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■2004年6月27日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
恩威 おんい up 2004.6.27
いつくしみ深い神の恵みと犯し難い神の威厳
その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
(ルカ5:22〜24)

恩威とは「いつくしみ深い神の恵みと犯しがたい神の威厳」を意味します。
私たちは神の恵みと威厳をバランスよく受け止めていかなければなりません。「神の恵み」だけを強調すると「何をしてもよい」「今の自分はここまで」と甘えが出て、「神の威厳」を強調すると厳しくなり過ぎ、人も自分も裁くようになります。この相反する「恩」と「威」をバランス良く持ち合わせた方が、私たちの救い主、尊きイエス様です。これを中風の男のいやしの場面からみていきましょう。
先週、中風の方のいやしは罪の赦しと関係があると話しました。イエス様が「罪の赦し」を言われた時、そこにいた律法学者やパリサイ人が心の中でか理屈を言いました。「神の他に誰が罪を赦すことができようか。」と。これは間違ってはいません。しかし、ここでイエス様は、極端な自分本位の自己中心の考え方からこの言葉が出ていることを理屈だと指摘されました。言葉の筋が通っても、理屈は成り立たないことがあります。それを月、火の箇所から考えてみましょう。
●6/28(月)「心の中の理屈1」(ローマ1:21)
<ローマ1:21>は、神を敬わないこの世の人々への批判です。ローマ人は自分の主張を通すための理屈を言います。彼らの理屈の原則は「神を神として認めない」ところにあります。
パリサイ人、律法学者には、「神の他に誰が罪を赦せようか」という、すなわち、「イエスはメシヤではない。預言通りの救い主と認めたくない。」という考え方の原則がありました。イエス様が何を言おうがしようが絶対に認めないという考え方の原則から出てくる理屈を言ったのです。
人は考え方のもとになる原則があり、それを正当化するために理屈を並べ立てることがあります。
みなさんは「霊的中風」にかかっていませんか。パリサイ人たちは霊的中風です。「中風」は自分の思い通り手足を動かすことができません。自分の考えを崩そうとしない人は、人として、神の子として、まともに生活できません。あなたは、自分の欲望を正当化する考えの原則を持っていて、理屈をこねていませんか。祈り、聖書を読む、教会に来る、献金、神を愛する私たちの応答とするべき神への姿勢を負担に思い、肉の欲を優先するために、無意識に理屈を言っていることがあります。それらは、欲望や自己主張、人の目に意識が向けられていて、正しい良心に心が向けられてないためです。本当の心はどこにありますか。正しい良心に本質があることを忘れると、神の前に、神がよしといわれる筋の通った理屈は言えなくなります。この箇所で、イエス様は神の威厳をパリサイ人に、神の恵みを中風の人に示されました。どういうところに神は恵み深く、また厳しい方かをわきまえる必要があります。神の前における正しい良心を意識していないと、恵みの中を歩めません。逆に肉に歩み始め、自分の主張に意識がいくなら、愛するがゆえに神は厳しく懲らしめられるでしょう。どうぞパリサイ人のようでないかを吟味してください。
●6/29(火)「心の中の理屈2」(第一テモテ2:8)
理屈のもっと奥底の原因が火曜日のポイントです。
この世の中は勝ち負け、優劣で存在を価値づける世界です。だから無意識にこの基準に流され、負け組、劣った者になりたくない、人に認められない人生は空しいと感じ、まわりに愛されたいために、勝ち負け、優劣を意識してしまいます。
パリサイ人、律法学者は、イエス様と比較して勝ち負け・優劣を意識し、争いの姿勢を出してしまいました。すなおにイエス様を神が遣わされた油注がれた預言者と認めればよかったのに、モーセの弟子という優秀な決闘を誇る自分たちが、ナザレの貧しい大工の息子のイエスに負けたくなかったのです。
私たちは人と話す時、つい勝ち負けの口論に巻き込まれてしまいます。注意・責めを受けると「負けた。劣っている。」と印象を持ち、言い返してしまうという傷を生まれた時から持っており、洗脳されてきました。
しかし真理は違います。神の前に多くの楽器を弾きこなす人と立て笛しか吹けない人とどちらが存在価値が大きいかと尋ねること自体、愚かなことです。負けたくない、劣った者でありたくないという無意識の自己評価の恐れが理屈を言い、そのゆがんだ心が神のことばを曲げてしまうのです。
正しい良心を意識しなければなりません。この世の価値・評価に意識を置くと争いが絶えず、傷つきが絶えません。おそらく、パリサイ人たちは、自分の尊敬している師から言われたら問題なかったのでしょうが、イエス様には負けたくない、自分より上と認めたくなかったので、争いの気持ちが出てきたのです。
パウロは争いの心を取り去るため、「人を自分より優れた者と思う」ことをすすめました。「優れていることが勝っており、劣っていることが負けている」というのは違います。楽器を多く弾ける人は音楽的に勝っているでしょうが、神様は音楽だけを考えておられるのではありません。またピアノをきれいに弾ける人とそうでない人とで態度を変える方ではありません。祈りが上手かどうかで神がきかれるかどうかが変わるわけではありません。
正しい良心をもって判断するとわかるはずです。いつのまにか優劣・勝ち負けに意識をおいてしまい、争いの気持ちを根底に置きながら、感情的に不安定になるのです。今どこに自分の意識をおいているかを客観的にみて(これは正しい良心に意識を持っていることですが)理屈を並べ立てる動機をしっかり吟味して、正しい良心で神の前に祈っていきましょう。
●6/30(水)「どちらがやさしいのか」(ヤコブ5:20)
「起きて歩け」と言って歩かなくとも、恥をかくだけですし、本人の問題だとか言い訳もでき、責任を負う必要もありません。しかし「罪を赦す」というのは重大な意味が含まれています。
例えば一方の人に殴られた人が相手を赦すように言われても、殴られた痛みや悲しみの感情を償ってもらっていないと簡単に赦すことはできません。そこで赦すように言う人が言葉だけでなく、身代わりに殴られる、という代価を差し出したなら、なだめられ、赦す気持ちが起こります。
「罪を赦す」という仲介に入る人は、代償を払う準備をしなければ言えません。赦すための代償がないと言えない責任があります。口だけでは力がありません。政治的にも国と国を仲介する国に力がなければ仲介者になれません。
イエス様が中風の人に「あなたの罪は赦された」と言えるのは、イエス様ご自身が責任を取ることを意味しています。他宗教の教理がすばらしく慈悲に満ちた言葉が多くても、「赦す」という点で責任をとっておらず、
その救いは違うと言えます。他宗教が倫理的、道徳的にどんなに卓越していても、罪の赦しのために責任を負ったのはイエス・キリストだけです。だからキリストだけが救い主なのです。キリストの救いが唯一なのです。奇跡の祈りをするより人を赦すことの方が難しいことがお分かりになりましたか?<ヤコブ5:20>にあるように、悪習慣などでさいなまれ、苦しんでいる人は何回も同じ罪を犯し、その度に何回も赦すことは疲れます。その人の罪を赦すという負担を負うことは愛がなければできません。相手の行い、性格、能力をみて赦すのは限界があります。しかし、神が愛された魂として、一人でも滅ぶことを望んでおられない父なる神の御心を汲み取って、あきらめず、救われるまで罪をおおい、赦していこうとする気持ちが必要です。
一方、赦される側が赦しに甘んじて、おおってくれる愛を軽んじ、直そうとせず、安易な心で甘え続けるなら、永遠の火の池にふさわしい報いを受けることでしょう。
クリスチャン生活は「赦しの生活」と言われるほど、「赦し」は尊い大きな報いをもたらす、神に喜ばれる行為です。私たちは難しい方を選び取っていきたいものですね。
●7/1(木)「赦す権威」(黙示録12:10)
イエス様は、ご自分で罪を赦す権威を持っていると言われました。
権威とは、他を圧倒して服従させる強い力のことです。
「赦せない」という人を服させるには、要求するものを満たしてあげること、または元通りにすることです。
権威があるということは、その力を持っているということです。
私たちはイエス様の権威によって赦されているということを忘れてはいけません。
過去を切り離せないよう良心を責め立て、挫折感、劣等感、不安、不信仰に追いやる罪や、悪霊の働きに対してはっきりと、罪を赦す権威を持たれたイエス様が私を赦してくださったのだと。
古き自分を切り離し、正しい良心、神の子としての自分を意識していくことが大切です。
●7/2(金)「命じる」(詩篇42:5)
「命じる」これは権威を行使することばです。
私たちは「あなたの罪は赦された」という言葉を待ち望みなさいと言っています。
人が赦してくれても、自分は自分を赦せないと心の葛藤をします。
「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」
神の赦しの権威を、宣言を、命令を待ち望んでいく時、聖霊様がその確信を与えてくださいます。
赦しの命令を惑わされないように、神の言葉です。
●7/3(土)「起きなさい」(イザヤ55:7)
罪から離れるということはただ単に悪い行いをしないということだけではありません。不信仰も、挫折感や否定的な考え方も罪なのです。
心の根本的な罪から離れなければなりません。
霊的中風から起きあがろう、神の赦しの命令に従おう、赦された者として中風の状態を捨てようという姿勢が必要です。
中風の罪はイエス様が十字架で負って処分してくださった。もう私は中風である必要はない。私は霊的な病気(挫折感や否定的考え)になって苦しむ必要はない。
赦された者の喜びを神の前に感謝し、私は起きあがろう、過去を捨て明日に向かって歩もう、と。
神のことばを希望とし、光として歩んでいくことです。
正しい良心こそ、神を認める心、神のみことばに素直になれる部分です。
感情や知性、自我はこの世でゆがめられ、傷つけられています。
私たちの本心は、神を認める良心の部分であることを常に、これからも自己訓練していきましょう。

■2004年6月20日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
宥恕 ゆうじょ up 2004.6.20
寛容な心でゆるすこと。ゆるされる側から使う
彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
(ルカ5:20)

「宥恕」とは寛容な心で赦すことをいい、赦される側から使います。神は愛のゆえに、寛容な心で私たちを赦してくださいました。
(ルカ5:20)は、イエス様は、中風がいやされるために友人たちによって屋根の上から瓦をはいでつり降ろされた人に呼びかけられたみことばです。
病がいやされることは、聖めと関係があり、また、ゆるしとも関係があります。
私たちがいやしを求める時は、同様に罪からの聖め、ゆるしを求める心が必要です。
●6/21(月)「彼らの信仰を見て1」(詩篇133:1〜3)
中風をわずらっている人と彼を運んできた複数の人々の信仰を見て、イエス様はいやしを宣言されました。兄弟が和合している様子と、アロンが油注ぎを与えられた様子を、神様は同様に見られています。それはアロンに油注ぎによって権威が与えられたように、兄弟が和合しているところに、権威が与えられるということです。互いに愛し合うとは、神様の力が注がれる条件です。
また、「露がシオンの山に下るようだ。」とありますが、これは生き生きとして、命にあふれていることを意味します。もし教会の中が和合しておらず、互いの足を引っ張り合い、ねたみ合っているなら、奇跡は起こらず、いやしも行われません。
日本は戦後、お金中心の個人主義になってしまったために、和合することが難しくなり、いつのまにか物欲が出てきて、汚されてしまうことが多くなってしまいました。
私たちの教会は和合し続ける状態でありたいものです。
油曽々木がひとりひとり及ぶほどの深い兄弟愛を互いに持ち、すべての人の病がいやされ、病人がひとりもいなくなるような教会になれたら、なんとすばらしいことでしょう。
中風の人と、彼を運んできた人々との関係を考えてみましょう。さらにもし和合を妨げるものがあるとしたら、それは何か、自分自身をも吟味し、黙想してみてください。
また、共に和合しているというのは、ひとつの同じ場所にいるということであり、こうして共に集まる場所が与えられているというのは、本当に感謝するべきことです。
教会という建物が与えられているということは、すばらしい祝福のしるしです。
●6/22(火)「彼らの信仰を見て2」(ヘブル5:7)
この「信仰」とはどういう意味でしょうか。それは敬虔さです。(ヘブル5:7)の「大きな叫びと涙をもって祈りと願いをささげ」というのは、そこに信仰があるからなされるものです。
敬虔さ(神を心から敬う)のない信仰は応えられません。中風の人の友人たちの行いの中に、イエス様は敬虔を見られました。この敬虔さは日本的な控えめなものではなく、むしろ積極的、大胆なものです。それは神様の約束への強い信頼と確信であり、決して疑わない姿勢です。
遠慮は神の力と権威に対して否定的、マイナス的な姿勢であり、かえって神様に対して失礼です。
神様のみことばにしっかりと従うことこそ敬虔さです。
●6/23(水)「あなたの罪1」(ヨブ10:15)
罪を自覚するとき表れてくる気持ちは何でしょうか。ヨブは「悲しい」と言っています。私たちが罪を自覚すればするほど、悲しみが深まります。また、恥を感じます。罪を犯すことに恥を感じなければ、罪を自覚したとは言えません。そして、「あなたの罪は赦されました。」というイエス様のみことばを聞くことはできません。
罪の自覚は毎日必要です。私自身、罪の恥を毎日感じ、説教をするのが大変つらくなります。しかし、罪を自覚する時に、敬虔さが生まれます。神様の約束のことばにしっかりと信頼し、与えられた務めをするしかないという敬虔さです。
罪の自覚とは、心の貧しさを自覚することであり、悲しみ、恥を認めることです。そして、そこで「あなたの罪はゆるされた」というイエス様のみことばと出会うことができます。これが日々のデボーションとなったらどんなにすばらしことでしょうか。
●6/24(木)「あなたの罪2」(ヨブ10:15)
知恵とは、神の前に正しい良心を持つことであり、この正しい良心を軽んじるなら、その人は責任を負うことになり、裁きを受けることになります。
人が人としての責任を負うとはどういうことでしょうか。
人間は神のかたちに造られた者として、神の前に生きる責任があります。
人は一度死ぬことと、死後神の前で裁かれることが定まっています。神が人を造られた目的にそってその人が生きたかどうかの責任が問われるのです。
神と直面した時、人は造られたその目的にそわなかったという罪を自覚せざるをえなくなります。
私たちは救われた者、罪ゆるされた者として責任を果たしているでしょうか。神が私たちにゆだねられた和解の福音を証しするために、罪のゆるしを伝えるために私たちは存在しています。
●6/25(金)「赦されました1」(民数記15:25)
罪には、自分で購えるものと、自分で購えないものとがあります。これをよくわきまえて、罪に対し、真剣に取り組む必要があります。旧約の時代、自分の罪を贖うために自分がいけにえの動物を準備することが義務づけられていました。それは、自分の罪に対する責任を自分が負うということを、私たちに教えるためです。
自分で用意できない場合は、他の人に借りてでも用意しました。しかし、神の前に犯した罪は、私たちのどんなものをもってしても購えません。その高価な代償としてひとり子なる神ご自身がいけにえとなって、わたしたちの神に対する罪の購いをしてくださいました。
赦されたということは、ひとり子なる神ご自身のいのちの代価が支払われたからということを忘れてはなりません。
それゆえ、罪に対して決して安易な心を持ってはいけません。お金も修行もひとり子なる御子のいのちとどうして比べることができるでしょうか。
●6/26(土)「赦されました2」(エレミヤ36:3)
人を赦すとき、何を期待するのでしょうか。それは悪の道から立ち返ることです。(もしその相手が死んでしまっていたらどうでしょうか。ただ私たちはその人が神の前に立たされることを知っています。それでも赦せないという人は、自分が裁かないと気が済まないからえあり、それは神の前に罪となります。)
悪の道から立ち返る気持ちのない人を、私たちは赦すことはできません。なぜなら、私たちの赦すという心を相手が拒絶するのですから、赦しは成立しないからです。私たちは自分で裁きたいという心を神の裁きにゆだねていかないとなりません。そして赦すにしても、悪の道から立ち返ることを期待して赦さなければ、赦し続けることは困難です。
ただし、一回で相手が立ち直るとは考えないでください。イエス様が7を70倍するほど赦しなさいと言われた理由は、100%悪の道から立ち返るまで、赦しなさいという意味です。
1回赦すごとに人は悪の道から遠ざかることができます。それをはばまないようにしましょう。
これが罪をあなたに対して犯した人を、永遠のいのちに導く方法です。
親に赦し続けてもらうことで、子供は成長します。
赦すことは相手を生かすことであり、赦しをとどめることは、相手を死にいたらしめることです。
「赦し」は本当に重要なことです。
罪赦された私たちが、人を赦し続ける時、完全にイエス様と同じ姿に変えられていきます。

■2004年6月13日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
聖化 up 2004.6.13
イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。イエスは、彼にこう命じられた。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」
(ルカ5:13〜14)

イエス様のもとに一人のらい病人がやってきて、「らい病を治してください」とは言わず、「きよめてください」と言いました。イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ」と言われ、らい病人はいやされました。きよめと魂のいやしは非常に関係があるということから、今週も学んでいきましょう。
●6/14(月)「きよめと汚れ」(ヤコブ4:8)
汚れている=何らかの汚れたものの影響を受けている状態。健全さが汚されている。
例:新品のスーツでも、しみや汚れがついたら、それは汚れたスーツという。
私たちは全部罪を犯してなくても、一部罪を犯して罪の影響を受けたら罪人と言われる。
きよめる=汚れを取り除く。洗い流す。病気が治る。
聖書では汚れと病気は関係があるととらえています。
イスラエルの人々は、病気は霊的汚れを受け、罪を犯した結果と教えられているので、このらい病人は「きよめてください」と求めたのです。
イエス様のことばによってらい病人はいやされた、ということは、きよめられて救われたということです。
だから、病気が治ればいいという考え方では、汚れときよめに対する考え方が間違っているし、いやしを受けるのは難しいのです。
聖書に十人のらい病人の話が出てきます。十人のらい病人は全員いやされ、きよめられたので、もう2度とらい病にかかることはないと言えます。
私たちの心には、2つの相反する心があります。
神を大切にし、神を第一にして生きようとする(きよい心)と、神を無視し、自己中心で物事を判断する(汚れた心)です。
皆さんは、この2つの心のうち、どちらの心を選んで行動しているでしょうか?
ぜひ祈り求めて、心を探ってほしいと思います。
ヤコブは言います。二心の人、心をきよくしなさいと。
これは2つの心のうち、きよい心を選びなさいという意味です。
それは正しい良心を自分の正直な心として歩んでいくことです。
●6/15(火)「霊肉の汚れ」(第2コリント7:1)
正しい良心を汚してくる働きが霊肉の汚れです。
エサウは双子の兄として、長子の権利という霊的に非常に尊ぶべき大切な特権を得ていました。しかし、ある日狩りから帰ってきたエサウは、弟ヤコブの作った大好物の煮物と長子の特権を交換してしまいました。エサウは腹を満たすことしか考えておらず、正しい良心からの判断ができなかった。それが(肉の汚れ)です。
私たちも正しい良心をにぶらせる肉の欲求に意識をおくことのないよう主の前に祈り、肉の欲求と戦うことが必要です。
次に(霊の汚れ)とは、教えの風に惑わされることだとエペソの手紙にあります。風は霊、霊はことばです。神のことばは人を生かしますが、人を殺すことばもある事を忘れてはいけません。
教えの風とは、この世の道徳、人の考え、人の言葉、思想、哲学、宗教、倫理などです。多くの人が持つ考えによって汚されないよう、気をつけなければなりません。
もし、神様はほどほど、お金が大切、お金がないと何もできないという考えが刻み込まれているなら、そこに変な考え方が入っているからです。
物があれば幸せで、貧しいのは不幸でしょうか。
本当の幸せは心のつながり、すなわち愛の結びつきがあってこそ感じるものです。
むしろ、お金がない方が見つけやすいかもしれません。
私たちクリスチャンにとってこの地上の人生は永遠への出発点にすぎません。
神はこの地上で報われなかったものを天で報いてくださる。それだけでなく、イエス様は「わたしのために父母息子を捨てた者は、この地上で30倍、60倍、100倍の実を結ぶ祝福を受ける」とおっしゃった。そういう神様の正しいおことばを心に受け止めて、正しい良心を持って物事を判断していかないと、あなたの霊は汚されてしまいますよ、特に金銭を愛することによって信仰から迷い出てしまう人が多いので気をつけるようにと、パウロは教えています。
●6/16(水)「神がきよめたもの」(使徒10:15)
「わたしの心だ。きよくなれ。」これはイエス様のおことばですが、神が語られたことと同じです。
使徒10:15の「神がきよめたもの」とはペテロが見た幻の中で神が語られた言葉です。神はペテロに、モーセの律法によると汚れたものなので食べてはいけないとされていた動物を、今はもうきよめられたので食べなさい、と言われました。ペテロからしたら矛盾した内容でしたが、これはイエス・キリストが十字架ですべての人々の罪のあがないのいけにえとなられた以上、ユダヤ人も異邦人もすべてきよめられたんだよということを啓示されたものです。
神がこのようにおっしゃったのなら、それを納得することが必要です。私たちは根本的にきよめられました(義認)。そして今、きよめられ続けているわけです(聖化)。だから、お互いにきよめられていない部分があっても、きよめられた者なんだということを疑ってはいけないということです。
神は命がけで、いつも真剣に語ってくださるのだから、その約束のことばは間違いのないものです。
神が「永遠の愛をもって、あなたを愛した」と言われたら、永遠の愛をもって愛し続けてくださっているのですから、疑う必要はありません。
そのように、神がきよめたものをきよくないと言ってはなりません。
みなさん、あなたはきよいのです。そして今きよめられ続けています。兄弟姉妹に対しても、責めることなく互いに励まし合い、少しずつでも前進していることを認め合っていきましょう。
●6/17(木)「血がすべてをきよめる」(ヘブル9:22)
血は命だと聖書では言っています。
血は命だから、汚れをきよめることができるとはどういう意味でしょう。
神は私たちをご自分のかたちに似せてお造りになったということは、2度と同じものを造ることはできないと思うほどに、最善の力を尽くして造ってくださったということです。
それがサタンの誘惑によって汚されてしまったわけです。
神様の心の痛みとくやしさはどれほどのものであったでしょう。
神様は完全な方ですから、ちょっとでもしみがついたら新品として使うことができず、私たちは神様にとって無価値な者になってしまいました。新品の何かに傷がついたり汚れた場合、同じものがあれば、それと同じ金額で買うことができます。しかし、傷がついてもいいから使うという場合、それがとても気に入っていて、しかも、ひとつしかない物だからです。
だから、神は私たちを惜しまれて、私たちの汚れたいのちをきよめるために、御子イエス様を地上にお遣わしになりました。
イエス様は十字架で血を流し、いのちをもって私たちの汚れを洗い流してくださいました。
神は私たちの汚れたいのちをイエス様のいのちによって、新品と同じ値段で買い戻してくださったのです。だから、血がすべてをきよめるのです。
●6/18(金)「きよめの目的」(テトス2:14)
神様が私たちをきよめてくださったのは、私たちのためではなく、神ご自身のためです。
自分のために何かを手に入れようとする時、そのものが自分にとって非常に重要な価値があり、自分の存在を喜ばせるものなら、犠牲を払ってでも代価を払います。例えば車が自分の存在価値を高めると思えば、安いアパートに住んででも300万するような車を買うとか、そのように神はご自分の存在にとってあなたを重要で放っておけない存在と見ておられるので、犠牲を払ってでもあなたをきよめたいのです。
神はあなたをきよい者として造ったのだから、きよい者であって欲しいと願われています。そのためにきよめの血潮を与えてくださいました。
あなたの存在が汚れた者になるか、きよい者になるか、それは汚れた心を選ぶか、きよい心を選ぶかで決定します。私たちは常にイエス様のきよめの血潮を正しい良心に受け止めながら、この人生をしっかりと歩んでいきたいですね。
血の注ぎかけ、これは神の愛を意味しています。神の愛が私たちの正しい良心をきよめるのです。
●6/19(土)「社会の秩序を無視してはならない」(ローマ13:1)
イエス様はきよめられたなら祭司のところに見せに行き、きよめられたしるしとして、供え物をしなさいと言われました。
モーセの律法の書に書いてあるとおりにユダヤ社会の秩序を守り権威に従いなさいと言われたわけです。
救い主が来たから古いものは過ぎ去った、旧約聖書の教えは関係ないんだと言われたわけではないのです。
私たちは神様を信じて従っていたらいいという、あまりにも極端な考え方を持っては行けません。
すべての権威は神によって造られたとあるから、教会の中だけの権威ではなく、政治も国家の権威にも従い、その権威が正しく行使されるために祈っていくことが必要です。
国会議員や警察官が悪いことをしたからといって、その権威を侮ってはいけません。また政治家の悪い態度を見ていたら選挙に行くのもバカらしいと考えるのではなく、与えられた選挙権を使い少しでも良い政治が行われるようにと祈りつつ、政治家を選んでいくことが必要です。
また、私たちは神様から赦されたといって、交通違反の罰金を払わなくてもいいわけではありません。
人殺しをしたなら、地獄には行かなくてもいいけど、牢屋に入らなくていいわけではありません。
この地上での秩序を破ったなら、この地上で裁きを受けることが必要です。この地上で裁かれない罪は天で裁かれるのですから、悪いものは早く裁かれてください。
私たちがきよくなることはイエス様の心です。
ほんとうにすばらしい救い主を信じることができて感謝です。

■2004年6月6日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
爾後 じご up 2004.6.6
あることを起点として、その後
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
(ルカ5:10)

この言葉は、魚をとった経験のないイエス様が、プロの漁師であるシモン(ペテロ)に対し語られたことばです。
しかし、このおことばに従った結果、思いもよらない大量の魚を彼は手にすることになりました。ペテロはこの後、イエス様に従う者となります。深みには、私たちが得たいと願う様々なものがひそんでいます。
今日は「深み」を味わう良さと、どこに、どのようにして味わえるのかを、6つのポイントから見ていきます。
●5/31(月)「獲物」(ローマ14:19)
漁師は生活を支えるために魚を追い求めます。
同様に、人が人格者としての魂を支える獲物は何でしょうか。
あなたは自分が人格者としての心を失わず、保ち続けていくために、何が心の糧となり、獲物であるかを、理解しておられるでしょうか。
何が心の平安を保ち、何が心を成長させるのか、そのための糧となる獲物が何であるかがはっきりとわかっているでしょうか。
心の平安は、周りの人々との平和にもつながります。
心の糧より、身体の糧の方が大事と、そればかり追い求めていないでしょうか。
今回の上原令子さんのコンサートでは、様々な人生の苦しみの中から、すばらしい人生の実がいかに熟してくるかを知ることができました。その証の中に、脳性小児マヒの画伯浅井リキヤさんのことがありました。もし彼のお母さんが、単に身体の成長のためだけに彼を育てることに心を向けていたら、絶望し、疲れ果ててしまったことでしょう。しかし子供の心の平安と成長のために心を向けたお母さんは、彼の才能を見つけて、生かすことができました。そしてリキヤ君は、誰に対しても「私は世界中で一番幸せです」と言える人格者に成長しました。
あなたの心に平安を生み出し、人々との間に平和をもたらすことに役立つ獲物、心の成長に役立つ獲物は何でしょう。
神様との良い関係を保つことです。聖霊なる神との交わりが、私たちの心に平安を与え、成長を促すと聖書は教えています。
漁師が生活を支えるために、魚を追い求めるように、私たちも真剣に心の糧を求めるべきです。
身体の糧に心を奪われやすい環境が私たちの周りにはそろっています。それゆえ、気持ちを引き締めて、心の糧を追い求めることを熱心に続けていく必要があります。
●6/1(火)「漁場」(エペソ1:23)
獲物の種類によってとる場所は違います。私たちの漁場とはどこでしょう。聖霊が臨在しておられる場所、キリストが満ち満ちておられる場所、「教会」です。
ひとりで祈っていればOKという方もおられるかもしれません。しかし収穫する「場所」があります。このことに気づかない方がいます。毎週毎週私たちはみことばのメッセージを聞くことによって、生活を支える必要な糧を手に入れる同じように、心を支える必要な糧を教会で手に入れています。教会が漁場です。教会に来て獲物を得てください。
メッセージを聞いて、動物的な身体の糧ばかりを求めるこの世の生き方から、心を養う、神の子としての歩みを維持し、成長する生き方へと、方向転換しましょう。
●6/2(水)「深み」(第1ヨハネ4:7)
同じ漁場でも、「深み」に行くことが大切です。この深みとは何でしょうか。大量の収穫はこの「深み」で得られます。深みのある教会、深みのあるクリスチャンとは何でしょうか。
「どれだけ赦す愛を持っているか」ではないでしょうか。
どれだけ互いを受け入れ合うことができるかです。
深みがなかったら、神を信じていると言いながらも、争いをしてしまいます。この赦しの愛は、聖霊様の働きにより、湧いてきます。
イエス様は私たちの罪を赦すために、十字架にかかられ、三日目によみがえられました。イエス様の復活は、「御霊によって」と書いてあります。赦しの愛を生かし、よみがえらせる力は、聖霊様が持っておられます。聖霊様は深みにおられます。
神様の深みを知っている人は、人を赦すことができるようになります。神様に近づき、聖霊様との交わりを熱心に求めていきましょう。
●6/3(木)「漕ぎ出す」(箴言13:13)
大事なのは従う理由ではなく、素直にことばを受け取り、行動をとることです。それには大切な気持ちが従う人になければなりません。ペテロは漁師のプロでしたが、素人のイエス様のことばに従いました。なぜ従ったのでしょう。ペテロはその前にイエス様の話を船の上で聞いていました。そして、その話を通して、イエス様に対する尊敬の心を持ったのです。それゆえペテロは、イエス様のおことばに単純に従いました。
ペテロは一見理にかなわないイエス様のおことばを尊び従った結果、大収穫を得ました。神のおことばに正しい良心で、心から尊敬して従っていくなら、報いを受け取ることができます。命令には報いが待っています。軽んじないようにしましょう。
●6/4(金)「網という道具」(申命記6:5)
聖霊様のすばらしい働きを収穫として得るためには、道具が必要です。聖霊様をとらえる道具とは何でしょう。(神様の愛をとらえるという意味です。)
それは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神を愛する」ことに集中して心を向けることです。心が道具となります。その道具である心をコントロールするのが、あなたの正しい「良心」です。網の目の大きさは、獲物の大きさによって変えます。目的の獲物がとれるために、目的にならない獲物は通り抜けるよう、網をセットします。そういった工夫を私たちは心でします。御霊の働きの実は9つあります。例えばその中の「愛」が欲しいと願っているのに、心が「自制」にのみ向いていたら愛を得ることはできません。ひとつひとつの目的によって、心を使っていくこと、これが「心を尽くし〜力を尽くして、神を愛する」ことです。私たちの心は、神の愛をとらえる道具となります。
●6/5(土)「漁をする時」(第1ペテロ5:6)
魚をとる最後のポイントは、漁をする「時間」です。
神がちょうど良い時に、時を定められます。
神ご自身が魚がとれる時を定められました。
自然の流れの中で、私たちはそれを察知して漁に行き、収穫を得ます。
それゆえ、私たちの側から見ると時が合わない、ずれているように思える時があります。
しかし、神はペテロが人をとる漁師となるために、通常の魚をとる時間をこの時ずらされました。それゆえペテロは大収穫を経験し、イエス様の力を知ることができ、イエス様について行く決心ができました。
神の前にへりくだりましょう。あなたの経験や知恵よりも、神の主権に委ねましょう。神はちょうど良い時にみわざを行われます。神はあなたのために「時」を定めておられます。
この時を神の主権に委ねて待つことが大切です。
これらのことを通して、私たちは深みのある人間になることができます。
特に神様の深みを知るために、この6つのポイントに心を向けていきましょう。
群衆は岸辺までしかついて来られませんでした。それはイエス様に何とかして舟を探してもついて行こうとはせず、自分の都合にしか合わせなかったからです。しかしペテロは深みにまでイエス様と共に行ったからこそ、教会の土台となる、深みのある人物になったのです。

■2004年5月30日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
枯淡 こたん up 2004.5.30
俗気がなく、あっさりしている中におもむきのあること
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
(ルカ5:4)

この言葉は、魚をとった経験のないイエス様が、プロの漁師であるシモン(ペテロ)に対し語られたことばです。
しかし、このおことばに従った結果、思いもよらない大量の魚を彼は手にすることになりました。ペテロはこの後、イエス様に従う者となります。深みには、私たちが得たいと願う様々なものがひそんでいます。
今日は「深み」を味わう良さと、どこに、どのようにして味わえるのかを、6つのポイントから見ていきます。
●5/31(月)「獲物」(ローマ14:19)
漁師は生活を支えるために魚を追い求めます。
同様に、人が人格者としての魂を支える獲物は何でしょうか。
あなたは自分が人格者としての心を失わず、保ち続けていくために、何が心の糧となり、獲物であるかを、理解しておられるでしょうか。
何が心の平安を保ち、何が心を成長させるのか、そのための糧となる獲物が何であるかがはっきりとわかっているでしょうか。
心の平安は、周りの人々との平和にもつながります。
心の糧より、身体の糧の方が大事と、そればかり追い求めていないでしょうか。
今回の上原令子さんのコンサートでは、様々な人生の苦しみの中から、すばらしい人生の実がいかに熟してくるかを知ることができました。その証の中に、脳性小児マヒの画伯浅井リキヤさんのことがありました。もし彼のお母さんが、単に身体の成長のためだけに彼を育てることに心を向けていたら、絶望し、疲れ果ててしまったことでしょう。しかし子供の心の平安と成長のために心を向けたお母さんは、彼の才能を見つけて、生かすことができました。そしてリキヤ君は、誰に対しても「私は世界中で一番幸せです」と言える人格者に成長しました。
あなたの心に平安を生み出し、人々との間に平和をもたらすことに役立つ獲物、心の成長に役立つ獲物は何でしょう。
神様との良い関係を保つことです。聖霊なる神との交わりが、私たちの心に平安を与え、成長を促すと聖書は教えています。
漁師が生活を支えるために、魚を追い求めるように、私たちも真剣に心の糧を求めるべきです。
身体の糧に心を奪われやすい環境が私たちの周りにはそろっています。それゆえ、気持ちを引き締めて、心の糧を追い求めることを熱心に続けていく必要があります。
●6/1(火)「漁場」(エペソ1:23)
獲物の種類によってとる場所は違います。私たちの漁場とはどこでしょう。聖霊が臨在しておられる場所、キリストが満ち満ちておられる場所、「教会」です。
ひとりで祈っていればOKという方もおられるかもしれません。しかし収穫する「場所」があります。このことに気づかない方がいます。毎週毎週私たちはみことばのメッセージを聞くことによって、生活を支える必要な糧を手に入れる同じように、心を支える必要な糧を教会で手に入れています。教会が漁場です。教会に来て獲物を得てください。
メッセージを聞いて、動物的な身体の糧ばかりを求めるこの世の生き方から、心を養う、神の子としての歩みを維持し、成長する生き方へと、方向転換しましょう。
●6/2(水)「深み」(第1ヨハネ4:7)
同じ漁場でも、「深み」に行くことが大切です。この深みとは何でしょうか。大量の収穫はこの「深み」で得られます。深みのある教会、深みのあるクリスチャンとは何でしょうか。
「どれだけ赦す愛を持っているか」ではないでしょうか。
どれだけ互いを受け入れ合うことができるかです。
深みがなかったら、神を信じていると言いながらも、争いをしてしまいます。この赦しの愛は、聖霊様の働きにより、湧いてきます。
イエス様は私たちの罪を赦すために、十字架にかかられ、三日目によみがえられました。イエス様の復活は、「御霊によって」と書いてあります。赦しの愛を生かし、よみがえらせる力は、聖霊様が持っておられます。聖霊様は深みにおられます。
神様の深みを知っている人は、人を赦すことができるようになります。神様に近づき、聖霊様との交わりを熱心に求めていきましょう。
●6/3(木)「漕ぎ出す」(箴言13:13)
大事なのは従う理由ではなく、素直にことばを受け取り、行動をとることです。それには大切な気持ちが従う人になければなりません。ペテロは漁師のプロでしたが、素人のイエス様のことばに従いました。なぜ従ったのでしょう。ペテロはその前にイエス様の話を船の上で聞いていました。そして、その話を通して、イエス様に対する尊敬の心を持ったのです。それゆえペテロは、イエス様のおことばに単純に従いました。
ペテロは一見理にかなわないイエス様のおことばを尊び従った結果、大収穫を得ました。神のおことばに正しい良心で、心から尊敬して従っていくなら、報いを受け取ることができます。命令には報いが待っています。軽んじないようにしましょう。
●6/4(金)「網という道具」(申命記6:5)
聖霊様のすばらしい働きを収穫として得るためには、道具が必要です。聖霊様をとらえる道具とは何でしょう。(神様の愛をとらえるという意味です。)
それは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神を愛する」ことに集中して心を向けることです。心が道具となります。その道具である心をコントロールするのが、あなたの正しい「良心」です。網の目の大きさは、獲物の大きさによって変えます。目的の獲物がとれるために、目的にならない獲物は通り抜けるよう、網をセットします。そういった工夫を私たちは心でします。御霊の働きの実は9つあります。例えばその中の「愛」が欲しいと願っているのに、心が「自制」にのみ向いていたら愛を得ることはできません。ひとつひとつの目的によって、心を使っていくこと、これが「心を尽くし〜力を尽くして、神を愛する」ことです。私たちの心は、神の愛をとらえる道具となります。
●6/5(土)「漁をする時」(第1ペテロ5:6)
魚をとる最後のポイントは、漁をする「時間」です。
神がちょうど良い時に、時を定められます。
神ご自身が魚がとれる時を定められました。
自然の流れの中で、私たちはそれを察知して漁に行き、収穫を得ます。
それゆえ、私たちの側から見ると時が合わない、ずれているように思える時があります。
しかし、神はペテロが人をとる漁師となるために、通常の魚をとる時間をこの時ずらされました。それゆえペテロは大収穫を経験し、イエス様の力を知ることができ、イエス様について行く決心ができました。
神の前にへりくだりましょう。あなたの経験や知恵よりも、神の主権に委ねましょう。神はちょうど良い時にみわざを行われます。神はあなたのために「時」を定めておられます。
この時を神の主権に委ねて待つことが大切です。
これらのことを通して、私たちは深みのある人間になることができます。
特に神様の深みを知るために、この6つのポイントに心を向けていきましょう。
群衆は岸辺までしかついて来られませんでした。それはイエス様に何とかして舟を探してもついて行こうとはせず、自分の都合にしか合わせなかったからです。しかしペテロは深みにまでイエス様と共に行ったからこそ、教会の土台となる、深みのある人物になったのです。

■2004年5月23日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
命数 めいすう up 2004.5.23
天から授けられた運命
しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
(ルカ4:43)

・命数=神から授けられた運命
・運命=神によって定められた変えられない定め
私たちが人間であるという運命は変えることはできませんが、どのように生きるかは、私たち次第で選び取っていくことができます。
神は私たちにこの命を与えて、どのように生きるかを見ておられます。
イエス様は、故郷では尊ばれることなく、次の町へ行かれ、教えと奇跡をなされました。
そして、自分の町に止まるよう懇願する町の人々に、ルカ4:43のことばを語られました。
この言葉から、天から授けられた運命を生きるイエス様のどういう心が伺えるか、見ていきましょう。
●5/24(月)「召命Vocation」(第1テモテ6:12)
召命=目的を達成するために呼び出されること。仕事が与えられること。選ばれて、呼び出されること。
イエス様は父なる神から、救い主としての召命を受けたという自覚を持っておられました。
第1テモテ6:12にあるように、私たちも信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得するという召命を受けています。
召命を受けるとは、神が私たちを永遠のいのちを得るものにふさわしい者と見なして、神から選ばれて、呼び出されたということです。
私も声をかけていただいてるという確信をいただいてほしいと思います。
●5/25(火)「使命Mission」(第1ペテロ2:9)
召命をいただいたら、そこには使命があります。
イエス様は福音を宣べ伝える使命に「“どうしても”という強い使命感を持って次の町々へ向かって行かれました。
第1ペテロ2:9の“すばらしいみわざ”とは、罪人の罪が赦されるために神のひとり子イエス・キリストが十字架で罪人の身代わりに裁きを受けられたということです。
そしてあなたの命は、このことを伝えるために、天から授けられた命です。
神が定められ、あなたを置かれた様々な状況の中で、あらゆる人々に福音が宣べ伝えられる必要があります。
あなたの人生がどんな人生であろうと罪深い私たちを愛し、罪の赦しを与えてくださったみわざを宣べ伝えること、これが私たちの使命です。
やりたいと思っていたことを、してほしいと頼まれたら、どんなにうれしいでしょう。
その使命には、力強い使命感が湧き上がってきます。
イエス様を伝える使命を心にうかべて、デボーションをしていただければと思います。
●5/26(水)「志Resolution」(第2コリント9:7)
志という言葉は他にも意味がありますが、
志=決意、決断
を意味しています
方向性を決める、心を注ぎ向ける
召命を受け、使命が与えられても、志を立てなければ、行動に移すことはできません。
固い決心を持った志は、信仰につながり、神を心から信頼して、福音を宣べ伝えるという使命を達成するための志となります。
イエス様は“どうしても〜なりません”と次の町へ顔を向け、体を使ってご自分の歩むべき方向を示されたと思います。
そこには、イエス様が、使命を受けた方向を自分の心を注ぎ出すべきものとして、しっかりと心に持っておられることが伺えます。
私たちも、クリスチャンとして、志を持つことが必要です。
永遠のいのちを得るための人生という方向に向かう決心をするのが志です。
●5/27(木)「熱情Passion」(第2テトス2:14)
熱情とは=“苦しみ”という言葉から発生し、キリスト教用語では、キリストの受難を意味しますが、罪のひとつとして、激しく情が燃えるという意味から、強い感情の働きを表しています。
召命を受け、使命をいただき、志をたてると、そこに激しい熱い思いがわいてきます。
イエス様は私たちの罪のための裁きの苦しみを、ひとつひとつのむちの痛みを通して受けられ、身代わりとなって苦しまれました。
イエス様の全ての苦しみを受け止めなければならないという熱い思いは、召命と使命と志から湧き出てくる、私たちへの愛に対する熱情です。
罪のための裁きはのがれることはできません。
だからこそ、イエス様の中に最後まで全ての苦しみを受け止めなければならないという熱い思いがあったのです。
私たちも心を向けるべき時には、イエス様のような熱情を持ちたいですね。
●5/28(金)「献身Devotion」(ローマ12:1)
本来、デボーションとは個人礼拝、献げることです。
親が子を育て、子が親の老後を世話する、そこには愛が存在します。
献身とは愛をもっていなければできないことです。
私たちは永遠のいのちを得る者として神に選ばれ、福音を宣べ伝えるという使命に志を持って、心を熱くして人生を歩むところに召してくださった方への献身の姿勢が表れてきます。
イエス様は弱さを持った罪人である私たちの心の痛み、苦しみを知って、愛し続け、受け止めてくださっています。
そのイエス様のためならば、この天から授かった運命を献げ、福音を宣べ伝えていこうと思うのは、自然な心の動きです。
自分の人生を自分のためにだけではなく、今のそのままを神に献げるという喜びを見出したら、あなたの人生はもっとすばらしく生かされていきます。
●5/29(土)「幻Vision」(使徒18:9〜11)
神は献身を通して、個人的にさらに具体的な、今何をすべきかという身近な方向付けを与えられます。
これを幻といいます。
幻は、自分がしようと思っていることとは全く逆の方向に導かれる時に与えられることが多いようです。
私たちの心に願っている願いの幻を見ようという意志的な働きかけかどうか、心を吟味しなければなりませんが、神から与えられた幻であるかどうかは、私たちの内におられる聖霊様が確信をもって示してくださいます。
神はまずあなたにしてほしいと願って幻を与えられます。
その幻は、あなたが受け止めたら、心に大きく育ち、必ず実現に至ります。
私たちも、神からの召命を受け、使命感をいただき、志を立てて、献身的に熱情をもって、幻の実現に向かって歩んでいきましょう。

■2004年5月16日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
神授命息 しんじゅめいそく up 2004.5.16
命の息を神から授かること
また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け。」と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。
(ルカ4:33〜35)

『神授命息』とは、神から命の息を授かることで、個人的に、神の前に礼拝を授けるデボーションの本来の意味を表しています。ルカ4:33〜35は汚れた霊にとりつかれた人が、イエス様の命令で悪霊から解放される場面ですが、今週は霊について学び、どうして悪霊がその人にとりつき、異常な働きをさせてしまうのか、霊とは何なのかを知り、汚れた霊の存在に私たちの心を支配されないために心を守るヒントを、霊について6つのポイントに分けて学んでいきたいと思います。
●5/17(月)「霊1」(創世記2:7)
アダムは神が息を吹き込まれた事により、神の形に似せて造られた人格者として生かされた者となりました。そして神の代行者として、神の持っている権威を授かり、地を支配するという神の召命に答えることができたのです。
聖書の『霊』ということばは、風とか息とか不可視な存在者をあらわしますが、現在では特に精神(心の姿勢)をあらわします。
霊は人を生かすもので、神が吹き込まれた時のみ、私たちは神の前に生かされる者となります。
「聖霊を受ける」とはアダムが息を吹き込まれた事と同じであり、神が私たちにどのような人生を歩んでほしいと願ってらっしゃるかという事が示され、神の前に価値ある人生を歩む選択ができるようになります。
霊とは私たちを生かすものであり、その霊は神御自身が吹き込まれるものなのです。
●5/18(火)「霊2」(ヨハネ6:63)
「息がかかる」とは主人の働きのためのことばが語られ、召命が与えられる事をいいます。
イエス様のことばは、私たちを生かす霊ですから、良心に神のことばが響いてくる時、私たちは生かされていきます。しかし、神のことばを、感情や知性や意志によって判断すると、調子の良い時や理論的に納得できる時や、自分の思い通りになる時でなければ応答することができません。
正しい良心は神のことばを聞いて、神の前に正しいと思うことに反応するのです。
どうか、冷静な心で、神のどんなことばが響いてくるか、待ち望んでいただきたいと思います。
●5/19(水)「私たちの霊」(ローマ8:16)
アダムとエバは、はじめ神と共にいた時は、神の霊によって輝いていました。
しかし肉の欲望にひかれ神から離れた時、輝きは失われ、誘惑されるまま、肉の思いに身を任せる者になってしまいました。
私たちの霊は、神の霊が共に住んでくださらなければ、正しく神の役に立つ生きた霊として存在することはできません。
ですから、神から息を吹きかけられ、神の御霊が宿ってくださることがいかに大切であるかを知っていただきたいのです。
聖霊に感化された人だけが、自分の霊が喜んでいるというすばらしい体験をすることができ、ヘブル4:12にあるように、神の霊の思いからくるものと肉の思いからくるものとを区別することができます。
私たちの霊は、神の霊(ことば)によってのみ光り輝くのだということをしっかり心に留めてください。
●5/20(木)「霊と良心」(第2テモテ4:22)
霊は良心と深い関係があります。良心は知・情・意をコントロールする部屋のようなもので、そこに私の霊と共に、神の霊が住んでくだされば、神のみこころにかなった正しい善悪の判断をすることができます。
しかし、神がいくら働きかけてくださっても、神の声を聞かず、知・情・意をコントロールし、肉の欲に霊を従わせようとすると、良心に神の霊は宿ることができなくなります。
そうすれば、神の御心にかなった正しい判断はできません。
私たちは神の霊がいつも共に住んでくださることを願い、意識した歩みをしたいものです。
●5/21(金)「汚れた霊1」(マタイ12:43〜44)
汚れた霊は存在の目的から外れた的はずれの霊(ルシファーとその仲間)で、神の霊ではありません。彼らは私たちの良心(プライベートで安心できる場所)に入り込み、支配しようと機会を狙っています。
私たちが良心を悪霊に支配されると、人生における善悪の判断が的はずれなものになってしまい、とても危険です。
クリスチャンは、悪霊が常に居場所を求めて、私たちの良心を狙い、占領して的はずれな人生の選択をさせようとたくらんでいることを知る必要があります。
●5/22(土)「汚れた霊2」(マタイ12:45)
イエス様を信じると、イエスの血潮によって良心が聖められ、汚れた霊を追い出すことができます。
しかし、せっかく救われたにも関わらず、信仰生活を窮屈に感じ、世の中の人たちのように自分勝手に生き始めると、良心は空き家のような状態になり、汚れた霊は仲間をたくさん連れて帰ってきて良心を支配するようになります。そうなると、以前よりももっと悪い霊の状態になり、神様に対し、心をかたくなにし、不遜な態度をとるようになります。
クリスチャンはいつも、敬虔な心で良心という部屋にイエス様をご主人として迎え入れ、心から尊敬を持って聖霊様の支配に委ねることが大切です。そうすれば、たとえ悪霊が入り込んだとしても、神ご自身が権威あることばを持って命じ、追い出し、私たちの霊を守ってくださいます。
「良心」という部屋に神と共に住んでいたら、悪霊に支配されることはありません。
クリスチャンが罪の誘惑に勝利できないのは、敬虔な心で神様を迎え入れていないからではないでしょうか。
私たちの霊が御霊と一致して良心を働かせることによって、人は完全に主と同じ姿に造り変えられていくのです。
悪霊の支配を完全に閉め出し、良心が神によって生かされているかどうか、もう一度しっかり吟味していただきたいと思います。

■2004年5月9日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
径庭 けいてい up 2004.5.9
2つのものが大きくかけ離れていること
また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」
(ルカ4:27)

径=狭い路地
庭=広々したところ
径庭=違いの大きさを表す
イエス様は、エリシャの時代の出来事について、第2列王記5章から語られました。
シリヤ人ナアマンはシリヤの将軍でした。
シリヤ軍は、たびたびイスラエルに略奪隊を送り、物をうばっていくので、イスラエルにとっては嫌な相手でした。
そのナアマンが、神様にらい病をいやされたのに、神の恵みの中にいるイスラエルのらい病人がいやされなかったという出来事から、ナアマンとイスラエルのらい病人の、神様に対する姿勢の違いを学んでいきましょう。
●5/10(月)「求める姿勢」(ヤコブ4:8)
ナアマンは、人々から尊敬される将軍という立場でありながら、みにくいらい病におかされていることで悩み、らい病さえなかったら最高の人生が送れるのに、と心がなえていました。
そんな彼は、妻のお手伝いの娘を通して、イスラエルの神にはらい病をいやす力があるという事を聞きます。
彼はらい病がいやされるためなら、自分の国の神でなくてもかまわないからそこに行きたい、といやしを求める強い気持ちを行動に移しました。反対に、イスラエルのらい病人は、神を知っていながら、自分自身に絶望し、どうせだめだとあきらめて神に求めることをしませんでした。
皆さん、あなたも神に求める気持ちが弱くなっていませんか?
神はりっぱな人を救いに来られたのではなく、罪人を救うために来られたのです。らい病人がいやされるために、神のあわれみがあるのです。私たちクリスチャンはそれを忘れてはいけません。
1回や2回祈っただけで応えられないからとあきらめたり、私の信仰は弱いからと別の地上的方法に解決を求め、二心になることのないように、「主よー」という気持ちを忘れてはいけないと思います。
神は求める者に応えてくださる方です。
信じ続けることのできる証として、神が人となってこの地上に来られ、罪のあがないとして十字架にかかり、死なれ、三日目によみがえられたのです。
信じ続けることが私たちの希望です。
●5/11(火)「礼儀正しさ」(マラキ1:6)
祭司たちは、決められた宗教儀式を、ていねいに行っていたにもかかわらず、そこに神に対する尊敬の心がなかったことを、ここで注意されています。
礼儀は相手の存在を尊重する心の表れで、日本人が大切な人ほど深々と頭を下げるのもそのためです。
イスラエルのらい病人は、あきらめた状態であったため、礼儀ということも頭の中になく、祈りもしていなかったかもしれません。
しかしナアマンは、らい病のいやしを一生懸命に求めると同時に、その気持ちを神への尊敬の姿勢として、礼儀をつくして出向きました。
自国の君主からイスラエルの国あてに手紙を送ってもらい、自分自身もたくさんのプレゼントを持って出かけました。
その大きな違いにより、いやされるかいやされないかが、結果として表れたわけです。
私たちも、神様は愛してくれて当たり前、救ってくれて当たり前、助けてくれて当たり前というような不遜な心でいると、礼儀を欠いた失礼な態度になってしまいます。
親しき仲にも礼儀あり、と言われるように、夫婦の間でも互いの存在を尊重する心がどこかに礼儀として表現されていないと、信頼関係が崩れてしまいます。
神様は普段はラフな方ですが、秩序を重んじられる方ですから、礼儀正しさも必要です。
特に聖餐式は、あがないのみわざを表していますので、ラフにするべきではありません。
祈る時、聖書を読む時、献金の時など、今、心から神を敬う時とあなたが感じた時に礼儀を表すことが必要です。
どこで礼儀正しさを生かし、どこでラフにするかを神の前における良心で分別し、わきまえのある信仰生活を楽しみたいですね。
●5/12(水)「困難に立ち向かう姿勢」(詩篇121:1〜2)
ナアマンは、らい病という、人生最大の問題を解決してもらうために、自己義やプライドを捨て、神様の救いの方法に自分を合わせました。
その時のナアマンの気持ちを考えながら、第2列王記5章を読んでみてください。
いろんな心の葛藤がありましたが、最終的に主なる神に頼りきるという、幼子のような気持ちに導かれていったのです。
ナアマンは、裸でヨルダン川に7度入るように言われました。
らい病におかされた素肌をさらけ出して、ヨルダン川に入ったのです。
ナアマンのみにくい裸の姿は、私たちの良心の姿と一緒です。
らい病(罪の象徴)におかされた良心は正しく善悪をはかることはできません。
7たびヨルダン川の水に浸されるとは、みことばによって、私たちの良心がもっときよめられることが必要だということです。
イエス・キリストは血潮によって、私たちの良心をきよめてくださいますが、一回だけで済むのではありません。
あなたの良心がらい病におかされないようにするためには、みことばがいつも必要です。
イスラエルのらい病人たちのように、ぐち不平を言い、ゆがんだ良心を持ってますます失望の中に入っていくようなことのないために、主に信頼し、幼子のような気持ちで主に求めていきましょう。
けがれた良心を明らかにすることによって、神はあなたをいやしてくださるということを忘れてはいけません。
このみにくい私の考え方、良心、まちがった考え方をきよめてくださいという心でみことばを読んでいくと、聖霊様は、あなたの良心に一番正しい神様の善なる方法を導いてくださいます。
●5/13(木)「恩恵に報いる心」(エレミヤ2:32)
ナアマンはいやされた後、エリシャの元にお礼の財産を贈りましたが、エリシャはそれを受け取りませんでした。
そこでナアマンは、受けた恩に報いるために『イスラエルの神以外は拝みません』という良心的決断をしました。
ナアマンには唯一の神という信仰はなかったでしょうが、自分を実際にいやしてくれたのはイスラエルの神だ、ということはわかっていたからです。
人生の一番大きな問題であったらい病をいやしてくださったという恩義に対する姿勢をはっきり出したということです。
あなたも未信者の人に「どうしてあなた方は、イエス・キリストだけを信じるのですか?どうしてそんなに日曜日を大切にするんですか?」と質問されたら、ナアマンのように答えてください。
「私を現実に救ってくださった方は、イエス・キリスト以外にいなかったからです。だから日曜日は絶対に礼拝をささげたいのです。」と誰になんと言われてもこの姿勢はくずしてはいけません。
私たちの神、主は、私たちが払うべき代価がないので、ご自身を犠牲にして私たちの罪の赦しのために、いけにえになられたお方です。
あなたの罪の赦しの犠牲となられたのは、イエス様だけです。
今、世界中で放映されている、映画『パッション』はリアルですが、イエス様が十字架にかけられる姿として、現実に近いものだと思います。ぜひ見に行ってください。
イタリアのローマカトリックのある教会では、礼拝を中止して、パッションを上映したところ、300名の未信者が、イエス様を信じる決心をしたそうです。
十字架は歴史上の事実です。
罪の赦しのための十字架に対する恩義は、絶対に忘れてはいけないものです。
●5/14(金)「誠実さ」(ホセア6:6)
イスラエルの神だけを拝みますと決心したナアマンでしたが、国に帰ると、君主に仕える役割上、君主と共に宮へ行き、偶像に頭を下げなけれがなりません。
ナアマンは困ったけれど、「その事だけはどうぞ赦してください」と正直にエリシャに告白しました。
あわれみ深い神様は、ナアマンの誠実さを受け入れられ、その事を許可されました。
しかしそれは完全ということではなく、ユダヤの律法的には罪です。おそらくナアマンは、この後聖書に出てこないことから、将軍を辞め、地位を捨てたと思います。それが誠実さの成長です。
私たちも、自分の環境の中でみことばを実行しようとする時、心が葛藤するでしょう。
環境によっては100%律法的に生きることは不可能です。
妥協しなければいけない点がたくさんあります。
しかし、誠実さを失ってごまかしていたら、その妥協点がいつまでたっても成長しません。
誠実さが神の前に義人として受け入れてもらえる(信仰による義)条件ですから、神への正直な姿勢を決してごまかしてはいけないと思います。
今のあなたの信仰に応じた良心的決断を、誠実さをもって告白したなら、神は受け止めてくださいます。
でもその状態が完全ではないことをわきまえて、成長していくことが必要です。
●5/15(土)「君主との関係」(ヘブル13:17)
ナアマンは君主との良い人間関係を持っていましたが、イスラエルのらい病人たちは、指導者と断絶していました。
会社の社長、夫、目上の人など、実際に私たちにかかわりのある指導者に対する評価の仕方は、そのまま神様への態度につながってしまいます。
もしも利害関係でつながっているなら、神様に対してもそのようになります。
神様が自分の思い通りに問題を解決してくださると感謝するけど、思い通りにいかないとぐちを言ってしまうというように。
ヨセフは次々に悪いことが起きて、苦労しましたが、それは将来彼の家族70人が救われるために、ヨセフ自身そのような環境を通る必要があったということで、それが神様の方法です。
聖書には、悪い主人にでもちゃんと仕えなさいと書いてあります。
未信者の主人でもです。
であるなら、信仰を持った悪い牧師だったら、なおさら神がたてた器として、尊敬をなくしてはいけません。
人間に対する尊敬ではなく、神が与えた地位に対する尊敬をなくしてはいけない、ということです。
神がその牧師を取り扱い、注意されるのだから、あなたがどうこういう問題ではありません。
あなたは牧師のために祈ってください。

■2004年5月2日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)
掣肘 せいちゅう up 2004.5.2
はたから干渉して自由に行動させないこと
わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。
(ルカ4:25〜26)
「掣肘」…ひじをひっぱることからきている
エリヤは選民であるイスラエルの人々のところではなく、他の国のやもめの女性の所へ遣わされ、その人を助けました。本当なら、神様が愛された民をまず助けるのが当然なのに、どうしてか?神様は正しい方ですから、それには理由があります。
私たちも神様に愛された者です。それなのに他の者に先に助けをお与えになることがないように、神様との正しい関係を維持していくことを今週の目的として、今日も学んでいきましょう。
●5/3(月)「罪」(イザヤ59:1〜2)
罪=的を外れた矢のような状態
人間は、生まれた時から的を外しています。「神の子である」という人間の存在目的から、外れた状態で生まれてきます。この的はずれは、アダムとエバの時から始まりました。へびがエバを誘惑してきました。この誘惑が掣肘の干渉の部分です。エバは初め「食べたい」と思いました。これは罪ではありません。しかし食べることを目的とすると罪を持つことになります。へびは、神様の言いつけを守ることを押し進めようとするエバの心を惑わして、食べさせようとする束縛を持ってきました。そしてエバは引っ張られてしまったわけです。
サタンは、あなたを神の子としての歩みから外させようと邪魔してきます。
何かに干渉されて、神の子として生きることに迷いが出てきていませんか?熱意がなくなってきていませんか?何かを通して掣肘されていないか、吟味しましょう。
●5/4(火)「咎」(イザヤ59:1〜2)
咎=不正行為、堕落、ひねくれた行為
実際的に規則を破ること
もしあなたが的から外れているだけでなく、実際にクリスチャンとしてのルールを破っているとしたら、もっと大きな神様との隔てを持ってしまいます。
戦争がよくないことだということは、道徳的にみんなわかっていますね。
なぜ戦争が起こるのか…。それは、平和になるための共通のルールを持っていないからです。そして強い者に従うしかないという社会ができあがっています。
そして若者たちは夢が持てず、刹那(せつな)的な生き方をしています。その中で社会のルールを破って、自分の思いをぶつけていく、それが咎です。
あなたはクリスチャンとして守るべきルールを守っていますか?神は赦してくださいます。罰することはありません。しかし、咎のために助けたくても助けられない問題があるということです。あなたの罪と咎が、神様との隔てになっていませんか。
●5/5(水)「偶像礼拝1」(第1サムエル記15:23)
サウル王は神から任命された王でした。サウルは王という地位を通して、神様のお言葉を守らず、自分勝手な考えを通しました。この従わない姿勢は偶像礼拝と同じだと聖書は言っています。
偶像礼拝=人が考え出した神に礼拝をささげること
礼拝=服従を表す行為
例えば、自分の子供以上にペットをかわいがり、お金をかける。これはペットに従っている偶像礼拝です。
あなたの心の中に、外のものに従わないで、一つの事に固執している部分はありませんか。そして、それに従って言うことを聞いていませんか?
「もっと自由に願いをかなえて、夢を描いて生きていきましょうよ」と、あなたのクリスチャン生活に干渉してきて、偶像礼拝の方へ引っぱっていく。そういうものが心の中にありませんか…。
●5/6(木)「偶像礼拝2」(コロサイ3:5)
むさぼり…とらわれた状態
貪欲、自分の欲するものに執着し、飽くことを知らない。。
性の問題ですが、これは神様から、夫婦の愛の実として、子供を産むために与えられたものです。子供を産むことに心を向けることは罪ではありません。しかし、それ以外のものを目的として、とらわれてしまうことに罪と咎が生まれ、それが偶像礼拝につながります。
一つのことにとらわれた人は従順さに欠けます。それは願いを妨げられるという気持ちが働くからです。これはもう何かに捕らわれて、それに従い礼拝している、偶像礼拝です。
あなたは神様以外のものに価値を見い出して、従っていませんか?
私たちには神に似せて造られた良心があり、これが本当の私だということをいつも意識しておかなければいけません。これを忘れると、欲望のほうへ引っぱられ、振り回されてしまいます。
●5/7(金)「悪い動機」(ヤコブ4:3)
快楽…喜び、楽しみ
使う…(ギリシャ語)浪費する
クリスチャンは楽しんではいけないのでしょうか…。いいえ、そうではありません
人間は悪い動機が心の中に働いて、それを正当化するためのいいわけを作り出してしまいます。そのような形で楽しみを味わうのは神様との間に隔てを持つことになるということです。
人の心の中で、悪に走ってしまう。そのほとんどが、「一回くらいならいいじゃないか」という気持ちです。
私たちは心して自分を守っておかなければ、神の前に正しい良心をにぶらせて、防御できなくなります。
悪い動機を私たちは見つけだして、隠れた心から神様を利用して、自分の楽しみを果たそうとしていないか、正直に自分の心を見ることが必要です。
●5/8(土)「あわれまない」(イザヤ9:17)
神がイスラエルのやもめをあわれまれることがなかったのは、神様の誠意を軽んじたことによって、あわれみの泉が枯れてしまったということです。あわれみを軽んじたら大変なことになります。心のききんです。
私たちは互いにあわれみ合うからこそ、良い人間関係、社会状況を生み出すことができます。社会からあわれみがなくなると、傷つけ合って、利害関係でしか社会が働かなくなります。
神様の無限のあわれみの泉は、イスラエルの民自身が枯らしてしまったために、神様は与えたくても、もう与えられないということです。
神様のあわれみは、イエス・キリストを通して、100%注がれて、もう神様の手にはありません。今、人類の手にあります。しかし、人類は「それはいらない。信じられない。」と言ったのです。他のもの、自分の願望を満たすためのあわれみを求めました。イエス様の十字架の他に、神のあわれみはありません。イスラエルの民は、それをないがしろにしてしまいました。だから、やもめでも、助けることができなかったのです。彼ら自身が受け取らなかったのです。
今日、私たちは、良心から気を惑わせ、掣肘してくる働きに、しっかりと立ち向かうために、神様を、イエス・キリストを信じて、自分の良心を強めていく人生を選び取っていきましょう。
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