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■2006年12月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
管鮑之交 かんぽうのまじわり up 2006.12.31
中国春秋時代、若い時から非常に仲が良く、終生変わることなく親交を続けた管仲[かんちゅう]と鮑叔[ほうしゅく]の関係から、互いに相手を理解しあったかたい交際のことを言う。
また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。
(エゼキエル20:20)

来年は「正しい良心をもって主を知る」がモットーです。またモットーのみことばがエゼキエル書20:20です。
「人を知る」と言う時、知っている程度によって関わり方が違ってきます。主に対しても、主を知り、理解した程度に応じて、関係が生まれてきます。主と深い交わりをすれば、良い実が結ばれてくるのは当然です。
「わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。」と言われている限り、求める者は主を知ることができる状態にあるということです。しかし、知るためのものは用意されていても、受け取ろうとも理解しようともしていない私たちの信仰生活の状況があったかもしれません。毎年毎年主を知っていくべきなのに、留まっていないでしょうか。イエス様の似姿に変えられる結果が見えてこない、肉との戦いにこれ以上勝利できない等々、これらの限界の理由は、罪だけでなく、罪を打ち破る力がない、すなわち主を知り、主との絆を強める程度が留まっているためです。そして信仰の成長も留まってしまっており、同じことの繰り返しをしているのではないでしょうか。明日からの一年、今まで以上に気づかなかった主を知っていこうと受け止めていただきたいと思います。私たちの信仰の理念は「神の前に正しい良心を備えた信仰」であり、「正しい良心」を失うと、神への信仰は聖さが失われ、疑われるようなものになります。この一年、様々なできごとを通して、主がどのような方かを知っていきましょう。
「管鮑之交」
中国の故事からとられた言葉で、当時中国の戦国時代と言われ、管仲という人は斉という国の大政治家でした。彼はとても貧しい家に生まれ育ち、幼友達の「鮑叔」は彼をよく知っていました。管仲がまわりよりも多く利益率を取り、儲けに囚われ周りから非難された時、彼の生い立ちを知る鮑叔は一言も非難しませんでした。また戦場から一番先に逃げ帰る管仲が批判を浴びても、年老いた母親のためだと鮑叔は知っていました。生涯鮑叔は管仲をよく理解し、最後には出世した鮑叔が皇帝に良い人材として管仲を紹介したという物語です。
私たちはまず神様との間に「管鮑之交」という関係を築いているでしょうか。「祈りに応えてくれないと全然信じない」というような交わりでしょうか。これは神様とだけでなく、兄姉とも同じです。キリストを信じる、神を畏れる者同士にあるにも関わらず、互いに疑いを持ち、非難し合ったり、嫉妬・妬みをもって悪い態度を取ったりする状況があるなら、神はそれを願っておられません。イエス・キリストの血潮によって生まれた神の家族が、互いの間に溝を作っているのか…。「互いに愛し合いなさい」の意味は「管鮑之交」にあります。相手を理解してあげなければ、人を赦せません。それも深い洞察力が要ります。神は深い洞察力をもって私たちを深く理解してくださったから、私たちを赦してくださったのです。
罪人は罪を犯さずにいられない、罪の虜だとご存じなのです。罪に対して抵抗できない弱い者であったのに、救い主イエス・キリストを受け入れた者はキリストがよみがえられたように、その罪と戦って勝利することができる救いを得ました。この肉体を持っている限りは罪との戦いは続きます。しかし罪に対して負け続けることはクリスチャンにはあり得ません。私たちの内によみがえられた主のいのちがあるからです。このいのちは罪によって滅ぼされてしまうようなものではありません。
しかし私たちはこれを理解していないので、勝利できるいのちがありながら敗北してしまっているのです。
私たちはどれだけ主を理解しているでしょうか。理解が深まるほど信頼も深まります(人間関係も同じです)。様々な人間関係の中で、互いの立場をしっかりと深く理解しあうことによって、私たちは慰め、励まし、時には注意さえできるのです。神様は私たちをお造りになった方ですから、私たちを完全に理解しておられます。しかし私たちは造り主への理解が不十分です。その差があり過ぎて、神様に対して不信仰に投げやり、あきらめることがあるのです。主を知ったなら「主なる神はすばらしい方だ」と人生が変わっていきます。「管鮑之交」が主との間に、また私たち互いの間に確立するよう、主を理解することと一緒に求めていきましょう。
●1/1(月)4(木)「聖書の証言」
『あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。』(ヨハネの福音書5:39)
見えない神を理解する手がかりとして、見えない神が人となられたイエス・キリストを理解していくことが必要です。そのイエス・キリストは、聖書を通して証言されています。聖書をたくさん読んだら理解できるという量的な問題ではなく、しっかり読んでどのようにイエス様を理解したかが大切です。「しっかり読む」とは神はご自身をその箇所で私たちがどう理解するように願っておられるかを読んでいくことです。聖書はキリストを理解するための書物ですから、その目的に沿った読み方なら、例え少量でも信仰生活の大きな支えとなっていきます。
(例)創世記6〜9章には神とノアの出来事が書かれています。ノアは私たちの立場であり、じっくり読むと神様はどんなお方かが心に啓示されてきます。「水で滅ぼさない」約束のしるしに、虹という人々が印象的な忘れにくいものを用いられました。神様とノアの関係をゆっくり味わって読むことにより、神様がどんな方かをぜひ探し当ててください。
●1/2(火)5(金)「被造物をとおして」
『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』(ローマ人への手紙1:20)
神がどのような方かを知るためには、造られたすべてのものをじっくり見ることです。その中にはっきりと認められるほど現されているというのです。本物と変わらないような造花もありますが、しかし生花には生きた色があります。通り過ごしそうな草花に少し目を留めてみると、言葉に言い表せない美しさがあります。芸術家も言いますが、美の極みは神様です。芸術家は最後は神に至り、最も美しいものは神に最も近いものと考えます。音楽家も神からの啓示の音作りを最終的に求めています。
神がお造りになったものをじっと見つめる中で、私たち自身をもじっくり見つめるとそこに神のすばらしさを理解することができます。それは肉体の機能ではなく内面のすばらしさです。複雑な心の動きは神に似せて造られており、人格も神に似せて造られました。ただ一つ違うのは罪を宿していることで、この罪が神に似せて造られた心の動きを狂わせているのです。だから正しい良心をしっかり意識しないと罪の方の思いを感じてしまい、正しく反応できなくなってしまいます。「正しい良心で物事を考える」とは神を畏れる心であり、神に似せて造られた私たちの機能を正常に働かせることができます。しかし欲望によって物事を考えると、その機能は狂ってしまいます。皆さんもしっかり見つけ出してください。
●1/3(水)6(土)「御霊によって」
『わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。』(ヨハネの福音書16:26)
これは体験的なことなので、理論的に説明するのは難しいです。体験は一人一人に違いがあります。ただ言えることは「求めることを通して真理の御霊なる聖霊様を内に迎えることができる」ということです。クリスチャン生活の様々な迷い、不安定さ、古き人との関係等、いろいろな問題があっても、安定した神の子としての信仰生活は、聖霊に満たされて初めて確立します。
聖霊に満たされると様々な問題解決を教えられます。聖霊のバプテスマを受けて御霊が内に住んでくださることは最大の解決方法です。メッセージのポイントが伝わったら、聖霊様はそのポイントを通してみことばを深く悟らせてくださいます。
この御霊によって神を理解することが最優先して求めていくべき主を知る近道だと思います。御霊に満たされて聖書を読み、被造物を見ていくなら、もっと早く神様を理解できるでしょう。そうすると、どのように神様に接していけば良いか、自然にわかってきます。
本当に御霊によって主を知っているならば、すばらしい人間関係が生まれます。愚痴、不平を人に言う必要もありません。人に言わないとすっきりしないというのは、父なる神を知っていないからです。人は自分の痛みを他のものにぶつけて和らげることができます。あなたの代わりに鞭打たれたキリストは、すでにあなたの暴言や感情を二千年前に受けておられます。人でなく、イエス様に言うのです。イエス様があなたの鞭を受けてくださり、イエス様の痛み苦しみを通してあなたは癒されるのです。癒されないのは、あなたが鞭打つイエス様がどういう方かを知らないからです。イエス様がどういう方かを知ると、本人に復讐するよりイエス様を鞭打つ方が早く癒されることを体験するようになります。イエス様は鞭打つあなたに罪を犯させないように、復讐する相手も傷を受けないように、どちらも愛してご自分がその損失を受けられました。身代わりの誠実さ、愛が分かれば分かるほど早く元気になります。聖霊様の臨在の中で、どうすることもできない心の思いを御霊によって祈っていくと「癒されていく」実感がやってきます。来年こそは「御霊に満たされる」すばらしさを味わってほしいと思います。
この一年は、自分も含めて、人に頼らない、御霊に頼った信仰生活だったでしょうか。これは頭で理解するようなものではありません。御霊に満たされることはあなた自身が主に求めていくことです。たとえば、水差しの水のおいしさは、どんなに説明してもあなたのその舌で味わわなければ理解はできないで章。経験していないことは、いくら話をしても理解してもらえません。「正しい良心をもって主を知る」ために皆さんに一番していただきたいことは、「いかに御霊に満たされるか」これが結論です。
相手を理解すれば赦すこともできるようになります。鮑叔は管仲をよく理解していたので、人が腹を立てる状況でも管仲を受け止め、赦し、寛容を示しました。自分のことしか考えず、神様を理解していないと、すぐ不信仰になります。
どうぞ新しい年の始まりとして主と私たちとの関係、そして主を信じる私たち互いの関係が「管鮑之交」ダビデとヨナタンのような固い友情、友のために命を捨てられるような兄姉の強い絆の交わりとなるためにまず主を知りましょう。まず主を理解しましょう。

■2006年12月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
鶏群一鶴 けいぐんのいっかく up 2006.12.24
多くの鶏の中に交じっている一羽の鶴の意から、多くの凡人の中に、一人のすぐれた人物が交じっていることのたとえ
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
(マタイ1:18〜20)

この四字熟語は、大勢のごく普通の人の中に、一人の優れた人物がいるという意味で使われますが、今日はこの凡人と言われる「鶏群」という言葉を、「不敬虔な人々」と捉えていきたいと思います。鶏はあまり賢くない動物とされています。人間の賢さとは、能力ではありません。心の賢さです。しかしこの経済社会では、心の賢さよりも能力の賢さが重んじられるようになってしまいました。能力があれば、儲けるという欲を満たせるからです。しかし、心の賢い人は、欲に囚われない人です。賢い人は、欲に対して自制心を働かせることができる人です。鶴は鳥の中でも賢い鳥です。鶴は一夫一婦制で、一度つがいになると、どちらかの命が尽きるまでは、生涯決して他の鳥とはつがいになりません。愚かな鶏と賢い鶴から、不敬虔な人と敬虔な人と捉えて、マタイ1章のイエス様のご降誕のみことばから見ていきましょう。
ユダヤ人たちは規則を守るということに対して、非常に厳しい道徳心を持っていました。そんな社会の中で、処女マリヤが妊娠したのです。それも婚約者のいる乙女が、(一般的には)相手のわからぬ子をみごもったのです。これは最悪の状況でした。ユダヤの社会では、ヨセフはマリヤを訴えることもできました。モーセの律法によると、石打ちの刑(死刑)に値するものです。しかしヨセフは正しい人でした。マリヤは神を畏れる正しい女性であると知って結婚を決意したはずです。その彼女が妊娠してしまったのは何かわけがあるに違いないと、あわれみの心によってモーセの律法の死刑から救いたいと思ったのです。これが正しい人です。すると夢の中でヨセフは、この出来事は人によってではなく、神様の預言の成就であって、救い主がお生まれになるしるしなんだということを、天使から啓示されます。そしてこれは神の御心だと確信してマリヤを娶りました。ではなぜヨセフが選ばれたのでしょうか。
『多くの不敬虔な人々に交じって、ひとりの敬虔な人がいるという日本の道徳環境ではないでしょうか。敬虔な人々の救いのためにイエス・キリストがお生まれになったのです。』
その不敬虔な人々によって、どれほどキリスト教の歴史が歪められ、キリストの神聖な愛を汚してきたでしょう。クリスチャンがいつも正しいとは限らないのです。クリスチャンと呼ばれるか否かに関わらず、大切なことは何でしょうか。それは敬虔さであることを、このヨセフという人を通して知っていただきたいと思います。
1.ダビデの子ヨセフ(第1列王記2:4)
「そうすれば、主は私について語られた約束を果たしてくださろう。すなわち『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、精神を尽くして、誠実をもってわたしの前を歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が絶たれない。』」
<ヨセフが選ばれた理由は、ダビデの子孫であったことです。多くの子孫の中からヨセフが選ばれたのは、自分の道を守り、心を尽くし、精神を尽くして、誠実をもって神の前に歩んだ、本当の意味でのダビデの子孫だったからです。>
ヨセフからダビデまでは27代も前です。しかしダビデの子と呼ばれた理由は何でしょうか。(第1列王記2:4)このみことばはダビデが老人になって、遺言として次の王となる息子ソロモンに残した言葉です。
『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、精神を尽くして、誠実を持ってわたしの前を歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が絶たれない。』と約束してくださっています。
ダビデの子と言われる理由は、ダビデのように歩んだ人ということであって、ダビデの血筋だというだけではないのです。子どもとは、血を受け継ぐ者ですが、聖書では血はいのちであるとあります。いのちとは、その人の生き方、人格をも含んでいます。単なる肉体的いのちではありません。
この全ての人間のいのちは、同じ重さ、価値があります。この尊いいのちをどのように生きるかが大切です。汚されたり、尊く用いられたりします。ダビデは、このいのちを生かした人生を歩んだ人です。だからダビデのように歩む子孫は、ダビデの王座を受け継ぐと約束されたのです。これは敬虔な人生を歩むということです。「彼らの道を守り」とは、自分の分をわきまえるという意味です。自分の与えられている分を守り、人のことをとやかく言い過ぎないようにしましょう。相手の心の領土に入り込むことのないようにしましょう。それができるのは神様だけです。もう一つの大切なポイントは、「心を尽くし、精神を尽くして、神の前を歩む」ということです。これは敬虔な心をもって人生を送るということです。敬虔さとはどういう心でしょうか。それは神を尊ぶ心です。尊敬が心に生まれなければ、心を尽くして仕えることはできません。女性の本当の美しさは、外面的なものではなく、心の美しさ、聖さを求める心です。男性の本当の強さは、人格的強さです。それは罪を認め、悔い改める勇気を持った人で尊敬されるべき男性です。悪い所を露わにするということが本当の強さです。
ダビデは神の前に敬虔な心をもって、王としての務めを果たしました。ヨセフは王様ではありませんでしたが、自分の分をわきまえておりました。ダビデ王の血統なんだぞと自慢するのではなく、大工として働いていました。神が与えてくださった自分の人生を感謝して受け止め、自分の道を守り行っていた、正しい人でした。だから神はヨセフを「ダビデの子」と言っても決してダビデを汚すことがない子孫であるとお認めになって、イエス様が生まれるための夫婦に選ばれました。ダビデの子孫は何千何万といました。その中から一人選ばれたのです。「鶏群一鶴」です。その一鶴としてなぜヨセフが選ばれたのでしょう。ダビデのように敬虔だったからです。あなたもダビデの子と呼ばれることができる、ダビデの心を受け継いだ、ダビデの子孫となることができるのです。そのような人は、ヨセフのように神様の預言を成就していく器としての人生を歩むことができるのです。
2.人の本分は敬虔さ(伝道者の書3:14)
「私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。」
この伝道者の書はダビデの後継ぎソロモン王が書いたと言われています。神様はダビデのゆえに、ソロモンをも祝福されました。ソロモンはダビデのように戦士ではありませんでしたが、神様の祝福によって、回りの国々はイスラエルを恐れて戦争を仕掛けず、むしろ尊敬して貢ぎ物を持って来ました。そしてこのソロモンは神様からのすごい知恵をいただいて、世界中からいろいろな知恵ある人々がソロモンの知恵を聞きにきたほどでした。知恵があり、権威があり、お金もあって、ソロモンは人生とはいかなるものかということを、持っている地位とお金と立場全部を生かし、追求して最後に悟ったのがこれです。「神のなさることはみな永遠に変わらない」神様がなさること、決められたことは人には変えることができない。自分は力の小さい者なのだということを悟ったのです。
そこで彼の出した結論は「人は神を恐れなければならない」ということです。これは、敬い尊ぶという恐れです。敬虔な心です。「人は神を畏れ、敬うように定められた。」と訳すこともできることばです。人は神を敬うことが本分、すなわち、人間らしさなのです。あなたがあなたらしく生きるとは、神を敬う心があってこそ初めて、あなたらしく生きることができるのです。あなたの本当の美しさ、麗しさが出てくるのです。不敬虔な人は、警察に見つからなければ大丈夫だと思います。しかし敬虔な人は、警察に見つかろうが見つかるまいが、ルールはルールとして神を畏れてルールに従っていくのです。そこに初めてその人の良さが出てくるのです。敬虔な心が土台となって、私たちは自分らしさを表すことができるのだということを、この伝道者は悟ったのです。ダビデはすでにそれを理解して神の前に歩んでいました。だから「ダビデの子○○」というふうな呼び方をするようになったのです。血のつながりがなくても、尊敬している人の子と呼ばれることは、非常にうれしいことです。ましてや私たちは、神の子と呼んでくださるようになったのです。なぜそのように呼ばれるようになったのでしょう。
A)イエス・キリストの存在によって敬虔さに目覚める(ヘブル人への手紙9:14)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
傷のないご自身とは、罪も汚れもない人生を歩まれたということです。神に似せて造られた私たちを神は惜しんでくださり、罪の裁きで滅ぼすのではなく何とか救いたい、罪を赦して生かしたいと、十字架による罪の贖いをお考えになりました。惜しまれるとは、愛している、大切なもの、捨てたくないという意味です。
神様の目からご覧になると、こんなに未熟でわがままで不敬虔な私たちだけれど、一つだけ捨てたくないというものがあったのです。それは他の動物には持てない心、神を敬う心です。それは人格のある者しか持てない心です。敬虔な心を持てるのは人間だけなのです。いろんな罪を犯し、わがままで自己中心だけれど、その敬虔な心を目覚めさせるならば、その神に似せて造られた人間は生かされる、もったいないと思われ、だから早く目覚めてほしいと、創造主がおられるということのしるしとして、聖書に書いてある預言通りに、歴史の中でイエス・キリストをこの地上にお遣わしになりました。それは単にこうういう人物が生まれるという預言ではなく、救い主のこの地上における役割と行動とするべき内容が事細かに預言され、絶対にこの方しか神が遣わした救い主はいないという証しをして、キリストが生まれる前に預言として記されているのです。これはすごいことです。そのことの故に、私たちは神を畏れることに目覚めなければなりません。それは裁かれないためではなく、尊敬するという目覚めが必要です。愛する者のために神が人となってこの地上に来られ、人々の罪のために身代わりに自分が裁きをお受けになった神様は、この神様しかいないというのが聖書の神様です。人間となって私たちと同じように生まれ出て来られ、父母に仕えることも、社会のルールを守ることも全部体験され、いじめられ、非難され、私たちと同じ人生の様々な経験をされ、そこまでして私たちを知りたい、苦しみを分かち合いたいと思われたお方。そして最後は私たちの尻ぬぐいをしてくださった方。こんな親がいたら、子どもが親を尊敬しないわけがありません。日曜に私たちが教会に行くのは、こんなすばらしい、私たちを愛してくださるお方の所に来て休みたいと思うからです。みことばを聞いて心洗われ、安心して自分を出すことができ、自分を取り戻せる場所です。キリストがご自分を私たちのためにお捧げになったいのちは、私たちの良心をきよめてくださるのです。
あるぐうたらな息子が、万引きや暴力事件で警察に捕まりました。そのお父さんは意地っ張りな、ワンマンなお父さんでした。息子はそれに反抗し、歪んでしまって警察に捕まってしまい、お父さんが呼び出されました。彼は、父親は暴君で、自分のことなど何にも心配していないだろうと思って見ていました。するとお父さんは、警官の前で土下座をし、「この息子の悪はわたしの責任です。」と平謝りしたそうです。それを見た息子は唖然とし、ここまで自分のことを思ってくれていたのかと、その時初めてわかったそうです。彼の歪みかけていた心、死んでいた良心は、自分のプライドや恥を捨ててそこまで謝ってくれ、愛してくれた親を見て目覚めたのです。本当はこんなに自分のことを心配してくれていたんだ、と思った彼は、それからまともな生活に変わり、お父さんを尊敬するようになったそうです。人はどれだけ自分を大切にしてくれているのかがわかると、良心が目覚めてくるものなのです。神様はそれを自らお手本として十字架でその愛を表してくださいました。この十字架をもう一度、深く考えてみてはいかがでしょうか。
B)敬虔に歩み続ける(ヘブル人への手紙5:7)
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔さのゆえに聞き入れられました。」
敬虔さに目覚めただけでなく、歩み続けることが大切です。イエス様は人間の弱さを身をもって体験してくださいました。神様は強い方なのに弱さを感じられたのです。そこまでして私たちを助けに来る神様がおられるのです。そのような神様が他におられるでしょうか。敬虔に歩み続けるということがいかに大切なことかおわかりでしょうか。それはあなたを美しくし、多くの人々から尊ばれる者になり、お金にかえがたい栄誉と祝福を受けることができるのです。全ての人に関係のあるイエス・キリストの御降誕が実現しました。あなたが人として敬虔な心に目覚めるために、神の愛が示された出来事が、イエス・キリストの御降誕と十字架に至る彼の生涯です。どうぞ、敬虔な心に対して、この世が思っているような価値のないもののように捉えないでください。鶏群の一鶴として、あなたらしく歩んでください。「みにくいアヒルの子」の物語を思い出してください。白鳥はアヒルのように生き続けることはできません。しかし自分に気づくまではアヒルだと思いこんでいました。不敬虔な世の中で生きていると、これが当たり前だと思いこんで生きてしまいます。しかしそれは的外れの人生です。
あなたは神に似せて造られた神の子です。鶏群の一鶴です。そのことを示してくださったのがイエス様の生涯であると思います。

■2006年12月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
誠心誠意 せいしんせいい up 2006.12.17
まごころをもって、ものごとをするようす。
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
(ルカ2:8〜10)

「誠心誠意」とは、自己犠牲をもってまごころを尽くす、という意味です。クリスチャンは神の子としての新しい人を「誠心誠意」歩んでいただきたいと思い、この四字熟語を挙げました。
12月に入り、イエス様の御降誕に関係する人物を通して、「敬虔さ」についてお話ししています。
今日は、救い主がお生まれになったという良き知らせを、神ご自身が一番に知らされたのは荒野にいた羊飼いたちにであった、ということから、(羊飼いに知らされたわけ)についてお話しさせていただきたいと思います。
●12/18(月)21(木)「羊飼いに知らされたわけ」(1)
『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。(詩篇23:1〜2)』
なぜ神は夜番をしていた羊飼いたちに、このすばらしいできごとを一番最初に教えられたのでしょう。
それは、主ご自身が羊飼いであられるので、同僚である羊飼いたちに伝えられたということです。この当時はローマ帝国の時代で、工業や経済が発展し、羊飼いは身分が低く、卑しい職業となっていました。しかし、イスラエルの人々はアブラハムの時から羊を飼う遊牧民であり、家族が支えられるには羊飼いという職は制止に関わるものでした。
そのような羊飼いという職の尊さを神様はご存じであったわけです。
そこで皆さんに黙想していただきたいのは、主はどのようなお気持ちで羊飼いたちにこの良き知らせを告げられたのかということです。
同僚ということから想像していただいたら良いと思います。主は羊飼いだから、羊飼いの仕事の難しさをご存じです。羊飼いたちは草を求めて、羊の群を導いて行かなければなりません。寒く、不安な夜に、野宿をして夜番をするということは、精神的にも肉体的にも大変な労苦です。
wたしたちはうれしいできごと、喜ばしいできごとを誰に最初に知らせたいでしょうか。同じ釜の飯を食べるという言葉がありますが、私たちは同じ苦労を経験した者同士で、うれしいできごとを喜び合うということは、苦労の報いとなり、励ましになると思います。そういう意味で神様は同じ労苦を共にする羊飼いに、喜びの知らせを一番最初に告げられたのです。
もう一つは、羊飼いはいつも羊に目を向けています。いつも目を向けていないと、どこで迷子になるかわかりません。特に生まれたての羊は小さいので、すぐに見失ってしまうかもしれません。それと同じように、私たちの羊飼いであられる神様も、私たちにいつも目を注いでくださっています。
神様は羊飼いにいつも目を向けて守っていることの証しとして、彼らに一番最初に良き知らせを告げられたのです。それくらい、羊飼いに対して、主は心を向けておられるということです。関心を持っておられるのです。羊飼いとしての主を私たちはしっかりと理解しておくことが必要です。皆さんの中にも羊飼いという立場にある方がおられるのではないでしょうか。部下や子どもを持たれている方は特に、人を養い育てるという大切な立場にあります。
主の羊飼いとしてのお気持ちを理解することができるのではないでしょうか。そうしたら、私たちはどのように主に対しての態度を取るべきであるかも自然にわかってきますね。神様は私たちに目を向けて、この良き知らせを日本においても悟らせてくださり、すばらしい緑の牧場においてくださっています。そのことに感謝をすることのできるクリスチャンであって欲しいと思います。
●12/19(火)22(金)「羊飼いに知らされたわけ」(2)
『わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。(ヨハネの福音書10:11〜13)』
羊飼いは羊の命を大切にします。だから神も羊飼いを大切にされて、喜ばしい知らせを一番先に彼らにお知らせに鳴りました。羊飼いは羊のために一生懸命です。良い羊飼いは羊のために命を捨てるほどに、羊に対する思いがあるということです。
そのような心を持った羊飼いたちに、神はこの良き知らせを告げられたのです。神も良い羊飼いとして、私たち羊のためにいのちを捨てるという覚悟を持っておられたので、羊飼いたちにこのことを知らせられたのです。羊飼いたちはそのことに気がついていないかもしれないけれど、知らせた神様の気持ちはそうなのです。
羊飼いとして「誠心誠意」羊たちに接して、自分の命と同じように羊の命を大切にする、彼らの心に、神は心を動かされていたはずです。羊飼いはあちこちに大勢いたはずです。しかし、知らされた羊飼いは一部でした。その選ばれた羊飼いたちは、羊のために命を捨てることのできる羊飼いたちだったと思います。このような羊飼いの羊への思いを考えてみましょう。
まず、羊との一体感がなければ、羊のために命を捨てることはできませんね。自分の命と同じように羊の命を大切なものとする価値観が、羊と羊飼いの一体感であり、羊のために命を捨てるという現れとなります。
ということは、神は私たちをどれほど愛してくださっているかということを、ここで考えることが必要です。どうして神が人となってこの地上に来られ、私たちの罪のために十字架にかかり、いのちをお捨てになることができたのか?
イエス様はご自分で「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネの福音書10:11)」と言われました。「捨てるかもしれない」ではなくて、捨てることを決めておられたのです。そのような私たちに対する気持ちは、どんなお気持ちなのでしょうか。そのイエス様のお気持ちを、あなたはこのクリスマスを通してどこまで心の内に再現することができるでしょう。
良い羊飼いは羊のために命を捨てるということが理解できなくては、クリスマスを祝うことなどできませんね。私のためにいのちを捨てることのおできになった神は、どのような気持ちを私たちに持っておられるのでしょうか。
『一体』なのです。ご自分と同じと見ておられるということです。
だから感謝なのです。だからクリスマスをお祭りとしてお祝いすることができるのです。私たちは単にキリスト教がしているからではなく、本当に自分たちがキリストの誕生を喜んでいるという、心の表現として、クリスマスの催しをするのです。
さらに、命を捨てることができるとは、相手がなくてはならない存在ということです。自分だけ生きていてもダメだというわけです。羊は羊飼いがいなくては生きていけない存在ですが、羊飼いにとっても、羊がいなくては意味のない存在となります。だから、羊飼いは羊の存在を自分と同じように感じています。
イエス様が私たちのためにいのちを捨ててくださったということは、神様おひとりでこの宇宙にいても何の意味もないということです。神様は私たちがいるから、神様であられるのです。神様は私たちの存在をそのように見てくださっているということを忘れてはなりません。だから私たちは自分の価値を自分でああだこうだと評価してはいけません。なぜならあなたが自分の存在を軽く見るということは、あなたのためにいのちをお捨てになったイエス・キリスト、神ご自身のいのちを軽く見ることになるからです。それは大変なことです。神がいのちを捨てるほどに私たちを愛してくださっているのに、どうして自分をダメだと言えるでしょう。
そんなことのために神はいのちを捨ててくださっ スが人々のつまずきとなっているなら、もっとへりくだって、ク A て正しい ア骰s動」(ヘブル人への手紙11:8 j& |