■2005年12月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   クリスマス   up 2005.12.25


さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
(ルカ2:8〜20) 


 

 

 今年から日本の人口が減少する、と言われています。今のところは特に何も変わりませんが、現在の社会システム上、年金や保険制度から始まって、10年20年後には私たちの生活に大きな影響をもたらします。人口減少、少子化等の様々な問題の中で、お金に頼った生活・人間関係が崩れ始め、社会不安や犯罪の増加、ついには人間不信の社会へと、私たちは向かいつつあります。このような不安な社会の中で希望を見出すことができないだろうか?イエスさまのご降誕を通してご一緒に考えてみましょう。

1.誰のためのクリスマス
 「クリスマスは西洋の神様の誕生日」という声をよく耳にします。本当にそうでしょうか。天使たちは「きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と羊飼いたちに告げました。羊は羊飼い無しでは生きてゆくことはできません。そのように、私たちも、私たちを養い育ててくださる神様がいなければ、人間として正しく生きていくことはできないのです。私たちが神様の祝福に満ちた生活に立ち返るために、私たちを導くまことの羊飼いとして、キリストはこの世にお生まれになりました。キリストはよその国の神様ではありません。キリストの誕生日は、わたしたちのための誕生日なのです。
「あなたがたのために」、の「あなたがた」というのはだれでしょう。
天使が最初に訪れたのは、政府の高官や王様ではなく、最も貧しい羊飼いのところでした。これは、人格者として「貧しい」状況にあるということに気づいている人たちのために、救い主はお生まれになった、ということを表しています。
本当は心が貧しいにもかかわらず、「私には神様なんか必要ない」という人々がいます。お金や権力に支えられた人生。それは本当の成功でもなければ、本当の幸せでもなく、多くの弱い人々の犠牲や不幸の上に建てられたものに過ぎません。そのような社会の矛盾を感じながらも、正しい良心を働かせ、敬虔な心で、自分自身とこの世の罪深さに心を痛めている人々、希望を見失っている人々に、神様がイエス・キリストを通して、罪の赦し・永遠のいのちという生きる望みをお知らせになった。それがクリスマスなのです。
今日、失望の中にある人、あなたのうちにある良心が悩み悲しんでいます。そんなあなたのために、キリストがこの地上にお生まれになり、その本音の心を生かす救いをもたらして下さったのです。

2.不思議な方
 神様は、イエス・キリストをプレゼントとして私たちにお与えになった、と聖書にあります。高価なプレゼントは、私たちの心を豊かにし、内側に変化をもたらし、行動の変化をもたらします。例えば、普段使わない美しい器で食事をしようとする時、テーブルクロスの汚れに気づきます。そして、その器を生かすために、クロスをきれいにしたり、新しい物に変えたり、と周りを変えていこうという行動が出てきます。このように、イエス様を私たちの内にお迎えするとき、自分の心の汚れに気づかされ、そしてその心がイエス様を通してよい方向へと変えられていきます。欲望中心の人生から良心的な敬虔な生き方へ、つまり人間としての人格的尊厳を守る生き方にめざめ、お金や環境ではなく心の大切さ、徳の高い人生へと価値観が変えられていく。そのような不思議な変化を与えるのが、神様のプレゼント・「不思議な助言者」と言われるイエス様なのです。

3.祝福というプレゼント
 イエス様をお迎えしてそのように心に変化が出てくると、祝福を探し当てることができるようになります。祝福というのは、偶然飛び込んでくるようなものではなく、自分で探し当てるものです。「祝福します」と言われても、何か行動を起こさなければ、実際に祝福されているという結果をみることはできません。神様の祝福がどのようなものなのか、見つけることが私たちの人生の楽しみなのです。
 北海道の「東洋一の小麦王」と呼ばれる方は、どこよりも質のよい小麦を高い収穫率で栽培しているそうです。その秘訣は、畑の耕し方にありました。通常深さ30B程度のところを、倍以上の70Bから1mくらい土を掘り起こすそうです。それだけの労苦があってこそ、よい収穫を得ることができるのです。そして、この「掘り下げる」ということが、神様の祝福を見いだす方法なのです。
畑にはやせた土地・肥えた土地といろいろあるように、私たちの人生も様々です。人と比べれば、「なぜ自分はこんな貧しい家庭に生まれたんだろう」「なぜあの人のように才能が無いのだろう」等と言いたくなることもあるでしょう。しかし、神様はそれぞれに祝福して下さっています。それはどこで知ることができるでしょうか。
 創世記の1章28節を読んでみましょう。これは最初につくられた人間アダムに対して神様が言われた祝福です。「地を従えよ。」「すべての生き物を支配せよ。」というのは、自分の利得のために支配し利用するということではなく、神が与えられたすべてのものを治めなさい、という意味です。そして、この「治める」ということは「生かす」ということであり、それぞれに神がつくられたものを生かしてゆく、役立つようにする、ということなのです。アダムとエバは、エデンの園にあるあらゆるものを楽しむために、様々な楽し み方を試してみました。その ように、エデンの園で豊かに生きていた、その祝福は今も続いています。あなたの人生の土地に、神様は「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」と言われ、あなたの人生を治めなさい、と言われています。
神様はあなたに祝福を与えているから、そのエデンの園=あなたの人生を耕しなさい、と言われるのです。それは、祝福しているから耕せば収穫が得られる、ということです。祝福されていても、耕さなければ収穫は得られません。
 日本は水と緑の豊かな国ですが、中東のアラブ諸国は、国土のほとんどが砂漠で砂ばかり、まれにオアシスに街ができている程度です。水も草木もほとんどない土地、こんなところではとても生きていけない、と見える一方で、世界で一番お金持ちが多いのがこのアラブ地域です。なぜでしょう。石油が出るからです。この地の人々は石油が出るから、この地域に移り住んだでのでしょうか?そうではなく、この地で石油を掘り当てたのです。世界中で様々な土地・地域があります。人々はその場所で掘り続け、神の祝福を見つけたからこそ、そこに住みつづけているのです。その地域・その土地に必ずよいものがあるのです。私たちの人生も、人と比べれば荒野かもしれません、雑草が多いかもしれません。しかし、そこに祝福が埋まっているとしたら、宝が埋まっていると知ったら、あなたはどうしますか?見つけだしたいと思いませんか。自分に与えられた人生という土地を治めるように、神様は祝福を与えておられます。
 聖書の中に、悪い霊につかれた女の子を持つお母さんの話が出てきます。このお母さんは、ユダヤ人ではなく、遠く別の国に住む女性でした。イエス様のもとに来て、子どもを助けて下さるように願い続けました。しかし、イエス様は「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくない」とおっしゃいました。愛なる神様が送られた救い主であるイエス様が、このような冷たいともとれるような答えをされました。自分の人生を表面しか見ない人ならば、「ああ、自分のようなユダヤ人でない者には祝福してくださらないんだ」とそのままあきらめて去ってしまったかもしれません。しかし、この女性は、それでも神様の祝福を掘り当てたい、つかみたいと思ったのです。神様の祝福をいたただかなければ、子どもは助からない。助けていただくためには、祝福をつかむまで掘り下げなければ、とこの女性はここで踏ん張りとどまったのです。そして、神を畏れる敬虔な心を持った彼女は、イエス様は当然のことを言われている、と気づいたのです。イエス・キリストは最初はユダヤ人をまず救うために来られたのだから、と心を砕いてへりくだり、「その通りです」と返事をしたのです。そして、「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言いました。そのおこぼれであっても、子どもは助かります、という敬虔な心。これが神様の祝福を掘り当てるための重要なポイントです。高慢な人には神の祝福を掘り当てることはできません。
「働かざる者、食うべからず」ということばがあります。クリスチャンになったら、棚からぼたもち式に祝福が落ちてくるのではありません。田畑を耕さない者は、収穫することはできない、ということです。自分の人生の畑を耕し収穫することができないほどに、悩み苦しみ、病んでいる人をいやし、耕すことができるようにして下さるのが、救い主イエス様の働きです。神様ご自身が私たちの畑を耕してくださるのではありません。私たちのできる範囲のこと、耕すことは私たちがしなければなりません。そして、自分の努力と同時に、それだけではどうしようもできないことを認め、へりくだり、神様の前に祈りつづけることが必要です。畑は、耕せば必ず実を結ぶ畑となります。何も実を結べない」と思っている人生も、堀り方が少ないのではないでしょうか。イエス様があなたの心に行なって下さる不思議は、神様の祝福を見つけだすことのできる心、すなわち敬虔な心を作ってくださるということなのです。正しい良心がめざめるように語りかけてくださるのです。その不思議を与えられたあなたの心の目で、祝福を掘り当てていく。大切な祝福を手にするポイントです。あなたの人生、いくら掘り下げてもまだ何も見つけだしていないという方、見落としていないでしょうか。祝福を見分けることができていないかもしれません。この世の欲望の祝福を求めていないでしょうか。人としての、人格者としての、神様が願っておられる祝福を見いださなければ、いのちの価値は失われてしまいます。人のいのちの価値は徳の高さにあるのです。

 

 

 

 

 

 
■2005年12月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   天之美禄 てんのびろく   up 2005.12.18


天から与えられた良いさずかり物という意味で、特に酒をほめる言葉。
 

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
(ルカ12:21) 


 

 

この例えは、いくら貯えても、それを残して世を去らねばならない時が来ることを告げています。
今、日本国民の貯蓄額は1,458兆円と言われており、世界で一番貯蓄額が多いとされています。ドイツ、フランス、イギリスの3カ国を合計した以上の金額です。
中には一生かかっても使い切れない貯蓄をしている人もいます。
しかし、個人個人の生活で(会社や商売なしで)いくらぜいたくを極めても、使える額はしれています。例えば10兆円を一生で使い果たしてくださいと言われたとします。最初、何もない間は、いろいろ買いたいもので一杯で楽しめるでしょうが、、欲しいものを全部手に入れたとして、後はどのように自分のために使ったらよいのか、途方にくれるでしょう。しかし世の中は自分のためだけに貯えようとしています。
どんなに苦労して、自分が将来楽しむために貯えても、この世から去る時が来たら、何一つ持っていくことができません。
自分のためだけに貯えるとしたら、本当に空しいものです。しかし、同じ富むならば、神の前に富み、神の前に豊かな者となるなら、それは幸いであると、イエス様は言っておられます。今週はこのイエス様のみことばを「天之美禄」という熟語からみていきます。
天之美禄…天から与えられる、自分の力を超えたすばらしい報酬のこと(注)特に酒を誉める言葉。しかし、今と違って、昔は被支配層の人々は休むこともなく働きづめで、娯楽もほとんどない状態であった、そういう重労働の中で、一日の終わりに飲むお酒は唯一、体と心をほぐし、塚らをいやすものであって、百薬の長とも呼ばれた。今のようにどんちゃん騒ぎや、アル中になるほど飲むことはなかった。

●12/19(月)21(水)23(金)「横領」(マタイの福音書10:8)
「横領」…他人または公共のものを不法に奪い、自分のために貯えること。
普通の人間には、いやしや奇蹟の力はありません。弟子たちがこれらのいやしや奇蹟ができたのは、神がその力を授けられたからです。しかもただで与えられたのだから、ただで人々に分けなさいと言われています。これが原則です。
しかし、この特別な力だけが、ただで神から与えられた美禄ではありません。例えば石油王と言われるお金持ちがいます。石油は神が造られたものであり、所有している土地も神が造られたものです。それを売って大金を得ています。そのお金を神が願っておられるように使っているでしょうか。もしそうでなかったら、神に対して横領していると言います。自分の私利私欲のために、ただで神の恵みを利用してお金をもうけるばかりなら、それは横領となります。土地もそうです。すべては神が造られたもので、最初はただだったものです。力の強い者たちが、自分のものだと奪っていったのです。もし空気まで使用料を取られたらどうでしょうか。私たちは、すべてのものを神がただで与えてくださっていることということに気付かないといけません。
昔は敬虔な人が多く、天の恵み、自然の恵みと、物を大切に扱いました。しかし、今は敬虔さを失ってしまい、物をぜいたくに使って、奪い合いをしています。ただで与えられているということを忘れて、奪っていく方が勝ちという考え方になってきています。民主主義は競争社会であり、強い者が弱い者を押しのけ、奪っていきます。そういう中で生活していると、クリスチャンであっても「これは私のもの。」と言い張ってしまうことがあります。初代教会では、自分の持っている物もみんな差し出して、各々がお互いに持ち寄って、与え合って生活していました。この共同体は本当に理想的です。自分が持っている物をこのように分かち合っていたら、巡り巡ってすべての人が足りるようになります。しかし、自分だけのために用いようと取り込んでいく時、足りない人も出てきて、貧富の差も出てくるのです。お金にしても、「ただで与えられたのだから、ただで与えなさい。」というルールを守っていくなら、みんなが満たされます。しかし、自分のうちに取り込んでしまい、決して与えようとしないなら、良い物さえダメになってしまうこともあります。
「ただで受けた」という気持ちが、心に湧き上がってくる条件は、神を認めるということです。不敬虔な人にはこういった感謝の心は湧いてきません。利得ばかり求める人には湧いてきません。ただで受けて、ただで与えたのでは何にもならないという、単に損か得かの考え方では、この気持ちは理解できないのです。
この敬虔な心が良心の働きです。正しい良心とは神仏を敬う心の部分であると辞典にあります。神を敬う心が、ただで与えられたというい気持ちを沸き立たせ、ただで受けたのだからただで与えようという気持ちにもつながります。これはすべて、神を認めた正しい良心から出た健全な良心の働きです。多くの資源は神が造ってくださった、他の諸外国からのものです。それによって豊かな生活をさせていただいているなら、私たちも何かお返しをそれらの国にしてもいいのではないでしょうか。
そして、もともとはただで受けているのだから、自分たちもお返しをしたいという心で募金をして、現地にお返しするのもいいことです。
ただで与えられているものに対して、自分のもっているものを通してお返ししていく心は、教会献金も同じです。神から霊的なものをただで受けているのだから、持っているものをもって返していく、その心が大切です。損得勘定で判断してはなりません。もし、神の御心を無視して、自分のためだけに用いていたら、それは横領になります。神は喜びを互いに分け与えるよう願っておられます。
惜しむ心でなく、感謝の心で自発的に喜んで捧げる物をもって、互いのために分け与えることができたら、本当にすばらしいことです。
イエス様は十字架で、すべてを与えられました。十字架のことば「完了した」は、イエス様がいのちまでも、全てを注ぎ尽くして、救いを完成されたおことばです。この十字架によって、今は神の恵みの時であり、決して神は怒りによって私たちを裁かれたりしません。最後の審判までは、寛容なお心で、私たちが神に立ち返り、御心をなすよう待ってくださっています。
人の物を横領していないか、神のものを横領していないか、もう一度よく考えてみてください。

●12/20(火)22(木)24(土)「神の前に富む者」(ヤコブの手紙2:5)
この世の貧しい人々をなぜ神は選ばれたのでしょうか。神は彼らを選んで、信仰に富む者としてくださいました。それは、彼らが、神に助けを求める心を持っているからです。不思議なことに、先進国の人々の方が、発展途上国の人々よりも、神に対して、愚痴不平をいう傾向があります。
エチオピアの貧しい飢餓の中で、人々は神に文句を言うのではなく、むしろ謙虚になって食料が与えられるよう祈り求めています。
豊かに与えられている人の方が文句が多いのはなぜでしょう。自分だけの利益を求める生き方をしているからです。そういう人は神に与えられているということを意識せず、不敬虔な態度が身についてしまっているのです。
信仰の富とは、自分の弱さを認め、自分の力のなさを自覚して、神に助けを求める人に与えられるものです。
自分たちの力で富み栄えてきたと思っている先進国の人々は、自己中心的であっって、思い通りにいかなかったら、神のせいにしてしまいます。豊かな国ほど不敬虔な人が多いのです。神に信頼する心を強く持った敬虔な人を「神の前に富む人」と言います。その印は、信頼する神のみことばに従って生きているかどうかです。神はご自分を信頼する人々にひとつの印を与えられました。もし御父を信頼するなら、御父が遣わされた御子イエス・キリストをも信頼するということです。これを天地創造の神を信頼する人々の証とされました。
御子を信じなかったら、御父を信じることはできません。御子を信じないなら、御父なる神を信じていると告白しても、その人の信仰を信じることはできないと、神は言っておられます。「神を信じるとは、神が遣わした方を信じることである」と聖書は言っています。これが私たち神を信じる者への、神からの要求です。
罪を取り除く救い主を信じなければ、神を信じる者と認めないと、神は新約聖書で示されています。このイエス様の救いの教えを信じて、ただで与えられたものを、ただで与えていくという心構えでいくなら、イエス様が言われた「互いに愛し合いなさい」というみことばが実現されていきます。そこには何の利害関係も、所有権の主張もなくなり、心からボランティアとして、人々を助けていくことができるようになります。私たちは物質的面のみでなく、精神的な面でも、このことが実践できます。それは「赦す」ということです。神は私たちを赦してくださったのですから、私たちも人を赦すことができます。
どれくらい、ただで受けているかを私たちが悟るかで、人々にますます与えることができるようになります。

 

 

 

 

 

 
■2005年12月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   不惜身命 ふしゃくしんみょう   up 2005.12.11


自分の身をかえりみないで、ものごとにあたること。
 

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
(ルカ12:15) 


 

 

先週と同じみことばですが、今週は後半のみことばから学びましょう。
人生をかけて何かに打ち込むことはすばらしいことであり、生き甲斐であるかもしれませんが、いくら身を投じていても、相手に良い影響を与えていなければ、幸いの道でなくなってしまいます。
クリスチャンとしてどのようなものに打ち込んでいくべきなのか、二つの点から学んでいきましょう。

●12/12(月)14(水)16(金)「人のいのち」(第1ヨハネの手紙3:14)
私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
人のいのちをどのように捉えるべきでしょうか。
人のいのちは財産にあるのではないと、イエス様は語られました。私たちクリスチャンは、死からいのちに移ったことを知っています。(認め、自覚し、体験を伴って知っている)
兄弟を愛しているということは、死からいのちに移っていることのしるしです。自分以外の周りの人に対して、いのちを犠牲にして身を投じてでも助けてあげたいと思うほどに大切にし、接していくことが、死からいのちに移ったことの証です。
自分を愛するがゆえに、自分の利益や自分の立場を良くするための親切・施しは、兄弟を愛するとは言えません。
人のいのちの大切さはどこにあるのでしょうか。(肉体的いのちではないことは確かです。)人のいのちは、神の霊が吹き込まれたいのちです。しかし、アダムとエバが罪を犯して、そのいのちを汚してしまいました。御子イエス・キリストによって、汚されたいのちは贖われたのです。(代価が支払われたのです。)
もう一度、神から与えられた(御子イエス・キリストの贖い)いのちに対する考え方が、人のいのちを大事にするということにつながるのです。
人のいのち、それは敬虔な心から生まれてくるいのちの輝きです。子どもからお年寄りに至るまで、その人のいのちを大事にして語りかけ、思いやり、寛容、親切、柔和、施し、あわれみを示していきましょう。

●12/13(火)15(木)17(土)「いのちを大切に」
日本で最初に聖書が翻訳された時、ヨハネの福音書の「神は愛です」の「愛」をどのように訳するか、宣教師は迷いました。日本の仏教文化で「愛」を情欲、好色と捉えていたからです。でもって、「神は大事」と訳しました。
「いのちを大切に」するとは、大事にすることなのです。大切にする行動として、第1ペテロの手紙3:10〜11に書かれています。
「舌を押えて悪を言わず」の「悪」は、不敬虔につながる部類を言います。人の悪い欠点を示すことは必要ですが、傷つける責め方は悪いことです。治すより感情で傷つけることが多いのではないでしょうか。愛は決して人を傷つけることはありません。
「くちびるを閉ざして偽りを語らず」の「偽り」は、ごまかし、あざむきです。うそを言うつもりはないけれども、とっさにうそを言ってしまうことがあります。それは悪の反応です。しかし、うそだと気付いたならば、訂正することができるのです。正直にはっきりと真実を語ることが大切です。
「悪から遠ざかって善を行い」とは、神の律法は神を愛し、隣り人を愛することですから、神を大事に、人のいのちを大事に扱うことが悪から遠ざかることです。
平和は自分だけのことではなく、相手の平和を考慮に入れたものです。自己中心の平和であってはなりません。
互いの平和のために、いのちを大事にすることを忘れないようにしましょう。自分のいのちを大切に、人のいのちを大切にするとはどういうことか考えながら、この一週間歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

 
■2005年12月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   耳目之欲 じもくのよく   up 2005.12.4


感覚によって起こる欲望のこと。諸種の欲望のこと。
 

そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
(ルカ12:15) 


 

 

健全な欲、生きる・成長・全身・前向きな面における欲求も必要です。しかし、これが限度を超えてくる時に、不健全な欲、貪欲に変わってしまうわけです。このことを一週間心がけて、私たちも貪欲に注意していきたいと思います。
欲望=自分の欲するものに執着して、飽くことを知らないこと。非常に欲深いこと。
貪欲…非常に欲深いという状況。自分が欲しい物を手に入れるためにあらゆる手段、非合法的手段を使って、その欲求を満たそうと心が動き、行動していく。
貪欲は、不道徳といわれる面に対するものです。イエス様は完全に欲求を消しなさいとは教えておられません。健全な欲求を身につけるために、貪欲に対して警戒していくことが必要です。

「民主化」の落とし穴(第1テモテへの手紙6:9)
今の社会の経済的成長は、民主化によってもたらされた物的繁栄です。しかし逆に貧しくなっている人もいることに目を向ける必要があります。貧富の差が激しくなり、能力・地位の格差ができてしまう社会に私たちはいます。
民主化とは、政治的にも民主主義を導入し、経済的には市場経済に移行すること。
民主主義…一人一人の人権を尊重、社会秩序、憲法を犯さない限りは自由に生活できる。
市場経済…自由によって経済が開放された。
生産者と消費者間で、自由に価格が設定、利益が上げられていく。
民主主義は「自由」をもたらし、市場経済は資本主義体制を確立させた。
資本主義…何らかの資本を持っている人々が、自由な社会の中で経済競争をしていくことができる。
資本主義の本質は、欲望のエネルギーを最大化するシステム。
資本主義の落とし穴
世置く棒を起こさせるためには、今、自分にはないということを実感させなければいけない。そして、それを手に入れたら今よりも良くなる、という差をいかに人々に説明し、欲求を持たせるかです。欲求が過熱してきて、だんだん貪欲の段階に入っていく。
人々の欲求を利用して金もうけをし、自分の目的を達成していく。これが民主主義、市場経済の落とし穴です。
この自由競争社会は「奪い合い」です。強い者が手にできる社会。そして一部の強い者たちのために、多くの弱い人々が犠牲になっているわけです。これが資本主義の醜い、隠された部分です。人の欲を利用した自己中心の社会。その中で私たちが生きていく時、影響を受けるわけです。
民主化→民主主義→市場経済→資本主義という、欲望のエネルギーに満ちている社会において、有害な欲に陥らないように。
これだけ物質が豊かにある状況の中で、なお経済成長するためには、健全な欲望では限界です。貪欲の段階に入らなければ、これ以上の発展はありません。ですから人々にさまざまな誘惑を仕掛け、罠がこの市場の中にはびこっています。

貪欲に対する注意と警戒
ローマ人への手紙13:14(肉の欲のために)心をもちいてはいけません。
コロサイ人への手紙3:5むさぼりを殺してしまいなさい。
テトスへの手紙2:12不敬虔とこの世の欲とを捨て
第1ペテロの手紙2:11肉の欲を遠ざけなさい
イエス・キリストの「死」と「葬り」と「復活」が貪欲に対してどのように効果を発揮するのか考えてみましょう。
ガラテヤ人への手紙5:24
欲望の心と神の前に正しい敬虔な良心を切り離す作業が、十字架の御業です。
イエス・キリストは、その魂を滅ぼす欲望をあなたから取り去って、ご自分の身に受けて十字架で殺しました。すなわち、欲望が罪を犯させるためですから、欲望を罰したならば、あなたは解放されるのです。
これが、歴史の中で、事実として起こりました。ということは、欲望の心はもうすでにあなたの魂、正しい良心に影響をもたらして支配することはありません。それは実体のない架空の存在、偽りです。私たちは思いこまされて、動かされてしまっている。闘う必要はありません。無視することです。
ローマ人への手紙6:4
イエス・キリストが私たちの欲望を十字架にかけて死んでくださって、葬られて、その死の力に打ち勝って三日目によみがえってくださったそのいのちが、私たちの内に与えられているわけです。死に打ち勝つのですから、欲望にも打ち勝ついのちの力が私たちの心に宿ったということです。
イエス様を信じて、実際にバプテスマ(洗礼)を受ける。死と葬りと復活、これを通さなければ、心の中で思うだけでは実現しません。人は何のためにここに存在し、生きているのか。神のかたちに似せて造られ、神のいのちを分け与えられた者であるということを、聖書からはっきりと教えていただき、このことばが真実であることを証ししていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2005年11月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   天網恢恢 てんもうかいかい   up 2005.11.27


天は正しく人を見ているもので、悪事を働いた者には必ず天罰が下されるということ。
 

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。
(ルカ12:4〜5) 


 

 

前回はパリサイ人の偽善を通して、偽善に気をつけるということを学びました。イエス様はパリサイ人の偽善に対して忠告を与えられてから、「隠されているもので、知られずに済むものはありません。」と、偽善に対する神様のきびしい目を紹介されています。
続いて、本当に畏れなければならないのは、偽善を行う人々ではなくて、ゲヘナに投げ込む権威を持たれている方だと教えられています。ゲヘナとは、死後に罪人たちが神からの裁きを受ける場所のことです。
い。そうでないと私たちは自分の努力「を愛された」<しましるという期待を持チvがあります。
ただ、良心が咎めるのが勍を繰り返した挙げ句、ッ8FQQPuフンサ汢ムuwtsmahrrz椶 +AHMLbゼブラ、汲{{ч痩wszxy鴇K 4AJMMヲ趁ソモ殕\cv込。志ckhv減&6Gぽ蘯旌・M9=SoztoUJFNgΦ「 sフ狆ヶセ胝フhR`ウ地VFJB@[「ツ#8スレヌ+肌エヌヒセコヒミtZKIH]槁6蝦ユ撹ь惡ッサニハ磬ヲm^EIs┬ヨGHツヨ)3Z離ィクスニ゚ツsYQZu幹レM&慱ア7P頗ィョシチムクbVRXav~WsハヒjF圏「ェキケヌロェZURR\fRォヒゥ$2q徐」ョオケチマヤメ揺mTSl、Wスソj(l{椙」ォョケシスキеiSSz憚 徳ゥ.*_nzь圜ャォーャ}hfSUー9)ゥカ EU^grxы国瞬gRZyュヲrャ0 %2CIX\hnsuzws_OSi造*~ャ$,?DNRY]bbbaWQYz=ぃ  *6>CGGOKJEGcf,y寐# #'+211-3@3a嵐C1> *図E!!.Uqi5  8u~yrY. 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天の網目は広々としているので、多くの悪事が見逃されているように思われるが、必ず悪事は裁かれるということです。
ここで言う「天罰」とは、神からの「懲らしめ」のことで、今の間違いに気付かせるためのものです。
神様は本来、私たちを生かすためにお造りになったのですから、滅ぼすことはしたくないというお気持ちから、早く悔い改めて欲しいと、「懲らしめ」を通して間違いに気付くようにと、全ての人の人生の中に関わってくださっています。そういう意味で、この痛み、つらさを通して、今自分は何に気付かなければならないかを、祈りの中で神様に教えていただければと思います。

●11/28(月)11/30(水)12/2(金)「からだしか殺せない者を恐れるな」(ローマ人への手紙6:13)
からだと心とは別々の存在だということに気付いておられるでしょうか。心は思い煩っていても、からだは習慣的に行動することができるものです。
時には心の苦しみがからだに及んで、今までできていたことができなくなることがあるかもしれません。そのように、からだと心は別々の存在だけれども、つながっているので、互いに影響し合っているものです。そこで皆さんに気付いていただきたいのは、からだという物体を殺すことはできても、それ以上は何もできない人間を恐れてはいけないということです。
人というのは、相手の肉体を殺すことはできても、心の内面まで直接手を出すことはできないのです。それなのになぜ私たちは、人の言葉によって傷つけられたり、苦しめられたり、不幸にされたと感じてしまうのでしょうか?
それは人の言葉に反応して、自分の心を動かしたということが原因です。たとえば、「お前はバカだ」と言われたとします。その時、「そう?あなたはそう思うのね」と言っておけば済むのに、「そうなんだ、私はバカなんだ」と自分の心を動かしてしまうから、傷つくのです。
私たちは案外、人の言葉によって自分で自分を傷つけていることに気付かないものです。
アダムとエバも、サタンが直接心に触れて無理矢理に罪を犯させたのではありません。サタンの誘惑のことばに心を動かされて従ってしまい、自ら心を汚してしまったのです。
神様は人にもサタンにも、直接人の心に触れて汚す権利を与えられてはいません。心は守られているのです。
ヨブ記をみてもわかるように、神はサタンにヨブの体にまでは触れることを許可されたけれど、ヨブの命までサタンに委ねることはされませんでした。
私たちはプログラムされて神に従うという、ロボットのような心を与えられたのではなく、自分の意志で選択するという、神に似せて造られた完全な人格を与えられています。ロボットのような状態では愛は生まれないからです。
私たちは自分の意志で悪い言葉やサタンの誘惑に従って失敗したことの責任を、誰かのせいにしていることがあるのではないでしょうか?
悪いことを言った人も悪いかもしれないけれど、厳密に言えば、欺きの言葉、偽りの言葉、誘惑の言葉に動かされて、自分で動いて痛い目にあい、滅びに至ってしまうような考えを持ってしまうということです。
私たちを決して死に追いやることがないのは神のことばです。神のことばは私たちを御国に向かわせ、御国を受け継がせるために、私たちを育てることばです。
ですから神のことばは絶対に疑ってはいけません。神のことばは人を生かすことばです。しかし人のことばは、みことばを基準にしてしっかりと吟味し、惑わされないように気をつけなければなりません。
この原則をしっかりと理解しておけば、人から傷つけられることから自分を守ることができます。
私たちは義の器(良いもの、正しいもの、聖いもの)として造られましたが、この世の不敬虔な人々のことばを取り入れてしまうと、不義の器となってしまいます。そうなると不義の手・足として動くことになります。
私たちクリスチャンは、イエス様を信じ、洗礼によってそれまで入っていた不義を全部出してしまい、神のことばを入れて、元の義の器に戻りました。だから、聖い神のことばを入れる義の器として自分を保つことが大切です。どうぞ、人は肉体に影響を及ぼしても、心には影響を及ぼすことはできないという、イエス様のおことばを信じてください。

●11/29(火)12/1(木)12/3(土)「権威を持っている方を恐れる」(コロサイ人への手紙1:16)
1.罪を裁く権威を持つ人とは、どのような人か。
例えば私が器を造ったとします。できた器を壊すか活かすかという権利は、当然私が持っています。しかし、この器を誰かが代価を払って買い取ったとしたら、買い取った人に器を自由にする権利があります。
そのように、罪を裁く者とは、造った人もしくは代価を払って所有権を手にした人です。
つまり、造り主である神が人を裁く権威を持たれているのです。神を認めようが認めまいが、神が造られた者は、神が自由にされる権利があります。神の御手の中にある自分ということを認めたくない人は、不敬虔な自己中心な考え方を持ちますが、神はいつまでも造り主の考えに沿わない行動をする者を、自由にさせておくことはできないのです。なぜなら神は、ご自分のいのちを人間に分け与えられて、義の器として役立って欲しいと願って造られたのです。
神は義の器として造られたのに、自由意志を与えられた私たちは、自ら不義の器への道を向かってしまい、自分を汚してしまったのです。自分を汚したというより、神にいただいた聖い神のいのちを汚したのです。罪を犯すとは、神様のいのちを汚すということになるのです。
私たちはある程度まで自由意志で罪を犯し続けることができます。しかし、神は全宇宙の秩序が崩れる前に、最終的な裁きをもたらされます。これが黙示録にある最後の審判です。
それまでは懲らしめを与えられます。懲らしめによって悔い改めることは、7を70倍するまで赦してくださるけれど、裁きは最後の一度だけです。最後の裁きを受けたら、もう悔い改めることはできません。あなたを造られた方が、あなたを最終的にどのようにするかを決定する権威を持たれています。
そのことを恐れて、自分は神の聖いいのちが与えられており、神のかたちに似せて造られたという存在目的を持つ者だと自覚して生きることを目指さなければ、最後の裁きを受けることになります。
神はそれまでに忠告をし、教え、導き、しるしを与え、懲らしめられて、義の器として歩むことを勧めておられるということは間違いありません。権威のある方を恐れていただきたいと思います。
 
2.赦す権威を持つ人
何か物がこわれたとします。それが大切なもので残しておこうと思えば、その物を修理して元通りにしようとします。その時、自分で修理する技術があれば自分で直しますが、技術がない場合は、直せる人に代価を払って、代わりに直してもらいます。そのように元に戻すということが、赦す、ということです。
従って、赦すためには、直すための能力を持っているか、直すための代価を持っているかということが必要で、そのどちらかを持っていると、赦す権威があると言えます。いくら赦しますと言っても、相手の損失を自分の身に負う力がなければ、赦すことはできません。
イエス・キリストには私たちの罪を洗い聖める能力があります。なぜならイエス・キリストは、私たちの罪の身代わりに十字架で裁きを受けられたからです。
私たちには自分のたましいを聖くする能力はありません。だったら恵みによって赦していただくしかありません。神様はあなたを、どのような代価を払ってでも元に戻したいと思われるほど、高価な存在として評価されています。だからご自身が苦しんでまで、いのちという代価をもってあなたを元の義の器に戻したいと願われて実行されたのが、2,000年前のイエス様の十字架のみわざです。
神様がそれほどまでにあなたを大切な存在として愛しておられるのです。そのことを、わかった所までで結構ですので、少しでも、一歩でも、聖い生活の中を歩もうではありませんか。そして最後にゴールに到達すればいいわけです。今、ゴールに到達する必要はありません。今は、ゴールに向かって歩む時なのです。「天網恢々」という、天を恐れる敬虔な心を持って、クリスチャン生活を進んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2005年11月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   我田引水 がでんいんすい   up 2005.11.20


自分の田にだけ水を引くの意から、自分の都合の良いように言ったりしたりすること。
 

そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。
(ルカ12:1) 


 

 

 今週はパリサイ人のパン種、つまり偽善に対して気をつけるということを学んでいきます。この偽善を表している四文字熟語が「我田引水」です。偽善者というのは、人を欺くだけでなく、自分自身をも欺いています。偽善は自己中心の表れであり、自分を義とし、正当化するために、様々な理屈をつけて自分の汚点を隠そうとすることです。この偽善に気をつけるため、三つのポイントを挙げてみます。

1.黙想のための参考
A. パリサイ人
日本で言うならば、政治家、実業家、マスコミなど社会的影響力を持つ立場の人々のことです。
 
B. パン種
例えばイースト菌は、ほんの少しでパン全体を膨らませることができます。同様に、ほんの一握りの人々が日本全体を動かしています。この少数の人々の行う偽善というパン種に気をつけないとなりません。偽善はパン種のように、私たちの心を蝕んでいきます。そして社会をも蝕んでいきます。
 
C. 偽善
役者の演出行為から出た言葉であり、仮装した偽りの行為のこと。

 
2.偽善に気をつける

A.社会一般の中に見る偽善を見分ける(第1ヨハネの手紙3:7)
 だれにも惑わされてはいけませんとは、私たちの人生の基準はいつも神様のみことばにおかれていなくてはならないということです。クリスチャンであっても、いつの間にか世の中の基準の影響を受けてしまうことがあります。そして一番影響を受けやすいのが偽善行為です。
 世の中にはどんな偽善があるのでしょうか。
 例えば建築業界の労働者人口は690万人と言われています。それで、国の不況対策として公共事業を増やすために、いろいろな建物や道路を造ることで景気回復になると言われていますが、実は690万人のうち、必要のない人々であると第一生命調査研究所が報告しています。
 それにも関わらず、たくさんの赤字の建築物や道路が景気回復の名目の下に次々と造られています。これも偽善です。
 また、「民主化」という言葉はいかにもすばらしいかのように思われていますが、実はこれには偽善という罠が隠されています。
 民主化の理念はすばらしいのですが、民主化という言葉を利用して、一部の特定の人々が富を独占してしまっています。民主主義は自由競争なので誰でも参加できます。自由競争社会はいかにも平等に思えますが、これはボクシングで言うならば、ヘビー級もライト級も分けずに、みんな一緒に戦わせるのと同じで、当然、力の強い者が弱い者を負かしてしまいます。いわゆる弱肉強食の社会なのです。つまりお金という資本、力を持った者がそれを利用して、もっと金もうけができるようになり、一握りのお金持ちがますますお金持ちになっていく仕組みなのです。
 簡単に言うなら、民主主義は誰でも参加できる奪い合いの社会であって、強い者が勝ち、豊かになって当然の社会です。クリスチャンはこういった世の中の流れに流されず、神の御心は何であるかを知って、神の言われる自由の中を生きることが大切です。しかし、この悪い世の中を自分で裁かないようにしましょう。神が裁かれるからです。聖書は、終わりの時代はもっと愛は冷え、偽善に満ちてくると言っています。そしてますます、強者が弱者を食い物にしていくのです。
 民主主義のエネルギーは欲望です。欲望がなかったら発展できません。しかし聖書では罪に陥る原因は「欲望」であると言っています。民主化は自由という美しい言葉をまとっていますが、欲望が引き出され、欲望の虜になった人々が強者の餌食とされる社会なのです。強い者は「我田引水」のごとく、自分の都合だけ考えて市場を動かすので、結局資本のある者がますます肥え太っていきます。この義善にクリスチャンは惑わされないよう、神の義の内をしっかりと歩む姿勢が必要です。

B.キリスト教の中に見る偽善を見分ける(第1テモテへの手紙4:1〜3)
 キリスト教会の中にも、建前はクリスチャン、本音は民主主義に生きている人が多くいます。『牧師』や『司祭』等の地位を利用して富を築いたり、歴史的には魔女狩りの名の下に反対する人々を処刑したり等、多くの偽善が行われてきました。またある人々は聖書の一部を勝手に解釈して結婚を禁じ、そのためにかえって陰で罪の中に陥ってしまったりしています。こういったリーダーシップをとるべき立場の人々が偽善の罪に陥ってしまったら、その信者たちも大きな影響を受けてしまいます。
 また「全能の神」と信じていながら、聖書の中で記されているイエス様の奇蹟やいやしを否定してしまうのも偽善です。神のなされる奇蹟やいやしを信じて待ち望むことをせず、今は医学が発達しているのだから奇蹟やいやしは起きないと言い切っているのは、神を偽りものとすることであり、偽善に他なりません。自分の身に起こらないことは神がなされないのだと言い張るのは、神への冒涜です。エジプトを出る時に神がモーセを通して現された多くの奇蹟としるしは、他の呪術師たちのする魔術をはるかにしのぎました。
 私たちが信じているイエス・キリストは、霊媒師や祈祷師と同じ程度のいやししかできないのでしょうか?そんなことはありません。あなたの内におられる死からよみがえられたお方が、全能の御手をもって奇蹟としるしとを行われるのです。イエス様が言われた「信じる者はどんなことでもすることができる」とメッセージする説教者が少ないのは残念なことです。今は科学の時代、民主主義の時代であると言い、キリストの教えを一つの道徳として捉えて、みことばを曲げ、人々を信じないようにさせるキリスト教があるのです。しかし、私たちの神は全能の神であり、しるしと奇蹟といやしを行われる方です。
 世の中の人々にはっきりと全能なる神の御力が現されること以上のあかしがあるでしょうか?
 この信仰をしっかりと持って、祈り求めていきましょう。世界に試みの時が近づいてきています。そこで私たちが揺さぶられることのないように、今しっかりとした神への全き信仰を持つことが必要なのです。
 神への献金も、いつの間にかお金中心の生活になっていたなら、初穂として捧げるのではなく、頭の中で計算して余った中から捧げるという姿勢に変わってきます。気をつけないといけません。偽善というものは、注意をしていなかったらいつの間にかその中に引き込まれてしまいます。
 そして民主主義、世の中の流れに浸かったクリスチャン生活になり、ただ聞くだけで、奇蹟を神に求めないクリスチャンになってしまいます。日本では求めなくても生活できます。今私たちが求める奇蹟は、どんな悪にも負けず、この罪の世界の中で聖い良心に従った生活を守り通すという奇蹟です。

C.自分の中に見る偽善を見分ける(第2ペテロの手紙1:20)
 特に聖書のみことばを私的解釈してはなりません。自分の考えが正しいということを正当化するためみことばを探し、自分の都合のいいように自分の欲望を満たすためにみことばを使ってはなりません。これは我田引水であり、偽善です。そうならないために、隣人を愛するというみことばが与えられています。
 偽善は見分けにくいものです。しかしそれを持ち続ける時に、その偽善はあなたの信仰生活すべてに影響を与え、家族や友人知人にまで影響を与えるようになります。偽善をなくすために、神の前にしっかりとあなた自身の心を探り、悪いパン種を捨て去っていきましょう。

 

 

 

 

 

 
■2005年11月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   跋山渉水 ばつざんしょうすい   up 2005.11.13


山や野を踏み越え、川などの水の中を歩いて渡ることから、不自由を忍び、苦労しながら長い旅を続けることを言う。
 

とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。
(ルカ11:41) 


 

 

苦労して目的地に着くほど、着いた時の喜びは大きいものです。
今年は庭の柿の木が、10年目にしてとても立派な実を付けてくれました。ほとんど手入れもせず、ただ見守ってきただけですが、もっと心を込めて必要な手入れをしていたならば、愛着もあり、さらにすばらしい実を付けてくれたことと思います。
クリスチャン生活も、様々な苦労を体験し、味わった方が、罪を赦してくださったイエス様の救いのみわざがどれほど素晴らしいものであるかがわかり、天国に行った時の喜びが大きいと思います。
イエス様はパリサイ人から食事に招かれた時、あえてTきよめの洗いUをされず食事につかれましたが、それは彼らに、何が一番きよいのかを教えるためでした。
「きよい」という言葉が「跋山渉水」を選んだ理由となりますので、今週は3つのポイントを学んで「うちのものを施しに用いてきよめられる」ということを体験していただきたいと思います。

●ポイント1「施し」
「施し」とは、相手が必要としているものを与えることですから、心理的行動としてただ憐れむだけで留まるのではなく、慈善的な行動を起こすことを指しています。私たち人類は、神のT愛UというそのT心Uを殺す大きな罪を犯しました。その罪は人のいのちをもっても到底償うことのできない大きな罪です。
ですから一方的な神様からの施し(=イエス様の十字架の贖い)によって罪が赦されるしかないのです。
しかしながら、中には「自分の罪は自分で償う。イエス様に施される必要などない!」という傲慢な方がいますが、その人は神の前に犯した罪がどれほど大きいかということに気付いていないのです。
神様は「人類が本来神によって造られた目的を生きてくれるなら…」と、イエス様がそのいのちをもって償うようにと、地上に遣わされ、十字架で全ての罪を処分してくださいました。
ですから罪赦された後の私たちは、自己中心の人生を捨て、神の願われる道を神の子として生きる他ないのです。

●ポイント2「うちのもの」
◎人に施せないうちのもの(マルコの福音書7:20〜23)
「施し」とは弱っている人が良い方向へ回復するための助けをし、将来に希望を与えていくことですから、施す時は、相手がその行為(心)を正しく受け止めて良い方向へ向かっているかよく見極めて、施すことが大切です。(人によっては、施しを受け続けていくことで、かえって堕落していく場合もあります)
「人を赦す」ということにおいても、赦したことによってさらに悪い方向に向かっていくこともあるので、「赦してください」という言葉の中に本当に悔い改めの心があるか、よく見極めなければなりません。
かといって、一度赦したからといってすぐ良くなるとは限らないので、子育てと同様に忍耐強く永く続けることが必要です。
そして施しとは、人々の将来に良い物をもたらすことなので、「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ」など、人の内側から出て人を汚すものは施すべきではありません。

◎人に施せるうちのもの(使徒3:1〜8)
金銀とは外側にある物質的なものを意味しますが、「私にあるもの…」とは内側にある「キリストのよみがえりのいのち」を意味します。
私たちは、愛・柔和な心・寛容・親切などをもってある程度人々を励ますことができますが、そのための精神力や体力には限界があります。
また心病んだ人にカウンセリングをし、回復の手助けをすることもできますが、その人が完全に回復し、自立した精神を持つためには、内におられるキリストのいのちを流し出すしかありません。
終末に向かって必要なことーそれはキリストのいのちの輝きが、私たちのクリスチャン人生からあふれ、人々に分け与えられて、よみがえりのいのちによって、しるしと奇蹟が顕著に現れることです。
私たちはすでに聖霊をいただいているのですから、常に内なる聖霊様と向き合うことによって、どんな困難にも立ち向かうことができます。
肉体的には弱ってきても、よみがえりのいのちを信じて行動すると、内なる人は日々若々しく生きることができるのです。私たちの内にキリストのいのちが輝いていることを信じて生きましょう。

●ポイント3「いっさいがきよい」(第2テモテへの手紙2:22)
この「きよい」ということばには、「何らかの手が加えられて、完全なものができあがる」という意味を持っています。ですから「施し」に心を費やしていくと、練りきよめが始まります。自己中心的考えが扱われ、葛藤が始まるので、火によって精錬され、刈り込みをされるような苦しみを感じるかもしれません。
しかしそれは、聖められるためには必要なものなので、「全ては益となる」と受け止めれば、それこそが『跋山渉水』の人生であり、だからこそ、目的地に到達した時の喜びはひときわ大きいのです。
苦しみを通ることによって神の国の聖さを味わい、時間をかけ苦労した人生ほど価値があると悟るのです。
心の葛藤をどのようにして乗り越えるか、神の前に問答し、祈ることによって教えていただき、一日に一つは施すことにチャレンジしてみてください。
第2テモテへの手紙2:22では「情欲(怒り、ねたみ、嫉妬…)にゆさぶられないよう、きよい心で主を呼び求める人たち(=クリスチャン)どうしで励まし合い、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」と勧めがあります。それは自己中心を捨て、自分を犠牲することなくして持つことはできませんから、うちのものを「施す」ことと同じ意味になるのです。

 

 

 

 

 

 
■2005年11月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   徹頭徹尾 てっとうてつび   up 2005.11.6


最初から最後まで方針や考えを変えないで押し通す様子。どこまでも。
 

愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
(ルカ11:40) 


 

 

このみことばから、私たちは本音と建て前という二重の生活をするのではなく、本音も建て前も、神がお造りになった自分を生きるということを貫き通す(徹頭徹尾)という意味で学んでいきましょう。
私たちはこの世の不敬虔な人々に押し通されないように、この神様からいただいた聖いいのちを保っていくこと、更に聖められていくことを求める姿勢を生涯貫き通しましょう。内側と外側が違うものとならないように、という気持ちで今週は歩んでいきましょう。

●11/7(月)11/9(水)11/11(金)「外側を造られた方」(ローマ人への手紙1:20)(第1コリント人への手紙6:20)
この全宇宙を見ていけば、神のご性質、力、本性までもが見えてくるとあります。陶器師が陶器を造るとき、必ず目的を持って造ります。偶然にできるのではありません。そこに作者の思い、考え、メッセージが込められているのです。
芸術作品を見ると、私たちは何かを感じます。神様が造られたこの天地万物を見て、あなたは何を感じるでしょうか。大自然を見ると、何とも言えない不思議な偉大さを感じます。花の一輪を見ても、すばらしい美しさがあります。花が、私はあのようになりたいと思ってできたのではありません。
自然にそのようなものができるでしょうか。何らかの意志が働かなければ、この全世界はこんなにバランス良くできあがることはないはずです。、
ぜひ、この被造物を通して神様の作品をしっかり見てください。
神は外側を、すなわち目に見えるものを造られました。その見えるものから、少しでもそれをお造りになったお方を知ることができるのです。
アダムを造られた時、どのような気持ちで造られたのでしょうか。
全てのものはキリストが、キリストのために造られたとあります。イエス様は自己満足のために造られたのではなく、ご自分の愛する者のために造られたのです。
沖縄で、陶器師のお話を聞くことができ、神様がどうして陶器師として例えられ、私たちを陶器と表現されているのかよくわかりました。
粘土は生きていて、形通りに造っていても、崩れてしまうことがあります。
そこで陶器師と土との戦いがあるそうです。良い陶器となるため、『土殺し』という、【練る時】を持つのです。私たちも人生の中で練られているのです。苦しい時、辛い時は、私たちを最高の作品にするために、陶器師によってしっかりと【練られている時】なのです。
人によって、練られる時間が違います。土も、作品によって、この程度でいいという練り方もあれば、もっと練っておかなければこの作品にはならないというものもあるそうです。
人よりも苦しみが多いのは、神様があなたを最も良い、唯一の作品に仕上げるため、特に力を込め、時間をかけて練っておられるのです。そのように考えれば、全てが感謝に変えられますね。
神は私たちをすばらしい作品にしようとされましたが、私たちは欲望の誘惑によって、サタンと罪の力の中に自分を明け渡してしまったのです。
最高の作品のはずが、最低の作品となってしまいました。
しかし神様はそのまま放っておくのを残念に思われて、もう一度一から作品を練り直そうと、十字架の贖いのみわざによって買い戻してくださったのです。今私たちは神様の御手の中で練られ、作品にしていただいているのです。神様は外側を造られました。私たちも見える形あるものとして、神の御手の中で造られている人生なのです。

●11/8(火)11/10(木)11/12(土)「内側も造られた」(第1テモテへの手紙6:11)(第1ペテロの手紙3:3〜4)
外側あっての内側ではなく、内側のものがあるから外側が必要なのです。大切なのは内側です。この体は神の尊いいのちを入れる器です。
それなのに良くないものを入れては値打ちが下がるのです。
だから、内側のために、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさいと言われているのです。
最も神様に似せて造られたのは、内側です。その内側のためにふさわしいこの体を与えてくださったのです。神に似せて造られたとは、すなわち自由意志を持っているということです。選択権があるということです。それは人格的自立を認められたということなのです。ロボットや奴隷ではなく、自分の考えを持ってもいいということです。この自由意志と選択権と人格的自立があって初めて、愛というものが生まれてくるのです。
この愛が生まれるために、私たちをご自分の形に似せて造られたのです。その魂が入るのにふさわしい外側を与えてくださいました。だから、内側のために熱心に求めなさいと言われているのです。
外側の値打ちは、内側で決まるのです。男性も女性も、外側だけを着飾ったり立派にしても、内側がみにくければ意味がありません。

肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。(第1テモテへの手紙4:8)
内側の敬虔さを保つための人生の歩み方が、神の前で最も価値ある人生です。
内側が大切だと言いながら、外側を整えようとしています。しかし、外側のためには、内側から始めていかないといけません。
それは正しい良心を育てることです。正しい良心とは神仏を畏れる敬虔な心です。自分よりも優れた存在者、創造主がおられる、と認める心が敬虔な心です。その敬虔な心に、正しい良心が生まれてくるのです。
知恵においても知識においても、まず主を恐れることが初めである、と箴言で言われています。最初に神を恐れてクリスチャン生活を始めたように、最後まで主を恐れて敬虔な人生を全うしようという心構えで、ご一緒に神の愛の内に励んでまいりましょう。