■2004年2月22日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   天 賦  up 2004.2.22


ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」「「ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。「「イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
(ヨハネ4:7〜10)


「天賦」の「賦」という字には、分ける・分け与えるという意味があるそうです。
そういうことから、「天賦」とは、天から分け与えられたもの、また持って生まれた才能・能力も、神が授けてくださったものと、とらえることができます。
聖書では「賜物」と訳していることばも、「天賦」という別のことばで訳していくと、ことばの意味が具体的で、神様の教えがわかりやすくなります。
今週は、サマリヤという地域にあるスカルという町の井戸で出会った女性と、イエス様の会話をとりあげて、学んでいきましょう。

●2/23(月)「水を飲ませてください」(第1ヨハネ4:19)
・イスラエル人=アブラハムという人から出た12部族からなる人々
・ユダヤ人=その12部族のうち、ユダ族とベニヤミン族の人々
イスラエル人は旧約聖書の中にあるモーセの律法の教えを守って生活していました。そして、律法の中に、混血になってはいけないという教えがあり、血筋を守ることを大切にしていました。
しかし、イスラエルがアッシリア帝国に占領された時、ユダ族と、ベニヤミン族以外の10部族は混血となってしまい、ユダヤ人は、サマリヤ人と呼んで、軽蔑し、差別していました。
この出来事は、12人の弟子たちが買い物に出かけ、イエス様がひとりで待っておられた時のことです。
イエス様が「水を飲ませてください」と井戸で声をかけられたこの女性は、(後でわかるのですが)結婚生活に5回も失敗して、サマリヤ人からも汚れた女性として嫌われ、彼女も、誰もいない昼の時間に水をくみに来ていました。
ユダヤ人であるイエス様の方から、サマリヤ人の中でも罪深い生活をして差別されている女性に声をかけられるということは、当時、ありえないことでした。
彼女に対するイエス様の気持ちは、私たち罪人に向けられている神様の気持ちと同じです。
同じサマリヤ人からも嫌われ、人生に失敗し、孤立した心境の彼女のように、自分も人生に挫折し神に近づくことのできない罪人だと否定的な考えを持っている人がおられるかもしれません。
しかし神様は、心が離れていくような私たちに、自分と親しい良い関係を結んで、少しでも励ましてあげたいと愛の気持ちで、いつもやさしく声をかけてくださっています。
气ハネ4:19にあるように、神様のほうから私たちに近づいて愛を注いでくださいました。神がまず私たちを愛してくださっているということが大切なポイントです。

●2/24(火)「旅人への親切」(ヘブル13:2)
当時では、井戸はその村の生活を支える大切なものだったので、旅人が知らない町にやってきて、勝手に水を飲むことは失礼なことでした。
ユダヤの道徳的習慣として、旅人をもてなす考えがあったので、旅人から「水を飲ませてください」と頼まれて、親切をほどこすことは当然のことでした。
そこでイエス様はユダヤ人に警戒心をもっているサマリヤ人の女性に「水を飲ませてください」という言葉で旅人としての自分を表現し、ユダヤ人とサマリヤ人ではなく、旅人と町の人としての平等な立場で話ができる安心感を与えられました。
私たちも、神様に対して、いろんな想像をし、偏見をもって自分から距離を保ってしまうところがあるかもしれません。
しかし、イエス様は、罪に対しては厳しいお方ですが、私たち罪人に対しては、私たちの気持ちを理解して、心の壁を取り除くために、神が人となられたお方として、平等な立場から声をかけてくださるお方なのです。

●2/25(水)「神の賜物を知る」(ローマ6:23)
あなたが喜ぶもの、価値のわかるものを、神が親切をもってプレゼントをして贈ってくれるというのが、神の賜物という意味です。
イエス様は「神の賜物を知り」と、期待をもたらす言葉を語られました。神様は、私たちに災いや悪いものを贈られる方ではなく、良いものを与えてくださる良いお方だというイメージを失わないようにしましょう。
ローマ6:23にある「永遠のいのち」とは、魂の願っている愛・平安・幸せという気持ちを神の国のことばで表したものです。
永遠のいのちが、神の賜物であるなら、あなたが心の奥底で願っている、期待している幸せそのものです。

●2/26(木)「イエスとはだれか」(第1テモテ1:15)
各地で災害が発生するたびに救助隊が出かけていきます。生命の危険にさらされている人々が待っているのは、自分を助け出してくれる救助隊が来ることです。
イエス様はあなたを危険の状況から、悩みから困難から救い出してくれる救い主なのです。
永遠のいのちを与えてくれる人ということをサマリヤの女性が知っていたなら、イエス様を迎え入れたでしょう。
イエス様は、私たちの罪の処罰を代わりに受けてくださったのです。私たちを罪の奴隷から、罪の刑罰から命がけで救い出してくださったのです。
それゆえに私たちはもう一度人生をやり直すチャンスを与えられたのです。イエス様は十字架の上で「主よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」と祈ってくださったのです。
成功するまでやり続けることです。

●2/27(金)「求めるようになる」(箴言20:5)
私たちの人生は挫折、失敗、落胆、失望という出来事に出くわします。神が私たちの人生を導いておられる中で、何でそのようなことが起きるのだろうか?と思います。
それは私たちの心の奥底にある、意識ではまだ気づいていない本能的なたましいの欲求を私たちの意識に気づかせるようにと、困難を与えられるのです。
サマリヤの女は何回か結婚しましたが、心底味わうことのできる幸せが見つからなかったのです。
挫折の中にある彼女は、求める気持ちをあきらめていました。心の深い思い、考えを引き出すためにイエス様は、「あなたがもし神の賜物を知り、それを与える者が誰であるかを知ったなら…」と語って、彼女に興味を持たせ、考えさせられ、彼女の警戒心を取り、親切という心が浮かび上がって、心が開かれてきたのです。
彼女はそれまで、心の奥に潜んでいた幸せになりたい、もっと道があるのでは…という気持ちが浮き上がってきたのです。
私たちは目に見えるものに心が奪われ、本当に心にほしいもの、たましいが求めているものを後回しにしているのです。

●2/28(土)「生ける水」(詩編105:41)
神様は水をイスラエルの人々に与える時、いつも岩から水を出されました。
・岩なるイエス様は十字架で砕かれました。それは、私たちが救われるための生命の水が流れ出るためでした。
・かたくなな心、人生の挫折、失敗によって不信仰になった私たちの心の中の深い本来の願いは、生きたいという、生命の息吹が潜んでいるのです。
イエス様を通して、神への不信が砕かれ取り除かれて、本来神が与えてくださった、生き生きとした生命にあふれる人生を送ることができるのです。
やる気がなくなり、絶望、失望し、けだるく、むなしくなって、人生に不信という岩のような、固い心になっていませんか。イエス様は神の愛をもって砕き、とかし、あなたの内に与えてくださっている生命を吹き出させるようにと導いていてくださるのです。
イエス様に心から信頼し、みことばから教えられていきましょう。

 

 

 


 
■2004年2月15日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   良 識  up 2004.2.15


風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
(ヨハネ3:8〜15)


私たちは普段「常識」ということばをよく使います。「常識」とは、普通の人が持っている知識と判断力ですが、さらに優れた知識と判断力を「良識」と言います。
(良識…事柄を冷静、的確に判断する能力)
クリスチャン生活は常識ではなく、良識に基づいた生き方が重要になります。そうでないと理解できない事や矛盾に突き当たってしまうようになるからです。
イエス様の教えはこの良識によらないと理解することはできません。今週はニコデモとイエス様の会話を通して「良識」をもって理解するとはどういうことかを学んでいきます。ニコデモの常識とイエス様の良識の違いがはっきりと表れている箇所です。

●2/16(月)「風はその思いのままに吹く」(箴言19:21)
常識でもって箴言の箇所を読むと、人の計画は全く無視されて、主の独断ですべてが決められるような、まるで独裁者のような神の姿を思い描いてしまいます。
しかし、良識をもって読むならば、主ご自身がどのような方であるかを知っているので、私たちが不完全で、欲をもって判断しかねないところを、主は私たちの益となるために、愛をもってベストの判断をしてくださると理解することができます。
ニコデモはイエスの言われた、新しく生まれるとは、もう一度母の胎に入って生まれ直すというとんでもないことのようにとらえましたが、私たちは、イエスが言われた「風」をヒントにして考えることができます。「風」とはギリシャ語で「霊」や「息」とも訳せます。イエス様は風は見えないが、吹くことはわかるように、新生も見える形では確かめられなくても、その変化は知ることができると語っておられます。人は洗礼を受け、新しく生まれ変わったらすべてのことが自分の期待通りにうまくいくと考えてしまいますが、必ずしも期待通りにいくとは限りません。その期待が自己中心的な常識であるなら、新生した霊は、神様の良識によって生きるので、期待通りににはならないということです。「風はその思いのままに吹く」とは、聖霊様の働きは人の常識とは異なり、私たちの思い通りになるわけではないことを教えておられます。

●2/17(火)「教師のかたくなさ」(イザヤ29:14)
神様は、この世の常識から考えると、驚き怪しむようなことをされます。ニコデモは自分の考えで、神様の考えを理解することができませんでした。この世は「神はいない」という考え方をしているので、「新しく生まれる」という神の奇跡的な働きを認めることはできません。そして、世の中の考え方では、クリスチャンの信仰は「唯一の神」を信じて従っているので、狭い考え方だと攻撃してきます。しかし自分の思い通りになる神様(偶像)なら何を信じても一緒だという考え方は、結局は自分を神とし、自分の考え方が絶対であるとしているのですから、自己中心的な考え方を抜けられない狭い考え方だと言えます。
クリスチャンは自分の考え方だけでなく、自分の思い通りにならない考え方を認め、神の考えが自分の思いとたとえ異なっていても受け入れるので、心が広いと言えます。
自己中心で自分というひとつの考え方しかできないよりも、自分の思い通りにならない神を信じる、自分と神というふたつの考え方ができるクリスチャンの方が広い考え方ができます。常識にとらわれ、それ以外ないという「教師のかたくなさ」ではなく、良識をもった柔軟な考え方をしていきましょう。

●2/18(水)「他の人の証を信じない」(エレミヤ17:9)
人の悪いうわさは信じやすいものです。それは私たちの心が罪という病で病んでいるからです。その病は治らないのです。しかしイエス様は救いを示してくださいました。もう直らないラジオが家にあったら、捨てて新しいラジオを買うように、私たちも新しい心と入れ替えればいいのです。イエス様の救いは、古いものを捨てて、新しいものを受け入れるということです。
常識でなく、良識で人生をやり直したいと考えるなら、イエス様が言われる、この「新しく生まれる」ということを、ただ信じ、受け入れる必要があります。ニコデモのようにそんなことはできるわけがないと、信じない心を持ち続けるのではなく、神様ならできると考えることが大切です。
ただクリスチャンになっても考え方、習慣を変えようとしなかったら、ニコデモのように肉体のことしか考えられず、霊のことがわからない、肉体を養うだけの人生になってしまいます。せっかく新しく生まれても、肉体のことのみ考えて、楽をする人生を追い求めていては意味がありません。考え方、価値観を新しく生まれた霊的な良識あるものに変えていくことが必要です。イエス様のみことばを、陰険な心でなく、生まれ変わった心で神のことばとして受け取っていきましょう。

●2/19(木)「天上のこと」(第1コリント15:49)
イエス様は地上に来られたときは地上のかたちで来られました。逆に私たちが新しく生まれるとは、天のかたちをもつことを意味しています。
この天のかたちとして新しく生まれた魂を、古い肉のかたちに合わせていくなら、肉のかたちとして魂は滅びてしまいます。私たちは「天のかたちに生まれ変わった」ことを忘れず、いつも自覚して生活していくことが大切です。
例えばアメリカへ旅行しようとするなら、その土地のことを学んで準備してから出発するように、私たちは天国のことをよく調べておくことが大切です。みことばをよく学びましょう。

●2/20(金)「天から下った者」(气yテロ2:21)
イエス様は天から下って来られました。それはイエス様についていけば天国に上って行けるということを示しています。しかしこの世の人は、「山の頂上は一つでも、行き方はたくさんある。どの道を通っても同じ」といいます。これは常識としての言い方です。しかし良識で考えるならそのようなわけはなく、どの道が頂上につながっているかはわからないという危険性があります。ひとりがチャレンジして頂上に着ければ、後から多くの人がその道を登っていけます。しかし最初にチャレンジしてみる人は命がけであり、遭難して死んでしまうこともあるのです。
イエス様は「天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。」と語られました。この道が天に上る確かな道なのです。イエス様はご自身を「天から下った者」と言われました。それは天国へ入る道を知っておられるということです。私たちは、例え深くみことばの理解がまだできていなくても、イエス様に従っていくという単純な信仰だけでも、天国に入ることができます。ついて行けばいいのです。
その信頼を持っていれば天国へ行くことができます。
ただその心をしっかりと持つために、日々のみことばの学びは大切です。天国の良さ、素晴らしさを聖書から知ることができるからです。

●2/21(土)「永遠のいのちへのしるし」(ローマ6:6)
モーセが旧約の時代に、青銅の蛇を上に上げ、それを見上げた民が毒蛇の毒から救われるという出来事がありました。青銅の蛇は十字架の形の棒の上につけられたと考えられます。
これはイエス・キリストの十字架のあがないを表しています。蛇の毒とは罪の力です。イエス様の十字架を見上げたら、罪の毒は消えていやされ、裁きから救われるのです。
十字架を見上げるとはどういうことでしょうか。
もし十字架を見上げず悔い改めをしたとしたら、神の罪に対するこらしめは直接その人にやってきます。
しかし十字架を見上げて悔い改めたら、私たちは十字架の後ろに入ることになり、罪のこらしめは十字架にきて、私たちに直接くることはありません。ただその赦しは、私たちが早く成長して、罪にうち勝つ者となるためにイエス様が身代わりに罰を受けてくださっているというこをなのですから、その恩を決して忘れてはなりません。むしろ十字架を見上げて悔い改める時、神のこらしめから私たちを守ってくださっているイエス様を思い、一日一日を決して無駄にすることなく、日々成長し続け、天国へ上る準備をしていきましょう。

 

 

 

 


 
■2004年2月8日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   新 生  up 2004.2.8


イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
(ヨハネ3:3〜7)


ニコデモはユダヤ人の指導者で、特にモーセの律法を厳守している、パリサイ派のひとりでした。彼は、今まで律法を守って来たけど、どうも自分は変わらないし、罪深い自分が見えてきて、これでは救われることはできないのではないかという思いから、イエスの所に質問に来た場面です。
ここで「新生」という事についてのイエス様のことばを、今週も少しずつ見ていきましょう。

●2/9(月)「神の国を見る」(ダニエル4:34)
誰しも神の国を見たいという理想を心の中に持っています。神の国とは、極楽でイメージされるような、好きな事をして、のんびりしているような、楽な所でしょうか?
キリスト教で言う神の国は、精神的な豊かさがあり、潔い人の入るところというイメージです。
文明、文化、科学の発達により生活が便利になり、人々は、心を大切にすることよりも、お金もうけや肉体の快楽や安逸を優先して求めるようになりました。
しかし、本来人間は、自分の品性と人格をみがき、成長させたいという願いに到達するものです。
旧約聖書には、人が神の目を見なくなると、人生に問題を起こしてしまうということが記されています。それをダニエル書から見ていきましょう。
イスラエルが罪を犯して、神からのこらしめを受け、バビロン帝国に支配され、捕囚として連れて行かれた時のできごとです。
バビロン帝国の初代の王ネブカデネザルは、大帝国を築いた時、心が高ぶり、神の主権、神の支配を認めなくなり、自分がやったんだという気持ちになりました。神はネブカデネザルをこらしめられ、彼はけもののように夜露に濡れ、草を食べて暮らすという精神病にかかり、7年間城の中で隔離され、みじめな生活を送らなければなりませんでした。
7年目に彼が天を見上げた時、理性が戻りました。目を天に上げるとは、神がすべてを支配されておられる主権者だということを認める、ということです。
ネブカデネザルは、神が見えない権威という力を与えてくださり、大帝国を支配することを許されていたんだと悟りました。神は、世界で一番の支配者であられるからこそ、彼にそのことを悟らせたくて、精神病に陥れられたのです。
神はこの宇宙を造られた時、この地を統一するための権威という力を、指導者となる人々に与えられました。それは、この地上に神の国を実現するという目的のためであるのに、人は自分の手でその力を得たかのように勝手に統治します。だからこの世の指導者たちは、その力を有効に用いない事の裁きが下ります。
私たちクリスチャンは、たとえ自分の会社の経営者が良くない指導者だとしても、神がその人を指導者として許されているならば、その人を見るよりも神を見て、会社の秩序に従う従順さが必要です。
神は誠実な人々が奴隷のような状態に置かれているならば、イスラエルの人々が奴隷の身分から救われたように、苦しみの中の叫び声を通して救い出し、新しい環境を与えてくださいます。
私たちはついつい自分の力を誇ってしまったり、神様の支配に対して不平、不満を持って、神を畏れない心を出してしまうことがありますが、神は生きておられる方です。
そこに神の支配があることをしっかりと心にとどめて、敬虔な生活をしていくことが、神の国を見るということです。

●2/10(火)「新しく生まれる」(コリント5:17)
ユダヤの指導者たちはなぜイエスを救い主として認めることができなかったのでしょう。イエス様の語られたことばや、しるしや奇跡を見ていたにも関わらず、彼らは救い主はこういう方だ、というイメージを持っており、その考えを変えようとしなかったからです。
私たちも、自分の生きてきた経験や体験、自分の価値観によって聖書を読んでも、本当にイエス様のいわんとしている意味を悟ることはできません。
自分の考えと価値観を横に置いて、中心は神の国だという考えをしていくことが「新しく生まれる」と言われた意味です。
神様との間における共通の理解と、御教えを正しく理解するために、心を新たにすることが必要だということです。

●2/11(水)「水と霊によって生まれる」(ローマ6:4)
水と霊は、イエス様の死と葬りと復活を表しています。神の子としての人生を始めるためには、この死と葬りと復活を体験することが必要です。
この体験をするのが、キリストの死にあずかるバプテスマ(=洗礼)です。
洗礼で、水につけられた事において、キリストと共に十字架につき裁かれて、罪人としての人生に終わりを告げる。ここで死と葬りを体験し、水の中から出てくることは、キリストの死からの復活を意味しており、この時私たちの霊は、新しく造り変えられています。
洗礼はただ単なる儀式とかきっかけではなく、霊が新しく生まれ変わるという体験です。
人は自分の努力によって、ある程度の習慣や、性質を変えることはできます。
しかし、罪に弱い、罪の奴隷となっている自分自身を変えるためには、神の子として、新しく生まれ変わって、聖霊様によって一からしつけられて、成長していく方がもっと大切です。
イエス様の救いを通して、新しく生まれ変わって、永遠という神様のご計画の中に歩む、本来の人間らしい歩み方をするために、ぜひ洗礼を、そして神の霊に満たされることを求めていただきたいと思います。

●2/12(木)「神の国に入る」(申命記4:40)
ここはモーセによって、エジプトから導かれたイスラエルの人々が、アブラハムに約束された土地を相続するにあたっての、神様の教えが語られた部分です。
神様は、約束の土地で、長く住み、幸せを保ち続けるためには、主のおきてと命令を守ることが条件だと言われました。
国は憲法により、秩序正しく治められる時に、国家として成立します。
しかし、決められた憲法に従わなかったら、犯罪者として社会から閉め出されてしまいます。なぜなら犯罪者は、秩序を乱す者だからです。
そのように、私たちが神の国に入るというのは、真実・正しい義なる神様の秩序の中に自分をゆだねて、その中で人生を送るという意味です。
神はすべての人が幸せになるようにと、ひとつの秩序をたてられました。だから、神の国は、あなたの考え方が中心になるのではありません。わがままな人は自分の国の王様として自分の秩序を持っていて、それに合わない人を裁きます。
このように、自分が王様として社会生活を送っていたら、当然争いになりますね。この世界と一緒です。
それぞれの国がそれぞれの秩序と価値観を持っているのですから、その価値観が違う者同士がぶつかり合って戦争が起こるわけです。
違う秩序を持っている者同士がひとつになることは不可能です。
天地を造られた神様の秩序のもとでこそ、すべての人が平和を保つことができるのです。
神のおきてと命令を守ることによって、私たち人類の将来も永久に幸せを保つことができるということを、イスラエルの歴史を通して、神は教えておられます。

●2/13(金)「御霊によって生まれる者」(气Rリント2:14)
肉によって生まれた者は肉であるとは、肉を養うことを重点的に育てられ、肉を養うことを大切にしている者のことです。御霊によって生まれた者は霊である、この御霊とは霊と魂のことで、魂を養い育てることを大切にしている人が、霊の人です。
天地を造られた唯一の神の御教えによって、霊と魂とが養い育てられる事を信じて、実践している者がクリスチャンです。
皆さん、あなたは、自分のたましいを養うことを優先して、仕事や夫婦関係、子育てを考えられていますか?形にとらわれて、霊を養うことをおろそかにしてはいないでしょうか?
人間は人格的な存在で、私たちの肉体は死後土に還りますが、魂は、人生すべてに対する神の評価と裁きを受け、それによって、神の国の門を通って入って行くことができるか、滅んでしまうかが決まります。
このことをしっかりとわきまえて、永遠の人生のために、魂と霊を育てることを最優先した地上の人生を送るということを、もう一度考え直していただきたいと思います。

●2/14(土)「新しく生まれなければならない」(ガラテヤ6:15)
割礼はユダヤの習慣で、神に選ばれた民であるということの印として、肉体に印を受けることです。
しかし、大切なのは、その印が本来、心の中に与えられていなければならないと、ここで語られています。
心の中に印を受けるとは、新しく生まれ変わる、新しい創造ということです。
神を信じて、神と共に歩む、あなた自身が大切なのだと言っているわけです。
ここでイエス様はなぜ、(なければならない)と強調しておられるのでしょう。
その意味を悟り、理解しなければ、本当に心から神の教えに従うことはできません。
神を畏れず、自分勝手でわがままな人生を送ることは、神が分け与えてくださった命を無駄に過ごし、最終的には、死に至るという、無意味なものになってしまいます。
それゆえ神は、新しく生まれて、神の子として目覚めなければならないことの重要性を、イエス様を通して強調しておられるのです。
新しく生まれなければならない、とイエス様が語られたことばを悟り、受け入れて、神の子としての歩みを、力強く前進していただきたいと思います。


 
■2004年2月1日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   本 腰  up 2004.2.1


それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、「「しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。「「彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。その後、イエスは母や兄弟たちや弟子たちといっしょに、カペナウムに下って行き、長い日数ではなかったが、そこに滞在された。ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
(ヨハネ2:1〜22)


本腰を入れるとは、迷いや中途半端な気持ちを捨てて、ひとつのものに気持ちを集中するということです。
ヨハネ2:1〜22の中には2つの出来事が出てきます。
@カナの婚礼(1〜11節)・・・月〜木
救い主としての、はじめての働きで、水をぶどう酒に変える奇跡を行われた
A宮きよめ(12〜22)・・・金、土
商売のために使われていた神殿から、商人たちを追い出された
どういう部分に気持ちを集中させるか、イエス様のおことばから学びたいと思います。

●2/2(月)「何の関係があるのか」(エゼキエル34:11)
イスラエルの婚礼では、一週間以上にわたり祝宴をするので、多くのぶどう酒が必要となり、ぶどう酒がなくなることは、花婿のふるまいとして、恥となります。ここは、ぶどう酒がなくなったことに気づいたマリヤがイエス様に相談した場面です。
イエス様は肉体を持つために、マリヤの子宮を借りて、肉体が養われ、罪のない神の子として、お生まれになりました。
「あなたは〜女の方」と語られた言葉は、直訳では「わたしとあなたは一体何なのですか」となり、また母マリヤに対して「女の方」と他人行儀な尊敬の言葉をかけられました。
イエス様とマリヤとは、肉体的には親子の関係であっても、救い主としての働きにおいては、人情をはさまず、父なる神から聞いたことだけを行う従順さと、務めに徹する姿勢が表れています。
奇跡は、私たちのわがままや、人間的あわれみによるのではなく、神のみこころによってなされるものです。
「神はあわれもうと思う者をあわれむ」とみことばにありますが、水をぶどう酒に変えるかどうかはマリヤとは関係なく、新婚の夫婦にあわれみをほどこすべきかどうか、みこころを父なる神に聞いて、イエス様は奇跡を行われました。
エゼキエル34:11のみことばにあるように、神は私たちを養い、世話をしてくださる羊飼いです。
私たちが必要なものは、神が準備して必ず与えてくださると信じて、感謝して祈ることが大切です。
私たちの人情的なわがままな心がイエス様を動かしているような勘違いをしないように、神は諭しておられます。

●2/3(火)「時はまだ来ていません」
イエス様の「時」とは十字架の死と葬りと復活を表し、神の右の座に着座されたキリストを最終的に表していますが、「今は、私がする時ではありません」とは「あなたの言うことを聞いて行動することはできません。父なる神に聞いて行います」とも受け止められます。
また伝道者の書3:17「神は〜さばく」とは、時にかなったことを行う者には正しい者としての報いが与えられ、時をはずしたことを行う者は、罪を犯すことになり、神のさばきがあると考えることもできます。
その場の状況に合わせてことばを語り、行うのに時とタイミングがあることに気をつけたいものです。
自分の考えで全てを良いことだと思って行っていると、実際には良いことであっても、結果は的はずれになります。
全てのことには時があるということがポイントです。

●2/4(水)「水を満たしなさい」(箴言13:13)
ぶどう酒が必要なのになぜ水を満たすのか、その時にはわからなかったとしても、イエス様の言われた通りに行うことが一番大切なことです。
水をぶどう酒に変えるのは私たちの努力ではできない神の奇跡ですが、水をくむことや準備することは、私たちにもできることです。
私たちにできることと、できないことに対する神の助けがあって、奇跡は起こりますが、みことばを通して神が語られることをしていなければ、神の命令を守る報いとしての奇跡を見ることはできません。
神の命令を守っていけば、報われると考えることができます。
するべき労働や努力をおこたることのないように、本腰を入れて取り組んでいきましょう。

●2/5(木)「今くみ、持って行きなさい」(箴言10:8)
尊敬できる人から命令されても腹が立たないのは、それだけ自分よりも優れていて、良い方へと助け育ててくれるという信頼があるからです。
私たちは、結果を恐れて行動に移せない習慣的な考え方をしてしまいますが、神を信じているなら、神に結果をゆだねて、追われた通りに素直に従う心、すなわち神への信仰・信頼を神は教えておられます。
常識では考えられない、できないと思うかもしれないことも、神が語られるみことばに従う心を持つことによって、神は(水をぶどう酒に変える)奇跡をなされます。(例・赦せない心を赦せる心に変えてくださいます)
私たちが神に心を開いて、自我を砕き、神のみことばだから神のみわざを期待して信じて決心する時に、そこに神の奇跡は起こります。
神が良い結果に導いてくださることを信じて、神の命令を受け入れる者となりましょう。

●2/6(金)「父の家」(イザヤ56:7)
イスラエルでは年に3回祭りがあり、罪のためのいけにえをささげていましたが、遠くから来る人にとって、いけにえのための動物を持って旅することは困難です。世話をしたり、途中でけがをさせると傷のあるものとなり、捧げものにすることができませんでした。
そこで便宜上、神殿の周りでいけにえの動物を売ったら商売になるので、神殿で商売をする人が増え、また祭司たちも売場の代金を商人たちから取って、金もうけをしていました。
本来、神殿は神との関係を持つ場所でありながら、金もうけの場所となっている様子を見て、イエス様は腹立たしく思い、商人たちを神殿から追い出されました。
この父の家とは祈りの宮であり、私たちのことです。
私たちの体は養うために働くことも必要ですが、肉体を養うためだけに使うことは目的がちがいます。
私たちの心の本当の満足は、神との関係をもってはじめて平安を得ます。
祈りの家、それは、神の前に本音の自分が出せるところです。
神のいつくしみと愛を信頼して、いいところも悪いところも全部、心を裸にした自分を安心して出せる、これが祈りの時です。
この祈りをさしおいて、肉を養うような人生になってはならないことを教えておられます。

●2/7(土)「建て上げる」(第1コリント)
イエス様は、ご自身が3日目によみがえるということを指して、象徴的に「神殿を〜建てよう」と言われました。
私たちの体は神の聖なる聖霊が宿っている神殿であり、イエス様はそれを建てようと言われています。
神が安心して臨在することのできる、神のいこわれる場所、それが私たちの魂のある所です。
そして、私たちの人生は、神の神殿を完成させるために、キリストが導いてくださっている人生です。
神は完成することを楽しみにしておられます。
途中であきらめないで、イエス様の教えの中に歩んでいきましょう。


 
■2004年1月25日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   かたわら  up 2004.1.25


ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」
(ヨハネ1:48〜51)


先週までは、イエス様と2人の弟子アンデレ、ピリポとの会話でした。
イエス様は、初対面のアンデレの兄ペテロに「シモンよ、これからはあなたをペテロと呼ぶ」と言われました。また、ピリポが連れていった、初対面のナタナエルに向かって「あなたは本当のイスラエル人だ」と言われました。そしてその後のイエス様とナタナエルの会話が、ヨハネ1:48〜51に書かれてあります。今週はその中の、イエス様のお言葉を6つのポイントに分けて語ります。

●1/26(月)「いちじくの木」(詩編145:18)
この「近くあられる」というお言葉が「かたわら」という言葉と同じ意味を持ちます。「かたわら」とは距離をおかない近く、ほんのすぐ横にいるという意味です。非常に近いという意味がありますので、「わたしの大切な身近な存在」という意味でとれます。
「いちじくの木」平和の象徴。瞑想の場所。
この時代のイスラエルはローマ帝国に支配されていたので、独立国の中で平和が味わえる環境ではありませんでした。ですから、ここでは瞑想の場所という意味でとらえます。
イスラエルでは、いちじくの木とぶどうの木は、非常に聖書と関係深い木であり、それは神様との関係を表す木です。イエス様がナタナエルを「本当のイスラエル人」と言われたのは、彼がいちじくの木の下で神のことばを瞑想していたからです。ヨハネ1章「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」ことばなるイエス様が同時にナタナエルの心の中に現れたということです。
ことばなる神は、おことばを思いめぐらす時に、私たちの魂のかたわらにあって、私たちと近くお交わりできるお方です。神のおことばは生きていて力があり、私たちの思いを見分ける働きをします。私たちがみことばを瞑想していると、色々なひらめきや啓示が与えられ、悟りがもたらされていきます。
私がまだイエス様を知らない時、19才の純真に真剣に生きるということを考え、一番迷いやすい年頃のことです。人生の目的、全ての存在に対する目的がはっきりせず、それを追求し、思いめぐらし、社会の一員になることに抵抗を感じていました。
私は本当に純真な真実な気持ちで、天地を造られた唯一の神がもしおられるならば、そのことを教えてほしいと求めました。
神は、私が神を感じるか感じないかではなく、その心におられ、私を教会に導いてくださいました。
みなさん、他のことで色々と思い考えるよりは、神のことばを深く瞑想するクリスチャンの生活習慣を身につけるならば、それこそ、神はあなたに「本当に、神のかたちに似せて造られた神の子だよ」と言ってくださいます。

●1/27(火)「いるのを見た」(詩編139:23)
本当のイスラエル人とは、自分個人のことではなく、神が愛されている選民である自分の民全体のことを考え、国民は一つの家族であると考えます。
神様が私たちに目を留めてくださる大切なポイントがあります。それは神様ご自身の御心と同じ思い煩いを持つということです。
神様の心配は、アブラハムの子孫であるイスラエル人たちが滅びることに対して、大変心を煩わせておられました。なんとか彼らが本心にいつも目覚めるようにという気持ち。迷える羊たちのために心を煩わせている神様の気持ちと、ナタナエルの同国民に対する気持ちが同じでした。
私たちは個人の生活や性質に思い煩って悩むことをやめる必要があります。もっと、神の形に似せて造られた人類全体のことに思いを悩ませる必要があります。貧困の差、餓死、戦争、宗教的隔たり。
政治的な考えで世界は一つにはなりません。どの宗教であろうと、平和を保つために一番必要なことは、神の前における正しい良心という共通点を持つことです。人間は、道徳の善悪を見極めるための基準としての神を本能的に持っています。それが、神の形に似せられた証拠です。
ただ、どうして、イエス・キリストが唯一の救い主かというと、私たちの罪の贖いを成し遂げられたのは、キリストの十字架以外にはどこにもないからです。
天地を造られた神がお遣わしになった救い主は、ご自分自身を犠牲にして私たちの罪を赦すためにその御業を現してくださった、この歴史上の事実。これが唯一の示しです。
私たちも、全世界の神に造られた人々のために思い煩い祈りをささげるならば、神はそれを見られて、救い主イエス・キリストをかたわらに遣わしてくださり、あらゆる隣り人の救いの御業のために用いてくださいます。

●1/28(水)「言ったので信じたのですか」(ルカ1:45)
疑うということが不幸をもたらします。神に対してだけではなく、人や物に対して否定的にとっていくことは不幸を招きます。
イエス様は「だまされる方が幸いである」と言われました。真実を知るよりはむしろだまされている方が良い、それくらい信じ切れる人は幸いであるということです。
私たちも、人に物を取られたと疑って色々考えるよりは、あげたのだと思った方が楽ですよね。私たちは、神がおられるからそのように考えることができます。神は必ず最後に善悪を裁き、罪を裁き、報いてくださる方であるということを知っているからです。
だまされていることを知って、妬みや嫉妬で罪を犯してしまうよりはだまされて神に裁きを委ねる方が幸いです。
ナタナエルは自分が瞑想していたそのことをイエス様が当てられたことに対して、もうそのことだけで「先生、あなたは神の子です。」と突然言ってしまいました。イエス様は「私が言ったので、その一言だけで信じたのですか。それは良いことです。」とナタナエルの単純な信仰を誉められました。
神を信じていると言うならば、救い主キリストが、この地上に預言通りに来られたこの一事で、全てを信じるに値します。
ナタナエルのような純粋さを失わないよう、信じて神様に感謝していく祈りが必要です。

●1/29(木)「さらに大きなことを見る」(箴言4:18)
ナタナエルの信仰を見て、イエス様は、「まだあけぼのの始まりだよ。あなたの人生はもっとその神様に対する信仰によって、大きく神の栄光を見ることになりますよ。」と言われました。
私たちの人生は暗闇でした。キリストを信じた時に、あけぼのが始まります。イエス様を信じた時が真昼で年ごとに疑い深くなり、兄弟姉妹を信じられなくなり、教会がいやになり、牧師につまずき、最後にはイエス様しか信じられるものはない、真夜中のようになってしまう。これは何か間違っています。
義人というのはますます信仰が輝いています。なぜなら、一つの神のお言葉が確かならば、全ての神のお言葉は確かであるという希望が増し加わってくるからです。
私たちは一度借金を赦してくださったから、もう二度としないと決心するけれど、やっぱりしてしまう…。
そうしたら、もう一度悔い改め、もう一度赦してください、やり直しますから、と言います。2回くらいだったら赦してくださるだろう。じゃあ、3回、4回…ペテロがイエス様に「人を何度赦すべきですか。7回ですか。」と質問した時、イエス様は「7を70倍するほどに赦しなさい」と答えられました。ですから、神が悔い改めを続ける者を赦し続けてくださることは、当然信頼するべきです。
人はそれを甘さというかもしれません。しかし、神の前に正しい良心を持つ人ならば、悔い改めたら努力して、その借金を小さいうちに早めに借りに来て、またやり直すことを考えていきます。
正しい良心とは、神を畏れる心です。プライドや損得ではなく、神の前における、ありのままの自分です。ナタナエルはそれを正直に表して、イエス様に励まされました。私たちもこのイエス様の十字架の事実を信じることができたならば、聖書全ては間違いないと素直に信じて御言葉をチャレンジしましょう。すると、あなたの信仰はあけぼののように、真昼のように力強く輝いていく、すなわち神の大きな示しと奇跡と栄光を見ることになるでしょう。

●1/30(金)「天が開ける」(黙示4:1)
「天が開ける」とは、私たちが今まで見えなかったものが見えるようになるということが一つの大きな意味です。
天的な知恵、知識、神が持っておられるあらゆる偉大な力が注がれるということです。
私が語っているこのメッセージの内容、言葉は辞典で探します。しかし、そのことを通して神が何を考えておられるかは、キリストのもとで御言葉を瞑想しているがゆえに、天が開けているので、語るべきポイントを、神が示してくださるわけです。
ただ、ある宗教の教えに思いを潜めると、そのリーダーが祭っている霊的存在者の世界が開けているので違う思いが来ます。何に向かって瞑想するかによって、やって来る啓示が違ってくるので気をつけなければいけません。みなさんも、神様の深さを啓示していただくには、御言葉を瞑想して、天が開けているイエス様のもとで、正しい啓示を受けてください。

●1/31(土)「イエス様に仕える神の御使い」(ヘブル1:14)
救いの相続者に仕えるのが天使です。キリストの体に象徴されている教会である私たちにも、イエス様に遣わされた御使いは仕えてくださるということです。
御使いに助けられた証としては、偶然という言葉が一つの表現です。偶然とは私たちの努力や考えでは絶対に起こり得ない出来事です。人の力を越えた何かが働いて起こった出来事です。偶然に私たちが助けられたこと、事故から守られたこと、これは天使の助けがあったからだととらえて、ほぼ差し支えないでしょう。
クリスチャンには天使がいます。しかし、別の霊的存在者も存在するということを忘れてはいけません。これは神に反逆した一つの群の天使、これを、サタン、悪霊と聖書では言っています。
ここで、自分たちに仕えてくれる天使が神の前に正しい良心をもって仕えてくれる天使なのか、神を無視して自分たちの欲望を満たしてくれる天使なのか、よく考えなければいけません。誘惑は色々なところにあります。
悪霊も神の存在を認め、畏れています。しかし神の秩序の中に生き、動き、働くのはキリストに仕える天使だけであって、それ以外の天使は神の秩序を乱そうという働きをするものです。
私たちは選び取ることができます。正しい良心をもって判断しなければいけません。正しい良心こそ、神の形に似せて造られた、私たちの本来の姿だからです


 
■2004年1月18日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   的確  up 2004.1.18


ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
(第1コリント9:26)


これはパウロの、自分の人生に対する見解です。
彼は自分の人生のゴールをはっきりとつかんでおり、敵の正体をしっかりと見極め、的確な戦いをすることができました。あいまいなゴール、考え方は多くの無駄を作り出し、よけいな疲れを招きます。信仰の疲れとは、不信仰になることであり、神のことばを前向きにとらえる心の力がなくなってくることです。それでは効果的で的確な人生の歩みができなくなってしまいます。
駅伝でもコースを知らず、折り返し点がわからなければ、いつまでたってもゴールにたどり着くことはできません。私たちが的確に人生のコースを選び、決断しているかどうかを、今週は6つのポイントからみていきます。

●1/19(月)「天の御国が近づいた」(マタイ4:17)
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というみことばは、的確な人生を歩むための基本です。
イエス様は、私たちが救われるために、私たちの近くまで天国を引いて近づけてくださっています。すべての手配をご自身がしてくださったのです。
それは、私たちが危険な状態であり、滅びるばかりであったからです。危険が迫っている人々を救うために、救援機が命がけで送り込まれるようなものです。
しかし、救われた後、クリスチャンたちがもう助かったからと安心して、救いの上にあぐらをかいてしまっては、救われた意味がありません。
自分の大切な人たちが、まだ船に乗れずに岸壁に残っていたとしたら、どういう気持ちになるでしょうか。
乗れずにいる人々のために熱心に救霊の心を持つのが本当です。そうでないと、救われている感謝をしなくなってきます。救われている私たちは、もっと多くの人々が救われてくるために、自分の体験を人々に語りましょう。ご利益宗教はたくさんありますが、私たちの罪を負い、赦すことができる宗教は、イエス・キリスト以外にありません。神は親の愛をもって、私たちが自分の罪のゆえに滅びるのを悲しみ、イエス・キリストの救いを与えてくださいました。イエス様は、ご自身のいのちを犠牲にして、御国を引っ張ってきてくださったのです。この恩を忘れてはなりません。

●1/20(火)「何を求めているか」(ヨハネ1:38)
これはイエスが、ヨハネの弟子たちがついて来るのを見て言われたおことばです。彼らの心の本音を引き出すために的確になされた質問です。
今日、私たちは何を求めて礼拝に来ているのでしょうか。
具体的に求める程、それを手に入れることが可能になります。
「何を求めているのか」と、イエス様はいつも訊いておられます。あるところでは、みもとに来た目の見えない人に「何をしてほしいのか。」とわざわざ訊かれました。わかりきったことをなぜきかれるのでしょうか。それは、私たちの目的をはっきりさせ、求める心を強く起こさせるためです。
「自分が何を求めているのか」、具体的にはっきりと知ることが大切です。

●1/21(水)「来ればわかる」(ヨハネ1:39)
このイエス様の答えは大変変わっています。けれども、しっかりと的を射たことばなのです。たとえ具体的に語られても、聞くだけでははっきりとわからないことがあります。(知らない場所は、説明を聞くよりついて行く方がわかります。)
同様にみことばは私たちの人生の道しるべです。でも、ことばだけを聞いても理解することはできません。行っていく時にわかってくるのです。私たちはすぐに、頭で考えて判断してしまおうとします。しかし、考えるだけではわからないことがあります。行動に移す方がたやすくわかるのです。
みことばが信頼できるということは、みことばの成就であるイエス・キリストの十字架によって明らかにされています。
まず行ってみましょう。

●1/22(木)「呼ぶことにします」(ヨハネ1:42)
イエスはアンデレが連れてきた兄シモンに、初対面で突然「ペテロ」と呼び名をつけられました。それはイエス様が人の内面まで的確に知ることができる方だったからです。
イエス様はシモンが安定した岩のようなしっかりとした人になるようにという願いを込めて、「ペテロ」とつけられました。
私たちは人からどう呼ばれるかによって、影響を受けています。父なる神様は私たちをどう呼んでくださっているでしょうか。
夫婦間でも「おーい」とか、物のように呼ばれていたら、その関係はあまり愛情的とは思えません。
呼び方は関係を表します。
私たちは神様から「息子」「娘」と呼ばれている「神の子」です。「神の子○○さん」と呼ばれるとはなんとすばらしいことでしょうか。

●1/23(金)「従って来なさい」(ヨハネ1:43)
出会った人に突然このように呼びかけられたらどうでしょうか。呼びかける人はどういう気持ちなのでしょうか。
例えば有名な映画監督が声をかける場合は、その人を自分の映画にぴったりのイメージと見るからです。
イエス様も、その人がご自身の目的にぴったりであると見てくださって、呼びかけてくださるのです。
「従う」とは「言いなりになれ」ということではなく、ご自分の弟子として「ふさわしい」と見てくださり、私たちの罪の負債までもご自身が支払ってまで招いてくださったのです。この選びに間違いはありません。
喜んで神の子としての自覚を持ちましょう。

●1/24(土)「本当のイスラエル人」(ヨハネ1:47)
イエスはナタナエルを一目見て、このように評価されました。
すばらしいほめことばです。
私たちは、イエス様からなんと呼ばれたいでしょうか。
「あなたこそ本当のクリスチャンだ。」と言われたら、最高にうれしいですね。
本物とは、的確な少しも妥協のない状態を表します。ただ、クリスチャンを知らない世の中の人々に言われても、その人なりのイメージで言われているので、ぬか喜びしてはなりません。神の前に本物のクリスチャンとは、何よりも神を愛する心を持っている人です。
能力がなく、失敗が多くても、この心を持つクリスチャンの方が、すばらしいクリスチャンです。これが基本です。
そして神を本当に愛しているなら、そのみことばを真剣に守り続けていきます(たとえ忙しくても、聖書を少しでも読みたい、10秒でも開ける時に開きたいという思いを持ち、聖書を持ち歩くとか)。私たちは愛する気持ちが強いなら、たとえできなくても、相手のために少しでもなんとかしようとするものです。ここに自分の信仰が表されてきます。イエス様を愛する思いは誰にも負けたくないという心、「愛する」という思いを、表現するクリスチャンになりましょう。


 

 

  

 


 
■2004年1月11日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

   るつぼ  up 2004.1.12


ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
(マタイ3:15)


『るつぼ』は銀などの鉱物を精錬するために使う耐熱性の容器ですが、教会では「精錬され聖められるもの」という意味をもつものとしてとらえています。
神は私たちを純粋な神の子として育てるため、『人生のるつぼ』を与えてくださっています。私たちの人生が精錬されていくために必要ないくつかのポイントをイエス様が語られた言葉を通して学んでいきたいと思います。

●1/12(月)「わたしたちにふさわしいこと」(マタイ3:15)
イエス様は罪のまったくない方でしたが、30才になって救い主としての働きをされるにあたってバプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。それは神に仕える者としてふさわしいと決断されたので、実行に移されたのです。
私たちは神に愛され、神を敬う者としてふさわしく物事を判断し、歩んでいるか考えてみる必要があります。
損得勘定(願い事をきいてくれるか、くれないか)で神をはかってはいないでしょうか。
それは神に対する敬虔な心を失わせることになり、何でも自分の思い通りにして神の教えにしばられたくない、という傲慢な思いにつながるので、神を敬う者としてふさわしい考え方ではありません。
自分勝手な考え方ではなく、神の子としてふさわしいかどうかをまず考えて決断する者でありたいものです。

●1/13(火)「試みはなぜやってくるのか」(マタイ4:4)
イエス様は荒野に行き、40日40夜断食をして、悪魔の試みを受けられました。
イエス様の場合は「神の子として完全である」という証明を周りの人々に示し認めさせるために試みを受けられたのですが、未熟な私たちの場合は、純粋な神の子として成長するため、悪い所を見つけて改善するために試みを受けます。それゆえ天国に入るのにふさわしい者として神の合格レベルに達するまで試みはやってきます。
試みにあうことはつらいことですが、悪い所が改善されるのですから結果的には私たちの人生に益となることなることなることです。
神様がどのような意味をもって試みにあわせられるかを理解して、試みられることはすばらしいことであると感謝する者となりたい者です。

●1/14(水)「生きるとは」(マタイ4:4)
パンは肉体を養うのに必要なエネルギー源ですが、与えられている能力・思考力が肉体を養うためだけに用いられるのは残念なことです。
本来「生きる」とは肉体と共に魂も生きる事。「魂が生きる」とは隣人を愛し、善を行い悪を離れることです。
イエス様は試みるサタンに向かって、「たとえ肉体がほろんでも魂が生きているほうが価値がある」と返答されました。
私たちはイエス様を信じることによってその事を受け入れた者ですから、自分が肉を養うことより霊を養う事を優先しているかどうかもう一度心を探っていただきたいと思います。

●1/15(木)「どうして神を試みてはならないのか?」(マタイ4:7)
なぜ神を試みてはならないのでしょう。
「試み」には二通りあります。
「良い試み」とはイエス様を信じたいのでそれが確かなものであると証明するため、奇跡としるしを体験するためにする場合。
「悪い試み」とは神は良い神であると知っているのに、最後まで信頼し続ける事をしないで、試してしまう場合です。
神は完全で良い方なので、信頼をもって願いを捧げ、待ち続けていると、私たちに一番良い時に、必要なものを与えてくださいます。
それが神に対し、敬虔な心の態度です。
しかし神の愛を疑い試みる事は、真実を尽くしてくださる神様に対し、不遜の罪を犯す事になりますから気をつけましょう。

●1/16(金)「試みる者」(マタイ4:10)
私たちはサタンがもってくる試みに対し、一つ一つ乗り越えていく事によって成長していきます。
しかし同じ失敗を繰り返し、罪(悪い習慣)から離れることができないのはなぜでしょう。それは罪にとらわれている(仕えている)姿です。
サタンは私たちを試みてきますが、私たちはサタンに仕える者ではありません。ですからイエス様は三回目の試みを受けられた時、「引き下がれ、サタン!」と宣言されました。
私たちはなぜ試みとしてきたものにとらわれてしまうのでしょう?
それは「罪から離れたくない」という本音が心の中に隠れていて、欲望を持ち続けているので、イエス様のように毅然とした態度で退けることができないのです。
欲望を持ち続ける事がどんなに危険であるかということを早く悟り、大きな害を受ける前に切り離す決断をする事が必要です。

●1/17(土)「仕えるべきお方」(マタイ4:10)
サタンは人々が神のもとに立ち帰ることがないよう、イエス様を自分の配下に置こうとして誘惑してきました。
もし私たちの心の中に「力づくで人を従わせたい」という強い思いがあるなら、それはサタンと同じ心ですから、早く捨てなければなりません。
なぜなら、その思いの中に悪霊が宿り、人を傲慢にし、悔い改めをさせない心の醜い者になるからです。
神は無理矢理人を従わせる方ではなく、自発的に応答し、従うことを待っておられるので、神に仕える心をもっていたら、人が喜んで仕えるようにさとしていく知恵が与えられます。
しかし、神を敬う事をおろそかにしていると、自分が頂点に立って人を従わせたくなる誘惑にかられてくるので、気をつけなければなりません。
私たちは常に神である主にだけ仕える気持ちを大切にしながら、人に対しても「私は神に仕えている」という自覚を持って関わっていく必要があります。

 

 

  

 


 
■2004年1月4日 日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦 師)

  成熟のはじまり


するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
(ルカ7:49)


レビ記が終わり、今回からは、イエス様が語られたおことばを通して、いろんな神様のお考えを福音書を中心に学んでいきたいと思います。
第1回はルカ2:49から学びましょう。
この箇所は、イエス様が12才になられた時の出来事で、ユダヤの祭りの1つである過越の祭りが終わって、家に帰る途中の出来事でした。
イエス様がおられないことに気づいたヨセフとマリヤはエルサレムに戻り、神殿で祭司たちと話をしているイエス様を見つけました。
イエス様がマリヤの言葉に対して、答えられたのが49節のことばです。
四福音書の中で、ルカの福音書にだけ、イエス様が12才の時のこの一言が大切な教えとして記録されています。
これには「成熟の始まり」という意味が含まれています。

●1/5(月)「律法を楽しむ者」(ガラテヤ3:23)
私たちは、救い主イエス様への信仰によって罪赦され、義とされる前は、神様との関係においては、霊的にはまだ未成年の状態であり、律法にしばられた生活をしなければなりませんでした。
しかし、信仰による救いが現れたならば、監督の下に置かれるのはなくなり、未成年ではなく成人になる、というふうに、ガラテヤ3:23のみことばを考えることができます。
あなたが神を信じることができたということは、律法に縛られて嫌だという領域から、律法を喜び、神様のみこころを理解できる程の魂の成熟の域に入ったということです。
ユダヤのしきたりでは、12才はまだ未成年であり、13才から成人として認められます。が、まだ12才であるのに、大人のような態度をとられたイエス様の行動を、ヨセフとマリヤは理解することができませんでした。
イエス様は、肉体的には12才という未成年であっても、霊においては、神を敬う信仰を持った成熟した者であるということを証しているのです。
信仰の成人というのは、肉体的年齢に関わらず、神のみこころを理解できる信仰を持ったのことで、魂の成熟の域に入ったことを、私たちに教えておられるのです。

●1/6(火)「養育係の下で学んでこそ楽しむことができる」(ガラテヤ3:24)
人生というゲームを楽しむためにはルールが必要です。ルールがなければゲームを楽しむことはできません。律法という養育係の下で、ルールを学んでこそ、人生を楽しむことができます。
あなたが人生を楽しみたいと思うならば、ルールを正しく守ることが必要です。
全人類の共通のルールとして、神に主権を置き、神に心を合わせていくなら、人生の楽しみがわかってくるものです。
神さまは私たちが未熟な者であるのに、熟練した者となることを信じて、このいのちを私たちにあずけてくださったのです。
ですから、神がなぜこのようなルールを作られたのかを理解して、私たちは自分の人生ゲームを楽しむことが大切です。

●1/7(水)「おとなの仲間入り」(第1コリント14:20)
今、神様は、私に何をすることを望んでおられるか、物事の考え方をしっかりと持ったわきまえのある大人であると、私たちを信頼してくださっています。
しかし、神様が私たちを信頼してくださっていても、私たちが神様を信頼していなければ、みことばが心を縛って苦しくなります。
イエス様が神殿におられたのは、大人としてルールを楽しむことを人生の喜びとして味わっておられたからです。
神様の気持ちをくみとることができる魂へと成長していきたいものですね。

●1/8(木)「役立つ年齢となった」(ヨハネ15:4)
わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
役立つとは、枝がぶどうの木に接ぎ木されて、実を結ぶことができると認められることです。
神は、異邦人である私たちを接ぎ木して、実を結ぶようにされました。
私たちはぶどうの木に接ぎ木されたクリスチャンです。
ぶどうの木に接ぎ木されたものと認められた、役立つ者として認定されたのです。大人として認められたのです。完成を目指してチャレンジしましょう。

●1/9(金)「父にとって有益なもの」(第2テモテ2:21)
誰でも自分自身をきよめて罪汚れから離れるなら、尊いことに使われる器になります。
尊いことに使われる=有益なもの→協力できる関係
役立つ者として選ばれた自分自身を清め、与えられた立場を維持し続けることが有益なものと言えるのです。
大人として認定されたなら成熟したものとしての状態を保ち続けることが大切です。

●1/10(土)「神の子として」(ローマ8:15)
イエス様はご自分をヨセフの子とは呼ばれませんでした。
父なる神の子としての自覚を持っておられました。
私たちクリスチャンは人の子であるけれども、たましいは神の子です。この自覚が、今私は何をすべきかと向かわせます。神の子であるなら、御父のお仕事に協力してゆく者と考えるべきです。イエス様が宮におられたのは、子として親の仕事を手伝うのは当然なことだからです。宮に行ってみことばを教えられたのです。私たちが神の子としての自覚を持っているならば、何が一番大切なのかわかってきます。神の子としての自覚を失わないでください。
この自覚をいつも思い起こさせてくださるのは聖霊様です。
『神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともにあかししてくださいます。』(ローマ8:16)
神の子としての自覚が成熟への第一歩なのです。