■2005年8月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   痛定思痛 つうていしつう   up 2005.8.28


痛みが治まってから、その痛みを考えるの意から、失敗を後になって反省してみることを言う。
 

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
(ルカ10:30)

 

このところは、よきサマリヤ人のたとえ話です。
律法学者がイエス様に「では、私の隣人とはだれのことですか。」と言ったところから始まっています。
今日はその最初の部分を取り上げてみましょう。
「痛定思痛」痛みが治まって痛みを考え直す、反省する。
失敗を通して成功へと進んでいくのです。

●8/29(月)9/1(木)「エリコへ下る」(ヤコブの手紙1:13〜15)
(ヤコブの手紙1:13〜15)
だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
・エルサレムは平和の町(神の国の象徴)
神が治める町
神の徳の高い町
霊的に高い町
・エリコは商業都市(損得勘定の考え方の町)
経済社会(競争、富、喧嘩、権威、争いが起こる町)
エルサレムからエリコに下るとは、高い道徳水準から、エリコという低い道徳水準に下ることです。(徳の高い生活から、徳の低い生活へ下る)下る(エリコ)とは、努力しなくてすみますが、上る(エルサレム)には努力が必要です。
今日のお話は、エリコに下る途中で強盗に襲われたのです。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されると言っています。この欲は健全な欲ではありません。欲が過ぎると、外部から、誘惑の力が欲を捉えて、誘惑してくるのです。
誘惑とは、神の聖さ、神の義、神の道からそらそうとやってきます。欲は大切なことですが、その欲を満たしたいために、誘惑される隙を与えていないかどうか、自分の欲に引かれていないかどうか、欲を満たしたい気持ちにかられて、安易な方向、エルサレムからエリコへ下っていませんか。
欲がはらむと的を外す考えに引き込まれてしまうのです。神は堕落への誘惑は絶対にされません。

●8/30(火)9/2(金)「強盗に襲われる」(ヘブル人への手紙10:36)
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
「強盗に襲われる」とは物を取られることです。イエス様を信じて与えられたものを奪われないように忍耐しましょう。強盗は悪霊であり、悪魔の象徴でもあります。エルサレム(神の町)からエリコに下るということは、町の城壁(守りの中)から出てしまうことです。城壁の外に出てしまうということに案外私たちは気付かないものです。神の守りがないと気付いた時は、襲われた時です。
悪魔は神に愛されている私たちを妬んで、堕落させ、神の裁きに遭わせるために奪いにやって来ます。
悪魔は自分たちが永遠に滅ぼされることを知っているので、神に対する最大の復讐は、神に愛されている者が神によって裁かれることだと考えているのです。
信仰が奪われると神の裁きを受けなければなりません。敬虔さが奪われると不信仰になって裁きを受けなければなりません。悪霊はイエス様から与えられた赦しの愛、信仰による義、正しい良心を奪おうとやってくるのです。
このようなサタンの策略を無視してはいけません。ではサタンに対処するにはヘブル人への手紙10:36「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」です。エリコに下ることのないように、忍耐を働かせなければなりません。この世の不敬虔な言葉によって、イエス様の十字架の贖いによって着せられた衣(キリストの衣、義の衣、正しい人の衣)を剥ぎ取られないようにしましょう。

●8/31(水)9/3(土)「半殺し」(エレミヤ書8:4)(第2ペテロの手紙3:9)
エルサレムからエリコに出たのですが、最低限の神の守りがありました。サタンは殺すことなく、半殺しまでしかできなかったのです。
この罪の世界が残されている理由と同じようにです。
「あなたは、彼らに言え。主はこう仰せられる。「倒れたら、起きあがらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。」」(エレミヤ書8:4)
人は倒れたら起きあがろうとします。しかし、神様に対して背信したらなかなか悔い改めようとしないのです。神様はサタンに私たちが殺されるところまでは委ねることをされませんでした。
人は苦しみを通して、悔い改める気持ちを正しく持つことができるからです。
神様を信じないで、不敬虔のために苦しみ死ぬことは恐ろしいことだと人々が悟るように。神様はこの世の罪、矛盾、困難、苦しみ、辛さ、痛みの中で、真理を求める心を持つように、目覚めるように、私たちに悔い改めを与えようとしておられるのです。生かされているということは、改めるチャンスが与えられているのです。
神様が意図しておられることは、心を正しい良心に立ち返らせるためであると理解して、辛いだけに心を向けるのではなく、「痛定思痛」その辛さが治まった時に、この痛みは何だったのかと考え直し、神の前に祈りの時を持って欲しいと思います。

 

 

 

 

 

 
 
■2005年8月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   皓月千里 こうげつせんり   up 2005.8.21


輝く月が晴れた夜空にかかっていて、その光は千里四方をも明るく照らすようであることをいう。
 

あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」
(ルカ8:16〜18)

 

暗闇の中に月が明るく輝くと、隅々まで光が射し込み、自然の夜景の美しさをみることができ、感動するものです。私たちのクリスチャン生活も、闇夜に輝く月のようでありたいものです。
私たちは、神様の太陽の光を受けて罪の闇夜に輝くTあかりUであると捉え、地上におけるクリスチャンとしての人生を自覚していただきたいと思います。
今週はルカの福音書8:16〜18から、聖霊様が語っておられることを三つのポイントに分けて学んで行きましょう。

●8/22(月)25(木)「あかり」(ヨハネの福音書1:9)
神の子たちは「あかり」と同じような存在価値と働きを持っています。神からいのちの光をいただいて、敬虔な、主を畏れる心から表される言葉と態度をもって人々を照らすのです。
「あかり」は人々の前にはっきりとさらされることによって、世の中の人々の心を照らし、希望を与えることができます。それなのに、その素晴らしさをどうして隠そうとするのでしょう?
クリスチャン人口の少ない社会の中で、クリスチャンとしての光を輝かせることは恥ずかしいと思い妥協したり、せっかくの「あかり」を隠すべきではありません。
言葉が乱れ、社会道徳の低下した罪の世界の中で輝かすことこそが主の御心なのです。
「あかり」を輝かせるためのろうそくの芯を燃やし続けるには油が必要です。
油は聖霊ですから、デボーションの中で聖霊なる神としっかりお交わりすることによってろうそくの芯に油を充分にからみつかせ、いつまでも消えることのない「あかり」を輝かせましょう。
「あかり」には明るさの違いがあります。それは使われるのにふさわしい場所があるので、神がすべてを必要なものとして、違う明るさの「あかり」を造られました。
人とその明るさを比べるのではなく、ひとりひとりが与えられた「あかり」を精一杯輝かせることを神は喜ばれます。私たちの「あかり」はキリストの体である教会に託されているのですから、しっかり輝いて、イエス様のように人々に希望と喜びを与える者となりましょう。

●8/23(火)26(金)「あらわにされる」(ピリピ人への手紙2:14〜16)
すべて隠されているものが明らかにされる時がやってきます。それは隠されている罪(悪)が明らかにされる時であり、良い行いが明らかにされて報われる時でもあります。それは「神の法則」です。
もしクリスチャンが罪を犯しているならば、恥をかく前に悔い改める事が必要です。敬虔な、神を畏れる心をもって歩み続けているにも関わらず、その良い行いが認められる事もなく、むしろ反対に攻撃されるような事があったとしても、必ず報われる時が来ると信じ続ける事が大切です。
ピリピの人々はローマ帝国の支配の中で、命がけで信仰生活を保つことができました。クリスチャンであるという事で、世の中的には何一つ良い事がないという状態の中で信仰生活を保てたのは、神に対する全き信頼があったからです。
ピリピ人への手紙2:14〜16で「全ての事をつぶやかず、疑わず、行った時、自分の努力した事が無駄でなく、苦労した事も無駄でなかった事を、キリストの目に誇ることができます」とありますから、主が必ず備えてくださっている事を信頼して、最後まであきらめずに主を畏れる敬虔な生活を全うしていきましょう。

●8/24(水)27(土)「神の法則」(箴言9:9)
ルカの福音書8:18で「持っている人はさらに与えられ、持たない人は持っているものまでも取り上げられます」とありますが、これは「神の法則」です。二つの状況に分かれるポイントは「聞き方」にあります。
財布の中に入っている千円札を見た時「千円しかない」とみるか「千円もある」とみるかで、使い方に大きな違いが出てきます。
「聞き方」とは人生の様々なできごとに対してどのように捉えるかという事です。前向きに希望を持って受け止めていくことで、持っているものをいくらでも増やすことのできる知恵が与えられます。
しかし、反対に否定的に捉える人は、何の知恵も浮かんでこないので、増やすことができません。
多くのものを与えられている事よりも、すでに与えられている限られたものをいかに用いるか、そのための知恵を得る事の方が良いのです。
私たちは人生の中で、自分の持っているものを見て、何の役にも立たないとすぐに判断を下してしまいやすいものですが、神から与えられている恵み(お金、才能、環境など)に対し、知恵を使えば与えられている者はますます与えられるという「神の法則」が生きてくるのです。
与えられているものが多いか少ないかではなく、それをどのように工夫し生かしていくか、考え次第でいくらでも大きく発展していきます。
かしこく豊かな知恵あるクリスチャンとなるために、神としっかり交わり、みことばに聞き、求めて行きましょう。

 

 

 

 

 

 
 
■2005年8月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   伴食大臣 ばんしょくだいじん   up 2005.8.14


大臣の地位にはついているが実力や実権が伴っていないこと。無能な大臣。
 

そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
(ルカ7:44〜50)

 

伴食とは食事に伴う、来賓の接待ばかりしている無能な大臣を指しています。無能というのは、その人に能力がないのではなく、その大臣としての責務、権限を果たしていないということです。ここで学ぶことは、私たちは神の子として、キリストと共に神の座についているとエペソ人への手紙に記されています。それは権力の座です。私たちは神様の権力を行使する立場にある者です。にもかかわらず、伴食大臣のように、自分の人生の成功のため、生活の向上のためばかりに力を注いで、神の子としての平和を造り出すという働きをしていない。そればかりか自己中心の平和を造り出そうとして問題を起こしてしまっている。どうしてでしょう。今週は神の子としての働きの中を、皆さんで一緒に歩んでまいりましょう。

●8/15(月)「キリストの足を洗う」(ルカの福音書7:44)(第2コリント人への手紙4:5)
<ルカの福音書7:44>
パリサイ人シモンの家に客人として招かれたイエス様。しかし、客人扱いされませんでした。むしろ、自分の足下で涙を流し、口づけをし、香油を塗ってくれたこの女性。シモンと対比して私たちに真理を教えておられます。
教会はキリストの体。その一部である足は、人生の歩みを表しています。教会は今、罪の世界でその歩みをしています。ですから汚れているわけです。教会はクリスチャンの集合体です。この女性がキリストの足を洗ったということは、私たちクリスチャン一人一人の生活に対して、涙を流してその汚れを洗い落とすという意味にとらえたらいいと思います。
私たちは、イエス様の購いの御業に対して、お互いに涙を流すほどの感動をもってクリスチャン生活をきよめ合っているでしょうか。イエス様のお話の中心は、『父なる神は私たちを愛して罪を赦してくださる』という福音です。彼女はその福音を自分のものとしてとらえたのです。なぜなら、罪深い生活の中で、その罪をしっかりと自覚していたからです。
きよめに対して関心のある人は福音に耳を傾けますが、この世の人生の成功を求める人には、天国の話は関心がありません。
また、イエス様はこの二人を対比して「多く赦された者は多く愛す。しかし少ししか愛さない者は少ししか赦されない。」と言われました。あなたの罪の赦しの感動はどこから来るでしょう。知性ではなく心から、どれだけの罪を神様の前に赦されているかということを悟った時、この女性は髪の毛でほこりだらけのイエス様の足をぬぐいました。自分を犠牲にしてまでも感謝を表すことができるようになります。
私たちもお互いにキリストの救いに対する喜び、感動を分かち合っていきましょう。

●8/16(火)「足にくちづけする」(ルカの福音書7:45)(ローマ人への手紙12:10)
口づけは特別に等しい関係の人とのあいさつの表現です。もう一つ、相手を尊重する、大切にするという意味もあります。ですから礼儀でもあります。この女性がイエス様の足下に口づけしたのは、教会に対する、また愛する兄弟姉妹一人一人に対しての礼儀作法、すなわち、もてなし、大切に思う親近感の表れであると思います。
(ローマ人への手紙12:10)私たちが尊敬するべきは、神に愛されている兄弟姉妹、すなわちキリストの体であるということです。能力や才能ではなく、キリストに属する神の家族の一人一人として大切に扱うことが必要です。
彼女は罪深い自分であったけれど、キリストの体なる教会に受け入れられた、その喜びと感動をキリストの足下に口づけして表現したのです。
皆さん、私たちは同じ神を敬う敬虔な正しい良心を持って歩む仲間として、尊重し合うことが必要です。主を畏れる仲間としてお互いを大切にする。それがイエス様の足下に口づけするという行為に表されているのです。あなたはどうですか。主の足下に口づけをしていますか。

●8/17(水)「足に香油を塗る」(ルカの福音書7:46)(第2テモテへの手紙2:21)
香油を塗るとは聖別するという意味で、聖書に表されています。聖別とは、世の中に属していたものを神様だけのものにするという意味です。他の意味もありますが、今回は『聖別』ということに焦点をおきます。
この罪深い女性は、罪が赦された後、救われ罪なき者として神様に受け入れられたのならそれを守りたい、大切にしたいと思いました。すなわち、罪の生活をやめて、キリストの体なる教会の歩みに自分を捧げるという意味で、イエス様の足に香油を塗りました。目上の方から香油を塗られるということは、目下の者が聖別されるということですが、目下の者が目上の方に香油を捧げるということは、自分を捧げるという献身を意味します。キリストと共に歩む人生に自分の人生を捧げ委ねていくということです。
また神に対する仕え方、役割はそれぞれ一人一人にあるわけです。ですから同じである必要はありません。あなた自身の、罪赦された感動をもってキリストと歩むことです。そうすれば、自然に何をしたらいいかわかってきます。自発をかきたたせる動機は、この女性が涙を流すほどに自分の心が変えられた福音を聞いて、罪が赦されたという感動からくるものです。

●8/18(木)「少ししか愛さない」(ルカの福音書7:47)(エレミヤ書5:21)
神様は私たちの行いによって罪を赦す量を加減される方でしょうか。相手を見て赦すかどうか決めていく、それは人間です。イエス様の赦しは私たちの行いによるのではなく、まず、すべての罪を赦しましょうというものです。それなのに少ししか愛さない人は、少ししか赦されていないと感じているからです。それは神sまに対して不敬虔であり、高慢です。少ししか赦されていないという歪んだ心で神様の赦しを見るのではなく、もうすべて赦されているんだという所からの考え方の出発をしましょう。そしてその感謝から神を愛する心を持ちましょう。

●8/19(金)「罪は赦されています」(ルカの福音書7:48)(ハバクク書2:4)
皆さん、「あなたの罪は赦されています」と声を掛けられましたが。そして「私は神様に罪赦され、愛され、受け入れられてなんと幸せなんだろう」という気持ちを少しでも感じることがありましたか。もしまだならどうしてでしょう。それは信頼の度合いによって赦されている実感が違ってくるからです。赦して下さるお方に対する信頼の心、すなわち信仰です。尊敬の心があれば、赦しのことばは感動的に心に入ってきます。人は相手をどう評価するかによってその人の言葉を信じるかどうか決めてしまいます。
私のために十字架にかかってまでも罪の赦しを歴史の中に残してくださったお方。私はそのお方のことばを信じよう。そのように心を開いたなら、聖書にある「あなたの罪は赦されています。」ということばは本当だと心を感激して受け止めることができます。正しい人は正しい良心を働かせる敬虔な人です。だから聖書のおことばを信じることのできる健全さを保ちたいですね。

●8/20(土)「あなたの信仰があなたを救った」(ルカの福音書7:50)(詩篇103:8〜11)
この女性の信仰がもし、イエス様を遣わされたお方が裁き主である神様というだけの捉え方だとしたら「私は裁かれるしかない」という絶望的な気持ちになっていたでしょう。
しかし実際にイエス様を見て、今まで抱いていた、モーセが教えていた裁かれる神様ではなく、あわれみ深い方であるということを知ったわけです。
(詩篇103:8〜11)主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。
私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。
天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
あなたはこれをそのまま信じることができますか?
罪深い女性は、裁き主なる神様が送られた救い主は、神のあわれみを伝えるために来られたお方。今まで全然知らなかった神様に対する部分を知り、そのに望みを置こうとイエス様のもとに来たわけです。そしてイエス様の足下で彼女がした行為を通して「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様は言われたのです。
信じることの出来ない人は「こんな私がどうしてあわれみを受けることができるだろうか。私のような者はだめだ」と、もう神様の前に礼拝を捧げようともしない。それは不敬虔な心にだんだん引き込まれています。今は恵みの時、今は救いの日として、神様はあわれみをもって赦し続けてその罪から完全に離れることができるようにと、私たちを愛おしんで育んでくださっているということを忘れてはいけません。信じ続けていきましょう。いきましょう。

 

 

 

 

 

 
 
■2005年8月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   下学上達 かがくじょうたつ   up 2005.8.14


身近なことから学んで、深い奥義まで達すること
 

「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
(ルカ7:41〜43)

 

初歩を学び上達していくことの意。何事においても上達に至るには、身近なことから学んでいくことが大切です。
イエス様はパリサイ人シモンという人に、聖書の知識はたくさんあるが、もっと大切な基本的なことができていないことを、この例話を通して教えられたように思います。

●8/8(月)「借金」(ローマ人への手紙13:8)
負債者(金を借りた人)にとって、金貸しはどういう存在になるか、ということを考えてみましょうか。負債者は、金貸しがいなければ存在できない、生活を保てない、金貸しに全面的に頼り切っている状態にあります。仮名歌詞のお金によって負債者の生活が支えられているように、創造主のいのちによって被造物のいのちが支えられ、存在そのものが支えられている関係を、私たちは忘れてはいけません。
借金=自分の存在が他のものによって支えられる
金貸しに助けられたありがたい気持ちを持たない人、損得勘定でしか神様を見ないで、人と比較して自分への取り扱いに文句を言うような不敬虔な人は、金貸しが利率を上げて、もっと大きな借金を抱えることになります。(昔は人を見て利率を決めていました)
創造主なる神様は、私たちにとって存在そのものを支えてくださっているお方です。そのことをあなたが理解し、謙虚に受け止めることが正しい良心を働かせる基本的な主を畏れる心になります。

●8/9(火)「金額の違い」(第2コリント人への手紙1:12)
みことば(私たちがこの世の中で、徳にあなたがたに対して、聖さと神から来る誠実さとをもって、人間的な知恵によらず、神の恵みによって行動していることは、私たちの良心のあかしするところであって、これこそ私たちの誇りです。)
人間的な知恵=一般常識、世の中の流れや価値観
神の助けによって行動=借金を赦していただいた神の恵みの価値を下げないように、良心的な判断をして決断する。
良心的な判断をする=神様をごまかしたり、あざむいたりすることなく、神が目の前で見ておられることを意識して行動している。
良心的な生き方をしているパウロは、神に対して借金をしないように、神の恵みを大切にする敬虔な行動・決断をすることが、神の前に誇りであり、神様に借金していないという確信につながっています。
借金をするような私たちは、神様に全面的に生活を頼っている者です。不敬虔は借金として残っていきますが、敬虔さには赦しが与えられて借金が消えていきます。この借りた人の負債額の違いは敬虔さと不敬虔さの違い、神様との心のつながりの関係が表されているとおもいます。敬虔な心は「借金を消すために」では、持つことができません。敬虔さは本当に敬う心、尊敬するものを神に対して見出さなければ生まれてきません。
敬虔な心は誠実・誠意をもってその人に仕えるという気持ちが湧き上がってくるものですから、借金を返すために敬虔な態度だけしょうとしても意味のないことです。
あなたはどれくらい気をつけて敬虔なクリスチャン生活を歩んでおられるでしょうか。

●8/10(水)「返済できない」(エペソ人への手紙2:3)
みことば(私たちもかつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。)
自分の肉の望むままを行い=良心的な考えからの行動ではなかった
御怒り=裁き
エペソ人への手紙2:3ではクリスチャンになる前の状態のことを言っています。
敬虔な人は、ある程度の金額になると使うことを止める決心ができ、実行に移すことができます。しかし、不敬虔な人は借金を重ねて、たとえ1円であっても返すことのできない、神様にとってはどうしようもない存在です。負債者は収入がないので、返すお金も作れず、借金しか残りません。
私たちも神様に対して、「敬虔」という神様を畏れる心がなく、借金しか残らない不敬虔しか神の前に実を結ぶことができなければ、その借金は最後の審判の時に裁かれます。再臨はまだだと思っている人ほど気をつけなければなりませんね。

●8/11(木)「赦した訳」(マルコの福音書6:34)
「赦す」=国王が慈悲深く好意を持って寛容を示すという意味がある。赦した理由は、マルコの福音書6:34でイエス様が群衆を見て羊飼いのいない羊のように見えて深くあわれまれたように、金貸しはこの二人を見て、借金を赦してあげたい気持ちが起こるような状態だったということです。
不敬虔という借金が神様から赦されるのは、慈悲深い神様のあわれみが注がれる時のみです。
私たちは借金を返すことのできない負債者ですから、罪の赦しは神からあわれみを注いでもらわなければ赦されることはありません。
あなたはあわれみを注いでもらうためにどうしますか。神様の前に良心的な心で、誠意と誠実をもって罪を告白したら赦してもらえるのではないでしょうか。神は愛なる神であり、そのお方を父として今歩んでいます。ぜひ赦してもらっただけに留まらず、父なる神と同じように赦す者になりたいですね。

●8/12(金)「よけいに愛する」(詩篇92:5〜6)
「どちらが多く愛するでしょうか」とイエス様がシモンに質問した時に「多く赦してもらったほう(500デナリの人のほう)だと思います。」とシモンは答え、イエス様は「その判断は当たっています」と言われました。ここでイエス様が言われた「多く赦された者が多く愛する」とは、借金が50、500という他と比べての数字・量的な大きさを言っているのではありません。
神の前に自分はどれだけ大きな罪を犯している者だろうかと、自分の罪深さを知った人ほど多く愛するということです。私たちは罪に対して敏感でありましょう。その敏感さが十字架によって罪赦されているという、神を畏れる感謝の気持ち(神を愛する心)を強くします。神の前に罪を隠し、ごまかそうという気持ちは、罪の深さを感じ取ることを鈍くさせてしまいます。神を愛する心が弱いということです。
自分が罪深いことを理解した人ほど、神が罪を赦してくださった愛を大きくとられることができます。

●8/13(土)「判断は当たっている」(箴言17:20)
イエス様の質問に、どう答えても言い逃れのできる答え方をしたシモンに対して、イエス様は「それが正しい」とは言われませんでした。イエス様は、知識的判断は正しいが、あなたはそのことをできていない、ということを言いたかったのです。私たちは聖書の知識を得て、何が善であり悪であるか知識で判断することはできているでしょう。しかし、その判断を行動に移しているでしょうか。
8/6平和記念式典の中で、平和への誓いのことばを二人の子どもたちが発表しましたが、このような内容の言葉がありました。「本当に平和な世界を築くためには、私たちは何をしなければならないのでしょうか。戦争、争い、いじめ、暴力…これらを起こすのは人間です。人間の心です。だから、命を大切にする心、相手を思いやる心をふくらませていくことが大切です。まずは相手のことを知り、違いを理解すること。そして暴力で解決するのではなく、話し合いで解決していくことが、私たちにできる第一歩です。」
知識では良心的な(権威を尊ぶ=命を尊ぶ)考えによって話し合いで解決することだとわかっていても、動機(損したくない、負けたくない等)がともなっていなおので、平和の実現に至りません。
主を尊ぶ=命そのものである神が私たちに与えてくださった命を大切にする
私たちはまず、クリスチャン同士の間で、親子、友人、会社の間で平和のために命を尊ぶ、話し合いによって解決していく生き方を実践していくことが大切だと思います。
そのために「下学上達」あなたの身近なところから、神を畏れる敬虔な心をもって平和を実現していきましょう。

 

 

 

 

 

 
 
■2005年7月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   他山之石 たざんのいし   up 2005.7.31


他人の良くない行動や批評を参考にして、自分の人格を磨くのに役立てる。
 

では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている。』とあなたがたは言うし、人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言うのです。だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」
(ルカ7:31〜35)

 

これは、イエス様やバプテスマのヨハネを批判するイスラエルの指導者たちに向けて語られたことばです。メシヤの預言の成就に対して批判する指導者たちに対する忠告といえます。
私たちも気をつけなければ、神様の御心に対して批判的になってしまうことがあるのではないでしょうか。私たちは、その批判している人たちを見て賢くならなければなりません。そこから教訓を得ることが必要です。「他山之石」とは、他の山の役に立たないような石であっても、自分の持っている宝玉を磨くのに役立てることができる、という意味です。人の良くない行動やその人に対する批判を見て、自分を磨くのに役立て、マイナスをプラスにする賢さを身につけていきましょう。

●8/1(月)4(木)「この時代の人々」(使徒行伝17:30)(使徒行伝2:40)
「無知の時代」「曲がった時代」を「市場に座って呼びかけあう子どもたち」に例えています。この時代の子どもたちは、本来家の手伝いをしているのですが、それをしないで市場に座って、他の人の悪口を言い合っているという子どもたちの姿です。
するべきことをしないで、市場に座り、悪いことを呼びかけあっている、それはまるで今の21世紀を表しているようです。あなたは市場に座っている子どもたちの仲間になりますか。それともその仲間から出た者となりますか。自分をよく吟味して、巻き込まれないように気をつけましょう。

●8/2(火)5(金)「〜してやっても」(ヤコブの手紙4:11)(ローマ人への手紙8:33)
この「笛を吹いてやっても」「弔いの歌を歌ってやっても」という言葉使いに注意してみましょう。
「市場に座っている子どもたち」は、自己中心さを表しています。「〜してやっても」という言葉は、自分の親切や善意、好意を無駄にされたという表現ですが、そこには、「人をコントロールしよう」「自分に従わせよう」という動機が隠れています。
この動機が隠れていないかということを吟味しなければ、あなたの親切は偽物となってしまいます。
この市場の子どもたちは、相手にかまわず自分勝手に笛を吹き、歌を歌って、それに応答しないからといって、相手を批判しているのです。私たちは自分本位の考えで親切をすると、罠に陥りやすくなります。
それは「従わせよう」という罠です。それに従わなかったら、悪口、批判に変わってしまうのです。
<ヤコブの手紙4:11>あなたは親切を施す者であるのに、どうして親切を無にした人を裁くのですか。
人の悪口は「あの人は罪人である」と証言すること、つまり裁く立場に立ってしまうのです。<ローマ人への手紙8:33>あなたは従わせたいために親切をするのですか。人の悪口を言うことは、神が義と認めておられる人を裁くことになるのです。私たちは罪人であって、神様の親切に正しく応えられることは数えるほどしかないのに、なぜ人が親切に報いてくれないと言って、悪口を言い、批判をするのですか。私たちは心の動機に気をつけましょう。

●8/3(水)6(土)「子どもたちが証明します」(ヨハネの福音書5:19)(ヨハネの福音書8:44)
子どもは、親を見て成長していきます。
<ヨハネの福音書5:19>にあるように、父(教える者)から学ばないと、子どもは自分では秩序正しい、熟練したことはできないのです。ではあなたはどんな父を見て育ったでしょうか。
ここで二人の父が出てきます。良い父と悪い父です。(人間の父親のことではありません。)あなたのクリスチャン生活に、神の子としてふさわしい実が実っていれば、あなたの父は天の父です。誰を父として見ているかが大切です。わたしを父と呼ぶのなら、わたしから学び、わたしを真似なさいと言われます。しかし、「お父さん」と呼んでいても、もし別の父から学んでいるのだったら、その子どもになってしまいます。
偽りの父の欲望とは、自己中心、自分に周りをあわさせよう、というごうまんな心です。どんなに「主よ主よ」と言っていても、自己中心の自分の欲望を成し遂げたいという思いに意識を向けているなら、あなたは偽りの父の子になっています。
あなたの意識を、感情やプライドや人生経験に置かないでください。そういう欲望に意識を置くなら、あなたは偽りの父を見て育っていることになってしまいます。あなたの意識を正しい良心に置いてください。そこには、天の父の臨在があり、みことばがあります。
その神ご自身を見て、人生を歩んでいくなら、あなたは必ずイエス様のように敬虔さと品性を身につけることができるでしょう。誰から学ぶのか、すなわちあなたの意識、心の目を何に向けているのかに気をつけて、正しい良心に意識を置きましょう。
市場に座っている子どもたちにならないように、天のお父様を見上げていきましょう。

 

 

 

 

 

 
 
■2005年7月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   拳拳服膺 けんけんふくよう   up 2005.7.24


常に忘れず慎んで胸中にいだき持ち、心を尽くして守り行なう意。
 

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
(マタイ7:24〜27)

 

イエス様は常識的なこと、当たり前のことを語られています。しかもそれをわかりやすく簡単に話されました。当時、ユダヤ教の指導的地位にあったラビたちは、そういう話をされるイエス様をさげすみ、迫害しました。しかし、そういった簡単で当たり前のことが実は行われていないのが、罪のあるこの世界の現状なのです。
「拳拳服膺」の「拳」とは、こぶしの「拳」であり、「こぶしのように背中を丸めて、謙虚にへりくだる」という意味があり、また「慎んで、心の中に刻むように真剣に話を聞く」ということでもあります。「服膺」の膺は胸を表し、この四文字熟語は「へりくだって謙虚に、真剣に、胸に服をまとうように、しっかりと聞いたことを心に刻み込む」という意味になります。これはイエス様のおことばを受け止めるために必要な大切な聞き方であり、聞いたことを行う姿勢につながります。

●7/25(月)28(木)「聞いて行なう」(箴言24:30〜34)
出来ていないことを教えられ、しかもそれを行うよう勧められる理由は何でしょうか。私たちは学校でひらがなを学んだ時も、書いていくことで覚え、身につけてきました。クリスチャンも、そういったことは日常生活で普通に行っています。しかし、イエス様のみことばになると、そういった「聞いて行う」ということをやってみないでいる人が多いようです。むしろ、みことばを教えられた時に、難しくてできないと決めつけてしまっていないでしょうか。
そのような姿勢でい続けると(箴言24:30〜34)のみことばが自分の身に起きてきます。
みことばの種をもらっても、実がなって収穫するための世話を何もしないで怠っていたら、この世のいろいろないばらやいらくさが生えてきて、クリスチャンとしての実がなることはありません。それは自然の農作物と同様です。
この世の企業では、技術者たちが何とかして他社にない最先端のものを発明しようと、懸命に日々努力を惜しまずがんばっています。それに比べて私たちクリスチャンはどうでしょうか。何とかして、良い実(みことばの実)を成らせようと日々努力しているでしょうか。イエス様は「わたしのことばを聞いて、それを行なう人は、岩の上に家を建てる人のようだ」と言われました。しかし、立派な人生の家を建てても、洪水が来ると流されてしまうような所に建ててしまったら、人生のあらゆる業績は無に帰してしまいます。いくら土地が安いからといって、危険区域に豪華邸を建てる人はいません。クリスチャンも安易なことしかやらないでいたら、安い砂地の上に家を建てるような人生になってしまいます。みことばの難しいと思えるところにチャレンジしていくことが、しっかりした岩の上に家を建てることになります。それは困難であり、時間も労力も要ります。しかし、一旦建て上げたなら、二度と壊れることがない、頑丈な家ができあがるのです。イエス様のみことばをしっかりと受け止め、行っていきましょう。難しいからこそ、何度も繰り返す必要があるのです。みことばに何度でもチャレンジしていきましょう。

●7/26(火)29(金)「倒れない家」(詩篇62:2)
イエス様は人生を「家」にたとえておられます。そして、岩の上に建てなさいと言われました。外見の立派な家よりも、丈夫な家の方が勝っています。せっかく建てても壊れてしまっては意味がありません。家というのは一生に一度しか建てられません。長持ちしないと困るのです。
あなたは倒れない家のように自分の人生を築くため、どういう点に気を配っておられますか。
あなたは人のことばに揺るがされやすいでしょうか?そうだとすると、あなたは安易さを重視して、人生の家を建てようとしているかもしれません。周りの環境や人目を気にして、世の中の流行にいつも振り回されていたり、または内面的に感情の起伏が激しく、揺らいでいないでしょうか。そういった状態は砂の上に家を建てているからではないでしょうか。
あなたの人生の家はどんな所に建っているでしょうか。
詩篇の作者は「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」と言っています。私たちは自分の弱点を知り、そこを強めるために、みことばにチャレンジしていくことが必要です。

●7/27(水)30(土)「賢い人」(ヤコブの手紙3:13〜17)
イエス様のみことばを聞いて行う人は賢い人です。この賢さとは何でしょうか。
良いことではなく、悪いことに知恵が働くこともあります。賢さにもいろいろあります。勉強ができるというものや、気配りがよくできるとか、適切な励ましを与えられるとか等です。
それではイエス様が言われる賢さのポイントはどこに置かれているのでしょうか。
ヤコブの手紙は「知恵のある」といっています。その知恵とは善と悪の区別ができ、どう行動するかがわかっているということです。
「知恵」とは
(1)純真である…善悪を見分けるために必要。
(2)平和をつくる…争いを避ける賢さ。勝ち組、負け組を作らない。
(3)寛容さ…自分の考えの範囲に人をはめこまない。神の価値観の範囲という幅広さを持つ。悔い改める(やり直す行動をとる)なら赦すという、神の心の広さ。
この賢さを身につけていくなら、人格者として周りのお手本となり、信頼されていきます。
賢さを見出し、身につけていくことに価値を見出して努めていきましょう。
岩の上に家を建てるように、みことばを聞くだけの人にならず、行う人になりましょう。

 

 

 

 

 

 
 
■2005年7月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   掩耳偸鈴 えんじちゅうれい   up 2005.7.17


鈴の音が聞こえないよう、自分の耳をふさいで盗む。すなわち、良心にそむくことをするたとえ。
 

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
(マタイ7:21〜23)

 

 鈴を盗むのに、どうして自分の耳をふさぐのでしょう。鈴の音がしないように、鈴に詰め物をして盗むならわかりますが、自分の耳をふさいで鈴は鳴っている。愚かなことです。しかし、私たちは普段、そのようなことをしていることが多いです。それは良心にそむくことです。このことを通して、マタイの福音書7:21〜23をひもといていこうと思います。

●7/18(月)21(木)
「名によって〜した」(コロサイ人への手紙3:17)
 コロサイ人への手紙3:17で、『あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。』と教えられています。『すべて主イエスの名によってなし』それなのに、イエス様は「あなたの名によって〜したではありませんか」という人たちに対して、「わたしは全然知らない」「不法をなす者ども。わたしから離れて行け」と言われました。どこがどう違うのでしょう。
 まず、イエス様の名によって物事をするということはどういうことかをよく考えておく必要があります。イエス様の名を意識し、敬意を払って事を行いなさいということです。
 子どもが親の恩を忘れて自由奔放に生きることは、親孝行とは言えません。しかし子どもが、ここまで育ててもらったのは親のおかげだと、自分の人生を感謝して生きているのは親孝行です。親はその気持ちだけでうれしいものです。先祖を、親を尊ぶ気持ち。『イエス様の御名によって物事をなす』とは、イエス様のおかげで今の自分があるということを忘れてはいけないということです。敬虔な心を失わないということです。
 人は尊敬する心がなくなると、相手を軽んじて離れてしまいます。
自分の心を欺いて、罪と妥協する生き方。そういう心の空しさ、辛さを私は学生の時持っていました。その気持ちを今も持ち続けながら、神の前に歩む人生を続けていられることは本当に幸せです。イエス様のおかげです。今の自分はお金で買えません。この私の心はお金ではなく、イエス様を通して注がれた神の恵みによって守られた心です。そのイエス様に対する敬虔な心、それはイエスの名によって生きるということです。
 イエス様が言われた、「不法をなす者ども、わたしはあなたがたを全然知らない」その理由は、その人たちには敬虔な心が欠けていたということです。
 敬虔な人は、神様に対する感謝をいつも表すことができます。だからコロサイでは「すべてわたしの名によってなし、主に感謝しなさい」とあるのです。『イエスの名によって』という本当の意味をこのみことばからしっかりとつかんで、イエス様から「全然知らない」なんて言われることのないように気をつけましょう。

●7/19(火)22(金)「全然知らない」(第1コリント人への手紙8:3)
 「全然知らない」と言われたということは、その人は神を愛していないということです。イエス様はご自身を愛する人をよく知っておられます。しかし、ご自身を愛さない人は全然わからないと言われたのです。その違いはどこでしょう。人格関係における愛、その中に必ず共通して含まれているのは、『尊敬』という言葉です。
 愛は人を大切にします。相手の存在を尊重し、尊びます。ですから、人が神様を愛するということは、神様の存在を尊ぶことですから、それは敬虔な心です。神様を愛するとは、神の前に敬虔な心をもってそのおことばを素直に受け入れて従うということです。
 尊敬しているから従うことができ、理解することができます。そして、できないと思うことさえも、やってみようという気持ちになれるのです。
 「私にはできません」ではなく、「できなかったけど、できるようにがんばります」というのが、愛する者への態度ではないでしょうか。
 あなたが神様を愛しているというならば、無理だと思えるようなおことばであっても、やってみようという前向きな思いになるはずです。それができないということは、神様を愛していない、尊敬していないということです。
 神様を尊敬し、敬う心を持った人は、神によく知られているのです。全然知らないという意味をよく理解して、イエス様にそのようなことを言われないようにしたいですね。

●7/20(水)23(土)
「みこころを行なう」(第1コリント人への手紙2:16)
 子どもの親に対する態度。叱られるから言うことを聞く、親のことが好きだからお手伝いする。どちらが健全な心の動機でしょうか。 
 あなたも地獄へ行くのが恐いから神様のおことばを守っている人ですか?それは不健全です。私たちが、神様の御心、お考え、御教えを受け入れるのは、神様を尊敬しているからです。
 子どもが親を「好き」というその本心は、尊敬しているということです。そのような子どもは貧しさとか、父親がアルコール中毒だとかいうことにも左右されずに、母親を尊敬しているがゆえに、自分の心を守ることができます。同じアルコール中毒の父親を持つ状況の中で育った子どもでも、社会的に立派な人もいれば、親と同じように道を外す人もいます。その違いは尊敬する者を持つか持たないかです。
 私たちが神様の御心、聖書のおことばを守る理由は、裁かれること、地獄へ行くことがいやだからではなく、本当に立派ですばらしい救い主であられるから、そのみおしえを心から喜んで受け入れ、それを守ります。
 このように考えていくと、「あなたの名によって〜したではありませんか」「主よ、主よ。とあなたに求めたではありませんか」という人でも、あなたは本当に自分の利益のためではなく、尊敬、敬意をもって神様との関係を保っているかどうかが、イエス様に「全然知らない」と言われることのない大切なポイントです。
 この尊敬、敬虔な心は知性でも感情でもプライドでもなく、正しい良心が維持することのできる場所です。敬虔な心は、良心が健全でなければ保つことができません。
 宗教を持つということは、敬虔さを持つということです。ただ、敬虔さの基準が何を信じるかによって違ってきます。私たちクリスチャンは、天地を造られた神、その方のみおしえを基準として歩んでいる者です。
 私たちはイスラム教の過激派、原理主義の人たちが、自分の命を自爆テロによって犠牲にすることは理解ができません。それは良心の基準が違うからです。
 しかし、その気持ちは私にも理解できます。なぜなら、私はキリストのためなら、命を差し出す覚悟は出来ているからです。それは良心の内に持っている、道徳的、聖書的基準です。肉体の命は尽きるものですが、魂は永遠です。正義を、きよさを全うするために、肉の命を犠牲にすることさえいとわないと考えることができます。
 私たちを永遠の滅びから救い出すために、神は人となってこの地上に来られ、さまざまな苦しみを受け、身代わりにその裁きを受けてくださいました。
 そのように私たちをこよなく愛してくださる神様のみおしえを良心の基準として歩んでいるのがクリスチャンです。
 「掩耳偸鈴」良心の鈴が鳴っている人です。でも自分で耳を塞いでそれを隠し、覆ってしまっていませんか。盗んでしまっていませんか。ないもののようにしてしまっていませんか。
 人から正しい良心を取ってしまったら、その人格はとても価値の低いものになってしまいます。それは尊い命さえも無価値なものにしてしまいます。盗人人殺しの命も、善人の命も等しく尊い命です。それを盗みのために使いますか、人の徳を建てるために使いますかか。神様からいただいた尊い命、その使い方に鈴を鳴らすのが私たちの良心です。

 

 

 

 

 

 
 
■2005年7月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   大姦似忠 だいかんじちゅう   up 2005.7.10


大悪人は、本心を隠して主君に気に入られるように振舞うので、かえって忠臣のように見られる。
 

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
(マタイ7:15〜20)

 

にせ預言者に気をつけるようにというイエス様のお勧めを通して、「大姦似忠」という四文字熟語を選びました。
姦→悪行を行う、よこしまな者
似忠→本性を出さないので忠実に見える
ここではにせ預言者と指定されていますが、にせものに気をつけなければならないという事も含めて、お話していきたいと思います。
にせものは、見てすぐには見分けられません。本心を隠したままで人々をあざむいて、陥れていきます。預言者は、イスラエルにとって、大きな影響を与える存在でしたが、私たちも、自分に影響を与える人がにせものか本物かを見分けなければなりません。
今週も3つのポイントを通して、みことばから悟りをいただいて、にせもののあざむきに陥ることのないように気をつけていただきたいと思います。

●7/11(月)14(木)「にせ預言者」(ローマ人への手紙16:17〜18)
羊のなりをした、貪欲な狼である偽者に注意しましょうということですが、貪欲な狼、とイエス様が表現された偽者の特徴は、キリストの教えを学んだにも関わらずそれを実行せずに、教えよりも欲望に引き込まれている人々のことです。
さらに、自分と同じ考えの仲間を作り出して分裂を引き起こし、また、正義、聖さ、愛、真実を求めることに対してつまづきを与えます。
社会的につまづきを与えるようなキリスト教会の牧師や、キリスト教のまがいものの団体もあります。
そこにいる人々は、本当に純粋に信じていますが、貪欲な狼であるにせ預言者は、純朴な人々の心を汚し、食い物にしてしまうのです。だます方も悪いけど、だまされる方も悪いなどという問題ではないわけですね。
私たちは純朴な心を汚されないように、利用されないように、偽者を見分けることが必要です。
それと同時に、私たち自身も偽者にならないように気をつけなければなりません。
偽者の親は、子どもを自分のために利用します。自分の社会的肩書きを上げるために、子どもを○○学校に入れなければいけないとか、○○会社に就職させなければダメだとか、いつもある一定以上の基準を子どもに要求する。それは子どものためではなく、自分のためで、このような貪欲な心を持った親は、たとえその子を産んだとしても、偽者の親として育てていることになります。
また最近は学校の先生の中にも、生徒をなぐったり、性的ないやがらせをする先生がいるというニュースが報道されます。純朴な子どもたちの心を傷つけ、汚していく、そのような教師は偽教師です。免許を持っていないという意味ではありません。偽者の特徴は、貪欲な狼のような心、弱い者を餌食にして自分のこやしにしていく、そういう考え方、そういう生活をしている人々は、全部偽者です。
罪という力があなたの正しい良心を誘惑して、貪欲な狼に変身させようと働いてきていることを見破っていかないと、私たちも貪欲な狼に変身してしまう可能性があります。
あなたはイエス様に対して貪欲な狼になっていませんか?
自分の願いがかなえられなかったら信じない、とか。
私たちの父なる神さまは、心底私たちの永遠のいのちのことを心配して、私たちに何が必要で、何を与えるべきかを考えてくださっているお方であることを忘れてはいけないと思います。
貪欲な狼にならないように、あなたの心をよく見張ってください。
そして、あなたはキリストの教えに背いている点がないだろうか?自分と同じ不満を持っている人と集まって、不満を語り合うようなことをしていないだろうか?そして、神の前に純真に歩んでいる人のつまづきになるようなクリスチャン生活を送っていないだろうか?と自分をチェックしてみてください。
偽者のクリスチャンにならないように気をつけましょう。もし、偽者ということに気がついたら、本物になれるように悔い改めたらよいのです。

●7/12(火)15(金)「実によって見分ける」(ルカの福音書8:15)
同じ品物でも、見分けにくいのは質が良いか悪いかです。例えばダイヤモンドでも、カットの仕方によって質が悪くなり、質の悪いものは偽物といえます。
そこで、品質による偽物か本物かを見分けることができれば、最善だといえます。
ルカの福音書8:15のイエス様のおことばは、種まきのたとえの最後の部分です。神のみことばという種を、(道ばた)(石地)(いばらとあざみが生える地)(畑)という4種類の土地にまかれたのですが、豊かな実を結ぶのは、畑である余市に落ちた種であるとお話されています。
種をまくのは何のためかというと、収穫のためで、誰しも品質の良い収穫物を得たいと願います。そのためには良い土地でなければなりませんが、この良い土地、畑は、私たちの心であるとお話されたということです。
この畑をこう考えてみてください。
私たちの心には、知性、感情、意志という三つの部分と、もうひとつ、良心という善悪の判断をする部分があります。知性は、道ばたのように、この世の考え方に影響された、こり固まった考え方で、神のことばを受け付けません。感情は揺れ動き、変化が大きいので、感情によってみことばを受け入れるとスッと信じやすいけれど、自分のしたくないようなみことばは拒絶するので、それ以上成長できません。また、意志という部分にみことばがまかれると、神のことしてのプライドである人間としての正しいプライドよりも、この世的社会的プライドを崩したくない、傷つけたくないという考えが優先して、神の子としての道をふさいでしまいます。
というふうに考えれば、今日も皆同じように、神のみことばを聞いているわけですが、受け止める部分によって、そのみことばがどのように育つかが決まっていくわけです。
たとえ育って実がなったとしても、品質に影響を与えるものです。
みことばが一番豊かな実を結ぶのは、敬虔な心、すなわち良心の部分で聞く時です。あなたの質を決める正しい良心は大丈夫でしょうか?
私は善悪の基準を、聖書の神、イエス・キリストの教えにおいて物事を判断していく事が、人として最も価値ある品の高い人生を歩めると信じています。

●7/13(水)16(土)「火で焼かれる」(エレミヤ書11:16)
イエス様は、にせ預言者を見分けなさいと言うだけではなく、良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます、とつけ加えられています。
神が私たちのことを「良い実を実らせる美しい緑のオリーブの木」と呼ばれたとは、そういうものとしてそこに植えられたということです。良い実とは平和の実、良い実を実らせる者として、神の畑に植えたにもかかわらず、その木は大きな騒ぎを起こす。大きな騒ぎとは、争いのことです。争い合うためにそこに置いたのではんく、良い実を結ぶために置かれたのです。
私たちの人間関係で、平和を作り出していくことが最も価値ある生き方なのに、なぜ争いをしてしまうのでしょう。国益のためといって戦争をするのと同じです。それは貪欲な狼の心から出ている考えです。
私たちは争いをするために生まれてきたのではありません。火をつけ、枝を焼かれるとは、罪に対する裁きがあるという意味です。
悪い実を結ぶという事は、神の前に罪を犯し、的はずれをするという意味で、的はずれを歩み続ける者は、最終的に裁かれなければならないということです。
誰でも忠告を受けなければ正しい道に返ることは難しいことがあります。
でも、偽者という人は、知りつつ間違った道を行く人です。気付かないで間違った状況を歩いている人は、正されたら悔い改めます。
しかし、偽者の人は悔い改めません。これもひとつの特徴です。また偽者の生き方をしている人には、忠告することが必要ですが、もしその人が「いや、これが正しいんだ」と言い張る時、その人は、知性によってか、感情によってか、自我によってかわかりませんが、その三つの部分で忠告を受け取ってしまい、偽者の生き方を選んでしまったのです。
でも敬虔な人は、その忠告によって道から外れていたことに気付かされて、正しい道に戻るように改めるのではないでしょうか。
私たちクリスチャンも本物であるけれど、偽者のようなクリスチャン生活を送ってしまうことがあります。
だから、この礼拝が大切なんですね。本物なのに、偽者のように歩んでいませんか?と気付かされる時でもあるのです。
神は私たちが偽者として滅んでいく事を望んではおられません。だから、私たちに対する愛と、私たちの存在の価値を証しするために、人となって地上に来られ、私たちの罪の刑罰を身代わりに受けてくださり、このことにより、もう一度悔い改めの人生を歩むことのできるチャンスを与えてくださいました。
神は私たちをご自分の型に似せて造られた神の子として、正しく聖く、神の愛にあって生きるためにお造りくださり、存在させておられる、ということにしっかりと焦点を合わせて歩んでいきましょう。

 

 

 

 

 

 
 
■2005年7月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   千辛万苦 せんしんばんく   up 2005.7.3


多くの辛いことや苦しいこと。さまざまな労苦。 

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
(マタイ7:13〜14)

 

世の中は多くの場合、狭く小さなものより広く大きいことの方が良いものだと価値づけられ、力を誇る表れとして大きな建物を建てたり玄関を作ったりします。
しかしイエス様はいのちに至るために「狭い門からはいりなさい」と語られました。今週は「千辛万苦」という言葉で表されているT辛さ・苦しみUとT狭い門Uとを関連づけて、狭い門から入ることの大切さを学んでいきたいと思います。

●7/4(月)「滅びに至る門」(ローマ人への手紙5:14)
アダムが罪を犯し、滅びに至る門に入ってしまったために、アダムの子孫である人類はすべて永遠の滅び(=死)に至ることになってしまいました。
なぜアダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ死が支配するのでしょう。
日本にある外国の領事館の門の中に入ってしまうと、治外法権によって、日本にいながら日本の憲法では裁くことができなくなります。
門はある領域や支配力への入り口ですから、同じように滅びの門の中にいる限り、神は手を出すことができません。
同じように「滅びに至る門」の中にいる限り、神は手を出すことができません。門から出るには、方向転換(=悔い改め)をして、反対方向(=門の外)に向かうのです。
イエス様が来られて、永遠のいのちに至る道をすでに作ってくださっているのですから、悔い改めをすれば必ず滅びに至る門の外へ出ることができます。
しかしクリスチャンでも油断をすると、いつのまにか誘惑されて滅びに至る門の中に入ってしまうことはあります。
門の中に入ればその支配を受けるし、外に出れば支配されることはありません。もしあなたが人の注意や忠告を素直に聞けないとすれば、門の中の影響(悪霊・悪魔の支配)を受け、心がかたくなになっているのかもしれません。心をよく吟味し、早く悔い改めをすることが大切です。

●7/5(火)「広く、大きい」(ユダの手紙1:4)
「広く、大きい」という言葉は、良い意味ではリラックスし安心するというイメージがありますが、「滅びに至る門は広く大きい」ということから考えると、ここでは悪い意味として捉えます。
それは簡単に見つかり、何をするのも自由で、好き放題にできると受け止めることです。神のみことばさえも自分にとって都合のいいことばだけを選び、願望を満たすためだけに利用し、神の恵みを放縦に変えてしまいます。すべてにおいて安易に利益を得ようとします。
今このような状態にあるとすれば、それは滅びに至る門の中にいる印ですから、みことばに対する安易な姿勢がないか吟味して、早く脱出する必要があります。世の中は労苦より安逸をむさぼることを選ぼうとしますが、クリスチャンが労苦をいやがるのはよくないことです。

●7/6(水)「入っていく者が多い」(第1テサロニケ人への手紙5:3)
「赤信号みんなと渡れば恐くない」とは「皆が同じようにして道を渡れば、たとえ赤信号であっても車の方が勝手に止まってくれるだろう」という自己本位の発想です。
世の中の人は、「神を信じなくても、皆が同じようにしていたら、神の裁きにあうことはない」と勝手に思いこんでいます。
しかし神の裁きは決して止められることはありません。
何も知らないで「平和だ、安全だ」と安心して暮らしている純真な人々も、滅びに至る門にいる限り、決して永遠の滅びから逃れることはできないのです。私たちクリスチャンはこの世の平和はそのままでは滅びに至る平和だということを、世の人々に伝えていく大きな責任があります。

●7/7(木)「いのちに至る門」(ローマ人への手紙5:17)
ローマ人への手紙5:17で、「…ひとりの人、イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」とあります。
私たちクリスチャンは、いのちある者としてふさわしく価値ある状態で生きているでしょうか?
それは神を畏れ、敬虔な生き方をすることから始まります。「いのちに至る門」の中に留まっている限り、いのちの感化を受け、たとえ私たちが失敗したとしても、神がその行いを全て益と変えてくださるので、失敗したままで終わることはありません。

●7/8(金)「狭く、小さい」(箴言12:15)
「狭く、小さい」ということを、イエス様は肯定的な表現として用いられました。世の中の人は、キリストだけを信じることは視野が狭い人間になると考え、どの神を信じても救われる、と広い門・安易な道を選ぼうとします。しかし罪深い者が簡単に天国に行けると考える方がおかしいのです。「入る」のは簡単ですが、「至る」ためには多くの忠告が与えられます。それは不自由で多くの制限があり厳格に思えますが、100%いのちに至る一番安全な道へとつながるのです。
箴言12:15で「知恵ある者は忠告を聞き入れる」とあります。もしあなたが正しい良心による判断に基づいた忠告を受けたならば、感情に惑わされることなく、素直に悔い改めて「いのちに至る門」に戻りましょう。

●7/9(土)「見いだす者はまれ」(ヨブ記33:14)
安易な道を選んでいる人にとって、神のことばは関心がないので気付くことは難しいです。彼らは「滅びに至る門」の中にいるのですが、広い所で自由に生きているので、クリスチャンから見るとかえって楽しそうに見えてしまうことがあるかもしれません。信仰生活に入ると忠告が多くなり、それによって肉の思い、感情が揺さぶられ、内面的葛藤が多くなるので、かえって辛い思いをします。
真理に反する世の中で真理を求めて生きているのですから、辛いのは当然ですが、それら全ての辛さ・苦しみは、永遠を目指すことにおいて必ず報われ、平安が与えられ、天国のすばらしさを味わうことができるのです。世の中の多くの人々が安逸をむさぼる中で、「それは違うのではないか…?」と良心を悲しませている魂がいるはずです。そんなあきらめと失望の中にいる人々のために、クリスチャン自身が狭い門から入ることのすばらしさを体験し、人々に証しする者となりましょう。