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■2003年12月28日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
神の評価

ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがって主に特別な誓願を立てる場合には、その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。主へのささげ物としてささげることのできる家畜で、主にささげるものはみな、聖なるものとなる。それを他のもので代用したり、良いものを悪いものに、あるいは、悪いものを良いものに取り替えてはならない。もし家畜を他の家畜で代用する場合には、それも、その代わりのものも、聖なるものとなる。主へのささげ物としてささげることのできない汚れた家畜一般については、まずその家畜を祭司の前に立たせる。祭司はそれを良いか悪いか評価する。それは祭司があなたのために評価したとおり、そのようになる。もしその者が、それを買い戻したければ、その評価に、その五分の一を加える。人がもし、自分の家を主に聖なるものとして聖別するときは、祭司はそれを良いか悪いか評価する。祭司がそれを評価したとおり、そのようになる。もし家を聖別した者が、それを買い戻したければ、評価額に五分の一を加える。それは彼のものとなる。人がもし、自分の所有の畑の一部を主に聖別する場合、評価はそこに蒔く種の量りによる。すなわち、大麦の種一ホメルごとに銀五十シェケルである。もし、彼がヨベルの年からその畑を聖別するなら、評価どおりである。しかし、もしヨベルの年の後に、その畑を聖別するなら、祭司はヨベルの年までにまだ残っている年数によって、その金額を計算する。そのようにして、評価額から差し引かれる。もしその畑を聖別した者がそれを買い戻したければ、評価額にその五分の一を加える。それは彼のものとして残る。もし彼がその畑を買い戻さず、またその畑が他の人に売られていれば、それをもはや買い戻すことはできない。その畑がヨベルの年に渡されるとき、それは聖絶された畑として主の聖なるものとなり、祭司の所有地となる。また、人がもしその買った畑で、自分の所有の畑の一部でないものを主に聖別する場合、祭司はヨベルの年までの評価の総額を計算し、その者はその日に、その評価の金額を主の聖なるものとしてささげなければならない。ヨベルの年には、その畑は、その売り主であるその地の所有主に返される。評価はすべて聖所のシェケルによらなければならない。そのシェケルは二十ゲラである。しかし、家畜の初子は、主のものである。初子として生まれたのであるから、だれもこれを聖別してはならない。牛であっても、羊であっても、それは主のものである。もしそれが汚れた家畜のものであれば、評価にしたがって、人はそれを贖うとき、その五分の一を加える。しかし、買い戻されないなら、評価にしたがって、売られる。しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。人がもし、その十分の一のいくらかを買い戻したいなら、それにその五分の一を加える。牛や羊の十分の一については、牧者の杖の下を十番目ごとに通るものが、主の聖なるものとなる。その良い悪いを見てはならない。またそれを取り替えてはならない。もしそれを替えるなら、それもその代わりのものも共に聖なるものとなる。それを買い戻すことはできない。」以上は、主がシナイ山で、イスラエル人のため、モーセに命じられた命令である。
(レビ記27章)
いよいよレビ記の最終章となりました。今週はレビ記27章全体を通して、神の評価というテーマです。評価、価値づけるということですが、神様の評価はこの世の中の評価とは考えが違いますので、勘違いのないように学んでいきたいと思います。
●12/29(月)「秩序」(レビ記27:1〜25)(第1コリント14:40)
評価…ヘブル語…見積もりをする、秩序をつける、順序をつける、整理整頓
神様の評価とは、分別する区別するという意味も含まれた言葉であるということです。
ここでは「秩序」ということを語ります。なぜ秩序が必要なのでしょうか。それは神は平和の神だからです。全宇宙、すべてのものは、神の造られた全き完全な作品として平和を保つために存在しています。
秩序の中には力ある者は弱い者を保護する責任があります。弱い者は強い者に服従する義務を負っています。この二つの関係が秩序を保つ秘訣です。ただ、権威主義の人は、例えば、「妻は夫に従え」と書いてあるからと言うわけですが、弱い立場である妻を保護し愛することに無責任な行動をとっておいて従うことだけ要求します。神様はそんなことを願っているわけではありません。
神様の評価は、平和を保つための秩序を生み出すものであって、決して優劣をつけて、劣っている者はだめだということを意味する者ではないと受け止めてください。
●12/30(火)「さばき」(レビ記27:1〜25)(ヤコブ4:12)
裁きとは人を裁くという意味において、例えば「自分はだめだ」という自己評価。このことに関して、神は本当にそのように言っておられるのでしょうか。神様は「あなたは高価で尊い」とイザヤ書で言われています。しかし「私はそれは信じられない、私はそんな良いものではない」と言った場合、神様が下された評価は間違っていると、結果的にはなるわけです。そのように自己評価してしまって、神様から離れようとしてしまう、そんな愚かなことにならないよう、私たちは神の正しい評価が必要です。
「イエス・キリストを信じる者はみな救われる」という神様の救いの条件に対して、信じているならば、あなたを義人として認めてくださると聖書に書いてあります。
私たちには、最終的な神様の評価を受けるまでに、やり直すチャンスを何度も与えられているわけです。それまで勤め励むことが神様への敬虔な姿勢ではないでしょうか。私たちは人を裁いたり、自分を裁いたりすることのないよう、気をつけましょう。
●12/31(水)「造り主である」(レビ記27:1〜25)(ローマ9:20)
造り主には自分の造ったものを評価する権利があります。例えば、陶器を造る時に、食器として造るのも、足洗い用の食器として造るのも、それは造り主としての当然の権利ですね。ただ、一般的に、口に入れるものを入れる器と、汚れたものを洗う器とでは、尊いものに用いるものといやしいものに用いるという差を感じます。しかし、造る側としては両方とも必要なものです。存在価値、利用価値としては、どちらも大切なものとして受け止めることができるわけです。ですから、造られた方は、造ってくださった方の計画に沿って自分の立場を受け入れていくことが必要です。
私たちは能力も才能も性格も違います。そういう面で優劣を考えれば、確かに差ができるでしょう。しかし、この宇宙全体の中で不必要なものは何一つ存在していません。そして神は創世記で、「全てのものをお造りになって満足された。全てよしと見られた」とあります。
「どうしてあの家族になったのか」「どうして私の人生はこうだったのか」あなた自身で人生を評価することはできるでしょう。それはあなたの自由意志です。しかし、神様はあなたにそこを通らせる中で、大切な存在として人生を支えて導いて来られた。これは造り主の主権です。ですから私たちもすべてのことを感謝しなさいという聖書の言葉が、そういう意味で受け止めることができるわけです。ただ、自分の評価に対しての痛み、悲しみを受けて来られた人、神様は私たちを正しく評価して導き愛してくださっているお方ということを信頼できるために、十字架というしるしを与えてくださったということを考えていただければ、聖霊様によって少しずつ傷もいやされていくと思います。
●1/1(木)「教えの基準」(レビ記27:1〜25)(ヘブル13:16)
神様の評価として喜ばれることは、善悪の基準となるものです。私たちの存在に対しては、大切なものと思われていますが、行いにおける結果に対する神の評価は喜ばしく思われる時もあれば、悲しく思われる時もあり、また懲らしめなければならないと思われる時もあります。それは、私たちの存在を生かすためにそのような感情的な表現をされます。
ですから私たちはできる限り、神に喜ばれるものを選び取っていくことです。悪い評価だから失格ということではなく、私たちが神に喜ばれることを生み出していくことを神は望んでおられ、悔い改めるようにと教えておられます。
聖書のお言葉を教えられることにおいて、教えの基準となるべく、神の評価を私たちは正しく理解して、善に親しむクリスチャン生活を歩んでいくように努めていきましょう。
●1/2(金)「聖絶のもの」(レビ記27:28〜29)(ヘブル10:30、31)
聖絶=絶滅させる、少しも破片を残さず完全に取り除いてしまう
神様は私たち人間社会の中で、練り聖めるということをされます。また、この世は金や銀を精錬する炉であるとも言われます。この社会で互いに私たちがもみ合うことによって、神を見い出し、畏れ、そして神の戒めである「互いに愛し合いなさい」という言葉を守っていける、成熟した神の子として歩んでいくことを、神はこの地上にご計画されています。この計画に反抗し続け、妨害する者が当然存在してくるわけです。それでもなお神様は望みを持ち続けられます。しかし、神の評価判断、裁きは完全ですから「もうこの人は絶対に悔い改めない。神に対する反抗をやめない」と神が評価された場合、その人は聖絶されるということです。
旧約聖書の中に、イスラエル人を通してカナンの地に住んでいる民、特にアマレク人を聖絶せよ、ということが書いてあります。愛なる神がなぜ?と思われるかもしれませんが、アマレク人はこの先永遠に神を信じない者であると評価されたからです。ただし、興味深いことは、レビ記には聖絶は最も聖なるものであり主のものとされる、とあり矛盾します。取り除くべき者が、なぜかというと、神はアマレク人を自分のものとして自分の手において処理する、すなわち神の手に陥るということです。
羊飼いは羊の群を育て導いていくわけですが、その中に新しく生まれた子羊たちの中には、他の羊や親の羊たちに従わず、群れから勝手に離れてしまうものがいます。何回も出てしまう子羊は、羊飼いがその足を折って肩にかついで歩んでいくといいます。
イエス・キリストの新約の時代においてどう受け止めたらいいでしょうか。
教会における人間関係で、私たちは神様のお言葉の力強さ、愛の深さを体験していきます。しかし中には神の子として成長させられる、この練り聖めの働きを妨害してくる人がたまにいます。これ以上関わるとかえって教会が「互いに愛し合う」という神様のお言葉を壊してしまう…。そのような人が出た場合、教会を追い出すのではなく、神にその人を完全に委ねるということです。聖絶ということは、その人が直接、神様との関わりの中で、評価結果を出していただくという意味でとらえるわけです。
そこで、私たちがするべきことは、自分の愛の大きさを認め、とりなしの祈りを続けていくことです。それが神にゆだねた示しとなります。
勘違いをしてはいけないことは、自分の好みによってその人を無視するということではありません。
●1/3(土)「初子と十分の一」(レビ記27:26〜27)(マタイ23:23)
私たちが神様に敬虔な態度を失わないために、この初子を捧げ、十分の一を神に捧げるという規定が律法の中に記されました。
クリスチャンである私たちは収入の十分の一をお返ししていますね。これはなぜするのか?一番大切なことは、正義とあわれみと誠実さの示しとして神の前に差し出すということを、イエス様は教えられているわけです。もし気持ちがあっても行動しなかったらそれも不完全です。内にあるものの表現として、行動というものがあるわけですから、行動だけあって心が伴っていないのも神はよくないと言われるわけです。
私たちの言葉が真実であるかどうかということは、心のこもったものであるという証が必要です。すなわち十分の一とは、神様の恵みによって私たちは生かされているということを覚え続けるための示しです。
初子とは、生まれた最初のものという意味です。全て神のものとして捧げるとあります。人間の初子はお金で贖われます。これは神の一人子、イエス・キリストです。神にとって初子である、イエス・キリストの贖いのみわざを忘れないために、私たちは初子を捧げるということです。動物の初子も全部その意味を心に刻むためです。
みなさん、初子を捧げるということは心の痛いことであり、大きな犠牲です。神様のそのようなお気持ちを忘れないためにこの初子を捧げる示しとしているわけです。
私たちの心が、神様の評価に合わせた正しい考え方とみことばを受け止めていくために、この初子と十分の一の示しというものを謙虚に受け入れましょう。

■2003年12月21日 クリスマス記念礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
永遠のいのちの素晴らしさ

このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。
(第1ヨハネ1:2)

クリスマスにプレゼントを贈るという習慣は、ヨーロッパのキリスト教文化から始まりました。特に貧しい人たちにプレゼントをします。
それは、神様が私たちにすばらしいプレゼント(ギフト)を与えてくださったからです。そのギフトとは「永遠のいのち」です。この「永遠のいのち」とは何か?を今日は考えてみましょう。その素晴らしさは、人々に伝えずにはおれないものです。
●12月22日(月)「永遠のいのちとは賜物である」(ローマ6:23)
永遠のいのちとは神からの賜物です。賜物とは何かをした結果として得た良い物、考えていた以上の良い物という意味があります。(努力の賜物とか)それは上位の方から受けとるということでもあります。しかし神の賜物は、何かをした報酬として与えられるものではなく、ご自身が一方的に、与えたいという願いをもって、与えてくださるものです。受け取る私たちがそれにふさわしいか、何か特別なことをしたからとかいうわけではなく、ただ神の恵みによります。それは、もらえるはずのない人から与えられるという特別なプレゼントであり、しかもその内容は与えてくださる方にふさわしい、高価な価値あるものなのです。神が与えてくださる賜物は、物質以上のものである「永遠のいのち」です。このギフトは、神のすばらしい品位とご性質を表しています。
●12月23日(火)「永遠のいのちとは信仰のことである」(第1コリント13:13)
いつまでも残るものは永遠のものであり、永遠のいのちには信仰が含まれています。信仰とは神を信じ尊ぶこころです。人に対しては謙虚な心として表されます。その動機はつつしみつかえる敬虔さであり、心の美しさを表しています。
神からのプレゼントは、あなたの内面的魂の美しさです。その美しさはつつしみつかえる姿勢で人々に表されます。いくら外面を装っても、この内面の美しさがないと何の意味もありません。
永遠のいのちを求めるとき、神は永遠に存在する魂の美しさを与えてくださいます。
ある女性は定年になってもホテルでずっと働いてほしいと願われ、すべてのサービスの部門を任されています。それは心の底から出てくる「つつしみつかえる」すばらしい笑顔に、人々が惹きつけられるからです。クリスチャンの美しさは、神を仰ぎ見る姿勢から、生まれてきます。
●12月24日(水)「永遠のいのちとは希望のことである」(第1コリント13:13)
希望とは、ある事を成就させようと願い望むことであり、将来によいことを期待する気持ちです。
神が与えてくださる希望は、どんな困難も苦しみも決して妨げられないほど力あるものです。
クリスチャンは人生にどのような絶望的な苦しみが起きても「神はよい方である」という希望をもち続けます。
しかもこの地上の人生がすべてではなく、永遠につながる人生の基礎であると信じているので、どのような出来事にも失望で終わらず、むしろ期待して前向きに生きることができます。
陸上競技で1945年、1マイルを4分で走った選手がいました。これが歴史上最高の記録だったのです。当時、これが人間の肉体の限界だと言われました。そして9年間、この4分の壁は誰にも破られなかったのです。
しかし、9年目にある選手が3分59秒4という世界新記録をつくったことによって、4分の壁が破られると、その後数年の内に、26人の人たちが66回も新記録を更新しました。不可能だと言われたことに挑戦した人々の中で、ひとりがその不可能を破った時、その可能性を信じた人々によって、次々と記録が更新されていったのです。それはこのひとりの人がチャレンジした姿に、人々が希望をもったからです。
神はひとり子イエス・キリストを通して、私たちに、人生はこの地上だけではなく、永遠があるという希望を示してくださいました。イエス・キリストの生涯は、地上で優しくしいたげられている人々の希望となりました。そして私たちの人生のどんな逆境、苦しみにも希望を与えてくださいます。イエス・キリストの存在、復活は永遠への希望を与えてくださるのです。この希望を内に抱くなら、人生は常に前向き、肯定的なものに変わっていきます。
●12月25日(木)「永遠のいのちとは愛のことである」(第1コリント13:13)
愛とは、ギリシャ語でアガペーと言い、神の愛、究極の愛のことを言います。あなた自身が永遠のいのちをもって存在し続けるのは「愛」のゆえです。
「愛」を考えない人生は目的がなく、不安定です。「愛」は永遠の存在なのでどのような環境、状況にも左右されず、むしろ逆境の中でこそますます輝きます。
神は私たちの人生を楽なものに導くことはされません。楽な人生で、「愛」を見い出すことは難しいからです。むしろ苦しみの中で、神の永遠の愛の素晴らしさを見い出し、愛されている素晴らしさを知ることができます。
人間は神の愛が注がれる器として造られました。人とは、神の永遠の愛を受け止めることができるよう、神の形に似せて造られた、すばらしい秘蔵物なのです。人の魂は永遠の神の愛によってしか満たされません。快楽や感情のみには満たされることはありません。
愛は感情的なものではなく、しっかりとした意志と自覚によって成り立ちます。それゆえ神は、私たちがいかに神に背き、身勝手に生きていても、変わることなく愛してくださっています。受ける側がどのように変わっても、決して変わることのない愛が永遠の愛であり、神の私への永遠のギフトである愛です。この神の愛にも心を開きましょう。
イエス・キリストの十字架はその愛を永遠に示してくださいます。
●12月26日(金)「永遠のいのちとは神のことばである」(ヨハネ6:68)
イエス様のことばが理解できず、多くの弟子たちが去っていきました。しかしペテロはイエス様のことば中に、永遠のいのちを見いだしました。
ことばは人格の中心をなすものであり、霊であり、いのちです。
人間はことばによって行動します。その人が内にもつ考え、信念、理念によって、その人の行動が決まってきます。「何も考えない」という人は、「何も考えない」ということばをもって生活しています。
カウンセリングでよくセルフイメージということばを使いますが、それは自分への評価です。その評価によって、その人の人生の方向が決まります。
「何をやってもダメだ」というセルフイメージを持つ人は、そのように生きていくのです。
ことばは人生の路線を引きます。それゆえ、どんなことばを受け入れるかによって、その人の人生が決まってきます。この世だけの人生だと思っている人はこの世だけの人生という生き方をします。しかしクリスチャンたちは、今日死んだとしても、明日という永遠があります。それゆえ、永遠に向けて生きる人生を生きます。永遠ということばを内に与えられているので、あらゆることが永遠の人生のためと受け取ることができます。
●12月27日(土)「永遠のいのちとはキリストのことである」(第1ヨハネ5:20)
永遠のいのちを形に表してくださった方が、イエス・キリストです。この方以上にすばらしい方はおられません。あなたの人生で、自分の人生を変えるきっかけとなる人に何人出会うことができるでしょうか。私の人生を変えた出会いは、イエス・キリストであり、次に妻と子供たちです。妻も子供も神の賜物です。何よりもすばらしいのは、クリスチャンホームをつくる基を与えてくださったイエス・キリストです。
イエス・キリストに19才で出会ってから、少しずつ変えられていきました。しかし強情であり続けたら変えられることはありません。
自分の強情を砕いてイエス様にふれる時、私たちは変えられていきます。永遠のいのちの賜物を私たちに届けてくださるために、救い主イエス・キリストは誕生されました。心を開いてこの方を受け入れましょう。
永遠のいのちのギフトがあなたの内にあふれてきます。

■2003年12月14日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
命令を行わない

もし、あなたがたがわたしに聞き従わず、これらの命令をすべて行なわないなら、また、わたしのおきてを拒み、あなたがた自身がわたしの定めを忌みきらって、わたしの命令をすべて行なわず、わたしの契約を破るなら、わたしもまた、あなたがたに次のことを行なおう。すなわち、わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは、種を蒔いてもむだになる。あなたがたの敵がそれを食べる。わたしは、あなたがたからわたしの顔をそむける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。あなたがたの力はむだに費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう。また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく。わたしはまた、あなたがたのうちに野の獣を放つ。それらはあなたがたから子を奪い、あなたがたの家畜を絶えさせ、あなたがたの人口を減らす。こうしてあなたがたの道は荒れ果てる。もし、あなたがたがこれらのわたしの懲らしめを受け入れず、わたしに反抗して歩むなら、わたしもまた、あなたがたに反抗して歩もう。わたしはまた、あなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを打とう。わたしはあなたがたの上に剣を臨ませ、契約の復讐を果たさせよう。またあなたがたが自分たちの町々に集まるとき、わたしは、あなたがたの間に疫病を送り込む。あなたがたは敵の手に落ちる。わたしが、あなたがたのパンのための棒を折るとき、十人の女が一つのかまであなたがたのパンを焼き、はかりにかけて、あなたがたのパンを返す。あなたがたは食べても、満ち足りない。これにもかかわらず、なおもあなたがたが、わたしに聞かず、わたしに反抗して歩むなら、わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる。わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の台を切り倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を積み上げる。わたしはあなたがたを忌みきらう。わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。」以上は、主がシナイ山でモーセを通して御自身とイスラエル人との間に立てられたおきてと定めとおしえである。
(レビ26:14〜46)
今週は命令を行わないこととはどういうことなのか、また従わないことへの損失を学ぶと共に、神様のお気持ちを悟りましょう。
●12/15(月)「契約を破ること」(ガラテヤ3:17)
私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。
神はユダヤ人の先祖アブラハムに契約を結ばれました。
「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。
あなたは多くの国民の父となる。・・・
わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。・・・」(創世記17:4〜8)
神様にとって「契約」とは、どのようなことがあって守り通すべき約束のことです。それゆえ神聖なものといえます。
律法においては「破棄してはならないもの」という強い拘束力をもっています。自分の存在(命)をかけて守り通す約束を神は私たちにしてくださったのです。
神は一度約束されたことは破棄されることはありません。
約束を絶対に守っていくしるしとして契約が結ばれるものです。
神は完全なお方なので、契約を解除されるということはありえないことです。
神と結んだ契約は永遠に続くものです。
神はイエス・キリスト(仲介者)を通して、私たちに神の子となる契約を結んでくださいました。
・全ての罪を無いものとして見て下さる。また未熟な私たちゆえにこれから犯すであろう罪も無いものとして見てくださいます。
・神の国の相続者としての身分を与えましょう。
・救い主(イエス・キリスト)の名によって求める者には何でも与えましょう。
・罪や暗やみに打ち勝つ権威、力も与えられる。
(他にもたくさんあります)
私たちは、神の子としての歩みを決心し、救い主、主を心から尊敬し、従っていきましょう。
●12/16(火)「不実なことを行うこと」(テトス1:15)
きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。
不実=不信の罪を犯す、反逆行為をする
信頼を裏切る行為は、相手を疑うことから始まります。
なぜ命令を守ろうとしないのかを吟味し、罪に惑わされないようにしましょう。
イエス様は、「忌まわしいものだ、偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいのように…。」と言われました。
不実な行いとは、内側に罪を持っていながら、表面は合わせていくということです。
クリスチャンが偽善者とならないために、本来の自分の気持ちはどこにあるのか知ることです。健全な良心があるならば、たとえ行いができていなくても、不実な行いとはなりません。良心の考えている結果ができていないだけなのです。
「偽った」のではなく、力が無く、成長していなかっただけなのです。
私たちの本音を正しい良心におかなければなりません。
正しい良心とは神の前に出す心です。(善悪を判断する心)私たちは、神の型に似せて造られた正しい良心を持っています。洗礼は正しい良心の神への誓いです。
●12/17(水)「神に反抗すること」(ローマ8:7)
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや服従できないのです。
反抗=反対、へそ曲がり、向き合えば必ず敵視する
みことばを聞くと反抗心が湧き上がってくるのはどういう理由からでしょうか。
心のどこかに神を敵視する者が潜んでいるのではないでしょうか。
罪は神に敵対するものです。
私たちの内には、魂を養うより肉のことを優先してしまう罪の力が潜んでいるのです。
肉の欲望はあなた自身ではありません。
良心の思いか、肉の思いか区別をはっきり知るべきです。どの部分が神に反抗し、どの部分が神を愛しているか見分けていかないと、だまされてしまい、クリスチャン生活に失望してしまいます。
良心において純粋な神への気持ちをしっかり持つことです。
本音がたましいの健全さを願っているなら、肉の誘惑がやってきても、私の本音はここにあるとしっかり留まり続けることです。何が良いことで、何が悪いか、神の前に喜ばれることは何か、「心の一新によって自分を変えなさい」とあります。反抗する心の動きを見極めて、正しい良心で生活しましょう。
●12/18(木)「おきてを拒み定めを忌み嫌うこと」(ヘブル10:29)
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
忌み嫌う=投げ捨てる、嫌悪する
命令を守りたいのに守ることができていないというのと、はなから守る気持ちがないのとの違いを理解しておくことが大切。
神の命令を良心的に守りたいけど、今はそれが守れないという思いを持っているならば、忌み嫌うことにはなりません。しかし、頭から、キリストの血潮(私たちを罪ないものとしてくださる十字架の贖い)を深く悟ろうとせず、理解しようとしなかったり、みことばに対して聖なるもの、清いものと受け取らないで、神に対し不従順の姿勢を持つことが、忌み嫌う行為となるのです。
神の愛と善意を踏みつけ、忌み嫌う者に対する処罰は重いのです。
●12/19(金)「懲らしめの目的1」(第1コリント11:32)
しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
命令を行わなかったら神からの懲らしめがやって来ます。人間の懲らしめは一方的な感情の押しつけとなりがちです。
神からの懲らしめの目的
1)契約を守り続けるため
懲らしめる=しつける、訓練する
クリスチャンに対する神の裁きは、刑に伏させるものではなく、正しいことを行い続けるように懲らしめるというものです。契約関係の正しい状態に戻すための懲らしめなのです。
●12/20(土)「懲らしめの目的2」(ローマ2:29)
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神からくるものです。
2)無割礼の心をへりくだらせるため
無割礼の心=良心がきよめられていない心
へりくだらせ=うちのめされ、おとなしくなる。謙虚になる。
割礼とは→身体にきずをつけること。きよめられた者としてのしるし
無割礼とは→きよめられていない心
無割礼の心とは→良心がきよめられていない心
善悪の区別がわからずに行動した時、神からの懲らしめがやってきます。その時、心に痛みがやって来て初めて善悪の判断が悟れるようになります。私たちにとって懲らしめが時として必要です。懲らしめがやって来る前に命令を守る者とならせていただきましょう。

■2003年12月7日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
秩序ある生活

ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。
(第1コリント7:35)
『秩序ある生活』をするために、色々な規則を守るよう命じられると、古いしきたりに従うような感覚を持ったり、自由を制限されるような思いを抱き、窮屈に感じられる方があるかもしれません。
もし『秩序ある生活』をする事に不自由を感じるのであれば、そこには神の恵み(祝福)を受けることを妨げる何かが隠れている場合があります。
今週はレビ記の中から秩序ある生活をする事がどんなにすばらしい神の祝福を受ける事になるかを学び、世の中の考え方に影響されていた部分を悔い改めていただきたいと思います。
●12/8(月)「安息日を守り聖所を畏れる」(レビ記26:2)
(マルコ12:29〜31)
イエス様が聖書の中で一番大切な命令として教えられた事は、「神を愛する事」と「自分自身のようにとなり人を愛する事」です。
それはレビ記の中にある「安息日を守る」ことと「聖所を畏れる」ということと同じ意味を表しています。
「安息日を守る」とは神との交わりを表し、神を愛する事につながります。神は全くの創造のわざを終えられ、完成したものを見て深い達成感を味わい安息されたのです。それは神が創造物と関係をもって楽しみたいということを表しています。安息日を守ることは、創造主である神が被造物である私たちに愛を注がれ、私たちは神の愛に信頼をもって応答することによってやすらぎ、前向きな歩みをするための力がわき上がるのです。
「聖所を畏れる」とは兄弟姉妹お互いを敬い大切にすることの象徴ですが、新約聖書では、キリストを信じ、神を愛する者たちの中に神が臨在すると約束されています。それは教会の建物ではなく、クリスチャンが集合している場所が聖所であるということです。
その所では神との縦の関係だけではなく、兄弟姉妹との横の関係をしっかりつなげ、互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思う(ローマ12:10)ことが大切です。
この二つのいましめは、聖書全体の中心とする所ですから、それをゴールとして目指して生きていきましょう。今日できなかったからといって卑下したり、神を批判することなく、忍耐強くありたいものです。
●12/9(火)「命令を守り行う」(レビ記26:3)
(第1ヨハネ5:3)
「命令」という言葉は、縛られるという感じを与えられますが、聖書では「愛する」ことと同じ意味をもっている事を示しています。
神の命令は私たちに対する愛から出ているので、神と良い関係を保つためにはその命令に従う事が必要です。
私たちのうちに神に対する愛と信頼があれば、「命令」は束縛にはなりません。
人間関係(夫婦など)においても、神が互いの間の仲介者となって、真に愛し合える者としてくださいます。夫婦が一つとなるためには、神の愛の介入が不可欠です。変わることのない愛そのものである神がおられてこそ、私たちは互いを愛し、信頼できる者となれるのです。
神の命令は愛から出ているのですから、その事にしっかり目を開いてください。
●12/10(水)「収穫の祝福」(レビ記26:4〜5)
(第2コリント9:8)
神は命令を守る者への報いとして、4つの祝福を与えてくださいましたが、その第一は「豊かな収穫」です。
神は私たちが全ての事に満ち足りることができるようにという気持ちを持っておられます。ただしそれは、神の命令を守り秩序ある生活をする時にもたらされる祝福です。
私たちの心が神の命令を無視し、さびた水道管のように罪や自我によって妨げられ、その管が細くなったり、ふさがれたりしていれば、せっかくの神の恵み(祝福)が十分に流れることはできません。
私たちは秩序ある生活をする事によって、神の恵みが十分に注がれるための条件を保ち続けることが大切です。
●12/11(木)「敵に勝る」(レビ記26:6〜8)
第二の報いは敵に打ち勝つ権威が与えられ、サタンを服従させる力が与えられます。
イエス様は100%神に忠実に従われたので、サタンを100%従わせることができました。
しかし私たちは、同じ権威が与えられているにも関わらず、100%神に従っていない部分があるので、サタンを完全に従わせることができないのです。
神の秩序に私たちの生活を当てはめていき、神のルールを守るクリスチャンになると、サタンも従うのですが、これは決して楽な事ではありません。
しかし、楽でないからこそ価値があり、私たちの人生に輝きが出てくるのです。
期待しているものを得たいならば、そのルールに従わなければ得ることができないという事に気づいてください。
●12/12(金)「子孫の繁栄」(レビ記26:9)
第三の報いは、増え広がることです。それは力が生まれてきて広い範囲における影響を及ぼす存在になります。
今、日本社会の道徳性が低くなっていき、特に若者がマスコミの様々な情報により、良心が死んだ状態になり、正しいものの見分けがつかなくなってきている事にお気づきでしょうか?
なげかわしいこんな状態を良い方向に向けるには、良いもの=(クリスチャン)が増え広がり、悪い者を圧迫していき、世の中の道徳基準を上げることが必要です。しかしクリスチャンが世の中と妥協をし、秩序ある生活に限度を設けるなら、クリスチャン人口は増え広がることはありません。
良い影響を与えたいという願いをもって、神の命令を喜んで守る者になるべきです。
一人一人のクリスチャンがもう一度、自分自身のクリスチャンとしての生き方を反省してみましょう。
●12/13(土)「神の民となる」(レビ記26:10〜13)
第四の報いは、全ての被造物の中にあって「神の民」となる身分を与えられ、神と私たちが特別に深い関係を持つ事ができることです。
「神の民となる」とは、神に属する者とみなされ、神の用意しておられる特典が与えられることです。
その特典とは救い(永遠のいのち)を得ることですが、そのことにクリスチャンはどれだけの価値をおいているでしょうか?
神は私たちに「神の定められた秩序を守る」という負荷を負わせられます。しかしその負荷に勝る特典が与えられ、神とより深い位置関係を持つことができる恵みのすばらしさを思い、喜んで神の定められた「秩序ある生活」をする者になりたいものです。

■2003年11月30日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
私たちの神、主

もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
(ローマ14:8)

私たちの神、私たちの主と言えるほどにイエス様を知ることができたら幸せです。
信頼できる方がおられるということは、たましいに安心感、平安が得られます。
信じるものがない時は、まわりの環境に大きく影響されてしまいます。信頼できる方をもつことのすばらしさを、今日は学んで行きましょう。
●12/1(月)「買い戻しの権利を失う」(レビ記25:29〜31)
買い戻しの権利とは悔い改めるということです。悔い改めれば赦されるという権利をいただいています。悔い改めとは、もとの状態に戻るという意志表示であり、決断です。買い戻し、それはもとの状態に自分の持ち物を取り戻すということです。(气yテロ2:5)
城壁のある町の中に自分の家を持っていて、その家を売り渡した場合、1年以内に買い戻さなければ、それは二度と買い戻す権利を失ってしまいます。城壁のある町=霊の家、神の都、神を愛する者たちの集合体(教会)
教会に神様は住まわれる。建物ではなく、一人一人が互いに愛し合っている中に住まいを設けられるのです。
城壁のある町(教会)に住まいを持っている人が、罪の誘惑や失敗によって、その場所から出て離れると、そこに穴が開いてしまいます。その穴を維持しておくための、神の赦しの期間は一年(象徴)とされています。その期間を過ぎると戻って来れなくなりますよ、と言うことです。
救われるていることを軽んじて、自分勝手な人生を歩み始めて、悔い改めの期間を逃すことがないように、買い戻しの権利のある内に、悔い改めてもとの状態に戻ることが大切です。
救われていることの大切さを理解して、イエス様の救いを無駄にしないようにしましょう。
●12/2(火)「レビ人の立場」(レビ記25:32〜34)
(黙示録1:6)ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。
神に仕える特別な立場を頂いた人々のことです。
レビ人は神に忠実に従ったという出来事を通して、特別な立場、祭司を継ぐ家系が与えられました。
私たちも、イエス様を通して、レビ人のように神様のために特別な位置関係が与えられた者です。
神にとって、私たちは存在価値を高く評価されたということです。
私たちは救い主イエス・キリストを信じるという、神への忠実な心を表すことによって、レビ人と同じように光栄な存在価値を与えられたのです。謙虚に受け止めたいものです。
●12/3(水)「兄弟から利息を取らない」(レビ記25:35〜38)
(气ハネ3:17)兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者、とは兄弟から利息を取らないという神からの教えです。
利息を取るとは、あわれみの心を閉ざした状態です。私たちが兄弟と言えるのは、イエス様の父(神)を父としているからです。兄弟というものは利害関係のつながりではなく、あわれみの心を喜んで与える(開く)ことができるものです。兄弟にあわれみの心を注ぐ強さと、そのあわれみを感謝できる敬虔さを身につけてまいりましょう。
●12/4(木)「兄弟を奴隷としてはならない」(レビ記25:39〜46)
(ローマ6:19)あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
人間的言い方→世的考え方
肉の弱さのため→この世的価値観と思考パターン
以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷すなわち罪を犯すことを価値あることと思って、不法に手足をゆだね、罪の奴隷としていました。今度は喜んで、義の奴隷として、自分の人生を歩んでいくことを教えられました。
奴隷とは支配されるという立場です。
罪の奴隷の時は、罪の欲望のままに引きずり回されていました。
クリスチャンになると、義の奴隷として正しいことを喜び、神に喜ばれる正義と公平と愛を全うすることができるように、罪の奴隷から義の奴隷として、自分の人生を主人である神におゆだねしなさいということです。
教会では上下関係を持つのではなく、皆、義の奴隷です。
勝ち負けの世界ではなく、優劣の世界でもなく、兄弟姉妹お互いに支配されたり、支配するのでもないのです。
私たちは自分から喜んで義の奴隷とならせていただきたいものです。
●12/5(金)「身売りの買い戻しの権利」(レビ記25:47〜55)
(使徒11:18)人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを、異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。
神がユダヤ人だけに悔い改めという権利を与えていたのではなく、異邦人にもお与えになりました。
失敗してもやり直すチャンスが与えられたのです。
身売りの買い戻しの権利とは、私たちが的外れで罪に身売りしても、買い戻しの権利を忘れてはいけません。これではいけないと、心を悔いてやめようとイエス様のもとに向きを変えることです。
権利という力に目が開かれることが大切です。
(権利とは、あなたに利益をもたらされる力)
あなたに罪に打ち勝つ力がなくても、権利という力があなたを救うのです。
●12/6(土)「主を畏れる」(レビ記26:1)
目的(天)に達するために、目標を具体的に持つことです。
きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標とすることが大切です。
ありもしないことを言いふらされたり、ののしられたり、クリスチャンということで差別を受けたりする時、試されます。
正しい良心ということで迷います。
本当に神を信じているか、形だけの信仰かどうかです。
ゆさぶりがやってきて初めて意識できるのです。
私は神に従う者として、自分の心を神に信頼させる。私は神の御教えの基準によって、迷うことなく善悪を判断し、信仰を持って迫害する者を、神の愛で見ることができると。
偽りのない愛の花を咲かせるには、主を畏れる(私の造り主がおられる)尊敬の心から出てくる姿勢です。
神を認めずして、きよい心は生まれません。
神の形に似せて造られた私たちの良心にこそ、主を畏れる気持ちが備えられているのですから、大切に守っていきましょう。

■2003年11月23日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
買い戻しの権利の放棄

地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。
(レビ25:23〜28)

土地の持ち主は、その権利を永久に持っており、たとえ売っても、必ず買い戻さなければならず、本人がダメなら親類が助けてでも買い戻さないとならないとあります。それは、神が与えられた土地を、その家系が引き継ぐことの大切さを表しています。それが今の私たちの信仰生活にどのように適用されるかを、今週は考えてみます。
すべての土地…神のもの
イスラエル人…(私たち)…そこに寄留させていただいている者
神がある土地をその人に任せたなら、ずっとその土地を管理していく責任、務めを持つことを意味しています。それゆえ、買い戻さないとなりません。それによって土地が健全な形で守られ、収穫が効率よく得られることになります。50年区切り(ヨベルの年)で、もとの持ち主のもとに返すからです。土地の値段は、その土地の一年間の収穫に50年を掛けた額になります。
このやり方は土地の高騰化を抑え、土地が一個人に集中しないようにする大変良い方法です。
又同国民の間で利得のみを考えた商売をさせず、むしろ買い戻せない人を助けて、買い戻すことは、深い兄弟愛を教えることにもなります。
●11/24(月)「買い戻しの権利とは」(ローマ2:5)
買い戻しは悔い改めを表しています。聖書の言う悔い改めとは、もとの正しい状態に戻ることを表しています。土地を買い戻さないと、人の貪欲が地境を勝手に動かし、貧富の差がどんどん広がってしまいます。
悔い改めの権利…これがなかったら失敗しても二度とゆるされません。神は、私たちが不完全で失敗が多い者であるがゆえに、権利として「悔い改め」を認めてくださっています。権利ゆえに、神はどのような失敗をしても、悔い改めるなら必ず赦してくださいます。
神は秩序の神であり、法を守られる方ですから、悔い改めを主張するなら、権利を認め、必ず赦してくださるということです。
それゆえ私たちは、のびのびとクリスチャンライフを送ることができるのです。悔い改められることを喜びましょう。なぜならそれは成功への第一歩となるからです。
<放棄してはならないもの5つ>
●11/25(火)「神のかたちを放棄してはならない」(气Rリント11:7)
神の形に似せて造られた人間は、神が与えられた私たちの「分」です。私たちは人間として造られたのですから、それを捨て去って動物のようになってはならないのです。
人間は人格を持ち、道徳を持ち、神を礼拝することができますが、動物はできません。動物は食べて寝て、大自然の営みの一部分の役割を果たしているに過ぎません。彼らは環境に従ってのみ生きられますが、人は地を治めるためにその環境を変えることができます。この神の似姿である人間としての誇りを決して捨ててはなりません。それは、自分というものを見失なわないためです。
私たちは各々目的をもって、神に造られています。もし進化論で人生を考えたら、目的も意味もなくただ空しくなってきます。しかし、私たちは創造論にしっかりと立ち、自分の存在の正しい認識を持って、神に与えられた目的に向かってしっかりと歩みましょう。進化論はひとつの仮説にすぎません。証拠はひとつもないのです。
しかし、創造論の証拠は何十年も前から預言されていた救い主イエス・キリストが現実に歴史に実在されたということです。
●11/26(水)「良心を放棄してはならない」(气eモテ1:19)
信仰の破船とは、神との関係を切ることにより、良心を無視するようになり、それによって信仰が大きなダメージを受けてしまうことを表しています。良心を無視して、単にキリストを信じているという生活を送っているなら、その人の信仰は空しい信仰にすぎません。
クリスチャンがキリストの姿に近づけないのは、良心を無視した生き方をしているからです。世の中の良心の基準では、キリストの良心の基準に近づくことはできません。神の前にある良心とは、高い道徳水準をもち、律法的なものとは異なります。例えば律法では「目には目を、歯には歯を」といい、損害を与えたら、同等のもので償うよう要求します。しかし、神の前にある良心に基づいて考えるなら、自分が受けた痛みを相手に要求することは、相手も同じ痛みを持つことになるので、これ以上争い、憎しみを避けるため、許すという決意をします。復讐は解決の手段にはなりません。
アメリカのイラク戦争も攻撃したらやり返すという方法で、未だに解決していません。むしろ報復の繰り返しになっています。これは聖書的ではありません。しかし、国としてそう対処せざるをえないアメリカの現状があります。これが人間の弱さです。誰も血を流したくなくても血を流さざるをえないのは、すべての人々が創造主の前に、愛し合える兄弟として認め合うに至っていないからです。良心を見失った人々は和解もできません。
しかし、私たちは地上にのみ希望をもってはいません。それゆえ神の前にたとえ殉教しても義を貫くことができます。いずれ神はこの罪に汚れた地を一掃して、新しい地を造られます。
その時、この世の悪と共に滅びることがないよう、人々に救われるよう伝えるために、クリスチャンはこの世に生かされています。私たちは、この世の終わりと裁きについて人々に告げ知らせる役割を担っているのです。
●11/27(木)「人生を放棄してはならない」(ローマ5:3〜4)
人生はプロセスが大事です。練られていくことを放棄してしまったら、人生を放棄したのと同じです。練られるというのは、患難に遭い、苦しみを受けるということです。
又患難とは、私たちが何も不当なことを行っていなくても、突然受ける苦しみのことです。つまり人生とは苦しみによって練られるものです。
人に親切にしても報いてもらえなかったりすると、心の葛藤を感じる人は良心が生きている人であり、損害を与えられたという被害者意識と、相手も苦しいのだなあという思いやりの気持ちが葛藤するのです。この葛藤が私たちを練り清めます。否定的、マイナス的な考え方との戦いはエネルギーがいります。こういう考え方に勝利するには、神様との交わりを通して希望を与えられ、存在の目的と意味、価値を教えられて、良心を強くして戦うしかありません。自分の与えられた環境に対し、つぶやいてはなりません。イスラエルの人々のカナンの土地の割り当ては、神が定められたように、私たちの人生も神が割り当ててくださったのです。他の人の環境、状況と比べてはなりません。
すべての環境、状況は、神があなたを練り清めるために与えられたのです。そのことを信じて、感謝して生きることが大切です。
●11/28(金)「親子関係を放棄してはならない」(コリント12:14)
パウロは信仰による親子関係を、自然的な親子関係に重ね合わせて説明しています。パウロは、親が子供の家を訪ねるような気持ちで、コリントの教会を訪ねました。その時「あなたがたに負担をかけません。」と言っています。それは、自分は親であるので、子供の存在そのものが喜びであり、親の気持ちは、子供に世話になるのではなく、子供を世話してやりたいというものだからです。それは育てるという心です。
しかし、残念なことに、物質的、利害的なものがこの親子関係にも入ってきて、最近は親が子供に保険金をかけて殺害させるというような痛ましい事件も起きてきています。
親はたとえ下の世話をしてもらうようになったとしても、あくまで親として、人生の先輩として子供を導くという姿勢を崩してはならず、子供も親は親として育ててもらっているという尊敬を失ってはいけません。
どのような人生の話も、失敗も成功も子供は教訓として聞くことができます。
正しい親子関係を捨ててはなりません。ただの利害関係になってしまっては悲劇です。どのような親であっても、否定的にとるか、肯定的にとるかは子供のとり方次第です。親が悪いから、自分がひねくれてしまうという訳ではありません。どういう受け取り方をして、子供として生きるかはその人次第です。親を否定し、関係を切ってしまっては、正しい良心は育ちません。
親も子供のために、犠牲を払って、育てていくという気持ちを貫くことが大切です。
●11/29(土)「夫婦関係を放棄してはならない」(气yテロ3:7)
「妻は女性であって、自分よりも弱い器である」と聖書にありますが、これは性格的なものを表しているのではなく、神の前における立場の違いを表しています。神は夫に家庭を治める権威を与えられました。夫の最終的な決断が家族の運命を決めるという、大きな責任が夫には与えられているのです。これは夫婦における神の教えです。
能力があるかないかではありません。夫に能力がなければ妻の賢さによって夫が決断すればいいのです。つまり権限(最終的決断)が夫にあるので、妻は弱い立場になります。たとえどんな決断を夫がしても、最後まで愛を貫き通すのが結婚の誓いです。離婚は正しくありません。誓いとは、どんなことがあっても、命をかけて守り抜くことです。互いに精神的慰めを求めるだけだったら、友人として過ごす方がいいでしょう。
生涯をかけて、一人の妻を守り抜くなら、それは神に報いられる人生です。そういう人生を送る人は、成熟した良心を持っています。
夫として妻として、生涯をかけて、実を結ぶために互いに尽くす人生を送ってゆきましょう。忍耐を養いましょう。
(しかし、やむを得ない離婚も確かにあります。それは神の前の正しい良心によって判断されるべきです。)

■2003年11月16日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
まことの解放

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
(ガラテヤ5:1)

今週は安息日とヨベルの年ということが中心です。すなわち、解放と自由が主題となります。本当の解放と自由を与えてくださったのはイエス・キリストです。私たちは何から解放され、自由にされたのかということを意識しなければ、だまされ偽られて、くびきを負ってしまいます。今日はそのことを学んでいきたいと思います。
●11/17(月)「土地にも主の安息」(レビ記25:1〜5)(ルカ8:15)
レビ記には、収穫をする土地にも安息年を守らせるという規定が書かれています。
今は機械を用いて健全な土地を維持できますが、化学肥料などを使っているので何十年に一回は田んぼの土を一から混ぜ合わせなければならないと言われています。健康なものが育っていくために、自然においても7年目には土地を休めるのと同様、私たちの霊的な面、信仰生活にもいえます。「良い地というのはたくさんの実を結ばせる」ルカ8:15とあります。神のみことばの種が私たちの心に豊かに実を結ばせるために、よく耕された良い地の心を保ちましょう。
私たちは週に一度、教会に来て神様の前に礼拝を捧げます。自分の本心を出せ、安心し、安息できる一番の場所が礼拝です。神様を受け入れるということは、心が耕されている状態です。神様の前に素直な自分自身、そこにみことばが蒔かれると豊かに実るのです。
日曜日にたとえどのようなことがあったとしても、『とても賛美を捧げる気になれないという理由も神様はご存知だから、ありのままの姿で主の前に行こう』この気持ちが、耕された良い地であり、安息を守る心構えです。決して隠し所のない正直な自分の弱さも汚点も認め、全てを認めて神の前にこれが私ですという気持ちで礼拝を捧げ、みことばを聞くことです。素直に神様の前に出て、みことばの実がさらに次の週に実るように心がけていきましょう。
●11/18(火)「それは食料のためになる」(レビ記25:6〜7)(ヨハネ16:33)
安息を得るということは、ありのままの自分が出せ、神様とのつながりができたということです。それによって、私たちの魂に平安が与えられます。この平安は人生に起こってくるあらゆる艱難を耐えることができ、困難に勇敢に立ち向かうための力の支えとなり、罪の世に勝利するためのエネルギーのもととなります。
なぜ、不安があり、将来に不安があって、神を信じることができないのしょうか。なぜその不安が感情面にも思いの中にも表れてくるのでしょうか。それはあなたの魂に満足が得られていないからです。あなたの心は違うもので満たされてしまっている…。いつの間にか物質的な物を通して魂に平安を得ようとしているのです。
しかし『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのです』と聖書にあります。たとえ貧しくとも、心の糧が十分にあれば、その貧しさを乗り越えることができ、全てを感謝することができます。あなたの不満はみことばで解決されていますか?不信仰に対して心にみことばが出てきますか?
みことばが心に食料として豊かに実らないのは、あなたの魂に安息を得させていないということです。すなわち、礼拝には来ているけれども正直なありのままの自分を神様の前に全てをさらけ出していないので、それが妨げになっているのです。今日、みなさんがこの礼拝を無駄にしないためにも、どんな環境の中にあってもあなたの魂が豊かな実りをもって食糧となってみことばが得られていくならば、全てのことがどれほど感謝できるか、どうぞ、みことばを実行してください。
●11/19(水)「50年目を聖別」(レビ記25:8〜10)(ヨハネ8:32)
ヨベルの年…真理が私たちを本当に自由にする
50…解放、自由(真理に目が開かれる)
真理に目を開かれる。これが本来の解放と自由であるということです。その真理とは、存在の目的のことです。人間の存在目的は、人間全ての共通の真理です。マイクは拡声器ですから、声を大きくすることが存在目的であり、真理です。そしてそれだけではなくて、きれいな音で大きく隅々まで人々に音を伝えることができるかを追求していくのがマイクです。人間も同様で存在目的を追求していくと、その人の人格も品性もみがかれ、向上し、成長していきます。
少なくとも私たちは、神の姿に似せて造られた神の子供であることは間違いありません。そして私たちは地を治めるためにこの地上に置かれたという働きの目的があります。神の子、神の栄光を表現する者、見えない無限の神を見える形で表現し、表すのが私たちです。神様は無限にすばらしいものを持っておられるから、全ての人がそろってこそ完全な神様を表すことができます。ですからたくさんの人が増え広がることは、神様が創世記で語られました。「生めよ増えよ地に満ちよ」
それはご自身のすばらしさが無限にあるからです。その一つを担うのがあなたです。良いところを出す、これこそがあなた自身ですから、悪いところはあなたではなく、それは罪です。それを、あなたの良心で分けていただいたら、真理による自由な生活を生きることができます。悩んだり窮屈に思うのは、真理に心を向けていないからです。もし、神の形に全然似ていない部分から物事を見ても、その失敗を通して反省し、気づいて真理に目を向けてもう一度見直してください。そうすると前向きな積極的な考え方で物事をとらえていきますから、そこに自由が出てきます。そのようにしてこの50という真理に目覚めた自由を味わっていただきたいと思います。
●11/20(木)「所有地、家族のもとに帰る」(レビ記25:11〜13)(マタイ16:26)
私たちが神から離れた罪人であって、神に対して多くの罪を犯し続けてきた損失を償い、贖うことは誰もできません。
神様のもとに帰りたいと思っても、借金が残っているので帰れない状態です。しかし、神様はそういう状態で一生苦しむことを望んでおられませんので、イスラエルの社会では50年ごとに元に戻すという神様の律法があります。借金があってもヨベルの年には全部なくなってしまいます。しかしそこには条件があります。借金をするにも50年のサイクルで赦されていくので、次のヨベルの年まで何年あるかによって、いくら借りられるか、返せるか、計算して借りていきます。ですから、それ以上のお金は絶対に借りることはできないので、今のカードローンのように無差別に借金を増やしていかなくて済むのです。これはとても興味深い社会のための貧富の差の少ない、均等のとれた神様のお考えがここに入ってます。
「もとに戻る」ここでは家族のもとに戻ることをポイントに考えてみました。イエス・キリストが十字架にかかって私たちの借金の清算をしてくださったがゆえに、私たちは神の家族のもとに帰ることができるということに、私たちは気づいているでしょうか。
49年目の第7の月の10日、この贖罪の日、これはヨベルの年の前の年とに、また特に重要な贖いの日として、そこでいけにえが捧げられて、そしてその翌年に解放を宣言します。イエス・キリストはこのヨベルの年の象徴です。私たちが償うべきものをイエス様が全て身代わりとなって返してくださったので、神様を天の父なる神様と呼ぶことができ、親子関係のつながりをもって願いを聞いてくださり、交流を持って、神の子として育っていくことができるのです。
あなたが自由に物事を考えて、神様の前にありのままで受け入れられているのは、イエス様のおかげです。そうでなければ私たちはもっと罪の力に引っぱられて、人間としての一番大切な良心を捨てて、この世の欲の価値観に左右されて、罪の奴隷としての生涯を送らなければならなかったのです。私たちはヨベルの年を迎えられていることに感謝を捧げていきましょう。
●11/21(金)「土地の売買」(レビ記25:14〜17)(ローマ13:8)
ここでは特に畑などの生産性のある土地の売買について書かれてあります。値段の付け方は、ヨベルの年を基準に、その土地の一年間の生産力に合わせてその年数をかけたものです。そして、ヨベルの年が来たら、その持ち主に返します。これが、本来神様が言われる聖書的社会主義、共産主義の考え方です。最初、神様が12部族にカナンの地を分け与えた時「この地境は絶対に移してはならない」と言われました。買ったとしても、ヨベルの年には元に戻るわけですから、どこかの部族だけ土地が大きく広がっていくということはあり得ませんでした。資本主義社会や民主主義社会は、貧富の差がどんどん大きくなっていきます。競争社会、勝った者だけが富める者になりますが、神様はたとえ自分の罪や失敗で借金をつくって土地を売らなければならない状況が起きても、必ずもとに戻す、それによって損失を受けないように考えられているわけです。
返すことが分かっていながらその人の土地を買うのは愛の犠牲です。これこそ神様が造り出された社会構造であって、「強い人は弱い人を担うべきです」というローマ書の言葉がここに表されます。私たちが兄弟姉妹の中で隣人愛に立った方法で貸し借りをするのです。イエス様は「貸すことは与えることだ」と言われました。金額の問題ではなく、あなたが心の愛の大きさの計りに従って貸していく、それが一番神の前に罪を犯さない方法です。
罪汚れを一つも持たない神の子イエス・キリストは、絶対に罪を受け入れないというプライドを砕いてまでも、私たちの罪をご自身の身に負って救いたいと願われました。永遠という時間の流れの中で、神は一度だけ罪の汚れを身に受けられました。私たちを愛する愛のゆえに、一度だけという決心をされました。これは永遠に一度だけの救いです。私たち罪人を神の子としてもとの状態に戻すために犠牲を払われた、その心の痛みと砕かれ方は相当なものです。
自分の身を守るだけの信仰生活から弱い立場の人たちを支える人生へ一歩踏み出していきましょう。
●11/22(土)「安らかに住むために」(レビ記25:18〜22)(マタイ6:31〜33)
これは、約束の地に安らかに住むために、7年目ごとの土地の安息を守っていくならば、神は6年目に3年分の収穫を与えるという約束をしておられます。イスラエルの人々はカナンの地に入ってから、この約束を一度も守りませんでした。それで神様は強制的に守らせることになりました。それは、彼らの不信仰のために、アッシリヤ、バビロニアが攻めてきて、イスラエル人は捕囚としてカナンの地から移されました。その期間が70年間でした。この70年は安息を地に与えなかった年の70回分でした。神様は語られた以上成就される、というのはそれほど大切なことだったということです。それは、安息を社会の一部にした生活リズムを持つ事が大切であり、「神の国とその義を第一にする」マタイ6:33です。
7日目、7年目、7を7倍したその翌年の50年目に休みを取ること、全部安息ということを中心に考えられたものです。これは、神の秩序によって守られた平安を意味します。神の国とその義があなたの秩序になっていれば、あなたの魂はいつも豊作だということです。であるなら、平安なので、たとえ困難にあっても揺さぶられないので、安心して立ち向かう思慮深さを、知恵をもって打開できるということです。私たちにはこの無限の大宇宙で神のみわざを行っていく永遠の御国が待っています。
今の私たちはこの地上で小さな模擬試験を重ねながら、経験を積みながら、不可能は何一つないという信仰をつくり上げていきます。この礼拝がそれほど私たちの魂の養い、成長に重要な役割を果たしていることにぜひ気づいて、これからもできるかぎりみことばを聞き、神様との交わりを通して心を豊かにしていただきましょう。

■2003年11月9日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
償い

かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。あなたがたは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」モーセがこのようにイスラエル人に告げたので、彼らはのろった者を宿営の外に連れ出し、彼に石を投げて殺した。こうしてイスラエル人は、主がモーセに命じられたとおりに行なった。
(レビ記24:17〜23)

先週は、エジプト人を父に持つ者と、イスラエル人の争いを通して、「自分の神を冒涜する者は殺されなければならない」という、神様の裁きの意味を学びました。
それに続いて神様は、相手に傷をつけ、損失を与えたら、同じ価値のもので弁償しなければならないという裁きの方法を示されています。かりそめにも、とは、過失であってもという意味ですから、もしこの神様の方法が、日本の憲法に採用されたらどうなるでしょう。
どういう理由であれ人を殺したら自分も殺されなければならないということは、過失であっても交通事故で人を殺したら自分も死刑になるのですから、運転も慎重になるでしょう。
ここで神様は、それほど人の命は大切なもので、かけがえのないものだと言われているのです。
目には目を、歯には歯をとは、復讐の方法ではなく、相手を傷つけたら同じ事が自分に返ってくるので、争いをしてはいけないということなのです。私たちは人と争うと必ず、言葉や暴力で人を傷つけてしまいます。しかし、どんな理由であれ人を傷つけていいわけはなく、どのような言いわけも自分を正当化することになるので間違っています。神様による正しい裁きは、同じものを持ってお返しする(償い)ということです。今週は償いについての神様のお考えを学んでいきましょう。
●11/10(月)「果たす」(ローマ13:7)
償いとは、当然果たすべき正しい務めという意味があります。相手に損失を与えたらそれと同等のものを返すのが、当然の義務です。100万円の損失を与えたら、100万円返すのが果たすべき正しい行動です。しかし、100万円を返さなくてもいいよ、と許された場合は、それで何もしなくてもいいわけではありません。
許してくださった方を心から尊敬し、「ありがとうございます」と心からの感謝を表現することが当然の義務です。
義務とは、あなたの感情がついていかず、理解できなくてもするべき正しい務めのことです。
イエス様は、私たちの身代わりに十字架にかかり、大きな損失を負ってくださいました。それによって、私たちは神様へ自分の与えた損失を払わなくてもすむようになりました。
だからといって償いがなされたわけではありません。
ゆるされた私たちの当然果たすべき義務(償い)は、救い主を信じることです。神様は、私たちにお金を求めたり、言いなりになることを喜ばれたりする方ではなく、救い主イエス・キリストを信頼してほしいという思いを持って、償いのすべてとかえてくださっています。
だから、信じる者は救われる、というわけです。
イエス・キリストを信じることが、こういう点からも大切な意味があることを深く考えてみてください。
●11/11(火)「回復する」(ヤコブ5:15)
償いとは、元の健全な状態に戻す(回復する)という意味があります。どうして信仰による祈りが回復をもたらすのでしょうか?
イエス様は、私たちの罪のための償いとして、神様の前に裁きの苦しみを受け、とりなしの祈りをしてくださっています。「私が十字架で裁きを受け、その代償を払ったので、人々をどうぞ責めないでください。罪に定めないでください。あなたの子として、御国を相続する者として、彼らを赦してください。」と祈ってくださっているわけです。そしたら、父なる神様は「そんなことは出来ない」とは言えません。なぜならもう代償が支払われたからです。だからといって、神様は無理矢理に聞かれたのではなく、とりなすイエス様の愛と哀れみの心に感じて、心から人々をゆるすということを決心されたのです。
同じように私たちも、病んでいる人々の代わりにイエス様に償いの祈りをするのです。本当は本人がするべきなんでしょうが、本人は病の中にいるほどに神様との距離ができてしまったので、その人の祈りはきかれません。罪という溝があれば祈りは聞かれないからです。クリスチャンでも罪を持っていればその祈りは聞かれません。でもそれをイエス・キリストの前に悔い改めて、イエス様との良い関係にあれば、祈りがきかれるようになり、病む人を回復させるという信仰の祈りの働きをすることができます。
人々の健康のために、ぜひとりなしの祈りをしていきましょう。
●11/12(水)「完成する」(ガラテヤ3:3)
完成されるためにはルールがあり、働くべき人が必要で、別の方法では完成されません。例えば家を建てるには大工さんに頼むべきで、魚屋さんでは家は完成されません。また初めは大工さんに頼んでいても、途中から八百屋さんに頼んだのでも完成されません。
そのように、私たちも、御霊(みことばと共に働く)によって、神の子としての人生を歩み始めたのに、肉による自然的欲求や、地上での経験や体験によっては、神の子として成長することは無理ですよと言っています。神への償いをする時も、救い主を信じるという方法以外で完成させることはできません。私たちは神様のお心を傷つけ痛めて、大きな損失を与えました。しかし私たちは力のない者で、弁償することはできません。そこで神様ご自身が、人類の罪を弁償してくださり、弁償してくださった救い主を信じることで、受けた傷をすべて赦すという方法をお決めになりました。イエス様は神の質を持った神の子であり、人の罪をあがなうための血を持たれた方なので、神様の心をやわらげ、傷ついた人を穴埋めすることができたのです。
ですから、償いを完成するためには、イエス様に頼り、イエス様を信じなければならないのです。しかし、私たちが、自分がどれだけ神様の心を傷つけたかということに気づいていなければ、イエス様を信じる意味が見えないので、償いという形の弁償は難しくなります。
自分がどれほど罪深く、どれほど多く赦されているかをわかっている人が、身代わりになってくださったイエス様を深く愛することができるので、イエス様を信じる信仰が償いとなるのです。
●11/13(木)「報いる」(气eサロニケ5:15)
私たちは悪をもって悪に報いてしまうと、歯を折られたのに目をえぐり出すというような限度を超えた復讐をしてしまう可能性があるという事と、仕返しをする事で、あなた自身が罪人であり、悪人になってしまいます。
ですから私たちがするのは、目には目を、歯には歯をではなく、目をえぐられたら100万円ぐらいえぐった人に与えるくらいの気持ちになりなさいというのが、イエス様の教えです。
すなわち、あいさつをしてくれる人にあいさつをしたからといって、何の報いがあるだろうかということです。
取られたから取り返すというのは罪人でもしていることです。私たちは、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて恵みを与えてくださる正しい神様の息子・娘なのですから、悪をもって悪に報いず、かえって善をもって悪に打ち勝ちなさい、これが復讐を留める最善の方法ですということです。
多くの人が過去の出来事によって心に傷を受け、現在も心をコントロールできない不安定な状態になっているのはなぜでしょう。それは過去に報われなかったものを残しているからです。過去のつらい出来事によって自分は損をした、穴があいたという意識があるからです。
変えられない過去の出来事がマイナスではなくプラスになるためには、時間と空間を超えた偉大な存在であるイエス・キリストを信じることによって、永遠の命というかけがえのないものを手に入れることのできた今の自分にとって、過去のすべてがイエス・キリストに導いたのだと気づくこと以外にありません。
神を見いだすことは、存在のすべての真理を悟ることだからです。人に穴埋めして欲しいと思っている限りいやされません。悩み、苦しんで、ああ私はもう神様を信じるしかないと悟れた人が一番幸せなんですね。
●11/14(金)「平和を保つ」(ローマ12:18)
あなたが事故を起こして保険業者に頼んで、法的な手続きをすべてすませたとします。
しかし、それだけでは相手と平和を保っていることにはなりません。あなたが自分の過失を認め、誠意と善意を尽くして、当然するべきこと以上の償いの心を表していく時、相手の心はなだめられるのです。
良い出会いではなかったけど、これからも関係を続けたいと思います、と自ら進んで関係を持ち、せめて年賀状のやりとりをするぐらいに心をつなげてこそ、平和を保っているということで、これが完全な償いという意味です。
私たちも、イエス様が罪を負ってくださったからといって、ほっておくのではなく、心をつなげないといけません。神様は、私たちの存在価値以上の御子を代価としてささげてくださったのです。
私たちは、もう神様には頭が下がりますと、敬意を払うこと以外にできることはありません。
人と争っていろいろ言い訳するような人でも、みことばが示されたら「イエス様のおことばですから何も言えません。わかりました。信頼します。アーメンです」というような尊敬の態度を持つことが、償いの姿勢といえます。
●11/15(土)「返す」(マタイ18:34)
一万タラントという一生かかっても返せないほどの借金を、王様に免除してもらったしもべがいました。しかし、そのしもべは、自分に対して100デナリの借金をしていた仲間のしもべをゆるさず、牢に入れてしまいました。その話を聞いた王様は「なんということをしたんだ」と怒って、しもべを牢に入れてゆるしを撤回してしまいました。
この話は、心を大切にしていかないと理解できません。許してもらっているから今の私があり、生活の自由が保障されている、そういう恵みをいただいたのだから、自分が貸したお金によって苦しんでいる人をさらに苦しめることはバチ当たりだというような道徳的な考えから理解する必要があります。
たとえ王様でも一万タラントは大きな損失です。けれどもそれ以上にしもべが借金に縛られて損失を受けることのないようにと、しもべの命の大切さと存在の重みを認めて許してあげたのです。
それなのに、他の人を許せないという心の持ち主をそのままにしていることは、王様に汚名を着せることになります。それで、獄吏につながれることになったのです。
神様も私たちをイエス・キリストのようなすばらしい人になると大きく見積もってくださって、十字架で犠牲を払われたのです。
あなたがそのことに気が付いたら、周りの人も同じように、神様に大きく見積もられたすばらしい人だと自分をへりくだらせて、許し合えるようになるはずです。
神様は私たちを通して、ご自分の赦しを全世界に与えたいのです。しかし、神様の愛によって自分の心を変えようとしない心のかたくなな、不敬虔な者を放っておくと、余計に社会の秩序が乱れます。
人をできていない、わがままだと責めている人は、全部を返さないといけないという羽目に陥ってしまうことのないように、受けた神様の赦しの恵みを忘れないようにしましょう。

■2003年11月2日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
自分の神への冒涜

さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった。人々は主の命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。そこで、主はモーセに告げて仰せられた。「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその者の頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。
(レビ記24:10〜16)
非常に厳しい箇所ですね。これは規則としての神のみことばが語られており、絶対に犯してはいけないことを私たちの心に刻むために、律法は教えられています。
ここにはエジプト人の父とイスラエル人の母から生まれた息子と、あるイスラエル人との争いの内容は欠かれてありません。どんな内容であれ、神の御名を汚し、のろう者は殺されなければならないということははっきりします。どちらが正しいかということではなく、口に出した者が罰せられるのです。
これは想像ですが、あえて神は、エジプト人の父とイスラエル人の母との間に生まれた子供を説明しているということは、他のイスラエル人から見れば、混血であり、汚れているということです。問題が起こり得ます。初めは何かの行き違いからだったかもしれません。そのうちイスラエルの男性は、相手の弱みである混血ということを責めたのだと思います。争いは、最終的には相手の存在を傷つけ合う方向にいきます。そして最後には、自分は神に選ばれた選民ではないという開き直った立場から、誇って自分たちを差別するイスラエル人の信じている神を攻撃したのでしょう。それがイスラエル人にとって一番傷つくことであり、侮辱であるからです。しかし神はエジプト人を父に持つ男性もイスラエル人として認めていました。聖書に「自分の神をのろう者は殺される」とあるからです。
みなさん、神様は絶対に悪いところのない、完全な方であるということをしっかりと心に刻まなければなりません。
●11/3(月)「冒涜」(ヤコブ3:9〜10)
神を冒涜する事の一つとして、神様の聖いお名前を、汚れた事を言う口から告白し、神を軽んじるということがあります。
冒涜=突き通す、穴を開ける
戦争の時、ある一部の日本の兵士が高慢になってしまい、中国や東南アジアの方で、捕虜を日本刀を持って串刺しにするようにして殺していました。これは相手を人間扱いしていない行為です。前に、赤ちゃんを日本刀で串刺しにして笑っている写真を目にしたことがあります。これは中国人を冒涜していることです。また憎しみの表現として、串刺しにしたいという気持ちがあります。
この「刺し通す」、これは本来完全な形であるべきものが傷つけられてしまうこと。傷ならまだ直ります。でも穴を開けて損害を与えてしまうということは、もうそれ自体が存在できなくなってしまうことです。
私たちはいくら人とケンカしてしまうことになっても、相手の存在を無視してしまう言い方、傷付け方、攻撃は絶対にしてはいけません。いつかそれは神に向かって言ってしまうことになるからです。
●11/4(火)「争いの極み」(マタイ5:22)
兄弟に対して「能なし」「ばか者」というのは、その人の存在に対して大きな穴を開けてしまうという、言葉の攻撃です。争いは最終的には、そのように相手を自分より低く見なして、価値のない者として決定づけていく方向へ進んでいきます。そして冒涜という状況になってしまいます。
争いは勝ち負けの世界に生きていることによって起こるものです。私たちはクリスチャンとして勝ち負けという判断で生きてはいけません。自分の存在が相手よりも勝っているという、私たちの無意識の価値観が争いを起こしてしまいます…。
例えば服装にしても、あなたが正直に神様を大切に思い、あなたの良心にかけてこの格好は神様の前に安心でき、受け入れられているという確信があれば、人がどう言おうとそれに揺さぶられることはありません。
しかし自分の私利私欲のために神様のお名前を利用することが問題です。私にはわかりませんが、自分の良心を隠して、自分の願いを義とするために「神様が言われた」「聖霊様の導き」とそれを通す人は神を冒涜する人です。吟味しなければいけません。
『原爆』という言葉を使いましたが、これは戦争をやめさせる最終手段としてアメリカが日本に使用しました。それ以来、世界中が抑止力として原爆を持つようになりました。世界中がこれを持って戦争をすれば、地球は破滅するということが分かっています。これは絶対に使ってはいけない武器です。人類そのものが絶えてしまう…。冒涜とは原爆と同じです。
●11/5(水)「争いから神への冒涜へ」(ヘブル6:16)
(ヘブル6:16)このみことばは、神様のお名前を使う時の、冒涜とは逆の使い方です。
すなわち、人の反論を封じるために神に誓い、他者を打ちのめし、自分を守るために神をも冒涜してしまう。
争いが最終的に向けられる矛先は、神への冒涜となります。神こそ最終的な決定権、全てのことを最終的に持って行くべき責任ある場所としているのです。
みなさんが人々と争った時に、相手に神を呪わせてしまう方向に、あなた自身がならないように、またあなたが冒涜していなくても、相手にそのような腹立ちを与えることも、避けなければいけません。レビ記には争いの発端になった相手のことは何も書いてありません。なぜかというと、線引きが難しくなるからです。ただ言えることは、どういう理由であろうと、神の名を冒涜する者は殺されるということです。これを利用して、相手を神様から呪わせるために、誘い水を出すこともできるわけです。相手は罰せられるでしょう。しかし、誘い水を出した方は罰せられないでしょうか…?みなさん、サタンはエバを誘惑しました。サタンは悪くなかったでしょうか…。いいえ、サタンも裁きを受けました。人を怒らせる人、どんなにあなたが正しくても、神を冒涜させてしまったなら、あなたもその要因として、決して罰を免れることはありません。
●11/6(木)「証人の責任」(マタイ27:24、25)
この冒涜した者が罰せられるには証人が立てられました。証人の責任のもとに石打ちの刑が実行されました。
イエス・キリストが十字架にかかる時、総督ピラトは、いくら調べても、イエスは祭司長やパリサイ人のねたみによって、罠にかけられたということがはっきりとしてきたわけです。ですから、ローマの法律ではこれは無罪であって、罪人としてしまうことは、自分が法を施行する者としてできない。だからこの裁きには自分は関係ないと手を洗ったということです。すなわち、罪に定める証人にはならない、荷担しないということです。「この人の血の責任は私にはない。」と言ったわけです。
その時イスラエルの人々は感情的になって、「私たちの子孫にイエスの血の責任がかかってもいい」と、無実の罪を着せた責任はこのイスラエルの国民が負いますと。それから2000年の間、イスラエルの人々は世界中から嫌われてしまうという大迫害を受けてしまう結果になってしまいました。
レビ記には、冒涜を聞いた者たちが、それを言った人の上に手を置いて、それから石を投げて殺さなければならないとあります。手を置くとは、この人の血の責任は私が負いますという按手です。もし、陥れる形で按手したとしたら、神の御名において、その証人は子々孫々までのろわれてしまいます。それはイエス様を十字架にかけたイスラエルの民を通して、歴史的に証明されています。
私たちはキリストの証人です。命がけで証し人としてこの地上で生きるのです。使徒1:8「あなたがたはわたしの証人となるであろう」という言葉は殉教と同じ意味のギリシャ語です。私たちは証人となることの責任を軽々しく思ってはならないということです。
●11/7(金)「自分の神をのろう」(マルコ15:29、30)
「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ」これはイエス様がはっきりと言われたお言葉です。これはご自分の体のことを言われたもので、神の神殿は物理的建物ではなくて、私たちの体であると言っています。
その後の「十字架から降りて自分を救ってみろ」みなさん、自分の神をのろうという、こののろい方は侮辱的なことです。私たちのために、十字架の上で苦しんでおられるイエス様に向かって「降りて来いや!」「自分のことも救えないのか!」見下し、ばかにするような、こういう私たちの心というものは神の形に似せて造られている自分自身を冒涜していることと同じです。自分の正しさを相手の不義や間違いを指摘するつもりで言っていることが、神と同じ姿である相手や自分をのろってしまっていることにつながっていないか、吟味しなければいけません。
直接神をのろうクリスチャンはいません。しかし自分や兄弟姉妹を攻撃してしまうことはありますね。自分の神をのろうとは、人をのろい、自分をのろうことです。
●11/8(土)「御名を冒涜する者は死」(マタイ12:31)
神様のお名前を冒涜することと、聖霊様に逆らう冒涜とを同じようにとらえました。
神様のお名前には色々なものがあり、その一つ一つには、正義と愛と聖さが表されているという側面を意味しています。しかし主、イエス・キリストというお名前は、神様の全てを表しています。アブラハムがイサクを捧げた時に、キリストが代わりに祭壇に上がってくださったことを象徴しているのが、あの羊です。「主は備えたもうお方」これが神様のお名前になりました。お名前は神様が御業をなしておられることを意味しており、それを冒涜し、穴を開けるということは、その神様の御業が意味のないものと言っているのと同じです。神様のお名前にふさわしい働きをされているのが聖霊様です。その聖霊様を侮辱することになります。
主・イエス・キリスト。この御名を軽んじてしまうということは、神様の恵み、赦し、そして大きな犠牲を価値のないものとみなしている者です。そんな者が神の創られたこの宇宙に存在する意味があるでしょうか…。
私たち、神を冒涜して呪われて死ぬべき者を、イエス様が身代わりとなって十字架で、その全てを受けてくださっているがゆえに、私たちは今ここに存在し得ているわけです。それは私たちが悔い改めて神が喜ばれる者に現実に造り変えられるためです。そして今もずっと引き受けてくださっています。そして冒涜の槍で何回も突くような事をしても、イエス様は「彼らは何をしているのかわからないでいるのです」と祈り続けてくださっています。
あなたの一言がイエス様の背中に当てられるムチであって、そのムチがイエス様の背中の皮を剥ぎ取り、肉を散らし、骨が見えてくるという、その姿を、人をのろい、攻撃し、裁くごとに、目の前に描いてみてください。必ず怒りは消えていきます。
あなたの良心が生きているならば、イエス様のこの姿を見て、怒りが治まらないはずがない。人を赦せないはずがない。傷がいやされないことはありません。
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