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■2004年10月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
水魚之交 すいぎょのまじわり up 2004.10.31
水と魚の関係のように、離れることのできない親密な交わりの意
わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」
(ヨハネ5:45〜47)

水がなくては魚はあり得ない。
偉大な尊敬すべきお方に自分は生かされていくという、親密な関係のことを表す。
祭司長たちはいつもイエス様に指摘されていました。それは、彼らは魚が自分自身で生きていこうとあらゆる努力をしてがんばっているようなものだったからです。海の水のように全宇宙に満ちておられる神様を考えずに、自分の努力で一生懸命律法を学び、守ろうとしていたわけです。彼らの信仰は行い主義でした。
今日私たちは、神様なくして世界は、そして私たちはあり得ない、そのような神様との親密な関係を深めていくために、一週間求めていきたいと思います。
●11/1(月)「モーセ(律法)への望み?」(ガラテヤ3:10)
律法の特徴…一つでも違反するなら、律法を破った者、犯した者として呪われる
行いによって神様の前に自分を正しいとする祭司長たちは、一生懸命努力しました。ところが、求めれば求めるほどできないものが多く出てきたため、モーセの律法以外に、もっと細かくタルムードという生活律法も作ってしまいました。
行いを重視する人は、その結果によって善悪、価値判断をする人が多いですね。
祭司長たちは、神が何のために律法を与えられたのかを悟らず、行い主義的な考えで神の前に歩んでいました。イエス様に指摘されてもなかなか悟りませんでした。
もし結果で判断していたら、私たちは決して救われることはなかったでしょう。結果を要求する行い主義の人は、人を生かすのではなく、人を殺してしまいます。律法は人を生かすために与えられたものにも関わらず、祭司長たちは、人を殺すためのものとしてとらえてしまいました。この問題に気づくことが大きなポイントです。
●11/2(火)「義とされる喜び」(使徒8:18〜21)
元魔術師であったシモンは、神の賜物をお金で買えると考えていました。
大阪に有名な交通安全の成田不動山があります。そこで年末年始に交通安全の祈願として、お札があります。不思議なことに札によって値段が違います。訊けば、値段によって効力が違うというのです。そんな神様は、本物の神様とは見えませんね。ペテロはシモンに対して「神の前にあなたの心は正しくない」と言いました。すなわち、義とされていないということです。聖書の言う義とは、神様の前にあなたの心が正しくあるということです。
神が私たちをお造りになったのは、私たちとの関係を結ぶため、神の家族としてお造りになりました。そこに私たちの存在の目的があります。神様は行いによってあなたの価値を判断される方ではなく、ご自分との関係を保ち続けてこそ、神の前に義とされるわけです。
正しい心とは、神を父として敬う心です。聖書では、神を畏れると言います。
●11/3(水)「キリストの望み」(ガラテヤ2:16)
私たちが、神との正しい親子関係を意識して、神を畏れるという気持ちに入れ替わりました。その悔い改めが生かされるためには、キリストの十字架の購いの御業が必ず必要です。私たちは心を入れ替えても、罪の裁きを受けなければならない罪人であることには違いありません。
イエス様が私たちを赦してくださっているというのは、私たちの身代わりに苦しみを負うという意味です。私たちが神様の赦しを受け入れて、その愛の中を歩む。そのしるしとして、私たちにはどんな枷がかけられたでしょう。
マタイ11:28〜30
29.わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って…
30.わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
イエス様のくびきは、『主が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合いなさい』これが悔い改めの証し、自分の罪のために罰せられることがないしるしです。
赦すということは相手に希望を持たせること、チャンスを与えることです。そして良くなっていくという未来を見ることができます。しかし行い主義の人は、相手にチャンスを与えません。
あなたが神に赦され、望みを与えられたように、皆さんもぜひ、兄弟姉妹にチャンスを与えてください。
●11/4(木)「恵みの下に置かれている」(ローマ6:14)
私たちクリスチャンは、神の恵みの中を泳ぐ魚のようです。
神の恵みなくして生きてはいけまぜん。そして神の子としてキリストの似姿へ近づくことはできません。
恵みとは赦しのチャンスを与えられることです。その損失はすべて、赦してくださった方が負うということです。忘れないでください。あなたの失敗は今もなお、キリストが十字架で負ってくださっています。ですから私たちはやり直すことができるのです。
楽になったと思わないでください。チャンスが与えられたと思ってください。苦しまなくてすむと思わないでください。やり直しができると思ってください。それがイエス様の十字架に対する私たちの姿勢です。
●11/5(金)「完全な律法」(ヤコブ1:25)
(マタイ5:43〜48)
5:48.だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
愛とは人を生かすこと、相手を大切にすることです。敵でも、感情が赦さなくても、大切にすることはできます。なぜできるかということがマタイ5:43〜47に隠されています。どんな心があればできるでしょう。
ナイチンゲールは、敵の負傷した兵士を助けました。ですから初めは大変に嫌われ、反対されました。彼女は敵・味方ではなく、傷ついている人間として見たのです。すなわち、あわれみの愛の心が、敵・味方の区別を取り除いたわけです。
罪人にはどんな助けが必要ですか。その人がもう罪を犯さないようにする助けが必要です。これが愛です。このあわれみを持つことが完全であり、あわれみを持ってその内を歩む人は、完全な律法を持っています。
そしてこのあわれみは強制ではなく、自由の律法です。
自由というのは、あなたの人格を尊重した選びの権利が与えられているということです。完全と自由は一つです。
神は私を愛してくださって、あわれんでくださった。その愛のすばらしさのゆえに、それを感じ、自由意志をもって敵にあわれみを施す。ここに価値があります。自由があるからこそ、この決意、判断に報いがあるわけです。
あなたは完全と自由を手に入れて生きるキリストの救いを持っています。
●11/6(土)「モーセを信じているなら」(第1ヨハネ4:20〜21)
命令とは、完全な律法を持った人々の歩むべき道を教えるものです。しかしあなたがたには自由があります。
あなたが完全な自由を得たいならば、あわれみをもとに、決断・判断・選択をすることです。しかし、その反対は不完全な自由であり、罪の束縛を受けている自由です。
もしあなたが神を愛しているというならば、神が愛されたものを愛するはずです。祭司長たちにイエス様は言いました。「モーセをあなたがたは信じると言うのならば、どうしてわたしを信じることができないのですか」それは本当の意味で、モーセを信じているとは言えないと暗示されたわけです。
もし神様との交わりだけもって、兄弟姉妹との交わりをわずらわしく思うとしたら、その人は本当に神様を愛しているのでしょうか。あなたが神を愛していると言うならば、兄弟姉妹を愛し、尊びましょう。神を信じるというならば、神は私たちすべての人を信じ、御子イエス・キリストを下されました。私たちも、兄弟姉妹を信じてあげましょう。

■2004年10月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
敬天愛人 up 2004.10.24
天を敬い、人を愛すること
わたしは人からの栄誉は受けません。ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。
(ヨハネ5:41〜44)

「天を敬い、人を愛する」という意味です。このことばは西郷隆盛が、学問をする人々に向けて語ったものです。
このことばを聞いて、みことばを思い出さないでしょうか。
何が一番大切な戒めかを訊かれた時、イエス様は「神を愛することと、隣人を自分と同じように愛すること」と答えられました。これは敬天愛人の同じ意味です。
学問をする者はまず、天を敬う敬虔さを持つことが大切であり、その目的は人のためであるということです。
私たちのクリスチャン生活も「敬天愛人」であるために、今週も6つのポイントを学んでいきます。
栄誉という言葉を神に対して使う時、栄光となります。天の敬い、人を愛する人に、神は栄誉を与えてくださいます。
11月3日、文化勲章が授与される日です。アメリカのマリナーズのイチロー選手は、国民栄誉賞を与えようという打診があった時、まだ自分は現役選手の身であり、今後何があるかわからないので、もしいただけるなら現役生活が終わった時にいただきたい、と断ったそうです。これは敬虔さです。和解と金あまりに栄誉を与えられることは良くない。汚点を作ってしまうかもしれないという彼の慎重な思慮深い姿勢がうかがえます。本当に栄誉の価値を知っている人は、それをもらう時期もわきまえています。栄誉とはその人の存在価値が表されます。栄誉をもらうということは、その人生が評価されたということです。私たちの人生の栄誉は、神が正しく量って下さいます。その物差しが「敬天愛人」の姿勢です。
●10/25(月)「栄誉、栄光」(詩篇19:1)
大自然の中に、私たちは神の創造の偉大さ、栄光を知ることができます。都会のビルに囲まれた生活では、神の偉大さを感じることはできません。むしろ人間がいかにも偉大であるかのように感じるだけでしょう。
インターネットでいくら瞬時に世界の情報が手に入ると言っても、それは神ご自身がこの世界を秩序ある状態に造ってくださったからです。
ぜひ、月曜日は、神の創造の御業である自然の中で、神の偉大さと神の栄光を感じ取ってください。
●10/26(火)「人からの栄誉」(詩篇8:5)
「人からの栄誉は受けない」とイエス様は言われました。それは、栄誉は創造主である神から受けてこそ、価値があるからです。
世の中は人から賞賛を浴びることに価値を置いています。それゆえ、人からどう見られるかが重要になっています。しかし、人からの栄誉を求めていたら悩まされるだけです。私たちは神に属する神の民なのですから、人の目や人の言葉を気にすることをやめ、一心に神からの栄誉を求める歩み方をしていきましょう。あなたを最もよく知っておられるのは神です。人は誰もあなたのことを正しくは知っていません。あなたは人のどんなことばを気にしていますか?
神のことばに耳を傾けましょう。人の言葉に振り回されていたら、正しい判断ができなくなってしまいます。
●10/27(水)「神からの栄誉」(第1ペテロ1:8)
私たちは信仰の試練を通ります。日本では様々な罪の誘惑、惑わしが信仰の試練となります。それは迫害ではなく、むしろ堕落させるような罪の誘惑(例:富の誘惑)です。そういったさまざまな誘惑をはねのけ、心を強くし、しっかりと正しい良心を持って歩む歩み方は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも思いのです。このような信仰の歩みに対して、神が賞賛と光栄と栄誉を与えてくださいます。
人の評価は表面的なものしか見ません。しかし神はあなたの裏も表もすべてを知っておられます。その神が信仰の試練を通り抜けたあなたに栄誉を与えてくださるのです。それは何をしたかによるのではなく、才簿まで神への信仰を貫いた人々に与えられます。あなたは神に即する者ですから、神からの栄誉をしっかりと求めていきましょう。
●10/28(木)「神への愛と栄誉」(第1ペテロ2:20)
善を行っていて苦しみを受けるのは大変つらいことです。しかし、善を行っていたのだということを誰かが知っていてくれると苦しみがいがあります。誰も知らないということほど嫌なものはありません。神に知っていただくことが一番大切です。しかし、神が知っておられても、あなたの心がひとつの条件を満たしていないと、その苦しみに耐えることはできません。
その条件とは「神への愛」です。最も尊敬し、愛する人が知っていてくれたら、苦しみに耐えやすくなるものです。あなたが、神が知っておられるとわかっているのに、耐えられないと言うなら、あなたにとって神はどれほど尊敬し、愛する対象なのでしょうか。
人は一番愛している人から賞賛されることが何よりもうれしいものです。
あなたは誰を最も尊敬し、愛していますか?私たちを永遠の滅びから救い出してくださった神こそ、最も尊敬し愛する方ではないですか?
それゆえ、神からの栄誉を求めない人は、神を愛していないと言えるのです。祭司長たちに対して、イエス様はそのことを指摘されました。
●10/29(金)「互いの栄誉は受ける」(第2ペテロ2:9〜10)
会社組織には社長、部長、課長といった権威のランクがあります。社長がつくる賞は受けるのに大きな価値がありますが、平社員が上の権威を無視していくら賞をつくっても、それは受ける価値がありません。
暴走族や、社会に反抗している人々は、ある意味互いに賞賛は求めあっても、自分たちより上の権威を求めようとはしません。
この世の人々が神の権威を認めようとしないのも、自分たちより上の権威に従いたくない、わがままな自己中心という罪の性質のゆえです。権威を侮る人たちは、自分に都合のいいことを言い、思い通りにしてくれる人の栄誉を受けようとします。それは愚かで価値のないことです。
すべての権威は神から出ています。与えられた権威をどう使うかは自由ですが、それを砂漠のは、最高責任者である神です。
あなたに与えられた自由という権利を、神は最後に裁かれます。どのように用いるのかによって、与えられる報いは変わってきます。
●10/30(土)「信じることができない理由」(ヘブル11:1〜2)
信仰とは望んでいる事柄の保証書なので、それをなくしてしまうと、もはや望んでいる事が与えられません。それゆえ与えられるまで信仰を持ち続けましょう。その保証書こそ確信をもたらせるものです。
家電の保証書ももしなくしてしまったら、いくら期限内の故障であっても無料で直してもらうことができません。信仰とは保証書です。神に対してこの信仰を働かせる人は賞賛を受けられます。
黙想のポイントに「あなたに従ってくれる神様からの栄誉を受けることを喜びとする、罪の性質に惑わされないようにしましょう。」とあります。あなたの言いなりになる神様からの賞賛を受けても、何ら意味はありません。むしろ祈りにすぐに答えられない時も、自分がわがままになり、高慢にならないために、その時期が延ばされたのだと感謝しようではありませんか。
何もかもうまくいったら、よほど聖別されない限り古い性質が出てきて、赦すことも我慢することもできなくなります。ある意味、祈りが訊かれることの方が霊的には怖いことです。
練られた人は、ただ主の御心が成るように求めます。そのように心が変わっていきます。イエス様もご自身のことを求めず、ただ天の父の御心のみを求めました。
本当に神を信じる人は、神からの栄誉を求め、神を愛する人です。
今週あなたは誰から誉められることを求めているかをしっかりと考えてみましょう。

■2004年10月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
縁木求魚 えんぼくきゅうぎょ up 2004.10.17
方法が間違っていて、成功しないことのたとえ
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
(ヨハネ5:40)

木によりかかって(木に登って)魚を求める(取る)すなわち山に登って魚を捕るようなものという意味です。山に行って魚は釣れません。方法が間違っていますというたとえです。
人生、からまわりをしていることがありませんか。
永遠のいのちを求めているのに得ることができないのは、間違った方法をしているからです。
パリサイ人たちは、永遠のいのちが欲しいのにイエス様の所に行こうとしませんでした。今週は永遠のいのち(イエス・キリスト様)のもとに来ようとしない人たち、また妨げるものについて学んでみましょう。
●10/18(月)「永遠のいのちに来ない者の特徴」(第1ヨハネ3:14)
クリスチャンたちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。死からいのちに移っているしるしは、兄弟(神を敬う敬虔なクリスチャン同士)を愛していることです。
いのちを得るためにはお互い兄弟愛が必要なのです。愛するとは仁義を尽くす、相手の存在を大切にすることです。兄弟を愛することは永遠のいのちであるイエス様のもとに行くことになるのです。
律法学者、パリサイ人は自分の私利私欲のために祭司という地位を利用し、名声名誉を得て、人々よりもすぐれた者として自己満足している人たちです。
〜イエス様のもとに来ることの妨げの5つのポイント〜
●10/19(火)「出身地に対するこだわり」(ヨハネ1:46)
ナタナエルは彼(ピリポ)に言った「ナザレから何の良いものが出るだろう」ピリポは言った「来て、そして見なさい」
イエス様の出身地であるナザレは、ナタナエルが軽視したほど一般的に無名の貧しい村でした。出身地や家柄、家系で人を量るなら、兄弟を愛しているとは言えません。神が造られた(アダムから始まって)同じ兄弟であり、同じ生命を持った、神に愛されている人類であることを知って、兄弟愛を持つことが大切です。
永遠のいのちへの妨げになる、出身地へのこだわりを捨てましょう。
●10/20(水)「学歴、肩書きへのこだわり」(マルコ6:3)
ナザレにイエス様が帰られた時、ナザレの人々が言った言葉です。
「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」
大工という外見で、イエス様につまづいたのです。
学歴や肩書きにこだわっているなら、本当に正しく心を開いて兄弟を愛することはできません。
人に対して学歴や肩書きを気にする(こだわる)人は、じぶんに対してもこだわりを持つという心の隠れた部分があるのです。兄弟を愛する正しい良心を持つことが、永遠のいのちに至る道なのです。
●10/21(木)「この世の常識へのこだわり」(ヨハネ5:16)
38年間病床に伏せっていた人を安息日にいやされた時、ユダヤ人たちはイエス様を迫害しました。
安息日は神が与えてくださった大切なルールでした。
ユダヤ人たちは安息日を厳粛に取り入れたので、どこから仕事でどこまで仕事でないか区別し始め、食事の事(火を起こすこと)病気のいやし、生活のあらゆる事において規定を作ってしまいました。
安息日は神の教えでもありますが、人間的解釈によって生活常識となってしまいました。それを重んじたばかりに、イエス様のことばに反発したのです。
この世の社会常識は多数決で事が決められていきます。日本社会は和を大切にする社会です。確かにこの世の常識(和)を軽んじないことは大切です。しかし、神の御心からそれてしまうなら、価値がありません。兄弟を愛すること、隣人を助けることよりこの世の常識を重んじて、永遠のいのちへの妨げとならないよう、心がけていきましょう。
●10/22(金)「仲間意識へのこだわり」(ルカ19:5〜7)
人々はイエス様が共にいる間はイエス様を尊敬していましたが、イエス様がザアカイのもとに行かれると、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやきました。
このことは本当の意味でイエス様を知っていたのではなく、仲間意識、自分たちの都合の良いようにイエス様を利用していたのです。間違った仲間意識がありました。
自分に同意し、自分に属してくれる仲間意識というのは、本当の意味で兄弟を愛しているとは言えません。
古い考え、この世の利己的な考えが、信仰を汚してしまいます。クリスチャンは古き人は死に、新しく造り替えられたと信じて、仲間意識へのこだわりに惑わされないように、永遠のいのちに至る道を選び取って行きましょう。
●10/23(土)「勝ち負けへのこだわり」(マルコ15:10)
祭司長たちはなぜイエス様をねたんだのでしょうか。
祭司長とイエス様のやりとりを見ていた人々は、いつもイエス様の答えが正しかったから、イエス様を心から尊敬しました。だから祭司長たちはねたみました。
自分たちがイエス様に「負けた」と認めたのです。勝ち負け、優劣を気にするこだわりを持っている人は、善悪を判断することや正しく人を愛することはできません。
ピラトは祭司長たちからイエス様がねたまれた理由を知って、正しい裁きをしようと思いましたが、ユダヤ人たちは「イエスを十字架につけろ」と叫び、暴動が起こりそうだったので十字架につけることになりました。
勝敗で価値が決まるのではありません。クリスチャンも勝ち負けで人生を考えると、いらない問題にあってしまいます。正しい良心を持って、キリストにある兄弟愛を示していきましょう。

■2004年10月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
死生有命 しせいゆうめい up 2004.10.10
人の生死は、天命によって定められているもので、
人の力ではどうする事もできないと言うこと
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
(ヨハネ5:39)

「死」=滅び「生」=命
命に至るか滅びに至るかは天命の定めによる。
このように聞くと、今の状況や未来は決まっているので、どうすることもできないと思われがちですが、聖書における「死生有命」は、神の定めは変えることはできないが、その定めの中で永遠を選ぶことができる、というものです。
そのことを「永遠のいのち」ということから考えてみましょう。
ユダヤ教の律法学者たちは、「永遠のいのち」が聖書の中にあると思い、調べ続けていました。イエス様はそれをご存じで、「あなた方の調べている聖書は、私について書かれています。」と言われました。
今週は「永遠のいのち」について黙想し、そのすばらしさを見出していただきたいと思います。
●10/11(月)「永遠のいのちとは、永遠を位置づけること」
「永遠のいのち」とは永遠を光の世界で過ごすことです。
「命」とは本来、前向きで力強く、明るくきよく、正義などで、暗いところの一つもないものです。
命に属する生活とは、すべてをプラスに受け止めることができて、否定的な考えや思いが少しもなく、どんなことが起きても「ハレルヤ!!」と言える状態です。「生きることはキリスト、死ぬことも益です」「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それによってあなたのおきてを守ることができました。ハレルヤ」と楽観的なものですが、根拠のある楽観なので、ゆるぎのないものです。また、悪いものや悲観がやってきても、パーンとはね返すことのできる力強いものです。
滅びの生活とはその反対で、否定的で、悲しみと苦しみでつらく、自分の存在すら意味のないものに思え、無気力で重たーく、意欲のない状態です。
永遠にそのような状態が続くとしたら、皆さんはどちらの永遠を願われるでしょうか?調子の良いときは「命」に属しているけど悪くなったら「滅び」の方に行ってしまっているというように、「命」と「滅び」を繰り返しているような信仰生活は楽しくなく、やりがいもなく、つらいです。なぜならつらいことの方が残りやすいからです。うれしい時、悲しい時、つらい時、楽しい時、という繰り返しはあってもいいと思いますが、いつも「命」に属しているから、どんな時も、すばらしいと思えるのです。
「永遠のいのち」を持って歩むクリスチャン生活、これが神様の願いであり、目的です。信仰を持つ(キリストを信じる)ということは、「永遠のいのち」に至る道を選び取るということです。「永遠のいのち」を選ぼう、その道にとどまろう、定められているから、その道を選ぼうと決心しているのです。(救い主を受け入れるかどうか)という神の定めは永遠に変わりませんが、永遠の人生を確定させるのは、あなたの選びによります。
光の国に入るか、闇の国に入るかを振り分ける、その基準が定めなので、信じているといいながら「永遠のいのち」の方を選び取っていないなら、それは本物の信仰とは言えません。
「永遠のいのち」を選ばない時があったら、悔い改めてやり直せばいいのです。やみを選ぶか光を選ぶか、滅びを選ぶか命を選ぶか、神を畏れず否定的に生きるか、キリストにあって前向きに生きるか、あなたが永遠を決めるのです。
●10/12(火)「永遠のいのちとは、御子と御父の内に留まること1」
「互いに愛し合う者」は永遠のいのちに入り、それを拒み、自己中心的に生きていく者は永遠の滅びに振り分けられます。
今日皆さんは、クリスチャン同士「互いに愛する」ということを忘れていませんか?
「互いに」です。自分のことだけを考えれば喧嘩になります。分裂になります。しかし、相手がなかなか受け入れてくれなくても、何とか和解を見出そうと努力するのが、互いに愛し合うという神の教えを心に持った人の考え方です。相手が協力しなくても、何とか協力してほしい、互いに愛し合えるようになろうよと、それを推し進めていくのが「互いに愛し合う」というおことばを心に持っている人です。
相手が協力してくれなかったらそれでおしまい、では利己的です。
わかってもらえなかったら、わかってもらえるようにと表現を変え、和解が成立するようにと努めていってこそ、永遠のいのちを歩んでいる人の歩み方です。
いろいろやってもわかってくれない人もいます。それは互いに愛し合うことのできない相手だということですが、最初から見限ってはいけません。
あなたが心を開いて相手にプッシュしていく以上、望みは1%でもありますが、あなたが閉ざしてしまったら0%です。
つらいけど、そのつらさが愛です。犠牲を払うことが愛なんです。
互いに仁義を尽くし合う関係を持ちましょうと手を差し伸べていくことが永遠のいのちに至る者の姿勢であることを忘れないようにしましょう。
●10/13(水)「永遠のいのちとは、御子と御父の内に留まること2」(第2ヨハネの手紙1:6)
气Rリント13:4〜7は有名な愛についての定義ですが、何度読んでもすばらしく、また反省させられます。このお言葉をもって、実際の生活の中で愛の内に歩むとはどういうことかを考えてみてほしいと思います。
「愛」はクリスチャン同士の間だけでなく、自分と関わりのある他者との間の関係においてのことです。あなたの家族をはじめ、会社の上司、部下、同僚など、いろんな人間関係があるでしょう。うまくいっていない人間関係において、もうこれ以上我慢できないと思うんだったら、愛を捨ててしまうことになります。愛を実践するのなら、耐えなければなりません。愛は「人のした悪を思わず」ですが、人のした悪を思うと否定的になるばかりで、あなたを滅びに至らせます。人のした悪は置いておいて、良いところを見てあげるのが「愛」です。
そのように、実際に人と会う前に、日々のデボーションの中で、「愛は寛容、愛は親切」と愛の定義をしっかりと確認し、どのように愛を表していくかをシミュレーションしていることが大切です。愛を持ち、愛に敏感になると、周囲の人の愛のなさに気がつき、心が乱されることがあります。
しかし、周りには愛がないわけですから、あなたが愛を注いであげてください。「オレに愛をくれよー」「オレをわかってくれよー」では絶対にうまくいきません。わかってあげようというのが愛です。
●10/14(木)「永遠のいのちとは、唯一神とキリストを知ること」(マタイ5:16)
私たちが救いに導かれたのは、多くの人のとりなしの祈りによることや、私たちが困難な状況の時に、家族や友人がどんなに忍耐して支えてくれていたかを知ることによって、その人たちの自分に対する愛を知ることができます。
私自身も、朝早くから夜遅くまで労苦して働く母親の姿を見て、母の家族に対する愛を知ると同時に、母をも知りました。そのように、キリストの労苦と、父なる神様の犠牲的愛を知れば知るほど、神はどんな方かを知ることができます。
映画「パッション」で、イエス様の十字架の苦しみを見ましたが、自分の罪深さがわかればわかるほど、イエス様の苦しみが私に対する愛として注がれ、愛を注いでおられるイエス様を知ることができます。
聖霊様がデボーションの中で、十字架を深く啓示してくださるよう求めて欲しいと思います。
なぜなら、私もそうですが、母の労苦を知ると、親を悲しませたり、恥をかかせたくないという、親に対する愛の気持ちが出てきます。そうすると前向きな生き方が生まれます。悪く思いません。
愛を感じて、愛してくれている方を知ると、否定的なものがなくなって、前向きに強く生きることができるようになる。それを神に対して持つと「永遠のいのち」というさらに力強い、死者をもよみがえらせることのできるいのちとして、私たちの内に宿るのです。
この永遠のいのちはあなたをあらゆる否定的な思いから解放する、すばらしいものです。
●10/15(金)「永遠のいのちとはイエス・キリストである」
今まで「永遠のいのち」についてポイントをあげてきました。
「互いに愛し合うこと」「愛の内を歩むこと」「神を知ること」イエス様の生涯そのものが「永遠のいのち」であったことは、福音書の中でイエス様がどのように行動されたかによってわかります。
イエス様は父なる神がどれほど自分を愛してくださっているかということを一番よく知っておられたので、十字架に至るまで前向きに神を信じて歩まれました。
愛の内をどのように歩まれたでしょう?
「愛は○○である」ということを、そのまま示されました。姦淫の罪を犯した女性に対してどうでしたか?愛を示されたでしょう?それが「永遠のいのち」の姿です。
そのようにして、福音書の中でイエス様の行動を通して、そこに「永遠のいのち」があることを見つけだしてください。そしてあなたも同じようにしてください。そうしたら、父と御子があなたの内におられ、あなたは父と御子の内に留まっていることがわかります。
●10/16(土)「永遠のいのちについての証し」
なぜピリポは、ナザレの大工の息子であるイエスが、預言書に書いてある方だと証言することができたのでしょう。
旧約聖書には、救い主はどのようにして生まれ、どのような人生を歩み、最後にどのようになるか、ということが書かれています。
そしてイエス様はその通りに人生を歩まれたので、この方以外にキリストはいないと断定できるのです。旧約聖書はイエス様のことを中心に書かれていますが、ヨナ書の中から「永遠のいのち」である方はイエス様であるという理由を考えてみましょう。
ヨナ書で一番大切な部分は、イスラエルの敵国であるニネベという異邦人の罪深い街を救いに導くために、神はヨナを遣わして、悔い改めのメッセージを語るようにされたということです。最後のヨナと神様のやりとりの部分から、神は罪人を簡単に滅ぼすことのできない方で、ヨナがとうごまの葉を惜しんだように、神様もニネベの街の人々を惜しまれたということがわかります。
そんなあわれみ深い神様のすばらしさが現れている箇所を福音書の中から思い起こしてみてください。
たとえ話の中にも、実際にイエス様と出会った人の中にもあります。一番皆さんがよく知っているのはザアカイかもしれません。ザアカイとニネベが同じように扱われているのですが、ご自分でもしっかりと考えてみてください。
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