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■2004年10月31日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
水魚之交 すいぎょのまじわり up 2004.10.31
水と魚の関係のように、離れることのできない親密な交わりの意
わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」
(ヨハネ5:45〜47)

水がなくては魚はあり得ない。
偉大な尊敬すべきお方に自分は生かされていくという、親密な関係のことを表す。
祭司長たちはいつもイエス様に指摘されていました。それは、彼らは魚が自分自身で生きていこうとあらゆる努力をしてがんばっているようなものだったからです。海の水のように全宇宙に満ちておられる神様を考えずに、自分の努力で一生懸命律法を学び、守ろうとしていたわけです。彼らの信仰は行い主義でした。
今日私たちは、神様なくして世界は、そして私たちはあり得ない、そのような神様との親密な関係を深めていくために、一週間求めていきたいと思います。
●11/1(月)「モーセ(律法)への望み?」(ガラテヤ3:10)
律法の特徴…一つでも違反するなら、律法を破った者、犯した者として呪われる
行いによって神様の前に自分を正しいとする祭司長たちは、一生懸命努力しました。ところが、求めれば求めるほどできないものが多く出てきたため、モーセの律法以外に、もっと細かくタルムードという生活律法も作ってしまいました。
行いを重視する人は、その結果によって善悪、価値判断をする人が多いですね。
祭司長たちは、神が何のために律法を与えられたのかを悟らず、行い主義的な考えで神の前に歩んでいました。イエス様に指摘されてもなかなか悟りませんでした。
もし結果で判断していたら、私たちは決して救われることはなかったでしょう。結果を要求する行い主義の人は、人を生かすのではなく、人を殺してしまいます。律法は人を生かすために与えられたものにも関わらず、祭司長たちは、人を殺すためのものとしてとらえてしまいました。この問題に気づくことが大きなポイントです。
●11/2(火)「義とされる喜び」(使徒8:18〜21)
元魔術師であったシモンは、神の賜物をお金で買えると考えていました。
大阪に有名な交通安全の成田不動山があります。そこで年末年始に交通安全の祈願として、お札があります。不思議なことに札によって値段が違います。訊けば、値段によって効力が違うというのです。そんな神様は、本物の神様とは見えませんね。ペテロはシモンに対して「神の前にあなたの心は正しくない」と言いました。すなわち、義とされていないということです。聖書の言う義とは、神様の前にあなたの心が正しくあるということです。
神が私たちをお造りになったのは、私たちとの関係を結ぶため、神の家族としてお造りになりました。そこに私たちの存在の目的があります。神様は行いによってあなたの価値を判断される方ではなく、ご自分との関係を保ち続けてこそ、神の前に義とされるわけです。
正しい心とは、神を父として敬う心です。聖書では、神を畏れると言います。
●11/3(水)「キリストの望み」(ガラテヤ2:16)
私たちが、神との正しい親子関係を意識して、神を畏れるという気持ちに入れ替わりました。その悔い改めが生かされるためには、キリストの十字架の購いの御業が必ず必要です。私たちは心を入れ替えても、罪の裁きを受けなければならない罪人であることには違いありません。
イエス様が私たちを赦してくださっているというのは、私たちの身代わりに苦しみを負うという意味です。私たちが神様の赦しを受け入れて、その愛の中を歩む。そのしるしとして、私たちにはどんな枷がかけられたでしょう。
マタイ11:28〜30
29.わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って…
30.わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
イエス様のくびきは、『主が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合いなさい』これが悔い改めの証し、自分の罪のために罰せられることがないしるしです。
赦すということは相手に希望を持たせること、チャンスを与えることです。そして良くなっていくという未来を見ることができます。しかし行い主義の人は、相手にチャンスを与えません。
あなたが神に赦され、望みを与えられたように、皆さんもぜひ、兄弟姉妹にチャンスを与えてください。
●11/4(木)「恵みの下に置かれている」(ローマ6:14)
私たちクリスチャンは、神の恵みの中を泳ぐ魚のようです。
神の恵みなくして生きてはいけまぜん。そして神の子としてキリストの似姿へ近づくことはできません。
恵みとは赦しのチャンスを与えられることです。その損失はすべて、赦してくださった方が負うということです。忘れないでください。あなたの失敗は今もなお、キリストが十字架で負ってくださっています。ですから私たちはやり直すことができるのです。
楽になったと思わないでください。チャンスが与えられたと思ってください。苦しまなくてすむと思わないでください。やり直しができると思ってください。それがイエス様の十字架に対する私たちの姿勢です。
●11/5(金)「完全な律法」(ヤコブ1:25)
(マタイ5:43〜48)
5:48.だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
愛とは人を生かすこと、相手を大切にすることです。敵でも、感情が赦さなくても、大切にすることはできます。なぜできるかということがマタイ5:43〜47に隠されています。どんな心があればできるでしょう。
ナイチンゲールは、敵の負傷した兵士を助けました。ですから初めは大変に嫌われ、反対されました。彼女は敵・味方ではなく、傷ついている人間として見たのです。すなわち、あわれみの愛の心が、敵・味方の区別を取り除いたわけです。
罪人にはどんな助けが必要ですか。その人がもう罪を犯さないようにする助けが必要です。これが愛です。このあわれみを持つことが完全であり、あわれみを持ってその内を歩む人は、完全な律法を持っています。
そしてこのあわれみは強制ではなく、自由の律法です。
自由というのは、あなたの人格を尊重した選びの権利が与えられているということです。完全と自由は一つです。
神は私を愛してくださって、あわれんでくださった。その愛のすばらしさのゆえに、それを感じ、自由意志をもって敵にあわれみを施す。ここに価値があります。自由があるからこそ、この決意、判断に報いがあるわけです。
あなたは完全と自由を手に入れて生きるキリストの救いを持っています。
●11/6(土)「モーセを信じているなら」(第1ヨハネ4:20〜21)
命令とは、完全な律法を持った人々の歩むべき道を教えるものです。しかしあなたがたには自由があります。
あなたが完全な自由を得たいならば、あわれみをもとに、決断・判断・選択をすることです。しかし、その反対は不完全な自由であり、罪の束縛を受けている自由です。
もしあなたが神を愛しているというならば、神が愛されたものを愛するはずです。祭司長たちにイエス様は言いました。「モーセをあなたがたは信じると言うのならば、どうしてわたしを信じることができないのですか」それは本当の意味で、モーセを信じているとは言えないと暗示されたわけです。
もし神様との交わりだけもって、兄弟姉妹との交わりをわずらわしく思うとしたら、その人は本当に神様を愛しているのでしょうか。あなたが神を愛していると言うならば、兄弟姉妹を愛し、尊びましょう。神を信じるというならば、神は私たちすべての人を信じ、御子イエス・キリストを下されました。私たちも、兄弟姉妹を信じてあげましょう。

■2004年10月24日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
敬天愛人 up 2004.10.24
天を敬い、人を愛すること
わたしは人からの栄誉は受けません。ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。
(ヨハネ5:41〜44)

「天を敬い、人を愛する」という意味です。このことばは西郷隆盛が、学問をする人々に向けて語ったものです。
このことばを聞いて、みことばを思い出さないでしょうか。
何が一番大切な戒めかを訊かれた時、イエス様は「神を愛することと、隣人を自分と同じように愛すること」と答えられました。これは敬天愛人の同じ意味です。
学問をする者はまず、天を敬う敬虔さを持つことが大切であり、その目的は人のためであるということです。
私たちのクリスチャン生活も「敬天愛人」であるために、今週も6つのポイントを学んでいきます。
栄誉という言葉を神に対して使う時、栄光となります。天の敬い、人を愛する人に、神は栄誉を与えてくださいます。
11月3日、文化勲章が授与される日です。アメリカのマリナーズのイチロー選手は、国民栄誉賞を与えようという打診があった時、まだ自分は現役選手の身であり、今後何があるかわからないので、もしいただけるなら現役生活が終わった時にいただきたい、と断ったそうです。これは敬虔さです。和解と金あまりに栄誉を与えられることは良くない。汚点を作ってしまうかもしれないという彼の慎重な思慮深い姿勢がうかがえます。本当に栄誉の価値を知っている人は、それをもらう時期もわきまえています。栄誉とはその人の存在価値が表されます。栄誉をもらうということは、その人生が評価されたということです。私たちの人生の栄誉は、神が正しく量って下さいます。その物差しが「敬天愛人」の姿勢です。
●10/25(月)「栄誉、栄光」(詩篇19:1)
大自然の中に、私たちは神の創造の偉大さ、栄光を知ることができます。都会のビルに囲まれた生活では、神の偉大さを感じることはできません。むしろ人間がいかにも偉大であるかのように感じるだけでしょう。
インターネットでいくら瞬時に世界の情報が手に入ると言っても、それは神ご自身がこの世界を秩序ある状態に造ってくださったからです。
ぜひ、月曜日は、神の創造の御業である自然の中で、神の偉大さと神の栄光を感じ取ってください。
●10/26(火)「人からの栄誉」(詩篇8:5)
「人からの栄誉は受けない」とイエス様は言われました。それは、栄誉は創造主である神から受けてこそ、価値があるからです。
世の中は人から賞賛を浴びることに価値を置いています。それゆえ、人からどう見られるかが重要になっています。しかし、人からの栄誉を求めていたら悩まされるだけです。私たちは神に属する神の民なのですから、人の目や人の言葉を気にすることをやめ、一心に神からの栄誉を求める歩み方をしていきましょう。あなたを最もよく知っておられるのは神です。人は誰もあなたのことを正しくは知っていません。あなたは人のどんなことばを気にしていますか?
神のことばに耳を傾けましょう。人の言葉に振り回されていたら、正しい判断ができなくなってしまいます。
●10/27(水)「神からの栄誉」(第1ペテロ1:8)
私たちは信仰の試練を通ります。日本では様々な罪の誘惑、惑わしが信仰の試練となります。それは迫害ではなく、むしろ堕落させるような罪の誘惑(例:富の誘惑)です。そういったさまざまな誘惑をはねのけ、心を強くし、しっかりと正しい良心を持って歩む歩み方は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも思いのです。このような信仰の歩みに対して、神が賞賛と光栄と栄誉を与えてくださいます。
人の評価は表面的なものしか見ません。しかし神はあなたの裏も表もすべてを知っておられます。その神が信仰の試練を通り抜けたあなたに栄誉を与えてくださるのです。それは何をしたかによるのではなく、才簿まで神への信仰を貫いた人々に与えられます。あなたは神に即する者ですから、神からの栄誉をしっかりと求めていきましょう。
●10/28(木)「神への愛と栄誉」(第1ペテロ2:20)
善を行っていて苦しみを受けるのは大変つらいことです。しかし、善を行っていたのだということを誰かが知っていてくれると苦しみがいがあります。誰も知らないということほど嫌なものはありません。神に知っていただくことが一番大切です。しかし、神が知っておられても、あなたの心がひとつの条件を満たしていないと、その苦しみに耐えることはできません。
その条件とは「神への愛」です。最も尊敬し、愛する人が知っていてくれたら、苦しみに耐えやすくなるものです。あなたが、神が知っておられるとわかっているのに、耐えられないと言うなら、あなたにとって神はどれほど尊敬し、愛する対象なのでしょうか。
人は一番愛している人から賞賛されることが何よりもうれしいものです。
あなたは誰を最も尊敬し、愛していますか?私たちを永遠の滅びから救い出してくださった神こそ、最も尊敬し愛する方ではないですか?
それゆえ、神からの栄誉を求めない人は、神を愛していないと言えるのです。祭司長たちに対して、イエス様はそのことを指摘されました。
●10/29(金)「互いの栄誉は受ける」(第2ペテロ2:9〜10)
会社組織には社長、部長、課長といった権威のランクがあります。社長がつくる賞は受けるのに大きな価値がありますが、平社員が上の権威を無視していくら賞をつくっても、それは受ける価値がありません。
暴走族や、社会に反抗している人々は、ある意味互いに賞賛は求めあっても、自分たちより上の権威を求めようとはしません。
この世の人々が神の権威を認めようとしないのも、自分たちより上の権威に従いたくない、わがままな自己中心という罪の性質のゆえです。権威を侮る人たちは、自分に都合のいいことを言い、思い通りにしてくれる人の栄誉を受けようとします。それは愚かで価値のないことです。
すべての権威は神から出ています。与えられた権威をどう使うかは自由ですが、それを砂漠のは、最高責任者である神です。
あなたに与えられた自由という権利を、神は最後に裁かれます。どのように用いるのかによって、与えられる報いは変わってきます。
●10/30(土)「信じることができない理由」(ヘブル11:1〜2)
信仰とは望んでいる事柄の保証書なので、それをなくしてしまうと、もはや望んでいる事が与えられません。それゆえ与えられるまで信仰を持ち続けましょう。その保証書こそ確信をもたらせるものです。
家電の保証書ももしなくしてしまったら、いくら期限内の故障であっても無料で直してもらうことができません。信仰とは保証書です。神に対してこの信仰を働かせる人は賞賛を受けられます。
黙想のポイントに「あなたに従ってくれる神様からの栄誉を受けることを喜びとする、罪の性質に惑わされないようにしましょう。」とあります。あなたの言いなりになる神様からの賞賛を受けても、何ら意味はありません。むしろ祈りにすぐに答えられない時も、自分がわがままになり、高慢にならないために、その時期が延ばされたのだと感謝しようではありませんか。
何もかもうまくいったら、よほど聖別されない限り古い性質が出てきて、赦すことも我慢することもできなくなります。ある意味、祈りが訊かれることの方が霊的には怖いことです。
練られた人は、ただ主の御心が成るように求めます。そのように心が変わっていきます。イエス様もご自身のことを求めず、ただ天の父の御心のみを求めました。
本当に神を信じる人は、神からの栄誉を求め、神を愛する人です。
今週あなたは誰から誉められることを求めているかをしっかりと考えてみましょう。

■2004年10月17日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
縁木求魚 えんぼくきゅうぎょ up 2004.10.17
方法が間違っていて、成功しないことのたとえ
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
(ヨハネ5:40)

木によりかかって(木に登って)魚を求める(取る)すなわち山に登って魚を捕るようなものという意味です。山に行って魚は釣れません。方法が間違っていますというたとえです。
人生、からまわりをしていることがありませんか。
永遠のいのちを求めているのに得ることができないのは、間違った方法をしているからです。
パリサイ人たちは、永遠のいのちが欲しいのにイエス様の所に行こうとしませんでした。今週は永遠のいのち(イエス・キリスト様)のもとに来ようとしない人たち、また妨げるものについて学んでみましょう。
●10/18(月)「永遠のいのちに来ない者の特徴」(第1ヨハネ3:14)
クリスチャンたちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。死からいのちに移っているしるしは、兄弟(神を敬う敬虔なクリスチャン同士)を愛していることです。
いのちを得るためにはお互い兄弟愛が必要なのです。愛するとは仁義を尽くす、相手の存在を大切にすることです。兄弟を愛することは永遠のいのちであるイエス様のもとに行くことになるのです。
律法学者、パリサイ人は自分の私利私欲のために祭司という地位を利用し、名声名誉を得て、人々よりもすぐれた者として自己満足している人たちです。
〜イエス様のもとに来ることの妨げの5つのポイント〜
●10/19(火)「出身地に対するこだわり」(ヨハネ1:46)
ナタナエルは彼(ピリポ)に言った「ナザレから何の良いものが出るだろう」ピリポは言った「来て、そして見なさい」
イエス様の出身地であるナザレは、ナタナエルが軽視したほど一般的に無名の貧しい村でした。出身地や家柄、家系で人を量るなら、兄弟を愛しているとは言えません。神が造られた(アダムから始まって)同じ兄弟であり、同じ生命を持った、神に愛されている人類であることを知って、兄弟愛を持つことが大切です。
永遠のいのちへの妨げになる、出身地へのこだわりを捨てましょう。
●10/20(水)「学歴、肩書きへのこだわり」(マルコ6:3)
ナザレにイエス様が帰られた時、ナザレの人々が言った言葉です。
「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」
大工という外見で、イエス様につまづいたのです。
学歴や肩書きにこだわっているなら、本当に正しく心を開いて兄弟を愛することはできません。
人に対して学歴や肩書きを気にする(こだわる)人は、じぶんに対してもこだわりを持つという心の隠れた部分があるのです。兄弟を愛する正しい良心を持つことが、永遠のいのちに至る道なのです。
●10/21(木)「この世の常識へのこだわり」(ヨハネ5:16)
38年間病床に伏せっていた人を安息日にいやされた時、ユダヤ人たちはイエス様を迫害しました。
安息日は神が与えてくださった大切なルールでした。
ユダヤ人たちは安息日を厳粛に取り入れたので、どこから仕事でどこまで仕事でないか区別し始め、食事の事(火を起こすこと)病気のいやし、生活のあらゆる事において規定を作ってしまいました。
安息日は神の教えでもありますが、人間的解釈によって生活常識となってしまいました。それを重んじたばかりに、イエス様のことばに反発したのです。
この世の社会常識は多数決で事が決められていきます。日本社会は和を大切にする社会です。確かにこの世の常識(和)を軽んじないことは大切です。しかし、神の御心からそれてしまうなら、価値がありません。兄弟を愛すること、隣人を助けることよりこの世の常識を重んじて、永遠のいのちへの妨げとならないよう、心がけていきましょう。
●10/22(金)「仲間意識へのこだわり」(ルカ19:5〜7)
人々はイエス様が共にいる間はイエス様を尊敬していましたが、イエス様がザアカイのもとに行かれると、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやきました。
このことは本当の意味でイエス様を知っていたのではなく、仲間意識、自分たちの都合の良いようにイエス様を利用していたのです。間違った仲間意識がありました。
自分に同意し、自分に属してくれる仲間意識というのは、本当の意味で兄弟を愛しているとは言えません。
古い考え、この世の利己的な考えが、信仰を汚してしまいます。クリスチャンは古き人は死に、新しく造り替えられたと信じて、仲間意識へのこだわりに惑わされないように、永遠のいのちに至る道を選び取って行きましょう。
●10/23(土)「勝ち負けへのこだわり」(マルコ15:10)
祭司長たちはなぜイエス様をねたんだのでしょうか。
祭司長とイエス様のやりとりを見ていた人々は、いつもイエス様の答えが正しかったから、イエス様を心から尊敬しました。だから祭司長たちはねたみました。
自分たちがイエス様に「負けた」と認めたのです。勝ち負け、優劣を気にするこだわりを持っている人は、善悪を判断することや正しく人を愛することはできません。
ピラトは祭司長たちからイエス様がねたまれた理由を知って、正しい裁きをしようと思いましたが、ユダヤ人たちは「イエスを十字架につけろ」と叫び、暴動が起こりそうだったので十字架につけることになりました。
勝敗で価値が決まるのではありません。クリスチャンも勝ち負けで人生を考えると、いらない問題にあってしまいます。正しい良心を持って、キリストにある兄弟愛を示していきましょう。

■2004年10月10日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
死生有命 しせいゆうめい up 2004.10.10
人の生死は、天命によって定められているもので、
人の力ではどうする事もできないと言うこと
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
(ヨハネ5:39)

「死」=滅び「生」=命
命に至るか滅びに至るかは天命の定めによる。
このように聞くと、今の状況や未来は決まっているので、どうすることもできないと思われがちですが、聖書における「死生有命」は、神の定めは変えることはできないが、その定めの中で永遠を選ぶことができる、というものです。
そのことを「永遠のいのち」ということから考えてみましょう。
ユダヤ教の律法学者たちは、「永遠のいのち」が聖書の中にあると思い、調べ続けていました。イエス様はそれをご存じで、「あなた方の調べている聖書は、私について書かれています。」と言われました。
今週は「永遠のいのち」について黙想し、そのすばらしさを見出していただきたいと思います。
●10/11(月)「永遠のいのちとは、永遠を位置づけること」
「永遠のいのち」とは永遠を光の世界で過ごすことです。
「命」とは本来、前向きで力強く、明るくきよく、正義などで、暗いところの一つもないものです。
命に属する生活とは、すべてをプラスに受け止めることができて、否定的な考えや思いが少しもなく、どんなことが起きても「ハレルヤ!!」と言える状態です。「生きることはキリスト、死ぬことも益です」「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それによってあなたのおきてを守ることができました。ハレルヤ」と楽観的なものですが、根拠のある楽観なので、ゆるぎのないものです。また、悪いものや悲観がやってきても、パーンとはね返すことのできる力強いものです。
滅びの生活とはその反対で、否定的で、悲しみと苦しみでつらく、自分の存在すら意味のないものに思え、無気力で重たーく、意欲のない状態です。
永遠にそのような状態が続くとしたら、皆さんはどちらの永遠を願われるでしょうか?調子の良いときは「命」に属しているけど悪くなったら「滅び」の方に行ってしまっているというように、「命」と「滅び」を繰り返しているような信仰生活は楽しくなく、やりがいもなく、つらいです。なぜならつらいことの方が残りやすいからです。うれしい時、悲しい時、つらい時、楽しい時、という繰り返しはあってもいいと思いますが、いつも「命」に属しているから、どんな時も、すばらしいと思えるのです。
「永遠のいのち」を持って歩むクリスチャン生活、これが神様の願いであり、目的です。信仰を持つ(キリストを信じる)ということは、「永遠のいのち」に至る道を選び取るということです。「永遠のいのち」を選ぼう、その道にとどまろう、定められているから、その道を選ぼうと決心しているのです。(救い主を受け入れるかどうか)という神の定めは永遠に変わりませんが、永遠の人生を確定させるのは、あなたの選びによります。
光の国に入るか、闇の国に入るかを振り分ける、その基準が定めなので、信じているといいながら「永遠のいのち」の方を選び取っていないなら、それは本物の信仰とは言えません。
「永遠のいのち」を選ばない時があったら、悔い改めてやり直せばいいのです。やみを選ぶか光を選ぶか、滅びを選ぶか命を選ぶか、神を畏れず否定的に生きるか、キリストにあって前向きに生きるか、あなたが永遠を決めるのです。
●10/12(火)「永遠のいのちとは、御子と御父の内に留まること1」
「互いに愛し合う者」は永遠のいのちに入り、それを拒み、自己中心的に生きていく者は永遠の滅びに振り分けられます。
今日皆さんは、クリスチャン同士「互いに愛する」ということを忘れていませんか?
「互いに」です。自分のことだけを考えれば喧嘩になります。分裂になります。しかし、相手がなかなか受け入れてくれなくても、何とか和解を見出そうと努力するのが、互いに愛し合うという神の教えを心に持った人の考え方です。相手が協力しなくても、何とか協力してほしい、互いに愛し合えるようになろうよと、それを推し進めていくのが「互いに愛し合う」というおことばを心に持っている人です。
相手が協力してくれなかったらそれでおしまい、では利己的です。
わかってもらえなかったら、わかってもらえるようにと表現を変え、和解が成立するようにと努めていってこそ、永遠のいのちを歩んでいる人の歩み方です。
いろいろやってもわかってくれない人もいます。それは互いに愛し合うことのできない相手だということですが、最初から見限ってはいけません。
あなたが心を開いて相手にプッシュしていく以上、望みは1%でもありますが、あなたが閉ざしてしまったら0%です。
つらいけど、そのつらさが愛です。犠牲を払うことが愛なんです。
互いに仁義を尽くし合う関係を持ちましょうと手を差し伸べていくことが永遠のいのちに至る者の姿勢であることを忘れないようにしましょう。
●10/13(水)「永遠のいのちとは、御子と御父の内に留まること2」(第2ヨハネの手紙1:6)
气Rリント13:4〜7は有名な愛についての定義ですが、何度読んでもすばらしく、また反省させられます。このお言葉をもって、実際の生活の中で愛の内に歩むとはどういうことかを考えてみてほしいと思います。
「愛」はクリスチャン同士の間だけでなく、自分と関わりのある他者との間の関係においてのことです。あなたの家族をはじめ、会社の上司、部下、同僚など、いろんな人間関係があるでしょう。うまくいっていない人間関係において、もうこれ以上我慢できないと思うんだったら、愛を捨ててしまうことになります。愛を実践するのなら、耐えなければなりません。愛は「人のした悪を思わず」ですが、人のした悪を思うと否定的になるばかりで、あなたを滅びに至らせます。人のした悪は置いておいて、良いところを見てあげるのが「愛」です。
そのように、実際に人と会う前に、日々のデボーションの中で、「愛は寛容、愛は親切」と愛の定義をしっかりと確認し、どのように愛を表していくかをシミュレーションしていることが大切です。愛を持ち、愛に敏感になると、周囲の人の愛のなさに気がつき、心が乱されることがあります。
しかし、周りには愛がないわけですから、あなたが愛を注いであげてください。「オレに愛をくれよー」「オレをわかってくれよー」では絶対にうまくいきません。わかってあげようというのが愛です。
●10/14(木)「永遠のいのちとは、唯一神とキリストを知ること」(マタイ5:16)
私たちが救いに導かれたのは、多くの人のとりなしの祈りによることや、私たちが困難な状況の時に、家族や友人がどんなに忍耐して支えてくれていたかを知ることによって、その人たちの自分に対する愛を知ることができます。
私自身も、朝早くから夜遅くまで労苦して働く母親の姿を見て、母の家族に対する愛を知ると同時に、母をも知りました。そのように、キリストの労苦と、父なる神様の犠牲的愛を知れば知るほど、神はどんな方かを知ることができます。
映画「パッション」で、イエス様の十字架の苦しみを見ましたが、自分の罪深さがわかればわかるほど、イエス様の苦しみが私に対する愛として注がれ、愛を注いでおられるイエス様を知ることができます。
聖霊様がデボーションの中で、十字架を深く啓示してくださるよう求めて欲しいと思います。
なぜなら、私もそうですが、母の労苦を知ると、親を悲しませたり、恥をかかせたくないという、親に対する愛の気持ちが出てきます。そうすると前向きな生き方が生まれます。悪く思いません。
愛を感じて、愛してくれている方を知ると、否定的なものがなくなって、前向きに強く生きることができるようになる。それを神に対して持つと「永遠のいのち」というさらに力強い、死者をもよみがえらせることのできるいのちとして、私たちの内に宿るのです。
この永遠のいのちはあなたをあらゆる否定的な思いから解放する、すばらしいものです。
●10/15(金)「永遠のいのちとはイエス・キリストである」
今まで「永遠のいのち」についてポイントをあげてきました。
「互いに愛し合うこと」「愛の内を歩むこと」「神を知ること」イエス様の生涯そのものが「永遠のいのち」であったことは、福音書の中でイエス様がどのように行動されたかによってわかります。
イエス様は父なる神がどれほど自分を愛してくださっているかということを一番よく知っておられたので、十字架に至るまで前向きに神を信じて歩まれました。
愛の内をどのように歩まれたでしょう?
「愛は○○である」ということを、そのまま示されました。姦淫の罪を犯した女性に対してどうでしたか?愛を示されたでしょう?それが「永遠のいのち」の姿です。
そのようにして、福音書の中でイエス様の行動を通して、そこに「永遠のいのち」があることを見つけだしてください。そしてあなたも同じようにしてください。そうしたら、父と御子があなたの内におられ、あなたは父と御子の内に留まっていることがわかります。
●10/16(土)「永遠のいのちについての証し」
なぜピリポは、ナザレの大工の息子であるイエスが、預言書に書いてある方だと証言することができたのでしょう。
旧約聖書には、救い主はどのようにして生まれ、どのような人生を歩み、最後にどのようになるか、ということが書かれています。
そしてイエス様はその通りに人生を歩まれたので、この方以外にキリストはいないと断定できるのです。旧約聖書はイエス様のことを中心に書かれていますが、ヨナ書の中から「永遠のいのち」である方はイエス様であるという理由を考えてみましょう。
ヨナ書で一番大切な部分は、イスラエルの敵国であるニネベという異邦人の罪深い街を救いに導くために、神はヨナを遣わして、悔い改めのメッセージを語るようにされたということです。最後のヨナと神様のやりとりの部分から、神は罪人を簡単に滅ぼすことのできない方で、ヨナがとうごまの葉を惜しんだように、神様もニネベの街の人々を惜しまれたということがわかります。
そんなあわれみ深い神様のすばらしさが現れている箇所を福音書の中から思い起こしてみてください。
たとえ話の中にも、実際にイエス様と出会った人の中にもあります。一番皆さんがよく知っているのはザアカイかもしれません。ザアカイとニネベが同じように扱われているのですが、ご自分でもしっかりと考えてみてください。

■2004年10月3日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
明鏡止水 めいきょうしすい up 2004.10.3
何のこだわりもなく、澄み切った心境のこと
彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。
(ヨハネ5:35〜38)

明鏡…くもりが全くない鏡
止水…波一つない済みきった水の表面
明鏡止水…何のこだわりもなく、済みきった鏡のような心境
私たちの良心が、このように清らかに、キリスト・イエスを輝かせる鏡のようであったら、どんなにすばらしいでしょうか。そのような心でクリスチャン生活が送れるようになるために、今週も6つのポイントからみことばを学んでいきます。
●10/4(月)「燃えて輝くあかり」(マタイ5:16)
どんな光を人々の前で輝かせるのでしょうか。
「燃えて輝く」とは、たいまつの火を思わせます。
たいまつの火は、一旦つくとなかなか消すことのできないほど強いあかりです。イエスはバプテスマのヨハネについて、このように比喩されました。そして私たちクリスチャンに対しても、そのような光を輝かせることを期待されています。ロウソクのような弱々しい、一吹きで消えるようなあかりではありません。
私たちは「人」として燃えて輝くあかりとなるよう言われています。それはどういう意味なのでしょうか。
例えば今、アメリカのマリナーズで活躍しているイチロー選手は、野球好きな人々にとっては燃えて輝くあかりです。彼のようになりたいとあこがれ、希望をもたらすあかりです。あなたにとって燃えて輝くあかりとなる人は、あなたの両親かもしれないし、恩師かもしれません。
このように周りの人々にあこがれを持たれる人は、人として、つまり内面的に徳が高く、模範となる人です。
クリスチャンにとってイエス様の生涯は、私たちの手本となる燃えて輝くあかりです。
しかし、心が曲がっていると、そのように輝いている人を見ても、自分はダメだと相手と比較して落ち込んだりします。同様に、クリスチャンたちの輝きを見ても、ひがんだり、逆にねたんだりする人々もいます。
けれども、本心から良心的な生き方をしたいと願う人は、クリスチャンの輝きを見て、そのように生きたいと願ってきます。手本となる人がいると、人々は生きる勇気を持つのです。バプテスマのヨハネは、ヘロデ王の悪政に対して決して屈しない強いあかりでした。
それゆえ民衆は喜んでヨハネの教えに従ったのです。
彼は命をかけて、権力を持つ人々に悪を捨て、善を行うよう迫り続けました。このようにはっきりと光と闇を分けて正しく生きる姿勢は、人々にとって希望となります。
ただ間違ってはいけないのは、私たちは何が善であり、何が悪であるかを明らかに示すことはできますが、自分の意見に従うよう強制したり、さばく権利はありません。
私たちは、正しい良心の光を人々に輝かせるクリスチャンとなりたいものです。
●10/5(火)「光の中で楽しむ」(ローマ12:9)
人の本心からの願いは、平和であり、幸せでありたいというものです。しかしそれらは、善に基づいたものでないと意味がありません。しかし経済社会では、お金にもならない正義に基づく平和など、まるで価値のないもののように思われがちです。そのような社会では、私たちは光の中で楽しむ、つまり善を楽しむことをしっかりと悟っていないとなりません。善を行うことを趣味にしましょう。
善を行うことを義務やきまりのようにとらえていては、クリスチャン生活は窮屈になります。しかし、趣味として楽しく行っているなら、それは喜びとなります。
神も善を行うことを喜びとされる方であり、善のためにはどのような労苦も犠牲もいとわれません。
御子イエスをもいとわれなかったのです。
私たち罪人を回復し、生きるようにしてくださいました。悪人を更生させることは善です。犠牲を払っても善を行うことを楽しむようになりましょう。
●10/6(水)「父が遣わされた証し」(第1ペテロ2:24)
罪の現れとして病気が肉体に現れてきます。罪は滅びをもたらすものだからです。考え方、感情といった精神面も、罪によって否定的に、滅びの方向に進んでいきます。罪がなかったら滅びの症状は出てきません。そして、イエス様はあなたを赦してくださったので、病気になることはないというのが完全な真理ですが、クリスチャンもまだまだ罪を犯すので、病気の症状が出てきます。しかし、悔い改めて祈ってもらうといやされます。これは基本的な原則です。
イエス様は、病気の原因である罪を十字架で身代わりに負って処分してくださいました。それゆえ、イエス様の十字架を信じるなら、病気はいやされていきます。いやしは、イエス様が罪を赦す権威を持っておられることの証明です。つまり、イエス様は救い主としてこの地に下ってこられたと言えるのです。
もし病んでいるなら、まず不敬虔の罪を犯していないか考えてみましょう。あるいは何か別の理由で、あなた個人のプライベートな問題を、病気を通して神は取り扱っておられるのかもしれません。しかし言えることは、あなたはいやされるということです。あきらめたり、その状態に甘んじることをやめましょう。病気がいやされないのは罪が赦されていないからという訳ではありません。ただ、すべての権威を持っている方はイエス様であるということを認めましょう。
確かに老化によって身体は衰えていくものです。
けれども病気のいやしはもっと積極的に求め、きよめられることをしっかり求めていきましょう。
また未信者の人はいやされる確率はクリスチャンよりも高くなります。それは、いやしによって神の権威を知り、救いに至るためです。
●10/7(木)「私たちも遣わされる」(ヨハネ20:21〜23)
クリスチャンである私たちには、人の罪を赦す権威が、イエス様を通して与えられています。これはすばらしいことです。
しかし、もしあなたが誰かの罪を赦そうとしないなら、その罪は赦されることなく残ります。イエス様は「赦す」ために「赦す権威」を持って来られました。すべての人を救うためです。ゆえに人々を赦さないためにあなたはこの権威を与えられたのではなく、人々を赦すために与えられました。それは人々が神の愛を知り、救われるためです。私たちに与えられた権威は唯一、「赦す」という権威です。私たちは「赦される」という福音を人々に伝えるのです。愛するとは赦すことです。それは相手に立ち直って欲しいからです。もしあなたが相手を赦さなかったら、その人は救われるチャンスを失ってしまい、あなたは神の前に出る時、なぜその人を赦さなかったかを訊かれます。
神はあなたを赦し、チャンスを与えてくださったゆえにあなたは救われたのですから、あなたも人々に赦しを宣べ伝えるべきです。なぜなら神は、人々に悔い改めのチャンスを何度失敗してもいいからつかんでほしいと願っておられるからです。
神は赦しの権威を私たちに託されたので、後は裁かれる権威しか持っておられません。それゆえひとりの人が天国へ行くか地獄へ行くかは、あなたの「赦す」という心にかかっているとも言えます。これは本当に大変なことです。私たちはこの「赦す」権威を用いて、ひとりでも多くの人を救いに導きましょう。
愛はその人の罪をおおうとありますが、その人の罪をかばい続ける時、その人が相変わらず罪を犯し続けるなら、今度はかばう人の方が非難され始めます。本人以上に、かばう人の方が非難されるようになるのです。本人に向かう矢が、その罪をおおう人の背に突き刺さっていくのです。その中でおおわれた人は、矢から守られ、更生する強さを持てるようになります。
愛するとはその人の罪をおおい、その人の代わりに痛みを負うことです。このおおうということをされたのが、十字架にかかられたイエス様なのです。イエス様は私たちの罪をおおってくださり、私たちが更生するチャンスを与えてくださいました。そして今もなお、罪を犯し続ける私たちの代わりにイエス様は、御自身が私たちの罪をおおって痛み続けておられるのです。そのことを悟る時、どうして人を赦せないと私たちは言えるでしょうか。むしろ心から赦すと言えるはずです。
私たちが赦した後は、その人がその赦しを受け入れるか、なおも神を無視して生きるかは、その人の決断によります。神を無視する不敬虔な態度は、神を殺すことと同じです。それゆえ、そのような魂は永遠の地獄へ行くしかありません。
●10/8(金)「父の証言」(ヘブル10:15〜17)
父の証言とは、神の召し、召命のことです。私たちは人から「赦されている」と伝えられる以上に、聖霊によって「赦されている」こと、イエス・キリストは救い主であることの啓示を与えられる方が、もっと強い確信を持つことができます。それはより高い地位にある人から直接命令を下された兵士は、たとえ周りの上官たちから反対されてもその命令を守り抜くようにです。それは、その命令が間違いないという確信を、兵士がしっかりと持っているからです。
それゆえ、聖霊からあなたの正しい良心に啓示されることが、一番強く確信を持てる秘訣です。
聖霊様は私たちが人々を赦すために遣わされたことをはっきり証ししてくださいます。それによってしっかりとした使命感に燃えることができます。
(赦すのは気持ちによるのではなく、権威によって為すことができます。)
●10/9(土)「信心」(伝道者の書7:5)
叱責を聞くより、歌の方が聞きやすいものです。しかしその聞きにくい叱責を聞けるのは、その叱責が知恵ある人、つまり尊敬する相手から語られた時です。つまり、神のみことばを聞けるかどうかは、私たちの神への姿勢、「信心」、敬虔な姿勢によるのです。
人のことばを全く聞けない人は問題があります。その人は自分以上に偉い人がいるとは認めない高慢な心を持っているのです。神のことばを聞けない人は「信心」、敬虔な心を持っていないからです。
なぜ聞き従えないのか…。自分の心の姿勢がどうであるかをもう一度考えてみましょう。

■2004年9月26日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
無稽之言 むけいのげん up 2004.9.26
根拠ない、でたらめなことば
あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
(ヤコブ5:3)

「私たちの口の言葉は神の前でさばかれなければならない」と聖書は言っていますから、極力そのようなことばは避けて、根拠のある言葉を語れるよう心がけていきたいものです。
ヤコブ5:3では「金・銀(財産)を所有していながら、それを生かして正しく使わなければ、さびが来て、身を滅ぼす証言となる」と語られています。
今週は「証言」という言葉を中心に、イエス様の教えを通し、日頃から確かな証言となるものを持って生きる者となれるよう、ご一緒に学んでいきましょう。
●9/27(月)「正しい裁き1」(ヨハネ5:30)
「さばき」は断定的で、変更することができません。ですから確かな証拠がなければ裁いてはいけません。
国が憲法によって治められ、違反を裁くように、正しい裁きは、全宇宙を造り支配されている主権者の思いにたってなされるべきです。
もし自分の欲望を達成するため、肉の思いで裁くことがあれば、人の心に深く傷を負わせて、人生を台無しにしてしまう危険もあります。また、秩序を保つこともできません。
ですから、どうしても裁かなければならない立場にある人は、常に主権者の思いにたって裁くことを心がけていただきたいと思います。
●9/28(火)「正しい裁き2」(ヨハネ5:30)
神は何をもとに人々を裁かれるのでしょうか?
ガラテヤ5:10に「かき乱す者がさばきを受ける」とあります。
神に似せて造られた私たちは、潜在的にいつも平和を追い求める、神と同じ思いを持っています。
しかしながら、時として自分の考えを深く主張しすぎ、人々を無理矢理とりこみ、どこまでも自分の義を押し通そうとすると、秩序が乱れ、かき乱すことになってしまいます。
罪を犯していると思える人がいたとしても、クリスチャンは自らが裁き主になるのではなく、「神が裁かれる」ということを語り、後は神に任せることが大切です。
神の御心は、人々を大切にし、愛することで平和を保ちたいと願っておられるのですから、私たちはその思いを大切にしていきたいものです。
●9/29(水)「真実な証言」(ヨハネ5:31)
「誰も私のことをわかってくれない」という人の問題点はどこにあるのでしょうか?
第一に、自分サイドの見方をしているため、周りのことが理解できず、人に思いが正しく伝わっていない場合。
第二に、人が証言してくれるほどの信用をされていない場合があると思います。
私たちが人にわかってもらうためには、まず周りをよく見渡し、理解し、気持ちを伝えるための努力をしていく必要があります。
自分のことを真実に証言してくれる良い友を持つことは、人生にとってすばらしいことですし、その人が社会においても信頼の厚い人ならば、なおさら良いと思います。
私たちは、その良き友を得る人生を目指していきたいものです。
●9/30(木)「真実な証言と言えるには」(ヨハネ5:32)
あなたにとって真実な証言をしてくれる人とは、どんな人でしょうか?
大多数の人は、その人の表面的な一部分だけを見て決めつけてしまうことがあると思いますが、お互いの考え方、価値観、正直さなど、本心の部分をよく知って理解できる関係(たとえば親のような)ができあがっていれば、真実な証言をしてもらうことができると思います。
私たちが神の前に、裁きの座に立ったとき、誰が証言してくれるのでしょうか。
神の律法において私たちは多くの罪を犯す者ですが、イエス様だけが真実な証言者として弁護してくださいます。
しかし、私たちがイエス様にすっかり心を開いてすべてを明らかにし、日頃から良い関係を築いておかなければ、完全な弁護をしていただくことがむずかしくなります。
ぜひ、イエス様の前で自分を明らかにし、もっと親密な関係を築いていっていただきたいと思います。
●10/1(金)「真理についての証言」(ヨハネ5:33)
「なぜ世界が存在しているのか?」という問いかけに対し、二つの考え方があります。
第一に、存在の目的はなく、ただ偶発的にできあがった(=進化論)という考え方→目的がないので真理は見いだせず、悟りが優先する
第二に、誰かが目的と考えを持って造られた(=創造論)という考え方。人間の知性は「全宇宙という広大な無限の世界を造ることのできる存在者などあるはずはない」と考える方がたやすいので、偶発的にできた、という方が受け入れやすくなっています。
しかし、それでは「存在」に対する答えを見出すことはできません。「なぜ?」という問いに対し、答えられるのは「誰かが造られた」という考え方で、それが一番正しいのです。
私たちは『創造主がおられるから存在している』これが真理です。
創造主がおられることで私たちの人生が成り立ち、揺るぎないものになり、平和な世界が訪れることができるのです。
創造主がおられることは認められても、それがキリストであるということを世の中の人は受け入れたくないかもしれません。しかし、数限りない宗教の中で、創造主に対して罪を犯した人類の負債を、身代わりとなっていのちをもって返してくださったのは、イエス様だけです。
イエス様が預言通りこの世に生まれてくださったことで、創造主がおられるという証明となります。
私たちクリスチャンは、世の人がクリスチャンの創造主を敬う生活を見て、本当に神がおられることを信じるために、神の愛と教えの中に自分を置き、聖い生活をして、キリストの証言者として神様の信頼に応える人生を歩みたいものです。
●10/2(土)「イエス様の証言」(ヨハネ5:34)
イエス様は、バプテスマのヨハネの言っていることが真実で、それによって聞いた人々が救われると語られています。
ご自分のことを証言したバプテスマのヨハネのことばを聞いて信じれば救われる、ということを、救いをもたらすイエス様ご自身が証言してくださっているのですから、これは一番確かなことです。
イエス様は、私たちクリスチャンが、神の存在を証しする証言者であることを、福音を聞いた人の良心に働きかけて、ご自身が証明してくださいます。
ですから安心して、クリスチャンとしての生活を通して、福音を語っていってください。聞いた人の心に働きかけて、救ってくださるのはイエス様なのですから、語った後のことはイエス様にお任せしましょう。

■2004年9月19日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
安寧秩序 あんねいちつじょ up 2004.9.19
世の中が平和に治まり、秩序がしっかりしている様子
そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。
(第2コリント13:10)

コリントの教会で、秩序が乱れたことがありました。神の御名を利用して自分の願望を通す人。また、持っている権威を利用して自分に利得をもたらそうとする人が現れました。それを治めるために、パウロは手紙を書きました。その中で、権威を用いるのは滅ぼすためではなく、せっかく神の前に救われた魂がもう一度回復されて教会が平和になるためであると言っています。
イエス様が私たちに、神の国の秩序をもたらし、神の国の力を持って維持しておられることを感謝し、私たちもそのような気持ちでこの週間、過ごしていきたいと思います。そのためにヨハネ5章のイエス様のおことばから、今日もポイントを学んでいきましょう。
●9/20(月)「死人が聞く」(ヨハネ5:25)
死人…正しい良心を持って神の声を聞けない人。
良心が死んで働かない状態。神を畏れる気持ちがない。
善悪の基準が自分中心。
↓
道徳性が低い
旧約聖書では、アブラハムは全能の神の御声によって、示される地に向かって旅を始めました。彼の良心が生きていたから、神の声が聞こえたわけです。ノアも、神から示されて船を造りました。人からどんなに馬鹿にされても、良心に聞こえてきた神の声に従ったのです。
しかし今あなたは人々に反対されたとしても、良心に聞こえてくる神の声に従うことができるでしょうか。これが神の声であると確信できるものがあるでしょうか。それほどに私たちの良心は鈍っています。そこで、確かな神の声として肉声で語られたのが、イエス・キリストです。私たちの良心に響くメッセージを持ってきてくださいました。
良心を失った人は人ではないと言っても過言ではないほどに、正しい良心は私たちの存在そのものを証しするものです。
動物にも感情的な良心のとがめはあります。しかし感情的な悔い改めは一時的なものであり、また同じ罪を繰り返してしまいます。
私たちは知・情・意と良心を区別するために、もっともっと神のみことばを聞いて、神の前における正しい良心を持って人間関係を建て上げることが必要です。そこで、人々の良心に届くような言葉を考えてみましょう。
今は自己中心に生きることが価値あることだと教え込まれ、洗脳されている世の中です。私たちはそれが間違いであることを示すために、正しい良心をもって神の前に生きる、そのために神の声を聞きましょう。
●9/21(火)「父が持っているいのち」(ヨハネ5:26)
父の持っているいのちとは何でしょう。
例えば水。砂漠ではそれはとても尊いものになります。同じように、良心をそんなに大切に感じない、この日本の平安な社会に私たちは生きています。もっと社会が乱れて悪くなると、人間として生きるために良心の大切さがわかるはずです。また、神のいのちを持たなくても生きていけるような環境にいる私たち、神のいのちのすばらしさがわからない…。
神のいのちは、無から有を生み出す、不可能を可能にするいのちです。そのいのちをあなたの内に持つことができるようにしてくださった。これは力あるいのちです。
神のいのちにあなたの心を意識づけ、委ねる時に、自分の古き人から勝利していくことができます。そして
あなたをもっともっと神の子として造り変え、成長させるすばらしいものです。
神がわたしたちに持つことができるようにしてくださった神のいのちに信頼し、そのいのちによって生かされ、支えられているということに考えを向けていただいて、あらゆる闇の力から勝利してください。
●9/22(水)「子は人の子」(ヨハネ5:27)
神の御子、イエスは人の子でもあられる。
自分よがりの世界にとどまっている人は、権威を正しく使うことはできません。権威を与えられる人というのは、あらゆる人々の気持ちを汲み取ることのできるような、経験豊かな人であるべきです。正義を全うし、愛をも全うするという、そういう裁きが必要です。そのために思いやり、あわれみ、いつくしみを持つ心、相手の身になり気持ちのわかる人、体験をした人が権威を持っていれば、非常に正しい裁きができます。神はなぜ、イエスに権威を与えられたのでしょうか。それは人の子だからです。
子は人の子でもあるとは、人としてこの地上に来られ、私たちの弱さを知っておられ、私たちの気持ちを汲み取ってくださるお方であるということです。ですから、私たちを治めることのできる権威を与えられたわけです。
●9/23(木)「権を与える」(ヨハネ5:27)
第2コリント3:10に、権威とは倒すためではなく、建て上げるために使われるとあります。
親が子供に権威を使うならば、子供が築き上げられるためでなければ、それは間違った使い方になります。親子でも主従関係でも、良い関係を築いていれば、言葉や表現とは関係なく、あなたにいのちを与えます。
この権威はあなたに間違いを気づかせ、そこから離れさせ、正しい道に戻ろうという勇気と力を与える権威です。イエス様はその権威をもって。私たちにいのちの言葉を語ってくださいます。私たちもそのおことばが良心に悟しを語っておられることを、深く黙想することで、すばらしいものが見えてきます。
●9/24(金)「墓の中から出てくる時」(ヨハネ5:28)
墓の中にいる者…人生が確定した者のこと
確定するということは、もう変更できないということです。
競技で言うならば、陸上のフィールド競技、やり投げ、幅跳び、高跳びなどの記録を競う競技です。何回か記録を出すためのチャンスが与えられていて、その中から最高の記録を確定するわけです。
私たちの人生、生きている間は、自分を変えるチャンスがあります。
私たちは一旦墓に入りますが、もう一度神の前に出て表彰式を受ける時が来ます。それがあるからこそ、秩序を保つための良心的な生き方、ルールを守って正義と公平を愛する人生を通す価値があるわけです。
アメリカのブッシュ大統領はクリスチャンです。なぜ、イラクを攻めて戦争をするのか。良心を働かせることのできない政治であり、周りの国が神を畏れず、否定する国があるからです。
滅ぼされないために力で世界を治めることは当然になってきます。そうせざるを得ない人間の罪深さを理解しなければならない。そういう矛盾が世界にあるわけです。しかし彼は、戦争を行う命令を下した最高責任者として墓から出てくる時がやってきます。
神がこの矛盾した世界をすべて裁かれる時が来ます。ですから、私たちは義を通していく価値があります。
●9/25(土)「善と悪への報い」(ヨハネ5:29)
善に対して報いが与えられ、悪に対して裁きがもたらされなければ、世界はどうなるでしょう。秩序が無くなり、争いが絶えず、不幸がやってきます。
私たちは、イエス・キリストを神と信じる者の集まりであり、キリストが唯一の救いであります。
しかし言いたい。仏教、イスラム教、キリスト教、世界三大宗教。この高度な神学を持った宗教の神を本当に敬う人々が、その教えにのっとって平和を造り出したら、それぞれの宗教が戦うはずはありません。神を学ぶ人の道徳心は決して人を殺すことはありません。
今世界中で起きている、イスラムの原理主義者などの宗教間の争いは、神が許可するようなものでしょうか…。
彼らは神を無視して、自分の思い通りの価値観を人々に押しつけて、従わせようとしています。間違った権威の使い方をしているのです。
権威は、私たちの気持ちに思いやりを持ってくださる、神の子が人となられた方に与えられたものです。力を持つ者は、弱い者の弱さを理解できる者こそ、与えられるにふさわしいものです。だから神は、御子にすべての裁きを委ねられました。
私たちは善と悪とが正しい良心をもって裁かれることを知っているからこそ、正しい良心を持って生きるわけです。それこそ安寧秩序、神の国の実現です。そのために神のことばを守っていきましょう。

■2004年9月12日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
如是我聞 にょぜがもん up 2004.9.12
私はこのように伝え聞いたという意。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
(ヨハネ5:24)

「如是我聞」(かくのごとく我聞けり)これは、釈迦の弟子阿難という人が、釈迦の教えを記録する時に、冒頭の言葉として使い始めた言葉です。
「私はイエス様のおことばをこのように伝え聞いた」と、しっかりと悟って伝え聞くということを心がけていこう、というのが今週のテーマです。
伝え聞いたことを人に語れるくらい、自分自身がしっかりと持っておくことが必要ですね。これを使った阿難は、それを悟っていたから書き記すことができたのです。
ヨハネ5:24の中には、神様の良き訪れ、福音が凝縮されています。「まことに、まことに」=「アーメン、アーメン=本当、真実である」という意味です。このおことばの中に神が何を言わんとされているのかを正しく受け止めて、人に伝えられるくらい理解していけるように学んでいきましょう。
●9/13(月)「ことばを聞く」(箴言29:12)
「支配者が偽りのことばに聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる。」
私たち人間は、物事を考え生み出していく、言葉の文化を持っています。
言葉は聞き方が非常に大切です。支配者は多くの人に影響を与える立場です。聞くことに気をつけなければ¥なりません。人が信じることを決意する三つの根拠を見てみましょう。
(1)欲に惹かれて信じる。
人は、欲望が強く内側に働いていると、信じやすくなります。(例えばセールスマンは、欲を起こさせるような情報を与えます。)
(2)力を見て信じる。
結果を見て信じる、見えるものだけを信じる人です。見ないと信じない人とも言えます。
(3)愛によって信じる。
その語る人の人格を見て、その人を尊敬できるかを見て信じることです。みなさんは神様に対してどのように信じているでしょうか。どんな言葉を聞いて信じるようになったのでしょうか。
欲が要因なら、ご利益宗教になります。見えるものだけを信じている人は、見て、自分が納得しないと信じません。しかし、信仰とは、まだ見ていないことを心に確信するものです。私たちが信じなくてはならないのは、その人を愛せるかどうか、尊敬できるかどうかです。その人が言うなら全部信じられるという信じ方が必要です。
私たちは、神がどれほど私たちを愛してくださっているかということを聞いて、イエス様を信じるに至ったのです。
●9/14(火)「信じる」(第2歴代誌20:20)
「信じる」という言葉は、「敬う、尊敬する」という言葉に置き換えることができます。いろんな神がありますが、みなさんは、一番尊敬できる神として、聖書の神を選ばれました。尊敬できるからこそ、その方の語られる教えを聞くことができます。敬う心は、聖書では愛の要素の一つとして語られています。愛するとは、相手を大切にすること、敬うことです。それを信じているといいます。
尊敬がなくなれば、自然に信じることもできなくなります。あなたが神を信じているというのなら、そこに尊敬の心があるかどうかを考えてみてください。信じている人には敬虔な心が伴うのです。
●9/15(水)「永遠のいのちを持つ」(第1ヨハネ5章)
このみことばでは、「持つ」ということと「信じる」ということが同じような意味で使われています。永遠のいのちは手で持つのではなく、心で持つことができます。永遠のいのちを持つとは、「信じる」ことです。
人の愛を受け入れるということは、その愛を信じることです。疑う人は、人の愛を信じることができません。信じるという心の姿勢が、相手の心を感じる窓口です。信じるとは「心の手」です。傷つけられるのが嫌だと心を閉ざしていると、何もわかりません。神様はあなたを決して傷つけられませんから、全面的に心を開いて信頼してみるなら、神様のお心を感じることができ、永遠のいのちがどんなものかわかるのです。
●9/16(木)「さばかれない」(ヨハネ3:19)
このみことばの「さばきとはこうである」という意味は、光が来るまでは、光を愛するか闇を愛するかはわからないが、光がやってきた時、光を愛する者と闇を愛する者とに分かれる、結果が出る、ということです。さばきとは結果が出ること、確定することです。どうさばかれるかではなく、どう確定するかです。
どうして人は光よりも闇を愛したか、それは光の方に行きたくないという結論を出したのです。
あなたが人を裁くさばきで、あなたも裁かれるとイエス様は言われました。なぜなら、裁きとは断定することだからです。あなたがしたようにあなたもされる、これが神の公平な裁きです。
人を赦す人は神からも赦され、人を憐れむ人は神から憐れみを受けます。
陸上のフィールド競技は、何回かチャンスがあり、その一番良い成績が記録として確定されます。私たちにはまだチャンスがあるのです。裁かれないとはそういうことです。イエス・キリストが地上に来られるか、あなたの肉体の命が取られるまでは、何回でもチャレンジし直せるのです。しかし、人に対して裁いてしまうなら、相手の人はチャンスを失います。赦すということは、もっと良くなるようにと、チャンスを与えることです。裁かれないとは、神が私たちにチャンスを与えてくださっていることなのです。
●9/17(金)「死からいのちへ」(第1ヨハネ3:4)
死からいのちへ移る、人がいのちある生き方をしているとは、食べることや長く生きることではなく、兄弟を愛すること(互いに愛し合い、互いに仁義を尽くし合うこと)です。
仁義=いつくしむ心を持ち道理を行うこと
道理=人が人として行う正しい道、完全な道徳の道を歩む
尽くした仁義に対して仁義で返ってこなければ、その仁義は一方的な自己満足で空しいものです。互いに仁義を尽くし合わなければ、人は生きているとは言えません。私たちもイエス様が備えてくださった救いを得て、仁義を尽くす道へチャレンジできます。苦手だと感じる人がいるなら、その人を神の兄弟として互いに愛し受け入れることこそ、いのちある生き方です。
●9/19(土)「何を聞いて信じているのか」(詩篇119:11)
私たちは尊敬する心を持ってイエス様を信じ、永遠のいのちを心に受け入れ、悔い改めるチャンスが与えられているから、互いに愛し合うことにチャレンジし続けるように、神の子としての生活を伝え聞いています。そして他の人々にも“私はそのように生きている”と言えるよう、その道を悟っていくことが大切です。
そのために、あなたの心には、神を尊敬することができるどんなみことばがありますか。これこそ神を信じるに値するすばらしいことばだと心に示されるようなみことばを、心に備え、教えられながら、新鮮さを保ち続けましょう。

■2004年9月5日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
孟母断機 もうぼだんき up 2004.9.5
何事も一度やり始めたなら、途中でやめてはならないことの例え。
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。
(ヨハネ5:19〜23)

「孟母断機」孟子が学業中途で帰宅したとき、孟子の母は織りかけの機(はた)の糸を断ち切って、学問も中断すればこのようなもので、何の役にも立たないと戒めたという事から出た語です。
孟子はこのことから、決めたことは最後までやり通す教訓を受けました。親は子供に非常に大きな影響を与えるものです。
私たちも、神の子としての人生を歩む中で、多くの挫折を体験するかもしれません。しかし、仕上がる前に切断された機織りの布のように、私たちのクリスチャン生活も、イエス様の十字架の救いも、途中であきらめてしまったら、それで無駄になってしまいます。決して無駄にせず、この人生をキリストを信じて生き抜くという姿勢を、新しい一週間しっかりと心に刻んでいきたいと思います。
●9/6(月)「見習うべき手本」
私たちは神の形に似せて造られました。ですから、人々を見て育つ者ではなく、創造主なる神を見て育つという事が基本です。
イエス様はその事を私たちにお示しくださいました。
イエス様は、この地上で母マリアと父ヨセフをお手本として大きくなられたのではなく、両親を尊敬しながらも、いつも天の父なる神を見上げ、お手本とされていたという事が大切なポイントです。
イエス様は、ただ父なる神様だけを見上げ、その御教えとおことばのみに心にとどめ、耳を傾けていく徹底した姿勢があったからこそ、救い主として完成されました。
私たちも、神の子として最後まで、この人生を全うするために、天の父を見るのです。父なる神様は、私たちがキリストの姿に到達するまで、あきらめずに励まし、いやし、支えて引っぱり、後押しをして、私たちを前に進めてくださるすばらしい父です。
私たちは失敗すると失望し、心傷つきますが、それは肉の親の評価や、周りの人々の目を気にしてしまうからです。そういうものは無視して結構です。天の父を見ていれば、失望することはなく、天の父は私たちの失敗を評価されるような方ではありません。
私たちの支えは神のみことばと励まし、見習うべき手本は父なる神です。失望や落胆の時には、父は何と言っておられるか、父は何と言って励ましてくださっているかを考えて欲しいと思います。
●9/7(火)「父の行動」(コロサイ3:21)
最近の世の中の親子関係は、親は親、子は子の人生を楽しむ、お互いの権利を主張した考え方が中心ですが、これには気をつけなければなりません。親は子供の人生を左右する存在で、いつ何時も、子供のお手本となるものです。親子のつながりは切れません。
親は子供との関係から解放されたいと思ってはなりません。
父なる神様は私たちとの関係から解放されたいと願わず、もっと関わりたいと考えておられます。それは、聖書全体を通して、神様にとって人の存在がいかに大きいかを語っておられ、神は人の存在を無視しては行動されません。神は出来の悪い子供でもめんどうくさいとは思われず、かえって、もっと愛情を注いで深く関わってくださり、良くなって欲しいと近くにおられます。
その証が十字架です。
親の身勝手な表現や行動で子どもをイライラさせ、人生に失望させるのではなく、生きることはなんてすばらしいんだろうと思わせるような親になる、それが親の人生であり、大人の人生の意味です。
先に救われた兄弟姉妹は、新しい魂の父となり母となる存在です。
あなたの大人としての存在は、これから成長していく子どもたちにとって大きな影響のあるものです。血のつながりはなくても、人生の先輩として、霊の親として、教えていくことが必要です。
若いたましいが未来に希望を持つために自分が存在し、そこにやりがいがあり、犠牲しがいがあり、苦しむ価値があるのだと考えて、子供たちをつまづかせないように、関わっていきましょう。
●9/8(水)「与えたいと思う者に」(詩篇119:173)
「与えたいと思う者に与える」とは、イエス様の主観によって、選ぶ自由があり、「父がしておられる事を見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。」とは、イエス様は父から教えと学びを受けているということです。
私たちは、何も知らない新しいことを学ぶ時は、寸分狂いなく従って覚えていかないと、失敗してしまいます。
子どもがはしの使い方を覚える時、親はどんなものもつかめるよう大豆をつかませて練習させます。これは親が教えるべき基本です。
身についたら、何をつかむかは子供が自由に決めてもいいのです。これは人格を認めているからで、「大豆以外のものをつかんではいけない」と言ったら、おかしい親です。
神はあなたに何が正しいことか悪いことかを教えておられます。
完璧なお手本を、イエス・キリストを通して示されました。
それを見て、あなたが選択し、決断しなければなりません。
自分で選択した結果をあなたは刈り取っていくことになり、それで、自分の決断が良かったか悪かったか、身をもって感じて、次に生かしていくのです。
こういうクリスチャン生活を考えていきましょう。何でもやってもらわなければ気が済まないような神様との関係では意味がありません。健康な人が30才にもなって「アーン」と口を開けて、親から食べさせてもらっていたとしたら、それは異常な親子関係です。
神様は私たちを子として扱ってくださり、人格を尊重して、選択の自由を与えてくださっています。
基礎を教えられたならば、後は自分でチャレンジしてみて、失敗を通して身につけていき、さらに磨かれ、成長していくのです。
●9/9(木)「子に委ねる」(歴代誌28:4)
神がダビデをイスラエルの王として選ばれた理由は、彼が成熟した神の子とみられたからです。
成熟しているということは、委ねられたものを安全に役立つものとして使うことができるということです。反対に未熟な者は、役立つ使い方ができません。
たとえば、小さい子供に刃物を持たせたら危険です。
神は私たちを成熟した子として、二つのものを委ねられています。
1.イエス・キリストのいのち
この人生を、永遠の滅びに向かう人生として使うこともできますが、神は全人類に、御国を相続する者としてふさわしい歩みをすることができると信じて、キリストのいのちを預けられました。
2.天地を治める王の名前を使うこと
権威ある方の名前を使うことは相当つごうがいいです。
その名を用いてあなたは、自分の欲望を満たし、悪いことにも使うことができますが、その名を委ねられた理由は、あなたを楽しませるためではありません。あなたの人生を自己満足させるため、イエスの名、権威を与えられたのではありません。
何のために神の名があなたの手に委ねられているのでしょう。その名をもって祈るならば、欲しいもの願っているものが与えられる力あるお名前です。
イエスの名によって誰かを呪ったら、悪霊が働いてその人の人生がダメになる。イエスの名によってある人に祝福を与えたら、その人は神の子としてさらに成長していく。神の名は人殺し用に使うこともできるし、人を生かすこともできる権威がある。
ただし、どう使ったかということは後で清算されます。
神はこのような権威ある名前を私たちに委ねくださっています。
神は私たちをどれだけ大きく信頼してくださっていることでしょうか。委ねられた神様の動機は、私たちを成熟した神の子として信じてくださっているのですから、それに応えられるように、委ねられているものを大切に扱っていきたいですね。
●9/10(金)「子が尊敬を受ける」(箴言13:13)
イエス様の言われる「父が敬われるように子も敬われるようになる」という意味は、あんなすばらしい完璧な父によくあなたはついて行き、その教えを守ったものだと尊敬される者になるということです。
これが父に栄光を帰すことであり、子自身も栄光を受けることになります。
肉なる私たちがどこまで完璧な神様について行けるか、よくやったと言われるのは、この点においてです。クリスチャンが批判される部分は、神に習ってついて行くべき神の子であるのに、それができていないことに対してです。
ありとあらゆる集会に出席し、年に一回は聖書を通読していても、イライラして怒りっぽいし、口は悪いし、感謝することも少ないし、愚痴不平を言って、全然イエス様の良さが現れていなかったらどうでしょう?そういうクリスチャンを見ていたら、その人の行っている教会に行きたいとは思わないでしょう。
何ができるかではなく、子として敬われる者になっていることが必要です。
私たちが父から学ぶべきことは、御霊の実(愛、喜び、平安、慈愛、寛容、善意、忠実、柔和、自制)です。
もうこれ以上は成長しないだろうと、途中であきらめたら、イエス様を信じた意味がありません。だから、「孟母断機」の教えが必要です。
神は最後まであきらめずに、一歩でもイエス様の人格、品性、きよさに近づくようにと願っておられ、そのような姿勢で人々に敬われることが大切です。
●9/11(土)「権威の継承」(詩篇68:35)
力と勢いとは、神の権威の事です。肉的なものや武力によるものではなく、目に見えない力です。神はご自分の力(権威)を御民にお与えになります。
私たちは自分を強くしなくても、神の権威によって守られます。
この権威を継承するために必要なポイントが月〜金までの間に5つありました。
1.父がなされるように子も行う(全き従順)
2.父の愛を信じる
3.教えられた事を用いて自分で選択・決断していく
(失敗を恐れない)
4.ゆだねる(忠実さを失わない)
5.最後まで父を敬いついていく
イエス様は死に至るまで忠実に父についていかれたので、すべての権威を委ねられたのです。
私たちも、この人生の中で、神の子として神の力を使っていくことのできるために、5つのポイントを守っていけば、もっと早く自分の人生を進めていくことができるでしょう。
共にあきらめずに、「孟母断機」という言葉に含まれている意味をしっかりとらえて、イエス様に従ってまいりましょう。
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