■2004年8月29日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   巣林一枝   up 2004.8.29

小さな住まいに満足して住むこと。 

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」

(ヨハネ5:17)

 


小さな住まいに満足して住むことを言います。
「林の中にある巣は、一本の枝があれば十分できる」という意味です。
余計な欲を起こさないよう、貪欲を戒めることばです。
私たちは、神が与えてくださったものに満足するべきです。
神が与えてくださったものを感謝して、十分に活かしていく時、神はそれを増し加えてくださいます。
必要以上のものは与えられません。
富をたくさんあたえられている人は、それをどのように用いたかによって、神の前に裁かれます。(不平、不満ばかりだと報われません)
多くても少なくても、神が与えてくださったものに満足する心を持つということを今週の目標とし、(ヨハネ5:17)から考えてみましょう。
(ヨハネ5:17)
38年間病で伏せっていた男性がいやされたのは、労働してはならないと言われていた安息日でした。
(当時、ユダヤでは、律法学者たちによって、極端に厳しいたくさんの細かい規定が作られていました)
ユダヤ人たちは、この男性がいやされたにも関わらず、安息日のゆえに床を取り上げてはならないと命じたのです。
しかし神様が語られた「安息日を守りなさい」というのは、安息日は霊を養う日なので、肉を養う労働に費やしてはならないという意味です。
私たちは普段、自分たちの肉を養うことにいつも心を向けがちで、肉体の誇りや名誉、プライドのために働いていることが多いので、一週間に一日は神様に心を向けるように、みことばを聞いて、心をそこに集中させるように、ということです。
イエス様はユダヤ人たちに、形だけで規則を守ることに集中している愚かさを示し、むしろその教えの中にある神の御心を知り、心を神に向けて、その真意に従うことの大切さを語られました。
イエス様が言われた、「神は今も働いておられる」というおことばを通して、巣林一枝の意味を考えてみましょう。

●8/30(月)「羊飼いの働き」(詩篇23:1)
神は今日にいたるまで「羊飼い」として働いておられます。安息日でも羊飼いは羊の世話をやき、養い続けているように、神も私たちを養ってくださり、休みなどはありません。
自分のクリスチャン生活がうまくいかないと、否定的になり、愚痴不平で一杯になっていませんか?
しかしいくら不信仰で否定的になっていたからといって、羊飼いがその羊を見放すことは決してありません。
むしろ具合の悪い羊ほどよく面倒をみます。
イエス様は良い牧者として接してくださっていることを考えてみましょう。
自分のクリスチャン生活を見て、クリスチャンとして何もできていない、ダメだと自己評価していませんか。
群れから離れがちになっている羊。もしあなたが良い羊飼いであったら、そのような群れから離れそうになっている羊を見て放っておきますか?
むしろ、その羊のところへ行き、どこが具合が悪いか調べて面倒を見るはずです。
イエス様はそのように、あなたが否定的になり、孤独で苦しんでいる時こそ一番近くにおられます。
今のこの悪がはびこり、狂気が満ちている世の中を、なぜ神は裁かず、まだ週末にしてしまわれないのか、という理由も同じです。この病んでいる世界を、神は良き羊飼いとして見捨てず、なおも休むことなく養っておられるからです。

●8/31(火)「緑の牧場に伏させ」(詩篇23:2)
緑の牧場とはどういう所でしょうか。そこは健康管理が行き届き、安心して住める場所です。
健康は大切です。神は私たちの魂の健康をいつも考えてくださいます。
良い羊飼いとしてどのように羊の健康管理をするでしょうか。自分なりに考えてみてください。
神は最後の審判の時までは決して怒らず、あきらめない方です。羊が病んでいるからといって見捨てられることはありません。

●9/1(水)「いこいの水のほとりに伴う」(詩篇23:2)
「水のあるところに導かれる」とはどういうことでしょう。もし水道がなかったら、水を求めてどこへ行くでしょうか。
湧き水、山水など飲んでもいいとわかる所へ行くしかありません。水は本当に大切です。水がないと生きることはできません。「伴う」とは同じ場所にいつもいるわけではなく、本当にいいものを求めてそこに導かれるということです。
良い水は渇きを完全にいやします。(ジュース等ではいやされません)水は命をつなぎます。水の善し悪しが健康に大変影響を与えます。深い地から得た純粋な水は細胞に力を与えます。(しかし水道水のようにカルキ等が入った水はあまり良くありません)
あなたにとって魂の水とは何でしょうか。
イエス様は、大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)
これは聖霊様のことを指しています。生命のもとである聖霊様とのふれ合いがなければ、みことばも生きてきません。(水分がないと料理できません。水がないと食物も活かされません)聖霊様がおられないと、みことばも空しく響きます。
私たちを生かす純粋な水は聖霊様です。建物の立派さや、メッセージのうまさ等、この世の価値観で見てはわかりません。本当にすばらしい教会は、聖霊様のおられる教会です。聖霊様以外に、あなたの心を本当に満たせる方はおられません。
純粋な生命の水である聖霊様によって養われるすばらしさを体験していきましょう。他のものに求めても満たされません。

●9/2(木)「たましいを生き返らせる」(詩篇23:3)
生き返るためには死なないとなりません。死ぬとは悔い改めることです。古きを捨て、新しきを受けることが悔い改めです。
神は私たちを復活させるために悔い改めへと導いてくださいます。(テモテ2:25)を読んで、黙想してみましょう。

●9/3(金)「義の道に導く」(詩篇23:3)
(マタイ21:32)から「義の道」とは何かを考えてみましょう。
「義」とは何かの基準にのっとっています。極道には極道の義があり、泥棒には泥棒の義があります。
この「義」は何をもとにした「義」なのでしょうか。
いくら世の中の人、他宗教の人と「義」について話し合っても、基にしているものが違うので、どんなに時間をかけて話し合っても平行線で終わってしまいます。ただ言えることは、他のどんな宗教にもない救い、「十字架の購いによる赦し」です。罪が裁かれずにゆるされるということはありません。罪の責任を負わないと生りません。命を買い戻すために、修行やお金で買い戻すことはできません。
私たちの罪を負って、自ら十字架で罰を受けられ、購いによる赦しを与えてくださった神は、イエス・キリスト以外にはおられません。この方が導かれる「義の道」とは何かを考えてみてください。

●9/4(土)「訓練」(詩篇23:4)
なぜ良き羊飼いが共にいるのに、死の陰の谷を歩むことがあるのでしょうか。なぜ、むちと杖が慰めなのでしょうか。むちと杖は、箴言では子供を愚かさから切り離すための道具として出てきます。それは訓練のためです。
いろいろな矛盾、苦しさの中で、どうしてこんなことが自分にと思う時、主の訓練と捉えましょう。
オリンピックでメダルをとった浜口選手のお父さんは、オリンピックという目標のために、彼女を厳しく訓練し続けました。
たたかれたり、けられたりして、何がオリンピックか、もうやめたいと思えるような矛盾を感じるような仕打ちの中で、彼女は決して弱気にならないという根性を身につける訓練を受けたのです。
私たちのクリスチャン生活で弱気になりそうな時、私たちは決してあきらめてはなりません。なぜならイエス様はご自分のいのちに代えて、あなたに新しいいのちを与えられたのです。忍耐を働かせましょう。罪から離れるために、怒りや不信仰、自己卑下等の罪に負けず、正しい良心に生きられるようになるため、このしばらくの苦しみの時を、訓練として耐え忍びましょう。
私たちの目標は永遠のいのちです。
神はあなたを永遠のいのちを受け継ぐ者とされるために訓練されています。
浜口選手は、自分の取った銅メダルは、金よりも銀よりも尊いと語りました。彼女は、負けたことをバネとして、次の北京オリンピックを目指してがんばろうと決意しています。
私たちもクリスチャン生活で、本当に辛くくじけそうになっても、むしろそれを宝として、より強くなる力をそこで受け取って、永遠のいのちのゴールを目指しましょう。

 

 

 


 
■2004年8月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   格物致知   up 2004.8.22

ものの道理をきわめ、学問や知識を深めること。 

その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」

(ヨハネ5:14)

 

「格物致知」儒学で用いられる言葉です。
儒教…孔子を祖とする中国の伝統的な道徳の教え
私たちクリスチャンは、何を見極める信仰生活でしょうか。
ヨハネ5:14 38年間病に臥せっていた男性が、イエス様によっていやされた話です。ユダヤ教においての安息日は、いかなる仕事もしてはならない、食事も作ってはならないという生活上の戒めがありました。そぢて床を取り上げることも仕事であると、ベテスダの池から行こうとしたところを祭司に止められたわけです。
パリサイ人たちは見極めるものを間違っているのです。イエス様はそれを言いたいために、あえて安息日に人をいやし、救いに導かれました。
イエス様のおことばの中に、格物致知。私たちが見極めるべきものが語られていることを、今週も学んでいきましょう。

●8/23(月)「見なさい」(詩篇103:2)
「見なさい」 今よくなったことを見なさい。それは神の恵みです。あなたはイエス様を信じて救われたにも関わらず、まだ不足を言っていないでしょうか。まず、私たちが一番初めに目を向ける点は「神の恵み」です。どれだけ毎日の生活の中で、神の恵みが注がれているのか。そして最も人類に現された神の恵みは、罪の赦しです。
私たちがその恵みに目を留め、見極めていくとき、まわりの一切の不信仰は気にならなくなるはずです。
世の中のものに目を向けることもかまいません。しかし私たちは毎日、神の恵みに心を向けていきましょう。

●8/24(火)「あなたはよくなった」(ヨブ7:17)
今は福祉が発達して、貧しい人や障害者が保護される良い時代です。生活保護という制度は、どんなひとにも人権があり、生活を保護する責任を政府が持っています。何者なのでというのではなく、日本国籍を持っている者として受けるべき最低の権利です。
人とはいったい何者なのか…。神の御子の犠牲を払ってまでも、私たち人類はそんなに尊い存在なのでしょうか。
私たちは救われたがゆえに、色々な欲望が出てきて、良くなったことを見ずに、まだ足りないものや思い通りにならないことに目を向けてしまって感謝することを忘れてしまっていることがあります。
主は言われますよ。「見なさい。あなたは罪赦された。これ以上、何が足らないと文句を言い、何を求めるのか。」と。
この地上が人生の終局ではありません。罪を赦されていたら、永遠の御国に行けるのです。それだけで充分ではありませんか。
ですから、神の恵みである罪の赦しを見極めてください。
それは神の愛を悟ることであり、神のみこころを悟ることです。
すなわち、神御自身を知ることは、永遠のいのちを得ることだとヨハネは言っています。

●8/25(水)「もう罪を犯してはなりません」(第2コリント6:1〜2)
この地上の60数億の人々の中から、あなたは恵みによってイエス様とお出会いし、罪の赦しと、神様の愛が注がれるという恵みの人生の中に入れられたわけです。あなたは選ばれたのです。
新品の高級車をただでいただいたら、無駄にしようという意識は毛頭ないわけです。ただでいただいたものがいかに価値あるものかわかれば、大切にします。
「もう罪を犯してはなりません」という言葉の中には、「あなたは罪赦されて新品の状態になったのだから、今までと同じように無駄なことをしてはいけない」という意味があります。もう、過去を切り離して、一から出発し、あなたの命を大切に使いましょう。
「あなたがたは高価で尊い」と価値づけられた私たちです。
もう罪を犯さないという決心、決意が必要です。

●8/26(木)「もう罪を犯してはなりません」(第1ペテロ4:3)
气yテロ4:3「…もう十分です」…罪を犯したくないという気持ちを失ってはいけない。
「もう罪を犯してはなりません」という言葉の中には、もうこれ以上自分をみじめに汚してはいけません、もう十分です、という意味も含まれています。
人と比べて多い、少ないということではありません。あなたは今イエス様に出会い、恵みの中で永遠のいのちのおことばを聞いて、神の子として前進する時を与えられました。だとしたら、もうこれ以上罪を犯してあなたのいのちを汚してはいけません。もう十分です。神はあなたがこれ以上罪を犯さないようにと、あなたをその年齢で救いに導かれたのだから、もう十分です、という意味です。今救われていることの大切さを忘れないようにしましょう。

●8/27(金)「もっと悪いことが起こる」(箴言22:15)
私たちが一度罪を赦され、そしてまた安易な気持ちで元の罪の生活に戻ってしまうと、以前より悪くなってしまいます。これは法則のようです。
事実「もっと悪いことが起こる」ということは間違いのないことです。
箴言22:15
忠告や戒めを真剣に受け止めないと、私たちは実際の生活の中で罪から離れることは難しくなります。強い決心、決意というのは、やはり懲らしめというのがその役割を果たします。
そして正確に人が罪を犯さないように懲らしめることができるのは神様だけです。
それは、私たちを100%罪から離れさせるためのものです。また、懲らしめは、非常に近い関係でなければできません。親子、親友。懲らしめられる人は幸いです。神があなたを子として扱って下さっているからです。
「懲らしめの杖」つらい、痛い、苦しいものです。しかしあなたは、懲らしめが来た道理を見極めなければなりません。

●8/28(土)「もっと悪いことが起こる」(ヘブル12:7)
罪から離れるために、だんだん懲らしめが強くなるのはどうしてでしょうか。それは見極めないからです。だから、長い間苦しんでもまた罪を犯してさらに悪くなってしまいます。
みなさん、懲らしめが小さいうちに、自分の愚かさによる失敗を通してもたらされる、クリスチャンとしての恥、苦しさを見極めましょう。
一度で悟れなかったら、もう一度、きびしい懲らしめをもたらされます。それは神があなたの父だからです。
わが子としてさらに聖められるために、懲らしめられます。中には懲らしめられない人がいます。それは心がいやされていない人、神様を父として見られない人です。その場合はやはりいやしから始まります。どちらが幸いでしょう。私たちはかしこく物事を見極めることが必要です。

 

 


 
■2004年8月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   新進気鋭   up 2004.8.15

新しくその分野に現れ、勢いが盛んな様子、または、そのような人。 

そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、「「それというのも全人類が罪を犯したからです。 

(ローマ12:11〜12)

 

ある分野で、新しく出現した、勢いある存在を新進気鋭と呼びます。
私たちクリスチャンは、洗礼を通して、キリストにある、勢いある、意気盛んな新しい人生を歩んでいるのです。(まわりの人と同じようにしては意味がありません)
新しいものというのは、最初は少数派なのです。今までの古いいのちを用いては、何の良い実も結ぶことはできません。
私たちは神の新しいいのちをいただいたというその自覚を通して、神のみことばに合わせていき、良い人生の実を実らせていくのです。私たちは新しい種族、天国に国籍のある、勢い盛んな国民としてこの人生を歩んでいくために、ますますいのちを輝かせていきましょう。<ローマ12:11〜12>のおことばは、まさに燃えて輝いているクリスチャンの姿です。
これを目指して歩んでいきましょう。

●8/16(月)「霊に燃える1」(第1コリント14:1)
人が心を燃やすことができるのは、与える愛です。あなたの命を誰かの命のために役立てたいと思う時、私たちの霊は燃えます。神様からいただいた命を、私たちは自分のものとして心の押入にしまいこんでいては、宝の持ち腐れです。
イエス様からいただいた命は、受け身ではなく、だれかのために注ぐためのものです。

●8/17(火)「霊に燃え2」(ヨハネ15:13)
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
与える愛の中で、友のためにいのちを捨てるということほど大きな愛はありません。
いのちをささげても良いと思われるような友人がいるでしょうか。そういう友がいたら、あなたは何ものにも勝る宝を得ているのです。私たちクリスチャンは、この最高の友(イエス様)を持つことが最も理想的です。
私たちの罪の負債をいのちをもって償い贖うため、神の栄光を捨てて、人間の形をもってこの地上に来られたイエス・キリスト様は、友という正しい関係を位置から結び直すことができるようにと、救いを与えてくださったのです。
だからこそ、私たちもイエス様のために(友のために)いのちを捨てることができるのです。

●8/18(水)「望みをいだいて喜び」(第1ペテロ2:6)
望みを抱いて喜べる根拠はどこにあるのでしょうか。それは「決して失望させられることがない」という確かな約束がある時、望みを抱いて喜ぶことができるのです。
神は期待はずれのことを私たちにされないということです。だから、人生にどbんな状況が起こっても、望みを抱いて喜ぶことができるのです。
レーナ・マリアさんは、障害者の競泳で金メダルを3個か4個取り、片足で自炊をし、歌いながら両足でオルガンを弾いているのです。私たちだったら最初からひけないと思います。しかし、彼女はひけないではなくて、「やってみよう。」と。
その教えは、彼女は熱心はクリスチャンホームで育ったのです。障害を持っていることはマイナスであるという考え方ではなかったのです。親自身が、障害を持って生まれたことに、神のご計画があると信じて育てたのです。
神は私たちを決して失望させることがない。それを信じたら、どんな状況でも望みをもって喜ぶことができるのです。

●8/19(木)「望みを抱いて喜び2」(ガラテヤ6:9)
望みを抱いて喜ぶことのもう一つの理由は、種をまけば必ず実が生り、刈り取りの時がやって来るという時間の法則です。ですから望みを持つことができるのです。
神は時を定められているのです。
“生まれるのに時があり、死ぬのに時がある”のです(伝道者の書3:2)
クリスチャンも親切や善意を人々に注いでいます。善をする時、報われないと疲れることもあります。善を続けていく時、その人から報われなくても、神が報いてくださるのです。この地上で報われなくても、最後の審判の時には、それぞれの行いに応じて神は報いてくださるのです。
“善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。”(ガラテヤ6:9)

●8/20(金)「患難に耐え」(ヤコブ1:4)
患難→うれい、心配、苦しみ、悩み、わずらい。
クリスチャンはこの世の人々との関係の中で、認められなかったり、報われなかったりして、悲しみを多く持つことがあります。神の前に正しい良心を持って生きるということは、報われないことが多くあるのです。
@この世の中に妥協して生きるか
A自分の信仰を通すことによって、周りから非難を受けて、悲しみの中に沈んでしまうか
B悲しみ、うれいを受け止め、つぶされるのではなく、神の前に誓った誠実な気持ちを持って自分の信念を進めていく
忍耐を輝かせて生きるのはB番です。
忍耐はたましいを完全な者へと磨きます。忍耐が生まれて来るには、患難が必要です。
正しい良心は神の義を映し出す鏡です。

●8/21(土)「絶えず祈る」(第2テモテ1:3)
この世の人たちの輝きとの大きな違いは「祈り」です。
祈りは神に触れる時、接点を持つ時です。
神に祈るか、触れるかによって、その人の人格形成は影響されていきます。命を捨てて、自分の人生をかけることができるには、祈りが必要です。
私たちを失望させることのないイエス様を見上げて祈りましょう。
霊に燃え、望みを抱いて喜び、患難に耐えていくには祈りが必要です。
イエス・キリストに触れるために祈りましょう。
私たちは見るもの、触れるものに影響されるのです。最高の品格者である神に触れていきましょう。
イエス様に触れ続けるために、祈りとみことばを味わい、イエス・キリストさまの輝きを増していきましょう。

 

 

 


 
■2004年8月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   起死回生   up 2004.8.9

死にかけていたものを生き返らせること
だめなのを立ち直らせる
 

イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 

(ヨハネ5:6〜8)

 

イエス様は、ユダヤの祭りがある時に、エルサレムに来ておられました。エルサレムは神殿を中心に町が広がり、いろいろな門がありました。その中の“羊の門”と呼ばれる門の近くにベテスダという池がありました。この池には、静まった水面に、天使がかきまわした波ができる時、一番初めに池に入った人は必ずいやされるというユダヤの伝説があり、実際にいやされてもいたので、多くの病人たちが池の周りに集まっていました。
その中から、どうしてイエス様は38年もの間病気をわずらっていた男性に声をかけられたのでしょうか。それは絶望していたからです。どうにもならない状況の中にいる人にイエス様は声をかけてくださり、心を回復させてくださいます。「良くなりたいか」というイエス様のことばから、今週も学んでいきましょう。

●8/9(月)「良くなりたいか1」(ガラテヤ5:5)
信仰、神を信頼するとは、心の中に望みをいだき、神に期待することです。“良くなりたい(治りたい、回復したい)”という期待が持ててこそ、神の恵みを受け取る心の手がそこにできあがるのです。イエス様は、なえてしまった心の手を回復させるために、「良くなりたいか」と望みを持たせる励ましの声をかけてくださいました。
(1)7節では、この男性は自分の失望している気持ちを正直に告白していますが、そこにはイエス様に声をかけていただいたうれしさがあります。
!2)尊敬している人から声をかけられることは、失望が希望へと変わるきっかけとなり、そこには、心のなえた手がいやされるという状況が起こります。この回復のきっかけを、イエス様は私たちにも与えておられます。
祈り、デボーションの中で、あなたが失望し、落胆している時に、主は「良くなりたいか」と声をかけて励ましてくださいます。その声を祈りの中で聞いて、38年間病の中でいやされることを待ち望んでいた男性のように、「主は私を見捨てておられない」実感をつかんでいただきたいと思います。

●8/10(火)「良くなりたいか2」(詩篇49:8)
イエス様は、あきらめてほしくないというご自分の気持ちを私たちの心に注いで、良くなることをあきらめる否定的な感情をいやすためにも、声をかけられました。
詩篇49:8の“購いしろ”とは、自分の手元にあったものをもう一度取り戻すために支払う代価のことです。罪のためにサタンの手に渡ってしまったあなたの魂は高価で値段が付けられないので、自分では買い戻すことができない(永久にあきらめなくてはならない)ものでした。しかし、神の子であられるイエス様が、私たちの購いしろとなり、十字架で自分のいのちを捨てて、罪人のいのちを贖うための代価を支払ってくださいました。
あきらめてもいいもの、それは欲望です。しかし、自分の心を磨き、少しでもイエス様の姿に近づきたい気持ちは決してあきらめてはいけません。
イエス様はあなたが良くなるために、自分のいのちを捨てられました。神のみことばにチャレンジしていく姿勢を持ち続けましょう。

●8/11(水)「良くなりたいか3」(エペソ5:16)
「良くなりたいのか」とイエス様は、希望と励ましをもたらすチャンスを与えようとしておられます。
機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
良くなるチャンスがあるので、それを十分に用いなさいと。
38年間病気で伏せっていた彼は、絶望の中で過ごしてきました。
神が声をかけてくださって「赦し」と「恵み」と「救い」というチャンスを与えてくださったのです。
今、神があなたに声をかけてくださったら、「はい、わかりました」と手を差し伸べましょう。悔い改めることのできる赦しのチャンスがあるのです。
今日神の御声を聞いたら、荒野にいた時のように心を頑なにしてはいけない(自我・プライド・心を閉ざす・自己義)
神はあなたにも赦しと恵みと救いのチャンスを、祈りとみことばの中で与えてくださるのです。神との接点である祈りとみことばの中で、御声を聞いていきましょう。神は正しい良心に語りかけてくださいます。

●8/12(木)「起きなさい」(ヘブル5:13〜14)
木、金、土の「起きなさい」「床を取り上げなさい」「歩きなさい」はイエス様の死と葬りと復活を現しています(福音、良き知らせです)。
私たちは死んだようなむなしい生活から希望のある生活へと入って行くために、死と葬りと復活にあずかるのです。
新しい人生を始めるためには、古いものを処分しなければなりません。
「起きなさい」起きるとは、寝床でずっと寝ていた生活を捨てることです。
悪い状態の自分を切り離す、捨てる、悔い改めです。悔い改めは、不敬虔な心を十字架につけることです。
未来に向かって過去の今までの悪い習慣から立ち上がりなさいと励ましを与えてくださっています。
「乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです…」ヘブル5:13〜14
私たちの神への信仰は甘えではなく、自立するべき者が持つすばらしいものです。自立しているからこそ、信仰を正しく持つことができるのです。
病的依存(不健全な甘え)から、健全な依存(お互い良い関係)へと正しい良心を持って見分けましょう。

●8/13(金)「床を取り上げなさい」(ガラテヤ2:20)
床を取り上げるとは、今まで寝ていた床をかたづけて整理しなさいということです。過去に引き戻されることのないために床を取り上げることです。
それは人生の区切りをつけるということです。
キリストがお墓に葬られたように、あなたの罪深い不敬虔な人生はもう終わって、戻ることはできないのです。肉にある人生が終わったのです。墓はその人の人生の終止符のしるしです。イエス様は十字架で私たちの過去をすべて整理し処分してくださったのです。
私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20a)
キリストと共に過去とは違う人生を歩みたいものです。

●8/14(土)「歩きなさい」(ガラテヤ2:20)
歩きなさいとは、健康な状態に戻ったということです。
過去を清算して、未来に向かって人生を歩み始めることです。
クリスチャン生活は古い生活をそのまま続ける人生ではなく、過去が清算されたからこそ、新しい歩みを始めることができるのです。
イエス様は死んで三日目に葬られました。(新しいからだをもって)復活→新しい人生の出発だとパウロは語っています。
神の子として敬虔な人生を歩み始めるという、前向きな決心をすることが必要です。
私たちの歩みは、キリストを信じる信仰(信頼関係)によって生きているのです。自立した正しい相互関係における依存をもって、しっかりとしたクリスチャン生活を歩むために、みことばによって知恵が与えられ、聖霊様に励まされ、前進していきましょう。


 
■2004年8月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   温故知新   up 2004.8.1

古きをたずねて新しきを知る 

イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。また、だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」 

(ルカ5:36〜39)

 

『温故知新』とは、古いものをたずね悟ることにより、新しいものを知り、生かす知恵を得ることをいいます。
イエス様を批判するユダヤ人の指導者たちは、イエス様の語られることを理解し、受け入れることができませんでした。
なぜでしょうか?
それは古い皮袋にたとえられる指導者たちが、新しいぶどう酒にたとえられるイエス様の教えを、無理やり自分たちの古い教えの中に引き込み従わせようとしたからです。
モーセの教えは預言として語られたものですが、イエス様の教えはすでに成就した新しい教えとして語られているのですから、無理やり従わせようとするとどちらもダメになってしまいます。
今週はルカ5:36〜39にたとえられている「温故知新」の意味を6つのポイントに分けて学んでいきましょう。

●8/2(月)「すたれる」(第2コリント5:17)
新しいものが生まれれば、古いものは役に立たなくなってしまいます。
クリスチャンはイエス様を信じて、神を畏れ、神を中心とした新しい人生の歩みを始めた者なので、自分中心の古い人生は、過ぎ去ったものとして役に立たなくなっています。しかしいつまでも過去にとらわれ、心の中に憎しみ、悲しみ、復讐心などを残しているなら、せっかくの新しい人生に悪い影響を及ぼしてきます。
クリスチャンは毎日新しい恵みを神様からいただき、全てが新しくなっているのですから、人生を前向きに生きるために、過去に受けた心の傷から来る悪しき思いを十字架の赦しによって切り離し、常に新しい人生を歩んでいるということに意識をおいていただきたいと思います。

●8/3(火)「食わない」(エペソ4:22〜24)
人は年齢を重ねていくと、若い頃とは様子が変わり、着る洋服の色や型が変わってきます。ですから年輩の方が10代の頃と同じ装いをしていると違和感があり、似合わないのは当然です。
同じようにクリスチャンになった私たち(霊的に成人した者)が、この世の人たち(霊的に目覚めていない人々)と同じ生き方をしているとすれば、それはクリスチャンとしてふさわしい生き方とは言えません。
私たちはせっかく生まれ変わり、新しい人生を歩むという恵みをいただいているのですから、いつまでも古い考え方に固執しこだわった生き方をやめ、常にキリスト(=新しき人)を着るべきです。

●8/4(水)「だめにしてしまう」(箴言19:26)
最近は家庭が崩壊したという話をよく聞きます。原因は子供(新しいぶどう酒)を親が自分の価値観や考え方(古い皮袋)の中に無理やり押し込み、支配しようとするところにあるようです。
経済が成長する途上にあった親世代と、すっかり成長してしまった現在の子供世代では、親と子供の考え方・生き方に違いがあって当然です。
それなのに、親が力づくで子供を支配しようとすると、子供のもっている可能性をつみとってしまうことになり、ストレスが生じ、子供は親に反抗することになってしまいます。
子供世代から見ると、親世代はすでに古くなった皮袋なのですから、親は今の時代をよく見極めて、新しい世代と古い世代が理解しあって互いを生かすことのできる方法を、子供との関わりの中で考えていただく必要があると思います。

●8/5(木)「ふさわしい」(箴言22:6)
箴言22:6の「その行く道にふさわしく教育せよ」ということばは、「その行く道のはじめに教育せよ」と言い換えることもできます。いずれにしても、何事でも何かをするはじめにしっかり教育を受けておく事が大切で効率が良いということをあらわしています。
クリスチャンはイエス様を通し、新しい皮袋である永遠のいのちという望みを与えられた存在で、永遠というすばらしい世界で、神の子として生きるのです。
そのために、古くなり滅びすたれていくこの罪の世界に、私たちをとどめ、神の子としての教育を受けることが必要だと神は考えられました。
親が子供を育てる時も、古い皮袋によってしばるのではなく、古いものを用いて基礎教育をし、教えさとすことが必要です。
この世にあっては確かに多くの労苦があります。しかし永遠の世界において役に立つ者へと成長していくためには、それらの一つ一つが必要であり、必ず報われるのです。
私たちは豊かな聖霊の実(愛・喜び・平安・寛容・善意・親切・柔和・自制・誠実)を結ぶ者になるために、今訓練を受けているのです。
どうか苦労することをいやがらず、逃げないで立ち向かってください。

●8/6(金)「味わい深い」(箴言4:1)
箴言4:1で神は子供たち(=新しい立場の人)に父(=古い立場の人)の訓戒を聞く時に、悟りを得るような聞き方をしなさいと語られています。
そうすれば訓戒を聞くことが束縛とならず、圧迫も減少し、心に受ける傷も少なくなります。
古いものは本当は非常に味わい深いものなのですから、悟りを得る聞き方を心がけていれば、親の考え方・道徳心・常識を通し、今の時代に欠けているものはないか、見つけることができます。
そして、新しい世代の者としてのびのびと成長していくことができます。
古い人々は大切な人々です。「古いものは良い」と言われたイエス様のことばをしっかり悟り、人類の歴史を通して未来を見ること、それが新しい人たちの役割です。

●8/7(土)「新しいもの・古いもの」(箴言16:16)
新しいものと古いものが争うことによって、家庭が崩壊し、社会が混乱して、様々な問題が生まれてきます。
金は経済社会の価値基準を示すもので、知恵によって生かすことができ、社会で流通に用いられる銀は、悟りによって生かすことができます。
この知恵と悟りを得るコツは、古きをたずね、新しきを知ること、まさに『温故知新』です。
正しい良心を持って神の前に祈りながら、ルカ5:36〜39で語られたイエス様のたとえ話を深く味わってください
そして過去をふり返る時も、それにとらわれる事のないよう客観的に見つめて、これからのクリスチャン生活に生かしていただきたいと思います。

 


 
■2004年7月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   敬譲   up 2004.7.25

相手を敬い自分がへりくだること 

イエスは彼らに言われた。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には断食します。」 

(ルカ5:34〜35)

 


「敬譲」とは、相手を敬いへりくだることです。
神の前でへりくだることは、私たちの信仰にとって大切なことです。
ルカ5章で、イエス様を責める種の尽きたパリサイ人たちは、今度は断食をしていないという事で、イエス様
の弟子たちを責め始めました。彼らにとって断食することは、自分たちの信仰の熱心さを表明することであったからです。
しかし、イエス様は、断食をする、しないが重要なのではなく、むしろ、断食はする時と、しなくてもいい時があるということを語られました。
断食の意味を悟っていないパリサイ人たちに対し、断食とは人の前でするのではなく、神の前にするものであるということを教えられたのです。
断食の本来の意味は、神を敬い、神の前にへりくだるということです。
正しい断食の本来の意味は、神を敬い、神の前にへりくだるということです。
正しい断食は私たちに霊的な健康をもたらし、体にもいいものです。
今回は断食の意味について、6つのポイントから学んでいきます。

●7/26(月)「神に対するへりくだり」(エズラ8:21)
エズラ記は、イスラエルの民が、補囚の地バビロンから、エルサレムの神殿再建のために、エルサレムに帰還する時、記されました。ここで民は、無事にエルサレムの地へ戻れるよう、断食して神に願い求めています。それほど、大切な旅であったからです。
特別に神の前にへりくだって、断食して願い求める必要を感じるような時とは、あなたにとってどのような時でしょうか。
それは聞き入れられないと絶対に困るというような時ではないでしょうか。イスラエルの民にとって神殿再建のためには、道中誰ひとり失っても再建が困難になり、また神殿のための道具や、材料も何ひとつ失ってはならないという、緊迫した状況の旅でした。
それゆえ、断食して神の守りを切に願い求めたのです。断食する時、へりくだることは大変重要です。神の前にとるべきあなたの姿勢が問われるからです。神の前に自らを低くすることは断食する時に最も大切なことです。

●7/27(火)「方向転換の覚悟」(第1サムエル7:6)
イスラエルの民は、自分たちの神を礼拝しながら、他の偶像をも礼拝していました。神はそのような二心の者の祈りを聞かれず、民はミデヤン人やアマレク人たちになかなか勝利できず、苛められていました。そこでサムエルは、神の前に断食して、罪の悔い改めをするよう民に勧めました。
私たちが悔い改めても、なかなか悪い習慣から離れられない原因はどこにあるのでしょうか。
悔い改めは必ず実が結ばれるはずで、何らかの変化が出てくるはずです。しかし少しも変化がないというのは、決心が弱いという原因があげられます。
本心から悔い改めたいなら、その決心の表明として、断食をしてください。ことばだけの悔い改めではなく、本心から悔い改めたいという、その覚悟を表明し、決心の強さを高めるために、断食は大変有効です。
食事だけでなく、テレビや娯楽をいっさいせず、ただ神の前に祈り求めましょう。ただ食べないだけで、だらだら過ごしていては断食の意味がありません。)

●7/28(水)「大きな悲しみの証し」(第2サムエル1:12)
サウルはダビデの命をねらっていた的であったにも関わらず、なぜダビデは断食をしてまでサウルの死を嘆き悲しんだのでしょうか。それは個人的な感情ではなく、神の前に、神とダビデの関係から出た悲しみでした。神が選ばれた初代の油注がれた王であったサウルが、偶像礼拝者であるペリシテ人たちに敗れてしまったという悔しさです。サウルの罪のために、負けるはずのない神の民が負けてしまったという悔しさです。この悔しさ、無念さは神の御思いでもあります。
神はサウル王が罪の中に滅びるのではなく、悔い改めて、立ち返ることを願っておられました。
それゆえ、サウルが罪を犯した時もすぐに裁かれず、後任としてダビデを油注がれた後も、サウルが王として立つことをゆるされ続けたのです。
その神の無念さ、悲しさを、ダビデは心に感じて、断食して悲しみを表したのです。私たちも、人々が罪を犯し、苦境に陥った時、断食して悲しみ、とりなして祈ることは神の御心です。
あなたの大切な人が道を外して滅びないために断食して祈り求め、またもし罪の内に亡くなったとしても、その悲しみを断食で表明することは正しいことです。

●7/29(木)「強い懇願」(第2サムエル12:16)
ダビデは姦淫の罪を犯し、しかもその罪を隠すために殺人まで犯しました。その罪の結果生まれた子供を、神が取り去ろうとされた時、彼は心から悔い改め、自分の罪のために、今まさに失われようとしているひとりの命のために、心の張り裂けるような悲しみの中で、断食し、懇願しました。ダビデは自分の罪の結果を自分で負ってもいいから、子供を生かしてほしいと神に必死で祈り求めたのです。
神がダビデを信頼されるのは、彼が自分の罪から決して目をそむけず、あくまで責任をとろうとする、その真実な良心に従う姿勢のゆえです。
しかし神が子供の命を断たれた時、その御心に対して彼は従順に従い、断食をやめました。子供が生きている間は、神が御心を変えられる可能性を信じて、ダビデは断食して祈りましたが、死という結果が出た時は、きっぱりと断食をやめて、その御心を受け入れました。
神は人々の熱心な祈りによって、御心を変えられることもあります。(死を宣言されたヒゼキヤ王が、必死に祈っていやされたように)
このように断食は、正しい良心の強い願いの表明として神の前に行われることがあります。

●7/30(金)「命がけの決意」(エステル4:16)
当時は、例え王妃であっても、自分から王の元へ行き、声をかけることは許されていませんでした。
それゆえ、もし、王が機嫌をそこねたら、死をも免れなかったのです。
命がけの決意をもって王様の前に出るために、その覚悟が内側からにじみ出るまでに、エステルは断食し、祈りました。それは普段と違う輝きを王に印象づけることになり、それゆえ、王はエステルの話を.聞こうとしたのかもしれません.。
私たちも本心からの命がけの決意を断食して祈ることで、周りの人々に.感銘を与えることができます。
私たちのクリスチャン生活は命がけです。なぜなら、この世と妥協したら、永遠のいのちが無くなってしまうからです。.
私たちはこの世で妥協せず、証し人として生きるという務めがあります。このような危険な中に、神が私たちを置かれるのは、私たちを通して救われる人々がいるからです。この地上は、永遠のいのちをかけた戦いの場です。それを実感するためにも、聖霊さまに導かれたら断食して祈ってください。
自分の堕落したクリスチャン生活を建て直すため、心をひきしめるために断食する必要がある時もあります。
共産圏やイスラム圏のクリスチャンたちは毎日が命がけであることを覚えましょう。それゆえ真剣で光り輝いているのです。私たちの中から甘えを取り去りましょう。いのちの書から名前を消されたらどうしますか?真剣さが必要です。

●7/31(土)「聖なる務めにたずさわる」(使徒13:2〜3)
すべてのクリスチャンは聖なる務めが与えられています。私たちの心をこの世と区別して、聖なる所として守っておく必要があります。この聖なる人生のために、断食して、聖別を保つことが必要です。
また、教会にはいろいろな奉仕があります。例えばトイレ掃除ひとつでも、その奉仕のために断食して祈ってもおかしくはありません。大切なのは、奉仕の種類ではなく、自分のしている奉仕がキリストの体である聖なる務めのひとつであるという自覚です。
そのような気持ちでいたら、あなたの心は聖所です。
聖なる所で生きるなら、すべての業は聖なるものとされます。自分を聖別し、どんな小さなことも神の聖なる務めであるという覚悟と自覚が、自分を聖なる人生へと導きます。
そのように生きる時、神の臨在が心にあふれ、あなたを通して、周りの人々も祝福されます。そして、そういう兄弟姉妹が集う時、もっと深い聖なる神のご臨在が表されます。
聖別のために断食しましょう。(長さは各々が聖霊さまによって示されたようにしましょう。)
 

 


 
■2004年7月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   聖会特別メッセージ   up 2004.7.21
   
「必要な一つを選ぶ」

 

私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。(ヘブル13:18) 

 
 



●第一聖会
自分は何を必要としているのか
ルカ10:38〜42マルタとマリヤの話から
:42「〜しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
Aマルタとマリヤの必要の違い
(1)マルタ…イエス様への接待→マルタの良心的判断→ユダヤ社会の一般道徳
(2)マリヤ…みことばを聞く→救い主を必要としていた→一般道徳からの良心の責め、とがめを持っていた
マリヤの選択
マリヤの内にあった二つの「良心」
(1)ユダヤの一般道徳による良心
(2)マリヤの個人的な神に対する良心
地上で生きていくために必要なものです
マリヤはその良いほう(2番)を選んだのです。
正しい良心を持っていることを確信しているのですとパウロも言っています。
第1テモテ1:19「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。」

●第二、第三聖会
使徒24:16
「良心とは何か」
A歴史的背景
1)ストア派
「良心とは我々のうちにある審判の場、神の声」
良心とは一種の声、神になぞらえられる警告の声。その声は人間に警告を与え、態度を決定するよう呼びかけ、価値評価し、態度を決定する。
良心の三分法(1)共にする知、共同意識(2)人格的色合いを持った情動(3)決断
律法と同じ役割=宗教の教え
その宗教独自の教理(哲学)
民を統一
教理に基づく教え(倫理)
2)カント
「人間内部の内的な法廷の意識が良心である。その法廷を前にして人間の様々な思想が互いに提訴しあったり弁明しあう。それは自己自身をさばく道徳的な判断力である。」
3)ゲーテ
「内面に目を向けるがよい。おまえはそのただ中に中心を見つけよう。気高い人なら何も疑いはしない。おまえは規則の存在に気づくだろう。自立した良心は、おまえの道徳の昼を照らす太陽だから。」
4)ユング
「良心とは、神のご意志に関係した命法、つまり崇高で圧倒する命法である。」
5)ニーチェ
「良心は内面への攻撃であり、人間にそなわる攻撃性である。」
6)フロイト
「良心とは、検閲、監視する超自然自我というかたちをとる人格へ、社会の要求や期待を投入しさえすれば成立するような何かにすぎない。」
7)キリスト教
・アウグスティヌス
「神こそが、内密を私の霊と<共に知る者>であり、神が良心の中で私の霊に語られる。」
・ルター
「…私は教皇や公会議のおっしゃることだけでは信用できないからです。そのとき私を拘束するのは、自分の良心であり神の言葉であります。なぜなら良心に逆らって行為するなら、それは危険であり、神より与えられる至福を脅かすことになるからです。」
ルターによる「良心を教えるための三種類の良い生活についての教え」
(1)外面的環境−外庭→定められた形式、儀式
(2)内面的規範−至聖所→神の声に聞く、神との交わり
(3)聖所→倫理的な良心の声
    誠実、理性、慈愛、親切、鍛錬、しつけ

「パウロが神から啓示を受けた良心に対するとらえ方」
1)第1テモテ1:18「正しい」良心
「預言によって正しい良心を保つ」とあるように、「正しい」良心とは、神のことばへの畏敬と忠実さを持った良心といえる。神を意識するとき、そこに正しい良心が現れるのではないだろうか。
2)第1テモテ1:5「心」と「良心」とは別である
心=知・情・意とは別の位置づけ、内面の法廷として客観視。
3)ローマ9:1正しい良心は聖霊によって証しされる
良心の考えの正しさは聖霊と同じ考えによって証明される。すなわち、正しい良心の裏付けは、聖霊による、聖霊が内住またはともにおられることが証拠
ギリシャ語…共に知る=良心
4)第1コリント8:4〜12肉の思いと良心
肉の思いが強く、良心が弱いと、弱い良心が汚されてしまう。=妥協的良心
肉の欲望のままに良心が従ってしまう。
5)ローマ13:5霊と心とからだと良心
第1コリント14:14,15
異言で祈るとき霊を意識できる
徳が高められる
すぐれた良心
◎「正しい良心」=私の霊と神の霊が共にいるところ=場所、器
更に一歩踏み込んだ、「正しい良心」についての捉え方(辻流)
ヨハネ7:17、18<結論>正しい良心は、創造の目的に添った正しい自分、本来の自分である
・神と共に生きることが人間の健全な姿
創世記2:7人は人格的な生き物となった(霊が含まれている)
第2コリント3:18〜鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。
姿が変えられる→霊の姿
鏡のように反映させながら→共にいるものを映し出す
聞く言葉も反映する
インマヌエル…神共にいます
ダビデの幕屋の回復…神の霊と人の霊が共にいる

ローマ13:5良心のためにも=自分を偽らないためにも
神と共にいる自分が本来の自分

●第四聖会
ヘブル9:14
「良心のきよめ」
「きよめ」とは汚れを取り除き、影響のない元の状態に戻すことである。

A)きよくない良心
1)麻痺した良心第1テモテ4:2
麻痺=こげる、やけどの状態、無感覚、<罪の>焼き印が押された、善も悪も見分けることができない
2)不信仰によって汚された良心(テトス1:15)
汚れ=泥によってよごれ、価値をなくすように道徳的に堕落させること
3)邪悪な良心(ヘブル10:22)
邪悪=いらいらした、悩まされた、良くない状態。病んでいる。盲目の状態。
4)汚されやすい弱い良心(第1コリント8:7)
弱い=決断力のない、意志が弱い、低能である
「きよめられる」とは、以上のような状態から悪い影響を与えるものを取り除かれることである
B)良心をきよめるイエス様の血潮(ヘブル9:14,10:22)
1)心に血の注ぎを受ける→マルコ1:15
  悔い改めて(感情)、福音を(知性)、信じる(意志)

 良心がきよめられる
 心=知性(ローマ1:21)感情(ローマ9:2)意志(ダニエル1:8)
 知・情・意を通り抜けて良心へ
 血=購いの御業(エペソ1:7、ヘブル9:12)
 注ぎを受ける=福音を聞く(ローマ10:17)
2)きよめを受けた結果
 a)死んだ行いから離れる
 b)神に仕える
3)きよめは聖霊の働きによる(ローマ15:16)
 福音を聞いても、聖霊様が心に働きかけなければ実を結ばない
 みことばを正しい良心によって聞く
 私たちのきよめは、神の愛による。愛によって血の注ぎかけがある。

●第五聖会「生活の中の正しい良心」
1)忍耐と正しい良心(第1ペテロ2:19)
 悲しみ(痛み)をこらえ=忍耐する
 神の前における良心のゆえに
 第2テモテ3:12敬虔に生きると思う者は迫害を受ける
 ヨハネ16:33世にあっては患難がある
2)敬虔と正しい良心(第1テモテ4:7、8)
 敬虔のために鍛錬する
 正しい良心の現れ
 強くするため
 使徒10:1、2敬虔な人は神を畏れかしこみ
        多くの施しをなし、いつも神に祈る
 第1テモテ6:6満ち足りる心を伴う敬虔
3)礼拝者と正しい良心(ローマ12:1〜3)
 からだを生きた聖なる供え物としてささげる→霊的礼拝
 生活全般 敬虔さと正しい良心をもって
 ・心の一新によって自分を変えなさい→正しい良心に立ち返る→洗礼の誓い
 ・つつしみ深い考え方をする→分をわきまえる、正しい境界線を引く
4)正しい良心によるコミュニケーション(第1ペテロ3:16)
 ・正しい良心をもって弁明する=正しく理解してもらうため
 ヨハネ8:1〜12「罪のない者が最初に石を投げなさい。年長者から始めて〜」
 第2コリ4:2私自身のことを良心に推薦しています
 第2コリ5:11良心に明らかになるように説得する
5)良心の問題としなくても良いこと(第1コリント10:25〜27)
6)他者の良心への良心的配慮
 (第1コリント10:28〜29、8:7〜12、ローマ14:13〜23)
 ・良心は自分自身を裁くもの、他者を裁くものではない
 ・相手の良心を守るために配慮する

●第六聖会
「健勝」優れた健康、価値ある健康
第1テモテ1:18,19
勇敢に戦い抜く→信仰生活を全うする
(クリスチャン人生)
戦うために必要なもの=信仰と正しい良心
正しい良心とは?(復習)
・心で選択すべきもの(意志をもって)
・創造の目的にそった正しい姿=神と共に生きること
神と共に生きる=夫婦(男と女)
神=アダム一人に対して「男と女とに造った」
「人が一人でいるのはよくない」とアダムのあばら骨を取って女を造られた。
「人は父母を離れて一体となるべきである」
アダム(神)
女(人類)
神と人とは一つになるべき=正しい姿=健勝
◎健勝を保つことが神の子としての品性を保つことのカギとして正しい良心を維持する
正しい良心を保つポイント
1)誰と共に住むか
 ヤコブ4:5御霊を住まわせた
 コロサイ3:16キリストの言葉を住まわせる。
 生きた人格者として扱う
 エペソ。みことばは御霊の剣である=みことばと御霊は一つである
2)正しい良心を捨てさせるもの
 第1テモテ4:1知性を重んじる
 第1テモテ6:10金銭を愛する
 エペソ2:3肉と心の望むままを行う
 正しい良心に関係したみことばの表現
 ローマ13:14「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」
 良心にキリストを着る=神と共にいることを意識する
 ガラテヤ5:16「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲を満足させるようなことはありません。」
 御霊に相談し頼る=正しい良心を持つこと
 コロサイ2:11「〜肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです」
 割礼=神と共に歩む契約のしるし
 (神の民という)
 心の割礼=洗礼
 肉による判断ではなく神による正しい良心の判断をする。

◎必要なものは一つ=正しい良心
私たちが正しい良心を持つことができるように、イエス様は十字架で罪によって閉ざされた良心を解放し、いやしてくださった。そして神が共に住んでくださるようにきよめてくださった。

 

 

 

 


 
■2004年7月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   剛健   up 2004.7.11

たくましくすこやかなこと。強くしっかりしていること。


そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」
(ルカ5:31〜32)


「剛健」とは、たくましくすこやかなこと。強くしっかりしているという意味であり、最近では「ダイナミックヘルス」と呼ばれ、病原菌が入ってきても、それに負けない強さを表します。
私たちの周りには様々な病原菌があふれていますが、その菌に負けない体の強さ、健康があれば恐れることはありません。
そして体だけでなく、私たちの魂もそのような剛健なものであるなら、どんなにすばらしいことでしょうか。
イエス様は罪人を病人に例え、義人を健康な人と例え、ご自身を医者に例えられました。
医者は病人を避けるでしょうか。病気だからと避けて通るでしょうか。むしろ逆です。
私たちの周りには多くの罪の誘惑があります。しかし罪の誘惑を受けても、決して罪の影響を受けない剛健な魂となるよう、イエス様は魂の医者としてこの地上に来てくださいました。
今週は私たちの魂が剛健なものとなるように、6つのポイントから学んでいきます。

●7/12(月)「義人と健康」(詩篇33:1)
健康な人はじっとしていることを嫌い、いつも何かに対して意欲的に取り組みます。
お年寄りでも、もう何もできないとあきらめている人と、まだまだしたいことがたくさんあると張り切っている人とでは、同じ年齢でも全く違います。
健康な人の特徴は「前向き」であることです。
健康な魂の人は前向きであり、チャレンジ精神に富んでいます。苦しみを嘆き、早く天国に行きたいと暗く沈んでいては、それは魂の健康さとはほど遠いでしょう。
マラソンの途中で、もう走るのは嫌だとぐちりながら走っている人はいるでしょうか?
むしろゴールを目指して歯をくいしばって走り続けます。私たちの人生も同様です。もう疲れた、生きる意欲もないというのは不健康な魂です。
そのような魂に必要な医者はイエス様です。
イエス様が良い治療をしてくださいます。
また、健康になったら、その健康管理のためにもイエス様は必要です。
私たちが罪という病気を持っていたら、正義、きよさ、義に対して、前向きに考えることはできません。
むしろ、この世の快楽や欲望に惹かれていきます。
もしも心が疲れていたり、意欲が持てない状態であるなら、早くイエス様のもとに行って、いやしていただく必要があります。
ただ、医者があなたはもう健康ですと宣言しているのん、まだ何か重い病気であるかのように思いこんでいる人がいます。これはクリスチャンを指しています。
イエス様は、あなたの病(罪)はいやされました(赦されました)、健康です(義人です)と全てのクリスチャンに宣言してくださっているのです。それにもかかわらず、まだ病気にしがみついて、いやされていない、罪が赦されていないかのようにふるまっているクリスチャンがいます。そして、悩み、否定的になっています。そういう人はどんな病院に行っても直りません。何が問題かは火曜日のポイントに示されています。

●7/13(火)「罪人と病人」(申命記28:58〜59)
旧約では、神の教えを守らないと災いがくると言っています。罪を犯すと、長く続く悪性の病気がやってくるのです。罪と病気とは関係しています。しかし、病気は神様からくるというわけではありません。ただ、私たちがまだ完全な健康体でないのに、主の教えという、霊的な衛生管理のしっかりした生活の中から出てしまうと、病原菌一杯の不衛生な中に入ることになり、すぐに病気にかかってしまうことを示しています。
みことばの中にとどまらないクリスチャンは、欲望に引き込まれ、すぐに罪を犯してしまいます。
みことばは、魂を衛生的に保つ力があります。
みことばから離れるなら、すぐに罪の誘惑といいう病原菌が入ってきて、あなたの魂を病気にしてしまうのです。そして善と悪の区別ができなくなり、良心がマヒしてきます。正しい良心を失わないよう、しっかりとみことばによって、魂を衛生的に保っていきましょう。
また、みことばをおろそかにするのは、神を敬わないからです。聖書の土台は、神を敬い畏れることです。(ヨハネ伝13:34〜35)のみことば、「互いに愛し合いなさい」は、健康であるための、新約の神のご命令です。

●7/14(水)「イエス様と医者」(エレミヤ書8:22)
医者は人の命に関わる働きをします。イエス様は永遠のいのちに関わる働きをしてくださっています。
そして、この永遠のいのちに至るよう、イエス様はわたしたちを導いてくださっています。(エレミヤ書8:22)はイスラエルには魂の医者である神がおられるのに、なぜこの方のもとにいやしを求めて来ないのかと嘆いたことばです。
体の病気のために病院へ行くように、魂の病気のためにイエス様のもとに行かなかったら、病はいやされません。永遠のいのちの重要性を、世の中の人々はほとんど気に留めません。しかし、この肉体の命より、死後のいのちの方がはるかに長いのです。永遠のいのちがあることを証明されるために、イエス様は地上に来られ、ご自身のよみがえりをもって証しされました。
永遠のいのちのために罪を赦し、魂の病気をいやすことができるのは、私たちの罪の処罰を受けて十字架にかかってくださったイエス様のみです。
どんな有名な宗教家も、偉人も、誰一人私たちの罪の身代わりを果たした人はいません。
イエス・キリストただお一人です。
それゆえ、イエス様は、罪をいやすことがおできになるただお一人の医者です。

●7/15(木)「治療法は悔い改め 1」(使徒行伝26:20)
罪がいやされるためには、悔い改めて神に立ち返ることしかありません。それは人間の起源に関係があります。人間の起源には2つの説があります。すなわち進化論と創造論です。
進化論には「目的」はひとつもありません。すべて偶然に生まれ、偶然進化してきたからです。海にいた生物が「陸に上がりたい」と願い、足ができ、そらを飛びたいと願って羽ができたという理論です。
このおかしな理論をありそうだと思わせるトリックは、何千年、何万年という時間があればあり得るという考え方です。しかしひとつの物質アミノ酸がそのような意志を果たして持つでしょうか。
すべての物質は意志をもった存在者が造らなければ存在しないという考え方の方がよほど科学的です。万物を造られた、意志を持った存在者がおられたので、すべては何らかの目的を持って造られ、存在しているというのが創造論です。
人は神によって造られたかそうでないかによって、人生の考え方は全く異なってきます。
聖書で言う罪は「的外れ」であり、目的に沿わない状態で歩んでいることを言います。罪という病気の状態は、的から外れた進路を歩んでいる状態を言います。
悔い改めとは、その進路を変えることです。的を外れて、が正常な方向に歩むためには、方向転換をしないといけません。この方向転換が「悔い改め」なのです。不健康な生活を続けている人は、その不健康な生活をやめ、悔い改めて、健康的な生活を始めないと健康になりません。

●7/16(金)「治療法は悔い改め 2」(ローマ書2:4)
十字架はどうして人々を悔い改めに導くのでしょうか。例えば増水した川に落ちて、死にそうな状態から助けられた人は、もう二度と増水した川に近づくまいと決心します。なぜでしょうか。それは命の危険な状態から、安全な状態に移されたので、助けてくれた人に対して心から恩を感じ、もう二度と迷惑はかけまいと自然に悔い改め、決心できるからです。悔い改めは他人から強制されてもできません。みずからが、その状態の危険さに気づき、何とか助かりたいと願わなければ悔い改めることはできません。その危険な状態で何とかして助かりたいと願っていて、助け手が表れたら、その人は心から悔い改められます。
しかし、いくら借金し、いくら助けてもらっても、借金をやめられない人がいます。それは、その人に罪の意識がないからです。
神の慈愛は、罪意識をはっきりと持ち、何とか助けて欲しいという心の砕かれた状態になって初めて、その人を悔い改めに導きます。イエス様の十字架を理屈でわかっていても、悔い改めにいたらない人々が多いのはなぜでしょうか。あまり自分を罪深いと思っておらず、罪の恐ろしさがわからないからです。永遠の処罰の苦しみ、恐ろしさを知らないからです。それゆえ、神の慈愛の深さに気づかないのです。
また、周りの人々があまりに責めすぎると、それはその人の心をかたくなにし、かえって、悔い改めることができなくなります。赦しがあってこそ、悔い改める心が湧いてきます。それゆえ、神の慈愛、ゆるしこそが悔い改める心に必要なのです。

●7/17(土)「医者としての願い」(第3ヨハネの手紙2)
医者の願いは、すべての人が健康であることです。イエス様は私たちが健康であることを、いつも願っておられます。みことばを通し、正しい良心によって、あなたの心をチェックする必要があります。
ただ、良心が咎めるのが嫌なために、良心にフタをしてしまっている人がいます。それはSARSが流行しているのに、マスクも何もせずに歩き回るようなものであり、大変危険なことです。私たちは魂の医者であるイエス様のアドバイスにいつも耳を傾け、剛健な魂を持つクリスチャンとなりたいものです。

 

 

 

 

 


 
■2004年7月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   陪従 ばいじゅう   up 2004.7.4

高貴な人のおともをすること


この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。
(ルカ5:27)


「陪従」とは高貴な人のおともをすることで、私たちがイエス様のところについて行くことを意味します。
イエス様が私たちのおともをするのではなく、私たちがイエス様のおともをするのです。
今週はルカ5:27の「私について来なさい。」という言葉から6つのポイントにわけて考えていきたいと思います。

●7/5(月)「声をかけられる」(ローマ書9:24)
イエス様は取税所にすわっている数人の取税人の中でレビ(=マタイ。12弟子の一人)に声をかけられました。
なぜレビだったのでしょうか?
イエス様があふれるばかりの神の愛を注ぐ「あわれみの器」としてレビを選び、声をかけられたのは、レビの心を占めている「空しさ」を見抜かれたからです。
私たちの心が世の中の快楽や欲望で満たされているならば、神がどんなにあわれみを注ぎたいと思われても、受け入れるスペースがありません。レビは取税人として人にきらわれながらも代わりに多くのお金を手にしていました。しかし、心は満たされず、ポッカリ穴のあいた状態で空しかったのです。
ですからイエス様が声をかけられた時、素直にただちに従うことができました。そして12弟子の一人とされました。
私たちも正しい良心の中に「私について来なさい」という聖霊様のかすかな声を聞くならば、それはイエス様が必要としてくださっているのだと信じ、素直に従っていただきたいと思います。

●7/6(火)「弟子としてついて行く」(使徒行伝6:7)
使徒6:7で「弟子の数が非常にふえていった」とあります。
「弟子になる」という時、弟子にしていただく者の立場と、弟子にしてくださる立場と、両方の気持ちを考えていただきたいと思います。
まず、「弟子にしていただく」とはイエス様のすばらしさのとりこになった者たちが”学びたい!”という強い飢え渇きの気持ちをもって、師を見て自分で学び取っていく道を選ぶことです。
また「弟子にする」とは、きびしい弟子としての人生を全うできる見込みがあると感じた人に師が声をかけ、応答した人に弟子入りの許可をしてくださるのです。
私たちのうちにイエス様について行きたいという気持ちが起こっているとすれば、それは神様が、見込みがあると信じて声をかけてくださっているのですから、その心をしっかりと受け止め、従っていただきたいと思います。

●7/7(水)「支持者としてついて行く」(マタイ伝16:15〜16)
私たちクリスチャンはイエス様を神の御子と信じ、支持する者ですが、どのような所を支持しているのでしょうか。
マタイ16:16でペテロはイエス様の問いかけに対し「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えています。
イエス様は天地万物を創造され、全てをコントロールされている神が遣わされた御子で、つぐないきれない全人類の罪の刑罰を一身に受けて、十字架にかかってくださいました。
それゆえ、全人類の現在と未来に希望を約束してくださることができたのです。
世界中に多くの宗教があり、教祖として立てられている人はいますが、イエス様だけが、私たちの罪を赦すために死んでくださり、よみがえり、人類の救いのため、今なおとりなし続けてくださっているのです。
私たちはますますイエス様の支持者としてついて行きましょう。

●7/8(木)「付き添いとしてついて行く」(マタイ25:40)
付き添いとは、主人が仕事に集中するために、お世話をしたり、助けをする働きのことをいいます。
クリスチャンはイエス様の付き添いとして、どのような助けができるでしょうか?
イエス様は今は天におられますから、直接的な助けをすることはできません。
しかしマタイ25:40で「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」と語られています。
最も小さい者とは体が不自由だったり、貧しかったり、何らかの弱さがあって、人の助けを必要としている人々のことですが、そのような方々に重荷を持ち、助けの手を差し伸べることは、イエス様を助けたと同じにみなしてくださると語られているのです。
イエス様は天にのぼられ、神の元でまだ救われていない多くの魂のためにとりなし祈っておられるのですから、その本来の仕事に集中されることができるよう、クリスチャンは自分本位のわがままや甘えを捨て、イエス様の愛のとりなしに答えるべく、付き添い人としての働きを喜んでする者として、成長していきましょう。

●7/9(金)「伴う者としてついて行く」(ヨハネ伝15:15)
「伴う」とはごく親しい関係の者が共について行くことを言います。
その親しさは主人のささえとなり、助け手となり、共に考え、悩み、歩む関係で、それはまるで夫婦の関係のようなものです。
教会はキリストの花嫁であり、神は私たちを妻として信頼できる者であると信じ、伴う者として声をかけてくださいました。
神はどれほど大きな信頼を私たちにかけてくださっていることでしょう。
神様の信頼に応える者としてついて行きたいものです。

●7/10(土)「手を差し出された」(詩篇144:7)
人類は今、永遠の地獄に向かって、罪の濁流の流れの中に身を任せて流されているような歩みをしています。
それは助ける必要のない当然の姿なのです。
みずから進んで神の手を振り払って、罪の川の中に身を投じ、その後で後悔し、助けを求めているのです。
神は当然求める前から助けようと手を差し出しておられます。しかし中にはこんな自分の思い通りにならない神になど助けて欲しくないと、他の神々を求める人がいますが、罪の濁流から助け出すことのできる方は、自ら罪の世界(地上)に降りてきて、十字架でいのちを捨てて救ってくださったイエス様だけです。
イエス様は、私たち罪人をかけがえのない必要な友として手を差し出し、呼び出しておられます。
神は今日レビに声をかけられたと同じ深い思いを込めて、私たち一人一人に「私について来なさい」と語りかけておられます。
神の声に感謝をし、素直に応答する者となりましょう。