■2004年12月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   帰馬放牛 きばほうぎゅう   up 2004.12.26


平和が回復して、戦争で使っていた馬や牛を山野に解き放す。戦備を解くことで平和を宣言し、不戦の意志を示す。 

平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
(マタイ5:9)

 

キリストは平和の君として誕生されました。平和を造り出すお方としてこの地上に来られたお方です。そして私たちも、そのイエス様にお従いして平和を造り出す、神の子であるということを含めて、今週も考えていきたいと思います。

●12/27(月)「安心をもたらす」(ヤコブの手紙2:15)
イエス様は、この地上に何も持たずにお生まれになりました。片田舎の大工の息子として誕生されたのです。そしてそのことがヘロデ王の耳に入り、「2才までの幼い子供を全て殺してしまえ」という命令が下ったのです。イエス様は生まれたての赤子なのにもかかわらず、すぐにベツレヘムを出て、エジプトに向かいました。旅費など多くの必要がありました。全て神様のご計画され、預言されたことが実現されていくために、平和の君が守られるために、三人の博士を通して乳香、没薬、黄金を備えられたのです。
イエス様のためにではなく、イエス様を通して平和を求めている人々のために、この捧げ物が用いられたわけです。
もし私たちが私利私欲のために神に求めても、なかなか与えらないことがあります。神は平和を造り出す者のために必要を満たしてくださいます。
神の子と呼ばれる人々は平和を造り出す者であると神は言われます。私たちもそのために神に必要を求めましょう。

●12/28(火)「救いをもたらす」(イザヤ書38:17)
私たちの人生には苦しみがつきないものです。しかし救いを与えられることによって平安を味わい、満たすことができます。神は、私たちを滅ぼすためではなく、神の救いを私たちに与えて、神の平安『エホバ・シャローム』という神のお名前を証しし、お示しになります。そのために一時私たちを苦しみや、救いを必要とする状態に置かれることがあります。
またクリスチャンは苦しんでいる人を見て放っておけません。その時神は必要を全て満たしてくださる方であり、あなたがそれをもって救いの働きをしていくのです。
あなたの助言が、神様の知恵を通して困難の中にある状態の友人、知人、家族の励ましとなり、救いとなり、平安をもたらすものとなるのです。
まず第一に私たちは、神様に罪からの救いを与えられて、魂の平安を得ました。そして神が私たちを目的を持ってお造りになり、この地上に送り出してくださいました。私たちはそのことを人々に伝え、救いの喜びを証しすることによって、あなたはピースメーカーになることができます。

●12/29(水)「解放をもたらす」(ヘブル人への手紙2:14〜15)
死の恐怖は正しい良心からの危険信号です。
私たちは罪の性質を持っているので、完全な正しい生活をすることができません。意識とは違う魂の領域で苦しみもだえます。それが良心に伝わって、人生に不安を与え、死後の世界に対するあらゆる恐怖を考えさせてしまいます。その恐怖から逃れるために、人は宗教を造り出し、修行をすることで救われようとするわけです。そのような宗教の歴史もあります。
この死の恐怖から私たちを解放してくださる平和の君、イエス様の御救いの中に私たちは信頼を持って従っていくことが必要です。
また、イエス様の御名を通して、縛られている人々の解放を告げ、宣言することが、私たちの務めとして与えられていることを忘れてはいけません。あなたの力ではなく、あなたが告白し、信頼しているイエス様の御名の権威が、人々を暗闇から解放するのです。
私たちクリスチャンも、この一年のあらゆる問題、将来に対する不安があったとしても、イエス様が解放主です。その問題を乗り越える力を与えてくださり、霊的な解放をもって私たちを新しい年に向けて導いてくださいます。
決して動かされず、消されることのない平安を私たちに与えてくださる、平和の君なるイエス様のお名前をますます信仰をもって告白していきましょう。

●12/30(木)「和解」(創世記31:52〜53)
(創世記31:52〜53)これはヤコブと伯父のラバンの問題です。
長子の特権を巡ってエサウに命を狙われたヤコブを、母リベカは兄のラバンの里に逃がします。ヤコブとラバンとの間には平和がありませんでした。神様に示され、そろそろ故郷に帰ろうとするヤコブ。祝福されているヤコブを手放したくないラバン。
そんな中、黙って出ていったヤコブは、ラバンに命を狙われます。ヤコブは神様に平和的な解決を求めました。そして「争ってはならない」と神はラバンに示され、ヤコブと和解した時の話です。神様が中心となって和解が成立しました。お互いの感情があっても神様を中心にする以上、神が2人の間を裁いてくださるように神に頼ったわけです。
平和を造り出す者は、両者が認める力ある存在でなければならない。信頼がなければ和解は成立しません。
イエス・キリストは私たちと神様との仲裁をされるお方。和解をもたらすお方です。
人となってこの地上に来られ、私たちが罪の中に悩み苦しんでいるということも味わってくださいました。私たちの立場をも神様の前に弁明し、神と私たちとを和解させてくださる、平和の君としてお生まれになったのです。
私たちは神様に対する敬虔な人生の姿勢が信頼を得、人々の仲介役、平和を造り出す者、すなわち神の子と呼ばれる人生へと変えられるわけです。

●12/31(金)「神のみことばに従順」(エレミヤ書29:18〜19)
(エレミヤ書29:18〜19)ここではイスラエルの人々が神様の前に偶像礼拝をし、また心を入れ替えるという繰り返しの状態でした。そんな中、北王国はアッシリヤによって捕囚され、ユダ王国だけ残っていました。その後、ユダ王国はバビロン帝国によって消滅させられるわけですが、その末期の話です。
エレミヤは「バビロンの捕囚となりなさい」という神様のおことばを告げました。リーダーたちはそのことばを信じませんでした。イスラエルの民が異邦人に捕まってしまうことは選民としてあり得ない、というプライドがあったわけです。約束を破った者として下される神の裁き。それでもなお神は救おうとされますが、イスラエルの人々は反抗し続けました。正しい神様の預言者のことばを受け入れずに、自我を通し続け、プライドを通し続けたユダ王国も、ついにバビロンによって滅ぼされたわけです。従わなかった民には、神は剣と疫病をもって追いかけると言われました。それは、従わない者には平和がないということです。
ですから私たちは神様のみことばにへりくだらなければ、平安はやってきません。
私たちもプライドが信仰になっている場合があります。誇り、自尊心が信仰とすり替わっている場合があります。気をつけなければいけません。
罪を犯したのだから、懲らしめられるのは当然。へりくだって神の前にそれを受け入れる時に、平安の義の実を結ばせるとヘブル人への手紙にあります。

●平成17年1/1(土)「一致を保つ」(エペソ人への手紙4:3)
日本の教会の門田支店。それは人間的一致ということを考え、主旨、主張、信仰姿勢を強調して、自分の団体、教派というものの存続を失わないようにアピールする、そういう集まりがあるということです。
御霊の一致とは、あなたの正しい良心に語りかけられる、神のみことばに対する教え、啓示です。それは必ず一致します。しかし、自分の立場を守り、肉を主張し、自分という存在感をアピールしようとする欲望が根底にある人は、なかなか良心的に神のみことばを聞くことができません。
現実に、とある教会でのこと。信徒は純粋に神様を求めていけば御霊の働きに引っぱられていくわけですから、牧師が御霊の働きを受け入れなければ、教会を出るしかないわけです。そして他の教会に行けば、「取られた」と言うわけです。自分の立場を守ろうとする人間的な考えはますます貧しくなっていき、問題を起こします。そして批判しかなくなります。
同じクリスチャンと呼ばれる人で、教会を攻撃するような人々がいるということは悲しいことです。御霊の働かない所には必ず分裂が起こって、一致が保てません。私たちは良心に語りかけられる神のみことばに従順となり、御霊の一致をはかっていきましょう。
 

 

 

 


 
■2004年12月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   経世済民 けいせいさいみん   up 2004.12.19


世の中を治め、人民を救うこと 

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(第1ヨハネ4:10)

 


世の中を治め、人民を救うことを言います。
今まで多くの指導者が立ち、世の中を治め、人民を救うという大義名分の下で数え切れないほどの戦いが行われました。
しかし、イエス様はそういった武力によらない、真実の指導者、救い主としてこの世に来られました。
この「経世済民」は、英語のEconomyを日本語の「経済」という言葉に訳すのに用いられた原語と言われています。
「経済」はお金を指すことばではありません。むしろお金にとらわれることによって、どれだけ多くの犯罪や悲劇が繰り返されていることでしょう。それは本来の「経済」の意味とはかけ離れています。
今週は、キリストの誕生によって明らかになってきたことを、ひとつひとつ考える週としていきたいと思います。

●12/20(月)「救いが必要であること1」(イザヤ書53:6)
救い主が遣わされたということは、私たちには「救い」が必要であるということを意味しています。どうして救いが必要なのでしょうか。
今の人類は、自分勝手に判断して、様々な教えや考えによって人生を歩み続け、迷ってしまい、さまよっている状態です。
いろいろな教えや宗教、考えによって人々は迷わされ、影響を受けています。しかしなかなかこの世の中を治め、人々を救う大きなものが出てこないので、リーダー達は力で治め、自分に属する人々だけを救うために戦うという歴史が繰り返されてきました。どの教えが本当に人々を救いに導く真理なのでしょうか。羊のようにさまよっている人々の本当の羊飼いである救い主のしるしは何なのでしょうか。
それは(ヨハネの福音書10:11)にあります。あなたのためにいのちを捨てるほどの愛を示してくださった方こそが、まことの救い主であり、羊飼いなる神です。イエス・キリストはあなたを救うために十字架でいのちをお捨てになられました。この方こそがあなたの真実な救い主です。

●12/21(火)「救いが必要であること2」(ヨハネの福音書8:34)
救われなければならない二つめの理由は、私たちが罪の奴隷であるからです。罪から離れようとしても離れられない、強い欲望の力にひかれた罪の奴隷となってしまっているのです。真理を教えられてもなお、自分の欲望を通そうとし、神を敬おうと願ってもなかなか神を第一と優先させられない自分に気づきます。それは罪に支配され、奴隷とされているしるしに他なりません。しかし罪をはっきりと告白し、そこから離れられる自由を私たちは救い主イエス様から与えられました。
人々は怒りや憎しみ、嘘など様々な罪の縄で縛られ、束縛されています。しかし、イエス様はその罪の力から私たちを解放し、正直に神の前に歩めるようにしてくださいました。
油断せず、自分の心を見張り、再びこの罪の奴隷となっていないか自分を改めて点検してみましょう。

●12/22(水)「神に愛されていること1」(第1ヨハネの手紙4:9)
イエス様が地上に遣わされたことによって、私たちがいかに神に愛されているかが明らかにされました。イエス様のおことばには、必ず神の愛が示されています。例えば「貧しい者は幸いだ」と言われました。
それは神がその人を愛し、足りないところを満たしてくださるからです。幸いとは愛されているからこそ感じられるものです。
私たちは神に愛されていることに気づくと、幸せな心、希望が湧いてきます。イエス様のメッセージは、私たちに、神様の愛の心を伝えてくださいます。

●12/23(木)「神に愛されていること2」(エペソ人への手紙5:2)
キリストは私たちを愛されているゆえに、罪のためにいけにえとなられました。いけにえとなられることによって、ことば以上の証をされたのです。それは神がいかに私たちを愛してくださっているかを、これ以上はない方法で証しし、示してくださったということです。
イエス様は父なる神の私たちへの愛の思いに感動されたあまりに、ご自身をいけにえとして私たちのためにささげられたのです。
それほどの大きな熱い愛を、私たちは神から受けているのです。

●12/24(金)「神のさばきがあること1」(ヘブル人への手紙9:22)
罪は裁かれなければ赦しはあり得ません。これは動かすことのできない原則です。血を流すことなしに罪の赦しはあり得ないということは、犠牲がなければ赦されないということに他なりません。イエス様が最初に救い主としてお生まれになったという証は、今度は不敬虔な者たちを正しく裁くためにもう一度この世に来られるということの証でもあります。罪が裁かれる前には救いが必要です。それゆえイエス様は救い主として地上に来られました。この救いを受け入れなかったら、後は裁きしかありません。イエス様は今度は裁き主として来られるからです。イエス様は全世界の罪のために、十字架で現実に血を流されました。歴史上、キリスト以外にこのような購いの血を流された方はおられません。
救いの期間が終わったら、後は裁きのみが残されています。救い主キリストを受け入れないということは、キリストを遣わされた方ご自身を敬わないということになります。(ユダの手紙1:14〜15)のエノクの預言は、今、現代社会に私たちが告げなければならないことばです。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」
キリストの再臨までが、救いの時期です。再臨を目にした時はもう遅いのです。神を恐れない人々は、私たちを侮り続けるでしょう。しかし私たちは忍耐します。なぜならキリストが来られた時、その忍耐は報われるからです。
一度来られた方は、もう一度来ると約束してくださいました。必ず来られます。

●12/25(土)「神のさばきがあること2」(第2コリント人への手紙5:10)
裁きとは罰だけでなく、善に対して報いが与えられることです。
イエス様を信じている私たちは正しい良心を持って、しっかりと生きる決心をすることが必要です。キリストのご降誕は神の裁きを証ししているのですから、私たちは神を畏れる者として、報われる日が来ることを期待し、希望を持つことができます。
正しい良心によって、正直に、神の前に生きていく決心をしっかりとしましょう。クリスチャンがイエス様の誕生を喜ぶのは、イエス様が救いと解放を与えてくださり、愛を与えてくださり、すべての善と悪が正しくさばかれる日が来ることを確信させてくださったからです。
このクリスマス、心からイエス様のご降誕を喜んでお祝いしましょう。

 

 

 

 

 

 

 


 
■2004年12月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   清廉潔白 せいれんけっぱく   up 2004.12.12


こころが清く行いが正しくて、後ろ暗いところがまったくない様子 

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
(マタイ5:8)

 

心がきよくなければ、神を見ることはできません。イエス様がよみがえられた時、多くの弟子の前に姿を現されましたが、一般の人にはわからなかったのです。
神を畏れ、敬虔な人にだけイエス様を見ることができました。
心がきよい人の幸いとは、神の臨在を感じ、何を語られているか悟り、実体としてとらえることができることです。
一週間を通し、「きよさ」について学んでいきましょう。

●12/13(月)「きよいことのすばらしさ」(第2テモテへの手紙2:21)
「きよめ」とは、自分でけがれを取り除くことではなく、神から取り除いていただくことを意味し、「聖め」とは神に属する特別なものとして分離することを意味します。ですから私たちは「きよめ」を受けて「聖められた者」となり、尊いことに遣われる、有益で良いわざに間に合う者となるのです。
きよさに触れるときよいことのすばらしさを感じ、影響され、そのきよさを保ちたいという気持ちが湧いてきます。
きよいことがどんなに価値あることかを考えて、きよさに対する飢え渇きを持っていただきたいと思います。

●12/14(火)「きよめを受ける条件」(第1ヨハネからの手紙1:9)
きよめを受ける条件は、私たちが自分の罪を言い表し、心を入れ替える(悔い改め)決心をすることです。
きよめとは汚れたものを取り除くだけではなく、その後にきよいものを取り入れることです。
汚れときよさとは水と油のように混ざり合って1つになることができないので、心にきよいものを満たしておけば、汚れたものが入ってくることはできません。心にわずかでも隙間があると、汚れたものが入ってきます。
神はいつも私たちをきよめたいと願っておられますが、私たちの心がきよめられたいと願う一方で、肉の欲望をも持ち続けているならば、充分なきよめを受けることはできません。
二心があるならばそれを捨て、心を完全に入れ替える決心があってこそ、きよめにあずかることができるのです。
心がそのように整えられているかどうか、今一度吟味してみてください。

●12/15(水)「優れたいけにえによる」(ヘブル人への手紙9:23)
モーセは天国を見てきて、そのイメージを模型として幕屋を作り、その所では動物のいけにえが捧げられましたが、本物である天国をきよめるためには動物ではなく、もっと優れたいけにえであるT神のひとり子イエス・キリストUでなければならなかったのです。
「目には目を、歯には歯を」という言葉がありますが、それは復讐しなさいと教えたのではなく、目を失った時には同等の価値ある目でつぐなわなければならないほどに、罪を犯したら厳しい裁きが必要だということを表しています。
私たちの罪は、イエス様という優れたいけにえでなければ、到底おぎなうことができないほど汚れているのです。神に対する罪はイエス様の血を流さずして決して赦されることはありません。
優れたいけにえを遣わしてくださった神に感謝し、神に対する不信仰と不敬虔な思いに陥らないよう、気をつけていただきたいと思います。

●12/16(木)「血によるきよめ」(ヘブル人への手紙9:14)
目の前で血を流している人を見て平気でいられる人はいないと思います。
イエス様は「御愛之絆」によって、私たちを汚れた罪から救うために傷のないご自身をいけにえとしてお捧げくださり、尊い血を流してくださいました。
私たちがイエス様の十字架の苦しみ、流された血潮の意味を深く感じるとき、私たちの正しい良心はよみがえります。
神は私たちのよみがえった良心がどのように反応し、どのように生きていこうと決心するかを期待しておられます。

●12/17(金)「神のことばによるきよめ」(ヨハネの福音書15:3)
イエス様は天国について、神の国について、真理について語ってくださいました。
そのことばを聞いた私たちはもうきよいのですと言われます。
弟子たちは悔い改めの心を持って聞き、きよめられてイエス様に従っていきました。
神のことばは生きていて、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別する力があるのですから、汚れた肉の思いと神の思いが混ざり合って何が本音かわからない時、みことばを聞くことによってはっきりと切り離すことができます。
しかし、汚れた思いを捨て、神の思いを入れ替えようとしない人は、みことばを聞くと心に大きな葛藤が起こるので聞きたがりません。聞いても聞き流してしまいます。
みことばは私たちの心をきよめる力があるのですから、汚れたものを捨て、きよいものを受け入れたいという願いと強い決心を持って聞いていただきたいと思います。

●12/18(土)「きよい生活」(ルカの福音書11:41)
生活全てがきよいものとなるため、環境を変えるのには限界があるでしょう。生活全てをきよくする唯一の方法、それは施しの心を持って生きることです。
心を施すとは、
あわれみの心を持ち
親切をし
柔和な心の姿勢を示し
敬虔な生き方をし
寛容な心を示し
何よりも赦す心を持つことです。
イエス様は「受けるよりは与える方が幸いである」と語っておられます。幸福の秘訣は心をこめた施しにあるようです。助けを必要としておられるあなたの隣人に対し、あなたの心を施してみてください。
それによってきよい生活をすることになるのです。

 

 

 

 

 

 

 


 
■2004年12月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   恩愛之絆 おんあいのきずな   up 2004.12.5


親子や夫婦などの肉親の間に存在する、深くて断ち切りがたいつながり。 

あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
(マタイ5:7)

 

 深い強いつながり、恩を受け、愛を注がれる時になかなか断ち切りがたい関係になります。
 この世では親子、夫婦が一番強い絆で結ばれる関係であるとされているので、この言葉が出たと思われます。唯一、親友を断ち切りがたい関係(つながり)を持つことができます。
 私たちと神様との「恩愛の絆」という観点から、イエス様の幸いの教え5番目(マタイの福音書5:7)から、あわれみ深い者がいかに幸いであるか学んでみましょう。

●12/6(月)「神のあわれみ」(テトスへの手紙3:5)
 私たちが救われたのは(神が私たちを救ってくださったのは)私たちの正しい行いによってではなく、ただ神ご自身のあわれみのゆえに、罪の裁きから救ってくださったのです。
 神のあわれみは、罪人である私たちを救いに至らせる力強いあわれみです。
 救い主イエス・キリスト様が身代わりに私たちの罪の裁きの苦しみを受け、私たちを救ってくださった…そこまでにしてなぜ?
ただ深い絆があるから です。
 “…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。”
(ローマ人への手紙8:39)
 ご自身(キリストが犠牲になってでも私たちを罪の裁きから救い出したいと、私たちに対する愛とあわれみが現されたのがイエス・キリストの十字架です。
 神様のあわれみをいつも思い出せるよう、神の前にへりくだった心の備えをしていきましょう。

●12/7(火)「賛美をささげるわけがある」(ローマ人への手紙15:9)
 今年の出来事の中で、私たちの同国民として海外で活躍したシアトルマリナーズのイチロー選手は、アメリカの大リーガーの記録を破って、たくさんの記録を塗り替えました。同国民として賞賛しました。
 同国民としての賞賛は、全能の神をたたえるのと同じです。しかしあわれみを受けた賛美は、窮した時、助けられた時、親切にしてもらったゆえに、感謝と賞賛をささげるのではないでしょうか。
あわれみを注がれたことによって助けられた、そこに恩愛の絆が結ばれるのです。
 世界で有名なゴスベル「アメイジンググレイス」(おどろくばかりの)は歌われ続けてきました。この曲に歌詞を付けた18世紀の奴隷貿易船の船長、ジョン・ニュートンは、神の恵みを深く感じて歌詞をつけたのです。この罪汚れた我をもあわれんでくださった、その気持ちがこの歌に現されて、名曲として深いものを感じさせるのです。
 私たちの神への賛美は、恩愛の絆を私たちに向けてくださったあわれみのゆえに、心から賛美を捧げるのです。

●12/8(水)「悔い改める者のため」(箴言28:13)
 自分のそむきの罪を隠すものは成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。
 そむきの罪、それは反抗です。反抗は悔い改めない、心を変えないという人です。そのような人は成功しません。(全てを裁かれる)しかし、そむきの罪を告白して捨てる者はあわれみを受けるのです。(赦していただける)
 赦しはあわれみから出たものです。神はもとの正しい状態(健全な状態)に戻ることを期待して、あわれまれるのです。親が子供をあわれむのは立派な大人(人としてあるべき状態)になってほしいと願うからです。
神は私たちをご自分のかたちに似せて造られた最初の目的に立ち返って欲しいと願ってあわれんでくださっているのです。
私たちは人を赦す時、あわれみの心を起こすことが大切です。あわれみが起こって来なければ、赦すことは難しくなってきます。人との関係を深く考えることが必要です。

●12/9(木)「あわれみの心を受け継ぐ」(マタイの福音書18:33)
 “私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。”
 あわれみの心を正しく受け止めることのできた人は、自分があわれまれたように、人をあわれむことができるのです。すなわち、本当に神のあわれみを受けて悔い改めた人は、神が自分をあわれんでくださったように人をもあわれむ心に変えられるのです。
 人をあわれむ時に、罪深い自分を神がどのようにあわれんでくださったかを思い起こすことが大切です。

●12/10(金)「利用されてはいけない」(申命記13:6〜8)
 兄弟、息子、娘、愛妻、無二の親友という断ち切れない関係の人々が自分に対して罪の誘惑をもたらしてきた時に、あわれみをかけてはいけないということです。
 悪人は、自分の欲望を満たすため、神の愛を利用して罪の誘惑をもたらしてきます。
 悪と知っていながら、それから離れようとしない者をあわれむことは危険なことです。
あわれみは、悔い改める人に効果があって、悔い改めようとしない人には、忠告と叱責が必要なのです。

●12/11(土)「さばきに勝るもの」(ヤコブの手紙2:13)
 “あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。”
あわれみの心が裁きを止めることができます。
 裁判で情状酌量という言葉が使われます。刑を軽くする(やわらげる)という裁判の判決です。
 これはあわれみを注いだ結果、さばきが軽くなることです。あわれみは裁きより強いのです。
 人を裁く心(怒り、憤り、腹立ち)を鎮めるのは、正しい良心を持ってその人をあわれむ(神の愛が必要)ことが大切です。
 イエス様の十字架は神のあわれみです。神の一方的なあわれみによって私たちは救われたのです。
 “あわれみ深い人は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。”(マタイの福音書5:7)
 このことばはイエス・キリスト様が再臨される最後の審判の時のためにも語られているみことばです。
 主が再び来られ、私たちが神の裁きの座に立つ時、裁きではなくあわれみを受ける者として、今のこの時、あわれみを示す者となりましょう。
 

 

 

 

 

 


 
■2004年11月28日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   撥乱反正 はつらんはんせい   up 2004.11.28


乱れた世の中をしずめて、もとの正しい状態に戻すこと 

義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
(マタイ5:6)

 

 「撥乱反正」は聖徳太子が、17条憲法を制定した時の志です。
聖書でいうなら、義とされるという意味につながります。この言葉を用いて、私たちの心も、乱れた心を神の子としての正しい状態に戻すために学んでいきたいと思います。

●11/29(月)「義とは?」(マタイの福音書5:6)
 義に飢え渇くとは、肉体的なものではなく、心(たましい)の渇きのことです。
 世の中では正義を行うことがむなしく感じられ、心の渇きが満たされず、義を求める心も失われてしまいがちです。
 でも、神を信頼する者は、神が義を満ち足らせてくださるので、義に飢え渇くことに意味があります。「義」とは、あるべき状態にあることで、義とされるための条件は、主権者によって決められますが、人は神によって造られた者ですから、神の決められた条件に一致して初めて、義とされます。
 神は旧約時代、イスラエルの人々に対して、律法を守ることによって義とされるという契約を与えられました。
 しかし、新約の私たちは、律法を守り行うことによってではなく、救い主を通して、神を信じる事で義とされます。
 すなわち、心のつながりの関係を重点的に考えて、神の前に義とされることを約束してくださっているのです。ですから、神を信頼してもいなくても、守るべきことを守っていたらいいんだというような心のつながりのない関係では、本当に神が私たちに求めておられる良い関係ではありません。
 神は聖書の中で、次のような例を挙げて、神と人との正しい心の関係を教えておられます。
 (父と子)(主人とそれに仕える民)キリストを通して(友)(花むこと花よめ)
 そういうことをしっかりと理解していかなければ、神の前に義とされることはできません。
 また、先週の「柔和」の中でお話ししたコロサイ人への手紙3:12(深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容)も、人のあるべき姿のひとつの例として、神は望んでおられます。
 これは、神の前に敬虔な心を持つ者が身につけていくことのできるものです。私たちはまず、神様との正しい心の関係を保つことによって、人のあるべき元の姿に戻ることができる、すなわち、義とされるということです。私たちはまず、神様との正しい心の関係を保つことによって、人のあるべき元の姿に戻ることができる、すなわち、義とされるということを忘れてはいけません。

●11/30(火)「義を愛する人」(詩篇11:7)
 正しいことだけやっておけばいいというような人は、御顔を仰ぎ見るようなことはしませんね。
 義に飢え渇く人は神を仰ぎ見ます。
 渇いた心に希望と平安を得るために、もっとも正義を愛される方に頼ろうとする心がそこに生まれます。
 たとえば、学校でいじめられている子どもは、悲しい思いをしています。もし、その学校に正義を愛する立派な先生がいたら、いじめられている子どもは、その先生に頼ろうとします。そうすれば、悲しい心を理解し、慰めてくれるだけでなく、いじめた相手に対しても、何らかの処置をしてくれるからです。このように、正義に満ちた先生に頼ることで希望を持つことができる、これが神に対しては仰ぎ見るということです。
 私たちも義に飢え渇いているならば、「主よー、この世の悪を、この世の矛盾を、いつまで見過ごしておられるのですか」という、主を仰ぎ見る心が湧いてくるんですね。そこに、正しくすべてを裁かれる神、正義を愛される神だから、必ず私たちの気持ちを理解して、正しく物事を進めてくださるという期待を持って、仰ぎ見るわけです。
 チャーチスクールの子どもたちが、修学旅行に行って来た啓明小学校には、年に何度かの集まりで、40台くらいの伝道のトラックが全国から集まっていました。そのトラックには、罪に対する神の裁きのことばが書かれてありました。
 この伝道トラックで、各地を回り、神の裁きがあることと、キリストの赦しと救いを、大音響でメッセージされるのだそうです。
 キリスト教会は、愛を強調しすぎて裁きを語らないところに問題点があります。愛と赦しはあります。でもそれはキリストを信じることによって、神様との正しい関係、あるべき姿に立ち返るという悔い改めがあるからこそ、価値があるのです。
 悔い改めない者に赦しを与えても価値はありません。
 愛ばっかり言っていると、悔い改めなくても神は赦してくださると勘違いしてしまいます。
 愛を語るなら、罪に対する裁きがあることも同時に語らなければ、片手落ちです。
 神が地上のすべての悪と罪を裁かれる時が約束されているからこそ、義人が義人として正義を全うする意味があり、正しいことをする価値があります。
 罪の裁きがあるからこそ、キリストの救いは重要であり、義に飢え渇き、義を愛することが大切だということを知ることが必要です。

●12/1(水)「正しい良心の悲しみ」(第1ペテロの手紙2:19)
 義に飢え渇く人は、正しい良心の悲しみを持っている人です。
 なぜあなたは不当な苦しみをこらえるのですか?
 神が裁かれる時がやって来るからです。裁判官は被害者と加害者の間を正しく裁くものです。そのように神も、すべての悪を、また義に渇いている人両方に裁きと報いを与えられるのです。
 それを知っているから、私たちは不当な苦しみを神の前における正しい良心をもってこらえるわけです。それを見て人々は、ひょっとして本当に神がおられるんじゃないかと、そこに良心が目覚め始めるわけです。
 でも、それさえしない人々は、たとえこの地上で何もなく過ごしたとしても、永遠の滅びの火の池に投げ込まれて、その報いを受けることが定まっています。その時に、私たちの渇いていた義は満たされるんですね。
 正しく裁かれてこそ、私たちの魂は、平安が与えられるのです。
「ああ、良かった。やっぱり義を全うして良かった」という満ち足りた思いがそこにあるわけです。
 だから、地獄がなければ、イエス・キリストの救いは意味がないんです。
 地獄があるからこそ、救いが必要なんです。裁きがあるからこそ、キリストの救いに価値があるんです。なので、あまり強調しすぎるのもどうかと思いますが、人に嫌われるからと言って、罪が裁かれることを言わなかったら、義人としてあるべき正しい姿ではないと思いますよ。正しい良心の悲しみをこらえる価値がどこにあるか、しっかりと悟っていただければと思います。

●12/2(木)「罪人が義とされる」(ローマ人への手紙3:25〜26)
 一度違反をした者は、その違反が裁かれない限り義と認められることは不可能です。
 殺人者が裁きも行われていないのに、どんなに善良なことをしても、その人は殺人者です。義人とは言えない。
 私たちも同じです。神の前に一度罪を犯した不敬虔な者である以上、どんなに良いことをしても、罪人であるということは変わらないんですよ。義人にはなれない。すなわち、罪人は行いによって義とされることはないのです。
 そんな私たちが、どうして義とされることができるでしょう?
 罪人が義とされる方法は、行いは悪かったけど心は神様あなたを信頼して敬虔な歩みをしたいのです、という心が義と認められるという方法しかないんですね。
 だから、神を心から信頼し、畏れますという気持ちが本当かどうかを、救い主イエス・キリストを通して試みられているのです。神を畏れる心の証として、十字架が与えられたのです。
 イエス様は私の罪のために十字架にかかって死んでくださり、三日の後によみがえって私たちの義になってくださったと信じることにより、神を畏れる心が本当であると認めてくださる、そういう義を神は私たちに与えてくださいます。
 どうして行いによって救われないんですか、と言ってもダメなんですね。
 動機が悪ければどんなに良いことをしてもそれは無価値なものになってしまう。私たちも神の前に動機をしっかりと正しい状態に保っておくことが必要です。あるべき姿、神を敬うために私たちは造られた者、その心に戻す。撥乱反正というこの言葉が私たちの心に向けられることが必要ではないかと思うんですね。
 私たちの救われるのは、キリストを通して、神への敬虔な信頼を持つことです。それによって義と認められる、これが条件です。

●12/3(金)「義に満ち足りる」(ローマ人への手紙12:19)
 裁判官から「無罪です」とあなたの義を証明されてこそ、そこに義の価値があります。
 裁判官が言ってくれないからと、自分で相手を裁いても、それは復讐という型になり、正しい方法ではありません。
義とは、自分で満たすものではなく、与えられるものです。
あなたは誰から義と認めていただきたいのか。
私たちは天地を造られた最も正義を愛される神の前に義をいただきたいと願う者ですから、神の裁きに委ねていくということです。
 人を赦すことができるのは、神が正しく裁いてくださることを信頼しているからで、神を畏れなかったら赦すことは非常に難しい。
 神を畏れる正しい良心がイライラすす心を治めるのですから、神を畏れる心を持たなければ、良心が働きませんから、感情の強さと自我の強さで、復讐に燃えたり、心が騒いだりしてしまいます。
 あなたは良心を働かせて、クリスチャン生活を送っていらっしゃるでしょうか?
 良心を働かせなければ、どうしても赦せないという気持ちに勝利することは難しいと思います。
 《神はすべてを正しく裁かれる》この信頼を持ち続けることによって、義に飢え渇く心を唯一安心させることができると思うんですね。

●12/4(土)「義を保ち続ける」(箴言1:2〜4)
 善悪の分別は良心でするものです。
 神を認める心の分別は正しい良心を持ちますが、神を認めない分別は、自己中心の自我の分別になってしまいます。
 「箴言」を読むことによって、何が善であり、何が悪であるかをわきまえる良心を教育していくことができます。また、義を保ち続けるために、知恵の書である「箴言」は非常に役に立ちます。
 義に飢え渇ける人々の心を安心させるためにも、箴言の言葉は、大きな力と支えになります。
 あなたの良心を励まし、力づけるために、ぜひ、この箴言に目を留めて、じっくりと味わって読んでいただきたいですね。
 

 

 

 

 

 


 
■2004年11月21日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   外柔内剛 がいじゅうないごう   up 2004.11.21


外見はもの柔らかに見えるが、内面はしっかりしていて、芯が強いこと 

柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
(マタイ5:5)

 

「外見はもの柔らかに見えても、内面はしっかりしていて、芯が強いこと」を表すことばです。
柔和さは一見弱々しく思われがちです。しかし、どんな時にも柔和でいられるというのは、実は強くなければできないことです。
受け止める力があるからこそ、柔和でいられるのです。この柔和さを身につけていくために、みことばから学んでいきましょう。

●11/22(月)「柔和な者」(マタイの福音書5:5)
「柔和さ」とは、親切で優しくおとなしいこと。また、素直であるという意味です。「寛容」と同じように思えますが、実は柔和さは寛容よりも一歩進んで、自ら相手に優しさ、親切さという形で影響を与えます。
ただ赦し、受け止めるだけではありません。これは自分のbeingが支えられていなければできない態度です。
相手の悪い態度に対しても、決して心がゆるがされず、むしろ良い態度を示すことができます。
(第1ペテロの手紙3:4)に、神の御前に価値あるものとして、柔和で穏やかな霊があげられています。
人間関係において、お互いに柔和さを持つことができたら、問題は起きなくなります。そして柔和さは(ガラテヤ人への手紙5:22〜23)御霊の実の一つです。
柔和さは本当に素晴らしいものであるということをまず知ってください。今日しっかりと、「私は柔和な者になりたいです。」と告白しましょう。

●11/23(火)「熱心に求める」(第2テモテへの手紙6:11)
私たちが熱心に求めるべきものの一つに柔和さがあります。柔和さは、情熱を燃やし、犠牲を払う覚悟で熱心に求めるほど価値があるものです。
遊びやこの世のものにではなく、柔和さを貪欲に求めましょう。柔和は神の子どもたちにとって本当に必要なものです。
決心の祈りをしましょう。「私の求めるものはこれです。柔和を熱心に求めます!」

●11/24(水)「神の子にふさわしいもの」
(1)(コロサイ人への手紙3:12)
神に選ばれ、愛されている者が、身につけるにふさわしいものは「柔和」です。
紀宮様の婚約発表が先日ありました。一般の市民と結婚されるので、皇族でなくなりますが、皇族の規則の中に、品位を下げてはいけないというものがあり、結婚支度金として一億数千万が渡されます。
住居が普通のアパートであってはいけないので、皇族にふさわしい場所に、ふさわしい建物でなければならないからです。私たちは神の子です。神の子としての品位を決して落としてはなりません。柔和を身につけることが、その品位を保つことになります。
(2)(ヤコブへの手紙3:13)
柔和は、知恵のあるしるしです。この知恵は人格的な賢さです。学問や、記憶力といった能力的賢さとは違います。神を認める道徳心の高さです。私たちは柔和さを通して、心に知恵があるかどうかわかります。
主を畏れる心は、主が私たちを支えてくださる大前提です。
主が支えてくださると確信する時、自然に柔和さが出てきます。決心しましょう。「柔和をいつも身につけて、知恵ある行動をとります。」

●11/25(木)「互いの間に用いるもの」
(1)(エペソ人への手紙4:2)
柔和は、良いコミュニケーションをもたらし、誤解を回避できます。メッセージの聞き方にも気をつけましょう。批判的に裁く気持ちで聞いていると、決して正しく受け取ることはできず、誤解して受け取ることになります。人の親切も、裏の裏を考えていると自分を陥れようとしているのだと受け取ってしまいます。
柔和な心は、たとえ悪い言葉をかけられても、そのことばを前向きに受け取って相手に親切な言葉を返します。(寛容さは「赦す」という姿勢のみです)
もし互いに柔和さの限りを尽くしてゆくなら、誤解が生まれることはなくなります。
人の言葉に対して、柔和な心を持つよう意識していきましょう。必ず互いの関係が良くなります。
(2)(第2テモテへの手紙2:25)
「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい」とあります。訓戒は相手が立ち直り、真理を悟れるようになるために与えるものですが、そこにもし柔和さがなかったなら、その訓戒は実を結ぶものにはなりません。人に注意する時、怒りやいらだちの感情を持っていたら、あなたの願った通りの結果を見ることはできません。リーダーの立場の人には特にこの「柔和な心」が大切です。
決心と祈りを告白しましょう。「互いにどんな時でも柔和の限りを尽くします。」

●11/26(金)「柔和を身につけるには1」(ヤコブへの手紙1:21)
素直と柔和は同じギリシャ語です。私たちは人に対して素直になる前に、みことばに対し、神に対し、素直になる必要があります。みことばに対し、なかなか受け入れられない、素直になれないという時があります。そのような時こそ、そういった感情と戦う必要があります。それは古き人と新しき人の戦いです。

●11/27(土)「柔和を身につけるには2」(第1ペテロの手紙3:16)
「優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。」とあります。神の存在に対する敬虔な姿勢がないと、みことばに対して素直になれません。神の前における敬虔な姿勢、神を認める心とは「正しい良心」です。この正しい良心とは、洗礼を受ける時に神の前に決心した誓い、(第1ペテロの手紙3:21)その時の良心です。私たちは常に正しい良心という、新しく造られたあなたをしっかり意識しないと柔和さを身につけることはできません。
そうしないと、肉の古き人が出てしまって、いくら頭で柔和さを思い描いても、身につけることはできません。
いつも、洗礼の時に新しい良心をもって生きる決心をしたことを思い出す必要があります。この洗礼の決意をしっかり思い出しましょう。古き人を十字架につけていかなければ、正しい良心に意識を向けることはできません。どちらかに心は動きます。肉の方か、正しい良心の方か、どちらかです。
古き人はもう存在していないこと、それゆえそこに意識を持っていくということは想像であり、思いこみに過ぎないということを、しっかり確信してください。実体は正しい良心にあります。
古き人はもはや思い出であり、実体は正しい良心にあるということ、これが洗礼の真理です。
そして私たちはイエス様に似せて造られ、そのように造り変えられていきます。イエス様は(マタイの福音書11:29)のように、心優しい方です。心優しいとは、柔和というギリシャ語です。イエス様に似せて造られた私たちは、柔和さも備わっています。それゆえみことばを素直に受け止められます。実体のないものに目を留めないようにしましょう。新しい自分に意識を向けましょう。
決心と祈り…主よ。私はあなたとあなたのみことばに対して素直で前向きになります。そのために、古き自分をキリストと共に十字架につけます。
 

 

 

 

 


 
■2004年11月14日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   悲憤慷慨 ひふんこうがい   up 2004.11.14


世の中の不義不正に対して悲しみ憤ること 

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
(マタイ5:4)

 

世の中は、不正と不義に満ちた世界です。
悪いニュースを聞いていきどおることは多いですが、悲しむことは少ないのではないでしょうか。
しかし、悲しむことは大切なことです。
いきどおるだけだと、悪い方に行きます。悲しみは忍耐をします。いきどおるよりは、悲しみの方が良い判断、決断ができます。
「悲しむ者は幸いである」というマタイ5:4のみことばから見ていきましょう。

●11/15(月)「悲しむ者」(マタイの福音書5:4)
イラクで家族が亡くなった人々が嘆き悲しんでいるニュースを見ます。しかし日本人はあまり悲しみを表面に表しません。ギリシャ語の「悲しみ」の意味は、「泣き叫ぶほどの深い悲しみ」を表しています。
「なぐさめ」は「人に影響を及ぼす行動を表す言葉」
ただじっと見ているのではなく、悲しんでいる人がいるなら、その人になぐさめという行動を通して影響を及ぼすことを言います。相手が失望していれば励まし、悲しんでいればなぐさめ、迷っていれば勧めをし、動揺していれば警告を与えるという、相手の態度によってこの言葉が使われると意味が変わる、特殊な言葉です。共通点は、相手に良い影響を与えるというものです。
神は私たちに、どのような悪い状況でも良い影響を及ぼすものなんだ、ということです。
そこで、神様の心が動かされるほど悲しんでいる人は幸いです。また、悲しみは人と比べるようなものではなく、今までに通ったことのない悲しみを通っているんだなと、どのような悲しみがやって来ても神が応えてくださることを信じてください。
11/16(火)「懲らしめによる悲しみ」(ヘブル人への手紙12:11)
こらしめは、好きこのんで受けるものではありません。そのときは悲しみがあります。
しかし懲らしめとは、訓練中の人に効果的なものです。ちゃんとした目的がなければ、こらしめは意味がありません。けれども、本人にその目的がわからなければ、傷ついてしまいます。はっきりとした目的のもとにこらしめをされるなら、必ず最後には、良かったと思える平安な義の実を結ばせます。
愛を持ってこらしめをしていくならば、その時の悲しみは、平安な義の実を結ばせます。
こらしめられなかった子供はわがままになり、良い悪いが正しく判断できません。
しかし、こらしめられて悲しんだ子供は、正しく分別を持って善し悪しを判断できます。
注意してください。ただ単に痛みを与えるこらしめは意味がありません。
神様は私たちが失望するようなこらしめを与えられるのではなく、希望を与えるこらしめをされるお方です。

●11/17(水)「訓練の中での悲しみ」(第1ペテロの手紙1:6〜7)
「試練」を「火で精錬される金」にたとえています。
試練を聖めという意味で考えてください。
聖め=不純物を取り除く
あなたの心の中から神に喜ばれない不純物を取り除くということは、精錬された金よりも尊いというのです。
試練は自分のせいではなく、苦しめられる時をいいます。
この試練は、怒りを持って通り抜けると破壊だけが残りますが、悲しみを通して乗り越えていくと、そこに聖めが与えられていきます。不純物を取り除いて、金が精錬されるように。
あなたは経済価値に重きを置いていますか。それとも、神の前に聖められることを価値あるものとして歩んでいますか。
それによって、世界に来ようとしている試練の日に対して、燃え尽きてしまうか、精錬される金になるかのどちらかに分かれます。
悲しみをもって試練を通るなら、精錬された金のようになります。

●11/18(木)「不当なことによる悲しみ」(第1ペテロの手紙2:19)
不当な悲しみをこらえる価値はどこにあるのでしょうか。
それは神の前における良心のゆえです。
神に対する敬虔な心を養われていない人は、損得で物事を考えます。しかし良心的考えの人は、損をしてでも、神の前にという敬虔な心で生きることができます。
神を敬う人は、神がおられるから、不当な苦しみを受けても、忍耐し、悲しみをこらえることができるのです。
不当な苦しみを通して受ける悲しみは、あなたが神を畏れているしるしです。なぜなら、神を畏れない人は悲しむよりも怒ります。しかし神を畏れる人は、悲しみをこらえながら、すべての裁きを神に委ねます。最も正しい裁きをされると信頼しているからです。その悲しみはきよさにつながります。

●11/19(金)「自分の不義のために悲しむ」(エゼキエル書7:16)
イスラエルの人々は、神の寛容な裁きとあわれみに対して、一時的には悔い改めますが、喉元すぎると、また不敬虔な生活をするようになりました。
ついに神はこらしめなけらばならないことを、預言者を通して裁きが下されました。しかし、それらを逃れていっても、つらい思いから解放されることはありません。つまり、自分の罪のために泣き悲しむことが必要だということです。
罪の自覚まではいいのですが、大切なのは気づいた罪を悲しむことであり、それが必要なのです。悲しむことを通して、罪から離れることができるのです。

●11/20(土)「みこころに添った悲しみ」(マタイの福音書5:4)
神のみこころは、私たちが聖くなることであり、互いに愛し合うことです。しかし私たちがキリスト様の救いを受けて、神の愛によって聖められてくると、自分は何と愛のない者だろうと思ってしまいます。
自分が罪深いとわかってくると、聖められていることのしるしです。
また、罪深さに悲しい思いもするでしょう。その時、イエス・キリストの救いを見上げるのです。「こんな私のために、主は十字架で身代わりで罪を負ってくださった。罪のために永遠に滅ぶことのないために、チャンスを与えてくださった。感謝します。」と。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせるのです。」しかし、世の悲しみは、否定的破壊的な中で留まって、十字架の愛と赦しを受け入れようとしないのです。
罪に悲しむなら、主を見上げ、神の愛にすがるという、謙虚な正しい良心の動きが聖霊様によって導かれますように。
 

 

 

 

 

 


 
■2004年11月7日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   貧者一灯 ひんじゃいっとう   up 2004.11.7


貧しい人が、急迫した生活の中から都合して神に供える、誠意のこもった一つの灯明 

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(マタイ5:3)

 

『貧者一灯』とは『長者の万灯より貧者の一灯』と使われる言葉で、豊かな者は多くのものを捧げるが、案外心のこもっていない事が多い。しかし、貧しい者はわずかな中から捧げるので、相当の覚悟と誠意が必要で、心がこもっていることを表します。
貧しいことの幸いはここにあると思います。豊かさは神の前に私たちを盲目にしてしまうことが多いのではないでしょうか?
貧しさにあることを感謝し、その恵みをご一緒に見ていきましょう。

●11/8(月)「貧しい者」(詩篇40:17)
「貧しい」というギリシャ語は、全く財産を持たず、生活の必要を満たすためには物乞いをするしかないほどの、極めて貧しい人のことを表す言葉です。つまり誰かに頼りすがらなければ生きていけない人々(=飢餓状態にあるアフリカの人々や地震で壊滅的な被害に遭った新潟の人々は、自分で立ち上がることはできないので、どうしても誰かの助けが必要です)。
同じように神様は、私たちは創造主がおられなければ存在しえない者で、それを認めなければ人生そのものが無意味になってしまうことを教えたいのです。
被造物は創造主に対し、「どうして自分をこのように作ったのか!?」と文句を言うことはできないし、むしろ誰も神の前に誇ることのできない「貧しい者である」という、謙虚な心の姿勢を持ってほしいと願っておられるのです。

●11/9(火)「貧しい人を選ばれた」(ヤコブの手紙2:5)
この世は貧しい人たちを歓迎しません。しかし神はあえて貧しい人たちを選んで、信仰に富む者にしようとされました。
貧しさは神の前に敬虔になる状況を生みだし、豊かさは口では「感謝します」と言いながら、心では神をないがしろにし、自分を誇る者となりやすいからです。
アフリカや南米など、生まれながらに貧しさの中にある人は、貧しさに対し、不平を言うことがなく、それを受け入れますが、もともと豊かであった状態から少し何か欠けた中途半端な状態に置かれた人はかえって不平を言います。
それは人と比べて「足りない」と感じるからです。
私たちが神に対する謙虚さを失うと、常に人と比べ、優劣を決める不安定な人生になります。
謙虚な心で神と健全な関係を結ぶなら、大きな祝福が与えられ、いのち(人生)を輝かせることができます。神があえて貧しい人を選ばれた理由を悟って、不幸の原因となる考え方からいやされましょう。

●11/10(水)「心の貧しい人」(詩篇147:6)
・心の貧しい者(=心の正しい者)とは
神の前に罪人であることを認め、神に救いを求め、へりくだる謙虚な人
・悪者(=心の豊かな者)とは
神を必要としないと考える高慢な者。神を畏れない者。
自分の行いを誇り、自分を義とする人は、神の前では悪者と見なされ、恵みから出ようとするので、支える事はできません。
しかし、神の前に罪人である事を認める人は、謙虚な心で救いを求めるので、神が豊かに支えてくださいます。
本当の謙虚さは、ヨブのように神の試みに遭って、豊かさが全て取り去られても尚、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と信頼し続ける時、保つことができます。
私たちも貧しさをみじめさととらえるのではなく、神がもう一度、謙虚さに立ち返るように整えてくださるのだと前向きにとらえたいものです。

●11/11(木)「造り主の思い」(箴言14:31)
寄るべのない方(極度の貧しさの中にいる人)を助ける事は、見返りを期待せず、自分を犠牲にして関わっていくことなので、創造主を敬い、その御心がわからなければ、できないことです。
遠く距離のある人々(アフリカやインドで飢餓に苦しむ人たち等)を助けるために献金することはたやすいけれども、もしあなたのすぐ近くにそのような方がいれば、はたして助けることができるでしょうか?
もしできないとすれば、本当に創造主を敬っているとは言えないかもしれません。
私たちの信仰が試される時です。
すぐにはできなくても、少しずつでもできるように、心の準備をすることが必要だと思います。

●11/12(金)「救いは貧しい人のもの」(詩篇76:9)
「貧しい人を救う」とは豊かになるために物を与えることではありません。NGO等の救助活動をする人は、当然援助物資も与えますが、自給自足ができるようにと励まし、指導をしていくのです。
神も私たちに対し、同じように望まれます。
クリスチャンになりたての人は励ましのため、祈りが聞かれることが多いのですが、神はクリスチャンが自立した信仰が持てるように育てることを目的とされていますので、成長と共に、自立をはばむ要求の祈りはだんだん聞かれなくなり、自分ですればできる事には答えられません。
神はイスラエルの律法の中で、「貧しい者があってはならない」と全ての人を豊かに造られたはずなのに、地上に多くの貧しい人が生まれたのはなぜでしょうか?
歴史の中で国益のためという大義名分を掲げた戦争によって、一部の人の貪欲が貧富の差を作ってきました。
「貧しさ」は神の御心を無視した一部の人々の罪が生み出したものです。
神の救いは、貧しい人のためにもたらされるのですが、貧しくてもプライドの高い人は求めることをしません。それは自分のいのちが神から分け与えられていることを受け入れようとしない人です。
神は罪人であっても、謙遜な心を持った人が救われるために、十字架にかかってくださいました。その恵みを忘れないでください。

●11/13(土)「主は貧しくなられた」(第2コリント人への手紙8:9)
神様はイエス様が共におられたから、無尽蔵の富を持っておられたのに、私たちに永遠のいのち(=イエス・キリスト)を与えてくださったことによって、限界を持った貧しい方になられました。
それほどまでにして、罪人の私たちに、無尽蔵の富を生み出す力を与えたかったのです。
それはどこまでも赦すことのできる愛が豊かに湧き上がってくる心で、洗礼を受けたクリスチャンは皆すでに与えられているものです。
惜しむ心は、永遠のいのちを止めるが、惜しまない心は、ますます永遠のいのちを沸き立たせ、赦す心を持たせてくださいます。
赦すことは辛いですが、辛いからこそ、ここに価値のある愛があるのです。
十字架にかかってくださったイエス様の辛さを思い、その愛に心から従う者になりたいものです。