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■2005年6月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
深謀遠慮 しんぼうえんりょ up 2005.7.3
遠い将来のことまで深く考え、計画を立てること。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。
(マタイ7:12)

マタイの福音書5章〜7章は、イエス様がガリラヤ湖が見える丘の上で語られた山上の垂訓です。これらを読み返してみて二種類の人種の読み方があります。敬虔な人種と不敬虔な人種で、両者の受け止め方が違ってきます。
正しい良心をもって受け取るか、ゆがんだ良心をもって受け取るかで大きく違ってきます。大勢の群衆の前でイエス様は誤解されやすい内容を含めたおことばを語られています。
「聞く耳のある人は聞きなさい」聞く耳とは敬虔な心、へりくだった心で読むと理解できる言葉です。
聞き方に吟味して、神様と私という関係で聞くことが大切です。純真な心でイエス様のおことばに耳を傾けていきましょう。
「深謀」とは深く考え計画を立てること
「遠慮」とは遠くのことまでも深く考え今を決めること
(すなわち再臨、新しい天と地、神の国(天国)に入ること)
遠い将来に備えてマタイの福音書7:12から学んでいきましょう。
●6/27(月)「それで…」(第1テサロニケ人への手紙5:11)
ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
テサロニケはローマ帝国の迫害の中にあって、兄弟姉妹が助け合う教会でした。
「それで…」とは前の文章を受けて語られたことばです。
「子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。」
自分にしてもらいたいことは何だろう、他の人にするとは何だろう。律法はどういうことを現し、預言者とは何を意味しているか、子どもがパンを下さいと言うとき、パンだけでなく他の食物も将来に備え栄養を考えて準備するものです。
人から何か求められた時、相手の徳が高められるものを与えることが大切です。神は永遠という未来に備えて、私たちのために救い主イエス様を遣わされたのです。
●6/28(火)「人からしてほしいこと」(第1コリント人への手紙8:1)
…しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
皆さんに今、人からして欲しいことと言われたら、何と答えられるでしょう。私たちは引き下げ合うことが主で、引き上げ合うことが少ない世の中に生きています。人が一番して欲しいと願うのは、徳が高められることです。徳とは良いことをする品性です。良い影響力を与える人格です。
徳が高められることは、あなたの正しい良心が成長することであり、敬虔さが強められることです。敬虔さのために鍛錬しなさい、後に約束されている永遠のいのちに益になると語っておられます。人の徳を建てる愛を注いでいきましょう。
●6/29(水)「他の人にもそのように…」(エペソ人への手紙6:7)
人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
人に応えることのできるものは、自分が持っているもの、そして自分が用意できるものは応えることができます。
応えることにおいて、自分自身の成長も大切ですが、能力以上のことにおいては、できる人の助けも必要です。神を畏れ、敬虔な正しい良心をもって求めてくる者に対しては喜んで応えてくださいます。神様も同じ心をもって応えてくださるのです。
「他の人にもそのように…」とは、大事にしてあげなさいということです。大事にすると言っても、善意の動機が必要です。主に仕えるようにと言われています。イエス様は十字架で私たちを贖ってくださったのです。
お互い助け合い励まし合っていきましょう。
●6/30(木)「律法1」(第1テモテへの手紙1:9〜10)
「律法は正しい人のためにあるのではなく…健全な教えにそむく事のためにあるのです。」と書いてあります。正しくない人は律法を前にすると、窮屈になります。
正しい人は律法を素直に受け止めることができます。一つのみことばを語られた時、窮屈に感じてしまう人は、違反の中にいるからです。律法を聞いても窮屈に感じないで、喜び、感謝して受け取れる人は、律法を守っている中にいるからです。神の御心は敬虔な気持ちを持たなければ、受け止めることはできません。永遠のいのちより自分のしたいことをしたいので、縛られたと思って教会に来ようとしません。
縛られたと考えることはすでに、正しい人の中にいるのではなく、律法をいやがる健全な教えに背きかけている立場にいるのです。自分は罪人だから、正しいことをするのはいや!と自分で自分を縛っているのです。
敬虔な心が生まれてくると律法は喜びとなります。敬虔になるためには、主を愛することです。イエス様の十字架を通してどんなに愛されているか悟ると、主を愛することができ、律法を喜びとすることができるようになるのです。
●7/1(金)「律法2」(ローマ人への手紙13:9〜10)
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」
律法は愛することを教えています。神が律法を通して教えておられる『違反』とは愛さないことです。愛のない善行は律法に違反しているのです。
愛する心があって初めて善行というものが生かされる(実を結ぶ)のです。愛のない善行は実が入ってなく、『殻』だけです。
律法が言っているあいすることから離れて、愛されることを中心に生きていませんか。もう私たちはイエス様の十字架によって愛されているのです。愛を与えていきましょう。
「与えるは受くるより幸いなり」
●7/2(土)「預言者」(エゼキエル書33:4〜7)
…人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
預言者エゼキエルに見張り人として語られたことばです。
預言者はなぜ、その人の罪を責めるのでしょうか。責めるのではなく、罪から離れるように警告を与えるのです。警告を無視する人は裁かれるのです。無視した人は本人の咎のために裁かれますが、警告を伝えなかった人は見張り人として裁かれるのです。
神の裁きがいつかはやって来ます。そのことをクリスチャンとして証ししていかなければなりません。人々は本当に神の裁きがあることを悟っていくことが大切です。ノアの箱舟の話から、あなた(クリスチャン)を通して、警告を与える者(見張り人)として召されたのです。

■2005年6月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
舐犢之愛 しとくのあい up 2005.6.19
親牛が子牛をなめてかわいがるとことから、親が子を溺愛するたとえ。
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
(ゼパニヤ3:17)

悪い者であっても、自分の子には良きものを与えます。良き父なる神様はなおさら私たちに良きものを与えてくださいます。その気持ちは「舐犢の愛」です。
●6/20(月)23(木)「パンと石」(マタイの福音書7:9)
黙想のポイント
パン=基本的必要なもの。受け入れることができるもの。
石 =必要でないもの。受け入れることができないもの。
パンを求める者に石を与えるとは、どういう意味かを考え、そのようなことをしていないかを吟味する。
パンをくださいと言う人に石を与える、これは親子関係だけでなく、未熟な者と成熟した者という人間関係においても言えます。あなたにパンをくださいと求めて来たのに、あなたは食べることのできない石を与えてしまってはいないでしょうか。
パンは、それを受け入れてこなすことができるもの、すなわち、その人の能力に合ったものです。しかし、それを求めている人に合わない、難しい、困難なものを与えていないかを吟味してください。しつけは必要ですが、その子の能力に合わせた、できるものを与えていかなければなりません。あなたは無理なことを人に与えてはいませんか。
●6/21(火)24(金)「パンと石」(マタイの福音書7:10)
黙想のポイント
魚=うろこのある魚はきよいものを象徴している。
蛇=は虫類は汚れたものを象徴している。
きよいものを求める者に汚れたものを与えるとはどういうことかを考えてみましょう。
・きよいものを求めている子がいるのに、だれが汚れたものを与えるでしょうか。
・新しい人が教会の集会に参加したいというのに、その気持ちをそぐような言葉を与えるのは、不信仰、この世の考え方、汚れたものを与えてしまっていることになります。また人が自分よりも何か良いことをしたら、自分はできないのでねたんで邪魔してしまう、そのようなことをしてしまってはいないでしょうか。誰かの純真な気持ちを汚すようなことをしていないか、吟味してみましょう。
●6/22(水)25(土)「パンと石」(マタイの福音書7:11)
黙想のポイント
子どもは自分の分身、愛らしい存在、未来を託す尊い存在。
天の父は良いお方です。
その方の子であることに、感謝を表しましょう。
良い親の元で育つ子どもは、大きくなればなるほど、親に感謝するようになります。良い親というイメージを持っている子供は、親から悪いものを与えられていないということです。
良い親とは、優しいとか、よく話をしてくれるということでしょうか。
子供は成長と共に、親が自分を立派な人格に育ててくれたということに感謝をします。また自分が子供をもったり、人をお世話するという体験を通して、親への感謝と尊敬が湧いてきます。しかし親自身の満足のために育てられたと感じるなら、大きくなると反発を持つようになります。
親牛が子牛を舐めるように愛を注ぎ育てるとは、大切にということです。その大切さとは、どのような価値観の大切さでしょうか。
あなたの気が済むように育てるのですか。あなたの自己義が不満を起こすから、忠告、指摘するのですか。それは動機が悪いのでケンカになってしまいます。
あなたの忠告、叱責、指摘が愛からでたものであると感じるには何が大切でしょう。それは「心を育てる」ということです。「心を育ててくれているんだ」ということがわかるように伝えれば、感情的には反発しても抑えることができます。
自分の子供とは、自分の分身です。だから成長を願うのです。
「愛らしい存在」とは、自分にとってなくてはならない存在。だからダメになってほしくないと育てるのです。未来を託すことができるとは、自分のなりたかったことを子供に押しつけるのではなく、心の成長を自分よりさらに増してほしいと願うことです。それは束縛ではなく大切なことです。行くべき道を指し示し、心の成長を願って時間と労力をかけるのです。
お金は使う人によって良きにも悪しきにもなります。能力をつけるよりも大切なものは、それを生かすことができる心を育てることなのです。
互いに心を育て合うようにと心がけましょう。

■2005年6月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
刻苦勉励 こっくべんれい up 2005.6.12
力を尽くしてひたすら努力をすること。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
(マタイ7:7〜8)

「求めること、捜すこと、たたくこと」の共通の意味を表していることばが「刻苦勉励」です。それは、心身を苦しめてでも勉学に励むことを言い、苦労して努力するほど良い実を結ぶということです。
楽をして手に入れてきた人はありがたさ、感謝が薄くなります。しかし、苦労して手に入れてきた人は小さなことにも感謝できる敬虔な心を持つようになります。
「求め、捜し、たたくこと」の大切さ、努力すれば必ず報われるということを今週は見ていきます。
●6/13(月)「求めよ1」(第2テモテへの手紙1:9〜10)
神は私たちを招いてくださっています。招待されたということは当然、「来てもいい」という許可が出たということです。もし招待されていなかったら、いくら求めても入れてもらえません。また、もし招待されていても、少しも求めず、そこに行こうとしなかったら、もちろん入ることはありません。神様が私たちに「求めよ」と言われているということは、招待されたということであり、請求してもいいということです。神は私たちに求めてもいい立場、権利を与えてくださいました。それゆえ迷うことなく求めることができます。そして求めるなら必ず手に入れることができるのです。それゆえ私たちのするべき努力の一つ目は「求める」ということです。神が与えてくださった招待券は「イエス・キリストを信じる」ということです。行いや身分、才能とは全然関係ありません。神はすべての人を招いてくださるのです。イエス・キリストを信じるなら、求めることができるのです。
●6/14(火)「求めよ2」(第1ヨハネの手紙5:14)
ヨハネは、何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はきいてくださると確信していました。それは「求めよ」と神が言われるかぎりは、与えてもらえるという確信を持つことができると考えたからです。ただし条件があります。それは、神のみこころにかなう願いであるなら、ということです。全能の神は悪を行うことは決してされません。罪を犯されません。
私たちが祈っても与えられないのは、神の御心から外れているからです。神は私たちが求めるその動機が純粋なものかどうかを見ておられます。ことばでいくら神様のためと祈っていても、その本心に自分のためという貪欲があるなら、その願いはかなえられません。願いがかなうことで、この世の誘惑に心をつかまれ、堕落していくようなものなら、神は決して与えられません。私たちは自分の求める心の動機を探り、見極めてから求めることが大切です。
●6/15(水)「捜せ1」(ルカの福音書9:25)
全世界を手に入れるということは、富と権力を持つということです。しかしもし全世界を手に入れたとしても、自分自身を失ったら何の得にもならないとイエス様は言われました。
捜すためには失ったものに気付かないといけません。まず人として神のかたちに造られた自分自身を見失っていたら、クリスチャンとして何の得にもなりません。つまり自分が何のために造られ存在しているかという存在の目的を見失っていたら、救われていても何の得にもならないということです。これは人生の目的とは異なります。アダムは何のために造られたのでしょう。欲望のゆえに彼は「地を治める」という神の祝福を失ってしまいました。それゆえ今もこの地は「欲望」によって支配されています。このアダムが失った「地を治める」という権利を、私たちは取り戻さないとなりません。神が与えてくださった「地を治める」ということこそ、私たちの存在の目的なのです。私たちは平和の使者として、この地を治めないとなりません。欲望ではなく、神の愛と平和のもとに、この地を治めるようその権利を回復させるために、神はイエス・キリストを遣わしてくださいました。アダムに与えられた祝福、失ったものを私たちは捜し求める必要があります。
●6/16(木)「捜せ2」(ヨハネの黙示録3:3)
二つ目の「捜せ」は何でしょう。長く信仰生活を送っていると、慣れによって肝心なことを失ってしまいがちです。祈り、聖書を読み、集会に出るということは習慣化してしまいます。それ自体は悪いことではありません。しかし、大切なことを見失ってしまうことがあるのです。習慣化していくということは、無意識に行動をとっていうことであり、そこに心がなくなっていくことです。愛のない祈り、愛のない聖書通読、愛のない礼拝出席、愛のない献金、愛のない奉仕。
神様はいつそれを失ったかを思い出しなさいと言っておられます。
私たちは罪を赦されているという感謝を毎日忘れてはなりません。
私たちの罪が赦されるために、尊い御子イエス・キリストの御血が流されたということを忘れてしまったら、心のこもった神への姿勢が失われていきます。神に対する敬虔な心こそ、神は喜んでくださいます。私たちは自分がそういった大切なことを見失っていないかどうか、点検する必要があります。
悔い改めによって、失ったものに気付くへりくだった心の姿勢を持つことが大切です。へりくだった心がないと、私たちは自分が見えなくなってしまいます。
忠告は大切な心の糧になります。悔い改めると、失ったものに気付くようになります。悔い改めて捜し出しましょう。
●6/17(金)「たたけ1」(第1コリント人への手紙10:13)
●6/18(土)「たたけ2」(コロサイ人への手紙1:26)
たたくというのは、行き詰まりの状況であり、追いつめられた状態です。その時できることはただ一つ、たたき続けるということです。たたくとは限界を超えられるすばらしい姿勢であり、神は脱出の道を備えてくださるという約束を与えてくださっています。窮地に追いつめられた中で、なお神を信じてたたき続けられるかどうかを、神は最後の試みとして見ておられます。
「開けます」という約束があったら、開くまでたたき続けないでしょうか。
あなたは何回たたいてあきらめてしまいますか?神は時が来たら開けてくださると信じているなら、たたき続けるはずです。
神がこのような試みを与えられるのは、私たちと成熟した関係を持つようになりたいと願われるからです。神の約束を信じ、たたき続けるということは、どんなことがあっても神を信頼し続けるという信仰の成長を促すものです。
求め、捜し、たたき続けるということは、神との深い信頼関係を得、強い絆を持つために必要な姿勢です。どのように辛い試練であっても、私たちは神を信頼し、たたき続けましょう。神は必ず約束を成就してくださる真実な方なのです。

■2005年6月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
蜀犬吠日 しょっけんはいじつ up 2005.6.5
見識の狭い者が、他人の優れた言動をあれこれと非難することのたとえ。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
(マタイ7:3〜6)

『蜀』というのは、中国の三国時代の一国をいいます。『蜀の犬が日(太陽)に吠える』
蜀は今の四川省にあたります。この地域は非常に雨の日が多い所でした。あまりにも多いので、太陽が出ることの方が珍しく、犬が太陽に驚き、その太陽に向かって吠える姿。それを表している言葉です。この愚かさを見識のない者が他の優れた人の言動をよく知りもせず、非難することに例えたものです。
目の中にある梁に気付かず、他の人の目の中のちりを非難する。犬や豚のような愚かさが私たちにあるのではないか、隠れているのではないか、吟味しながら神の子としての一週間を歩む者となりましょう。
●6/6(月)「梁とちり」(箴言12:15)
建築において梁というのは非常に重要な存在です。梁のない家はありません。それに比べてちりというのは価値のない存在。イエス様はなぜ『梁』と『ちり』という例話を語られたのか。それは存在の重要性を通して、その問題の重要性を教えておられるということです。あなたの目の中にも重要な問題があるにも関わらず、価値のない、気にしなくてもいいようなことに目を向けてしまいます。
人は自分の中にそんなに大きな問題があると言われると、それを隠したくなります。それを指摘されるのが嫌で、相手の目のちりを言いたくなってしまうものです。それは自己義です。自己防衛の心に問題があることに気付きましょう。
ただ神様は、問題の大小を言っておられません。目の中に梁があれば物事を正しく見ることができません。梁であろうとちりであろうと目の中に入るということは、妨げになります。また、人の目の中にあるものを見る前に、自分の目の中にあるものをしっかり見極めるということです。そして、それを取り除かれるのは神様です。
神の前に自分を正しいとするのではなく、罪人であると正直に認めた方が早くいやされ、きよめられます。
●6/7(火)「目のなか」(箴言20:8)
目の働きは、物を見ることによって識別することです。そしてそれをどう受け取るかという理解力も必要になります。またその情報にどう応答するかという思考力もそこに働いてきます。ですから、目の中にはあなたの心である識別力、理解力、思考力があるということです。
もしそれらが、梁という大きな問題に妨げられていたらどうなるでしょう。その問題に影響されて正しい判断ができなくなると考えていただいたらと思います。あなたがもしそのような状態だとしたら、当然いやしていただき、きよめていただかなければなりません。
そこでヘブル9:14をぜひ読んでみてください。そこにはイエス・キリストの血潮が私たちの良心をきよめるとあります。神の前に健全な識別力、理解力、思考力を持つということは、神の前に正しい良心を持つことと同じ意味です。善悪を正しく振り分けることができるのが正しい良心です。イエス様の血潮は、神の愛を象徴しています。その愛に触れれば触れるほど、私たちの良心が正しく機能し、きよめられるのです。
●6/8(水)「見えるふり」(箴言14:8)
「見えるふり」は、偽善者の言い換えです。偽善者は自分を欺くことになるという点がポイントです。自分は正しいと思っているけれど、周りはみな間違いがわかっている。それをあくまで正しいとしているのは何と愚かなことでしょう。裸の王様のようです。
深い知識もないのに、あたかも知っているような態度で自分を表現してしまっていることがありませんか。自分を欺いていくと、だんだん自分でなくなっていきます。
『知恵のある人は自分の道をわきまえる』とあります。それは間違いに気付き、それを認めるということも含まれています。
みなさんは人前で恥をかきたくないという思いから、問題を認めないで、つい自分を欺くような態度をしていませんか。それが重なると、本当の自分ではなくなります。ですから私たちはいつもデボーションや祈りの中で自分を正直に表すことが必要です。
●6/9(木)「梁を取り除く」(エレミヤ書2:19)
ここでエレミヤは不信仰なイスラエルの民に神のお言葉を告げました。『あなたの悪があなたを懲らし』神様は理由もなく懲らしめられる方ではありません。私たちが罪から悪から離れるために懲らしめられるのです。
『あなたの背信があなたを責める』すなわち、神に対して背を向けている態度が責められる原因だということです。
メッセージにおいても、それを感謝して受け取るか、責められているように受け取るか、それで自分の意識は御霊の方に行っているか、肉の方に行っているかがわかります。責められるように感じるのは肉の働きです。なぜなら肉は御霊に反する、神に従えないと聖書にあります。
重大な、目の中にある梁のような問題は、主を捨てて、主を畏れないということです。
私たちクリスチャンは、悔い改めて主を畏れ、主と共に歩む決心をしたにも関わらず、なお目の中に梁を持つ可能性があります。それが神を敬わない心。私たちはいつも砂嵐の中にいるような人生です。その中で目を開ければ、不遜、不敬虔のちりが目の中に入ってきます。正しく物事を見ることができなくなってしまいます。ですから目を守るためにイエス・キリストへの信仰、救いの眼鏡が必要です。
●6/10(金)「犬と豚」(箴言11:22、26:11)
犬や豚にも良い所もあれば、愚かな所もあります。
犬の良さは主人に対する忠実さです。しかし、それが高じてバカ忠実になってしまいます。犬は分別がつきにくいものです。ですから『蜀犬』太陽に向かって吠えるわけです。何でも怪しいと思えばとにかく吠える。見分ける力が弱いからです。
豚はどうでしょう。この聖書の当時(箴言11:22)鼻に金の輪をつけるということはとても高価で、美人の条件でした。
豚は食用と掃除係です。豚は食べられる物は何でも食べるという、識別力の弱さがあります。豚に金の輪はあまりにも価値判断としてはふさわしくない、馬鹿げたことだということです。
ここで学ぶべきことは、私にも愚かさがあるということに気付くことです。「人は完全ではありません。」と言いながら、人の前で完全でありたいと自分を欺いてしまう人がいます。そうではなく、犬や豚にも愚かさがあるように、私にも愚かなところがあると、主を畏れる敬虔なクリスチャン生活を歩みたいものです。
●6/11(土)「向き直る」(箴言25:12)
「また豚の前に真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」豚に餌と札束を投げたとしたら、驚いたとしても餌は食べます。しかし札束だったら向き直るでしょう。それは人とは価値判断が違うからです。
あなたの親切が受け入れられなくて、逆に恨まれるような経験がありませんか。それと同じです。
自分が見えない人、自分を正しいとする人、そういう人にあなたの正義感で親切をすると向き直ってきます。あなたが正しければ正しいほど嫉妬するからです。なぜなら、自分を正しくするということは優れているという高慢な心が潜んでいるということです。
私たちも逆に自分がそのような立場に立って相手を責めていませんか。
主を畏れる人はL、たとえ自分に非がなくても、そこまで相手の態度が悪くなるには自分に何か問題がないか考えます。神の前に自分を探ることが、敬虔な態度ではないでしょうか。
どうぞ、見識の狭いクリスチャン生活を送るのではなく、みことばに教えられて歩んでいきましょう。

■2005年5月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
党同伐異 とうどうばつい up 2005.5.29
意見や利益を同じくする者が仲間を作り、自分達と立場や目的を異にする者を攻撃すること。
さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
(マタイ7:1〜2)

人は誰からもさばかれたくないと思いながら、案外よく人をさばいてしまっていることにお気づきでしょうか?
さばいているつもりはなくても、意見の対立する者に対して攻撃をしてしまうことがあります。攻撃することは、自分の意見や正しさを主張することで、相手を間違っていると決めつけてしまうことです。そして、自分の仲間にするか、仲間にならなければ廃絶するか、という結論を出す行動をしてしまう、これが「党同伐異」です。
イスラム教は信じなかったら「死」である、「剣と聖書」というマホメットの教えですが、これは「党同伐異」であり、信仰ではなく脅迫です。イエス様は、剣を持って伝道はされませんでした。愛をもって福音を伝えられました。私たちも忍耐がないために「党同伐異」という、神より先に裁きを下してしまうようなことのないように、気をつけていきたいと思います。人や自分を裁いてしまうことに敏感でいられるように、裁きについていろんな点から学んでいきましょう。
●5/30(月)「人をさばく」(コロサイ人への手紙1:16)
善であるか悪であるかの基準は、さばく人の主観によります。ひとりひとり、自分の良心を働かせるための主観を持っています。それによって相手を決めつけてしまうことを、人をさばくと言います。
ちょっとした人の怒りを見て、「あの人は怒りっぽい人だ」と決めつけてしまうのは相手をさばいてしまっていることで、いうなれば確定することです。はたして私たちはそのように人を確定することのできるような者でしょうか?そういう点を踏まえて、人を裁くことは良くないということをしっかりと心に持っておくことが必要です。
それでは誰の主観に合わせることが最も正しいさばきと言えるでしょう。
コロサイ人への手紙1:16がヒントです。
私たち人間を含めた万物は、御子=イエス・キリストのために造られ、万物の所有者はイエス・キリストであるということです。人のものを勝手にさばいていいのでしょうか?
現在起きている「イラク問題」も、イラクとアメリカの主観のぶつかり合いです。イラクというイスラム教徒の一つの宗派の考え方をアメリカがさばいたのです。イラクを悪の枢軸であると決めつけたわけです。
アメリカにはアメリカの考え方と国益があり、イラクにはイラクの考え方と国益という、治める者たちの主観があります。この2つの主観を両立することは不可能です。だから、どちらの主観に合わせるかを決定するために、力が必要になってくる。これが戦争の一番の原因です。
力で服させる、力で相手に言うことをきかせる、これはさばきと同じです。
本来私たちは、お互いにそういうことをすることのできない者です。神に造られた者同志であるということを忘れてはいけません。
皆さんも個人的にさばきたいような気持ちになる人がいるかもしれません。
でも、あなたも相手もどちらも神様のものです。
神があなたとその人を正しくさばかれることを信じることが、一番傷が少なくて済み、問題も広がることが少ないのです。
●5/31(火)「人を値付けする」(第1テモテへの手紙2:6)
物に値段を付けるような感覚で、自分にとって利益をもたらす人は高く、損失を与える人は低く、というように、人の存在価値を量ってはいませんか?
人を量る量りであなたも量られますよ。ここをよく考えなければなりません。
そこで私たちが量る量り方は(第1テモテへの手紙2:6)にあるように、神が私たちにどのような値をつけられたかによります。
「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」
神のひとり子の値段をつけられたとは、代用するものは他にないという意味です。そんな大切なものと引き替えに、あなたは神様に買い取られた罪人です。
罪人は神様にとって値打ちのない者なのに、どうしてひとり子という値段のつけようのない価値あるお方と引き替えにしてくださったのでしょう?
大きな犠牲を払えば払うほど、必要性が大きいということです。
全世界の人は、ひとり子イエス・キリストのいのちによって値付けされ、価値ある者とみなされています。
だから軽々しく人を値付けしてはいけません。人を値付けする前に、まず自分を値付けしてください。
「私は神に必要とされている存在なんだ」と、まず自分を愛することが大切です。自分を愛することのできる人は、あなたの隣り人を愛することができるように、心が開かれていきます。
人を愛せない人は、愛せない人の持っている部分を自分も持っていたならば、自分をさばき、自分を受け入れることができません。そして自分を傷つけ悲しんでいくという、重い心の病気になるわけです。一番正しく値づもりすることのできる鑑定士は、あなたを造られた主です。その方が、ご自分のひとり子をもってあなたを値付けしてくださったのです。これは深く考える必要のあるポイントではないでしょうか。
●6/1(水)「さばいてはいけない1」(イザヤ書33:22)
主は私たちを確定することのできる権威を持った方(さばく方)
主は私たちの立法者(ルールを作られ、秩序を建てられる方)
主は私たちの王(治めるお方)
この方が私たちを救われる(生かされる、役立つ者とされる方)
あなたがどんなに悪い性格であっても、その性格を神は生かす方です。罪のために悪く用いられている能力を善のために用いることができるよう、あなたを変えることのできる生かす方、救い主です。
私たちは生かされる者であって、さばく者ではありません。
私たちは救われるべき者であって、救う者ではありません。
私たちは秩序を守る者であって、秩序を造る者ではありません。
だからさばいてはいけませんと主は言われるのです。
●6/2(木)「さばいてはいけない2」(コロサイ人への手紙4:1)
ここでパウロは、社会的にさばかれなければならない立場にある人々に対しても、さばいてはいけないと忠告しています。
たとえば、法によってさばく立場の人として、裁判官、検事、弁護士、また会社を運営し治める立場の社長。
さらに責任をゆだねられた部長、課長にもある程度さばく権限があります。
そして、家庭においては、家長である主人も、神から家族に対しての決断をゆだねられています。
(コロサイ人への手紙4:1)において、パウロはさばく立場にある人々をさばくお方が天におられることを意識して、あなたの権限の下にある人々に正義と公平を示しなさい、と言っています。
全宇宙の秩序と立法者である神様を畏れて、創造主の価値観によって人をさばくということを考えなければいけません。あなたの経験や体験だけでなく、善悪の基準は神が持っておられ、それが正義の基準、それが公平の基準と考えなさい、というのがポイントです。
●6/3(金)「神のさばき1」(ローマ人への手紙8:3)
肉の欲望から出てくる行動を(肉)。
肉の行動がルールを破る時(肉の行い)と言い、両方専門用語です。
肉にはさまざまな生理的欲求があって、命を維持するために必要ですが、その欲望がこれ以上欲望を満たすと不道徳の領域に入るという良心の働きかけがありながら、欲望について行かざるを得ない心の弱さに悩んでいる人が世界中に大勢います。
魂は行きたくないと言っているのに、肉が無理矢理引きずって行き、違反をさせています。肉が神の律法を違反させているのですから、本来さばかれるべきは肉です。そこで神は肉体をとって、肉に対するさばきをイエス・キリストの罪なき肉体にのせられて、さばかれたのです。さばかれたら、肉は無力だから、肉に反抗することができるわけです。
なので、肉の働きを拒絶してください。「私はそれをしたくない。」と堂々と立ち向かえばいいのです。
肉の欲望は束縛する力はありません。やめようと思えばやめられます。欲望に従おうと思えば従える、これが今のクリスチャンの状態です。
●6/4(土)「神のさばき2」(ヨハネの福音書3:18)
神にさばかれない方法が二つあります。ひとつは罪を犯さないこと、二つ目は、罪を犯してもあわれみを乞うことです。
神様は私たちをさばくためではなく、生かすために造られたのだから、そう簡単にはさばきたくないという気持ちを持っておられます。だからあわれみを注がれ、イエス・キリストを遣わされて、愛によって救われました。このようなお気持ちを察せずに、もうけものだという不遜な考え方をしていては、主のためにこの人生をきよく生きようとは思わないのです。
罪の奴隷で生涯を終えて永遠の滅びに行きたくない、神様の愛に守られた生き方をしたいという人がいるからこそ、神はあわれんでくださったのです。
悔い改めをして、やり直そうと決心するとき、イエス様は私たちの罪を負い、多くの悔い改めの実を結べるようにチャンスを与えてくださいます。御子を信じる者はさばかれないというルールをお決めくださっているのです。
信じない者はさばかれているとは、悔い改める気持ちが永遠に起こらないと神が見抜かれ、決定されたということです。神様から決定されたら、変えることはできません。だから悔い改めの心がものすごく大切です。
悔い改めの多い人ほど前進しますが、悔い改めの実という行動が出るまでに誰でも時間がかかります。
あなたの本心を見抜くことができるのは、神様とあなた自身です。自分を偽ってはいけません。
開き直って神のあわれみを無視しないように気をつけましょう。
神はひとつひとつ改めていくことを期待して、あなたを見過ごしておられるのです。そのお気持ちを理解できるのは正しい良心です。悔い改めの実を結べる自信はないけど、神様が期待しておられるならやってみましょう、という心が主を畏れる敬虔な心です。その人は必ず実を結ぶことができます。
神がやってみなさいと言われているのに、「私にはできません。」と強情な態度の人は、自分で自分をさばいています。なんという傲慢な、神様の権威を無視した態度でしょうか。主が赦してチャンスを与えてくださったならば、「やってみましょう」とどうぞ、心を柔らかくしてチャレンジしてください。

■2005年5月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
勇往邁進 ゆうおうまいしん up 2005.5.22
自らの目的に向かって、畏れずためらわずに勇ましく突き進むこと
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
(マタイ6:31〜34)

心配事や思いわずらいを振り払う心の姿勢を表しています。
人生において心配するべきことは多くありますが、心配しても実を結ばないものは割り切って主に委ねることが必要です。
マタイの福音書6:31〜34では思いわずらわなくてもよい、ということの裏付けとなる人としての真理が語られていますので、月曜日から見ていきましょう。
●5/23(月)「肉の思いは死」(ローマ人への手紙8:5〜6)
神を畏れない人々や人間の存在の目的を深く考えない人は肉に従う人で、肉のいのちを維持することに思いを向け、思いわずらいます。そのために多くの時間とエネルギーを費やしてしまいます。
パウロは、肉の思いは死であり、存在していても実を結ぶことはなく、神の目には死んだものと同様にみなされると語っています。実際に肉体は死んで終わりますから、それまでの労苦は水の泡となってしまいます。
肉の思いは自分を喜ばすための色々な欲求をもたらせ、やがて死に至らせるのですから、いかに愚かで空しいことなのかを早く悟ることが大切です。
私たちは永遠に存在する魂のために思いわずらうべきです。
霊的に弱いことを嘆き、古き性質から勝利できないことを悩むのは良いことです。
悩むことが勝利するための一歩であり、あきらめず神と共に歩む人生をいかに全うするか求め続ける時、トンネルを抜けるような悟りがやってきて、いのちと平安を得ることができます。
●5/24(火)「欲望という神」(ピリピ人への手紙3:19)
クリスチャンは自分の信じる神が誰であるかは知っています。しかし記憶にはあるけれど、意識にいないと忘れたも同然です。
神を忘れ、意識を肉的なものに向けていると欲望の神に仕える者となります。
ギリシャ語で欲望とは、T腹=胃袋Uといいますから、欲望を自制することはいかに難しいかがわかります。
だからこそ私たちは、優先順位をまちがえないよう、いつも意識を神に向けることが大切なのです。イエス様を、私たちの肉の欲を満たすために利用することがあってはならないのです。
神は私たちが神に似せて造られた者としての人生を全うすることを願って、キリストを十字架につけられました。
私たちの思いの中に自尊心を保つための欲望が潜んでいないか、感情の起伏に振り回されてないか、この世の知識にとらわれたクリスチャン生活を考えていないか、よく吟味して神の子としての自覚に目覚めていただきたいと思います。
●5/25(水)「満足すべきこと」(ヘブル人への手紙13:5)
ヘブル人への手紙13:5で神は「金銭を愛する生活をしてはいけません。今持っているもので満足しなさい。」と語られています。「愛する」とは、いつも金銭に意識が向いているという事です。
肉の思いに支えられた信仰生活は、肉的なものが不足してくると不敬虔になっていきますが、信仰によって生活が支えられている人は、どんな状態になってもすべてを感謝して生きる豊かなクリスチャン生活を全うできるのです。
ではクリスチャンは何をもって満足できるのでしょうか?
それは神が「わたしは決してあなたを離れず、また捨てない」と語られています。
神はすべてにおいて富んだ方で、どんな病もいやすことのできる方ですから、私たちにどんな問題があっても心配することはありません。必要な時には必ず与えてくださいます。
ただ、神は私たちが多くのものを与えられた時、どのように考え方や意識が変わっていくか見ておられます。
多くのものを与えられても、自分の心を正しく見張り、御心にかなった用い方ができる人には、さらに多くのものを任せ、祝福してくださるでしょう。
●5/26(木)「人が求めるべきこと」(ヘブル人への手紙12:14)
私たちは求めるべきものがなければ欲望に引き寄せられてしまうので、求めるべきものを理解し、心に刻んでおくことが必要です。
私たちが第一に求めるべきものは、神の国とその義です。
それはヘブル人への手紙12:14で語られているように、すべての人との平和と聖められることを追い求めるべきことでもあります。
人にお金を貸したり与えたりする時も、まず神に祈り、神から知恵を与えられてから判断することです。ただ単に人情にかられて簡単に与えてしまうと、かえってその人を悪の道へ追い込むことにもなりかねません。
その人がお金を借りるときに、ある程度きびしい条件をつけ、それを受け入れ守るかどうか見極めて、本当に悔い改めをしていることを確かめる事が大切です。人との関係ではお互い正しい良心を持っておつき合いをし、全ての人との平和、聖められる生き方を求めることを意識して毎日を過ごしましょう。
●5/27(金)「兵役にある者」(第2テモテへの手紙2:4)
神は地上にあるクリスチャンは兵役に就いている者のようだ、と語られています。
クリスチャンは闇との戦いのために地上におかれ、神のことばと愛を武器として死に行く人を生かすために働きます。
神はひとり子イエスのいのちをもって、神の国の相続人として私たちを救い出してくださったのですから、もっと多くの迷える魂の人々に福音を伝えてほしいと願っておられます。
そのために第一にすることは、神の国とその義を求めることです。それに必要なものはすべて神が与えてくださいます。
必要だと思って祈っても聞かれないのは、動機が悪いからです。何のために求めているのか、自分の心を探ってみることが必要でしょう。今私たちがすべきことは、目の前のクリスチャン生活を全うして、いかにして闇の力を打ち壊すかに集中することです。
●5/28(土)「悔いのない生き方」(ピリピ人への手紙1:20)
地上の人生の目的をしっかりつかんでいると、悔いのない生き方をしようと目的に向かって走っていきますが、目的がないと欲望に負けてしまいます。
パウロはクリスチャンになってから、様々な苦しみにあいましたが、苦しみを通してキリストのすばらしさが現れるのだという人生の目的をしっかりつかんでいましたから、迷いを振り払い、思い煩いをゆだねて、目的に向かって邁進することができたのです。
「明日のことは明日が心配します」とは、目的を達成するために今日するべきことを一生懸命したならば、明日のことは明日になってから取り組めばよい、ということを言っているのです。
どんな目的であっても、その意識が誘惑に負けないほどの強い願いであることが大切です。
神が地上で私たちに何をしてほしいのか、個人的に具体的に求め、そのことのために悔いのないクリスチャン生活を送るべきです。
神様は広島がエルサレムのような平和な街となるために、私たちの教会を用いたいと願っておられますから、人々が私たちクリスチャンの生き方の中にすばらしい価値を見い出してくださるために、一人一人が主にある目的を真剣に求めつかんで行きましょう。

■2005年5月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
即天去私 そくてんきょし up 2005.5.15
私情を捨て去って天の心に従うこと。夏目漱石が晩年に達した人生観。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
(第1ペテロ5:7)

「私情を捨て去って天の心に従うこと」という意味で、夏目漱石が晩年に達した人生観です。
人生には、自分で考えてもどうにもならないことが多く、人ができることはわずかです。
それならば、天に逆らわず、自分の私利私欲を捨てて天の心に従うことが最善の道であることを彼は悟りました。
どこに生まれ、どこに育つかは、誰も自分で決めることはできません。それはすべて神の御手の中にあります。ただその結末は、その人の生き方で左右されます。しかし、死という最終点は誰ひとり逃れることはできません。
神が決められたことを曲げることはできませんが、神が決められた範囲の中で最善を尽くすことはできます。
(第1ペテロの手紙5:7)に、則天去私の心を見ることができます。神に委ねるとは、神を信頼することであり、結果に対してこだわりをもたないことです。
「心配するな」と言ってくださる方は全知全能の力ある方なのですから、私たちは神に委ねて、心配することに時間をかけないようにしましょう。
●5/16(月)「いのちを優先」(マタイの福音書6:25)
食べ物のことで思い煩うなとイエス様は語られました。この真理はわかりきっているようでも失敗しやすいものです。
「いのち」が大切だから、何を食べるかが大切なのだと言う人は多いでしょう。しかしそれは、生物的な「いのち」しか考えていないからです。今そういった生物的「いのち」以上に、生きるという存在価値の大切さに目を向ける人はどれだけいるでしょうか。存在としてのいのちの尊さを大切にするのが、神の子であるクリスチャンの姿勢です。
豊かな日本で、レストランで数え切れないようなメニューに迷ったり、食を楽しむことはいいことですが、「いのち」のことを優先させず、食事のことを優先させていくのは本末転倒です。その食を楽しむためにお金を稼がないといけない、そのために稼ぐことに力が注がれて、たくさんの思い煩いを抱え込んでしまう。これでは本来の「いのち」が大切にされているとは言えません。むしろ食べるものがあればそれで充分であると満足する敬虔な心が大切ではないでしょうか。私たちの人生で、「生きるために稼ぐ」ということに、どれだけエネルギーが費やされ、どれだけ多くの悩みを持ってしまっているでしょうか。豊かな収入のために、よい学校へ、よい仕事へと自分や子供を駆り立て、それが人生の基盤となっていないでしょうか。
「いのち」とは存在を価値づけるものです。
「いのち」という尊さは、あらゆる生き物(人も虫も)が同じです。しかし人の場合、いのちの価値は善を行うか、悪を行うかによって異なってきます。
聖書にエサウとヤコブという双子が出てきます。エサウは何分間か早く生まれたために長子の特権を得、弟のヤコブは同じ日に生まれたにも関わらず、得ることができませんでした。ヤコブは何としてもその特権を得ようと知恵を絞り、兄のエサウは目先の食べ物に目が行って、長子の特権をただ一杯の食事と引き替えに弟にやってしまいます。エサウはいのちの価値に目を向けず、むしろ軽んじてしまったために、このすばらしい特権を弟にやってしまい、後でどんなに後悔しても取り戻すことはできませんでした。すべての人々はイエス・キリストのいのちによって価値づけられた尊い人々です。その価値をあなたの生き方で汚してはなりません。お金のために人をだましたり、陥れてはなりません。悪を愛してはなりません。神はあなたを養ってくださると約束しておられます。
ナチスの時代、ドイツでヒトラーに従うことを拒否した若者たちがいました。彼らは死刑になっても、同意しなかったのです。それは「いのち」の大切さを知っていたからです。自分たち以外の人々の存在価値を認めないというナチスの考え方を彼らは断固として拒否しました。いのちをかけて真理を守る勇気を彼らは持っていたのです。神を信じて、本当の「いのち」の大切さ、真理に従って生きるすばらしさを世の中の人々に証しする生き方をしましょう。
●5/17(火)「心配すべきこと」(マタイの福音書6:25)
服装は本来身体を生かすためのものです。制服やユニフォームなど、働きにふさわしい服もあります。あなたが服を決める時、どういう働きをするのか、その目的にふさわしいものを決めたらいいのです。しかし人目ばかりを気にして、自分がいかにきれいに良く見えるかに重点を置きすぎると、本末転倒になってしまいます。どこに行くのか、何をしたいのか、そのために神の子にふさわしい服装をしましょう。服の多さのゆえに悩むのはよくありません。本来悩むべきものは何かをわきまえましょう。惑わしの中に入っていないかどうか考えてみてください。
●5/18(水)「天の父の養い」(マタイの福音書6:26)
鳥も人もいのちは尊いものです。ここではその貴さの違いを言われているのではありません。人が鳥よりも何が優れているのかを、私たちは考えてみましょう。
鳥は神に対して信頼を持つことができない非人格者です。神はそれにも関わらず、鳥を養っていてくださいます。それならば、神を信じ信頼できる私たちをなおさら養ってくださらないはずはありません。
信じ続けるというすばらしさを持ち、天の父が養ってくださっているということを思いみることができるのは人間だけです。それゆえ、天の父は鳥を養うのとは違った心で、私たちを養ってくださっています。(ペットと息子を同じように養う親がいないように)
私たちに一番必要なものは何かを知って養ってくださるのが天の父です。それゆえ養われる側の気持ちをしっかりと持つ必要があります。神様は神の子として恥じない子供になるように、私たちを養ってくださっています。躾には苦しみや忍耐の時も要ります。苦しい時に神への信頼が揺らいでしまうと、思い煩いに入ってしまいます。私たちと神との間には、もっと強い信頼関係があるはずです。どんな試練の時も神に信頼するなら、思い煩うことはありません。
●5/19(木)「よけいな心配」(マタイの福音書6:27)
悩みすぎて行動に移せず、せっかくのタイミングを逃してしまう人がいます。
悩む人は何を恐れているのでしょうか。それは「結果」です。もしこうしたらどんな結果になるか…と、「もし」「もし」と、行動に移す前に結果を恐れてしまうのです。しかし人生には、いくら思い煩ってもどうにもならないことがたくさんあります。それなのに心配し続けるのは
無駄な心配です。自分のできる最善を尽くし、結果を神に委ねることが良い方法です。あなたのできる範囲は限られています。その最善を尽くした後は神に委ねることが、思い煩いから解放される方法です。
最善を尽くし、神に委ねた後、その結果が自分の願ったものと違っていても、それが自分にとって最善なのだと信じることが大切です。ひとつの悪い結果が人生をダメにしてしまうとは、神は考えてはおられません。神に信頼する人には、すべてが益と変わります。最善を尽くすにはどうしたらいいかを思い煩うのはいいことですが、それをしたらどうなるかを思い煩うのはよけいな思い煩いです。よけいな心配に時間をかけて、神の計画をダメにしないようにしましょう。
●5/20(金)「自分表現」(マタイの福音書6:28〜29)
野のゆりのたとえと、鳥が明日のことを心配しないというたとえとは、同じ意味を持っています。鳥も野のゆりも、造られたありのままで自分を表しています。自分以外のものになりたいと悩んだりしません。造られたありのままが最も美しいのです。
いくら人間が金銀宝石をちりばめた高額なドレスを着ても、ドレスに価値があるだけで、着ている本人がそれで美しいとは限りません。人の美しさはドレスで決まるわけではありません。花には花の美しさ、鳥には鳥の美しさがあります。それでは人の美しさはどこにあるのでしょうか。それは神の形にあります。神に似せて造られた姿が人のありのままの姿です。人間が最も美しいのは、神のすばらしさが内から出てくる時です。あなたの美しさはきよさの中にありL、若さは義の中にあります。美しさの視点を間違えないようにしましょう。
神の子として生きる時、人は一番美しく輝きます。ソロモンは自分の知恵によって富と繁栄を得、そのために神の定めから離れ、堕落していきました。それで野のゆりよりも劣るとされたのです。神の子として美しく輝くために悩むなら、それは益になります。
●5/21(土)「信仰の薄さ」(マタイの福音書6:30)
信仰の厚みがない薄い人は、すぐに剥がれてしまい、醜い罪の性質がすぐ表れてしまいます。しかし信仰の厚い人は、少々剥がれても、醜い面はすぐには表れてきません。それは古き人に勝利しているからです。
野の草は決してビニールハウスで守られてはいませんん。嵐が来たり、踏みつけられたりします。しかし、あらゆる状況を体験し、生き抜いていくうちに、神がその美しさを引き上げてくださるのです。多くの変化を通ってきたからこそ、神の創造のすばらしさをそこに見出すことができます。いつも変化があるからこそ、信仰の厚さが必要なのです。いくら丈夫な信仰でも一枚限りであったら、その変化に破れた時、それっきりになってしまうからです。信仰の厚い人は何度失敗しても忍耐して耐えきります。忍耐のある人は信仰が厚い人です。忍耐のない人は、いつか破れてしまいます。
草は踏まれるほどよく根を張っていきます。私たちもそのように、何が起きてもしっかりと根を張り、忍耐をして行きましょう。忍耐はあなたを完全にします。

■2005年5月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
内股膏薬 うちまたごうやく up 2005.5.9
内股に貼った膏薬のように、あちらについたりこちらについたりして、自分の意見や考えが定まらない者。節操のない者。
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
(マタイ6:24)

イスラエルの人々は自分たちの神(ヤーウェイの神)を主と呼んでいました。しかし、その言葉通りの姿勢や態度ができていませんでした。祭司たちはお金儲けに走っていました。宮に仕えていながら、富にも仕えていたのです。イエス様は、人は二人の主人に仕えることはできないと言われました。主なる神様と自分との関係をどのように正しく仕えていくか、この一週間学んでいきましょう。
●5/9(月)「創造主は唯一」(ローマ人への手紙9:20〜22)
『主』とは創造主を表します。聖書で『主』とは、天地を創造した神を表します。創造主は唯一ということを認めなければなりません。『主』とは、私を造ってくださったただ一人のお方です。創造主(陶器師)と自分(陶器)との関係を深く理解しているでしょうか。
陶器師はどのような作品を作るか、決定権を持っています。尊いことに用いられる器と、つまらない器と比べてみて、自分は劣っていると思って、劣等感を持ってしまいます。尊い器とつまらない器とを比較社会から見て、私たちが感じることがあっても、神様は一人一人必要だから造られたのです。これが私たちと神様との関係なのです。
●5/10(火)「主人を知る」(エペソ人への手紙3:18〜19)
主人(神)はどんな方か知らなければなりません。ヨブは罪を犯したから災いに遭ったのではなく、サタンがねたむほどに、ヨブは神の前に正しい人だったのです。
神様の前にサタンはやって来て「神様、ヨブはあなたが守っているから、あなたに忠実なのです」と言いました。神様は「彼は義人だよ」とヨブを弁明されました。サタンは「ヨブを試みてください」と言い、神は「あなたの考えている通りにしなさい。ただし彼の身に災いを起こしてはならない」との条件を付けました。
ヨブの子供は災いで亡くなり、財産は盗賊に奪われました。その時ヨブは「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言ったのです。
ヨブは言葉においても罪を犯しませんでした。彼は神の前に正しい者でありたいと自分の義を神の前に守り続けることを考えていたのです。
次にまたサタンがやって来て「自分の身が苦しい目に遭わないのだから、神様、あなたに感謝するのは当たり前ですよ」と。神は「よろしい、ただし彼のいのちを奪ってはならない」と言われました。ヨブには一つの盲点がありました。自分の義を守るということに気がいって、神様との関係を考えなかったのです。神の前にいつも自分を正しくしていこう、このことは自己義です。神様との関係を優先しなければならないのに、自分は正しい“自分”“自分”の考えがありました。
この盲点に気づくために、神はサタンの試みを許されたのです。
神ご自身の広さ、長さ、高さ、深さをパウロはエペソの教会に示しています。人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。愛を知るとは自分の義を保つことではなく、愛する者との関係を表しています。相手の存在を考えた自分を意識することです。ヨブは、自分の存在を意識して、神様の存在をあまり考えませんでした。
神は聖い生活をしなさいと言われているのは、神と自分とのつながりを意識することです。
●5/11(水)「主人の心を持つ」(第1コリント人への手紙2:16)
神(主人)の心を持つしもべは、神(主人)にとって喜ばしいしもべと感じることができます。
主の心を持つとは何でしょう。神様は私たちをご自分に似せて造られました。神様は完璧な良心をお持ちです。神様の知性、感情、意志を理解するのではなく、神様の良心の部分を理解し、自分の良心に受け止めることが大切なのです。
神様だったらどんな良心的な考えをされるだろうかと理解するクリスチャンは、キリストの香りを放つことができるのです。神様の良心を受け止めるには、イエス様の血潮(神の愛)に触れられる時、聖さの価値と、創造主が唯一の神であることを悟ることができるのです。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)このみことばを良心的に理解し、神の犠牲的な愛に触れていきましょう。
●5/12(木)「主人の思い1」(コロサイ人への手紙1:27)
主人の心や考えを知らなければ、何をどのようにしたらいいかわかりません。神は異邦人(全世界の人々)に、この奥義を知らせたいと願われました。その奥義とは、キリストがどんなにすばらしいかということです。神の心を持つと、御子イエス・キリスト(救い主)がどんなにすばらしいかということがわかってきます。皆さんは個人的に、イエス様がどんなにすばらしい方かを知っておられるでしょうか。
キリストはあなたを罪や呪いの束縛から自由にしてくださったということです。罪や呪いの束縛は、正しいことをしないように行動を束縛することです。私たち人類はアダムの罪から、呪いの歴史を続けてきています。
しかしキリストは呪いの縄目の罪を断ち切って、自由にしてくださったのです。善を行う自由を与えてくださったのです。自由にされている者として、祝福を自分の手にする環境にあるのです。祝福(幸い)を求めていきましょう。
●5/13(金)「主人の思い2」(エペソ人への手紙5:26〜27)
主人の思いは、教会である私たちが聖なる者となり、しみやしわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のない者になることです。神は私たちを花嫁(清らかで純真)のようになってほしいと願っておられるのです。
自分を愛してくださっている方の考えや願いに応えていきたいと思うのが、愛されている者の立場です。
クリスチャンが聖くあることは強制でも律法でもなく、自分自身の願いであるのです。神に愛されている者として、聖く傷のないものとなって御前に立ちたいものです。
●5/14(土)「神と富に仕えられない」(ローマ人への手紙8:7)
富=欲=肉の思い 仕える=奴隷のように奉仕する
表向きには神に仕えているようでも、裏では肉の主人を隠しているようなことにならないように、いつも吟味することが必要です。
富は肉の欲望を表しています。私たちの内に神のみことばを守ろうとする時、心の中に葛藤が起きます。
「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ローマ人への手紙8:7)
正しい良心に自分の意識、自覚をしっかり持っていけば、欲望の感覚があっても正しい良心は神の心に向けようと力を働かせるので、自制心を生み出し、神のみことばに従うことができるのです。意識をどこに置くかによって、何を主人にするかが決まってくるのです。まどわされないように吟味していきましょう。
内股膏薬と言われることのないように、節操のない者にならないように、正しい良心に常に意識を向け、主と共に歩むことの喜びを味わい知ることができますように。主のすばらしさに触れることができますように。

■2005年5月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
面目躍如 めんもくやくじょ
いかにもその人に似つかわしく、立派である様子
からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。
(マタイ6:22〜23)

内側に隠されているものや、その人が持っている能力、品性、すばらしさが生き生きと輝いて表れている様子。
私たちの人生は、神と共に歩む、神の子としての人生です。クリスチャンとしてふさわしい輝いた人生を送るように神様は願っておられます。隠されたあなたの内にあるイエス様の輝きをもっと放つことができるように、今週も「目」を通して考えていきたいと思います。
●5/2(月)「気づく」(創世記3:7)
アダムとエバが罪を犯した場面です。エバはサタンの誘惑に対してその善悪の木の実を見つめました。それは美しくおいしそうに見えたわけです。それによって欲求がやって来て神様の戒めを破ってしまったのです。
その時二人の目が開かれたのです。そして裸であることに気づきました。この「目が開かれる」とは、今まで気づかなかったことに気づく表現で使われます。人として大切なことに目が開かれているでしょうか。
進化論が教えられ、当然の真理のように語られている状況の中で、人間は動物の一種である、確かに生物学的にはそう言えます。
しかしそれは自然界で生活する動物と同類であるという意味です。これは間違いです。
私たちは単なる動物ではなく、人として今生きています。苦しんで、悩んで、涙するのが人生であり人としての器です。人は人格を持っているので、自ら命を絶つこともあるのです。
そして特に今、自由な欲望の世界の中で、正しい良心を働かせることを全ての人に目が開かれて欲しいと思います。問題、苦しみ、悲しみ、喜びに出会いながら、良心を働かせながら、自発的に自分の人生を行動し、決断していくことです。知恵があるということではなく、善悪を正しく見分け、悪を捨て善に親しむ選択の能力があることが人としての示しです。どうぞみなさんももう一度、自分は神に形造られた人間であるということに、さらに目が開かれて欲しいと思います。
●5/3(火)「いのちの輝き」(詩篇19:8)
命そのものの尊さは善人も悪人も同じです。しかし命の価値というものは違います。命の輝きもそうです。命を輝かせる美しさ、それは聖さの中にあるということを、この詩篇19篇を通して知っておくことが必要です。その命の輝きは、目を見ればわかります。
上原令子さんのコンサートでも証をされました。エチオピアにゴンダールという、世界でベスト3に入るくらいの貧しい地域があります。今から20年くらい前の状況ですが、石を食べる子供たちの姿がビデオを通して見ることができました。
昨年、上原令子さんは親善大使としてこの地域を訪れて驚かれたそうです。それは、彼らの目が輝いていることでした。日本では見ることのできない輝きだったそうです。彼らは「生きる」という、生命に燃えて目が輝いているのです。
人間の欲望によって造られた社会は、神に対する不敬虔な心を生み出し、その魂は汚れています。しかしあの貧しい人々は、神が造られた聖い大自然の中にいるので、命を輝かせて生きることができるのです。私たちクリスチャンも、生命が輝いている目を人々の前に表していきたいものですね。
●5/4(水)「意識を向ける」(詩篇141:8)
私たちは聖さを持ち続けるために、神様の戒め、仰せに、神ご自身に目を向けることが必要です。これは心の視線を向けるといいうこと、すなわち、神を意識するということです。
目と意識はつながっているということです。そこで、どんな工夫が必要でしょうか。一つは、クリスチャンとしての服装というものがあります。また身の回りに神様を意識するものを置くこともできるでしょう。特に目から入ってくるもので、身につけたり、まわりに置いておくことが良いと思います。
●5/5(木)「貪欲への入り口」(箴言27:20)
よみと滅びの淵は飽くことがない。同じように人の目も飽くことがない。
聖書の中でヨハネは「目の欲」を表現していますが、目から入ってくるものによって、私たちは欲望がかき立てられてしまって、それを飽くことがないほど追求してしまうことがあるということです。
クリスチャンはそのような悪癖から解放されていますが、時にはそこから抜け出せない人もいます。肉体的に中毒性のもの、意識とは別に体自身が要求してしまう病的な問題です。しかし、そうではなくても精神が中毒になっている場合があります。肉の欲と聖書は言っています。肉の欲に心がとらわれていると、そこから離れるのは非常に難しい。意識はあなた自身の自覚ですから、その欲望の真ん中に自分を置いているわけですから、離れられるはずがありません。
意識を神様の方へ置き直す。これが一番早く古き人から離れる方法です。これは正しい良心を働かせなければできません。それを無視する人は、感じるまま欲望のままの方へ意識がとらわれていきます。
正しい良心こそが、欲望と自分の意識を切り離すことのできる分別を持つ働きをします。良心的に考えて、「自分は罪のとりこになっている」主に心を向けたいと決心して主の名を唱えるのです。「主の名を呼び求める者はみな救われる」主は欲望のとりこからあなたの意識を救い出されるお方です。だから、聖なる方の名を口にし、それだけではなく、見えるものでさらに意識を主に向けましょう。目から入ってくるものはとても大きな助けになります。
●5/6(金)「心の現われ」(雅歌1:15)
トータル・ビューティーセミナーで伊藤嘉子先生が「人の印象は7秒で決まる」と言われました。その中で一番印象的なのは、目を見てその人の印象を受け取ることだそうです。やはり目というのが一番あなたを現す大きな影響を持っています。
「鳩のような目」自分を愛してくれているその瞳が、鳩のように素直な美しい目をしている。それは愛を向けているまなざしの表現です。
私たちは毎日鏡の前で、主の前にどのような目になっているか‥。神に愛されている愛の中にいる者として、目の輝きも主の前に整えていただき、「イエス様、今日もあなたが共に、あなたの愛の内に歩むことができますように」と告白していただいて、歩んでいきたいですね。
目はそのように、私たちの心。性格、品性を現していくものです。「鳩のような目」と主が言ってくださるような、神の子の聖さの中に歩んでいきたいものです。
●5/7(土)「からだのあかり」(マタイの福音書6:22)
「目はからだのあかり」すなわち、あなたの人生全てを照らすあかりのことです。正しい良心を持って歩む人は、自分の人生を神様の前に正直に歩んでいるので、その人の目は明るく輝いています。
もし罪を犯すことがあっても、神の前に明らかにそれを出して悔い改めるならば、それは闇とはならずに光になると、パウロはエペソ人への手紙で教えています。神様の前に隠すことが闇を持つことになるのです。神の前に明らかに告白しなければ、あなたの体の一部分に闇を持つことになります。光の子である私たちは、暗やみを少しずつ取り去って、全身が明るく神の前に歩める人生をイエス様によって導かれています。
一つ一つ、神様の前に勇気を出して暗やみを明らかにし、改めながら闇を光に変えられるようなクリスチャン生活。それこそ「面目躍如」キリストを信じる者として、いかにも似つかわしく、立派である様子という人生をご一緒に歩んでまいりましょう。
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