|

■2007年8月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
三釜之養 さんぷのよう up
2007.8.26
孔子の弟子の曽子は、わずか三釜〈一斗五升〉分の貧しい給料でも親に孝養ができる時は楽しかったが、後に出世して高給を取るようになっても、親が亡くなったので楽しくないと言ったという故事から、薄給の身で親に孝養を尽くすことを言う。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
(第2コリント5:15)

「キリストのために生きる」とは決して強制ではありません。<そうしなければならない>というのは理論上では正しいのですが、だからといってパッと従えるわけではありません。ではどういう心の思いを持てばいいのでしょうか。それが「三釜之養」という言葉に表されているのです。
「三釜之養」に映し出される、幸せな親子関係を見てください。そこには物質的豊かさとは全く異なる楽しさがあります。
神は何も足りないものはないお方ですが、私たちの父であられるがゆえに、子たる私たちとの交わりを切に願っておられます。しかし、その交わりがなされるかどうかは、私たちの自然で自発的な思いに委ねられているのです。
1.どうして自分のためにではないのでしょう
(ルカの福音書9:24)
“自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自 分のいのちを失う者は、それを救うのです。”
(1)自分のために生きることによるプラスとマイナス面は?
自分のために生きるとは即ち「自己満足」であり、「自己達成」です。全てのことは自分の欲望を満たすためにあります。どんな善良さも親切も、人のために命を捨てることさえも、です。
(2)ルカ9:24は一つの霊的原則です。
この原則は、神を信じる信じないに関わらず、すべての人に適用されます。今まさに、社会の主戦線を離脱しようとしておられる、団塊の世代と呼ばれる人々を見てください。この人々は、自分のためではなく「国の未来のため」に、滅私奉公してこられました。その結果として、日本の経済大国への成長が現在あるのです。
対して、自分のためだけに生きた人々は、商売にしろ、飲酒運転にしろ、自分自身にも社会的にも悪い影響を与えています。自分を守ろうとして人を傷つけるケースなどは、枚挙に暇がないほどです。
2.キリストの死と私たちの誕生
(第1ヨハネの手紙5:1)
“イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれ たのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によ って生まれた者をも愛します。”
(1)イエス様の死には、どのような意味が含まれていますか?
「愛してくださった」「罪が赦されている」等、いろいろな意味がありますが、その中に「信じる私たちを神によって生まれた者としてくださった」ことも、今回欠かせない事柄の一つでしょう。
(2)生んでくださった方と生まれた者との関係を考えてみましょう。
母親と新生児を考えてみましょう。子どもの内にあるのは、無意識の親への信頼と愛情であり、対する母親にも子どもへの愛情と思いが存在します。自分のために生きていては、子育てはできません。子どものための大きな自己犠牲が、子どもを包み育てていくのです。そして親の尊い自己犠牲の中で育った子どもは「親孝行」とう気持ちを持つことができるようになります。
「自分のために」というのが世の中の生き方ですが、クリスチャンでも影響を受ける可能性は大いにあります。影響されると、神のことより自分のこと、自分のためになることなら何でも、という心になってしまいます。例えば、奉仕の内容を自分の損得勘定で選んでいたり、気づかないところで「自分のために」が出ていることはよくあります。もしそのことに気づいたら、神様に「ごめんなさい」と「こんな自分を赦して、受け入れ続けてくださってありがとう」と、感謝してください。罪人である自分を素直に認めることはへりくだりであり、とても大事なことです。さらに「神様に喜ばれる自分へ変わりたい」という願いを持ち、神様に申し上げることができればベストですね。
3.イエス様の生き方
(ヨハネの福音書4:34)
“イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行な い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」”
(1)御父のために生きる御子の喜びと楽しみ。
食事は生き物全ての本能であり、生きている喜びを最大限に感じさせるものでもあります。イエス様は御父のために、御父の喜ばれることを成し遂げようとされました。そして、御父の思いは「実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」だったのです。ですから、イエス様は私たちを愛し、十字架にまで従ってくださいました。それがイエス様の「生きる喜び」であられたのです。
生んでくださった方と生まれた者との強い絆がそこにはあります。父なる神様とイエス様は本質的には同一の方であり、それはあたかも母と子が出産の前に一つであった状態のようです。
(2)あなたにとって『死んでよみがえった方のために生きる』とは?
私たちもイエス様を通して、父なる神様から生まれた者です。それは本質的には一つである、ということです。ならば、心を同じくすることもできるはずです。
今この地にも、未だ目覚めていない私たちの兄弟姉妹が数多くいます。御父はこの人々のためにもイエス様をお与えくださったのです。私たちにそのお心がわかったなら、親の気持ちをかなえたい、と子どもが願うのは至極当然のことでしょう。そしてそれが、「キリストなるイエス」を、未だ目覚めぬ多くの兄姉に伝えさせる原動力となるのです。
生んでくださった方である天の父なる神様に、孝養を尽くすなどおこがましいことです。しかし、イエス様の死によって生まれた私たちは、生んでくださった方との関係が、喜びであり楽しみなのです。

■2007年8月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
開口一番 かいこういちばん up
2007.8.19
口を開いて、話し始めるやいなやということ。
会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。
(使徒13:43)

今日のポイントは「いつまでも神の恵みにとどまっている」ことです。私たちは知的欲求を満たすためだけに教会に来ているのでしょうか。それだけで終わっては意味がありません。パウロとバルナバが、話を熱心に聞いた人々に本当に言いたかったことは、「神の恵みにとどまった生活をするように」ということでした。私たちも、単にメッセージを聞きに来ているというのではなく、今日聞いたこともまた神の恵みであると受け取り、人生のすべてを感謝する心を忘れないようにしたいものです。
私たちの心の姿勢は、ことばの中にも表れてきます。私たちクリスチャンが開口一番に出ることばは何でしょうか。一番多いのは「感謝します」ということばです。でも、単にあいさつ代わりにしていないでしょうか。何に感謝しているのでしょうか。「神の恵みの故に今があります。あなたと再び会えて感謝します。」という思いがこの一言に込められているはずです。その思いを自覚することが大切です。
1.神の恵みを受け取るために(ローマ人への手紙9:20〜22)
“しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造 られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのような ものにしたのですか。」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同 じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらない ことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。ですが、 もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられる のに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐し てくださったとしたら、どうでしょうか。”
(1)言い逆らうことをしない、正しい良心による悟りについて。
神から受けている恵みを、本当に恵みと感じられる悟りを自分の心に持つことが大事です。まず、造られた者と、造った者との関係を知り、わきまえることが必要になります。「あなたはなぜ、私をこのよううなものにしたのですか。」と、造り主に不満をぶつけるような人に、神の恵みを感じることはできません。「恵み」とは無代価で与えられる施しです。しかし、自分の欲しいものが与えられなかったなら、せっかく与えられてもそれを恵みと感じない人々が増えています。私たちも、神様が下さったものが自分が欲しいと思った物と違っていたら、恵みと感じない場合が多いのではないでしょうか。私たちが欲しいと思う前に、もっと大切なものが無代価で与えられています。せっかく神様が大切なものを与えてくださっているのに、それを恵みとも感じず、不平不満を言っているとしたら、与えてくださっている神様はどんなに嘆かれることでしょう。
形造られたものが、形造った者に対して言い逆らうということは、自分が造られた者であるということを理解していないということです。造ってくださった方がおられるから、私がいるのです。自分の欲求を満たすもの以外は全部不満であるというのは、何と高慢なことでしょうか。それは良心が麻痺して自分中心にしか物事を見ることができないということです。造られた者と造った者との関係による悟りこそ、正しい良心による悟りです。どんな人も重要な存在であり、神は人を分け隔てなく大切な存在として造られました。仕事の内容などで人を差別して考えるのは正しいことではありません。
また、ヒューマニズムは人間の権利こそが最優先であると考えます。造った方の権威以上に大切であるとするのです。しかし私たちは造られた者として、造った方の権利を敬う姿勢が大切です。これを正しい良心で悟ることによって「恵み」を感じることができるようになります。神は善人にも悪人にも雨を降らせ、日を輝かせてくださいます。それは人として、すべての人は大切な存在であると認めてくださっているからです。この神の恵みを悟る時、良心的な人は悪から離れ、善に親しむようになろうと努力します。しかしそれにもかかわらず悪を行い続け、神の恵みを踏みにじっていくなら、神は最後の審判で裁きを行われます。正しい良心を麻痺させてしまう欲望に気をつけましょう。
(2)豊かな寛容によって忍耐できる心には何があるのでしょう。
もし小さい子があなたに向かって失礼なことを言っても、その幼さゆえにあなたは忍耐して赦すはずです。それは相手が無知で、まだ正しいことがよくわからないゆえに、あわれみの心を向けられるからです。神が私たちに寛容と忍耐を示されているのは、私たちがまだ未熟なものであるというあわれみのゆえです。イエス様は十字架の上で、ご自身を侮っている周りの人間たちのために、「彼らは何をしているかわからずにいるのです」と祈られました。それらは彼らが無知のゆえに、神の子を十字架につけるという罪を犯しているのをあわれまれたからです。また、私たちが愚かさに気づいて直していくことを、神は期待しておられます。ただ恵みを恵みと感じていないなら、そういう人はいつまでも罪から離れようとしません。恵みを感じる心こそ、罪から離れる力になります。
2.与えられている最大の恵み(ガラテヤ人への手紙2:21)
“私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られると したら、それこそキリストの死は無意味です。”
(1)あなたにとって最大の神の恵みは何でしょう。
また、その理由は?
恵みは私たちの努力では得られないものです。私たちは社会人になるまで親からたくさんの恵みを与えられています。しかもそれは無償で与えられます。同様に私たちも神からたくさんの恵みを無償で受けています。各々が、今、自分にとって何が最大の恵みであるか考えてみてください。ただ、与えられている恵み(社会的なものも)を、損得勘定で考えていたら、いろいろな問題が出てきます。例えば医療費も、年を取ったら無料なので使わないと損とばかりに、たくさんの老人が病院に行ったために、今は有料になってしまいました。こういった損得勘定は、社会の悪循環をもたらします。
すべてを恵みであると感謝して生きるなら、幸せに生きることができます。パウロは、罪赦されて義とされていることが最大の恵みと考えていました。キリストの死によって罪赦され義とされたという自由さ、喜びはどんなに大きいことでしょう。クリスチャンはこの赦しを受けています。すべての犯した罪は赦されます。敬虔な心を持たない損得勘定で動く人は、赦されているんだからいくらでも罪を犯してよいと考えます。しかし、赦しは敬虔な心の人のためにあります。神は最後の審判ですべての人を正しく裁かれます。
3.働きの原動力としての神の恵み(第1コリント人への手紙15:10)
“ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、 私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての 使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私に ある神の恵みです。”
(1)神の恵みによって、どのようなあなたになるでしょう?
これはパウロのことばです。赦されたからといって、自分勝手な生き方に走るのではなく、彼は神の恵みを無駄にせず、神のために多くの働きをしました。神の恵みは大きな原動力となって、あなたを変える力があります。恵みがどれほど与えられているかに気づいたら、心に喜びと感謝の心が満ち、生活態度が変わってくるはずです。
(2)恵みが原動力となった人生を想像してみましょう。
恵みが原動力になると、自分中心に自分のために生きるという姿勢から、赦してくださった神のために生きたいと願うようになります。「多く赦された者は多く愛する」というみことばの通りです。恵みに気づく時、私たちの内には善を行い、神のために何かをしたいという力が湧いてきます。
この恵みを実感するなら、もっと輝いた喜びで、お互いに「感謝します」と言い合えるようになるはずです。

■2007年8月12日 日曜礼拝メッセージより(伝道師 小栗 恵子 師)
終始一貫 しゅうしいっかん up
2007.8.12
始めから終わりまで一筋に態度や行動を変えないこと。
それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
(イザヤ30:18)

主は、私たちの側がどんな状態であっても変わらず、いつも「恵みたい」「助けたい」「主の愛を受け取ってほしい」と、そのご意志を豊かに働かせておられることがわかります。私たちは罪人の自覚もなく、また主のあわれみ無くして生きていけないのに、そのあわれみを無視して、主の御心から大きく外れて生きているようなところがあるかもしれません。しかし、そんな無礼な私たちに対して、仮に私たちがどのような行いをしていても、私たち自身に主は「終始一貫」変わることなく愛を注ぎ続けてくださっています。
創造主なる主は、良い作品として私たち人間を造られ「非常に良かった」と言われました。そしてアダムとエバと一緒にいることを喜ばれ、そこにはうるわしい愛の関係がありました。ところがサタンにより人は誘惑され、罪が入り、均衡が破れてしまいました。聖なる神と、汚れを持ってしまい的外れの歩みをするようになった人が一緒にいることはできません。
しかし、神は人との関係の回復を願われ、キリストを十字架におかけになりました。キリストの十字架だけが、私たちと神との間を埋める唯一の方法です。神は聖なる方なのに、あえて罪を犯した人を相手として選んでくださり、「愛するわが子よ。」と呼んでくださり、今も道を備え、導き続けてくださっています。 罪の世の中であえぎ、叫び声を上げている私たちに、「何とかしてわたしのところに来なさい。」と父なる神が呼んでくださっていることは間違いありません。 また神様は、ヨハネの黙示録21章3節で永遠にある私たちへの約束を語ってくださっています。道を外し、神の御心に生きていないことも多い私たちが、地上での苦しみを清算され、神と共に住む新しい地へ移されるまで導いてくださることは本当に感謝です。
今日は、創世記に出てくるヤコブの人生から、主の導きによってどのように変えられていったかを見て参りましょう。
1.ふたごの兄弟エサウとヤコブ(創世記25:21〜 )
出産の時、弟ヤコブは兄エサウのかかとをつかんで出てきました (ヤコブ=「押しのける者」の意味)。兄は猟師、弟は天幕に仕え、二人の働きは違っていましたが、根本的に違っていたのは長子の権利への意識でした。
◎長子の権利〜財産をもらう時、2倍の分け前がある。
神がアブラハムに約束された祝福をいただける。
弟ヤコブはその長子の権利に執着していました。双子が母の胎内にある時に、主の御心は「兄が弟に仕える」というものでしたが、スープ事件によって、兄エサウの長子の権利への意識が明らかにされたのでした。ヤコブが煮ていた煮物を見て、飢えて猟から帰って来たエサウはヤコブの提案通りに「長子の権利」を「今の私に何になろう。」と惜しげもなく売って、自分の腹を満たすため、煮物を手にしたのでした。
兄エサウは、自分に与えられている長子の権利の価値がよく分かっておらず、軽んじました。祝福の内容以上に、神様が与えておられる関係の価値に、エサウは全く目を向けていませんでした。このエサウをヘブル人への手紙12章16節で「俗悪」と評しています。
○俗悪=神に対して無関心
世俗の事のみに心奪われている人(不敬虔・ 冒涜的)
後になって涙を流して祝福を求めても退けられたと、その後に書かれてあります。結局、長子の権利を軽んじるとは、それを与えておられる神様ご自身を軽んじることになるのではないでしょうか。私たちも、目の前に見えることに心を奪われていないでしょうか。罪を犯す時は、正しい良心がいくらとどめる必要があることを忠告しても、罪の力に押し切られてしまいます。エサウのように、今腹を満たされれば後はどうなっても良い、という欲に仕えきってしまうのではなく、今以上に、永遠に用意されている祝福に目を留めてほしいと神は私たちに願っておられます。人は霊的な生き物であり、神様から与えられる霊的なものをおろそかにして肉に仕えていては、成長は望めません。この世は神の愛、聖さをみくびります。もし自分の腹に仕えている状態のエサウが長子の権利をそのまま手にしたなら、神様の祝福の価値が無駄になりはしないでしょうか。私たちもキリストを信じて、神の御国を受け継ぐように神の子どもとされましたが、イエス様の十字架の恵みを侮ることのないように点検して参りましょう。
●弟ヤコブ〜父イサクを意図的にだます
兄エサウが父イサクから長子の権利の祝福の祈りをしてもらうと知り、ヤコブは策略を練りました。毛深いエサウのようになるべく、首に手に子ヤギの毛を付け、エサウの服を着て、目のうとくなっている父イサクをだまし、兄に成り代わって長子としての特別の祝福を受けたのでした。長子の祝福は、誰に与えてもよいという内容のものではありません。その後駆けつけたエサウは祈ってもらうことができませんでした。意図的欺きを行ったヤコブは兄エサウから命を狙われ、逃げていくことになりました。
2.逃げたヤコブ(創世記28章〜 )
長子の権利に執着し、主を畏れる心があったヤコブは、本当の意味で神を知ってはいませんでした。人間的知恵で長子の権利を奪い、祈りを受けたものの、ここに来て孤独となり、将来がまったく見えない闇の状態におかれたのでした。
私たちも神の子どもとして真の相続者となるために、試みが必要です。それが「闇」です。神はあえて私たちを闇の中に置かれます。何も見えない闇の中で、神の答えがきます。ヤコブは寝ていただけです。私たちが人間的な策略を止めた時に、実は神の答えが来ます。彼は一つのしるしとして、天から地に向けてはしごがかけられ、神の使いが上り下りしている夢を見ます。闇の中で神は働かれ、私たちに助けを与えられます。主のことばの中には、あくどいことをしたヤコブへの責めは見あたりません。いやむしろそんなヤコブに「あなたと共にいる、あなたを守る、この地に連れ戻そう。」と約束され、「それまで決してあなたを捨てない。」とまで言われます。私たちが性質的に神の前に届かない者であっても、神はお捨てにならず守られ、約束が成し遂げられるまで導いてくださいます。サタンが私たちの不完全さを突いてきても、私たちのために流されたキリストの血潮が私たちを守ります。
ヤコブはここで初めて、主との関係が築き始められます。肉において切磋琢磨して働いている時には、主を知る領域に行きません。自分の努力を止めた時に、ヤコブは主がおられることを知りました。そしてここをベテル(=「神の家」の意)と呼び、神をあがめ、十分の一をささげるという誓願を立て、彼の主を畏れる心が具体的に表されていきました。
●伯父ラバンのところで
ヤコブはラバンの所で神様により訓練を受け、人間的な狡猾さなど、彼の肉の性質が取り扱われました。すなわち、要領よく立ち回ることなく勤勉に働くこと、目的(結婚)のために苦しみを忍耐すること、さらに自分が父イサクをだましたように、妹ラケルと思って結婚した相手が姉レアだったように、伯父ラバンにだまされることにより、だまされる苦しみを身をもって味わうことを体験しました。しかしラバンの所から出る前にはまだ人間的知恵をもって、強い家畜が自分の所に来るようにしていますが、彼は「神がラバンが自分に害を与えるようにされなかった」と神を認めており、ラバンの所から出る時期も神が用意されていたことがわかります。
3.エサウとの和解(創世記32章〜 )
ヤコブが生まれ故郷へ戻る時に、ヤコブには20年前にエサウにしたことが責めとして残っています。その報復を恐れ、エサウが400人連れて来ていることを知り、ヤコブはまたしても人間的策略を図ります。陣営を二つに分け、一つが打たれても一つは残るように計算をしています。(主を知ったヤコブはそれでも主の前にへりくだった祈りもしていますが)一方で贈り物によってエサウに取り入ろうともします。しかし恐れを消すことのできない彼は、たった一人で神と格闘したのです。つまり自分の贈り物等、自分の力や作戦では前に進むことができなくなった彼は、神の前に出るしかない、と祈ったのです。25節にもものつがい(からだをを支える力のある所で、自我を表す)が外れたとは、彼の肉の思い、自我が砕かれたということです。根本的には、神の前に「自分自身を砕いてください」という祈り、神の前に1対1になることが必要なのではないでしょうか。ヤコブはこれを致しました。そして自我が砕かれ、頼るところが神しかなくなったヤコブは、「私を祝福してくださらねば去らせません。」と神への信頼を持ってしがみついたのです。そしてイスラエル(=「神の王子」「神と戦う」の意)と呼ばれるようになり、ヤコブという肉の名前ではなくなりました。
この場所はペヌエル(=「神の御顔」)と呼ばれるほど、神と近い関係にあることを意味します。神様は終始一貫、恵もうと待ってくださっていますが、私たちが自我(自分の思い)や世のものをつかんでいては、神は与えることができません。それらを離す時、神の恵みが上から豊かに注がれてきます。
*「…大事なのは新しい創造です。」(ガラテヤ人への手紙6:15)
*「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、
神の子どもです。」(ガラテヤ人への手紙3:26)
ヤコブは肉の働きをする人から、神に自我を砕かれ、全く新しい人となりました。私たちは肉の思いを十字架につけ、新しい歩みを為す者です。またイエス様が流してくださった血潮を仰ぎ、罪赦された者として信じる信仰により神の子どもとされ、相続を受ける者となりました。
神と私たちの距離を埋めるものはデボーションです。ヤコブのように神と1対1となる時、祈りによってみことばによって、神は必ず御心を示してくださるに違いありません。この一週間、神が私たちにくださっているあわれみと恵みを受けとめ、また新しい自分として歩みをなして参りましょう。

■2007年8月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
喜色満面 きしょくまんめん up
2007.8.5
喜びの表情が、顔面に現れている様子。
さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
(詩篇95:1)

喜び、これにはどんなすばらしい力があるのでしょうか。様々な人々との関わりの中で、互いに認め合い、受け入れ合い、赦し合うために、主に向かって歌い、叫ぶ喜びが大きな力になるのです。日本文化では、喜びをそのまま、まともに表すことをよしとせず、喜びを抑えてつつましく表す傾向があります。しかし、それでもこらえきれないほどの喜びがある、これが「喜色満面」です。内にある喜びを表し、輝かせていくなら、それはその人にとって人を赦し、受けとめる大きな力となっていくのです。
1.一万タラントの免除(マタイ18:23-25)
“このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。 王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のと ころに連れて来られた。 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、 自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予く ださい。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除して やった。
ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から 百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を 絞めて、『借金を返せ。』と言った。
彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返す から。』と言って頼んだ。 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れ た。
彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その 一部始終を主人に話した。 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあ んなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえを あわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきでは ないか。』
こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡 した。
あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの 父も、あなたがたに、このようになさるのです。」”
このたとえ話で最も重要なポイントは何でしょうか。「人を赦さないと自分は赦されない」であるという印象を持つことが多いでしょう。実際に赦せない状況にある方などは、「ああ、私は赦されていない、もうだめだ。」という思いになってしまうかもしれません。しかし、イエス様は私たちが否定的になるためにこのたとえ話をされたのではありません。イエス様は律法やルールを言われたのではなく、私たちが人を赦せるようになるために、この話を用いられました。一万タラントも赦された人がどうして百デナリ貸した人を赦せなかったのか、またもし彼が赦せたならば、何が赦す力となったのか。ここでの重要なポイントは、「赦された喜びを分け与える」ということです。正しい良心からこのたとえ話を読み、人を赦すコツを学びたいと思います。
主人は借金の清算のために、しもべに自分も妻子も持ち物全部も売るように命じました。どんな理由があるにせよ、一万タラントの負債は返さなければならないと責めたことでしょう。その責めに対して、しもべは色々な言い訳や弁解をして猶予してもらおうと必死に懇願したことでしょう。責められれば責められるほど、心を痛め、「ああ自分は何と大変な借金をしてしまったのだろう。」と悔いて追い詰められた状況になっていました。その様子を見て、主人は「かわいそうに思って」一万タラントを免除しました。一タラントは6,000デナリ、一デナリは当時の一日の労働賃金に相当する金額です。つまり、日給を一万円とすれば、一万タラントは6,000億円にも相当する、とてつもなく大きな金額です。いくらかわいそうと思っても、6,000億円もの借金を赦すことができるでしょうか。普通ではとてもできることではありません。それでもこの主人が赦せるほどにかわいそうと思った、このしもべの状態はどのようなものだったのでしょう。とことん追い詰められ、正気を失ったかのような状態まで陥っていたのではないでしょうか。それほどに心を砕き、へりくだっていたということなのです。
人を赦したいという気持ちは、相手がごう慢な態度であったらわいてきません。自分の義を押し付けて、「わたしは間違っていない」と言い続ける限りは、心から赦したり、受け入れたりはできません。しかし、正直にすべてを告白し、本当にへりくだって心砕かれた様子を見るなら、赦してあげようかな、という気持ちになってきます。へりくだることが赦される大切なポイントです。そして、どれだけ大きなことを赦されたかということを理解すればするほど、その赦された喜びは大きくなるのです。この一万タラントもの借金を赦された喜び、これが詩篇のみことばにある、主に向かって歌う喜び、主に向かって叫ぶ喜びを表しています。
また、私たちが人を責めるとき、その目的を誤ってしまうと、相手を傷つけ、その人の存在に対する価値評価を下し、潰してしまうような責め方になってしまいます。神様が私たちを責める目的はこれとはまったく違います。神様は私たちを生かすために責められます。私たちにあわれみを注ぎ、赦したいというお心から、罪を責めてあらわにし、私たちがへりくだることを願っておられるのです。私たちも人を責めるときは、赦すことを前提に責めることが必要です。赦すつもりがなければ責める意味はありません。もしそうするなら、結果として「人を赦さないなら、天の父もあなたをお赦しになりませんよ」という意味で、最後に言われているのです。人に対して責任を追及し、事情を聞いて正しく判断し裁きをするときに、厳しい責めをするのならば、「かわいそうに思う」心をもって赦すことを目的に責めることが、人を生かす最善 R>
u 9 & |