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■2003年10月26日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
神の国のテーブル

あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。それを主の前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、二並びに置く。それぞれの並びに純粋な乳香を添え、主への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。彼は安息日ごとに、絶えずこれを主の前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」
(レビ記24:5〜9)
●10/27(月)「小麦粉」(ヨハネ1:9)
『罪』とは神の主権を認めず、自分勝手(自己中心)に生きる「的外れの人生」を意味します。神に創られた私たちは神につながり、みことばに従ってこそ存在の目的を達成できるのですから、自分勝手に生きたのでは存在の意味がありません。
しかしへりくだった心(心が砕かれた状態)で信仰によって受け取れば、イエス様の恵みによって『罪』が赦されます。
イエス様は全ての人の罪を赦したいと願い、十字架にかかってくださったのですが、高ぶる者は心が傲慢で、キリストの救いをより好みし、神の主権を認めようとしないので、罪が赦されるという恵みを受け取ることはできません。
气yテロ5:5で「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる」と語られているからです。
小麦が砕かれ小麦粉にならなければパンになれないように、砕かれた心にならなければ、神の国のパンになることはできません。
イエス様が私たちの身代わりとなり、罪のために十字架にかかってくださったからこそ、私たちは信じるだけで罪が赦されるのです。身代わりとしてのイエス様がおられなければ、どんな事をしたとしても、罪が赦されることはありません。
ですから砕かれた小麦粉としての神の主権を認める敬虔な姿勢をもって、祈り、聖書のみことばに聞き従う生活をしていただきたいと思います。
●10/28(火)「輪型のパン」(ローマ12:16)
ローマ12:16で神様は「身分の低い者に順応しなさい」と語られています。身分の低いとは、弱い者、能力の劣っている者を言いますが、すぐれた人、能力のある人は弱い人に歩み寄り、順応していく力を持っているからです。
その事によって、互いの品性が練られていき、人格の異なったひとりひとりが一つのパンになることができるのです。
今年の教会の目標として掲げられている「互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」というみことばには、「自分にはできるがある人にはできない事がある。しかし逆に私にはできない事が、ある人にはできる事もある」という事を見つけなさい、という事も含まれています。
たとえばミミズを人と比べれば、人の方がはるかにすぐれていると思いますが、人はミミズのようにヘドロを食べフンをする事によって、良い土に変える事はできません。その部分ではミミズの方が人よりすぐれていると言えます。私たちは誰一人として全能ではないのですから、むやみに人を低くみたり、優越感を持つ事がないよう、気をつけたいものです。
お互いに自分よりすぐれたものを持っている、尊重すべき一人一人であることをおぼえて、自我を練り聖めていきましょう。
●10/29(水)「十分の二エパ」(マタイ13:52)
神は新しいものと古いものを生かされる方です。
イエス様は、肉体をもった人生を経験され、よみがえりの時には栄光に変えられた体で弟子達に現れました。しかし、その体には古い肉体の時に受けられた傷が残っていました。
イエス様の人生も古いものと新しいもの二つのものが生かされています。その事の象徴として「十分の二エパ」とあらわされています。
初期のクリスチャンは、過去の生活(古き人)は過ぎ去ったものとして切り離し、つくりかえられた者としての人生(新しい人)を確立しなければなりません。
しかし成熟したクリスチャンは、過去はきちんと切り離しながらも、新しい人生に過去の経験を生かすことのできる賢さを備えています。
旧約聖書はユダヤ人だけのものではなく、新約時代のクリスチャンにも必要な古い約束で、古い約束があってこそ、新しい約束が成り立つことができていることを忘れてはいけません。
私たちは、古い過去の傷にこだわるのではなく、過去の経験がつくりかえられたクリスチャン生活に活かされるよう、求めるべきです。
ローマ8:11に「聖霊は死ぬべき体をも生かしてくださる」とありますので、永遠の生命というゴールを目指し、肉(古き人)も御霊(新しき人)も生かし、成熟したクリスチャンになるための知恵を与えてくださるよう、神に求めて行きましょう。
●10/30(木)「六個ずつ二並びのパン」(エペソ2:14〜16)
この箇所はユダヤ人と異邦人の間の問題を取り扱っている所ですが、両者の関係だけに留まらず、「敵意」が生まれるのはなぜなのか、それを取り除くためにはどうすればよいのかという事を考えていきたいと思います。『六』は肉を象徴し、罪の奴隷である状態を表し、『二並び』とは、肉の思いに支配されている選民(ユダヤ人)と異邦人、二つのグループを表しています。
ユダヤ人は体に割礼を受けている事で、選民意識を強く持ち、異邦人を見下し、異邦人は真の神を恐れず、偶像の神を信じて、両者の間には敵意が生まれました。
互いに肉を誇ると、敵対心が生まれるのです。
戦争も、民族紛争も、夫婦げんかも、全て自分の側の肉を誇り、利益を優先する事に起因しています。
敵対心を無くすためには、平和の神キリストを中心においてキリストを保証人として、和解のテーブルの上で和解するしかありません。
イエス様の十字架のあがないのみわざは、敵対した時に受けた互いの傷をもいやしてくださる力があるのです。
「六個ずつ二並びのパン」は和解する事で「十二」となり、平和を生み出す『統一』を表していきます。
テーブルの上に並べられたパンの意味を悟り、もし心の中に敵対心が生まれた時は、自分たちだけで解決しようとしないで、イエス様の平和のテーブルにのっとって、和解を得ていただきたいと思います。
●10/31(金)「乳香」(第2コリント2:15)
香水にはそれぞれ好みがあるように、人から受ける親切にも色々あり、時に恩着せがましいと感じてしまうものもあります。人の好みは色々ですから、人に喜ばれようとして八方美人のように振る舞い、人にあわせて自分を変えていくとかえって良い結果を見ることができません。
クリスチャンは神の前にいつもかぐわしい香りであるべきです。
成熟したクリスチャンは、神の前に生きる人生を心がけている事の印として、乳香をおいているととらえてください。
●11/1(土)「机」(第1ヨハネ1:3)
一番なごやかに良い交わりができるのは、食卓を囲んで、食事を共にしながら交わる時です。
「机」とは良い交わりを持つ事の象徴であり、契約の場所としては特に食卓のテーブルが用いられました。それは、食事を共にする事で、和解が成立しているとみなされるからです。
神は罪人である私たち(ご自分の姿に似せて造られた全ての人)を招くため、キリストの十字架によって、神の家族のテーブルを用意してくださいました。
神のテーブルには一人一人の名前が書かれた席が用意してあり、誰一人として漏れている人はありません。私たちは神様に愛され、価値ある者たちとして歓迎されている存在なのです。
しかし出席するかどうかは、本人次第(自由意志にまかされている)で、残念ながら多くの空席があります。日本においては99.4%も空席があるという事です。
私たちは神の国のテーブルに招かれた光栄と、そればかりか、神の子としての相続者としていただいている事を、もっと喜び感謝しましょう。

■2003年10月19日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
光を放つみことば

ついで主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に命じて、ともしびを絶えずともしておくために、燈火用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させよ。アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えず、そのともしびをととのえておかなければならない。これは、あなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主の前にととのえておかなければならない。
(レビ記24:1〜4)

金の燭台はモーセの幕屋(会見の天幕)に入って南側に置かれました。
契約の箱が置いてある至聖所の垂れ幕の外側です。
金の燭台とともしびの持つ意味を今週は学びます。みことばは私たちのともしびであり、光です。
●10/20(月)「ともしび」(ヨハネ1:9)
ともしびは、暗やみの中で、あらゆるものを照らし出す働きがあります。太陽の光こそ、最も正確に物体を照らし出します。コンピューターでは1620万色を使っていろいろなものを描けるようになりました。それが一番太陽の光に近いものです。
蛍光灯の光は、太陽ほど正確に物体を照らせず、青白く見えたり、黄色っぽく見えたりします。
人を最も正確に写し出すことができるのは神のみことばです。
この世の様々な価値観や考え方は、人が作った蛍光灯や水銀灯のように、あなたの本当の素晴らしさを写し出すことはできません。
神のみがあなたの本当の素晴らしさを最も正確に写し出してくださいます。イエス・キリストはことばなる神です。
シュバイツアー博士は、アフリカで活躍した医者として有名ですが、実際は宣教師です。博士は大変裕福な家庭に生まれ育ちましたが、その豊かさ、恵みの中に甘んじて楽な生活を続けていくことに疑問をもちました。その時「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)のみことばが人生の光として示され、自分の人生を神の願っておられる社会や人々のために捧げる決心をしました。そして条件として30歳までは音楽と学問を学び、様々な名声を上げ、30歳が近づいてから、宣教師の週刊誌を読んでアフリカへ行く決心をしました。30歳から医学部で学び、パイプオルガンの演奏で資金を集め、39歳でアフリカに渡ったのです。「エデンの園にしよう」という理想を持って、その村へ行きました。シュバイツアーの周りの人々は、自分のすべての名声や地位を捨てて、なぜあえてアフリカへ行こうとしているのか、理解できず反対しました。
しかし彼はみことばによって照らし出された自分の真実の姿を忘れず、アフリカへと旅立ちました。もし彼がアフリカへ行っていなかったら、ノーベル平和賞も受けず、彼の力と才能をそれほど生かすことはできなかったでしょう。彼は永遠のいのちのために働き、多くのアフリカの人々の肉体の命のみならず、魂のいのちをも救い続けたのです。
現地では、彼は「神の人」と呼ばれ敬われました。今もっている力や才能を自分の人生のために費やすだけでなく、他者のために命を輝かす生き方は素晴らしいものです。みことばの光に照らされる時、私たちはその素晴らしい人生を生きる決心ができます。その光をもっていないと、私たちのクリスチャン人生は中途半端なものになってしまいます。
●10/21(火)「良質のオリーブ油」(ヨハネ3:34)
神の霊、聖霊は、光をともし続ける油に例えられます。ただ、油だけではともしびはともし続けられません。みことばの芯が必要です。しかし芯だけだとすぐに燃え尽きてしまいます。みことばの光に、聖霊の油が注がれなければ、その輝きは一瞬のものになってしまいます。
あなたの内に、イエス・キリストを信じた時に受けたみことばの輝きが、今も燃え続けているでしょうか。
私は29年前、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。〜わたしが与える平安は、世が与えるのとは違います。」(ヨハネ14:27)のみことばによって救われました。この平安は29年間一瞬もなくなることなく私の内に輝き続けています。それゆえ、どのような問題、苦しみがきても、周りの人から悪口を言われたり、ねたまれても、少しも動じることなく、いつも平安な状態に守られています。
私はイエス様を信じた時、何かをして欲しいという願いを何一つ持てないほど、人生に空しさを感じていました。それゆえ、自分のすべてを完全に神にゆだねたのです。その時、真っ暗だった心に夜明けのような静けさがきました。その晩、本を読むことが大嫌いだった私が、一気にヨハネの福音書を読み上げ、心の内に来たものが、イエス様が与えてくださった「平安」だとわかりました。
それは聖霊さまがみことばと共に私の心に働いてくださった結果です。「こうしてほしい」「ああしてほしい」という願いでなく、神に全く心を開いて「どうぞ、好きなようにしてください」とゆだねきる時、真の油注ぎがきます。心を全くゆだね、神に自分を差し出した時に、みことばと共に聖霊さまが注がれ、生涯みことばの光があなたの内に輝き続けます。
芯だけではすぐに燃え尽きてしまいます。油注ぎが必要です。聖書を何度も読み切ることができる力は油注ぎからきます。自分の人生を自分でコントロールし、自分の願いで生きているとストレスがたまっていきます。「人は心に計画をもつが、神の御心のみが成る」と聖書にあります。神の導きに従う人生に、豊かな油注ぎがきます。我を通す人生は苦しいものです。
●10/22(水)「夕方から朝まで」(1)(ヨハネ1:5)
ともしびは一日中ともしておかねばならず、特に夕方から朝までを神は命じられました。
心に光が必要な時とは、暗やみがある時です。暗やみとは否定的な思いであり、過去のいろいろな痛みであり、神への不信であり、様々な後ろ向きの考えや感情です。あなたを幸せにしない、喜ばせないあらゆる問題が闇の状態です。この闇は、どんなに努力しても自分の力では追い払えません。闇を退けられるのは光のみです。光は私たち自身にはありません。神によってのみもたらされます。イエス・キリストが内におられてこそ、闇が消え去ります。カウンセリングも、闇は一時的になごむだけです。ずっと明るく前向きに生きていくには光をもつことが必要です。しかし、私たちは光によって見たくない嫌な自分の姿もすべて見えるようになり、最初は光から自分を隠そうとします。同様に自己受容できない心の痛みをもっている人は、なかなか光を受け入れようとしません。けれども、光がなければいやされることもできません。私たちの複雑な心を見分けるみことばの光が必要です。あなたの内にある暗やみは、みことばを拒絶しているからです。自分の罪をあらわにするみことばを嫌っていては、いつまでも闇は残ります。聖霊さまはみことばを通して、あなたの心に罪を示し、汚れたものを示される時、知識だけでなく感情も意志もすべて罪を認め、心から神の前に悔い改めることができます。その時初めて闇は退きます。
みことばの光によって、どれが自分の思いで、どれが罪の語りかけかをはっきりと見極められるようになり、闇がいかに光によって退けられていくかを、私たちは実感していくようになります。そのためには「みことばを愛します」「みことばを信じます」という決心が必要です。
●10/23(木)「夕方から朝まで」(2)(第2ペテロ1:19)
夜通しともしびをともしておくためには、目を覚ましておかないといけません。
私たちは間違いのない神の約束のことばをもっています。
私たちの人生が夜明けとなるまでは、絶えず、神の預言のことばに目を留めておくことが必要です。アロンが常に夜中じゅう天幕の燭台の光をともし続けたのと同じです。
この世のことことこ目を留めると嫌になってしまいます。まじめに生きることが馬鹿らしくなってしまいます。しかし、みことばの光に目を留めていくなら、この世の暗やみから守られます。
●10/24(金)「金の燭台」(ローマ15:4)
聖書は私たちに忍耐と励ましを与え、希望を与えるために書かれました。聖書は金の燭台です。聖書は旧約39巻、新約27巻、合計66巻からできています。
(金の燭台と言われる理由)
神は燭台の作り方を指示されました。アーモンドの花は花びらと、がくと節の3つをひとつのものとして、ひとつの枝に3つ作り、支柱には4つつくらされました。(出エジプト37:17〜24)
アーモンドの花の数が、旧新約聖書書簡数を示しています。
そして、このみことばの燭台に油が注がれ、ともしびがともされると、私たちの魂から暗やみがなくなります。それゆえ私たちは一生欠かさず聖書を読む必要があります。
信仰によって灯がともります。ともったらその芯が燃え尽きないために心をゆだね、聖霊を受け入れることが必要です。そうするとともしびは燃え続け、魂に光が輝き続けます。
●10/25(土)「聖所のともしび」(ヘブル10:10)
聖所は燭台がないと真っ暗です。40くらいの材料でおおわれているので、日中でも光は射し込みません。どうしても丸一日、燭台をともしていないとなりません。これは私たちの魂を表しています。天幕をおおう布は肉体を表しています。肉体は罪を宿していて、肉体を通しては神の光は届きません。魂に光が届くのは、ことばとして届いて、そのことばが私たちの魂に光を放つからです。
どんなにイエス様を信じてきよめられたクリスチャンでも、暗やみをもっている人がいます。
聖所であっても光がないのです。光がないということは、暗やみがあるということですから、一向に自分の人生が変わりません。
そういう人はみことばを受け入れて、みことばを実践していないのです。
クリスチャンになっても光がなかったら、世の中の人と変わりない生活を送ることになります。
みことばの光は、私たちのたましいにどうしても必要です。家にみことばが飾ってありますか?いくら飾っていても、心の中に輝いてなかったら意味はありません。燭台は心を照らすためのもの、聖所を照らすためのものです。
世の中は人口の光で満足しています。救いを求めている魂にのみ、この燭台は輝きます。世の中の価値観では、決してみことばの良さは理解できません。
聖所は、イエス様の血潮によってすべての汚れを落とし、まことの光に照らされて、本当の美しさを出せるような状態に聖別されたところであり、それはあなたの魂を表しています。
聖所に光をともさないで、クリスチャン生活を過ごすことのないようにしましょう。

■2003年10月12日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
大いなる収穫の喜び

特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂り合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてとして、第七月にこれを祝わなければならない。
(レビ記23:39〜41)

イスラエル歴第7月の15日から始まる仮庵の祭りは、すべての収穫が終わった後の喜びの祭りであり、イエス・キリストの再臨によってもたらされるクリスチャンに対しての報いと、千年王国での安息と喜びを象徴しています。
イエス・キリストは肉体をもって1度この地上に来られたという歴史上の事実をもって、再び来られることも信じることができます。
ユダヤ教の3大祭りは、救い主の働きと行動の目的を象徴的に表したものですが、キリストが地上に来られ、祭りの進行に合わせて預言通りに行動されることによって、2つの祭りの目的を成就されました。過ぎ越しの祭りの時に、イエス・キリストもいえにえの小羊となって十字架にかかられて亡くなられ、安息日の宗教行事に合わせてよみがえられました。50日後の五旬節の日に、弟子たちに聖霊が下り、心に神の律法が刻まれるという、ペンテコステの祭りも成就しました。
神が2つの祭りを成就されたのだから、仮庵の祭りも、キリストの行動をもって成就されることは間違いありません。
キリストが行動される時が来たら、どのような出来事が起こるのかは、仮庵の祭りによって予測することができます。
仮庵の祭りには(ラッパの祭り)(贖罪の日)(仮庵の祭り)と3つの部分があります。
ラッパの祭りは目覚めのひと吹きと言われるように、すべての人が目覚めるための警告のラッパです。このラッパがイスラエル歴第7の月の1日(今年は9月27日)に吹き鳴らされると、全世界の人々が、まことの神に対してはっきりと目覚めるようなしるしが現れます。それは、キリストが空中に姿を現されること以外には考えられません。その姿が、全世界の人々にリアルタイムでテレビ放送され、キリストの再臨が聖書通りに成就したこと、キリストこそまことの神であったことを全世界の人が認識するでしょう。
それと同時に、クリスチャンは主のもとに引き上げられ、エルサレムの上空に集められます。
その10日後、イエス・キリストは地上に降りてこられ、全世界の罪を神の基準で裁かれます。(贖罪の日)
この時、イエス様の姿を見て、まことの神であったと信じる人と、事実を目の前にしても信じない人の2つに分けられ、信じる人は永遠のいのちに至り、信じない人は信じない罪を刈り取ることになります。
第7の月の15日、仮庵の祭りで象徴される喜びの時。
農家の人が苦労して育てた作物を収穫し終えた時が、一番ほっとできるような、イエス・キリストが再臨される時がそのような時です。クリスチャン生活のすべてが報われて、「ハレルヤー」と心の底から喜べる時(キリストと共にこの地を治める千年王国)がやってきます。
それでは、クリスチャンの収穫である、神からの報いにはどのようなものがあるのか、今週も6つ見ていきましょう。
●10/13(月)「良い行いへの報い」(エペソ6:8)
この世では良いことをする人が少ないのはなぜでしょう?例えばシルバーシートに座っていて、お年寄りが近くに来ても、目を閉じて気が付かないふりをしている人がほとんどで、率先して代わることをしません。なぜ、親切で良いことなのに代わらないのでしょう。立つのがしんどいからでしょうか?
しんどくても仕事ならしますね。それは、仕事をすれば給料がもらえ、労したことが報われるからです。
私たちは、報いということにとても敏感です。報いのないことに対しては自発的に行動することができないのです。
もし仮に、良い行いに対して、報酬が受け取れるとしたらどうでしょう?席を譲ってあげたら二千円とか、タバコの吸い殻を拾ったら五百円とか…。そうなったらみんな喜んで良い行いをし、とてもいい世の中になるでしょうね。しかし、この世は悪の世界ですから、良い行いをしても報われません。
良い行いに報いを与えてくださるのは神様です。
キリストが再臨された時が、その報いを受け取る時です。この世の人々や、親や兄弟から報われようとすると、失望し、落胆してしまいます。たとえ、人々は報いてくれなくても、イエス様が代わりに報いてくださるのですから、その日を楽しみにして、良い行いを積み重ねていきましょう。
●10/14(火)「苦しめられることへの報い」(第2テサロニケ1:6〜7)
クリスチャンは良いことをしてねたまれ、苦しめられることがあります。
会社のためにと一生懸命まじめに働いているのに周りからねたまれていじめられたり、教会に行くことで姑につらく当たられたりと、何も悪いことをしていないのに苦しめられることがあります。
それは神に純粋に従っていることへのねたみとしっとです。
苦しめられてもじっと耐えることが、神の御心であり、相手を裁いたり、自分で復讐してはいけないと神は言われます。
神が、あなたに苦しみを与えた相手に苦しみを与え、苦しめられたあなたには、永遠の安息と平安という報いを与えてくださるからです。
自分で復讐すれば、かえって憎しみの心が増して、もっと仕返ししてやろうという思いから、やりすぎてしまうことがあります。神のみに正しい裁きができるのですから、自分で復讐して、かえって神から苦しみを与えられることのないように気をつけましょう。
クリスチャンが無抵抗な態度をとることは、一見弱々しく見えるかもしれませんが、罪の働きに対して、正しいことを守り抜くための無抵抗な態度は、実は一番強いことと言えます。
苦しみを受けることの多い人は感謝してください。キリストが来られた時の収穫が大きいからです。
●10/15(水)「みことばへの従順に対する報い」(テモテ4:6)
みことばを語る者は、みことばを行い、みことばの中に生きている時に、確信を持って語ることができます。
確信がないと言葉に力がないので、人々は信じません。
もし、牧師である私が、語っているみことば通りに生活していなかったらどうでしょう?皆さんはみことばを信頼することができないので信仰は成長しなかったでしょう。しかし、私はみことばに生き、確信を持って語っているので、皆さんもやってみようという気持ちになられるのだと思います。みことばを語る本人が、自分自身をみことばの中に生きているという状態に置くのが一番いいわけです。みことばに従って生きているうちに、イエス様の御姿に限りなく近づいていくという報いがあります。
みことばに従うことをやめないようにしましょう。
●10/16(木)「試練を受けた者への報い」(第1ペテロ1:7)
クリスチャンには、ひとりひとりの命が精錬されるために、信仰の戦いという試練がやってきます。
この試練を耐えることによって、イエス様が来られた時に、報いとして神からの賞賛と光栄と栄誉が与えられます(第1ペテロ1:7)
賞賛と栄誉はあなたの存在価値を高めるもので、お金では買うことができないものです。
例えばオリンピックの選手がメダルを取って大喜びするのは、そのメダルや、お金がもらえるという事以上に、全国民からオリンピック選手としての誉れが与えられ、人生と命と社会的な存在価値が高く認められるからではないでしょうか。
私たちクリスチャンにとっては、この地上でどのような権威のある人から栄誉を与えられるより、神様からの賞賛と誉れをいただくのが一番すばらしいことです。
「お酒やめたー」「タバコやめたー」「マージャンやめたー」とやめてやめて苦しい中で、イエス様の再臨を待ち望んでいる人は、イエス様が来られた時「やったー」と心から喜ぶことができます。
あなたの信仰の戦い(試練)は報われるのですから、あらゆる悪から離れていく戦いを続けていくことが必要です。
●10/17(金)「蒔くことへの報い」(ガラテヤ6:7〜8)
ここでひとつの法則、すなわち蒔いたものは刈り取らなければならないという法則があります。
蒔くことは私たちの行動や言葉、表情などを通して人に対して表現することです。これが周りに蒔いているということです。
自分の表現するいろんなことは、良いことも悪いことも自分に返ってくることになります。
もし、いやな思いを与える視線を人々に出していたら、それに触れた人はみんな、いやなものをあなたに返してきます。
そのように、私たちが目的をはっきり持たないと、良いものも悪いものも無意識に蒔いてしまい、刈り取りたくないものまで刈り取らなければならなくなります。あなたが何を刈り取りたいかをはっきりさせて蒔くものは、必ず刈り取ることができます。
神の前にしっかりと目的を求めて、人生に良いものを蒔いていきましょう。
●10/18(土)「信じることの報い」(マタイ10:41〜42)
預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受ける(マタイ10:41)とは、どういうことでしょうか?
例えば私を牧師として認めてくださる方は、尊敬を持った態度で接してくださいます。そのように、私を牧師として信頼してくださる方には、私が牧師として受ける報いが、その人にも与えられるということです。
それは、神が立てた器を支えることになるからです。
誰を信じるかによって報いは違ってきます。イエス様を信じるほど大きな報いはありません。
イエス様は御国を受け継ぐ長子としての報いを受けられます。
ですから私たちは、イエス様を救い主として信じたら、救い主の受ける報いを受けることができるのです。
「あなた方は、キリストと共に神の右の座についているのです」とみことばにあるとおりです。
このようなすばらしい報いがあるのですから、本当にイエス様を信頼しているかよく吟味しつつ、イエス様の再臨を待ち望みましょう。

■2003年10月5日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
義の栄冠を得るための備え

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
(第2テモテ4:8)

今、イスラエルの三番目の祭りとして、仮庵の祭りを学んでいます。これはイエス・キリストの再臨と関わる祭りであることを語りました。
イスラエル歴の第七の月の一日から、キリストの再臨の警告としてラッパが吹き鳴らされ、そして十日目にイスラエルが最も聖別されると厳粛な日として贖いの日があります。これは裁きがはっきりされるという意味です。この祭りが今ちょうどイスラエルでは始まっている時であります。
今は10月6日(月)、この重大な日を迎える準備がされています。なぜかというと、この贖罪の日に大祭司が、神様の赦しを得るためのいけにえを持って、この聖所に入っていって儀式をする日だからです。大祭司が生きて天幕から出てきたら「ああ、これで赦しが受け入れられた」というしるしです。みんな必死で大祭司の無事を祈るだけではなく、それまでに自分たちの罪を悔い改めて、神様からの赦しを得られるようにという気持ちで、この日に集中して準備するのです。
この一週間、みなさんも、安易な気持ちでイエス様の赦しを受け取ることのないように悔い改め、心を見直すという意味で、敬虔な思いで過ごしていただきたいと思います。
第2テモテ4:8より
「かの日」…神様の最後の審判
イスラエルの祭りに象徴されています。年に一度、一番大切な贖罪の日が毎年毎年やって来るように、神様の裁きも必ずやって来るということです。
過ぎ越しの祭り…一度目に来られたイエス・キリスト=救い主
救いのための御業を成就するため、人々の罪の身代わりを実行するために地上に来られた。
仮庵の祭り…二度目に来られるイエス・キリスト=裁き主
贖罪の日=裁きの象徴
この日、イスラエルでは厳粛な一日として断食して備えました。
それよりも40日前から自分たちの心、生活を吟味してモーセの教えにのっとって自分の生活を整えました。自分たちが悔い改めたという気持ちを神様が受け入れてくださるかどうかを見守っていました。
ただ単に、大祭司の命の危険だけではありません。イスラエルの国民全体が、神様の最後の裁きの決定の時として、いかに心を砕いて、罪を犯しながらでも、神様のあわれみによって生かされていることの感謝を表現してこの日を迎えるかという大切な日でした。
神様は私たちが罪を宿している肉体の中で、一年間、毎年聖く正しい生活ができるとはお考えになっていません。せめてある一定期間、敬虔な思いをもって神様の前に、聖い自分自身を保つことはできます。この40日間だけでも保つということは、神様への信仰へつながっているわけです。
パウロは「私には義の栄冠が待っている。かの日にはその栄冠をイエス・キリストから受けられる」と語りました。
この世の人々の価値観に流されず、イエス・キリストの教えに踏み止まって、神の国とその義を第一に求める人生を送り通したその報いとして、義の冠が与えられます。義の冠という価値は霊的な価値です。その人のたましいそのものの価値を表すものです。
また、パウロは「キリストを待ち望む者には同じように義の冠が与えられる」とも言っています。悔い改めをしながら、敬虔な心を持ってキリストを迎える者には義の冠が与えられるということです。義の冠とは、そこに力が与えられるということです。存在に対する報いだけでなく、存在に対する力、権威が注がれることです。
この世の人々の価値観は一時的なものです。最も正しく評価してくださるのは、天地宇宙万物を造られた創造主なるお方、救い主としてこの地上に来られたイエス・キリストです。
私たちはこの贖いの日、すなわちキリストの再臨に向けていつも心を正す、そういう敬虔さが必要です。
この世の人々は罪を犯すことについての咎めを感じなくなっています。罪ということに対する認識が聖書とは違うので、理解できないところがあるのです。
罪とは存在の目的に対して外れているということです。
例えばペットボトル。その目的は私たち人間が健全な水を飲むことです。この水を盆栽の水のために使われることは、的はずれになります。人間のために使われてはじめて目的にそった存在になれるわけです。私たちは神の御手で用いられる器にもなれば、サタンに用いられる器にもなってしまうということです。
どうして的を外した生き方が罪であり、罰せられなければならないのでしょうか?
神様は全宇宙に存在するもの全てに意味を持たせ、目的を持って創造されました。その被造物を維持するために秩序を立てられたのです。この秩序は創造主の主権に対する秩序であって、これを守ることによって宇宙はバランスがとれ、平穏の内に過ごすことができます。この秩序の中でそれぞれが目的を果たしています。その目的から外れて秩序を乱すことは、それを補わなければならないという神様の働きかけがあります。その空いた部分に代償を払うのです。秩序を乱したものはそれを償わなければならないという裁きの罰が下ります。
もし、それがなければ、秩序を保つ必要がなくなり、私たちの存在も神様の存在そのものも無意味なものになってしまいます。そうならないために、神様は今もその働きをされておられます。
忍耐強く、全人類があるべきところへ落ち着くようにとイエス・キリストという代価を支払って、私たちが帰って来るのを待っておられるのです。忍耐するには愛が必要です。寛容さが必要です。
私たちはそれを考えずに、自分本位で恩知らずの愚かな者になってしまっていることに気づく必要があります。その期間として、贖いの日までのこの悔い改めの期間があり、そして10日間はラッパが鳴らされるのです。
このラッパは教役者を通して神様が聖霊によって感じた人々にみことばを与えて悔い改めを迫ります。
「悔い改め」それは、罪を責めるものではなく、間違った方向に自分があるかないかを目覚めさせるものです。
私は罪を犯していないという人がおられるでしょうか…次に私たちが絶対に逃れられない罪、すなわち目的から外れた人生を送っているということを示します。
「民主主義、資本主義の罪」
アメリカ(食料のための会議)
1974年飢餓人口4億5千万人
飢餓をなくそうという決議 全世界で食料増産計画
1996年100億人が1年間維持できる食料の生産量
飢餓人口8億4千万人⇒増加
なんと食料が増えているにもかかわらず、飢餓人口が増えているのです。その理由は先進国が食料を買い付けて、飽食な生活を始めるようになったからです。(特に日本は90%以上を輸入しています)
そしてその生産量の60パーセント以上を13億の人が消費しているのです。
NHKの調査…日本人が一日に使用するトイレットペーパーの長さ
日本人口1億2千万人 1日に地球25周分
この紙は輸入しています。そのためシベリア、カナダ、東南アジアの森はなくなってきています。1日になんと、東京ドーム25個分の山に木がなくなっている状態です。
私たちの豊かさは飢餓に支えられた豊かさです。あなたが食べて満足して、余った物は捨てて燃やしてしまっている状態の中で、1分間に28人の人が死んでいって、その内21人が子供です。
資本主義、経済主義の中に生きている私たちはいうならば、人喰い人種です。私たちがぐち不平を言っている間に、何もしらない幼い21人の命が、食べることができずに死んでいるのです。
これが罪でなくて何でしょう…
「私たちは互いに愛し合いなさい」と言われる同じ神様から生まれた人類として互いに兄弟として愛し合うべき、その兄弟からむしり取るような値段で資源を買い取って、私たちは生活しています。
私たちはこの生活を変えることができないならば、今再臨を前にして、神様の前にどう祈るべきでしょうか。
そして、この状況の中で私たちはいかに謙虚に受け止め、自分たちのできる範囲で隣人を助けるための手だてをすることができるでしょうか。日本でも海外ボランティアのような働きがもっともっと起こる必要があります。私たちはそういう人々を支えて送り出すという目標も必要でしょう。
キリスト教の団体として、国際飢餓対策機構があります。この組織は、集められた献金はほとんど97%は現地に活用されます。ところがユニセフの国連の組織の募金は95%が経費に使われ、5%が現地で使われるんです。また、戦争や政治の流れの中で、世の中はどうしても矛盾します。
ではどうしたらいいのでしょうか。悔い改めるしかありません。
へりくだって謙虚になるしかありません。そしてその中で神様の前に何が正しくて喜ばれることかを真剣に選び取っていく人生を送ることが必要です。
あなたに義の冠が待っているとすれば、その栄冠にふさわしい人生の結びを目指してがんばっていきましょう。

■2003年9月28日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
収穫

夏のうちに集める者は思慮深い子であり、刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。
(箴言10:5)

レビ記23章からイスラエルの祭りについて学んでいますが、三つ目の仮庵の祭りは、大収穫の祭りとして有名です。
最近、米や果物が盗まれて話題となりましたが、自分の育てたものが黙って取られることは、非常に残念なことです。
私たちの人生においても、良い実を結ばせる人生であるのに、悪霊やサタンによって実が取り去られてしまうことは、悔しいことですね。残念なことです。
そういうことのないように、私たちも心構えをしっかりとしていきたいと思います。
また、私たちの最も価値のある人生の実である心の実を収穫することに思いを向けず、目先の肉の喜びを求めて、罪を犯すことに対して恥を感じない人々がなんと多いことでしょうか。愚かなことです。
今週は、義の実を刈り取り、聖霊の実を収穫するような人生へと変えられるように、収穫とは何なのか学んでいきましょう。
●9/29(月)(レビ記23:37)(ルカ3:16)
「火によるささげ物」
バプテスマという言葉は聖めを意味し、水は表面的な汚れを洗い流すことから、聖めを象徴しています。
火には殺菌能力があり、汚れを落とすよりも、衛生面における清潔をもたらすことから、聖霊によるさらに強い聖めの働きをすることがわかります。
火によるささげ物とは、神の前に喜ばれる完全な人生を歩まれたイエス・キリストを意味し、イエスを信じる私たちをも含んでいることを意味しています。
十字架は神の愛と義が現された神のみわざです。私たちはイエス・キリストの十字架を通して、神の愛と義をもって生きることに望みを持つことができるようになりました。
神の愛と義に心を燃やした人生に神は報いてくださいます。
●9/30(火)(レビ記23:38)(第2コリント5:9)
「あらゆるささげ物」
誓願のささげ物、自分のささげ物、和解のささげ物は私たちの心の表現を神にささげるものです。(コリント5:9)
クリスチャンの念願することは、主に喜ばれることです。永遠に対する望みと、罪と呪いから解放してくださり、あらゆる病をもイエス様は負って、全身全霊をもって私たちを愛してくださいました。
イエス様との関係(つながり)が深ければ深いほどささげ物に価値があります。
あらゆるささげ物とは、私たちのあらゆる神に対する表現であるということです。
感謝を忘れないために、かたちをもって表現していくことは大切なことです。(気持ちの表現です)
●10/1(水)(レビ記23:39)(ヨハネ15:5)
「大収穫」
収穫が終わった七日間の祭りを行う(収穫祭)
イスラエルでは、仮庵はぶどうの刈り入れの季節です。
昨日(9/27)がイスラエルでは第七の月の一日にあたります。(ラッパの祭りの日)
そして仮庵の祭りは、そのラッパの祭りの日から数えて15日目から1週間一週間お祝いをします。仮庵の祭りは、今の季節の収穫を15日目までに全部終えてから行われます。
(ヨハネ15:5)
ぶどう=人々の救い、霊的な実
収穫は喜びの時、労苦が報われる時です。
すなわち、人生において種まきの時があれば、収穫の時もやって来るということです。
私たちの人生は人々に親切、愛、寛容等をほどこします。
そのことを通して、人々はあなたに賞賛を与えるでしょう。
それは人生の実として還ってきます。また、自分だけ救われるのではなく、人々に伝えて、救われるということは嬉しいことです。
このことも実として現されます。
人生における魂の救いと霊的な実の収穫のための労苦を忘れないように、労苦が大きければ報いも大きいからです。
●10/2(木)(レビ記23:40)(マタイ5:12)
「主の前で喜ぶ」
主の前で七日間収穫の祝いをしなさい。
(マタイ5:12)
迫害されることに喜びおどりなさいということです。
それは天において報いは大きいからです。
収穫は働きに応じて報われる結果です。月給ではなくボーナスです。ボーナスは実績以上の働きに対しての報いです。
神の子としての人生の歩みに対しての労苦を神は天において見ておられ、ボーナスとして報いてくださるのです。
ですから、いただく前に主の前で喜ぶのです。
見えないことに対しても報いてくださる方がおられることを知る時、私たちは喜ぶことができるのです。
●10/3(金)(レビ記23:41)(ルカ19:41〜44)
「神の時」
仮庵の祭りは、第七の月でなければならないと時が定められています。
(ルカ19:41〜44)エルサレムが滅亡することに対する預言が語られています。(西暦40年に成就)
このような滅びを招いたのは、神の訪れの時を無視したからです。神は祭りを開きなさいと語られました。この祭りは時が定められていました。すなわち、神の時を知らせることを示してあったわけです。
イスラエルの歴史はエジプトの奴隷の状態からモーセという指導者によって、イスラエルの民は先祖アブラハムに約束してくださった今のパレスチナの地に移動するその時の記念として、過ぎ越しの祭りが持たれたのです。過ぎ越しの祭りはエジプトを出て、50日目に律法をいただいた時期と同じ祭りです。
このようにイスラエルの祭りと一致しているのです。
次に教会は、過ぎ越しの祭りの時にイエス様が十字架にかかって殺され、よみがえって50日目に聖霊が下って、教会が誕生しました。聖霊が下ったことによって心に律法が刻まれたということなのです。
時にかなって神は祭りの時期に合わせて歴史的な動きも成就しておられます。
仮庵の祭りは、キリストの再臨の時なのです。
特に第七の月の10日にあたる贖罪の日は、一番キリスト様が再臨される確率が高いのです。
私たちはこの日を待ち望むことが必要です。
毎年、贖いの日、仮庵の祭りはやってきます。これからやってくる秋の季節のどれかにキリストが再臨されることはほぼ間違いありません。
神の愛と神の義に心を燃やして、この世のあらゆる不道徳や不義に立ち向かう姿勢を貫き通すクリスチャン生活を全うしましょう。神の時が近いのです。
●10/4(土)(レビ記23:42)(マルコ16:15)
「後の世代に知らせる」
神はイスラエルの後世に荒野で神が養われたことを伝え続けていくように語られました。
(マルコ16:15)現在の私たちは過去があって現在が成り立っています。
未来は現在によって成就しているのです。神は過去の出来事を後世に伝えなさい。イスラエルの歴史の中で荒野で40年間生き延びられたからこそ、今の21世紀のイスラエルの子孫たちは存在している、それは神の奇跡の守りなのです。
奇跡的にイスラエルの民は神の守りの中で生き続けてきたことの自覚を忘れないように、神は語っておられるのです。
このことは、私たちに対して、イエス・キリストの救いは荒野のイスラエルの守られた生活と同じように、私たちもイエス様を信じて、この世の罪の世界で、神の子が神の子としての人生を全うすることができないような、不可能な環境の中にあります。
しかし、神様の権威の守りの中で生きるならば、イスラエルの人々のように養われ、全うすることができるということを、証として宣べ伝えなさいということです。
私たちの生活の中に、イエス様がどんなに偉大であるか伝えることです。

■2003年9月21日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
仮庵の祭り

愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
(第1ペテロ2:11)

「仮庵」とは陽ざしを防ぐため、葉っぱでおおっただけの簡単な小屋で、イスラエルの民が祭りの間の一週間を過ごす場所です。
これはイスラエルの民が荒野で40年間過ごした時の神様のおおい(守り)を象徴しています。
私たちにとってこの世界は天国へ到達するまでの仮庵の住まいで、私たちが旅人であり寄留者である事を表しています。
今週はイスラエルの三大祭りの一つである「仮庵の祭り」について学んでいきましょう。
●9/22(月)(レビ記23:23〜25)(ローマ13:11)
「ラッパを吹き鳴らす」
ラッパは合図として使われ、T今何をするべきか、今がどのような時なのかUという事を知らせるために用いられます。
神様はメッセンジャー(説教者)を通し、聖書のみことばの中から語るべき神様の心(御計画)を告げようとされています。ですから礼拝の中で聞くみことばは、単に聖書研究的なものとしてではなく、神様からのT時を知らせる合図である事Uと受け止めて、ご自分の心を探りみことばに耳を傾けてください。
またクリスチャンは先に神の御心の時を聞いているのですから、まだ神を知らない世の人々に対し、ラッパとなって神の時を知らせ、あらゆる自然的な災い、人生の苦難から逃れるための助けをするという大切なつとめもあります。
●9/23(火)(レビ記23:26〜27)(第2テモテ4:1〜2)
「第七の月の十日の贖罪の日」
「贖罪の日」とはイスラエルにとって一年中でもっとも厳粛な日で、罪に対する正しい裁きがなされる日であり、「第七の月の十日」とは、霊的な完全さが全て整った事を意味しています。
キリストの十字架の死は完全に罪をあがなう御業がなされていて、ひとつも落ち度のない完璧なものであることを象徴しています。
罪人である私たちは本来、神から裁きを受けなければならない立場にあるものでしたが、イエス様が十字架にかかってくださった事により、神はキリストに私たちを裁く権威を譲られました。
ですから再臨された時、キリストは信じる者(羊)と信じない者(ヤギ)にはっきり分けられ、信じる私たちにとっては贖われた喜びがありますが、信じない者にとっては最終的な裁きの日ともなるのです。一人でも多くの人が救われるため、神は(第テモテ4:2)で「時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝えなさい」と勧めておられます。
大贖罪の日に大祭司(=イエス・キリストの型)は一年に一度至聖所(神の御座)に入ることができますが、完全な罪の贖いの御業をしなければならない(わずかでも落ち度があるならばその場で打たれて死んでしまう)ので、とても厳粛な日です。
キリストの贖いの御業がいかに完全であるかの象徴として「第七の月の十日」と数字で表現しています。
●9/24(水)(レビ記23:28)(黙示録22:12)
「贖いがなされる」
イエス様がよみがえられた事は、完全な贖いがなされた事を証ししています。
全く罪のない方が、罪人のために十字架にかかる事は、救い主としては正しい裁きなのですが、イエス様個人においてはまちがった裁きなのです。
ですからイエス様個人の義のゆえに、三日目によみがえるという権利が与えられました。いつまでも苦しみ続ける事は神の律法に違反するからです。
私たちはイエス様がよみがえられた事の証をとおして、再臨への希望をしっかりと持ち続けるために、互いに励まし合いましょう。
●9/25(木)(レビ記23:29)(ローマ13:14)
「身を戒める」
私たちは罪のないイエス様が十字架で裁かれる事により、罪が赦されたのですから、身代わりとなってくださった方の苦しみを忘れてはなりません。
また私たちの肉を喜ばせるために贖いの犠牲がなされたわけではないのですから、この世においては肉の欲求を制限し、身を戒める事が大切です。
イエス様はやがて一人一人に報いを携え、再臨されますが、今は天(まことの至聖所)において、ご自分の血を携えて、一人でも多くの魂が救われるためにとりなし続けてくださっているのです。
その事をいつもおぼえて、私たちは身を戒めたクリスチャン人生を歩みましょう。
●9/26(金)(レビ記23:30〜32)(第2コリント5:4)
「全き休みの安息」
T安息日Uは肉のためではなく魂のために設けられました。
一週間のうち六日間は肉を養うために働きますが、肉の生活を維持するため、魂は大きな負担を感じている事がわかると思います。それで神様は魂の事だけに集中できる日としてT安息日Uを定められました。
T贖いの日の安息Uは肉に勝利した証として、象徴的に表されています。
●9/26(土)(レビ記23:33〜36)(第1コリント10:1〜4)
「仮庵の祭り」
T仮庵Uは荒野での生活を表しますが、この世はまさに荒野で、神の国の良き実を結ぶものは何一つありません。そんな中でクリスチャンが霊的に生き続ける事は不可能なのですが、神のおおいがあれば、イスラエルの民が40年間も荒野で養われたように、地上で養われる事ができます。
クリスチャンとして聖さを保ち、義を全うし、愛を行う信仰生活を完全に行う事ができるのは、仮庵の中でみことばに従い、聖霊と共に歩む事によってのみ可能となります。
しかし、クリスチャンが神のおおいから出てしまうと、この世の罪の力が直接影響してくるので、クリスチャンとしての人生を全うする事はできません。
私たちは自分の力で罪に打ち勝つことはできないからです。
なぜ神様は私たちを荒野におかれているのでしょうか?
それはイスラエルの民が神様によって40年間も養われたことでイスラエルの神はまことに生きておられると世界中に証ししたように、私たちクリスチャンが罪にまみれたこの世界で、クリスチャンとしての人生を全うすることで神が生きておられる事を証しするためです。
ですからなるべく妥協しない人生を歩んでいただきたいのです。
私たちは今、仮庵に生きているという事を確認して、今日という人生をイエス様の再臨を迎えるための備えとして、自分の魂のために何をするべきかを考えていただきたいと思います。

■2003年9月14日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
ペンテコステ

神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
(テトス3:5)
ペンテコステという言葉は、50という数字に表れる自由と解放を意味しています。1世代を50に分けていくと、世代が変わるごとに、王様も替わっていきます。それは古い時代から自由にされることであり、私たちも神様を知らない人生から神様を敬う人生へ変わる体験をすることです。
今週はペンテコステと私たちがどのように関係あるのかを学んでいきましょう。
●9/15(月)(レビ記23:15〜16)(第1ペテロ1:3)
「新しい穀物のささげもの」
過ぎ越しの祭りは、キリストの死と葬りと復活を意味しており、イエス様が私たちの罪を取り除くために葬られ、初穂である大麦の束を揺り動かすことによって3日後によみがえられたという証です。
ペンテコステの祭りは、それから50日たって、50日目に、肉の人生が終わり、解放の時がやって来るという希望の象徴です。
それは大麦である罪の人生から、小麦である神様の義の人生へと救われるという意味です。
私たちは、罪赦され感謝です。と、それだけで終わるのではなく、小麦の人生へ1歩踏み出すことが必要です。
●9/16(火)(レビ記23:17)(マタイ13:33)
「初穂のパンのささげもの」
過ぎ越しの祭り−パン種を入れないでささげる
罪を取り除くために、イエス様が十字架で死んでパン種の影響を受けないような救いを与えてくださった
ペンテコステの祭り−パン種を入れてささげる
ここではパン種は「神の国」であり、私たちの心に神の国がやって来ると、人生に良い影響を受け、良いものが現れる。そのしるしは、神の霊があなたの内に宿られるという体験です。
神の国の王はイエス様です。イエス様をあなたの心の主人として迎え入れるなら、あなたの心に神の国が来て、パン種のようにあなたの人生すべてに良い影響を与えます。
イエス様を主人として尊んでいるか吟味してみましょう。
また私たちは救われ新しく生まれ変わる証として、この地上に残されていることを忘れないようにしましょう。
●9/17(水)(レビ記23:18〜19)(ガラテヤ3:28)
「いけにえとささげものとともに」
私たちは皆集まれば、イエス様のからだになり1つです。あなたの人生が神様に喜ばれる人生であるかどうか、それはいけにえであるイエス様と共に歩む人生であるかどうかです。
私たちが不十分であっても、完全であるイエス様と共にいれば、神様は喜んでくださいます。
一歳の傷のない子羊七頭→愛される神の子イエスの霊的な完全さ
若い雄牛→耕す務め=人々が救われるための祭司としての働き
雄羊二頭→神の証し者として人となられたキリスト
穀物のささげもの→いのちのパン(小麦の粉を砕くようなつらさ=十字架での苦しみ)
注ぎのささげもの→人々のため(罪赦されるため)にいのち(血)を注がれた
和解のささげもの→神の裁きをなだめる償いとなられたイエス
●9/18(木)(レビ記23:20)(コロサイ2:12)
「子羊二頭と初穂のパンを揺り動かす」
子羊二頭(証となる完全な神様へのささげもの)と初穂のパン(神の前に収穫される最初の実)を揺り動かすことは復活を意味しています。私たちの心が神の国を受け入れてキリストの心に近づけられていくためには、新しい人生を出発することを理解しておかなければいけません。
パンである私たちと、子羊二頭という、証となったイエス様の人生は、イエス様のよみがえりを信じると、私たちも神の前に共によみがえった者として人生を新しく歩めるというしるしです。
私たちは、キリストの復活によって与えられたいのちであることを心に刻みましょう。
●9/19(金)(レビ記23:21)(ヘブル8:10)
「聖なる会合を召集」
ペンテコステの集会をもつとは、聖なる会合によって心に律法が刻まれるということで、私たちの内に聖霊によって神の国が置かれ、心が神様に喜ばれるように変えられていく時に、聖書の中でこれはこういう意味だと自然に理解できるようになることです。そして色々な生活の出来事も、神を信じている者としての考え方からの判断や評価をしていきます。
また礼拝は、ある人にとっては神様の愛に触れる時であり、イエス様の十字架の贖いのみわざを少しづつ理解する時という過ぎ越しの祭りの会合であり、ある人にとっては、将来に対し祈り求めている事に、聖書を読んで示されたおことばが残って、メッセージを通して同じ事が語られていると確信し、悟り、心に刻んでいく、ペンテコステの会合でもあります。
あなたはどちらを体験しているでしょうか。どちらも体験していることは、すばらしいことです。
●9/20(土)(レビ記23:22)(第2コリント3:6)
「貧しい者や在留異国人のために」
ペンテコステは大麦ではなく、小麦の収穫というおいしいパンを食べるための麦なので、だまって持って帰りたいという人が出てきます。
スイカやメロンを作った時に、明日食べようと思った日に限ってないということがあります。どろぼうもいつおいしいかよく知っているわけです。
盗まれるのとあげるのと、あなたはどちらが心地良いでしょうか。
盗まれないように隅々まで刈って盗まれたら、私たちはカンカンです。なぜ神様は守ってくださらなかったのかと。
神様は貧しい人のために施しをしなさいと言われます。貧しい人や在留異国人のために、刈り残しをしなさいという事です。こういう考えを持つことができる人は、ペンテコステを経験し、神の国を心に持った人です。
教会の奉仕も同じです。神の国のお声に耳を傾けて、自発的に奉仕し、譲るべき者は譲り、自分に与えられたと思うものは喜んで奉仕することが、人を生かし、神の国を心に持つことになるのです。
ぜひ皆さんも、神の霊をしっかりと内側に迎え入れて、良き神の国の人生を歩んでいきましょう。

■2003年9月7日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)
主のもとに集まる

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
(マタイ18:20)

レビ記23章は「祭り」について書いてあります。「祭り」とは「集まり」のことです。イエス様の約束は、2人または3人で集まる時、そこに共にいてくださるということです。今週は「集まり」の大切さを学んでいきましょう。
●9/8(月)(レビ記23:1〜2)(ヘブル10:24〜25)
「例祭」
例祭とは、会合、集会のことで、定期集会とも言えます。今日は集会の大切さについて考えてみましょう。
世の中にも多くの集会があります。集会をたくさんもっている団体は、もたない団体より活発で力があります。「集会」とは皆があるひとつの目標達成のために、心を一つにして、力を合わせていく大切な時です。それゆえ、集会に多く参加する人とそうでない人の神への姿勢は違ってきます。夫婦でも夫より何度か多く集会に参加している妻の方が、より信仰的になりがちです。
そこで神はイスラエルの民に、定期集会を一年に何回か持つように提案されました。それが「例祭」です。しかし、集会の大切さを悟らなければ、せっかく参加しても何も得られません。集会に出るための「自覚」はとても大切で、しっかり自覚して出るなら多くのものを得ますが、何も考えずに出るなら、何も得るものはありません。しっかり自覚してなるべく多くの集会に出るように心がけましょう。そうしていくなら信仰が成長してきます。
☆デボーションノートの余白に「賛美のいけにえ」と書き込んでください。4日のリバイバル集会で、来られた方全員が、各々神を賛美することばを、自分なりに詩にしたり、短歌や俳句にしたりして発表しあいました。すばらしい集会となりました。
皆さんも、この余白に、神をたたえる文章を自分なりに考えて書き込んでみてください。必ず恵まれて、開放感と喜びが与えられます。
●9/9(火)(レビ記23:3)(ヘブル4:10)
「7日ごとの安息日」
安息を持つということは、神がご自身の業を終えて休まれたように、私たちも自分の業を終えて休むことです。自分の業を終えて休むとはどういうことでしょう。神は、聖なる会合を持ちなさいと言われました。それは、みことばを学び、解釈を聞き、養われる集まりのことを指します。
私たちが週に一回礼拝を守る意味は、ここから来ています。イスラエルでは土曜日を安息日として守りますが、クリスチャン達は、その翌日にイエスがよみがえられたことを記念して、日曜日に礼拝を守ります。
神は7日めごとに、みことばをもって神と交わる時をもつように命じられました。これは永遠の掟であってクリスチャンにとって、最低守るべきことです。
この守るべき安息の日をあなたはどのように受け止めておられるでしょうか。この7日めに会合を持つというのは、大変重要なことです。私たちは影響を受けやすいからです。礼拝を守るということの重要性をしっかりと考えてください。私は仕事よりお金より命より、何よりも礼拝を守ることの方が重要だと価値づけています。そして礼拝を一度も休まないことを決心しています。それは、今私が生きていることを、一番望んでくださるのはイエス・キリストであるということを知ったからです。イエス様は命をかけて、私を救い出してくださいました。その御心に報いるために、私は礼拝だけは一生休まないと決めたのです。人目を気にしてではなく、私のイエス様への気持ちの表れです。強制ではありません。ひとりひとりが神の前に決心してください。(礼拝はひとりではなく、みんなで守ることが大切です)
92歳で亡くなられた時山兄は、目も足腰もいくら弱っても日曜礼拝に来ることを切望されました。それが自分を愛してくださる神への彼自身の信仰の表れでした。
私たちももう一度、礼拝出席における自分自身の神への姿勢を考えてみる必要があります。
●9/10(水)(レビ記23:4〜5)(ガラテヤ1:4)
「過ぎ越しのいけにえ」
イエス様は、私たちを今の世の悪の影響力を断つために救い出してくださいました。旧約時代、エジプトからモーセが民を率いて旅立つことをパロ王は頑なに拒否し続けました。その結果、神は死の使いを送り、人から家畜に至るまで、長子の命をとるという裁きを下されました。しかし、鴨居に小羊の血を塗った家だけは死の使いは通り過ぎたのです。(これが過ぎ越しの出来事です)この小羊の血は、イエス様の十字架で流された血潮を表しており、イエス様の十字架こそ、人々の罪を赦し、滅びから救い出す神の救いです。
クリスチャンになっても世の中の誘惑に弱く、いつも流行に追われていると感じる人々がいます。それは、イエス・キリストの血をしっかりと心に塗っていないからです。つまり、自分の罪のためにイエス様は十字架で身代わりに罪を負って死んでくださったということを信じることであり、自分は罪赦された神の子であるという自覚をもつことです。自覚は世の中の誘惑を断ち切る大きな力になります。「自分はクリスチャンである」という自覚のために、ファッションや持ち物を工夫するのもひとつの案です。私は若い頃、どこへ行くにも聖書を持ち歩き、時間があると例え読まなくても聖書を開くようにしました。それによって目や耳から入ってくる悪い誘惑を断ち切ったのです。これは随分若い自分の助けになりました。
●9/11(木)(レビ記23:6〜8)(第1コリント5:7)
「種を入れないパンの祭り」
パウロは過ぎ越しの祭りから、クリスチャン生活のきよめについて教えています。イエス様の十字架の血潮によって、私たちはきよめられましたが、私たちの信仰生活に古いパン種、つまりイエス様を信じる以前の私たちの考え方や価値観を決して混ぜてはいけません。
神を信じる前の主観を信仰生活で適用してしまうと間違ってしまいます。信仰生活から古いパン種をすべて取り除く必要があります。私は信仰をもってすぐの頃、テレビも新聞もすべてやめました。それはまだ世の中の情報をプライベートの時間に入れたくなかったからです。クリスチャンとして歩み始めた頃はまだ世の中の誘惑に弱かったので、そのようにしてでも自分自身を守りたかったからです。せっかく礼拝で恵まれても、帰ってすぐテレビをつけると、すべて忘れてしまい、むしろ、疲れてしまうことに気づいたからです。
特に自分が弱いと思うものには気をつけて、生活の中から遠ざけるようにしましょう。
●9/12(金)(レビ記23:9〜11)(第1コリント15:20)
「初穂の束を揺り動かす」
初穂の束とは、キリストの復活を表しています。イエス様は、ご自身を一粒の麦であると語られました。「一粒の麦が地に落ちて死ねば、やがて多くの身を結ぶ」というみことばです。イエス様は十字架にかけられ、地に下り、三日目に復活されました。初穂は、一粒の麦が死んで、よみがえってくださったイエス様のことを表しています。
復活に対して、あなたはどういう期待を持っているでしょうか?
この人生が苦しいほど、よみがえりに対して希望をもつことが必要です。よみがえってからの人生をどのように考えておられるでしょうか。私たちは罪のないからだでよみがえるので、もはや二度と罪の実を結ぶことはありません。すべての苦しみが報われます。その希望を持つ時に、この地上の苦しみ、試練に忍耐していくことができます。地上で与え続ける人は、天国で報われます。今の苦しみに忍耐しましょう。復活の時に報われます。
●9/13(土)(レビ記23:12〜14)(コロサイ1:23)
「過ぎ越しの祭り」
過ぎ越しの祭りとは、「いけにえを捧げ(十字架)」「種入れぬパンの祭りをし(葬り)」「初穂の束(復活)をゆり動かす」という3つのポイントから成っています。この3つはイエス・キリストの死と葬りと復活を象徴しています。種入れぬパンと葬りがなぜ同じ意味なのでしょう。イエス様の葬りとは、肉の人生の終わりを意味しています。また、種入れぬパンとは、クリスチャン生活の健全さを表すと共に、古い人生を葬り去ったという意味を表します。
私たちは、洗礼を受ける時に、水に浸かり、イエス様の死と葬りに合わされ、自分の肉中心に考える人生を終わらせました。年に一度「過ぎ越しの祭り」があります。これは騒ぐのではなく、聖書のみことばを祭司から学ぶ時です。私たちは、あらゆる集会で、イエス様の死と葬りとよみがえりをしっかりと味わうことが必要です。
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