■2017年9月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 あわれみは肝心(2)  up 2017.9.24


主題聖句(ルカ6:36)
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

 

 

 

 

 

 

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■2017年9月17日 日曜礼拝メッセージより(辻和希伝道師、横路伝道師)

 あわれみは肝心  up 2017.9.17


主題聖句(ルカ6:36)
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。

 

 

 

【辻 和希伝道師メッセージ】
A)神のあわれみについて (マタイ18:23-35)
このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 今週は神様のあわれみについて、聖書から見ていきたいと思います。マタイ18章23節から35節に、神様のあわれみについて良くわかる例え話があります。
 ここでは、一万タラントの借金をゆるされたしもべが登場します。一万タラントとは、日本円で数千億円という金額に相当します。人が一生では絶対に返せない負債ということがおわかりだと思います。そのような負債を主人は全額免除してやりました。私たち人も、神様の前に絶対に返すことのできない「罪」という負債を負っていましたが、今はそれが全て赦されています。これが、神様のあわれみです。しかも、神様は大きな損失を負ってくださいました。イエス様の十字架の贖いです。そこまでして、私たち人を罪の負債から解放してくださったのは、ただただあわれみによるのです。どうして、人にそこまでのあわれみを向けるこ とをなさるのでしょうか。それは、私たちが、被造物の中でも神様に似せて創造された、神様にとって特別な存在だからです。
 この例え話の後半では、一万タラント赦されたしもべは、百デナリを貸している仲間に会うと、「借金を返せ」と迫り、牢に投げ入れてしまうという行動が描かれています。百デナリとは、一万タラントに比べたら何でもない金額です。一万タラントも赦されたのだから、百デナリくらい、あわれみを示すのは簡単ではないのか、と私たちは考えるでしょう。しかし、イエス様はこの例え話で、あわれみを示したしもべを描きませんでした。私たちがどれだけあわれまれても、人をあわれむことがどれほど難しいかをイエス様は教えておられるのです。神様のあわれみは、人に対して示されたことで終わったのではなく、私たちが互いにあわれみ合うことで完成するのです。神のあわれみを受けた者同士 が、互いにあわれみ合うことを神様は願っておられます。

【横路伝道師メッセージ】
B.あわれむことの大切さ
1)ルカ6:37
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」
 主題聖句のルカ6:36「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」の次のみことばです。
 「さばいてはいけません。」とは、自分が罪人であったのに、神様の大きなあわれみのゆえにさばかれないで赦されたということが前提にあります。だから自分も人をさばかないようにということです。また、自分も大きなあわれみのゆえに罪に定められなかったように、回りの人も罪に定めず、赦しなさいと言われています。
 (マタイ5:7)には、「あわれみ深い人は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」とあります。もしあわれみがなければ、私たちはここに生きていません。ここに来ることもできません。あわれみがなければ、私たちは滅びてしまう者でした。あわれみは天の神様の本質であり、私たちは神様の子どもですから、私たちもその本質を持っているのです。

 しかし、なぜ私たちはあわれみが少ない者なのでしょうか。自分はあわれみを受けていることに気づいていないのか、知らないのでしょうか。自分のことに精いっぱいで余裕がないということもあるでしょう。他の人の不幸を見ても、他人事と考えて無関心であることはないでしょうか。無関心はあわれみと反対のものです。
 
 私たちはあわれみを受けた者として、感動を持って生きているでしょうか。あわれんでくださった神様に感謝することはできます。そのあわれみを、どうやって神様にお返ししたらいいのでしょうか。私たちの方から神様をあわれむということはできません。私たちがあわれむことができるのは、隣人です。神様は、もう一万タラント赦したのだから、それは神様には返さなくてもいいので、その代わり周りの人々をあわれんで欲しいと言われているのです。
 
 どのような隣人をあわれむことができるでしょうか。苦しんでいる人、悩んでいる人、病気のある人、絶望している人、助けを必要としている人、叫んでいる人もいます。どのような助けができるでしょうか。3つ考えてみました。
 1つ目は、とりなしの祈りをすることです。あわれみの心がなければとりなしの祈りをすることはできません。
 2つ目は、与えることです。自分にはあげられるものは何もないという方もいるでしょう。しかし、私たちには、祈りや笑顔、優しい言葉をかけることもできます。優しい心で手を差し伸べることができます。物やお金がなくても、これらのものをあわれみによって与えることができるのです。
 3つ目は、最も私たちがあわれんで差し上げることができるのは、福音を伝えることです。これは最高のあわれみのプレゼントです。
 私には福音をうまく語ることができないという方もおられますが、何かの形でできるはずです。例えば、ラジオの福音放送の「世の光」の番組を紹介することならできると思います。そのように色々な福音を語る方法があるはずです。

 私たちは、そのあわれみの中に法則を見出すことができます。もし、あわれみを持たずに、自分が生きるためにしょうがないと言って他の人を無視し、自分勝手な生き方をしていくならば、最後には全ての人が滅びます。逆に、人がもしあわれみをもって隣人を生かすために愛を注いでいくならば、最後は全ての人が生きるのです。
 サタンは私たちの自己中心、自己保全に働いて、あわれみを閉ざそうとさせてきます。ごまかされないようにしましょう。

2)マタイ25:40b
「・・・あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
 私たちは、誰かに愛とあわれみを注ぐということは、実はイエス様が愛しておられる魂に、もっと言えばイエス様ご自身にしていることであるということです。
 イエス様ご自身が、いつもあわれみの動機で全ての行動をされたことが福音書に記されています。魂をあわれみ、病人を癒し、泣く者と共に泣き、奇跡を起こされました。誰も触れようとしなかった病人に、あわれみをもって触れて癒されました。十字架につけられましたが、その十字架につけた人々をもあわれんで、「彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈られました。私たちの心の中に、同じあわれみを神様は与えてくださっています。

 ある人が語りました。電車の中で周りの人々を見回した時に、その人はクリスチャンでしたが、ほとんどの人がノンクリスチャンですので、「汚れた罪人ばかりが乗っているんだなぁ」と、愚かに見えたそうです。ところがその人は思い直し、「そのように見てはいけない、どの人もイエス様に愛されている、救われるべき人なのだ」と思い直して、もう一度車内を見渡しました。そうすると、人々は皆愛すべき尊い人に見えてきたそうです。あわれみの心が湧いてきたのです。

 イエス様は「わたしの兄弟にしたのは、わたしにしたのです」と言われました。マザーテレサの言葉を紹介します。「わが主イエス様。愛する主よ。いつもあなたが愛しておられる病いの人一人ひとりの内にあなたを見出すことができますように。そのあなたに仕えていくことができますように。いらいらさせられる人や、気難しい人、理屈に合わないことを言う人の表面に隠れているあなた、イエス様を見つけて、こう言えますように。『私の主、イエス様。あなたに仕えることはなんと楽しいことでしょう。』」

 聖霊様が助けてくださる時に、このような心になることが可能になるのです。聖霊様を求めていきたいと思います。

 

 

 

 

 

■2017年9月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛から生まれる敬虔さ  up 2017.9.10


主題聖句(第1テサロニケ2:10)
また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。

 

 

 

 第1ペテロの手紙に、信仰はどのようなものの上に建て上げられていくのかという中で「信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を…」と記されています。

 先週は忍耐についてお話しいたしました。神様の忍耐は私達にとっての救い、希望であり、忍耐して下さっている間に少しでもキリストの姿に変えられていくように励んでいきましょうということでした。
 この忍耐は単なる我慢ではなく、敬虔さを含んでいないといけません。今週は、神様がおっしゃっておられる本当の敬虔さは愛から生まれるものであるということを、見ていきたいと思います。

 第1テサロニケの手紙2章には、パウロがギリシャのテサロニケという町でイエス様を伝えた働きの証、パウロの福音宣教が確かに受け止められたという証拠として教会が出来上がったことが記されています。
 教会というのは救い主イエスキリストを信じる人々の集まりです。イエス様のことは聞いたけれど、教会に行くのはあまり…とか、イエス様は好きだけど教会の人は・・・とか、中にはそういう人もいるわけです。そんな中で特に伝えた者たちは、信じた人々がさらにイエス様に近づくようにと、その模範となっていくことが必要です。
 その模範であるべきパウロたちは「敬虔にふるまった」と書いてあります。人々はたとえ性格の合わない者同士、好き嫌いがあったとしても、キリストを信じる信仰、神様の愛の内を歩むという共通の一つのことを通して、共に神の御国に向かって歩んでいく一つの群れとなることができるのです。
 互いに敬虔な心をもって、この教会生活、神の家族としての関係、営みを続けていく、その模範としてパウロたちはしっかりとテサロニケの人々に、福音を伝えただけで終わらず、その実をもって、その良き知らせの確かさを示したというふうに記されているわけです。
 では、このようなテサロニケの人々にもわかるような、パウロ達の敬虔さというのは、どのような形として表れていたのかということを見ていきたいと思います。

1.誠実さによる福音宣教(第1テサロニケ2:5)
「ご存知の通り、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。」

 パウロたちのキリストを伝える内なる姿勢・気持ちは、
★私利私欲から福音を伝えたのではない。
★神の前における正しい良心からの福音宣教である。
★純粋にキリストを伝えた         
 ということであります。
 当時ギリシャでは哲学も発展し、多くの神々もまつられ、宗教家はビジネスとして利益となるように自分の生活の為に活動しているということが多く見受けられていました。当時の教会でも、ユダヤ教徒の中からイエスを信じていく人々が多くおり、特にレビ人の祭司たちにとって、旧約聖書の教えの中に記されているメシアがこの地上に来られて、旧約の神様の約束を成就して救いを完成するというキリスト教の教えは、彼らの得意分野でもあり、そこで、自分の肩書を利用して利得を得るような宗教家が多く見受けられたわけです。
 しかし、テサロニケの人々はパウロを通して伝えられたイエス・キリストが信頼できるものと感じたからこそ、パウロの語る教えの中に留まっていたということが出来ると思います。パウロが私利私欲がなく、本当に純粋にキリストを伝えているという内なる思いが、にじみ出るような、そういう福音の伝え方をしていたということができます。愛から生まれる敬虔さの一番目に、誠実さによって神様の良き訪れ、キリストを純粋に伝えていくという条件があると思います。

2.謙虚なふるまい(第1テサロニケ2:6)
「また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」

★権威のある立場を用いなかった
★同じ目線から福音を伝えた

 先ほどのユダヤ教からキリスト教に改心したレビ人の祭司たちは自分がもといたユダヤ教の地位、立場、権威というものの雰囲気を出していたわけですが、パウロたちはそうではありませんでした。使徒としての権威を主張することもできました。イエス様と出会ったあの証を聞いただけでも「えらい人なのだ」と人は思うでしょう。
 しかし、そうはしませんでした。ごく普通の一人の社会人として、テサロニケに来てキリストを伝えました。謙虚なふるまいです。人々から尊敬されるものを持っていても、それを出さずに気付かれずに、ごく普通に地域の人々とともに社会生活を送ることを通して、キリストを伝えたのです。   
 同じ立場、同じ目線で、同じ気持ち、同じ社会生活の中で、対等に交わりを持つ、そこから伝えられるキリストの福音というものは受け入れられやすく、キリストを信じて歩む信仰がいかに幸せであるかを自然に証することができるのです。

3.母のような優しさ(第1テサロニケ2:7)
「それどころか、あなたがたの間で、母がその子供たちを養い育てるように、優しくふるまいました。」

★子供を養い育てる母の優しさ
★忍耐強い母の優しさ

 父は厳しく子どもを鍛え、母はその厳しさにくじけかけた時に支えてあげる、子育ては両方が必要ですが、パウロは福音を伝えることにおいて、母のような優しさをもって養い育てる「優しいふるまい」をもって接しました。あきらめず励まし続けました。愛による敬虔さの中には母のような優しさがある、というのが三つ目の条件です。

4.愛する存在として受け入れる(第1テサロニケ2:8)
「このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけでなく、私たち自身のいのちまでも、喜んで与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。」

★交わりを通して、愛おしむ心が育つ。
★わが子のように思えるようになる。
★福音によって新しく生まれた霊的子供である。

 パウロたちは一般の人々と共に生活しながら、普段の交わりを通してテサロニケの人々に対して愛おしむ心が育っていったのではないでしょうか。そして、いつのまにかわが子のように思えるようになった。テサロニケの人々の魂の救いのために、神の国に最後まで導かれるように、という思いをもって、母親のような優しさをもって接するようになっていった。この優しさというのは神を畏れる敬虔な心があれば生まれてくる優しさであります。そして、キリストを信じる心が与えられたテサロニケの人々に対して、パウロは霊的なわが子として愛おしむ心が与えられて、自分の命までも喜んで与えたいと思う程に、心が愛にあふれていたということがうかがえます。
 私たちが神様の愛を受けて愛があふれてくると、人を尊ぶという心が自然に出てきます。なぜなら神様は私を尊んでいて下さるという愛を感じるからです。そしてその神様から受けた愛を通して神の前に敬虔な心がうまれます。その敬虔さから謙虚な行動が生まれ、その謙虚さは人を敬います。人を見れば自分より優れた人と思いなさいという謙虚な敬虔な心から人を見るようになるからです。そしてその人々と交わっているうちに愛があふれてきます。そこでイエス・キリストを信じて頂ければ、それは信仰による自分の霊的な子供としてもっと愛おしく思えるようになり、そして母のような優しさをもって養い育てていくことが出来る、という流れを見ることが出来ると思います。 

5.愛の敬虔さ(第1テサロニケ2:9)
「兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに延べ伝えました。」

★子供を養い育てる親の愛
★育てる苦労と苦闘を続ける姿

 子どもを養い育てる親の愛のような心があふれてくると、育てる労苦と苦闘を続けることができるようになります。パウロたちのそのような姿を見てテサロニケの人々は、自分達を神の子として育てて下さっているんだなあと実感し、パウロ達の労苦と苦闘を見ることを通して愛と敬虔さを感じ取ることができるようになったと言えます。
 愛による敬虔さというものは楽なことではありません。忍耐というのはあきらめないということですから、そのような愛から出てくるきよい敬虔さを伴ってこそ、忍耐は長続きするのです。そのためにも親の労苦と苦闘を子が見て育つということは大事です。
 恩着せがましく言うという意味ではなく、親の背中を見て育つということです。自分の子供でなくても、育てるという立場であるなら、普段の生活の中に、労苦と苦闘がおのずと見えてくるものです。しかし、子どもの中にも親の労苦と苦闘を感じない子どももいます。親の心子知らずといいますね。親は自分が子どもから大人に育ってくる過程で、自分の経験から人がどんな複雑な思いを持つかということを理解して、今は忍耐して愛を表わそうとします。そうして落ち着いた子供は自分がいかに苦労をかけたかを知るのです。反抗のガス抜きをした後、はっと我に帰り、親に迷惑をかけたと思うのです。その思いだけでも敬虔な心につながっていきます。親を敬うことができるなら、神を敬うことにつながるからです。
 神様は十戒のなかで、神を畏れ敬い、人に対してはまず「あなたの父母を敬いなさい」と記されております。神様を敬うというのは、親を敬うことのできない人には多分理解できないと思います。親心が見えるということは、父なる神様の、出来の悪い子どもに対する親心が見えるということです。どんな思いや気持ちで、どうにもならない出来の悪い子を育てているかという、愛による労苦と苦闘を感じ取ることができる子ども心、それを神様に対して持つことが出来たら、どんなに労苦と苦闘をもって私たちの罪の贖いの為の33年の人生を送って下さったか、それがわかると思います。
 見える親を尊敬し、敬うことができなかったら、見えない霊の父を本当の意味で尊敬することは難しいと思います。しかし、出来ないわけではありません。悪い親だったから傷ついて反抗してしまって心歪んでしまったという人もいるでしょう。たとえそうでであっても、神様の愛、十字架の愛を通して、神様の愛の労苦と苦闘を知ったならば、そこで本当の神様の愛を知ることができるわけですから、心が癒されると言えると思います。

 以上の五つのことを、愛から生まれる敬虔さの証として、とらえていただければと思います。そのような心をもって福音は全世界に伝えられていきました。首狩り族であった人でも福音を信じるに至ったという、この二千年間のキリスト教の歴史の中で、実を結んできました。伝えられても、受け入れるか受け入れないかは、それぞれの自由意志にゆだねられていると思いますが、幸いなことに私たちはイエス様を信じることができました。その中には愛から生まれる敬虔なクリスチャンたちの福音宣教、キリストの証を語って下さったその結果としてイエス・キリストを信じる信仰へと心が動かされたのではないかと、 そのように想像することもできます。理屈でイエス様を信じても続きません。愛が唯一、心を神様に向けることのできる力となるのです。

【デボーション参考ポイント】                  
父なる神、救い主イエス・キリストにも見られる愛の敬虔さに触れることが出来れば、愛から生まれる敬虔さを持つことが出来る

 今日の五つのポイントから、イエス様もそうだったのだというものを見つけてください。
 一つ、ヒントとして、イエス様は権威権力を主張されませんでした。神の御子としていくらでも権威を主張することが出来たのに、私たちと同じ目線に下ってこられて私たちの普段の生活の中で神様の愛、福音を伝えられたという点ですね。
 そのことを思いみる時に、私たちの霊、魂も愛から生まれる敬虔さに触れて、私たちも謙虚に心が変えられていくと思います。

【川柳】  
   あきらめず  育てる労苦  続けるは
      我欲にあらず  敬虔な愛

 子育てをあきらめる人が最近多くなっています。子どもの為に労苦・苦闘するのは、まるで損、無駄のように感じてしまう親たちが増えてきています。忍耐がないということでしょうね。子育てをする労苦は我欲によらず、敬虔な愛によって続けられるということですね。
 今週も素晴らしい神様の愛を通して私たちの心も、愛から生まれる敬虔さを努力して持とうとするのでなく、神様の愛に触れて敬虔な心を内側に育てていくように主の前に求めていく一週間としてまいりましょう。

 

 

 

 

 

■2017年9月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

 愛による忍耐は救い  up 2017.9.3


主題聖句(第2ペテロ3:15a)
また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。

 

 

 

 神様の愛は忍耐強い愛です。しかし忍耐強い愛は、忍耐強くない人にとってはイライラの原因になったり、持続力のない人には諦めになったりします。ただし「愛」は忍耐強いものなのです。逆に忍耐強いということは、そこに愛があるということになります。
 神様が忍耐強いということには、救いという目的があるからです。その救いのために、神様は愛をもってその忍耐を働かせておられるのですから、約束の再臨の時はどうなったのかとか時間を気にして神様の約束を疑わないようにしましょう。

●愛による忍耐の望み(第2ペテロ3:9)
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 」
 もし10人くらいのグループで近場の美術館に出かけるために、教会に10時に集合して、バスに乗って行くことにするとします。予定として10時15分のバスに乗ろうと決めます。その時、グループのなかに時間にルーズな人がいて、一人だけ10時20分になってしまうという電話がかかってきたとします。
 無理に15分に乗らなくても何本もバスがあるのだから、みんなで行くことが目的であるから待ちましょうということになります。
 しかし、定期的に遅れる人がある一方で遅れてはいけないと厳しく考える人もいます。その人は15分とバスの時間は決めたのだから、そのバスに乗って先に行くべきだと主張します。確かにそれはルールにそった正しい意見かもしれません。
 こうなるとこのグループのリーダーはどうすればよいのか心が痛むでしょう。15分のバスに乗るのは手段にすぎず目的ではないはずです。
 確かにきっちりと時間を守るということは信頼できる良いことです。しかし時間をきっちりと守ることによって一致を壊してしまうなら、本来のみんなで楽しく一緒に出かけるという目的は守られなくなってしまいます。
 ただしこれが飛行機だと話は変わります。一人を待つために全員が乗れなくなってしまい、目的地にも着けなくなってしまいます。
 ですから色々な状況を把握して、何を優先するべきかを決める必要があります。神様は愛を優先して決められます。ですから予定は立てても、時間はずらされることがあります。
 
 イエス・キリストの再臨は、聖書の記述から大体は予想ができますが、きっちりとは予測できないのです。何故なら神様が決定されるからです。イエス・キリストが誕生されてから2000年後なのか、公生涯を始められてから2000年後なのか、天に昇られてからなのかの予想はできます。
 先週学んだテサロニケの教会の人々は2000年後とは思わず、もう間もなく来られると待ちわびて、日々互いに励まし合い愛し合う生活をして、その様子が周りの人々に証しとなりました。
 今、私たちは再臨を聖書から予想はできますが、その予想も外れることがあります。何故なら、神様の愛による望みは「すべての人が悔い改めて救いに入る」ということだからです。
 すべての人がということは、出来る限りひとりでも真理に目覚めて神様の愛に気づいて悔い改めて救いに入るなら、それまでは待ち続けられるということです。一人も悔い改める人がいなくなったと神様が確信し判断されたら、その時イエス様の再臨があるでしょう。
 この世はますます経済による欲望があふれ、愛よりも欲を優先するように人々は引き込まれていっています。犯罪もどんどん増加しています。それは以前よりも人の欲を誘うものが増えてきているからです。
愛なる神様から引き離そうという罪の力が増しているので、いずれ神様に心を向けて悔い改めようとする人が一人もいなくなるという日がくるのは確かなことです。
 欲望が強い時にどれほど悔い改めを説いても、頭では理解しても心から悔い改めることはできないものなのです。
 ある程度怒りをがまんしていても、もう一言妻が言ったために逆上してしまい、離婚になってしまうとか、そういう失敗を繰り返し、どうせ自分は駄目だとただ諦めてしまう、これも悔い改めを拒む姿勢です。
 世界中で誰ひとり神の前に心を入れ替えて立つ人がひとりもいなくなるという恐ろしい時代が来ます。おとなしく敬虔に生きることが損であるというイメージを世の中は与え続けています。
 
 クリスチャンも悔い改めないかたくなな心にならないよう気をつけましょう。神様は憐れみにより、再臨のスケジュールを遅らせてくださっているのです。ただし、いつまでも延ばされる訳ではありません。神様の忍耐は自分のためでもあると思い、神様の前にもっと敬虔な生き方を心がけていきましょう。

●愛による忍耐は批判を受けやすい(第2ペテロ3:3−4)
「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

●愛による忍耐は誤解を受けやすい(第2ペテロ3:5−7)
「こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」
 
 この批判する人や誤解をする人の根本的姿勢は今再臨がやってこないという自分中心のスケジュールでしか考えていないということです。
 まるで、10時15分のバスに乗らなかったことにいらだち、みんなで行こうという計画そのものが良くなかったと批判して、時間を守れないなら、そもそもみんなで行くという目的である楽しみ自体が楽しみではなかったと批判することで、みんなの心を汚してしまったり、誤解させていくようなものです。
 神様は時間を守られないのではなく、決めておられないということです。イエス様は再び帰ってこられると言われましたが、いつ帰って来られるかは神様の計画次第です。
 時間を伸ばされる理由は、批判したり誤解したりするような人々も悔い改めて、神様に信頼して悔い改めるようになるためかもしれません。尊敬している神様のスケジュールに合わせて考えましょう。忍耐という期間を通して試されているのかもしれません。

●愛をもって忍耐する日々(第2ペテロ3:13−14)
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」
 
 どのような姿勢で忍耐の時を過ごすのでしょうか。それは、待ち望みながら、しみも傷もない者として、平安をもって出られるように…ですから、時間が伸びるなら、その時をもちいて、さらに自分磨きに心がけることができると捉えて、少しでも自分の内側を吟味して、さらにきよめられるように努めていくことです。時間が与えられるということは本当はありがたいことなのです。救われていない人だけでなく、もう救われている人のためにも神様の忍耐の時間は価値のある時間です。

【デボーション参考ポイント】
もし、忍耐せず、諦めてしまったなら、あなたの周りの人々はどのように思うでしょう。

 クリスチャンが再臨を待ち望むのを諦めてしまったような態度をとったら、周りの人々はなおさら創造主なる神様がおられるということが信じられなくなります。単に御利益宗教の神様と同じようにしか、周りの人々は感じられなくなるでしょう。
 決して諦めないで再臨を待ち望んでいましょう。一度地上に来てくださったことによって約束を果たされたイエス様は、必ず再び来てくださいます。その証拠は歴史的な事実である十字架です。信じるとは心を開くということです。そこに神様の愛が流れてきます。
 
【俳句】
「秋刀魚焼く 香りは忍耐 試される」

 この世の時短の生活に影響されないようにしましょう。神様は時間を延ばしておられます。
 罪の世界は神様の思いと反対に働き、忍耐させないように人々の心に働きかけています。しかし、私たちは神様の愛による忍耐に目を向けて、再臨を熱心に待ち望む姿勢で日々励んでいきましょう。