリスト教徒となっていた人々に、物語を通して、矛盾を訴えようとしているのではないでしょうか。
 
 神様は、お互いにあわれみを持って助け合い、赦し合うということを、この少女を通して、周りの人に試みたのです。しかし誰もそれに気づかなかったのです。そのようなキリスト教国の欠点を示している物語であるといえると思います。
 
 私たちははたしてどうでしょうか。日本だけでなく世界中で本当にマッチ売りの少女よりも、もっと貧しい人々がいます。このような世界的な視野から、私たち豊かな国の者が、経済や文明・文化が発展・成長していて助ける力があるのだったら、あわれみの心を閉ざさないで、あわれみの心を開くということが必要ではないでしょうか。

【質問】

1)「眠りを愛する」とは、どういう意味ですか?
 見ることもせず、聞くこともできない状態。それは、自己中心です。眠りとは安らかさを意味します。「楽」という意味です。楽をする。苦しい目に合うことを避ける。労苦することを避ける。いうならば、怠け者という意味も含んでいるのではないでしょうか。少しでも楽して、利を得るという考え方が一部にあるのではないでしょうか。そういうことにごまかされないように気を付けなればいけないと思います。

2)「目を開け」とは、どういう意味ですか?
 私たちの心は、何に目を向けているでしょうか。クリスチャンの心は、貪欲の心に目を向けないで、神様のあわれみ、聖い愛に目を向けて生きるということを心掛けています。
 
 正しい良心は、神様の聖い愛に目を向けている心の状態を正しい良心、聖い良心と聖書から読み取ることができます。ですから、目を開くとは、神様を本当に恐れる敬虔な心、聖い良心に意識を置いて生活をするならば、パンに飽き足りると箴言でさとしているのです。
 
 私たちの豊かな環境が、心の貧しさをもたらしていないか、反省してみる必要があるのではないでしょうか。

3)貧しい者をあわれむ幸い
A)箴言14:21
 自分の隣人をさげすむ人は罪人。貧しい者をあわれむ人は幸いだ。

◎あわれみの心を開く豊かさ
 あわれみ深い神様の形に似せて造られた私たちは、神様があわれみ深いように、私たちもあわれみ深い生き方、心をもって人々に接していくことが、私たちのあるべき姿、健全な姿であるということです。その姿を閉ざし、隣人をさげすむ心を持つような、あわれみの心を閉ざす者は、神様の形に似せて造られた者では無くなってしまいます。
 
 しかし、貧しい者をあわれむ人は幸いです。なぜかというと、心が豊かであるとあわれみの心をもって、人々に心を開くことができるからです。
 
 たとえ、1000円しか持っていないけれども、1000円あげるという人は、持ち物が貧しくても、持っている1000円を全部あげてもいいという心の豊かさを持っているということです。施しは心の豊かさにかかってくるということです。
 そのようにあわれみの心を開く者に、神様の愛は留まっているのです。私たちの心の豊かさは、神様の愛による豊かさによって、たとえ持ち物が貧しくても施すことができるということなのです。

 もう何年も前の話ですけれども、極度の貧しさにも関わらず、食料の配給が決められていて、1日に1回はいいほうで、3日に1回の配給があるというような、アフリカの山奥の地域の出来事です。
 
 ある村に、3日に1回の配給があるということで、山3つほど超えた村から子どもが、自分たちの家族の食料を分けてもらおうとやってきたのです。けれどもこの食料は、順番に地域を回って配給をしているので、この村のための物であって、他の村の子どもにはあげられなかったのです。
 その子どもは、食料をもらえずに帰りかけました。そうしたら、4人家族で配給を受けた貧しい家族がその子どもの様子を見て、その子どもを家に呼んで、分けてもらったばかりの食料をその子どもに少し分け、家族が待っているというので、受けた配給の半分をその子どもに手渡したという話です。
 
 これは絵本にもなっています。持ち物の豊かさではなく心の豊かさが、施しにつながるのです。神様の愛。十字架に現わされた神様の罪人に対する深いあわれみを思い起こしながら心の豊かさを保ち続けていきましょう。貧しい者にあわれみの心を開く人は、心の豊かさがあって、神様の愛に満ちているということです。

B)箴言28:27
「貧しい者に施す者は不足することがない。しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。」

◎あわれみの心を開く敬虔さには、満ち足りる心がある
 のろいを受けるとあります。恐ろしいことです。それほど、あわれみの心を閉じるということは、神様にとって問題であるということです。
 しかし、私たちの見るべき点は、貧しい者に施す者は、不足することがないということです。あわれみの心を開く敬虔さとは、神様を恐れ、敬う、その敬虔な心、それに満ちている心はあわれみの心を開くことができる。そこに満ち足りる心があるということです。
 
 特に敬虔さ、その敬虔さが本物であるかどうかは、あわれみの心を開くかどうかの違いです。物理的に貧しいかどうかも含めて、精神的に貧しい、霊的に貧しい、助けや励ましが必要だと思うときに、時間を割いてその人を励まし、共に祈り、聖書を読むなどの施しをする。そのような人は不足することはないのです。
 神様があわれみの心を開いて流し出した分、心を開いた人にもっと豊かにみことばのさとしが与えられ、また愛を注いでくださる。このような「循環」が始まるから、不足することがないという言葉にまとめられているのではないでしょうか。

 与える心、蔵から物を取り出すことを惜しむ人は、かえってのろいを受ける。しかし、心の蔵を開いて施す人は不足することがありません。あなたの貧しさは、神様のあわれみを受けているにも関わらず、そのあわれみを出し惜しみしているからかもしれません。よく反省をして、神様の前にあわれみの心を開くように、自分自身を訓練していきましょう。

【デボーション参考ポイント】
 あわれみの心をどれぐらい開くことができるでしょうか。

【今週の短歌】

新米の 炊きたて香る 夕食に 
一切れのたくわん 腹満たす

 炊きたての新米の香りはおいしいにおいがしますよね。おかずは、たくわん一切れであっても、新米の炊きたてご飯で腹を満たすことができる。多くのおかずを必要としないということです。
 
 パウロは多くを求めることがないように、衣食があれば十分だと思いなさいと教えています。そのような満ち足りる心を持つということに今週心を向けてみましょう。新米、神様の新鮮な愛を、あわれみをいつも炊きたて香るデボーションで感じながらその日一日、満ち足りる心を持って歩んでいきたいですね。

 

 

 

 

 

■2017年10月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 あわれみ深い神との出会い  up 2017.10.8


主題聖句(第1ペテロ1:20)
キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。
 (キリスト=あわれみ深い神の見えるかたち)

 

 

 

 神様のご性質であるあわれみ深さについて今みことばから学んでいます。そして、神様のあわれみは私たちに注がれているということを今週もみことばから見ていきたいと思います。

 私たちが出会う神様は、あわれみ深い神であるということは、なんという幸いな知らせでしょうか。神様は裁き主でもありますが、悪人をも救いたいと願われ、あるべき姿に立ち返らせようとされる、あわれみ豊かなお方です。
 
 そのあわれみ深い神様は、イエス・キリストという神の愛の見える形として、この地上に現れてくださいました。キリストの存在、神様のあわれみ深さは世の始まる前から知られていました。なぜなら神は愛だからです。
 
 この世の終わりが近い時に、自己中心な私たちのために、神様は出会ってくださいました。この神様のあわれみに触れられることによって、私たちの人生は変わるのです。あわれみ深い神様の子どもとして成長していくのです。

1.神のあわれみであられるイエス様と出会った人々
A)10人のツァラアト
(ルカ17:12〜13)
「ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください』と言った。」

◎イエス様についての福音を聞いていた。 
 このツァラアトというのは、罪を象徴する病気として聖書に出てきます。「声を張り上げて」とありますから、遠くから呼びかけている場面です。

 彼らは一度も会ったことのないイエス様のことを見分けることができました。しかも、「先生」と呼んでいます。これは、イエス様についての良き知らせを聞いていたのです。イエス様についての情報が彼らに届いていました。福音がしっかりと届いていたのです。
 
 私たちも、イエス様を伝える時に、ぼやかすのではなく具体的に語ることのできる心構えが必要だと思います。

◎イエス様に出会うために出かけた。
 ツァラアトの人々は、人前に現れてはならないという律法があったので、ひっそりと隠れて暮らしていましたが、イエス様を探しにそこから出てきたのです。この病気から解放されるために、唯一の望みである救い主が現れたということを信じて、人々の批判も受けながら、癒されて救われたいと願い、出てきたのです。
◎神のあわれみを求めた。
 彼らは家族からも距離を置かれるみじめな人生を送らなければなりませんでした。彼らは、「癒してください」ではなく、「あわれんでください」と願いました。あわれみを求めて、神様に近づいたのです。
 
 神様はあわれみ深い方ですから、あわれみを求めて来る者にはあわれんでくださるのです。
 
 罪人が受け入れられる唯一の条件は、あわれみです。あわれみを受けるということは、へりくだらないといけません。ごう慢な人にはあわれみは注がれにくいものです。心砕いて、「自分は弱く、無きに等しいものです。あなたこそ正しい唯一のお方です。」と、へりくだった心を持って神様のあわれみを求めることが大事です。そうしたら、あわれみの見える形であるイエス様に出会うことができます。

B)38年間病気の男性
(ヨハネ5:5〜6)
「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』」

◎38年間待ち続けていた。
 神殿の中のソロモンの廊という所にベテスダの池というのがありました。その水面が波打つことがあると、一番に飛び込んだ人が癒されるという伝説があり、多くの病人が集まっていましたが、一人しか癒されませんでした。
 
 自分で池に入ることができない人は、誰かに助けてもらわないと入れません。しかし、助けてくれる人はいなく、他の人がいつも先に入ってしまい、彼は38年も待ち続けていたのです。

◎イエス様の方から近づかれた。
 彼のように動けない人には、イエス様の方から近づいてくださいました。イエス様から出会いに来てくださったのです。
◎イエス様は、彼を深くあわれまれた。
 「よくなりたいか」とイエス様は語られました。これは、深くあわれみの心を持たれたおことばでした。多くの病人の中でも、どれほど神様の心が彼に注がれていたのでしょうか。

 彼は38年間、人々に裏切られながら、あきらめてもおかしくないのに、それでも誰か池に入れてくれる人はいないかと待ち続けたのです。人は誰も彼をあわれまなかったのに、神が彼の心をずっと見ていてくださり、神のあわれみの見える形であるイエス様が、彼の方に近づいてくださり、「よくなりたいか。」と、深いあわれみの心を示されました。
 
 神様は彼の事情を全てご存知ですが、彼の気持ちを確認され、おことばを与えられ、癒されたのです。

 私たちも、簡単にあきらめてしまうような願いでは、深い神様のあわれみを引き出すことができません。あきらめずに待ち続け、期待し続け、葛藤し続ける心の労苦に対して、神のあわれみはますます神様のうちに大きくあふれてきて、必ず深い神様のあわれみをもって、神様の方から救いの手を差し伸べてくださるのです。 
 
 神様のあわれみをまず第一に求めていきましょう。神様はあわれみ深く情け深いお方です。
 
 罪人の願いを聞いていただくためには、神様のあわれみを引き出すことが重要です。策略ではなく、悩み苦しむ中で、あわれみ深い神は、必ずこの心を見てくださるという、神様のあわれみに期待する心を持って、祈りを積み重ねていただきたいと思います。
 
 あわれみ深い神様は、私たち罪人にとって良き知らせです。罪人にとって唯一の希望は、あわれみです。自分の弱さを知り、へりくだることによって、神様のあわれみに触れることができるのです。

2.今はいつでも出会える
(ヘブル10:19)
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。」

◎聖所=あわれみ深い神との出会いの場所
 旧約聖書の神殿や天幕は、神様に出会う場所として象徴的に記されています。また、神殿や幕屋は、神の見える形で地上に現れたイエス・キリストを象徴しています。見えない神が天幕の中にご臨在してくださり、そこで出会うことができるので、会見の天幕とも言われていました。

◎神の深いあわれみを信じる者は、イエス様の十字架によっていつでもあわれみ深い神に出会える。
 今は、イエス・キリストの血によって、だれでもこの神様に出会う聖なる場所に入ることができます。十字架による贖いのみわざによって、罪人である私たちが罪なき者として神に出会うことができるのです。このイエス様の血潮は、私たちを愛してくださっているという、神のあわれみのしるしとして流されたのです。

 あわれみは赦しも含まれています。赦しを実現するために、イエス様が身代りに裁きを受けてくださいました。この神様のあわれみを信じて、いつでもどこでも、祈りを通して神様の前にでることができます。

◎神の深いあわれみに影響される。
 私たちは多くの人と出会いますが、出会う回数の多い人に影響されます。たくさんの人に私たちは出会いますが、神様にもっと多くお出会いすることによって、あわれみ深い神様の影響を受けることができます。

 自分にはあわれみがないと思う方は、あわれみ深い神様に出会う回数が少ないのではないでしょうか。神様の愛を信じて、祈りの中で出会っていただきたいと思います。いつでもできます。
【デボーション参考ポイント】
 あわれみ深い神と出会うポイント
(ローマ9:15〜16)
「神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

 あわれみとは、心の部分です。マニュアル通りに条件を満たしたからといって、神様のお心を動かすとは限りません。10人のツァラアトの人々がどんな気持ちをもってイエス様の元ににあわれみを求めてきたのか、その心境まで追い込まれないと、あわれみ深い神様の前に心砕かれて出ることはできません。

 38年間の男性は、あわれみを受けなければ自分は助からないのだと、あわれみに対する期待と希望を失いませんでした。

 私たちも、神様のあわれみを本当に信じて求めて祈っているのか、神様に見分けていただかないといけません。神様が判断されるのです。

 真剣にクリスチャン生活を悩み、苦しんでいる中に、神様はご自身のあわれみを示してくださいます。神様が唯一の主権者であると認めない限り、このみことばを理解することはできません。主権者なる愛の神様は、愛によって物事を判断しておられるということを表わしているみことばです。

 理屈ではなく、愛の心から全てのことを見分け、判断してくださる神様なのです。理屈では私たちは罪人として滅びるべき者ですが、その理屈に勝る神の愛とあわれみによって、滅びるべき罪人が救われるという望みをいただいたのです。神様のあわれみに触れる祈りをしていくように心がけていきましょう。

【俳句】

  あわれみを  作物荒らす  鹿に見る

 鹿というのは季語です。畑を荒らされる農家の人にとってはいやな存在ですが、鹿の事情も理解してあげないといけません。それがあわれみの目で見るということです。

 なぜ山奥から人里におりてくるのでしょうか。食べ物を探し求めて歩いているうちに、食べ物がたくさんある畑をたまたま見つけて、くせになったのです。

 自然のバランスを壊している人間の科学や文化が、人里に鹿が現れてくるようになる状況を長い年数をかけて生み出したのです。そのようにあわれみをもって考えると、作物を荒らすのもしかたがないと理解することができるのです。

 神様も、欲にひかれて律法を守ることのできない、神の豊かな恵みを荒らすような罪人である私たちのことをご存知で、理解してくださり、しかたがないと赦してくださり、イエス・キリストを信じて、神の恵みをいただけるようにしてくださるあわれみ深いお方です。

 自分があわれまれるべき愚かな者であることを自覚しながら、賢い神の子として成長できるように、更に神様のあわれみの道を歩めるように心がけていきましょう。

 

 

 

 

 

■2017年10月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 あわれみは肝心(3)  up 2017.10.1


主題聖句(ルカ6:36)
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

 

 

 

 私たちは神の形に造られた者であり、神の子として愛されている者、神の子であるならば神の国の相続人でもあるというお話をしています。
 
 自覚の問題です。お父さんがあわれみ深いのだったら、私もあわれみ深くなろう。なぜなら、父なる神様のあわれみ深さは、天地万物が治められている一番大事な部分だから、それを相続する神の子である私たちも、あわれみ深くなるのが当然ということであり、イエス様のこのお言葉を、義務とか強制的な律法的な、ルールのように受け止めることがないようにしましょう。
 
 今日は二つのポイントから『あわれみは肝心』(3)を、見ていきたいと思います。

1.神のあわれみは全てを益とする
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)             
 
 「知っています」と告白できるのは、それを「体験してきました」
という意味が含まれています。
 パウロはローマの教会に対して、今までの様々な神様の働きの中で、苦しみや苦難を通してつらい思いをしましたが、それらのつらい思いは、損することではなくて、益と変えられて、今教師として世界に福音を宣べ伝えるのに役立っている、ということに気が付き、「私たちは知っています」と、ローマの教会に励ましを与えているのです。
 神がすべてのことを働かせて益としてくださるのは誰のためでしょうか。「神を愛する人々のため」です。神を愛する人々というのは、神様のあわれみである十字架の神の愛を知って受け入れて、「ああ、この罪深い私を救うために来て下さった”と、神様の愛とあわれみ、福音に触れて、「神様、ありがとうございます」と、心から神様への愛と信頼を示す人々、神のあわれみを知って神を愛するようになった人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださるということなのですね。だから、誰にも彼にもではなく、神を愛する人々に、なのです。
 神様が救いの手を差し伸べたのに、「要らない」と振り払うような人々には、助けようがないのです。あわれみを振り払って、自分の思い通りのことだけをしてくれというのは、無謀な要求をする不遜な人、不敬虔な人の態度ということになりますね。
 今、損しているように見えても、ご自分を信じる人々のためには、神はそれをも益と変えて下さることのできる救い主であられるのです。

A)神のあわれみを悟った人々にとって全てが益となる
「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。
彼らのたましいを死から救い出し、飢饉のときにも彼らを生きながらえさせるために。」(詩篇33:18−19)            

 「主の目は主を恐れる者に注がれる。」なぜですか。神のあわれみです。すべての人に神は目を注いでおられます。そのあわれみを受け取った人々に、更に主の目は注がれます。

 「恵みを待ち望む者」に「たましいを死から救い出し、飢饉のときも彼らを生きながらえさせよう」と、目を注いでおられるのです。
いつでも助けようと思っておられる、そういう姿勢をもって神様は、あわれみを私たちに向けて下さっているのです。主の目はあわれみの目です。慈しみの目です。出来る者にはじっと見守り、出来なくなって困難さが生まれた時に、神の慈しみとあわれみは、助けの手を差し伸べるわけです。「今」だけのことを考えないで、神様は、「後の事」も考えて、全てのことを働かせて「益」としてくださると信じましょう。

B)あわれみ深さの幸い
「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」(マタイ5:7)
 一度あわれみを受けただけで終わってしまうと、それっきりです。 なぜ、あわれみ深い者はあわれみを受けるかというと、神様のあわれみを受け続けているからです。神様の愛の中に留まるというのは、神のあわれみを受け続けるという意味なのです。
 まだまだ私たちは乳飲み子のような、幼子のような、少年のような、未熟な者ですから、神の助けが必要です。親の助けが必要です。自覚してますか。
 神様に反抗的な「霊的反抗期」のクリスチャンが、たまにいます。聖書を読むと律法的に聞こえて嫌になるという人、それでも神は父親として親の愛をもって私たちを憐み、いつくしんで下さっておられます。そういう神様の深いあわれみを悟れば悟るほど、大事に育てられていることを感謝できます。親の愛の中に留まるここち良さ、その助けは時にかなって素晴らしいと、感謝できるようになるのです。そして、あわれみ深さを悟ることによって、自分もあわれみ深くなるのです。    
 「その人はあわれみを受ける」という「あわれみ」は人からのあわれみではありません。神様からのあわれみを更に受けることができるということです。「情けは他人のためならず」ということわざが、日本にもありますね。
他人のための親切は、その人の為になるだけでなく、めぐりめぐって自分のためにもなるという意味ですね。世の中でもそのように言われるくらいですから、神様はなおさら惜しみなく、人々にあわれみと親切を施す人々には、さらに豊かなあわれみを施してくださるのではないでしょうか。
 人から、あわれみや情け、親切を期待するのではありません。神様からのあわれみ、親切を期待していきましょう。
 人に期待すると裏切られて傷ついて、それが神様への不信仰につながりますから気をつけましょう。                
    
2.あわれみ深き者
 あわれみ深い人には、そのあわれみの心から、どのような行動が現れるのかを見ていきましょう。

A)隣り人を愛する
「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」(ローマ15:2)
 神様のあわれみを受けた人は、その人のうちに神の愛がとどまります。その愛は、あわれみ深い愛であり、良心を清め、隣人愛へと導きます。そういう働きを、あわれみ深い愛は私たちの心の中で起こします。
 しかし、あわれみを、あわれみだと悟れなかったら、どうでしょう。一万タラントを赦して頂いた僕は、なぜ100デナリを赦せなかったのでしょう。
 私たちはどうでしょうか。 一億円の借金を帳消しにして頂いたから、100円の貸したお金くらいなら帳消しに出来ても、それが100万円だったら、どうですか。「惜しい・・。」
 あるいは、一億円を現金で頂いて、それを手にしている時ならば、張り込んで100万円くらい帳消しにしてあげる勇気がわくかもしれませんね。残りがまだ一億近くあるわけですから。やはり私たちも、この世の利益を求める損得勘定が、神様の御言葉以上に入り込んでいると思いませんか。
 手にしている豊かさが、自分の存在やあわれみの心を支えているということは、損得勘定で、あわれみが施せるか施せないかという考え方を持ってしまっているということです。実際に豊かだったら、赦せるんだが…ということです。
 一万タラント赦してもらったということは、ゼロになって何もないということですが、しかし、聖書をよく読みますと、赦されただけでなく、御国の相続人とされた「プラスα」がついてくるのです。
 一億円どころではないのです。御国の相続人というのは、罪赦されたならば、神の全財産を受け継ぐ者とされるということなのです。一万タラントが赦されて、ただになっただけでなく、あの物語でいうならば、赦されたしもべは更に王様の相続権を与えていただくという所まで、イエス・キリストの救いは私達に福音として語られているのです。
 赦されただけでなく与えられているということも見て、人の罪を赦すという心の豊かさを、ぜひ気が付いて頂きたいと思います。
 神の赦しは、ゼロに戻すというだけでなく相続人とされる権利まで与えるものであります。すばらしいですね! 
 神のあわれみはすべてを益とします。だから、損した!見捨てられている!無視されている!そんな状況を感じられる所を、今あなたが通っておられるとしたら、まだ未来があるのです。神はそのままであなたを放っておかれることはありません。そのことを通して益として下さる時を信じて待ってください。  
 また、へブル書の9章14節には「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」という御言葉があります。
 あわれみを受けて、あわれみがそこに留まると、私たちの良心は神様の愛に触れられて、きよい良心の考え方が心に生まれてきます。
 それは自分よりも隣り人を愛するという方に関心を持つように心が変えられるという現象が内側に起こるのです。ですから、ローマ書15章2節は、しなければならないというものではなくて、そのように心が変わるということを皆さん、受け止めてください。
 あわれみの心をあなたが大事に心にもっていたら、自分もいつの間にか隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるように動くようになる、考えるようになる、ということです。
 「愛のない人」と自分で自分を感じている人、ぜひ神様のあわれみを、もう一度心に受け止めてください。そのあわれみの愛があなたの心をきよめて、死んだ行いから離れさせ、生けるまことの神、あわれみの神に仕える、すなわち「あわれみ深くなる」ことができるのです。

B)敬虔であり続ける
「俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の訓練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(第1テモテ4:7−8)
 あわれみ深い人は、その敬虔さ、神を畏れる心を保とう、否、もっと磨こうとします。神のあわれみによって、永遠の未来への約束、すなわち相続人という特権が与えられるということを知った者は、正しい良心をもって敬虔であり続けようと努めます。
 与えられた素晴らしいものを受け止めるために、ますます敬虔な者になっていこうというこの気持ちが高まるのです。
 きよくあり続けること、神を畏れる心をもって熱心なクリスチャンになることを拒む人。熱心さに入りきれない人。その一つの理由は、罪の赦しのあわれみは受けたけれど、あわれみの中に歩む、神のあわれみを心に持ち続けるということを拒むことです。
 赦しの恵みには感謝するけれど、あわれみの愛を持ち続けるということを、肉が嫌がるのです。肉に従ってしまいます。なぜなら、あわれみを持つことは、損得でいうならば損することなのです。自分が得することを優先しないで、隣り人が得することを優先する心ですから、見返りを期待して与えるのではなく、その人がプラスになるように、その人が立ち上がるようにと投資するようなものですね。投資して損するようなこともあるわけです。無駄になってしまうこともあるわけです。
 だから、あわれみを施すということは損することを覚悟しなくてはいけません。傷つくことを覚悟しなくてはいけない。だからあわれみの心を持ち続けることはとてもつらいことです。何がつらいか。自己中心がつらい。口で言うほど簡単ではありません。チャレンジしていきましょう。
 神のあわれみに日々とどまり続けるように、毎日のデボーションの中で、自分の内であわれみの愛を喜んで受け止めることができているか、朝ごとに祈って、あわれみ深い心をもって、一日が過ごせますように、祈り続けていきたいと思います。

【俳句】
    ゴルゴダの  十字架似合う  秋夕焼     

 瀬戸内海と宮島が映って秋の夕焼けが、とてもきれいでした。その夕焼けを見て、ゴルゴダの丘に十字架が立っているその背景が重なりました。十字架は神の愛とあわれみの姿。イエス様の真っ赤な血潮が流された、神のあわれみの血潮の色です。それを現すかのように、夕焼けが真っ赤に染まっている。ゴルゴダの十字架にふさわしい赤い夕焼けを見て、ああ、神様のあわれみは真っ赤なきよい血潮に現されていると思っていただければと思います。

 

 

 

 

 

■2017年9月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 あわれみは肝心(2)  up 2017.9.24


主題聖句(ルカ6:36)
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

 

 

 

 あわれみの心は大切です。先週に引き続いて今週もあわれみについて語りたいと思います。

1.神は、何よりも「あわれみ深い方」

A)神があわれみ深いことは、良い知らせ(福音)である。
「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。」 (ヨエル2:13)

 創造主なる神は何よりもまずあわれみ深い方です。神は万物をすべて治められる統治者であり、王、皇帝であり、すべてのものの上に立つ主権者です。私たちは、位が上に立つ人ほど厳しい人というイメージを持っています。私の世代では父親は厳しく怖い存在でした。(しかし最近は優しく弱い父親像になっているようですが。)
 神に対するイメージも裁き主であり、悪を正す方という怖いイメージが強いようです。

◎罪深さを自覚しているなら、神があわれみ深い方であることを知らされることは、福音であり、希望が与えられることである。

 罪深さをあまり自覚しない人は、優しいとかあわれみ深いということにピンときません。
 厳しい父親がいる子どもは、悪いことをすると叱られるという怖さを感じますが、優しい父親だと、悪かったと自分の罪を認めやすくなります。
 優しさとあわれみは同じようなもので、優しさはその人を生かす為にあわれみを施します。あわれみとはだめなものを生かしリサイクルするような働きをします。あわれみは相手がかわいそうと思ったら具体的に助ける行動を起こします。相手が立ち上がるチャンスを与えるのがあわれみです。
 言葉や態度だけで厳しさを示されることがありますが、その厳しさの裏に、もう一度その人に立ち直ってほしいという願いがあり、実際にそのチャンスを与えることがあわれみであり、神様は何度でも機会を与えて、私たちが立ち直ることを助けてくださるあわれみと情けに富んだ方です。
 「怒るのに遅く」とありますが、これは本当に感謝です。強く叱られると私たちは弱さのゆえに罪を隠してしまうことがあります。しかし、あわれみは「北風と太陽」の太陽のように、私たちを暖かく照らしてくださり、心を開かせてくださいます。
 神様はあわれみ深く、私たちが心を開いてありのままの自分をさらけ出すことを待ってくださる方です。
 ですから、神はあわれみ深いということは私たちにとって、良い知らせです。
 あわれみ深い神様は私たちにとって本当に希望です。私たちの失敗を赦し、やり直させてくださるからです。
 私たちには助けが必要です。神様の助けなしでは生きていけない罪人なのです。神様のあわれみなしでは生きていけない罪人であるということを忘れてはいけません。いつもそのことに目覚めていましょう。
自分の罪に気づくほど、神様のあわれみのありがたさがわかってきます。

B)人の本来の性質である(創世記1:27)
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 」

 あわれみ深い神に似せて私たちは造られました。神のあわれみ深い性質を継承するために造られたのです。何よりも本来の自分の性質に気づく必要があります。私たちの本来の性質とはあわれみ深さです。
イライラしたり怒りやすいとかは、罪のために心が縛られてしまっているからです。
 本来は罪人を赦してくださる神のあわれみの心に似せて造られているのです。そのことに気づいて、信じましょう。そして、そのようにセルフイメージをみことばに合わせて正しく持つようにしてください。
 また、周りの人に対しても、気の短い人だと思えるような人であっても、まだその人の本質であるあわれみ深さが引き出されていないだけなのだと、寛容な心で見てあげましょう。そして、その人のあわれみ深い性質が表されるように、とりなし祈りましょう。
 例え、見えるご主人は短気であっても、本当の主人はあわれみ深い人として神はお造りになったのですから、あわれみ深い人であると信仰の目で見て、今は見えないけれども必ずそうなると期待して祈っていくのが信仰です。
 見えていないものが現実に現れるのを神に期待しながら、信仰の目でそれを見えているかのように見つつ私たちクリスチャンは歩んでいるのです。
 罪深い私の人生の日々の歩みであっても、いずれはイエス・キリストのように変えられていくと信じる力が信仰です。
 自分も含め周りの家族や兄弟姉妹に対して、すべての人が、神によってあわれみ深い人に造られているのだと信仰の目で見て歩んでいきましょう。

2.クリスチャンの生き方

A)神の子としての生き方(ルカ6:36)
「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」
 私たちが創造主なる神を父とするということは、相続人であるということです。
 神の国の相続人として、私たちは今地上で練られ清められています。
相続人としてふさわしい者となるためです。
 神のご性質や富やすべてのものを相続する者として私たちはここに存在し、イエス・キリストに救われて神の子とされたのです。
「父が引き寄せてくださらない限り、誰も私のもとに来ることはできない」とイエス様は言われました。
 神はあなたを相続人として選んでイエス・キリストを信じる心を目覚めさせてくださり、ことばなるイエス・キリストの魂へのおことばを私たちは自分の生きる道だと選んで今ここにいるのです。
 あなたがこれらのことを受け入れることで、正しく神の相続人としての歩みができるようになります。

◎創造主なる神を「父」とする者にとっての手本。
 手本とは「あわれみ深さ」です。神様のあわれみを手本として人生を歩み、御国の相続人としてふさわしい者となるためにいろいろな苦しみで練られて成長していきます。
 「苦しみにあったことは私にとって良いことでした。それであなたのおことばを学ぶことができたからです。」と詩篇119篇にあります。
 神のおことばは、私が相続人として神のあわれみ深い心を養い育てられていくためのものなのです。
 苦しみにあうということは、あわれみを持つための良い訓練です。
好きな人をあわれむのは当たり前です。しかし、あわれみにくい人々にあわれみをかけるという訓練が天に宝を蓄えるということになります。
 今週あわれみにくい人々にあわれみを示すということをチャレンジしてみてください。感情のあわれみではなく、助けが必要だと思える人に必要な助けを与えることがあわれみです。
 このあわれみを施すことを、イエス様は「隣人を愛する」ことだと言われました。
 イエス様の例え話にある、強盗に襲われて死にかけているユダヤ人を助けたのは、ユダヤ人から嫌われ差別されていたサマリヤ人でした。 彼は「かわいそうに思い」助けたのです。その動機はあわれみでした。
同じユダヤ人である祭司もレビ人もかわいそうには思いましたが、実際に助けることはしませんでした。
 サマリヤ人は助けることであわれみを示したのです。傷を手当し宿屋に運び、彼が良くなるまで面倒を見てくれるよう宿屋の主人に頼み、その代金を払い、もし足りなければ帰りにその代金も払うからと言って出かけて行きました。
 それがあわれみであり、隣人を愛する愛です。このあわれみの心こそ父なる神様から受け継ぐべきものなのです。

B)あわれみを受けた者の生き方(マタイ18:33)
「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」
 これは先週も語られたことです。神からあわれみを受けているということに気づいた人が、同じクリスチャン同士、あるいは家族、友人等仲間に対してあわれみを施すことは当然のことです。
 あわれみを受けているということに深く気づいていくほど、仲間に対してあわれみ深くなっていきます。
 あわれみを受けていることに気づく大きさに比例して、他の仲間に対するあわれみが大きくなります。
 もし、永遠の滅びに至る罪にまみれた自分を神があわれんでくださり、創造の目的であった神の子として神のすべてのものを相続できる者へと赦し贖ってくださったということ、そのために神ご自身がいかに大きな犠牲を払われたかをしっかりと心で受け止めて信じるなら、あなたもあわれみ深くなるはずです。
 神様は罪深い私たちを、どのように顧み、痛みをもって受けとめてくださったことでしょう。神様の感情、心の部分の深いあわれみを知るなら、兄弟姉妹に対して、あわれみを示すことが苦になるはずはありません。
 あわれみを受けた私たちがあわれみを他の人々に施すというのが、あわれみを受けた人の義務であり責任です。
 
 罪深い女がイエス様のもとに来て、高価な香油で御足を洗った時、女を汚らわしいと嫌悪し批判するパリサイ人に対して、イエス様は「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。 」と答えられました。
 そして、さらに、五百デナリ借りていたしもべと五十デナリ借りていたしもべの両方を主人が赦してやった場合、どちらのしもべの方がよけいに主人を愛するようになるかという質問をパリサイ人にされました。パリサイ人は「多く赦してもらった方です」と答えました。
 そこでイエス様は「『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」 と語られました。
 神様のあわれみの深さを本当に心で感じたなら、あなたも仲間をあわれんで欲しいと神様は考えておられます。
 多く赦された人は多く神を愛します。自分の罪深さを悟った人は、多く赦すことができるようになります。
 イエス様の十字架の贖いがいかに大きな犠牲であり、あわれみであるかを知った人は、赦せないことがなくなっていきます。赦せないという人は、この神様のあわれみに気づいていないからです。

 【デボーション参考ポイント】
 何よりも大きな恵みは、神のあわれみを受けたことである。
 特に詩篇103篇を何度も読み返し、主のあわれみを感じてください。そしてあわれみを受けていることを深く知り、あわれむ心があふれてきますように。自分の隠れた罪を告白し、神の赦しを体験しましょう。
 あわれみを受け赦されているということを体験するためには、自分の罪を明らかにして神の御前に出ることです。赦される嬉しさ、感動をぜひ体験してください。

【短歌】
虫の音に あわれみ受けた 恩寵を
思い出させる 神のわざ

 

 

 

 

 

■2017年9月17日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 あわれみは肝心  up 2017.9.17


主題聖句(ルカ6:36)
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
A)神のあわれみについて (マタイ18:23-35)
このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 今週は神様のあわれみについて、聖書から見ていきたいと思います。マタイ18章23節から35節に、神様のあわれみについて良くわかる例え話があります。
 ここでは、一万タラントの借金をゆるされたしもべが登場します。一万タラントとは、日本円で数千億円という金額に相当します。人が一生では絶対に返せない負債ということがおわかりだと思います。そのような負債を主人は全額免除してやりました。私たち人も、神様の前に絶対に返すことのできない「罪」という負債を負っていましたが、今はそれが全て赦されています。これが、神様のあわれみです。しかも、神様は大きな損失を負ってくださいました。イエス様の十字架の贖いです。そこまでして、私たち人を罪の負債から解放してくださったのは、ただただあわれみによるのです。どうして、人にそこまでのあわれみを向けるこ とをなさるのでしょうか。それは、私たちが、被造物の中でも神様に似せて創造された、神様にとって特別な存在だからです。
 この例え話の後半では、一万タラント赦されたしもべは、百デナリを貸している仲間に会うと、「借金を返せ」と迫り、牢に投げ入れてしまうという行動が描かれています。百デナリとは、一万タラントに比べたら何でもない金額です。一万タラントも赦されたのだから、百デナリくらい、あわれみを示すのは簡単ではないのか、と私たちは考えるでしょう。しかし、イエス様はこの例え話で、あわれみを示したしもべを描きませんでした。私たちがどれだけあわれまれても、人をあわれむことがどれほど難しいかをイエス様は教えておられるのです。神様のあわれみは、人に対して示されたことで終わったのではなく、私たちが互いにあわれみ合うことで完成するのです。神のあわれみを受けた者同士 が、互いにあわれみ合うことを神様は願っておられます。

【横路伝道師メッセージ】
B.あわれむことの大切さ
1)ルカ6:37
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」
 主題聖句のルカ6:36「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」の次のみことばです。
 「さばいてはいけません。」とは、自分が罪人であったのに、神様の大きなあわれみのゆえにさばかれないで赦されたということが前提にあります。だから自分も人をさばかないようにということです。また、自分も大きなあわれみのゆえに罪に定められなかったように、回りの人も罪に定めず、赦しなさいと言われています。
 (マタイ5:7)には、「あわれみ深い人は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」とあります。もしあわれみがなければ、私たちはここに生きていません。ここに来ることもできません。あわれみがなければ、私たちは滅びてしまう者でした。あわれみは天の神様の本質であり、私たちは神様の子どもですから、私たちもその本質を持っているのです。

 しかし、なぜ私たちはあわれみが少ない者なのでしょうか。自分はあわれみを受けていることに気づいていないのか、知らないのでしょうか。自分のことに精いっぱいで余裕がないということもあるでしょう。他の人の不幸を見ても、他人事と考えて無関心であることはないでしょうか。無関心はあわれみと反対のものです。
 
 私たちはあわれみを受けた者として、感動を持って生きているでしょうか。あわれんでくださった神様に感謝することはできます。そのあわれみを、どうやって神様にお返ししたらいいのでしょうか。私たちの方から神様をあわれむということはできません。私たちがあわれむことができるのは、隣人です。神様は、もう一万タラント赦したのだから、それは神様には返さなくてもいいので、その代わり周りの人々をあわれんで欲しいと言われているのです。
 
 どのような隣人をあわれむことができるでしょうか。苦しんでいる人、悩んでいる人、病気のある人、絶望している人、助けを必要としている人、叫んでいる人もいます。どのような助けができるでしょうか。3つ考えてみました。
 1つ目は、とりなしの祈りをすることです。あわれみの心がなければとりなしの祈りをすることはできません。
 2つ目は、与えることです。自分にはあげられるものは何もないという方もいるでしょう。しかし、私たちには、祈りや笑顔、優しい言葉をかけることもできます。優しい心で手を差し伸べることができます。物やお金がなくても、これらのものをあわれみによって与えることができるのです。
 3つ目は、最も私たちがあわれんで差し上げることができるのは、福音を伝えることです。これは最高のあわれみのプレゼントです。
 私には福音をうまく語ることができないという方もおられますが、何かの形でできるはずです。例えば、ラジオの福音放送の「世の光」の番組を紹介することならできると思います。そのように色々な福音を語る方法があるはずです。

 私たちは、そのあわれみの中に法則を見出すことができます。もし、あわれみを持たずに、自分が生きるためにしょうがないと言って他の人を無視し、自分勝手な生き方をしていくならば、最後には全ての人が滅びます。逆に、人がもしあわれみをもって隣人を生かすために愛を注いでいくならば、最後は全ての人が生きるのです。
 サタンは私たちの自己中心、自己保全に働いて、あわれみを閉ざそうとさせてきます。ごまかされないようにしましょう。

2)マタイ25:40b
「・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
 私たちは、誰かに愛とあわれみを注ぐということは、実はイエス様が愛しておられる魂に、もっと言えばイエス様ご自身にしていることであるということです。
 イエス様ご自身が、いつもあわれみの動機で全ての行動をされたことが福音書に記されています。魂をあわれみ、病人を癒し、泣く者と共に泣き、奇跡を起こされました。誰も触れようとしなかった病人に、あわれみをもって触れて癒されました。十字架につけられましたが、その十字架につけた人々をもあわれんで、「彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈られました。私たちの心の中に、同じあわれみを神様は与えてくださっています。

 ある人が語りました。電車の中で周りの人々を見回した時に、その人はクリスチャンでしたが、ほとんどの人がノンクリスチャンですので、「汚れた罪人ばかりが乗っているんだなぁ」と、愚かに見えたそうです。ところがその人は思い直し、「そのように見てはいけない、どの人もイエス様に愛されている、救われるべき人なのだ」と思い直して、もう一度車内を見渡しました。そうすると、人々は皆愛すべき尊い人に見えてきたそうです。あわれみの心が湧いてきたのです。

 イエス様は「わたしの兄弟にしたのは、わたしにしたのです」と言われました。マザーテレサの言葉を紹介します。「わが主イエス様。愛する主よ。いつもあなたが愛しておられる病いの人一人ひとりの内にあなたを見出すことができますように。そのあなたに仕えていくことができますように。いらいらさせられる人や、気難しい人、理屈に合わないことを言う人の表面に隠れているあなた、イエス様を見つけて、こう言えますように。『私の主、イエス様。あなたに仕えることはなんと楽しいことでしょう。』」

 聖霊様が助けてくださる時に、このような心になることが可能になるのです。聖霊様を求めていきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2017年9月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛から生まれる敬虔さ  up 2017.9.10


主題聖句(第1テサロニケ2:10)
また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。

 

 

 

 第1ペテロの手紙に、信仰はどのようなものの上に建て上げられていくのかという中で「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を…」と記されています。

 先週は忍耐についてお話しいたしました。神様の忍耐は私達にとっての救い、希望であり、忍耐して下さっている間に少しでもキリストの姿に変えられていくように励んでいきましょうということでした。
 この忍耐は単なる我慢ではなく、敬虔さを含んでいないといけません。今週は、神様がおっしゃっておられる本当の敬虔さは愛から生まれるものであるということを、見ていきたいと思います。

 第1テサロニケの手紙2章には、パウロがギリシャのテサロニケという町でイエス様を伝えた働きの証、パウロの福音宣教が確かに受け止められたという証拠として教会が出来上がったことが記されています。
 教会というのは救い主イエスキリストを信じる人々の集まりです。イエス様のことは聞いたけれど、教会に行くのはあまり…とか、イエス様は好きだけど教会の人は・・・とか、中にはそういう人もいるわけです。そんな中で特に伝えた者たちは、信じた人々がさらにイエス様に近づくようにと、その模範となっていくことが必要です。
 その模範であるべきパウロたちは「敬虔にふるまった」と書いてあります。人々はたとえ性格の合わない者同士、好き嫌いがあったとしても、キリストを信じる信仰、神様の愛の内を歩むという共通の一つのことを通して、共に神の御国に向かって歩んでいく一つの群れとなることができるのです。
 互いに敬虔な心をもって、この教会生活、神の家族としての関係、営みを続けていく、その模範としてパウロたちはしっかりとテサロニケの人々に、福音を伝えただけで終わらず、その実をもって、その良き知らせの確かさを示したというふうに記されているわけです。
 では、このようなテサロニケの人々にもわかるような、パウロ達の敬虔さというのは、どのような形として表れていたのかということを見ていきたいと思います。

1.誠実さによる福音宣教(第1テサロニケ2:5)
「ご存知の通り、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。」

 パウロたちのキリストを伝える内なる姿勢・気持ちは、
★私利私欲から福音を伝えたのではない。
★神の前における正しい良心からの福音宣教である。
★純粋にキリストを伝えた         
 ということであります。
 当時ギリシャでは哲学も発展し、多くの神々もまつられ、宗教家はビジネスとして利益となるように自分の生活の為に活動しているということが多く見受けられていました。当時の教会でも、ユダヤ教徒の中からイエスを信じていく人々が多くおり、特にレビ人の祭司たちにとって、旧約聖書の教えの中に記されているメシアがこの地上に来られて、旧約の神様の約束を成就して救いを完成するというキリスト教の教えは、彼らの得意分野でもあり、そこで、自分の肩書を利用して利得を得るような宗教家が多く見受けられたわけです。
 しかし、テサロニケの人々はパウロを通して伝えられたイエス・キリストが信頼できるものと感じたからこそ、パウロの語る教えの中に留まっていたということが出来ると思います。パウロが私利私欲がなく、本当に純粋にキリストを伝えているという内なる思いが、にじみ出るような、そういう福音の伝え方をしていたということができます。愛から生まれる敬虔さの一番目に、誠実さによって神様の良き訪れ、キリストを純粋に伝えていくという条件があると思います。

2.謙虚なふるまい(第1テサロニケ2:6)
「また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」

★権威のある立場を用いなかった
★同じ目線から福音を伝えた

 先ほどのユダヤ教からキリスト教に改心したレビ人の祭司たちは自分がもといたユダヤ教の地位、立場、権威というものの雰囲気を出していたわけですが、パウロたちはそうではありませんでした。使徒としての権威を主張することもできました。イエス様と出会ったあの証を聞いただけでも「えらい人なのだ」と人は思うでしょう。
 しかし、そうはしませんでした。ごく普通の一人の社会人として、テサロニケに来てキリストを伝えました。謙虚なふるまいです。人々から尊敬されるものを持っていても、それを出さずに気付かれずに、ごく普通に地域の人々とともに社会生活を送ることを通して、キリストを伝えたのです。   
 同じ立場、同じ目線で、同じ気持ち、同じ社会生活の中で、対等に交わりを持つ、そこから伝えられるキリストの福音というものは受け入れられやすく、キリストを信じて歩む信仰がいかに幸せであるかを自然に証することができるのです。

3.母のような優しさ(第1テサロニケ2:7)
「それどころか、あなたがたの間で、母がその子供たちを養い育てるように、優しくふるまいました。」

★子供を養い育てる母の優しさ
★忍耐強い母の優しさ

 父は厳しく子どもを鍛え、母はその厳しさにくじけかけた時に支えてあげる、子育ては両方が必要ですが、パウロは福音を伝えることにおいて、母のような優しさをもって養い育てる「優しいふるまい」をもって接しました。あきらめず励まし続けました。愛による敬虔さの中には母のような優しさがある、というのが三つ目の条件です。

4.愛する存在として受け入れる(第1テサロニケ2:8)
「このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけでなく、私たち自身のいのちまでも、喜んで与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」

★交わりを通して、愛おしむ心が育つ。
★わが子のように思えるようになる。
★福音によって新しく生まれた霊的子供である。

 パウロたちは一般の人々と共に生活しながら、普段の交わりを通してテサロニケの人々に対して愛おしむ心が育っていったのではないでしょうか。そして、いつのまにかわが子のように思えるようになった。テサロニケの人々の魂の救いのために、神の国に最後まで導かれるように、という思いをもって、母親のような優しさをもって接するようになっていった。この優しさというのは神を畏れる敬虔な心があれば生まれてくる優しさであります。そして、キリストを信じる心が与えられたテサロニケの人々に対して、パウロは霊的なわが子として愛おしむ心が与えられて、自分の命までも喜んで与えたいと思う程に、心が愛にあふれていたということがうかがえます。
 私たちが神様の愛を受けて愛があふれてくると、人を尊ぶという心が自然に出てきます。なぜなら神様は私を尊んでいて下さるという愛を感じるからです。そしてその神様から受けた愛を通して神の前に敬虔な心がうまれます。その敬虔さから謙虚な行動が生まれ、その謙虚さは人を敬います。人を見れば自分より優れた人と思いなさいという謙虚な敬虔な心から人を見るようになるからです。そしてその人々と交わっているうちに愛があふれてきます。そこでイエス・キリストを信じて頂ければ、それは信仰による自分の霊的な子供としてもっと愛おしく思えるようになり、そして母のような優しさをもって養い育てていくことが出来る、という流れを見ることが出来ると思います。 

5.愛の敬虔さ(第1テサロニケ2:9)
「兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに延べ伝えました。」

★子供を養い育てる親の愛
★育てる苦労と苦闘を続ける姿

 子どもを養い育てる親の愛のような心があふれてくると、育てる労苦と苦闘を続けることができるようになります。パウロたちのそのような姿を見てテサロニケの人々は、自分達を神の子として育てて下さっているんだなあと実感し、パウロ達の労苦と苦闘を見ることを通して愛と敬虔さを感じ取ることができるようになったと言えます。
 愛による敬虔さというものは楽なことではありません。忍耐というのはあきらめないということですから、そのような愛から出てくるきよい敬虔さを伴ってこそ、忍耐は長続きするのです。そのためにも親の労苦と苦闘を子が見て育つということは大事です。
 恩着せがましく言うという意味ではなく、親の背中を見て育つということです。自分の子供でなくても、育てるという立場であるなら、普段の生活の中に、労苦と苦闘がおのずと見えてくるものです。しかし、子どもの中にも親の労苦と苦闘を感じない子どももいます。親の心子知らずといいますね。親は自分が子どもから大人に育ってくる過程で、自分の経験から人がどんな複雑な思いを持つかということを理解して、今は忍耐して愛を表わそうとします。そうして落ち着いた子供は自分がいかに苦労をかけたかを知るのです。反抗のガス抜きをした後、はっと我に帰り、親に迷惑をかけたと思うのです。その思いだけでも敬虔な心につながっていきます。親を敬うことができるなら、神を敬うことにつながるからです。
 神様は十戒のなかで、神を畏れ敬い、人に対してはまず「あなたの父母を敬いなさい」と記されております。神様を敬うというのは、親を敬うことのできない人には多分理解できないと思います。親心が見えるということは、父なる神様の、出来の悪い子どもに対する親心が見えるということです。どんな思いや気持ちで、どうにもならない出来の悪い子を育てているかという、愛による労苦と苦闘を感じ取ることができる子ども心、それを神様に対して持つことが出来たら、どんなに労苦と苦闘をもって私たちの罪の贖いの為の33年の人生を送って下さったか、それがわかると思います。
 見える親を尊敬し、敬うことができなかったら、見えない霊の父を本当の意味で尊敬することは難しいと思います。しかし、出来ないわけではありません。悪い親だったから傷ついて反抗してしまって心歪んでしまったという人もいるでしょう。たとえそうでであっても、神様の愛、十字架の愛を通して、神様の愛の労苦と苦闘を知ったならば、そこで本当の神様の愛を知ることができるわけですから、心が癒されると言えると思います。

 以上の五つのことを、愛から生まれる敬虔さの証として、とらえていただければと思います。そのような心をもって福音は全世界に伝えられていきました。首狩り族であった人でも福音を信じるに至ったという、この二千年間のキリスト教の歴史の中で、実を結んできました。伝えられても、受け入れるか受け入れないかは、それぞれの自由意志にゆだねられていると思いますが、幸いなことに私たちはイエス様を信じることができました。その中には愛から生まれる敬虔なクリスチャンたちの福音宣教、キリストの証を語って下さったその結果としてイエス・キリストを信じる信仰へと心が動かされたのではないかと、 そのように想像することもできます。理屈でイエス様を信じても続きません。愛が唯一、心を神様に向けることのできる力となるのです。

【デボーション参考ポイント】                  
父なる神、救い主イエス・キリストにも見られる愛の敬虔さに触れることが出来れば、愛から生まれる敬虔さを持つことが出来る

 今日の五つのポイントから、イエス様もそうだったのだというものを見つけてください。
 一つ、ヒントとして、イエス様は権威権力を主張されませんでした。神の御子としていくらでも権威を主張することが出来たのに、私たちと同じ目線に下ってこられて私たちの普段の生活の中で神様の愛、福音を伝えられたという点ですね。
 そのことを思いみる時に、私たちの霊、魂も愛から生まれる敬虔さに触れて、私たちも謙虚に心が変えられていくと思います。

【川柳】  
   あきらめず  育てる労苦  続けるは
      我欲にあらず  敬虔な愛

 子育てをあきらめる人が最近多くなっています。子どもの為に労苦・苦闘するのは、まるで損、無駄のように感じてしまう親たちが増えてきています。忍耐がないということでしょうね。子育てをする労苦は我欲によらず、敬虔な愛によって続けられるということですね。
 今週も素晴らしい神様の愛を通して私たちの心も、愛から生まれる敬虔さを努力して持とうとするのでなく、神様の愛に触れて敬虔な心を内側に育てていくように主の前に求めていく一週間としてまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2017年9月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛による忍耐は救い  up 2017.9.3


主題聖句(第2ペテロ3:15a)
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。

 

 

 

 神様の愛は忍耐強い愛です。しかし忍耐強い愛は、忍耐強くない人にとってはイライラの原因になったり、持続力のない人には諦めになったりします。ただし「愛」は忍耐強いものなのです。逆に忍耐強いということは、そこに愛があるということになります。
 神様が忍耐強いということには、救いという目的があるからです。その救いのために、神様は愛をもってその忍耐を働かせておられるのですから、約束の再臨の時はどうなったのかとか時間を気にして神様の約束を疑わないようにしましょう。

●愛による忍耐の望み(第2ペテロ3:9)
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 」
 もし10人くらいのグループで近場の美術館に出かけるために、教会に10時に集合して、バスに乗って行くことにするとします。予定として10時15分のバスに乗ろうと決めます。その時、グループのなかに時間にルーズな人がいて、一人だけ10時20分になってしまうという電話がかかってきたとします。
 無理に15分に乗らなくても何本もバスがあるのだから、みんなで行くことが目的であるから待ちましょうということになります。
 しかし、定期的に遅れる人がある一方で遅れてはいけないと厳しく考える人もいます。その人は15分とバスの時間は決めたのだから、そのバスに乗って先に行くべきだと主張します。確かにそれはルールにそった正しい意見かもしれません。
 こうなるとこのグループのリーダーはどうすればよいのか心が痛むでしょう。15分のバスに乗るのは手段にすぎず目的ではないはずです。
 確かにきっちりと時間を守るということは信頼できる良いことです。しかし時間をきっちりと守ることによって一致を壊してしまうなら、本来のみんなで楽しく一緒に出かけるという目的は守られなくなってしまいます。
 ただしこれが飛行機だと話は変わります。一人を待つために全員が乗れなくなってしまい、目的地にも着けなくなってしまいます。
 ですから色々な状況を把握して、何を優先するべきかを決める必要があります。神様は愛を優先して決められます。ですから予定は立てても、時間はずらされることがあります。
 
 イエス・キリストの再臨は、聖書の記述から大体は予想ができますが、きっちりとは予測できないのです。何故なら神様が決定されるからです。イエス・キリストが誕生されてから2000年後なのか、公生涯を始められてから2000年後なのか、天に昇られてからなのかの予想はできます。
 先週学んだテサロニケの教会の人々は2000年後とは思わず、もう間もなく来られると待ちわびて、日々互いに励まし合い愛し合う生活をして、その様子が周りの人々に証しとなりました。
 今、私たちは再臨を聖書から予想はできますが、その予想も外れることがあります。何故なら、神様の愛による望みは「すべての人が悔い改めて救いに入る」ということだからです。
 すべての人がということは、出来る限りひとりでも真理に目覚めて神様の愛に気づいて悔い改めて救いに入るなら、それまでは待ち続けられるということです。一人も悔い改める人がいなくなったと神様が確信し判断されたら、その時イエス様の再臨があるでしょう。
 この世はますます経済による欲望があふれ、愛よりも欲を優先するように人々は引き込まれていっています。犯罪もどんどん増加しています。それは以前よりも人の欲を誘うものが増えてきているからです。
愛なる神様から引き離そうという罪の力が増しているので、いずれ神様に心を向けて悔い改めようとする人が一人もいなくなるという日がくるのは確かなことです。
 欲望が強い時にどれほど悔い改めを説いても、頭では理解しても心から悔い改めることはできないものなのです。
 ある程度怒りをがまんしていても、もう一言妻が言ったために逆上してしまい、離婚になってしまうとか、そういう失敗を繰り返し、どうせ自分は駄目だとただ諦めてしまう、これも悔い改めを拒む姿勢です。
 世界中で誰ひとり神の前に心を入れ替えて立つ人がひとりもいなくなるという恐ろしい時代が来ます。おとなしく敬虔に生きることが損であるというイメージを世の中は与え続けています。
 
 クリスチャンも悔い改めないかたくなな心にならないよう気をつけましょう。神様は憐れみにより、再臨のスケジュールを遅らせてくださっているのです。ただし、いつまでも延ばされる訳ではありません。神様の忍耐は自分のためでもあると思い、神様の前にもっと敬虔な生き方を心がけていきましょう。

●愛による忍耐は批判を受けやすい(第2ペテロ3:3−4)
「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

●愛による忍耐は誤解を受けやすい(第2ペテロ3:5−7)
「こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」
 
 この批判する人や誤解をする人の根本的姿勢は今再臨がやってこないという自分中心のスケジュールでしか考えていないということです。
 まるで、10時15分のバスに乗らなかったことにいらだち、みんなで行こうという計画そのものが良くなかったと批判して、時間を守れないなら、そもそもみんなで行くという目的である楽しみ自体が楽しみではなかったと批判することで、みんなの心を汚してしまったり、誤解させていくようなものです。
 神様は時間を守られないのではなく、決めておられないということです。イエス様は再び帰ってこられると言われましたが、いつ帰って来られるかは神様の計画次第です。
 時間を伸ばされる理由は、批判したり誤解したりするような人々も悔い改めて、神様に信頼して悔い改めるようになるためかもしれません。尊敬している神様のスケジュールに合わせて考えましょう。忍耐という期間を通して試されているのかもしれません。

●愛をもって忍耐する日々(第2ペテロ3:13−14)
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」
 
 どのような姿勢で忍耐の時を過ごすのでしょうか。それは、待ち望みながら、しみも傷もない者として、平安をもって出られるように…ですから、時間が伸びるなら、その時をもちいて、さらに自分磨きに心がけることができると捉えて、少しでも自分の内側を吟味して、さらにきよめられるように努めていくことです。時間が与えられるということは本当はありがたいことなのです。救われていない人だけでなく、もう救われている人のためにも神様の忍耐の時間は価値のある時間です。

【デボーション参考ポイント】
もし、忍耐せず、諦めてしまったなら、あなたの周りの人々はどのように思うでしょう。

 クリスチャンが再臨を待ち望むのを諦めてしまったような態度をとったら、周りの人々はなおさら創造主なる神様がおられるということが信じられなくなります。単に御利益宗教の神様と同じようにしか、周りの人々は感じられなくなるでしょう。
 決して諦めないで再臨を待ち望んでいましょう。一度地上に来てくださったことによって約束を果たされたイエス様は、必ず再び来てくださいます。その証拠は歴史的な事実である十字架です。信じるとは心を開くということです。そこに神様の愛が流れてきます。
 
【俳句】
「秋刀魚焼く 香りは忍耐 試される」

 この世の時短の生活に影響されないようにしましょう。神様は時間を延ばしておられます。
 罪の世界は神様の思いと反対に働き、忍耐させないように人々の心に働きかけています。しかし、私たちは神様の愛による忍耐に目を向けて、再臨を熱心に待ち望む姿勢で日々励んでいきましょう。