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■2005年10月30日 日曜礼拝メッセージより(横路 満弘 伝道師)
三拝九拝 さんぱいきゅうはい up 2005.10.30
何度も頭を下げて、人に頼み事をすること。敬意を表す語として手紙の末尾に書くこともある。
イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた。
(マルコ6:56)

本当に切実な必要があり、人にお願いするときは、三回も四回も、いや九回も頭を下げてお願いします。「三拝九拝」は、必死の願い事をする時の態度です。
「拝み倒す」という言葉があるように、「三拝九拝」して熱心に頼み込まれると、頼まれた方は断りきれずに、それを引き受けざるを得ない心情になってしまいます。
マルコの福音書6:55には、いやしの御力をいただこう、と人々が、イエス様がおられると聞いた場所にゲネサレ地方をくまなく走り回り、動けない病人まで床に載せ運んで来た、とあります。
人々は、走り回って病人を連れて来て、イエス様にいやしていただくために「三拝九拝」して願い、イエス様の衣にさわった人はみないやされたのです。
●10/31(月)11/3(木)「入っていかれる」(ヤコブの手紙2:2〜4)
あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。あなたがたがりっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたはこちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。
イエス様はこの時もゲネサレ地方に福音を伝えるため入っていかれました。イエス様はなぜ、天の栄光の御座を投げ捨ててまで、私たち人間と同じ不自由な体を持たれ、貧しい者のところへ(ベツレヘム・ナザレに)入っていかれたのでしょう。
それは「入って来られる」ことをイエス様自身が望まれたからだと思います。イエス様は今も、私たちの心の内側に入って来られたいのです。
それは私たちひとりひとりを、愛をもって形造られた、親の心をお持ちだからです。そして、アダムとエバが罪を犯す前の初めの愛の交わりを回復されたいのです。
神から離れ、羊飼いのない羊のようにさまよう、哀れな私たちを放っておくことがおできにならなかったのです。深いその愛とあわれみのゆえに、2000年前にこの世界に入って来られたのです。
私たちは、このイエス様をどのようにお迎えすればいいのでしょうか。マルコの福音書6:54には『人々はすぐにイエスだと気がついて』とあります。イエス様をお迎えするにはまず、「気がつく」ということが必要です。
この時、ゲネサレ地方の人々は、イエス様が入って来られることに「気がついた」のです。
私たちは主を信じてクリスチャンとなったわけですが、洗礼を受けるに至るまでに、イエス様が自分の救い主であることに「気づいて」喜んで主を心の内にお迎えしたのです。それで主は、私たちの人生の内に入ってこられたのです。
しかし最初は、今までの先入観から、イエス様が救い主であることに気づかなかったのです。四大聖人のひとりとか、偉大な人物のひとりとしてしか見ていなかったのです。
私たちは今日、主イエス様こそまことの生ける神であることを知っています。それに「気がついた」のです。
また、そのイエス様は今日も聖霊とみことばによってこの場所に来ておられることを、皆さんは気付いておられるでしょうか。主は今日もまた『わたしがあなたの神、救い主。わたしはあなたを愛し、あなたのためにいのちを捨てました。わたしに気付いてほしいのです。わたしはあなたの内に入りたいのです。』と切に願っておられます。私たちは今日、主が来ておられるのですから、心を開いて主を歓迎しましょう。
習慣的にただ礼拝に出席するだけの者にならないようにしましょう。
また、ここにもう一つのポイントがあります。
ヤコブの手紙2:2〜4には、りっぱな身なりの人と貧しい人が入ってきたとき、そのうわべを見て悪い考えで人を差別してしまうことについて記されています。貧しい人を歓迎しない、悪い心が私たちの内にないでしょうか。神は差別のない方です。すべての人を造られ、どんな人をも同じ愛をもって大切にされます。主は一人一人のすべての人のためにいのちを捨てられたのですから。
すでに私たち一人一人、すべての人に主が入って来られているのですから、互いに歓迎しましょう。また兄弟姉妹を歓迎しないばかりか、主をも歓迎しない者にならないようにしましょう。
●11/1(火)11/4(金)「せめて・・・」(詩篇8:4)
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
この箇所は、偉大な天地の創造主である神様と、すべてを神様によって支えられ、生かされている、塵のような存在の私たちの立場をよくわきまえた、へりくだった心を表しています。
土で形作られた陶器が、それを作った陶器師に対して何の文句が言えるでしょう。
しかし私たちは、時には自分が土くれでしかない者であることを忘れて、大きさや色合い、形や用途について陶器師に対して文句を言っている陶器のようではないでしょうか。
この詩篇の作者のように分をわきまえた、主の前にへりくだった敬虔さを身につけたいものです。
私たちは創造主である聖い神様に、何ら要求できるような者ではなく、罪深い小さな者です。しかし「せめて…」と願い出るへりくだった心を持ちたいのです。これが「三拝九拝」する心です。
マタイの福音書15:22〜28には、カナン人の女がイエス様に「三拝九拝」し、「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」とひたすらへりくだり、娘の病をいやしてもらった記事があります。
顧みてもらえない立場の者が願う場合は、へりくだって「三拝九拝」し、切に求める必要があります。今日そのような敬虔な心が私たちの内にみられるでしょうか。
マルコの福音書5:25〜34には、12年間も長血の持病をわずらい、医者からひどい目にあわされ、財産を使い果たし、かえって悪くなる一方であった女の記事があります。この女はイエス様のことを耳にし、後ろからイエス様の衣のすそにさわりました。『お着物にさわることでもできればきっと治る』と考えていたからでした。するとすぐに、その女がいやされたのです。
この時、この女は、激しいからだの痛みをこらえ、イエス様に振り向いてもらい、おことばをかけてもらうことさえできない状況の中で、必死で近づき、ひざでにじり寄り、手を差し伸べてやっと衣のすそに手が届いたのです。何とその瞬間、いやされたのです。
山城兄のように、シベリアに捕虜として抑留された人の話を聞いたことがあります。
極寒のシベリアで、一日一個の黒パンと少しの飲み物で森林伐採の重労働をさせられ、毎日バタバタと人が死んでいく状況の中でのことです。人々が雪の中を作業のために連れられ、列を作って森へ行く途中で、とある農家から野菜の端切れが一枚、路上に捨てられたそうです。その瞬間、多くの餓えた人々は列を乱して殺到し、無数の手がその野菜の端切れを押さえた、というのです。「せめて…それを私に!…」という、生きるため、助かるための叫びが聞こえてくるようです。
主は私たちに現状をあきらめないで、ひたすら手を差し伸ばす熱い心を求めておられます。
私たちの心に今日、『せめて…主よ』と、自分の必要と隣人の必要に対して求める熱い願いと叫びがあるでしょうか。
●11/2(水)11/5(土)「さわった者」(出エジプト記29:37)
七日間にわたって祭壇のための購いをしなければならない。あなたがたがそれを聖別すれば、祭壇は最も聖なるものとなる。祭壇に触れるものもすべて聖なるものとなる。
さわった者はみな聖められ、いやされました。この記事はイエス様にさわられた者ではなく、さわった者がいやされたのです。
イエス様はゲネサレの地方に行かれました。イエス様が入って来られたことに気付いた人々は、走り回って、動くことのできない病人をもみな、床に載せて運んできました。人々はイエス様に「どうか助けてやってください。せめて衣のすそにでもさわらせてやってください。」と「三拝九拝」して願ったのです。
あわれみ深いイエス様は、それを許可されたので、病人はさわり、そしていやされたのです。
イエス様は、運んで来た人々と、病人の信仰をごらんになり、おそらく、病人たちの寝かせてある場所を歩き巡られ、人々が衣にさわりやすい状況をつくられたと思います。
病人たちは力を振り絞って手を伸ばし、衣にさわったのです。そしてさわった者はみな(100%)いやされたのです!どんな病であっても!ハレルヤ!イエス様はすばらしいいやし主です。しかし、さわれなかった者、さわらなかった者は逆に100%いやされなかったのです。
私たちは毎週のように礼拝に出席しています。礼拝の中には、イエス様の臨在があります。イエス様が「来られている」ことに、私たちは「気付いて」います。私たちは聖霊様が自分に触れてくださるのを待っています。しかし、何も起こらない。いやしも奇蹟も起こらない。「主は私に触れてくださらなかった。」と思って帰宅します。このような場合、どこに問題があるのでしょうか。
もうおわかりですね。消極的で待っているだけで、私たちが主にさわろうとしないからです。
私にこういう経験があります。息子が小学校六年生くらいだったでしょうか。ある集会の中で、私は聖霊の臨在を大いに感じていました。皆と賛美し、手を上げて、聖霊様に触れられているのを感じていました。ふと隣を見ると、息子は手を形だけ上げて立っていました。それで息子に「臨在がわかるか?」と聞くと「わからん。」と言うのです。私は思わず、「こんなに臨在があるのに、お前はなぜわからんのか!」と言ってしまったのです。それで息子はつまづいてしまいました。息子はその時、主に触れたいと願っていなかったのです。
私たちの方から積極的に「衣のすそにでも、主よさわらせてください!私は今あなたにさわりたいのです!」と手を差し伸べて、「三拝九拝」の熱い心で近づき、主にさわる必要があるのです。
そのような人に、主はさわることを許可されるのです。そしてさわる人は、100%聖められ、いやされるのです。また、私たち自身が主にさわり、心も体も霊もいやされ、祝福を受けたなら、ゲネサレ地方の人々がしたように、主の助けを必要としている多くの広島の人々に『罪と病から、イエス様が解放してくださる』と走り回って知らせ、床に寝かせたままでも教会に連れて来ましょう。そのような時が来ます。
そしてイエス様に手を差し伸べて「衣のすそにでもさわらせてください」と「三拝九拝」して願うのです。
そうするなら、主はそれを許可され、さわる者はみな聖められ、いやされるのです!

■2005年10月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
清廉潔白 せいれんけっぱく up 2005.10.23
心や行いが清く正しく、道理に外れることをするような後ろ暗いところがないこと。また、そのさま。
すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。
(ルカ11:39)

今日のみことばは、37、38節から続いています。
食事に招かれたイエス様が、招いた人に対して語られたことばです。
●10/24(月)26(水)28(金)「本音と建て前」(ヤコブの手紙1:22)
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
自分を欺く→うそをつく、だます
本当の自分でない、違う自分を出してやり過ごすことです。
本音があるけれども、建前上このようにしておかなければと、裏と表で自分を欺いているのです。
建前→表向きの方針(基本方針、標準)
基準としての考え方はこれですが、時と場合によって基本方針から外れることがありますが、大きく外れることはしないことです。
私たちの信仰生活が自分を欺いて聞くだけの者とならないようにと、聖書は語っています。神様は外側ではなく、内側を聖くしてほしいと教えておられるのです。本音をまず整えましょう。
人は神に似せて造られた(創世記)と記されてあります。善を愛し、義と親しみ、公平と平等で、あらゆる良いことを求めていくことです。私の本音は善なる者だということを忘れないようにしましょう。
a)神の子としての本音とこの世で生活するための建前
私たちは神のことしての本音を持っています。しかし、この世の生活をするには社会生活の常識があります。この常識に合わせていかなければならない時もあります。聖書には、この世と調子を合わせてはいけませんと書いてあります。しかし、クリスチャンとして正しい良心をもって取るべき態度があります。この世で生活するための建前、基本方針をわきまえて行わないと、反社会的問題で除け者にされ、レッテルを貼られてしまいます。
b)神の子としての建前と肉に属する本音
良いことはわかっている、しかし、世の中ではそれは通じないと、本音がこの世の価値観を中心に物事を考え、聖書もこの世の価値観で読み、判断して受け入れようとしないのです。
c)御霊と共にある本音とみことばの教えによる建前
神様と共にある本音を生きることです。神様の考え、価値観を私も同じにしたいのです。神様の真理に合わせますと。
無理矢理ではなく、自ら進んで同意させていただきますという姿勢が本音の生き方です。
私の生き方として、イエス様と共に生きることが私の本分であり、私が選んだ道ですと。このことがイエス様に対する信頼です。この一週間本音と建て前はどこか、自分を探りながら歩んでみましょう。
●10/25(火)27(木)29(土)「外側をきよめるが…」(ヘブル人への手紙12:14)
すべての人との平和を追い求め、また聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。
大切なのは、外側を聖めることか、内側を聖めることか、目的はどちらかということです。
器の内側が汚れていたら、器の存在価値はなくなってしまいます。
きれいな器に高価な水を入れても、内側に虫や糞が入っていたら飲むことはできません。反対に、外側が汚れていても、内側がきれいだったら、飲めないこともありません。
クリスチャン生活で、外側は十分でなくても、内側がきれいだったら、神様は用いてくださるのです。今はできていなくても(不十分であっても)です。大切なことは聖められることを追い求めることです。
a)外側を変えようとして、内側を変えようとしない。
b)自分以外のものを変えようとして、自分は変わろうとしない。
c)他の人の罪、欠点をきよめようとして注意忠告をするが、自分の罪、欠点は、弱さのゆえにと言い訳してきよめられようとしない。
聖められたいと口では言っているのに、どうしても周りに責任転嫁する人の本音は、自分は変わりたくないという強い気持ちなのです。
周りの人とは関係なく、自分個人の問題で、自分が聖められることが大切なのです。他人に責任を押しつけ、周りを自分に合わせさせないと幸せになれないと思う考え方は、たとえイエス様が目の前におられても不服は消えないでしょう。
「清廉潔白」は内側の問題です。私たちの目指す目的は、神と人との前に裏表のない誠実なクリスチャン生活を送ることです。
では「清廉潔白」の中に、失敗してはいけない、汚れてはいけないという意味が含まれているのでしょうか。
一つも罪を犯さない、道理に外れることのない、後ろ暗いところのないことが「清廉潔白」の絶対条件なのでしょうか。それでしたら私たちは絶望です。
道理に外れるとは、うそを言った時隠し続けることであり、うそを言ったとしても、それを正して謝罪して償いをするなら、道理にかなったことになるのです。失敗した後の処置を間違わなければ、心と行いが聖く正しく道理に外れることなく「清廉潔白」な人生を送ることができます。
汚れを内側に持ち続けないように、神を畏れる正しい良心をもって、人々の前にも神の前にも「清廉潔白」な歩みをしていきましょう。

■2005年10月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
狂瀾怒涛 きょうらんどとう up 2005.10.16
物事が激しく乱れることのたとえ。
汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」
(ルカ11:24〜26)

今週は『狂瀾怒涛』という四文字熟語に視点を置いて、私たちの心が自分でコントロールできないような状態の時、別の力によって支配されている可能性があるということについて、お分かちしたいと思います。
イエス様は、ご自身のわざを悪霊によってなしているのだと言ったパリサイ人に対して、悪霊について語られました。
悪霊については、聖書に書かれている範囲での理解が必要です。悪霊の働きをしっかりと見極めることによって、乱れた心を静めることができます。
●10/17(月)20(木)「悪霊が住み着く」(ローマ人への手紙6:16〜18)
1.肉体が支配されている(ルカの福音書13:11)
福音書を見ると、悪霊と病気には関連があるようです。
「病の霊」とは、どんな病をもたらすかはわかりませんが、病気をもたらす悪霊が、その人の肉体にとりついて、病気という現象を起こすということです。
イエス様は、腰が曲がって伸ばすことのできない女性に対して、「18年もの間サタンに縛られていた」と表現されました。
病気ということで、人生を十分に楽しむことができないように、サタンが束縛していたのです。
私たちも、何年も治らないような病気があると、そのために人生が狂ってしまうということもあります。
人間は健康であり続けることが神の御心なのに、どうして悪霊が住みつく羽目になったのでしょう。
当然、罪という問題からこのような状況が起こったわけです。
悪霊を迎え入れてしまうような不節制な生活が「病の悪霊」を肉体に宿らせ、生活習慣病や成人病というものに悩まされて、快適な人生を送れないということもあります。不節制というのは罪です。
あなたの魂は、神の前に礼拝をし、賛美をしていても、不節制をしていたら、悪霊が肉体に住みつきます。つまり、肉体がコントロールされて、縛られてしい、あなたの魂までその重荷を負って、つらい思いをしなければなりません。
だから、ある先生は、悪霊の追い出しをしてから、病のいやしを祈られることがあります。
私たちの精神には何ら影響はなくても、肉体が悪霊に縛られてしまうことがあり得るということを知っておかないと、神の栄光を現す人生が、肉体的に制限されてしまうことになります。
2.精神と肉体が支配されている(マタイの福音書8:28〜29)
ここでは悪霊がこの人に代わってイエス様と話をしています。
悪霊につかれた人の人格的表現が一切ないということは、人格をコントロールされているということです。
それだけではなく、肉体的にも、抑えることができないほどの力によってひどく凶暴でした。
人の肉体は、ある力によって、自分の意志ではできないものすごい能力を発揮することができます。
催眠術によって、からだが板のように硬直したり、鎖を切るほどの力を発揮することもできます。それを悪霊がやってしまうのです。
でも聖霊様もおできになります。クリスチャンが、自分では飛び越えることのできないほど高い塀を飛び越えることができて、脱出することができたという話もあります。
火事場の力と言われるような力が私たちの中には潜んでいます。
肉体に対する悪霊の働きだけではなく、精神、人格までも失われてしまうほどに支配されてしまうことがあります。
これは精神病ではありません。精神病は、悪霊に混乱させられているという可能性はあります。又イエス様を信じているクリスチャンたちがそこまで支配されるという事例は福音書にはありません。
3.信者のうちに住みやすい霊(第1テモテへの手紙4:1)
クリスチャンが注意しないといけないのは、惑わす霊と、悪霊から来る教えです。
すなわち、教えとか惑わしというものは、思考的な面に対する働きかけです。私たちの思いをコントロールするために、住み着くということです。知性の部分に住み着くのかも知れません。
なので、クリスチャンが気をつけなければいけないのは、いろんな教えを聞きすぎて、聖霊様の教えではなく、惑わしによって混乱させられて、知性の部分に悪霊が影響を与え、住みつくという可能性が大きいということです。
惑わしの霊がとりついたクリスチャンは従順さがなくなり、自分の考えが一番正しいとしていきます。それはもう考え方がこり固まって悔い改めることさえできない、支配された状態です。みことばの解釈も独特なものになります。キリスト教の異端と呼ばれるものみの塔の方々は、知性の面が縛られているので、キリスト教の一番の核心である「キリストは神の子である」という部分を「キリストは天使である」という考え方に洗脳されています。
そのように縛られた考え方や思想は霊的な分野とつながっているので、クリスチャンは気をつけなければなりません。
考え方において、頑固になって自分を正しいと言い切ることのないように、バランスの取れた聖書の理解をすることが大切です。気をつけないとそこに悪霊を迎え入れるドアを開くことになります。
●10/18(火)21(金)「住みかを求める霊」(ローマ6:16〜18)
悪霊は、どこかに落ち着きたい、動物か、人か、何かの偶像か、物に入って休みたいといいう性質があるようです。
パウロは偶像なる神はいないが、偶像を拝み始めると、そこに悪霊が宿って、人々を従わせていくのだと言っています。
例えば、ギターを自分の命のように大切にしているとします。大切にするだけならいいのですが、「ギター様」というように、ギターに自分の心を従わせるまでに愛着を持ってしまうと、それが偶像となり、悪霊は人々を従わせたいので、このギターに宿ります。
すると弾いてもないのに音がするといった現象が起こります。
このような現象を怖がる必要はありませんが、悪霊はチャンスがあれば住み着きたい、餌食にしたいという気持ちで人々を見張っているということですから、未信者にとっては恐ろしいことです。
悪霊は、時間と空間を超えて現実の世界に存在しています。
アダムとエバの時からの人類の歴史や、家系の歴史を全部知っています。だから当てることができます。
沖縄で一番有名な占いの「ユタ」という霊は、いろんな捜し物や問題に対する解答を与えるそうです。このユタの祈祷師も、ランクの高い人ほど心と人生を全部その霊に委ねていないと、そのような占いはできないそうです。
そのようにして、悪霊は私たちを神様から引き離し、真理から引き離し、信仰から引き離して、神などいない、真理などない、あるのは現実だけと思わせて、永遠の滅びへの餌食として支配していく働きをします。
実際に目に見えない存在に対して油断するなら、餌食とされてしまいます。
だからペテロは「身を慎み、目をさましていなさい」と言っています。
これは主を畏れる敬虔な心を失わないようにということです。
慣れとかマンネリ化によって敬虔さが弱まっている時に、悪霊に出くわしてしまうと、急に精神的に不安定になったり、肉体が不健康になって、あなたの人生が「狂瀾怒涛」という言葉のようにかき回されてしまうということも考えられます。
節制のできない状態で、あなたの意志で治めることのできないほどの欲望や感情や、自己主張の自我など、自分の力以上の力が働いていると感じるなら、悪霊が住みついてあなたをコントロールしている可能性があります。
また、肉体的な中毒症状も、悪霊にしばられている状態です。病気も悪霊が住みついている以上は治らないのです。
悪霊が出て行けば、回復力があるので、治っていきます。
●10/19(水)22(土)「主の守り」(第1ヨハネの手紙5:18)
神によって生まれた者(私たち)には、神から生まれた方(イエス・キリスト)が守っている限り、悪い者は触れることができないというのが原則ですが、どうして触れられてしまうのでしょうか?
汚れた霊が追い出されて、休み場を求めてさまよっています。
行く所がないので、元の所に戻ると、きれいに掃除してありしかも誰も入っていない空き家だったということです(ルカの福音書11:24〜26)。
イエス様を信じて、私たちは心を聖められ、神の子とされます。しかし、敬虔さを失うと、心から主を追い出すということになります。守る人がいなかったら、いくらでも入りたい者は入れます。
その結果、悪霊は、ひとりで入るだけでなく、七つの自分より悪い例を連れて、一緒に入るということです。
それで、以前の状態よりも、その人は悪くなるのです。これはリバウンドの原則です。ダイエットでもリバウンドすると以前よりも太ってしまいます。
悪霊は戻って来るという性質もあるので、気をつけないといけません。
主の守りの中に私たちの生活を置くためのポイントとして、「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。」(第1ヨハネの手紙5:18)とあります。
知っていますというギリシャ語は、意識することができる確かなものという意味ですから、強い自覚があるということです。
みなさん、あなたは神によって新しく生まれ変わりました。罪の中に生きないことを自覚しておられるでしょうか?
自覚を薄れさせるものとして、欲望や、嫉妬、ねたみ、怒りなどが考えられますが、それらはどうしてもたらされるのでしょうか?自覚が足りないからでしょうか?
一概には言えませんが、自覚があっても罪の中に引き込まれてしまうという理由は、すでに悪霊に縛られている可能性が強いと思います。
悪霊を追い出さなければなりません。
神様と近くなればなるほど、その権威、権力によって、悪霊は追い出されて行きます。
なので私たちも、もっと神様の霊的権威を与えていただけるようようよう神様との関係をつないでいかなければなりません。
信仰生活の聖めという部分で目を向けなければいけないことは、悪霊に支配されている部分がないだろうかということを良く吟味しなければなりません。
欲望を通して、悪霊が私たちを内側でコントロールしていないかどうか、ということです。
自分の信仰をもっともっと聖められるために、「罪の生活をしない」という姿勢をもっと強く持っていくことが必要だと思います。

■2005年10月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
雲烟過眼 うんえんかがん up 2005.10.9
雲や霞が目の前を過ぎるのに心を動かさないように、物事に執着しない。
強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
(ルカ11:21〜22)

力の強い者が支配するという「力の法則」は天地宇宙万物の真理です。神は力があるからこそ、平和と正義をもって万物を治めることができます。
先週、サタンの国も力を持っていても、内部分裂したら成り立っていかないと学びました。私たちの心も同じで、もし心が乱れていたら、成り立っていきません。そこで、強い方に治めていただく必要があります。
今週は三つのポイントから、(ルカ11:21〜22)について考えていきましょう。
雲 烟(煙) 過眼 の意味は、雲や霞が目前を過ぎるのに心を動かされないように、目先のことに気を取られたり、物事に執着しないということです。
私たちの信仰生活も、強い方である神に守られていても、目先の雲、霞の動き、つまりサタンの誘惑や罪の惑わしに気が取られてしまい、心がそれに執着してしまうなら、そのすきまから悪い者が入り込み、心が崩壊してしまったり、心の中の神の国がいつの間にかサタンの国になってしまうことがあり得ます。
神がいくら全能で強いお方であっても、あなた自身が気がくじけて弱ってしまうなら、神の力を十分に出すことができなくなってしまいます。それゆえ、いつも主が最善の力を発揮することができるよう、私たちは自分の心をしっかりと守る必要があります。そのために、「雲烟過眼」という言葉のように、目先のちょっとした動きや人の言葉に惑わされないようにしましょう。
●10/10(月)13(木)「強い人」(ローマ人への手紙6:16〜18)
家に武装した強い人がいるということは、家が占領されてしまった状態です。
その武装した強い人はもともといたのではなく、後から来てのっとったのです。
もともとは神に似せて造られた私たちの心を、サタンは誘惑という武装でやって来て、のっとってしまいました。
アダムとエバは、サタンから弓や刀で攻撃されることはありませんでしたが、誘惑の声を掛けられた時、エバは自分の欲望が湧き上がり、サタンの声に従ってしまったのです。私たちの内側にある欲望に働きかけて、サタンは私たちを誘惑し、罪を犯させようとします。
欲望に身を任せてゆけば、私たちは再び欲望の奴隷、罪の奴隷となってしまいます。これは私たちが自由意志で従っていくのですから、神はそれに対して何もできません。それは、神は私たちを人格者として認め、その自由意志を尊重してくださっているからです。
アダムとエバ以降、欲望をコントロールする罪が人類の主人となってしまいました。奴隷は主人に逆らえません。それゆえ主人が強い人です。この強い人は、私たちが神に取り返されないよう武装しています。
世の中の人は暗闇の世界で悪魔の武器である惑わしと誘惑によって縛られ、神の福音の輝きを見えなくされています。つまり罪の欲望の魅力の力に惹きつけられ、神の国の魅力が見えないようにされているのです。
あなたは罪の奴隷として欲望に身を任せますか。それとも義の奴隷として神のみことばに身を任せるでしょうか。あなたの意志決断が、これからの人生の方向を決めていきます。
●10/11(火)14(金)「もっと強い人」(ヘブル人への手紙2:14〜16)
もっと強い人とはイエス様です。強い人から解放する力はどのような力でしょう。イエス様は「ご自分の死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」とあります。それはよみがえりの力です。このよみがえりの力は聖霊様によります。努力や信仰によるのではありません。私たちが新しく生まれ変わるのは、私たちの側の努力や信仰によるのではなく、私たちとは別の力、聖霊様の力によります。このことをしっかりと心に留めてください。そうでないと私たちは自分の努力の結果、神様が報いてくださって、新しく造り替えてくださると勘違いをしてしまうことになります。
イエス様の十字架の死はl、法的に正当な手続きです。この法を造られたのは全知全能なる神ご自身です。この神のルールには、サタンですら完全に逆らうことはできません。神はすべてのことを正しく処理されていく義なる方です。それゆえ、サタンが盗人のようにして人類を罠にはめ、自分の奴隷としても、神ご自身は正当なやり方で、人類を救い出そうとされました。盗まれていても、代価を支払って買い戻すことによって、サタンが二度と取り戻せないよう、きっちりと法的手段をとられたのです。
そして、罪深い人類に対する代価として、神は尊い御子のいのちを犠牲にされました。代価としては釣り合わないほど、大きな犠牲を神は払われたのです。サタンは神ご自身がいのちの代価を支払われるとは考えつかなかったでしょう。それゆえもう二度と、サタンは人類を奪うことができません。
イエスの血によって、私たちは全く神のものとなりました。私たちはサタンにごまかされないようにしましょう。サタンは私たちに対して何の権利も持っていません。神は私たちのいのちをサタンの言い値で買われたので、再び罪を犯しても、今度は悔い改めることによって赦されるように、ルールを変えられました。これが新約です。悔い改めたら、義の奴隷になれるのです。なぜなら、私たちの犯すすべての罪の代価は、十字架で支払われているからです。人のことばや周りの環境にくじける必要はありません。あらゆる病気も、私たちに留まる権利はありません。この真理に堅く立って、武装した強い人、悪魔を私たちから追い出しましょう。
●10/12(水)15(土)「だれの住まい」(第1コリント人への手紙6:19)
私たちは聖霊の宮であり、神が住むために造ってくださいました。家とは被造物を意味しています。神はその家を造られた主人です。
自分の持ち家とはつまり、自分の心をそのまま満たす大切なものです。神はご自身の心を満たすものとして、私たちを造られました。それなのにアダムとエバは、その家を強い人、悪魔に売り渡してしまったのです。
買い戻された私たちは、二度とサタンに家を奪われないようにしましょう。この世のもの、人のことばに執着せず、心をしっかりと守り、サタンに隙を与えないように気をつけましょう。

■2005年10月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
内憂外患 ないゆうがいかん up 2005.10.2
国の内部の心配ごとや外国とのもめごとのこと。転じて心配ごとのつきない状態を言う。
しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。
(ルカ11:17)

「争い・分裂」は将来に決して良いものはもたらしません。これは神が教えておられる原則です。
『内憂外患』は、内側にも外側にも問題が山積みである状態を表しています。そして内側に問題があると、必ず外側にも問題が起こるのですが、これはルカの福音書11:17と同じ意味「どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。」と同じ意味を含んでいます。
私たちのクリスチャン生活は外側に問題があったとしても、内側には問題がないはずなのですが、もし内側にも問題があるとしたら、外側の問題も大きくふくらんできて、とても対応できないという気持ちになってしまいます。
同じように、国においても内紛があると敵はそれを利用し、つけこんで一気に攻撃し、滅ぼしてしまいます。
内側に「争い・分裂」があるということは、国を滅ぼしてしまうほどの大きな問題に発展するのです。
今週は「心の中の内輪もめ」ということをポイントに、サタンが私たちの心にもたらすT分裂Uの働きから心を守っていく方法を考えていきたいと思います。
●10/3(月)5(水)7(金)「心がわかれる」(ヤコブの手紙1:6〜8)
私たちのクリスチャン人生に安定がないのは、二心の状態にあり、心の中に内輪もめがあるからではないでしょうか?
「内輪もめ」というギリシャ語は「引き裂いて分ける」という、一つのものを二つに分けてしまうことを意味しています。国でも家でも二つに分かれれば荒れすたれ、つぶれてしまいます。
夫婦でも、神は一体であるべき姿に造られたのに、夫と妻がそれぞれ別の主権をもって治めようとすると必ず家に問題が起こり、そんな家庭に育った子どもは心が二つに分かれ、自分を見失い、安定を欠いた子どもとなってしまいます。
私たちの心がいつまでも迷い分かれていると、大きな混乱を起こし、大変な問題を引き起こしてしまうのです。
「疑いをもつ」ことは、別の心がそこに生まれてきていることを意味しています。ヤコブの手紙1:6〜8では「二心の者は主から何かをいただけると思ってはなりません。」とありますが、別のところでは「二心の者は汚れた者」とみなされています。
人は富と神に仕えることはできず、二つのものに分かれることは神の前においては汚れたことで、罪なのです。人は心をいつも一つにしておかなければなりません。
世の人はお金や地位や名誉によって自分の心を一つに治めようとしますが、クリスチャンは何によって心を治めるのでしょう?十字架で私たちの罪のために血を流してくださったイエス・キリストを迎え入れ、心を治め、支配していただくのです。
しかし、病をいやし、苦しみや辛さから救い出してくださる方というだけに留まっていたのでは、心はいつまでたっても一つにはなりません。それは困った時だけイエス様を求めるからです。
イエス・キリストを王としていつも迎え入れていれば、イエス御自身が心を一つに治めてくださるので、どのような問題や誘惑される状況にあったとしても決して負けることはありません。
心が分かれないように、イエス様を王として迎え入れ、完全にあけわたして支配していただく者となりましょう。
●10/4(火)6(木)8(土)「内にある御国」(ヤコブの手紙4:1)
イエス様が王として内側に住んでくださっているならば、あなたの心には御国(=神の国)が存在しています。イエス様を王として認めはするけれど、別のものに興味を持ち始めると心からイエス様に従うことができなくなり、思い通りに事が運ばない時、愚痴、不平を言い、不信が出てきますが、それはT内輪もめUの始まるきっかけになりかねません。
全能の神があなたの人生に起こるすべてのものを永遠のいのちに至るための導きとしておられることを理解しようともせず、神に対する信頼を失うと「なぜ…こんなことが私の人生に起きるの…?」と疑いの気持ちがふくらんできて、神以外の別の方法を見つけようとします。それは分裂が始まってきたという兆しです。
その印としてヤコブの手紙4:1で言っているように「何が原因であなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう」と人間関係においての戦いや争いが生まれてきます。
その時あなたの心は神の国を持っているにも関わらず、分裂が始まっていくのです。
一時的な感情によって悪いものを出してしまったとしても、御国を持っている人はすぐに悔い改めをすることができますが、御国を持っていない人は自分の間違った感情の出し方を義として主張し始め、神様のなさろうとする心の統一からはみ出してしまいます。
そこにT内輪もめUが芽を出し、無理矢理周りを自分に従わせようとするのです。
あなたの心が神の国に統一されていないということに早く気付くべきです。サタンは欲望という窓口から入ってきて「欲望のままに生きる事が本当の自由だ」と偽りの考え方を持つように働きかけ、心を分けようとします。しかし私たちは何のためにイエス様を信じクリスチャンになったのでしょう?
正しさ、聖さ、愛、喜び、平安など徳の高い道を選び、正しい良心を持って生きることを願ってイエス様のもとで築き上げられていくようにと、それを目的としてクリスチャンの道を選んだのです。
御国があるはずなのに別の国を持とうとしていないか心を吟味し、いつも心が神の国で満たされているように、しっかりと見張っていきましょう。

■2005年9月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
九仞之功 きゅうじんのこう up 2005.9.25
どんなに高い山を完成させるにも、最後のもっこ一杯の土を欠いたなら完成できないことから、完成直前の努力を言う。
また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
(ルカ11:5〜8)

仞=深さ、高さを測る単位
九=(十進法の九は最も多い数字であることから)
非常に数が多い
一生懸命、数多くのことを積み重ねる
功=「九仞之功、一簣に欠く」という言葉からきたもの
●9/26(月)28(水)30(金)
「祈り求める」(ヘブル人への手紙2:10)
神様はあなたの祈りに答えようとしておられるのに、あなたがあきらめてしまって祈らなくなってしまったのでは、結局答えを手にすることはできません。
だから、神様から答えが与えられるまで、あきらめないで祈り求め続けるというのが、たとえ話のポイントです。
祈りだけではなく、何事においても私たちは「九仞之功」を忘れてはいけないのではないでしょうか。
クリスチャンにとっても、私たちは永遠の神の御国に死に至るまで最後まで敬虔な姿勢を失わないように勤め励んでいく、そのような敬虔な生活に神は報いてくださるということを信じ続け、最後のもっこ一杯の土を盛るまで、あきらめないで人生を歩んでいきたいですね。
あきらめきれない、あきらめられないとは、重要だと感じている、
必要性がある、価値あるものと言う意味です。
あなたは祈る時、重要性、必要性を心にしっかりと理解して祈っているでしょうか。
まず神様に祈って、与えられなかったら他の方法でと安易な考え方で祈っていたのでは、最初から与えられません。
与えられるという期待が薄いからです。
「神は全ての祈りに答えてくださる」と証しされる方の祈り求める内容とは、自分にはできないこと、神様しかできない、神しか持っていないもの、神様から与えられなければ得ることのできないものしか祈っていません。
私たちが努力しても手の届かないものに対して求めることが、祈り求めることの基本です。
もう一つ、イエス様がお手本となってあきらめないで祈り求め続けてくださったことがあります。
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
(ヘブル人への手紙2:10)
多くの子たちとは私たちのことです。罪の奴隷の中で正しい良心をもって生きることに飢え渇いている人々を、神がイエス・キリストを通して救いへ導かれます。
栄光とは元々作られた、元の姿に立ち返ることです。
最初に造られたアダムとエバは神の栄光に包まれていましたが、心に浮かんできた欲求を満たすために、神との戒めを破って、誘惑のことばに従ってしまったために、人間の様々な不幸が始まりました。
私たちを罪の呪いから救い出すために、神は救い主イエス・キリストを遣わされました。
救いの創始者とはイエス・キリストです。
多くの苦しみを通して全うされたとはどういうことでしょう。
イエス様は地上における人生の中で(特に公生涯)救い主としての3年半の人生は多くの苦しみを受けられました。十字架の苦しみを通して私たちを栄光に導く救いの道を完成されたということです。
イエス・キリストがおられたので万物が造られ、キリストのために私たちが存在しているのです。キリストの存在は私たちなくして存在しえないし、私たちの存在もキリストなくして存在しえないという相互関係も意味しています。
イエス様は、人となって歩まれた人生の中で、神の義を通し続けて罪をひとつも犯さずに歩まれました。
人生最後の仕上げである十字架の苦しみの中でいのちを全て輝かせて、最後の一盛りを積み上げてくださり、「九仞之功」をお手本として示してくださったゆえに、今私たちは前向きに生きる望みができました。
万物の(私たち)存在の目的である方(イエス様)が私たちの罪の代表となって十字架でいのちを差し出してくださったので、私たちの罪は赦されました。
そして私たちが義とされるために3日目によみがえり、私たちのために神の前にとりなしてくださっています。
どうしてまだ罪を犯す私たちの祈りが神に聞き届けられるのでしょう。とりなし手なるキリストが今も生きておられるからです。
キリストが十字架で死なれただけでなく、よみがえって生きておられるからこそ、神に祈った祈りが応えられるのです。ですから、あきらめないで祈り続けましょう。
●9/27(火)29(木)10/1(土)「だれのために…」(箴言17:17)
夜中にパンを借りに行くのは非常識です。しかし、人を起こしてでもパンを借りに行く必要があったということです。
本来、罪人が神様に祈りに応えてもらうということは非常識なのです。しかし、そうせざるを得ない状況に私たちはあるのです。
あなたが神様に祈っている問題があるなら、それはもうせっぱつまったような、あきらめられないような状況に追い込まれているということを、切実に心に感じながら神様に祈ることが、神様に応えていただけるすばらしいポイントです。
また、このたとえ話を自分たちに当てはめて考えてみましょう。
・借りに行ってくださった友→イエス様
・旅人→私たち
・イエス様が借りに行ってくださったもう一人の友→父なる神様
夜中に旅をするというのは、罪の暗闇の世界で歩んでいる人生のことです。
その中で、暗闇を愛して人生を終える人と、罪の世界で人生を終えることをよしとせず、真理を求め続ける人と、2つに大きく分かれます。皆さんは幸い、あきらめずに旅を続け、イエス様に出会われたのです。
イスラエルはエジプトで寄留者として過ごしたので、旅人をもてなしなさいという旧約の教えがあります。旅人は友として考えるわけです。
イエス様は暗闇で迷っている私たちを友として快く迎え入れてくださったのです。そして私たちの必要、生きるためのパンを、父なる神さまが私たちに与えてくださいました。
イエス様は常に神様に求め、父から聞いて行う以外は何もできないと言われました。どうして病人のいやしや奇蹟をされたのですか。それは父なる神様に借りて、きよいいのちを注いでいやしてくださったのです。借りたということは返す、ということです。借りた人は自分が返すのであって、旅の人に返させることはしません。与えるために借りたのです。イエス様は父なる神さまから借りたのです。なぜなら、罪人である私たちは、父なる神さまに直接願うことのできない者なのです。だれかがとりなさないといけません。イエス様は罪のない方ですから借りることができるのです。だからイエス様は私たちを友として見てくださって、与えてくださいました。そしてご自身はその3つのパンのために、余分に働いて返さないといけません。
すなわち、イエス様はご自分のいのちをもって、借りた3つのパンの代価をお払いになったということを意味しているのです。
罪の真夜中の世界で迷っている私たちを助けるために、いのちのパンを父なる神様から借りてくださって、私たちにその代価を払わせるのではなく、ご自分のいのちをもってその代価を払ってくださった、これがイエス様の十字架の贖い、とりなしの祈りです。
あきらめずに祈り続けて私たちを救ってくださったのです。そこまでして、どうして私たちを救いたいのでしょうか。
誰から見ても価値がないと思えるような者を価値があると見てくださり、あきらめないで十字架で祈り続けて、私たちの罪の赦しを実現してくださいました。イエス様の目から見たら、あなたは高価で尊いのです。多くの苦しみを通して私たちの罪の購いをしてくださいました。そこまでして、神は私たちのことを思っておられるという事実を歴史の中に刻まれたのが、イエス・キリストの歴史的存在と十字架のみわざです。
ここまでの証拠があるのに、なぜ人々は信じないのでしょうか。神様に従うより、自分の思い通りに生きたいのでしょう。しかし、アダムとエバが欲望に従った結果、今日のように殺戮の人生の歴史を生み出してしまったのです。
あなたの好きなまま、欲望のままに生きると、決して幸せは来ません。
神のいのちのおことばの中に留まる人生。その中で神に祈り求める時に、必要のすべてを満たしてくださいます。神様は、敬虔な心を失いたくないという人々のために十字架にかかって、あきらめずに祈り続けてくださいました。だから私たちも、イエス様が愛してくださったように、互いにあきらめずに、互いのために祈り続けましょう。
あなたも誰かが祈ってくれるのです。だから、人のために祈るのです。パンを借りた人は、自分のことよりも友のことを考えて借りに行ったのです。あなたが誰かのために祈り求めるなら、あなたのために誰かが、いや、イエス様ご自身が祈ってくださっているのです。自分のことはイエス様が祈ってくださっているから、隣人の必要のために祈っていきましょう。「どんな時も友を愛すれば、苦難の時の兄弟が生まれる。」
イエス様は私たちを家族として受け入れてくださるために苦しんでくださったのです。そこまでしてくださった方を信じ祈り求めることを途中でやめたりしないようにしましょう。

■2005年9月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
老驥伏櫪 ろうきふくれき up 2005.9.18
人が年老いてもなお大志を抱くことのたとえ。

驥・・・名馬・・・一日に千里を走る
櫪・・・馬小屋
名馬は年老いても走る意欲、気魄は衰えないそうです。
走る体力がなくなり、馬小屋で伏している状態でも、目の輝きの中にそれを見ることができるというところからきています。
人が年老いてもなお大志を抱くというたとえです。現在の高齢化社会で多くの老人の方が失望、失意の中で暮らしておられると思います。私たちはみことばをしっかりと心に留めながら、肉体は年老いても、魂は年老いることがないようにと支えていきたいと思います。
●9/19(月)22(木)「みな老いる」(箴言22:6)
私たちはいずれ必ず年を重ね、そして弱っていくというイメージを抱いてしまいます。そしてこの文明の発達した21世紀において、年を取ることはいやに見えるような老後の姿を目の当たりに見ています。それを見ると希望がなく、長生きしたくないと思ってしまいます。しかし、必ずみんな年老いていくということは間違いのないことです。そのためにどんな準備をしたらいいでしょう。
一般的に老後のためにお金を蓄えておくということは当然考えておられることと思います。老後の年金ですが、2008年には戦後一番多くの人が年金を受け取る年になります。ところが少子化で年金を納める人々が少ないにも関わらず、納めているのは6割程度と言われています。年金制度はパンクしてしまうでしょう。
お金に頼った老後を準備していると大変なことになります。
箴言22:6「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。」
「その行く道」とは、人として生きる道。「年老いてもそれから離れない。」年老いても尊敬される者として、私たちは準備しておく必要があります。有名な「ナショナル」を世界の家電メーカーとして一代で築き上げた松下幸之助さん。彼は小学校4年生で中退したそうです。いくつかの仕事を経て、15才で大阪の電灯会社に社員として勤めます。そして有名な二股ソケットを作ったのですが、社長に認められませんでした。彼はそれを期に独立します。それが大当たりして、松下の会の基礎を築き上げたわけです。
彼は戦後こう言ったそうです。「いくら企業が国家に奉仕しても、国家を形成する人間の心が正しくなければ繁栄はない」そして彼は「繁栄は、平和と幸福によってもたらされる」という合い言葉のもとにPHPの活動を始めました。
文明の中で生活している人間の心が本当の繁栄を造り出すんだ、と心の教育に力を入れて、社員教育を徹底したわけです。小学校を4年で中退した彼は、どのような教育を受けたのでしょうか。それは学問ではなく、人生教育です。私たちもどの学校を出たかではなく、自分の人生に起こってくるさまざまな出来事をどう捉え、どう応答していくかが勉強です。
彼は苦労の中で見出した、人生を乗り越えていく秘訣を身につけました。この若い時の心が90才を過ぎても若者のように社員にチャレンジしていく姿となり、全国民に尊敬されるすばらしい企業家になったのです。
●9/20(火)23(金)「老人の使命」(詩篇71:18)
物に頼る幸福、それはやがて必ず争いを引き起こします。物がなくても平和と幸福を築ける老後を、私たちは考える必要があります。これを成就するには敬虔な心を持つということが必要です。すなわち、道徳心の高い、神を畏れる心を持つということです。
私たちの交わり、これを『広島エルサレムプラン』として広めていくことが私たちの老後にどれほど役に立つか、少なくとも私たちの教会のすべての人が主を畏れる敬虔な心を持って老後を迎えるなら、たとえ日本に大恐慌が起こっても、分かち合うことができ、互いにその苦難を乗り越えることができると思います。
日本はいつまでも今の繁栄を続けることはできません。必ず経済周期があって壊れていきます。戦後の大恐慌から60年が経ちます。もう数年の間に経済の破綻がやって来ます。それは歴史が証明しています。
じゃあ私たちは何のために生きているのでしょう。年を取り、体が動かなくなり、物価が上がり、円の価値が下がり、社会混乱が起きる。そんな中で、老人として夢も希望も、今以上にない状態です。今は福祉施設の制度がまだ残っていますが、私たちの老後は残っていないでしょう。私たちの老後はどう考えても夢がありません。日本にいる限り。
しかし、私たちクリスチャンは、老人の使命を持って、そんな世界の中で生き続ける、神からの役割をいただいています。
詩篇71:18「私を捨てないでください」これは「私を役立たずの者と見なさないでください」という意味です。神様から見た役立たずとは、「熱いか冷たいかであってほしい」と語られた中途半端な人のことです。
「私は老人ですけど、主よあなたの前に、この人生、役立つ者としてお使いください」という前向きな姿勢を失ってしまったらおしまいです。
この詩篇の記者は、年齢や体力の衰えがどうかではなく、生きる限り神の力を、大能のわざを次の世代に、後に来る全ての者に告げ知らせること。主を畏れて敬虔な心を持って生きることの重要性を語っています。その中にどれほど神様のみわざと恵みとが大きく降り注がれて、物質に頼らない幸せ、平安を告げ知らせる。これが老人の役割です。老人には多くの人生経験があり、それを乗り越えてきたからです。その中で主を知り、学び、交わって老後を迎えたわけですから、若者に教えることができる。これは老人の特権です。
今、戦後60年、被爆体験を語られる方が少なくなったことが一番の問題になっています。やはりビデオより、直接その人から話を聞く方が、リアルにしみじみ伝わってきます。人生とは何か、それを正しく若い人に教えることができるのは、その歴史を通り抜けてきた老人に与えられているすばらしい使命です。そのような老後をぜひ描いていただきたいと思います。
●9/21(水)24(土)「老後を美しく」(テトスへの手紙2:2〜3)
テトスへの手紙2:2〜3、これは老人としての美しさを保つポイントです。
自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全である老人というのは、本当に外側の美しさではなく、内側の美しさを感じ取ることができると思います。
老後を美しく、という言葉で、あなたはどのような老後をイメージしますか?一人のクリスチャン女性、矢島楫子(かじこ)という日本キリスト教団の初代婦人リーダー代表の方です。
廃娼運動、禁酒運動で明治初期に活躍した、婦人の人権を守る婦人運動の草分けとなった方です。
天保4年に熊本で六女として生まれました。男の子が欲しい中で6人目の女の子として生まれたために、名前さえ付けてもらえなかったそうです。見るに見かねてお姉さんが「勝子」と付けたということです。
親からの愛情を受けることができなかった彼女は、笑顔のない勝ち気な少女でした。そして兄弟から「渋姉」と呼ばれていました。そして年頃になると、無理矢理お見合いで結婚させられたのです。結婚した男性は酒乱で、10年間悩まされ、辛抱できなくなり、男性が目の病気になったのをきっかけに離婚し、家に戻りました。当時は、どんな理由があっても出戻りは家の恥でした。その恥を受けながら、兄弟の家を転々として暮らしていました。ある時、兄が病気になり、その看病のために上京する船の中で舵取りの舵を見て「こんな小さな舵がこんな大きな船を動かしている。自分も人に馬鹿にされ、役立たずと言われた小さい者だけど、もしかしたら自分も何かできることがあるんじゃないか」という気持ちになったそうです。そこで名前を勝子から楫子に改名し、もう一度勉強し直して教員になりました。しかし、明治の最中に、妻子ある男性教員と不倫をし、子どもができてしまいました。彼女は子どもを置いて逃げて、姿を隠してしまったのです。そんな状況の中で、イエス様に出会ったそうです。
それから彼女は救われる前の「自分は小さな者だけど何かできるんじゃないか」という考えを神様からのものとして、女性のために運動を起こすことを考えて献身的に奉仕したそうです。
そして海外からは、その成果を通して「日本の母」と呼ばれるくらい尊敬される人となったわけです。彼女は90才になって、平和の使者として3回もアメリカに渡っているそうです。周りのクリスチャンが止める中、彼女は「天国は日本からでもアメリカからでも距離は同じでしょう。」と言って、使命感に燃えていました。
この美しさは人柄ですよね。その人柄は主を畏れる敬虔な心から造り出されていくものです。それを目指していきましょう。

■2005年9月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
有言実行 ゆうげんじっこう up 2005.9.11
口に出して言ったことは、必ず実行すること。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
(ルカ10:35〜37)

良きサマリヤ人の例え話をされた後で、イエス様は律法学者に質問されその答えに対して「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。
自分の正しさを認めさせようとする律法学者の論争に乗らずに、彼にとっての隣人とはどういう意味かを悟らされたのです。クリスチャン生活は告白の信仰生活と言われますが、単に告白するだけではなくて実際の生活の中で実行に移してこそ、その約束が成就すると言うことをしっかりと心得ておくことが必要だと思います。
私たちの信仰生活が上辺だけのものでなく、実のあるものとなる確かなものであるということを、この世の人々に示すために「有言実行」という姿勢が大切なのではないでしょうか。
●9/12(月)15(木)「完全な介抱」(ピリピ4:19)
サマリヤ人は強盗に襲われた人の傷の手当てをするだけでなく、宿屋に連れて行き費用全部を支払い最後まで面倒をみました。私達人類は始めの人アダムとエバが一つの戒めを破ってしまったために、神の守りの領域(エルサレム)から欲望の世界(エリコ)へと堕落し、サタンの誘惑により半殺しの目にあいました。
半殺しとはまだ死んでいませんが神は罪を犯したらその日の内に死ぬと言われました。神の一日は1000日と言われるようにアダムは930年生きましたが1000年は生きることができませんでした。アダムからの歴史が積み重ねられ今ではその10分の1の100年も生きることが難しいほどに、人類は罪深い者となってしまいました。アダムの時は半殺しでしたが今はもう瀕死の状態です。正しい良心を働かせることのできない死んだ心に支配されてしまう状態に向かっています。
そんな半殺しの状態の私達に必要なのはお金、名声、名誉、才能、能力ではありません。そのようなものを使うことのできる状態ではないからです。死にかけている者に必要なのは助けられ介抱され回復して生きることです。良きサマリヤ人であるイエス様、聖霊様によって助けられなければみことばを行なうことはできません。半殺しの状態では進むことはできません。「有言実行」という言葉があっても「私は無理だ」と否定的になクリスチャンとして失格だなんていう気持ちになる前に考えてみてほしいのです。
罪の痛みから罪の様々なサタンによる攻撃の痛み苦しみから聖霊様とイエス様の救いによって癒され解放されているでしょうか。私達はまだ傷の痛みが残っていて誘惑に心を踊らせてしまうようなことがあったり人に対して頑なになったり、死の力の痛み、影響力が残っている者です。
だから「主よ私を元通りにして下さい。私の正しい良心がイエス様あなたと同じように全く健全な心となるように私を癒し続けて下さい」とそんな気持ちで神様に祈ります。
それはへりくだりです。神様の前に謙虚になることがどれだけ私達にとって大切であり神の恵みを多く受け取る秘訣であるか、必要だからと神様からいろんな物を頂いても完全に健康な状態になってないなら宝の持ち腐れとなり、恵みを十分に使うことができません。
私達はまず介抱を受けるという心を持つことが必要ではないでしょうか。今日も癒されて解放されて傷が手当てされて罪の誘惑や闇の力の痛みに屈することなく、完全な癒しに向けて一日を送ることができるようにとそのような祈りを捧げることも必要なのではないでしょうか。
そういう祈りを捧げる人々の必要の全てを、神はキリスト・イエスにあるご自身の栄光の富みをもってあなたがたの必要を全て満たして下さると私は(ピリピ4:19)をとるのです。
●9/13(火)16(金)「隣人となる」(ピリピ2:6-7)
律法学者はイエス様に「私の隣人は誰ですか?」と私にとって隣人とはどういう人かという条件を質問しました。でもイエス様が答えられたのは「強盗に襲われた人の隣人になったのは三人の内誰ですか?」という質問でした。ここに律法学者とイエス様の見方の違いがあります。私達はよく自分にとってどうなんだろうと自分中心に考えますが隣人を愛するというのは物事を自分中心に見ることではありません。イエス様は自分中心に人類を見ることなく罪人の側から見て思われたのです。
イエス様は神の姿を捨てて人となられてこの地上に現れて下さったのです。助けが必要な人の状態を良く理解してその気持ちを汲み取って「じゃあ私が隣人になりましょう」と進んで来て下さった、すなわち憐れみが湧き上がったということです。憐れみが湧き上がると隣人になり得るのです。
看護士の象徴をして有名なナイチンゲールはクリミア戦争の時に傷ついた兵士を敵・味方の関係なく介抱したということで尊敬を受けました。彼女は敵・味方の関係なく心に憐れみの湧いた相手の命を尊び助けることが神のみこころだという使命を受け自ら進んで隣人になっていったのです。
「私達にとってあの人は隣人かどうか」ではなく「あの人の隣人に私がなろう」と近寄って行くことが自分を愛するように隣人を愛しなさいという神が教えておられる隣人としての愛し方なのです。憐れみが湧いてくると「しなければならない」ではなくて自ら「したい」という気持ちのものですから、しんどくても疲れずやり通すことができます。
良いお手本はサマリヤ人だけど祭司もレビ人も善意に考えるならば、隣町に行くのだから半殺しにあっている人を助けるために必要なものを何も持っていなかったので通り過ぎるしかなかったとも考えられます。私達には憐れみの心が起こってもできないことがたくさんあります。憐れみの心が湧き上がっているのに見て見ぬふりをして通り過ぎているとしたら、その本当の理由は助ける力がないということではないでしょうか。お金もない、薬も持ってない、宿屋まで連れて行くろばもない、ましてや、担いで行く体力もない、そんな状況の人でも隣人になれる最後の手段が一つだけあります。
それはとりなすということです。もし何もできない状態であれば、祈って下さい。神様はとりなし手が必要なのです。「神様ここに助けが必要な人がいます」と愛を注ぎ出す器が必要なのです。イエス様はその良きお手本として自ら進んで神の栄光を捨てて人となり私達の罪のために裁きを十字架で受けて下さった本当に素晴らしい私達の隣人となって下さったお方です。この最高の良きお手本を心にとめて少しでも近づこうではありませんか。
「有言実行」とは実現するまでやり続けるという意味を含めた行動であることを忘れずに努力し続けて行く人は、必ず愛せるようになる、赦せるようになるという良い結果を得ることができます。
●9/14(水)17(土)「同じように愛する」(第1ヨハネ3:18)
イエス様は律法学者の答えに対して「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。人は正しい答えを出すことはできます。しかし、それを答えと同じようにするということがなかなか難しいのです。だからこそチャレンジし続けるというあきらめない心を持つ神への信仰が必要なのです。
もし、この強盗に襲われて半殺しの目にあっている人が恨みつらみの強い人だったらどうでしょう。祭司とレビ人は行ってしまって嫌なサマリヤ人がやって来た、心に恨みつらみがあると半殺しの状態でも「なんで神は私をこんな目にあわせたのか、サマリヤ人には助けられたくない」という気持ちになりどんなに親切を受けても全部を否定的にとってしまいます。
あなたがもし、問題にぶち当った時どんな人の助言も受け入れず全部を否定的に変えてしまうなら、それはまさに霊的な死の状態です。でも神様に頼るとどう変わりますか。神はラザロを蘇らせたように私をも蘇らせて下さるだろう、聖霊はイエス様を蘇らせたように私を蘇らせて下さるのです。
しかし、そこには一つ条件があります。蘇りを得たいなら神の前にへりくだり心を砕く必要があります。私達はただの土くれで何を神様の前に誇ることができるでしょうか。「もう一度チャンスを下さい」と言うことはものすごくみじめな事ですが、恥も外分もなく神の憐れみの心に自分の心を砕いて求めるという、そこまで自分を神の前に低くすることの出来る人は隣人になりうる心を備えられます。
心を砕かれる体験をした人は憐れみ深くなります。本当に自分を砕いた人は何とかしてその強盗に襲われた人を助けてあげたいと思うほどに憐れみが湧き上がってくるのです。なぜなら、その苦しみを知っているからです。私達は神に憐れみを受け、イエス様が隣人になって下さったという事を思い起こして「こんな私でも今生かされている。人の愛は少ないかもしれないけど神からの愛は十分に与えられている」ということに焦点を向けて、あの人にも神の愛が必要なのだとぜひとりなして下さい。そのことが隣人になれるということです。

■2005年9月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
自戒自制 じかいじせい up 2005.9.4
自分で自分を戒め、自分の行為の善悪を考えてみること
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
(ルカ10:31〜34)

強盗に襲われた人のそばを、レビ人、祭司はそのまま通り過ぎ、最後に通りかかったサマリヤ人が彼を救うという例え話を通して、イエス様が何を語られたのかを考えてみましょう。この例えは、イエス様が「隣り人とは誰か?」という質問に対して答えられたものです。
憐れみを注ぐべき人は誰でも隣り人です。しかし、憐れみを注がなかったら、あなたはその人の隣り人とはなれません。私たちはとっさに、感情的に、善悪を考えることなく物事を決断して行ってしまうことがよくあります。そのために悪い結果をみることもあります。そういう悪い結果をみないために、正しい良心をもって「自戒自制」をし、何が善で何が悪かをよく考えて行動に移すことが大切です。
レビ人と祭司は、とっさの判断によってそこを通り過ぎましたが、サマリヤ人は正しい良心によって考え、行動に移しました。クリスチャン生活も、正しい良心によって、みことばを通して、自戒自制していく姿勢を持つよう心がけることが必要です。
●9/5(月)8(木)「レビ人が下る」(ゼカリヤ書14:16〜17)
レビ人は、エルサレムからエリコに下る途中で、この事件に遭遇しました。助けていたら、自分も襲われかねないような状況です。恐ろしさに、いろんな理由をつけて過ぎ去る人が多くても仕方ないでしょう。
ここで「レビ人が下る」という意味について考えてみましょう。
本来レビ人とはエルサレムに住み、神に仕える部族として聖別され、特別に選ばれた人たちです。「レビ」とは「結びつく」という意味があり、それは神と結ばれた部族ということです。しかし、そのレビ族の彼がエルサレムから出てエリコに下るということは、霊的に徳の高い位置から下ることを意味しており、霊的堕落を表しています。
神に結びついていた心が、物質的欲望に結びつき、この世と結びついてしまったのです。(エリコ=商売の町)クリスチャンでも、自分はエルサレムにいると思っているのに、物質的欲望に結びつき、いつのまにかエリコに下ってしまっているということがないか、気をつけないといけません。
このレビ人はなぜ助けることができなかったのでしょうか。ここであえて「できなかった」と言ったのは、あえてしなかったのではなく、したくても行うことができなかったからです。
その原因は、心が神と結びついておらず、物質的欲望の方に結びついていたからです。
レビの考え方を想像してみましょう。忙しすぎて?他の人が助けるだろう?自分も襲われたら恐いから?良心の呵責を少しでも軽くするために、いろいろな理由を考え出すことでしょう。しかし、これらの理由の行き着く所は、自分がすべての犠牲を払ったとしても、一体何の見返りがあるのかという損得勘定に他なりません。
「エリコに下る」とは「損得勘定の考え方」になることです。自分に利益をもたらさないものには、代価を払おうとしないという考え方です。皆さんはこのような考え方になっていないでしょうか。「自分の敵を愛しなさい」というみことばは、損得勘定では決して理解できない考えです。ナイチンゲールは敵の兵士を助けた時、最初は「なぜ敵を助けるのか」と激しく非難されました。
もしあなたが犠牲をしても何の見返りもないとわかったならば、それ以上何もしなくなるとしたら、あなたの心がエリコに下っているからではないでしょうか。
レビは自分のことしか考えられない、狭い心になってしまっていたので、傷ついた人を助けることができませんでした。
隣り人を助ける広い心のゆとりは、神と結びついていないと持つことはできません。レビ人のように、神と結びついた私たちが、もしこの世の損得に心が向き、この世の欲と結びついてしまったら、人を助け、その隣り人となることはできなくなります。また(ゼカリヤ書14:16〜17)は、心を神に結びつけないと(礼拝=神に心を結びつける)恵みの雨を受け取ることができず、心に御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)が結ばれず、隣り人を助けることができないということです。
●9/6(火)9(金)「祭司が下る」(第1テモテへの手紙2:1〜2)
クリスチャンは神の祭司であると聖書は言っています。それは、この世の人々を祝福し、とりなし、神の教えを伝える務めがあるということです。自分のためにばかり祈らず、神を知らない周りの人々のためにとりなし祈ることが大切です。
あなたでないと、イエス様のことを伝えられないという人が必ずいます。この祭司の務めは大変重要です。当時、祭司がいなければ、罪のいけにえを捧げることもできず、民は滅んでしまうしかありませんでした。祭司はエルサレムにいて、神から与えられた特別の権威を持っていました。しかし、エルサレムから出てしまうということは、例え祭司であっても、聖別された生活を守らないのですから、力も権威も失ってしまいます。
あなたも、クリスチャンといっても、エルサレムにとどまらず、エリコへ下って行くなら、祭司の務めをすることはできません。つまり、あなたのクリスチャン生活がこの世に妥協し、堕落しているなら、いくら人のために祈っても、その祈りは神に聞かれることはない、ということです。
当時、神は民の祈りより、祭司の祈りを聞かれました。それは普段から、祭司が聖別された生活をしていたからです。それは今も同じです。クリスチャンとして聖い生活を送っていなかったら、あなたの祈りは聞かれず、退けられてしまいます。そうしたら、あなたの務めは果たされなくなり、あなたによって救われるはずの魂が滅んでしまうことになります。また、あなたの祈りは身近な人々のためだけでなく、国の指導者、政治家、経済界の人々のためにも捧げられるべきです。なぜなら、彼らの決断が私たちの生活に深刻な影響を与えるからです。得に今は、経済的にも日本は危機的状況にあります。
私たちはすべての権威を与えておられる神に祈り求める必要があります。それは私たちが平和に過ごすためです。
●9/7(月)10(土)「旅の途中のサマリヤ人」(イザヤ書57:15)
サマリヤ人は大変ユダヤ人に嫌われていました。サマリヤを通るよりは、遠回りする方を選んだほどです。しかし、イエス様が彼らの嫌っているサマリヤ人を良い例として扱ったのは、サマリヤ人の性質が、親切で争いを好まなかったからです。しかしその性質は、悪くすれば妥協につながり、実際彼らは偶像礼拝を取り入れてしまいました。しかし、イエス様は、親切の象徴としてサマリヤ人を扱いました。しかも彼は旅の途中であって、目的地に向かって歩んでいるということであり、それは堕落しているのではなく、健全な状態にあることを示しています。
このサマリヤ人は嫌われて偶像礼拝をしていて、ユダヤ人から見ると完全な異端者であるにも関わらず、ある目標に向かって、健全な生活をするように努めていたのです。その目標とは永遠のいのちです。彼らは努力していたのです。しかしユダヤ人たちは、目標を達成して、エルサレムに住んでいながら、エリコに下り、堕落の方向へ進んでいました。
目標に向かうというのは、堕落の方向と正反対です。サマリヤ人は偶像を礼拝しているのに、健全な方向に向かっていました。
あなたがもしクリスチャンであるにも関わらず、堕落へと進んでいるなら、他の宗教の人でも、永遠のいのちを目指して真剣に生きているなら、それを得る可能性、キリストに出会う可能性があるということです。イエス・キリストの贖いの真理は、仏教や他の宗教の人でも、真理を求めている人には尊いものとして受け止められています。
サマリヤ人はユダヤ人たちに嫌われ、卑しめられて、心が砕かれていました。しかしユダヤ人たちは高慢になっていました。サマリヤ人たちがユダヤ人たちにどのように差別されても決して争わず黙っていたのはl、へりくだっていたからです。
へりくだった人は人を憐れみ、親切にすることができます。自分を嫌っているユダヤ人を助けても、何の得にもなりません。しかし彼は自分自身痛めつけられ、苦しんでいたゆえに、そういう目に遭っている人を憐れむことができました。こういう心のある人は、たとえ偶像に仕えていても、真理が開かれるならば回心することができます。あなたは心が砕かれているでしょうか。エルサレムにいて、いつの間にか高慢になっていないでしょうか。砕かれた、へりくだった心こそが、真理に到達する大切な要素です。神の憐れみはそのような人に与えられます。
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