|

■2005年6月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
深謀遠慮 しんぼうえんりょ up 2005.7.3
遠い将来のことまで深く考え、計画を立てること。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。
(マタイ7:12)

マタイの福音書5章〜7章は、イエス様がガリラヤ湖が見える丘の上で語られた山上の垂訓です。これらを読み返してみて二種類の人種の読み方があります。敬虔な人種と不敬虔な人種で、両者の受け止め方が違ってきます。
正しい良心をもって受け取るか、ゆがんだ良心をもって受け取るかで大きく違ってきます。大勢の群衆の前でイエス様は誤解されやすい内容を含めたおことばを語られています。
「聞く耳のある人は聞きなさい」聞く耳とは敬虔な心、へりくだった心で読むと理解できる言葉です。
聞き方に吟味して、神様と私という関係で聞くことが大切です。純真な心でイエス様のおことばに耳を傾けていきましょう。
「深謀」とは深く考え計画を立てること
「遠慮」とは遠くのことまでも深く考え今を決めること
(すなわち再臨、新しい天と地、神の国(天国)に入ること)
遠い将来に備えてマタイの福音書7:12から学んでいきましょう。
●6/27(月)「それで…」(第1テサロニケ人への手紙5:11)
ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
テサロニケはローマ帝国の迫害の中にあって、兄弟姉妹が助け合う教会でした。
「それで…」とは前の文章を受けて語られたことばです。
「子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。」
自分にしてもらいたいことは何だろう、他の人にするとは何だろう。律法はどういうことを現し、預言者とは何を意味しているか、子どもがパンを下さいと言うとき、パンだけでなく他の食物も将来に備え栄養を考えて準備するものです。
人から何か求められた時、相手の徳が高められるものを与えることが大切です。神は永遠という未来に備えて、私たちのために救い主イエス様を遣わされたのです。
●6/28(火)「人からしてほしいこと」(第1コリント人への手紙8:1)
…しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
皆さんに今、人からして欲しいことと言われたら、何と答えられるでしょう。私たちは引き下げ合うことが主で、引き上げ合うことが少ない世の中に生きています。人が一番して欲しいと願うのは、徳が高められることです。徳とは良いことをする品性です。良い影響力を与える人格です。
徳が高められることは、あなたの正しい良心が成長することであり、敬虔さが強められることです。敬虔さのために鍛錬しなさい、後に約束されている永遠のいのちに益になると語っておられます。人の徳を建てる愛を注いでいきましょう。
●6/29(水)「他の人にもそのように…」(エペソ人への手紙6:7)
人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
人に応えることのできるものは、自分が持っているもの、そして自分が用意できるものは応えることができます。
応えることにおいて、自分自身の成長も大切ですが、能力以上のことにおいては、できる人の助けも必要です。神を畏れ、敬虔な正しい良心をもって求めてくる者に対しては喜んで応えてくださいます。神様も同じ心をもって応えてくださるのです。
「他の人にもそのように…」とは、大事にしてあげなさいということです。大事にすると言っても、善意の動機が必要です。主に仕えるようにと言われています。イエス様は十字架で私たちを贖ってくださったのです。
お互い助け合い励まし合っていきましょう。
●6/30(木)「律法1」(第1テモテへの手紙1:9〜10)
「律法は正しい人のためにあるのではなく…健全な教えにそむく事のためにあるのです。」と書いてあります。正しくない人は律法を前にすると、窮屈になります。
正しい人は律法を素直に受け止めることができます。一つのみことばを語られた時、窮屈に感じてしまう人は、違反の中にいるからです。律法を聞いても窮屈に感じないで、喜び、感謝して受け取れる人は、律法を守っている中にいるからです。神の御心は敬虔な気持ちを持たなければ、受け止めることはできません。永遠のいのちより自分のしたいことをしたいので、縛られたと思って教会に来ようとしません。
縛られたと考えることはすでに、正しい人の中にいるのではなく、律法をいやがる健全な教えに背きかけている立場にいるのです。自分は罪人だから、正しいことをするのはいや!と自分で自分を縛っているのです。
敬虔な心が生まれてくると律法は喜びとなります。敬虔になるためには、主を愛することです。イエス様の十字架を通してどんなに愛されているか悟ると、主を愛することができ、律法を喜びとすることができるようになるのです。
●7/1(金)「律法2」(ローマ人への手紙13:9〜10)
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「自分を愛すると同じように、あなたの隣人を愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」
律法は愛することを教えています。神が律法を通して教えておられる『違反』とは愛さないことです。愛のない善行は律法に違反しているのです。
愛する心があって初めて善行というものが生かされる(実を結ぶ)のです。愛のない善行は実が入ってなく、『殻』だけです。
律法が言っているあいすることから離れて、愛されることを中心に生きていませんか。もう私たちはイエス様の十字架によって愛されているのです。愛を与えていきましょう。
「与えるは受くるより幸いなり」
●7/2(土)「預言者」(エゼキエル書33:4〜7)
…人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
預言者エゼキエルに見張り人として語られたことばです。
預言者はなぜ、その人の罪を責めるのでしょうか。責めるのではなく、罪から離れるように警告を与えるのです。警告を無視する人は裁かれるのです。無視した人は本人の咎のために裁かれますが、警告を伝えなかった人は見張り人として裁かれるのです。
神の裁きがいつかはやって来ます。そのことをクリスチャンとして証ししていかなければなりません。人々は本当に神の裁きがあることを悟っていくことが大切です。ノアの箱舟の話から、あなた(クリスチャン)を通して、警告を与える者(見張り人)として召されたのです。

■2005年6月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
舐犢之愛 しとくのあい up 2005.6.19
親牛が子牛をなめてかわいがるとことから、親が子を溺愛するたとえ。
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。
(ゼパニヤ3:17)

悪い者であっても、自分の子には良きものを与えます。良き父なる神様はなおさら私たちに良きものを与えてくださいます。その気持ちは「舐犢の愛」です。
●6/20(月)23(木)「パンと石」(マタイの福音書7:9)
黙想のポイント
パン=基本的必要なもの。受け入れることができるもの。
石 =必要でないもの。受け入れることができないもの。
パンを求める者に石を与えるとは、どういう意味かを考え、そのようなことをしていないかを吟味する。
パンをくださいと言う人に石を与える、これは親子関係だけでなく、未熟な者と成熟した者という人間関係においても言えます。あなたにパンをくださいと求めて来たのに、あなたは食べることのできない石を与えてしまってはいないでしょうか。
パンは、それを受け入れてこなすことができるもの、すなわち、その人の能力に合ったものです。しかし、それを求めている人に合わない、難しい、困難なものを与えていないかを吟味してください。しつけは必要ですが、その子の能力に合わせた、できるものを与えていかなければなりません。あなたは無理なことを人に与えてはいませんか。
●6/21(火)24(金)「パンと石」(マタイの福音書7:10)
黙想のポイント
魚=うろこのある魚はきよいものを象徴している。
蛇=は虫類は汚れたものを象徴している。
きよいものを求める者に汚れたものを与えるとはどういうことかを考えてみましょう。
・きよいものを求めている子がいるのに、だれが汚れたものを与えるでしょうか。
・新しい人が教会の集会に参加したいというのに、その気持ちをそぐような言葉を与えるのは、不信仰、この世の考え方、汚れたものを与えてしまっていることになります。また人が自分よりも何か良いことをしたら、自分はできないのでねたんで邪魔してしまう、そのようなことをしてしまってはいないでしょうか。誰かの純真な気持ちを汚すようなことをしていないか、吟味してみましょう。
●6/22(水)25(土)「パンと石」(マタイの福音書7:11)
黙想のポイント
子どもは自分の分身、愛らしい存在、未来を託す尊い存在。
天の父は良いお方です。
その方の子であることに、感謝を表しましょう。
良い親の元で育つ子どもは、大きくなればなるほど、親に感謝するようになります。良い親というイメージを持っている子供は、親から悪いものを与えられていないということです。
良い親とは、優しいとか、よく話をしてくれるということでしょうか。
子供は成長と共に、親が自分を立派な人格に育ててくれたということに感謝をします。また自分が子供をもったり、人をお世話するという体験を通して、親への感謝と尊敬が湧いてきます。しかし親自身の満足のために育てられたと感じるなら、大きくなると反発を持つようになります。
親牛が子牛を舐めるように愛を注ぎ育てるとは、大切にということです。その大切さとは、どのような価値観の大切さでしょうか。
あなたの気が済むように育てるのですか。あなたの自己義が不満を起こすから、忠告、指摘するのですか。それは動機が悪いのでケンカになってしまいます。
あなたの忠告、叱責、指摘が愛からでたものであると感じるには何が大切でしょう。それは「心を育てる」ということです。「心を育ててくれているんだ」ということがわかるように伝えれば、感情的には反発しても抑えることができます。
自分の子供とは、自分の分身です。だから成長を願うのです。
「愛らしい存在」とは、自分にとってなくてはならない存在。だからダメになってほしくないと育てるのです。未来を託すことができるとは、自分のなりたかったことを子供に押しつけるのではなく、心の成長を自分よりさらに増してほしいと願うことです。それは束縛ではなく大切なことです。行くべき道を指し示し、心の成長を願って時間と労力をかけるのです。
お金は使う人によって良きにも悪しきにもなります。能力をつけるよりも大切なものは、それを生かすことができる心を育てることなのです。
互いに心を育て合うようにと心がけましょう。

■2005年6月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
刻苦勉励 こっくべんれい up 2005.6.12
力を尽くしてひたすら努力をすること。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
(マタイ7:7〜8)

「求めること、捜すこと、たたくこと」の共通の意味を表していることばが「刻苦勉励」です。それは、心身を苦しめてでも勉学に励むことを言い、苦労して努力するほど良い実を結ぶということです。
楽をして手に入れてきた人はありがたさ、感謝が薄くなります。しかし、苦労して手に入れてきた人は小さなことにも感謝できる敬虔な心を持つようになります。
「求め、捜し、たたくこと」の大切さ、努力すれば必ず報われるということを今週は見ていきます。
●6/13(月)「求めよ1」(第2テモテへの手紙1:9〜10)
神は私たちを招いてくださっています。招待されたということは当然、「来てもいい」という許可が出たということです。もし招待されていなかったら、いくら求めても入れてもらえません。また、もし招待されていても、少しも求めず、そこに行こうとしなかったら、もちろん入ることはありません。神様が私たちに「求めよ」と言われているということは、招待されたということであり、請求してもいいということです。神は私たちに求めてもいい立場、権利を与えてくださいました。それゆえ迷うことなく求めることができます。そして求めるなら必ず手に入れることができるのです。それゆえ私たちのするべき努力の一つ目は「求める」ということです。神が与えてくださった招待券は「イエス・キリストを信じる」ということです。行いや身分、才能とは全然関係ありません。神はすべての人を招いてくださるのです。イエス・キリストを信じるなら、求めることができるのです。
●6/14(火)「求めよ2」(第1ヨハネの手紙5:14)
ヨハネは、何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はきいてくださると確信していました。それは「求めよ」と神が言われるかぎりは、与えてもらえるという確信を持つことができると考えたからです。ただし条件があります。それは、神のみこころにかなう願いであるなら、ということです。全能の神は悪を行うことは決してされません。罪を犯されません。
私たちが祈っても与えられないのは、神の御心から外れているからです。神は私たちが求めるその動機が純粋なものかどうかを見ておられます。ことばでいくら神様のためと祈っていても、その本心に自分のためという貪欲があるなら、その願いはかなえられません。願いがかなうことで、この世の誘惑に心をつかまれ、堕落していくようなものなら、神は決して与えられません。私たちは自分の求める心の動機を探り、見極めてから求めることが大切です。
●6/15(水)「捜せ1」(ルカの福音書9:25)
全世界を手に入れるということは、富と権力を持つということです。しかしもし全世界を手に入れたとしても、自分自身を失ったら何の得にもならないとイエス様は言われました。
捜すためには失ったものに気付かないといけません。まず人として神のかたちに造られた自分自身を見失っていたら、クリスチャンとして何の得にもなりません。つまり自分が何のために造られ存在しているかという存在の目的を見失っていたら、救われていても何の得にもならないということです。これは人生の目的とは異なります。アダムは何のために造られたのでしょう。欲望のゆえに彼は「地を治める」という神の祝福を失ってしまいました。それゆえ今もこの地は「欲望」によって支配されています。このアダムが失った「地を治める」という権利を、私たちは取り戻さないとなりません。神が与えてくださった「地を治める」ということこそ、私たちの存在の目的なのです。私たちは平和の使者として、この地を治めないとなりません。欲望ではなく、神の愛と平和のもとに、この地を治めるようその権利を回復させるために、神はイエス・キリストを遣わしてくださいました。アダムに与えられた祝福、失ったものを私たちは捜し求める必要があります。
●6/16(木)「捜せ2」(ヨハネの黙示録3:3)
二つ目の「捜せ」は何でしょう。長く信仰生活を送っていると、慣れによって肝心なことを失ってしまいがちです。祈り、聖書を読み、集会に出るということは習慣化してしまいます。それ自体は悪いことではありません。しかし、大切なことを見失ってしまうことがあるのです。習慣化していくということは、無意識に行動をとっていうことであり、そこに心がなくなっていくことです。愛のない祈り、愛のない聖書通読、愛のない礼拝出席、愛のない献金、愛のない奉仕。
神様はいつそれを失ったかを思い出しなさいと言っておられます。
私たちは罪を赦されているという感謝を毎日忘れてはなりません。
私たちの罪が赦されるために、尊い御子イエス・キリストの御血が流されたということを忘れてしまったら、心のこもった神への姿勢が失われていきます。神に対する敬虔な心こそ、神は喜んでくださいます。私たちは自分がそういった大切なことを見失っていないかどうか、点検する必要があります。
悔い改めによって、失ったものに気付くへりくだった心の姿勢を持つことが大切です。へりくだった心がないと、私たちは自分が見えなくなってしまいます。
忠告は大切な心の糧になります。悔い改めると、失ったものに気付くようになります。悔い改めて捜し出しましょう。
●6/17(金)「たたけ1」(第1コリント人への手紙10:13)
●6/18(土)「たたけ2」(コロサイ人への手紙1:26)
たたくというのは、行き詰まりの状況であり、追いつめられた状態です。その時できることはただ一つ、たたき続けるということです。たたくとは限界を超えられるすばらしい姿勢であり、神は脱出の道を備えてくださるという約束を与えてくださっています。窮地に追いつめられた中で、なお神を信じてたたき続けられるかどうかを、神は最後の試みとして見ておられます。
「開けます」という約束があったら、開くまでたたき続けないでしょうか。
あなたは何回たたいてあきらめてしまいますか?神は時が来たら開けてくださると信じているなら、たたき続けるはずです。
神がこのような試みを与えられるのは、私たちと成熟した関係を持つようになりたいと願われるからです。神の約束を信じ、たたき続けるということは、どんなことがあっても神を信頼し続けるという信仰の成長を促すものです。
求め、捜し、たたき続けるということは、神との深い信頼関係を得、強い絆を持つために必要な姿勢です。どのように辛い試練であっても、私たちは神を信頼し、たたき続けましょう。神は必ず約束を成就してくださる真実な方なのです。

■2005年6月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
蜀犬吠日 しょっけんはいじつ up 2005.6.5
見識の狭い者が、他人の優れた言動をあれこれと非難することのたとえ。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
(マタイ7:3〜6)

『蜀』というのは、中国の三国時代の一国をいいます。『蜀の犬が日(太陽)に吠える』
蜀は今の四川省にあたります。この地域は非常に雨の日が多い所でした。あまりにも多いので、太陽が出ることの方が珍しく、犬が太陽に驚き、その太陽に向かって吠える姿。それを表している言葉です。この愚かさを見識のない者が他の優れた人の言動をよく知りもせず、非難することに例えたものです。
目の中にある梁に気付かず、他の人の目の中のちりを非難する。犬や豚のような愚かさが私たちにあるのではないか、隠れているのではないか、吟味しながら神の子としての一週間を歩む者となりましょう。
●6/6(月)「梁とちり」(箴言12:15)
建築において梁というのは非常に重要な存在です。梁のない家はありません。それに比べてちりというのは価値のない存在。イエス様はなぜ『梁』と『ちり』という例話を語られたのか。それは存在の重要性を通して、その問題の重要性を教えておられるということです。あなたの目の中にも重要な問題があるにも関わらず、価値のない、気にしなくてもいいようなことに目を向けてしまいます。
人は自分の中にそんなに大きな問題があると言われると、それを隠したくなります。それを指摘されるのが嫌で、相手の目のちりを言いたくなってしまうものです。それは自己義です。自己防衛の心に問題があることに気付きましょう。
ただ神様は、問題の大小を言っておられません。目の中に梁があれば物事を正しく見ることができません。梁であろうとちりであろうと目の中に入るということは、妨げになります。また、人の目の中にあるものを見る前に、自分の目の中にあるものをしっかり見極めるということです。そして、それを取り除かれるのは神様です。
神の前に自分を正しいとするのではなく、罪人であると正直に認めた方が早くいやされ、きよめられます。
●6/7(火)「目のなか」(箴言20:8)
目の働きは、物を見ることによって識別することです。そしてそれをどう受け取るかという理解力も必要になります。またその情報にどう応答するかという思考力もそこに働いてきます。ですから、目の中にはあなたの心である識別力、理解力、思考力があるということです。
もしそれらが、梁という大きな問題に妨げられていたらどうなるでしょう。その問題に影響されて正しい判断ができなくなると考えていただいたらと思います。あなたがもしそのような状態だとしたら、当然いやしていただき、きよめていただかなければなりません。
そこでヘブル9:14をぜひ読んでみてください。そこにはイエス・キリストの血潮が私たちの良心をきよめるとあります。神の前に健全な識別力、理解力、思考力を持つということは、神の前に正しい良心を持つことと同じ意味です。善悪を正しく振り分けることができるのが正しい良心です。イエス様の血潮は、神の愛を象徴しています。その愛に触れれば触れるほど、私たちの良心が正しく機能し、きよめられるのです。
●6/8(水)「見えるふり」(箴言14:8)
「見えるふり」は、偽善者の言い換えです。偽善者は自分を欺くことになるという点がポイントです。自分は正しいと思っているけれど、周りはみな間違いがわかっている。それをあくまで正しいとしているのは何と愚かなことでしょう。裸の王様のようです。
深い知識もないのに、あたかも知っているような態度で自分を表現してしまっていることがありませんか。自分を欺いていくと、だんだん自分でなくなっていきます。
『知恵のある人は自分の道をわきまえる』とあります。それは間違いに気付き、それを認めるということも含まれています。
みなさんは人前で恥をかきたくないという思いから、問題を認めないで、つい自分を欺くような態度をしていませんか。それが重なると、本当の自分ではなくなります。ですから私たちはいつもデボーションや祈りの中で自分を正直に表すことが必要です。
●6/9(木)「梁を取り除く」(エレミヤ書2:19)
ここでエレミヤは不信仰なイスラエルの民に神のお言葉を告げました。『あなたの悪があなたを懲らし』神様は理由もなく懲らしめられる方ではありません。私たちが罪から悪から離れるために懲らしめられるのです。
『あなたの背信があなたを責める』すなわち、神に対して背を向けている態度が責められる原因だということです。
メッセージにおいても、それを感謝して受け取るか、責められているように受け取るか、それで自分の意識は御霊の方に行っているか、肉の方に行っているかがわかります。責められるように感じるのは肉の働きです。なぜなら肉は御霊に反する、神に従えないと聖書にあります。
重大な、目の中にある梁のような問題は、主を捨てて、主を畏れないということです。
私たちクリスチャンは、悔い改めて主を畏れ、主と共に歩む決心をしたにも関わらず、なお目の中に梁を持つ可能性があります。それが神を敬わない心。私たちはいつも砂嵐の中にいるような人生です。その中で目を開ければ、不遜、不敬虔のちりが目の中に入ってきます。正しく物事を見ることができなくなってしまいます。ですから目を守るためにイエス・キリストへの信仰、救いの眼鏡が必要です。
●6/10(金)「犬と豚」(箴言11:22、26:11)
犬や豚にも良い所もあれば、愚かな所もあります。
犬の良さは主人に対する忠実さです。しかし、それが高じてバカ忠実になってしまいます。犬は分別がつきにくいものです。ですから『蜀犬』太陽に向かって吠えるわけです。何でも怪しいと思えばとにかく吠える。見分ける力が弱いからです。
豚はどうでしょう。この聖書の当時(箴言11:22)鼻に金の輪をつけるということはとても高価で、美人の条件でした。
豚は食用と掃除係です。豚は食べられる物は何でも食べるという、識別力の弱さがあります。豚に金の輪はあまりにも価値判断としてはふさわしくない、馬鹿げたことだということです。
ここで学ぶべきことは、私にも愚かさがあるということに気付くことです。「人は完全ではありません。」と言いながら、人の前で完全でありたいと自分を欺いてしまう人がいます。そうではなく、犬や豚にも愚かさがあるように、私にも愚かなところがあると、主を畏れる敬虔なクリスチャン生活を歩みたいものです。
●6/11(土)「向き直る」(箴言25:12)
「また豚の前に真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」豚に餌と札束を投げたとしたら、驚いたとしても餌は食べます。しかし札束だったら向き直るでしょう。それは人とは価値判断が違うからです。
あなたの親切が受け入れられなくて、逆に恨まれるような経験がありませんか。それと同じです。
自分が見えない人、自分を正しいとする人、そういう人にあなたの正義感で親切をすると向き直ってきます。あなたが正しければ正しいほど嫉妬するからです。なぜなら、自分を正しくするということは優れているという高慢な心が潜んでいるということです。
私たちも逆に自分がそのような立場に立って相手を責めていませんか。
主を畏れる人はL、たとえ自分に非がなくても、そこまで相手の態度が悪くなるには自分に何か問題がないか考えます。神の前に自分を探ることが、敬虔な態度ではないでしょうか。
どうぞ、見識の狭いクリスチャン生活を送るのではなく、みことばに教えられて歩んでいきましょう。

■2005年5月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
党同伐異 とうどうばつい up 2005.5.29
意見や利益を同じくする者が仲間を作り、自分達と立場や目的を異にする者を攻撃すること。
さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
(マタイ7:1〜2)

人は誰からもさばかれたくないと思いながら、案外よく人をさばいてしまっていることにお気づきでしょうか?
さばいているつもりはなくても、意見の対立する者に対して攻撃をしてしまうことがあります。攻撃することは、自分の意見や正しさを主張することで、相手を間違っていると決めつけてしまうことです。そして、自分の仲間にするか、仲間にならなければ廃絶するか、という結論を出す行動をしてしまう、これが「党同伐異」です。
イスラム教は信じなかったら「死」である、「剣と聖書」というマホメットの教えですが、これは「党同伐異」であり、信仰ではなく脅迫です。イエス様は、剣を持って伝道はされませんでした。愛をもって福音を伝えられました。私たちも忍耐がないために「党同伐異」という、神より先に裁きを下してしまうようなことのないように、気をつけていきたいと思います。人や自分を裁いてしまうことに敏感でいられるように、裁きについていろんな点から学んでいきましょう。
●5/30(月)「人をさばく」(コロサイ人への手紙1:16)
善であるか悪であるかの基準は、さばく人の主観によります。ひとりひとり、自分の良心を働かせるための主観を持っています。それによって相手を決めつけてしまうことを、人をさばくと言います。
ちょっとした人の怒りを見て、「あの人は怒りっぽい人だ」と決めつけてしまうのは相手をさばいてしまっていることで、いうなれば確定することです。はたして私たちはそのように人を確定することのできるような者でしょうか?そういう点を踏まえて、人を裁くことは良くないということをしっかりと心に持っておくことが必要です。
それでは誰の主観に合わせることが最も正しいさばきと言えるでしょう。
コロサイ人への手紙1:16がヒントです。
私たち人間を含めた万物は、御子=イエス・キリストのために造られ、万物の所有者はイエス・キリストであるということです。人のものを勝手にさばいていいのでしょうか?
現在起きている「イラク問題」も、イラクとアメリカの主観のぶつかり合いです。イラクというイスラム教徒の一つの宗派の考え方をアメリカがさばいたのです。イラクを悪の枢軸であると決めつけたわけです。
アメリカにはアメリカの考え方と国益があり、イラクにはイラクの考え方と国益という、治める者たちの主観があります。この2つの主観を両立することは不可能です。だから、どちらの主観に合わせるかを決定するために、力が必要になってくる。これが戦争の一番の原因です。
力で服させる、力で相手に言うことをきかせる、これはさばきと同じです。
本来私たちは、お互いにそういうことをすることのできない者です。神に造られた者同志であるということを忘れてはいけません。
皆さんも個人的にさばきたいような気持ちになる人がいるかもしれません。
でも、あなたも相手もどちらも神様のものです。
神があなたとその人を正しくさばかれることを信じることが、一番傷が少なくて済み、問題も広がることが少ないのです。
●5/31(火)「人を値付けする」(第1テモテへの手紙2:6)
物に値段を付けるような感覚で、自分にとって利益をもたらす人は高く、損失を与える人は低く、というように、人の存在価値を量ってはいませんか?
人を量る量りであなたも量られますよ。ここをよく考えなければなりません。
そこで私たちが量る量り方は(第1テモテへの手紙2:6)にあるように、神が私たちにどのような値をつけられたかによります。
「神はそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」< |