■2005年4月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   伝家宝刀 でんかのほうとう   up 2005.4.24


代々家宝として伝わっている名刀。転じて、いよいよという時以外には、みだりに使用しない、とっておきの物、手段などのこと。 

自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
(マタイ6:19〜21)

 

「伝家宝刀」という熟語を通して「宝」の位置づけを表しています。何百年も伝わってきた家宝としての刀は、価値あるものとして、大切に扱われます。しかし、宝と考えるかどうかの判断は、人それぞれ異なっています。みんなが共通して宝と考えるとは限りません。イエス様は、マタイ6:21において、宝と心の関係について語っておられます。今週は、宝をどう扱うかを悟っていただけるように、6つのポイントに分けてお話しします。

●4/25(月)「宝の箱」(ローマ8:5)
「宝」と訳されているギリシャ語は、もともとは「宝の箱」というのが、正確です。そのことが宝の箱の中に入っている宝を指して宝と訳されるようになりました。ですから、ものが宝なのではなくて宝の箱に入れたものが宝となるのです。そのように、宝の箱を誰でも心の中に持っています。あなたの宝の箱の中にはどんなものが入っているでしょうか。「伝家宝刀」という言葉がヒントです。みだりに使用しないという事は、慎重な取扱いをするという事です。もし、傷でもつけたら価値が下がってしまうので傷つけられることを極力拒みます。物以外にも、知識、感情、意志において誰からも傷つけられたくないとしっかりと守り、価値あるものとして心の中に入れているなら、全て宝にしていると言えます。自分の考えが一番正しいと考え、人に意見をされると腹が立つという人は、自分の考えを宝としています。感情においては、善悪の判断を越えてまで人情を大切にするという場合、人情を宝としています。自尊心を宝のように持っていると、プライドを傷つけられることを嫌がります。そのように、自分は何を大切な物として心の中に持っているかを吟味して下さい。宝の箱の中に何を入れるかで、あなたの考えは、そちらの方に向いていきます。心の迷いや何でこんな考えが出てくるんだろうと思う時、大切にしているものは何だろうと見てみると理解することができると思います。人は宝のあるところに心があるからです。

●4/26(火)「宝と判断する心」(ガラテヤ6:8)
これは「宝」だと判断するのは、知識、感情、意志という心の部分です。知識、感情、意志はそれぞれの人生経験による考え方や感情表現、自尊心といった後天的に身につけたものなので、世の中の影響を大きく受けています。ですから、心にだけ頼って宝物と判断すれば、この世的になってしまいます。美しいものは何でも宝にするとか、成績の良い事や肩書きに価値を持っていると、どんなに公平に人を見ようとしても、つい、優れた方に心が行ってしまう、というようにクリスチャンは知識、感情、意志だけでなく神を認める正しい良心の部分がある事に気がつく必要があります。世の中的に価値ある物と判断するか、神の国において価値あるものと判断するかは、正しい良心があるかないかによって決まります。心の基準をどこにおいて価値あるものと判断しているか自分を吟味していただきたいと思います。正しい良心があなたの知識、感情、意志をバランス良く見守り、正確に判断できる基準を持たせます。

●4/27(水)「心は宝に向く」(ヘブル11:24〜26)
モーセはパロの娘の子として育ちますが、本当はヘブル人の子であったと知って以来、悩みました。彼は応急で一生楽に過ごす事が出来たにも関わらず、ヘブル人の子として奴隷の民として生きる事を選びました。それは、人にヘブル人の血が流れているという自分のアイデンティティーを大切にして、神の民としてヘブル人に神が約束して下さったものに価値を見い出したからです。これは、私たちクリスチャンに当てはめる事ができます。私たちは、神に愛された神の国の民であるという事を宝のように価値あるものと思うなら、迷う必要はないのです。でも、なぜこの世の様々なものに影響されやすいのか、それは、クリスチャンである事の価値を宝として掴み切っていないからです。神に選ばれたクリスチャン。神が選んだという事は神の価値判断によって選ばれたという事。それを宝とするかどうかはあなた自身の自覚です。『私はクリスチャンとして生きていこう』そこに価値があると感じた人はそのように生きていくはずです。宝としてとらえるかどうかで人生の方向が決まります。何を宝にするかを良く吟味していだたきたいものです。正しい良心は永遠の命に至る実を結ばせたいという考えを持たせます。だから、正しい良心を基準とした価値観は神の喜ばれる事を宝としますので、それを目的に人生の種を蒔くようになります。神を畏れる正しい良心からの価値判断を持って心の箱の中に入れる大切なものを決めていただきたいものです。

●4/28(木)「宝を保管する」(詩篇121:7〜8)
神様はあなたを守られる時、あなたの心のある場所(宝)も守って下さるということです。神様のもとに宝を預けるという気持ちが必要です。神様にも触らせたくないというプライドを持っている人はいませんか。すなわち、自分を変えたくないという人です。神様に取り扱って壊してもらったら困る、私はこれでいいんだと手を付けさせず宝のように自分を守る人、神様はあなたの宝をより良いものに変えたいのにこれでは困った事です。安全な所に宝を隠さないと、宝を貯える価値がありません。神様の元に宝物を預ける、そういう信頼こそ私たちの心を安心させる唯一の方法です。

●4/29(金)「天に蓄えることのできる宝」(第1ペテロ1:18〜19)
人は裸で生まれて、裸で死んでいきます。死後の世界に持って行けるものは自分自身しかありません。あなたの魂、霊、存在そのものです。もし、あなたの霊が神の目から見て価値のないものと見なされるなら、御国から除かれてしまいます。それでは、あなたの魂の価値は何によって価値づけされるのでしょうか。魂の価値は、能力や権力、名声、お金ではなくその人の徳の高さで決まります。徳の高さとは正しい良心による道徳的判断です。天地を造られし神が人となって私たち罪人の身代わりに裁きを受けられて、私たちに永遠の望みをもたらして下さったこの御業を成し遂げたのが神であり人となられた救い主イエス・キリストである、この事を道徳的に考えるなら大変な事です。神はあなたの魂の価値を御子イエス様の血潮に対する考え方で測られるお方です。御子を軽んじる者は軽んじられ、御子を喜ぶ者は神から喜ばれます。それは、いかに道徳的に神の前に正しい良心を持って物事を判断するかという徳の高さがそこに表れるからです。イエス様の血潮の価値とありがたさがわかればわかるほど、あなたの徳は高められているしるしになりますから、イエス様の十字架の購いを深く悟らせていだだきましょう。

●4/30(土)「天上に心を置く」(コロサイ3:2)
宝物をどこに置いたか忘れてしまったらこれはもったいない話です。宝のある所に心があるというのですから、宝を天に蓄えているなら天の事をいつも気にかけます。神様に預けたあなた自身を磨き、育てていくという事をあなたが忘れてしまったら、せっかくの良いものに仕上がっているのを安易に傷つけてしまい、結果的に神様の恵みを無駄にしてしまう事になります。天に心を置き預けた所にいつも目を向けている事が大切です。それが本当の宝物に対する心の姿勢だと思います。天に宝を置いていたら、天上的な考え方で宝物に対する私たちの扱いや価値を見つけていきます。地上的な存在となるか天上的な存在となるか置くべき心の場所によっても決まってきます。私たちは天に心を置き、天の宝としての自覚を持って毎日のクリスチャン生活を神様と共に歩む、そういう毎日としてご一緒に進んでまいりましょう。

 

 

 

 

 


 
■2005年4月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   一刀両断 いっとうりょうだん   up 2005.4.17


ものごとを思い切って、決断し処置することのたとえ 

断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。
(マタイ6:16〜18)

 

私たちの信仰生活の心がまえに役立つ言葉です。すなわち、罪の性質である古き人を十字架につけて過去との清算をすること、また人生の思い煩いを切り離し後味を残さないようにこの言葉を通して学んでゆきましょう。マタイ6:16〜18は断食について書かれています。ある時は断食を通して物事を断ち切らなければならないことがあります。5つのポイントから学び6つ目は断食をどのようにとらえてゆくか最後に学びます。

●4/18(月)「悲しむ」(第2サムエル1:12)
彼らは、サウルのため、その子ヨナタンのため、また、主の民のため、イスラエル家のためにいたみ悲しんで泣き、夕方まで断食した。彼らが剣に倒れたからである。
人生には、食事ができないほど辛く悲しいことが起こります。悲しみを深く味わい、悲しみの中に浸り、そして悲しみを早く抜け出すために断食をすることは大切です。ダビデはサウル王が敵のペリシテ人に殺された時、断食をしてまで悲しみました。サウルはダビデを殺そうとしていた人です。そんなサウルに対して何故殺されたとき断食をして悲しんだのでしょう。ダビデはサウルを神に油注がれた主として尊敬を抱いていたので、不本意ながら敵の手によって倒れたことの故悲しみが大きかったのです。悲しみは隠れた所で見ておられる父なる神さまの前で吐き出すとき慰められ通り抜けることができるのです。

●4/19(火)「へりくだる」(エズラ8:21)
エズラは断食を神の前にへりくだるためと意味づけています。私たちが何か買ってもらいたい時、相手に対してへりくだった姿勢が無意識に出できます。神は人格を持ったお方です。私たちが願いをささげる時、心を砕いて謙虚な良心的な気持ちを持っているか見たいと思っておられます。断食をする時、神の前に敬虔なへりくだった姿勢が神の愛の心を動かすのです。

●4/20(水)「とりなす」(エステル4:16)
エステル(ユダヤ人)がアハシュエロス王の王妃として選ばれ王宮に住んでいた頃の出来事です。”アダルの月の13日の1日のうちに若い者も年寄りも子供も女も全てのユダヤ人を根絶やしにし、殺害し、滅ぼし、彼らの家財をかすめ奪え”と各州に法令として発布しました。これを知ったユダヤ人は大きな悲しみと断食を泣き声と嘆きとが起こり多くの者は荒布を着て灰の上に座りました。変える事の出来ない(王の命令)状況を変える事が出来るのは王のあわれみを受けることしかありません。エステルは「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」ととりなしの祈りをユダヤ人に願ったのです。断食の祈りこそが(また多くの人々の祈りこそが)神のお心を動かすのです。とりなすとは、神が決められたことをも変更する手段なのです。イエス様も十字架の上で私たちの罪のために「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」ととりなしの祈りをして下さいました。神の愛、慈しみ、誠意を踏みにじらないようにしましょう。(状況はエステル記をお読み下さい )

●4/21(木)「悔い改める」(ヨエル2:12)
「しかし、今、主の御告げ。心を尽くし、断食と涙と嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」ある人に対して罪を犯した時、その人に対して悔い改めることはもちろんのこと、主に対しても悔い改めることが大切です。信徒同志、罪を悔い改めるのとは大切です。クリスチャンとしてイエス様を信じている者として人々から何か言われるようなことをしたなら、聖い神、正義の神の威厳と尊厳に対して傷をつけ不信(不遜)をもたらすのです。罪の悔い改めの決心として断食をして神に立ち返ることも大切です。

●4/22(金)「聖別する」(ヨエル1:14)
「断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。」この言葉は、イスラエルに対して神の裁きが目の前に来ているので最後のチャンスとして預言者ヨエルを通して語られた神のお言葉です。公にはイスラエルは裁かれなけらばならないほどの不遜、不敬虔な罪を神に対して犯していました。しかし、神はイスラエルを滅ぼしたくないので、もう一度裁き主という立場を降りて、イスラエルを選んだ愛なる神として断食をもって聖めの集会をしなさいと語られているのです。この断食は聖別の断食です。「罪を悲しみ」「心を尽くして悔い改め」「へりくだって」「神にとりなしをする」この4つを合わせて断食は聖別することの意味なのです。身を聖別して神に誠意を表し、信頼していただくことです。キリストが再臨される終わりの時代のクリスチャンに求められている姿勢でもあります。自分だけが救われるのではなく、一人でも多くの人々が救われるために敬虔なクリスチャン生活をしてゆきましょう。

●4/23(土)「神が好まれる断食」(イザヤ58:6〜7)
「私の好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者他たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。」
神が好まれる断食について書かれています。私たちは、欲といく大きなくびきを負って縛られ、欲望から逃げ出せない弱さを持っています。くびきとは罪の欲望にコントロールされることです。断食はその欲望を断つことです。「餓えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家にいれ」この言葉は「隣人をあいしなさい」と言われた表現です。困っている人助けなければならない人を、見て見ぬふりをしてはいけない豊かな国の貧しさではなく、飢餓状態の国々のことです。「肉親の世話をする」この言葉は良心的考えでは、育てて頂いた親は何があっても死ぬまで自分の手でお世話したいと願うものです。損得勘定で親を看ようとする思いを断ち切って下さい。不敬虔な考えを断ち切る「一刀両断」です。断食は敬虔さをもたらすためにあるのです。神が好まれる断食です。断食は自分のしたいことをすることではなく、自己中心の欲望を切り捨てて食さないこと、これが本来の断食です。敬虔な心、主を畏れる正しい良心を生み出すことになるのです。神はこの世の楽しみを心の糧にすることを裁ち切り、主を畏れる心を大切にしてゆきましょう。

 

 

 

 

 


 
■2005年4月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   感慨無量 かんがいむりょう   up 2005.4.10


この上なく身にしみて感じ入るさま 

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
(マタイ6:14〜15)

 

主の祈りの教えの後、イエス様は「罪の赦し」についてもう一度繰り返して教えられました。それは重要な教えだからです。先日、平和外交で貢献されたヨハネパウロ2世が亡くなられ、世界中の多くの人々が葬儀に参列しました。しかし、残念な事に時期を同じくして日本ではキリスト教会を大きな衝撃に陥れるようなひどい事件が起きました。この事件のために、清らかな教会のイメージがどれほど傷つけられたことでしょう。この教会は大変閉鎖的で、他の教会とも、また近隣の人々とも全く接することがありませんでした。イエス様の御名を傷つけたこの事件の衝撃から回復されるために、私たちひとりひとりの生き方の証が本当に大切なものになってきています。私たちがカルト集団ではなく、洗脳された団体ではないことを、人々に示してゆくことが必要です。私たちの教会の自由な雰囲気は良い証になります。クリスチャンの熱心さは各自の自発からくるもので、恐れや脅し、あるいは報いによって強制されるべきではありません。牧師のメッセージはそういった脅迫的な従順を強いるものであってはなりません。このようなやり方で強制されていった信徒の人々が、どれほどこの牧師の起こした事件によってショックを受け、傷つけられたかを思うと本当に悲しくなります。この事件の起きた理由に「許し」という問題があります。今週、このみことばが用意されていたのは、不思議な神さまの摂理です。私たちは、この事件を通して「神の許し」について正しく学ぶ必要があります。今回はこの「罪の赦し」を3つのポイントにしぼり、月火水で学んだポイントを再び木金土で繰り返し正確に学んでもらえるようにしています。
「感慨無量」は、一般的には「感無量」と言われています。この感無量の体験は、罪の赦しにおいて大切な絶対に必要なものです。何故なら、罪が赦されるということのありがたさが本当に身にしみて、感無量であるということを体験しないということは、赦されるということを軽く安易に受け止めていることになり、それではとうてい本心から悔い改めることはなく罪から真剣に離れようともしません。この牧師が罪を何度も繰り返してきた原因もそこにあるはずです。何がこの「感慨無量」の心を引き出すのか、3つのポイントから見てゆきましよう。

●(月・木)「あわれみのゆえに」(第1テモテ1:16)
「この上ない寛容を示してくださった」と書いたパウロは、何に対してこのような感無量の思いをいだいたのでしょうか。それは、イエス・キリストを通して神が自分をあわれんでくださったとういことに対してです。あわれみの故に赦されたということを、あなたはどれほどの思いで受け取ったでしょうか。このあわれみは「罪の赦し」といくあわれみです。法律で死刑が確定してしまったら、その刑が軽減されることは不可能です。(無実の場合を除いて)もしその刑が軽減されるとしたら、法以外のもの、「あわれみ」によるしかありません。私たちが罪人であるということは、もう、裁かれるしかないということです。唯一その刑から逃れられるとしたら、裁判官である神のあわれみによるしかないのです。ただ、何の条件もなく刑を赦すことは、無秩序であってできないことです。それゆえ、神は罪を私たちに代わって負ってくださり、刑を受けてくださる私たちの身代わりとして、イエス・キリストを遣わされたのです。イエス様の十字架によって、私たちに神は義を通しつつ、愛を示されたのです。この神のあわれみに対し、感無量の心は人を動かします。パウロは最初、熱心に教会を迫害し、クリスチャン達を死に追いやった人です。その彼が赦されて、今度はイエス様の福音を伝えることに用いられるようになりました。敵であった自分が赦されて、今度は逆に証し人とされたことに、パウロは感無量の心を持ち、命をかけて、イエス様の教えを伝える者へと変わっていきました。感無量は人の心を動かすのです。

●(火・金)「正しい良心の表れ」(ルカ23:39〜43)
感無量を通してパウロが変わったように、感無量によって正しい良心が表れてきます。イエスが十字架につけられた時、二人の極悪人が右と左の十字架につけられていました。二人ともバラバがイエスに代わって恩赦を受け、罪もないイエス様が極刑である十字架刑を受けられているということを知っていました。そして、十字架の苦しみの中で「父よ彼らを赦したまえ」と祈られることばも聞いたのです。そして、二人の内の一人は、そのイエス様のことばを聞いた時、この方こそメシアではないかと思いいたったのです。そして、初めて良心がうずき始めました。イエス様の態度に感無量となった彼は、正しい良心が目覚めたのです。それで、彼は「私を救ってください」ではなく、「あなたが御国の位におつきになる時には、私を思い出してください」と願ったのです。それは自分の罪を恥じた謙虚な神のあわれみを求めることばであり、正しい良心からしか出でこない敬虔な心の表れです。もう一人の極悪人は「俺を救え」と叫びましたが、それは不敬虔な心から出できたことばです。不敬虔とは神を無視し(神殺し)存在は認めても敬わない態度です。不敬虔な心は赦されない罪です。正しい良心が表れる時、私たちは罪に対して神のあわれみの大きさを知り、そうでないと本当に罪を恥じ、真の悔い改めにいたることはありません。

●(水・土)「悔い改めの実」(ヨハネ5:14)
「もう罪を犯しません」ということはが、ただ口先だけのものではなく、真実の告白であるということは、何によって量ることができるでしょう。その見分け方は何でしょうか。それは「人を赦す」という姿勢をその人が持っているかどうかで見分けることができます。自分が赦されたように相手を赦す時、悔い改めの実を見ることができるのです。ベテスダの池でひたすら癒しを待って38年間も伏せっていた男性は、イエス様が「治りたいか」と聞かれた時、水が動いた時に自分は一番先に池に入ることができない状態であることを訴えました。それは、彼がどんなに必死で祈ってもすでに良心的に神の前に砕かれて神のあわれみを受ける条件が揃っているにもかかわらず、癒されていないという状況を示しています。それゆえ、神は見過ごすととができず、イエス様自らが彼を助けに来られたのです。この癒しは、彼の正しい良心が目覚め悔い改めの実が実っていることを、神が認められたことを意味しています。38年間癒しを待ち続けると、神の前に開き直ってしまう人と、自分の罪をさらけ出して本当に砕かれてゆく人と、二通りに分かれます。私たちが神にあわれんでいただきたいという、敬虔な心を持って神に近づき祈る時、神は私たちの祈りに応えてくださいます。正しい良心を持ちつつも、自分の罪に悲しんでいるへりくだった心に、神のあわれみは注がれます。事件を起こした牧師は10年くらい前から何度も罪を繰り返し、その度に「悔い改めます」と言いながら牧師を続けてきて、約2000人もの人々を集めてきた非常にカリスマ性のある人物です。彼は「悔い改めます」と言いつつ、何度も罪を犯してきています。その悔い改めは偽りだったのでしょうか。彼の悔い改めはただ知識のことばの上の悔い改めにすぎなかったのです。正しい良心から出できた悔い改めは、自分も罪を赦していただいたのだから、相手が自分に対して犯した罪も赦してゆこうとします。しかし、知識や感情、意志のみの悔い改めでは、それは理解できません。知識だと自分の犯した罪と相手の犯した罪は同じではない、相手の罪も裁かれるべき、法的にはそれが正しいとなり、感情ではどうして私が相手を赦さないといけないのか、そんな気持ちにはなれないと反発し、意志は私は牧師だから頭を下げる必要はないとプライドを持ちます。この3つでは真の悔い改めにいたりません。正しい良心によらなければ、赦された罪の大きさを認め赦されたあわれみに感無量の心を持ち、赦していただいたのだから赦していこうという心になることはありません。そして、そこにいたらないと悔い改めの実は見ることはありません。この牧師は、赦された結果何十人もの子供達を傷つけました。間違ってはいけません。ペテロに対しイエス様が言われた「7を70倍するまでは赦しなさい」というみことばは、赦す側に語られたことばであって、赦される側に対して語られたことばではありません。赦された側に対しては、神は「赦された者として、人々を赦しなさい」と語られました。しかし、彼は決して信徒を赦しませんでした。厳しいメッセージをもって人々の心を縛り、訓練ということばで人々を従わせたのです。従えないという人々の心を、神のことばを悪用して脅すことによって強制的に従わせたのです。この姿勢は、彼が悔い改めていないことの証です。赦されている人は、自分ができないという苦しみを知っているので、できない人をあわれむことができます。そこには寛容さが生まれます。もし悔い改めが偽ものであるとわかったらどうしたらいいでしょうか。箴言5:22、23に「懲らしめ」が必要であると言っています。悔い改めない人々には懲らしめが必要です。その懲らしめは相手の自己中心を砕き、正しい良心を目覚めさせるためのものです。正しい良心を目覚めさせるためには「恥をかく」ことが必要です。この主幹牧師が罪を悔い改めるためには、牧師という立場を剥奪するべきでした。プライドを粉々に砕かれるべきでした。そして、教会がその人の過ちを赦したならば同じ罪を犯さないよう厳しく見張ることも愛です。教会は本来、自らの罪を浄化する力があります。それは罪を赦されているという感慨無量の境地からきます。人々に真の罪の赦しを証してゆく者となりましょう。

 

 

 

 

 


 
■2005年4月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   死而後巳 ししてのちやむ   up 2005.4.3


死んではじめてやめるという意味で、生きている限りは力を尽くすこと 

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕
(マタイ6:9〜13)

 

この主の祈りは暗唱されるものですが、その一つ一つを心を込めて祈れるためのポイントを御一緒に見ていきたいと思います。この祈りに含まれている姿勢は、生涯死ぬまで続けるべき祈りの姿勢としてこの「死而後巳」という四文字熟語を選びました。

●4/4(月)「父よ。御名が…」(ピリピ3:5-7)
劣等感に悩んでいたある女性が、素晴らしい男性に愛され結婚したことによって、精神的に非常に安定したという話しを聞いたことがあります。劣等感とは、自己評価が低いので悩むのです。しかし自己評価が低くても高くても、安定した自己評価であったら心が騒ぎません。そのままの自分を愛してくれる人がいると心が安定します。世の中の人は、資格や肩書きや着飾ることによって、人から評価され愛される者になろうとします。人の評価が気になるのは自己評価が低いためです。逆に自己評価が高い人はいつ低くされるかという不安を抱えています。本当に安定した自己評価の人は、人から批判されても動じません。自己評価の根本的願いは「愛されたい」というものです。能力があろうとなかろうと、愛されている存在であるということを実感すると自己評価が安定します。この主の祈りは大きく自己評価を安定させるものです。私たちは元々神様を父などと呼べるようなものではありませんでした。神様と私たちは父と子の関係です。子は父から出たもの、父に属するものです。世間から何を言われてもクリスチャンは動揺する必要がありません。なぜなら、私たちは創造主なる神に属し、愛されているものだからです。この世の人々の批判を通して揺さぶられるなら、父なる神よりもこの世に属することに価値を置いているのではないかと吟味する必要があります。私たちは御子イエス様の十字架によって神の子とされたのです。「御名があがめられますように」とは、この素晴らしい父なる神様に属する子であるということを感謝する人が、心を込めて祈ることができるものです。

●4/5(火)「御国が来ますように」(第2コリント8:19)
これは個人的な願いの祈りではなく、神様がこの天地万物を創られた目的であります。御国を建て上げ完成するというこの素晴らしい大事業に、私たちもたずさわれるということは、なんと光栄なことでしょうか。そのことに感謝しつつ、喜んでこの人生をみこころの内に歩んでいきますという誠意を表す祈りです。「あなたの目的である御国の完成のために私も一緒にさせて下さい。そのために心を合わせます」という気持ちが込められている祈りです。小さな子が大掃除を手伝おうとして、かえってじゃまになることがありますが、それでも手伝わせてもらえるのは子供にとって喜びです。私たちも神様が御国を建て上げられるのをじゃましていることが多いものですが、失敗しながらでも手伝わせていただいているのは神の愛なのです。あなたが建て上げるのでも、神様だけがされるのでもありません。私たちにも参加させて下さる、素晴らしい愛の神様です。

●4/6(水)「みこころが地になされるように」(イザヤ6:8)
天では御使い達が、神のみこころ通りのことを行っています。しかし地上では、神のみこころが一番正しいと信じ行っている人が本当に少ないのです。天では行われているが、地上では誰が行うか、神様はその人を望んでおられます。「私がみこころを行います!」と、神様に応える必要があります。この決心のもとに、御国は実現していくのです。この祈りは「私も従いますから、地にもみこころがなされますように」という気持ちが込められた祈りです。正しい良心で、使命感を持って、与えられた人生でみこころを行うことを決心し、その表明として、この祈りを祈って下さい。

●4/7(木)「日ごとの糧を・・・」(エゼキエル34:14)
イエス様は、富んでいる者も貧しい者も全世界の人々に対してこの祈りを例としてあげられました。ただ単に私たちが食物によって生きていくための糧だけでないということです。エゼキエル34:14で、神はご自分を牧者のように、イスラエルの人々を羊のように表現しておられます。羊は何が自分にとって最善であるかを見分けることができないので、牧者である神は羊のために良い牧場を探してそこへ連れて行き、食事を用意し養うと言っておられます。いろいろな食物がありますが、その人に必要な食物は牧者である神ご自身が一番良くご存知です。神はあなたが神の子としてキリストのように成長し、聖別するためにその日一日の必要な出来事を用意して与えて下さいます。それを「神さまが備えて下さったものは私にとって必要なものですから、全てを感謝して受け入れます」という気持ちの姿勢がこの「日ごとの糧を・・・」という祈りです。神が備えて下さったあなたのための人生の糧を嫌って受け入れないで呟いていたのでは、いつまでたっても健康なクリスチャンにはなれません。どんな出来事が起こっても、主は私を牧者として導き、緑の牧場へふさせて下さるという牧者への信頼の表れとして「日ごとの糧を・・・」と祈るのです。

●4/8(金)「負い目を赦して下さい」(詩篇8:3-4)
負い目とは、負債または借金という意味です。神様に自分のどんなに大きな借金を赦されているかを理解し自分の現状を認め受け入れると、自分への小さな借金を赦して人に対する哀れみを持つことができるようになるのが健全な心の動きです。この心の動きは良心の働きです。良心に基づいた決断が人をあわれむ感情を持ち、良心からの正しい善悪の判断が知性の中における正しい知性を選びとり、意志をもって実行させるのです。あなたは罪を赦すか赦さないかという問題において、あなたに迷惑をかけた負債にたいして、まず良心的に考えて下さい。正しく自分を知る(自己認識)ということが、人を赦す大切なポイントです。私たちは神さまに対してどれだけ不敬虔で横柄な者でしょうか。この祈りは、一方的な私たちの神への祈りだけではなく、自分の罪深さを認識し意識して自分を見るためのことばです。

●4/9(土)「試みにあわせないで」(申命記8:2)
試みられることによって何がわかるのでしょうか。申命記8:2には私たちの心の内にあるものを神が知るためというよりも、私たち自身が自分の心の内の醜さや汚れたものがあることに気付くためであります。気付けば気付くほど、人の罪を赦すあわれみが出てきます。それは敬虔になれるということです。では「試みにあわせないで」とはどういうことでしょうか。神さまの前に自分自身の罪深さを認め、正直に全てをさらけ出して隠しているところがないから祈れるのです。試練は鍛えられるためのものですが、試みは隠された罪が表されるために問題が起こり、負担がかかり、テストされます。「私の内には罪が宿っており罪によって左右される欲望があります、そのために悩んでいます」と正直に自分自身を認めて神の前にへりくだることが試みにあわない秘訣です。隠して認めないから認めることができるように試みにあうのです。神はあなたが滅びるために試みにあわせるのではなく、あなたが自分の罪深さを認めて神の前にへりくだり、正しい良心を働かせて敬虔な神の子になるようにと神は願って試みられるのです。

 

 

 

 


 
■2005年3月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   死灰復燃 しかいふくねん   up 2005.3.28


火の気のない灰が再び燃え上がることから、
一度失った勢力が盛り返すことのたとえの意。
 

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
(ヘブル10:22)

 

このみことばの中に、2つの回復(よみがえり)があります。まず、一つはキリストの十字架の血潮をもって、きよめられて回復したこと。もう一つは、アダムとエバの不従順による罪から、神様に近づくことのできなかった人間。イエス様を通して神様との関係が回復されました。イエス様の十字架を私たちの心の中に起こった出来事として今週はみていきたいと思います。

●3/28(月)「ゲッセマネの祈り」ローマ8:22
「うめきの祈り」は知識、感情、意志の祈りではありません。正しい良心からのうめきの祈りと考えることができます。イエス様は私達の正しい良心を表現していると捉えて、十字架を考えていこうと思います。
(ローマ8:22)の被造物全体、人格を持たない植物、動物がうめくとはどういうことでしょうか。被造物は何一つ神の前に罪を犯したことがなく、完璧な状態でした。しかし、アダムとエバの不従順の罪によって汚されてしまいました。
もし、被造物に人格があるならば、「こんなはずではない…」という、うめくような悲しい思いを持って、回復される時を待っているパウロのこの罪の世界に対する良心的な表現と言えます。
 イエス様も、ゲッセマネで全人類の罪のために、とりなしの祈りをされたのです。神が愛され選ばれたにもかかわらず、心をかたくなにしたイスラエルの民。また、全人類のために十字架でその罪を負わなければならない…。イエス様の複雑な思いが表されて良心からのつらい祈りを捧げられたのです。
どうぞ、このゲッセマネの祈りを通して、この矛盾した罪の世界に対して神の栄光が一日も早くおとずれるように、良心からのうめきの祈りをしていこうではありませんか。

●3/29(火)「不当な裁判」第1ペテロ2:19
「不当な裁判」とは、知性が正しい良心を責めることを表しています。今の日本社会では、進化論を学校の教育で用いられています。 
この教えが、創造論を否定するわけです。良心的に全ての造られた物を見て、進化するどころか現実的には退化していることの方が多いにもかかわらず、進化論という知性が創造論を否定するのです。
同じように、この世の価値観、考え方を持った知性が、あなたの敬虔な神への姿勢(正しい良心)を否定してしまい、不当な裁判、一方的、律法的な裁判を行ってしまうのです。
イエス様の裁判、イエス様を憎み、妬む者たちの一方的なものでした。あなたの心の中で、この世の知性が正しい良心の考えを否定していませんか?もしそうなら、神の子としての形が崩れてしまいます。

●3/30(水)「むち打たれる」ヨハネ18:23
「むち打たれる」とは、感情が正しい良心をむち打つと捉えます。怒りにとらわれてしまうと、その怒りを全て出しきるまでおさめることができません。
母親がヒステリックに子供を責め立てるとき、どんどん感情が激化して止めることができず、全部出しきった後に、後悔します。感情は自分の心だけではなく人の心をもむち打ってしまいます。
この罪の世界で育ってきた私達は、色々な形で感情に傷を受けてきています。その傷は持ちきれる限界があります。ある人はそれを表に出します。反対に自分を責め立てる人がいます。そのような感情が私たちの内側をむち打ってしまうことがあるのです。
しかし、正しい良心を意識する人は、その感情の激しい痛みを耐え続け受け止め続けます。それはイエス様の姿を見ればわかります。打たれても、打たれても、そのむちを受け止め続けられました。それがいやされることだと知っておられたからです。
神と共に歩まない、神がその中に住んでおられない良心は、その痛みに耐えきれず、なげやりになり、また死んでしまいます。私達は理性をもって物事を前向きにとらえることが必要だと思います。

●3/31(木)「十字架につけろ!」ネヘミヤ9:29
意志が働いて正しい良心を死に追いやってしまいます。
意志→自己表現…プライド、自尊心
私達が人間であるというプライドは決してなくしてはいけません。それは、私たちが何者であるかというアイデンティティーだからです。しかし、自己中心の自尊心というのは、間違った自己主張をしてしまいます。正しい忠告を殺してしまうのです。
正しいか間違っているかを判断するのが正しい良心。その忠告を最終的に意志が殺すのです。
感情と知性は、正しい良心から咎めがくるとおさえることができます。しかし意志だけは、その信号をはねのけて自分が正しいとしてしまいます。ですから最終的に正しい良心を殺してしまうのは、「十字架につけろ!」と叫んだユダヤ人のように、うなじのこわい民、強情な豹変する意志が働くのです。
あなたの正しい良心を「十字架につけろ!」と叫んで無視していませんか?神様は、正しい良心を通して私たちに忠告にして下さいます。それを認めないということは、自分を神と等しい者としていることに気付いていないことが多いので気を付けていきましょう。

●4/1(金)「十字架の上での死」イザヤ53:12
イエス様は苦しみの後、十字架の上で死なれました。イエス様はなぜ何の反抗もしなかったのでしょうか。それは十字架上での祈り「父よ。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」とあわれみを注いでくださったからです。
人々へのあわれみの深さは打たれ強さをもたらします。正しい良心を持っておられる神様は、知性、感情、意志からむち打たれ、不当な裁判を受け、「十字架につけろ!」と、死に追いやられるような苦しみの様子を見て、あわれみを注いで下さらないはずがないでしょう。
イエス様は自分では何もされませんでした。ただ、人々をあわれみ、むち打たれるままに、忍耐されました。それは全面的に神の愛が注がれることが必要だったのです。
あなたの正しい良心が復活の命を得るために、イエス様は耐え続けられたのです。私たちも義のために良心を持ってそれを耐え忍んでいくならば、神があなたを見捨てられることはありません。
私たちは、十字架で死ぬ必要があるのです。死ぬとは、イエス様が十字架で最後に語られた「わが霊を御手にゆだねます。」私達も無力な自分を神の前にさらけ出し、「イエス様、私の良心をあなたの御手にゆだねます。」と十字架にかかる時、復活が与えられるのです。

●4/2(土)「復活」ローマ8:11
私たちの正しい良心の部分が、キリストと同じ姿に変えられる必要があります。この良心の働きこそが、私達の人格形成を積み上げ、将来を左右するのです。それも永遠のいのちを左右する決定権を持っているのです。より神様に近い良心を持っておられるイエス様に近づくことが、人間としての完成の姿です。
そのために、私達は良心のうめきをもって神の前に祈り、知性、感情、意志のあらゆる働きかけに対しても忍耐し、苦しみ続けることによって復活にあずかることができるのです。
イエス様は御霊によってよみがえられたとあります。聖霊様が私達の良心をよみがえらせて下さいます。私たちは、心を開いて神にゆだねなければ、良心は御霊と一つになることはできません。
私たちは、あらゆる知性、感情、意志の働きかけに対して「自分の良心を御手にゆだねます。」と明け渡し、御霊があなたの良心を通して働かれることを望むことが必要です。このようにして、私たちの内側にもイエス様の十字架の出来事がおこっていることに気付いて下さい。

 

 

 

 


 
■2005年3月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   公序良俗 こうじょりょうぞく   up 2005.3.20


公の秩序と善良な風俗。国歌・社会の公共の秩序と普遍的道徳を意味し、公序良俗に反する内容の法律行為は無効とされ、犯罪の違法性は、実質的には公序良俗に反することによる。 

また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
(マタイ6:5〜8)

 

公序良俗とは法律用語です。
法律的には無実であっても、国家社会の秩序をみだし、普遍的道徳的に違反することであれば、無効とされるという事です。
裁判は、そのように道徳性と公平な人権をふまえた上でなされるのです。
今週は、祈りとはどういう役割のものかを説明するに当たり、この言葉を選んでみました。
正しい姿勢をもって祈ることができるように、学んでいきましょう。

●3/21(月)「祈りの役割」(2コリント1:11)
 神が私たちの必要をご存知ならば(マタイ6:8)祈らなくても与えられるはずだと考える人もいるでしょう。ところが、イエス様は祈り求めなさいと言われるのはなぜでしょうか?私達は手続きをしなければ、必要なものも与えられないという事を理解しないといけません。例えば、年金にしても、掛けていれば自動的に与えられるのではなくて、役所に行って手続きをしなければもらえません。手続きをする事により秩序を守り、権威を尊ぶことになります。祈りとは、そういうものであるという事を、今回皆さんにご紹介したいと思います。祈りも秩序と道徳性がなければ、その祈りは無効になります。うるさく祈り求めたら、それを静めるために祈りに答えて下さると勘違いしている人がいますが、それは間違いです。
イエス様が、祈り求めなさいと言われたのは、あきらめずに忘れないで祈り続けなさいという意味です。宗教法人の法人格を得るためには、県によって違いはありますが、3年、5年、10年という長い期間をかけての手続きが必要とされます。それを通して本当に得たいという熱意や真剣さがあるのかを調べられます。めんどうでも手続きをする事によって秩序を守り、国家の権威を安易に使うことなく、正しく用いる事につながります。無秩序な状況で力を持った者は大変な問題を起こす危険性があるからです。あきらめずに手続きをしていけば、いつかは法人格を手に入れることができます。祈りとは、そのように正式な手続きをふんで神の権威をいただくという役割があります。イエス・キリストの名は天地宇宙万物の主の御名であります。その名を用いれば何でもできるという偉大な力ですから、むやみに与えられるわけではありません。御名の権威は祈りという秩序の中にあります。神は一人一人に祈りによって手続きをさせて、その祈りの内容が神の権威を正しく用いることができるように、祈りによって神と交渉して正しい判断、正しい考え方、正しい動機が持てるようになる必要があります。そして、この人に御名の権威を委ねても大丈夫だという許可が与えられると、祈りに答えられたという確信が聖霊様から与えられます。そうしたら、答えられたと信じて待てばよいのです。

●3/22(火)「偽善者の祈り」(ルカ18:11)
パリサイ人の祈りは偽善者の祈りのお手本です。偽善者は、いかに自分が信心深いかを認めてもらいたいがために、人々の目につく所で祈ります。また、罪人や取税人を軽蔑した祈りをしましたが、祈りは、自分の立場の正しさを神の前に語るものではありません。本当に神の前に善い人はどんな祈りをするでしょう。本当の善人は悪い人が良い人になるようにと、とりなして祈るという祭司としての働きをします。イエス様は私達悪人では直接神様に手続きをすることはできないので、十字架の上でとりなしの祈りをして下さいました。「神よ彼らは何をしているのかわからないのです。どうぞ赦して下さい。彼らの罰金は私が命をもって払いますから、どうぞ彼らに正しい手続きをできるように救いの道を成就して下さい。」と。イエス様がとりなして下さったので私達はイエス様のお名前によって祈ることにより、秩序正しい正式な手続きをしたとみなされて、祈りが聞いていただけるのです。ですから、パリサイ人のような人を裁く祈りにならないように気を付けなければなりません。祈りは、人々が悔い改めて立ち返るようにと、神に手続きをするためにあるのです。

●3/23(水)「異邦人の祈り」(詩篇135:15−18)
異邦人の祈りの特徴は、言葉数が多ければ聞かれると考え、自分の願いを要求する存在としての神なので、相手の存在は無視していることです。聖書の神様は人格者なので、自分の思いを持っておられます。だから、そのつもりで手続きをしないといけません。私は精神的圧迫と霊の戦いの中で祈り求めていた時、「あー主よ、主よ、主よ」と言っても、何か臨在が遠ざかるような無視されているようでした。その時、聖霊様から啓示されたのは、「主」という言葉をこういう時使うものではないという事でした。『「主」は天地の主であられ、権威を持たれた方なので、「主よ、主よ」と軽々しく言うことは不敬虔である。「主」は神の右の座にあって主権者なる方です。今のあなたの状態は「主」ではなく「聖霊様」です。その悩みと心の苦痛に対して近くにいて助けを与えられるのは聖霊様です。』というものでした。父なる神、イエス様、聖霊様には、立場の違いがあります。私達罪人が救われる為には、父、御子、聖霊という三位格の神様が必要です。父なる神様が子なる神、聖霊なる神と分かれることが出来なかったら私達は永遠に救われませんでした。父ご自身が十字架にかかることや、父ご自身が罪人の肉体に宿ることはできません。父は完全な神ですから、絶対に妥協できない方です。だから御子が代わりに来られました。そして聖霊なる神が罪ある肉体に御子の血潮によって罪なき者とみなされて、私達の良心に宿られ親しい交わりを持てるという状況が実現したわけです。これは秩序なる神様、普遍的道徳性を持たれたお方だからこそ、この様な手続きが必要だったわけです。父、御子、聖霊という手続きの道筋によって祈るという事を悟って祈れば、もっと祈りが答えられるようになります。なぜなら正式な手続きは反対者の口をふさぐからです。悪魔がいろいろと言ってきても手続きが通れば誰にも止めることは出来ません。それくらい祈りの手続きはすごい効力があるのです。だから熱心に祈ってしっかりと手続きをして許可をいただいて願いを実現する。祈りの素晴らしさです。祈りは、アダムに言われた地で支配せよというお言葉が成就するために神の権威を行使する手続きをして神の働き人に与えられています。

●3/24(木)「奥まった部屋」(詩篇145:18)
祈ればいい、手続きをすればいいというような神様との心の触れ合いのない、人格を無視した祈りであってはいけません。奥まった部屋とは、神様と一対一でしっかりと手続きが出来るプライベートな場所という意味です。祈りは神様と直接プライベートな関わり持つ時なのです。しっかりと神様と問答をして、正しく神様の権威を用いて、あなたの願いが実現するようにと神様のお名前を使っていくという学びをするのが祈りです。プライベートな祈りが出来る時間と場所を持つことが大切ですね。

●3/25(金)「隠れた所におられる」(箴言2:1−5)
知恵が宿り主を畏れる事を悟る場所は正しい良心です。正しい良心は無意識では働きません。善悪の判断を無意識にする事は出来ません。それは、その時その場所、状況によって変わるからです。そのひとつの例として、マルタとマリアの話があります。マリアはこの時正しいとされましたが、みことばを聞くことがいつも正しいわけではありません。その時の状況によって、優先順位が変わってきます。善悪の判断は正しい良心をもってしなければなりません。(隠れたところ)正しい良心のうちに、私達のたましいと共に聖霊様がお住みになっておられます。感情や知性ではあやまれない、ゆずれないと思うことも、正しい良心に意識をおくと私の態度は何と愚かだったのだろうと、へりくだることが出来ます。人がへりくだる場所は正しい良心です。正しい良心で神の前に祈る時、へりくだることが出来ます。

●3/26(土)「必要をご存じ」(ピリピ2:13)
神は、神の国の建設のために神のご計画の中にあってのあなたの働きにおいて、あなたの心に願いを与えられます。神は必ず実現される神様です。その事のために誰が必要であるかもご存知です。あなたが必要です。神の国の働きのために、あなたが必要であるという事をご存知ならば、その働きをする為に何が必要かもご存知です。お金も能力も健康も全部必要です。足らない、足らないではなく、主はご存知なのだからと信頼を持ってますます神の国のためにこの生涯をささげていこうではありませんか。 

  

 

 


 
■2005年3月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   大隠朝市 たいいんちょうし   up 2005.3.13


本当に悟りの達した隠者は、山中にこもっているのではなく、かえって人の多く集まる場所に住んでいる者だということ。 

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
(マタイ6:1〜4)

 

主題にある「大陰」とはまず、
人を超えた人格的存在者(創造主)がおられることを認め(=根)
その中で自分はいかに小さな者であるかということを知り、敬虔さが生まれ(=種)
究極の悟りを得てキリストの似姿に変えられていく(=実)人のことです。
創造主が遣わされた完全な「大陰」であられるイエス様は、あえて罪人の中に入っていって多くの施しをされました。
私たちクリスチャンはイエス様によって施しを受けた者ですから、その感謝の気持ちを人々に施す者(地の塩としての働きをする者)として生きるためポイントを探っていきましょう。

●3/14(月)「施し」(コロサイ人への手紙3:13)
「施し」とは、美徳としての貧しい人々への愛、および自発の慈善行為のことですが、旧約においては「義」の代名詞のように捉えられています。
「義」とは
(1)行いによって守る
(2)信仰によって守る
行いは完全ではなく失敗することもあるが、その度に自分の罪を神の前に悔い改め、やり直すという志(神を畏れる心)を持つことで、クリスチャンは信仰によって義とされています。
神は与えられる価値のない罪人の私たちに、一方的な恵みによって尊いキリストのいのち(十字架のあがない)を施してくださいました。
神から施しを受けた事を悟れたら感謝に溢れてきて、人々に施す(赦す)ことができます。それが正しい良心の心の動きです。
「施し」とは神の前にすばらしい義とみなされる行為ですから、少しずつでも施せる者へと成長したいものです。

●3/15(火)「施しの報い」(第1テモテへの手紙5:18)
「施し」には「ほまれ」という報いがともないます。しかし施しの報いを自分で評価し始めると、報いを目的として施しをしrていることになります。もし自分で期待しているほどに報われていないとすれば、それは世の中の基準に照らし合わせて、相手にその仕事ぶりが認めてもらえていないという事です。
しかし、隠れた所で見ておられる神は、正しく評価して報いてくださるので、クリスチャンは施しに対する報いを要求する必要はないのです。

●3/16(水)「人からのほまれ」(ルカの福音書6:26)
「ほまれ」を受けることは心地よいものです。人々はあなたが良い結果を出したり、気に入るように動くならほめるでしょう。
しかし人からのほまれを受けたいがためにそのような事を続けていると、やがて人々に踊らされ、利用される哀れな人間になってしまいます。
ルカの福音書6:26では民の目や反応を気にして心地よい預言をする「にせ預言者」になるのではなく、神の前に正しい「真実の預言者」になるようにと忠告しています。
神の前に良いか悪いか正しい良心をもって、人々からのほまれを判断していく者となりましょう。

●3/17(木)「神からのほまれ」(ローマ人への手紙2:29)
ローマ人への手紙2:29では「人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人(神に選ばれた人々)であり、御霊による心の割礼こそ割礼である」と語られています。
心の割礼とは、正しい良心による神への誓いであり、御霊の働きによる悔い改めです。
人はつい人からのほまれを求めがちですが、クリスチャンは神からのほまれを求めるべきです。
神からのほまれのしるしは、魂に喜びと平安が来て、ますます謙虚になります。なぜなら知性や感情では理解できなくても、魂に直接語ってくださるからです。
ですから施しをする時も、神の前にしている人は、人がどんな反応をしようと決して揺さぶられる事はありません。
「ほまれ」は神からの報いであることを心に留め、人に期待をするのではなく、神に期待する者となりましょう。

●3/18(金)「偽善者」(第1テモテへの手紙4:1〜2)
第1テモテへの手紙4:1〜2で、「偽善者」について語られています。
「神の前における正しい良心の働きが麻痺してくると、うそつきと偽善がはじまり、まどわす霊(=神と私たちの関係を切り離す働き)と悪霊の教え(=真実ではない神を真実な神であるかのように語る)に心が奪われ、信仰から離れるようになる。」と。
悪霊の教えとは現世での成功(幸福)にのみ目を向けさせ、死後の世界のことに思いを向けさせませんから、明らかに神の御教えから離れた教えとなります。
神はクリスチャンがT聖くあることUを望まれていますから、偽善にも敏感に反応されます。
クリスチャンの善の基準はあくまでも創造主なる神の道徳性の基準(=知・情・意を正しい良心というフィルターで見るもの)ですから、正しい良心を麻痺させないよう気をつけていただきたいと思います。

●3/19(土)「隠れた施し」(エペソ人への手紙4:32)
「隠れた施し」とはどのようなものでしょう。二通りあります。
(1)自分が捧げた事(品物や献金など)を人々の前に公表しない
(2)内面的なもの(思いやりや気遣い)=心の施し
<例>あいさつをしてこちらが期待するような反応が返ってこなかったとしても、その人が神への信頼を高められるために、前向きに良心的に捉えてあげる。
そうすれば、神御自身が平安と敬虔さを与えてくださるので、良い人間関係をつくることができる。
神からの最高の報いがもたらされるのは『赦し』という施しをすることです。
私たちは日常の生活の中で、人に迷惑をかけたり、失礼な事をしていることが多くあると思います。赦されなければ生きていく事のできない存在なのです。
神がキリストにおいて赦してくださったように、互いに赦し合うものとなりましょう。
 

 

 

 

 


 
■2005年3月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   後生大事 ごしょうだいじ   up 2005.3.6


後生での幸福を思って信仰に励むこと。そのことから、あるものを非常に大切にするという意味で使われるようになる。 

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
(第1ヨハネ3:2〜3)

 

私たちは新しく生まれ変わったクリスチャンとしてのアイデンティティを忘れてはいけません。(第1ヨハネの手紙3:2〜3)では、明らかに神の子としての自覚を持っているものとして書かれています。そのように自覚している人にとっては励ましとなりますが、自覚のない人にとっては苦痛となります。それは、古き人の立場から聖書を読むからです。「神の子である」ということが大前提なのです。
「後生大事」とは、死後の世界でのことを大切に思って信仰に励むことです。クリスチャンにとっては、この世が全てではなく、後の世がとても大切です。それが永遠を決めるからです。神の子としての自覚がなければ、後の世に対する期待や、励む心は湧いてきません。私たちは行くべきところがはっきりわかっているのですから、そこへゴールするために、神の子として毎日励むのです。

●3/7(月)「聞いています」(マタイの福音書5:43)
私たちは「これが正しい」と聞いて育ってきました。それぞれの親や文化の価値観を教えられてきました。「これが正しい」と聞いてきたことは、自分も「これが正しい」という姿勢を出します。しかし、自分サイドの「これが正しい」ばかりを打ち出していくなら、そこには必ず争いが起こってきます。
ユダヤ人は「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」これが正しい選民としての生き方ですよ、と聞いてきました。しかし、それを言っていくと、いつも異邦人たちとの間に争いが起こります。自分たちが差別するので、自分も差別されてしまうのです。
「これが正しい」と言うと、和解が成立しにくくなります。
私たちが今考えなければならないのは、「イエス様がこう言っているから、聖書がこう言っているから、これが正しい」という姿勢は争いのもとになるということです。
確かにあなたの言っていることは正しいかもしれません。だからといって平和になるわけではありません。私たちは正しいということを言う前に、「神の子である」という自覚を持てば、正しいか間違っているかと主張することなく、平和を保つことができます。神の子であるなら、平和を創り出す者です。間違いか正しいかを言い争うのではなく、平和のために正しい判断を良心的にしていくことが大切です。

●3/8(火)「自分の敵を愛する」(マタイの福音書5:43)
アダムが神の敵となった出来事とは、神の戒めを破って、自分勝手に判断し行動した時です。なぜ敵となってしまったのか、敵になる側から考えてみれば、あなたの敵もなぜ敵となってしまったのか、その心の動きを読み取れます。そうすると、敵を憎むのではなく、愛することができるようになります。それは神様も私たちを愛してくださったからです。
神様は、私たちが誘惑に負けて敵となってしまったことをご存じなのです。アダムも最初は反抗的ではありませんでした。アダムはまだ神の子として未熟だったのです。私たちが罪の世界に閉じこめられたのは、誘惑が原因なのです。だから、神は人となってまで人類を救いたいと願われたのは当然のことなのです。
あなたの敵となる人たちも、何らかの悪い者たちの誘惑と働きかけによってあなたの敵となるような状況になってしまったのです。そう思うと、その人を憎むのではなく、その原因に対して憎しみを持つことができます。その人が悪いのではなく、その背後に働く罪の力、死の力が悪いのだと思えば、あなたの敵を愛することができます。(第1コリント人への手紙15:26)

●3/9(水)「天の父の子」(マタイの福音書5:45)
正しい人も悪い人も、神は生かされます。神はどんな気持ちで人を見ておられるのでしょう。悪人にも雨を降らせ、太陽を昇らせるのは、正しい者になって欲しいと悔い改めるチャンスを与えておられるのです。私たちもそのような目で自分の敵を見ないといけません。あなたが神の子であるならば、お父さんのようになりたいという気持ちが湧いてくるのが、健全な心の状態です。神の子という自覚があるならば、敵を愛するという難しいことにもチャレンジする気持ちが湧いてきます。天の父のようになりたいという思いが、自発の意志です。

●3/10(木)「取税人でも…」(マタイの福音書5:46)
神の子という自覚があれば、お金のためなら誰でも愛するというレベルの愛とは言われたくありませんね。自分を愛してくれる者を愛する、それ以上の愛を神の子は持つべきです。しかし、そこに至っていないのが現実です。そこに至るようにと成長している段階の者なのです。それでこそ、神の子なのです。

●3/11(金)「異邦人でも…」(マタイの福音書5:47)
ユダヤ人にとって、取税人と異邦人というのは近づきたくない人です。最初から、自分の敵にあいさつするということはできなくても、チャレンジしていくことが大切です。教会はいろんな人が来る場所です。それはどんな人にでも神の子として接することができるようにと、私たちの心が広げられるためです。どこまで心は広げられるでしょうか。それは父なる神さまと同じ広さまでです。私たちは神の子で、父なる神さまの無限の遺伝子をいただいているのです。だから、チャレンジすれば無限に広がっていくのです。自分で限界を作ってはいけません。自分を砕いていくなら無限に広がります。もうだめだ、という所にいる人はチャンスです。

●3/12(土)「完全でありなさい」(マタイの福音書5:48)
だれかを励ます時に効果的な方法は、その人がどこに所属している者かを目覚めさせることです。そうすれば、見えない力が引き出され、実力以上のものが自覚と気力によって生み出されていきます。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」
私たちは何に属しているのかという自覚が大切です。実力はなくても、私たちの神は完全なお方であって、あなたはそのお方の一部に所属しているのです。その自覚が完全さを生み出していくのです。まねをするとか、従わなくてはならないのではなく、あなたはすでに所属しているのです。それは可能性があるということなのです。
その「完全さ」とはどのようなものなのでしょうか。行いにおいての完全さでしょうか、能力でしょうか。その「完全さ」とは、「道徳的に完全でありなさい」「正しい良心を完全にしなさい」というものです。失敗した時にどう対処するかに、道徳性の完全さが問われます。
それは正しい良心が成熟していなければ表れてきません。正しい良心の完全さとは、キリストのような信仰姿勢です。どういう状況が起こっても、どんな結果が表れても、正しい良心をもって、最高の判断と行動を行うこと。これが、神が私たちに要求されておられる完全さです。
未熟な者でも、道徳的、正しい良心の判断において完全になることができます。
すなわち完全とは、神に受け入れられる正しい分別、判断です。だから「敵を愛せません」という気持ちが出てくる時、それをどのように神様の前に表したらいいのでしょうか。「私はまだまだ自我が強く…未熟な者です。今より少しでもチャレンジしたいのですが、どのようにすればよいのか教えてください。」とこのように神の前に祈り求めることが完全なのです。
今あなたの敵を愛せなくても、神の前で正しい判断と自分表現をしてください。そのレベルで、その時点で、神の前における正しい良心から出る神への敬虔な姿勢を表すことが、完全なことです。開き直ることは本当のあなたを捨ててしまうことです。あなたは神の子であり、神に似せて造られた者です。「後生大事」神の子であるという自覚を大切にすることが、後の世界を大切にすることです。
それでも神の子かと言われることがあっても、「その通りです。これでも神の子です。」とへりくだる姿勢が大切です。神の子としての敬虔な正しい良心が大切なのです。