2003年8月31日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)

  ささげもの 

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
(ローマ6:13)


「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」ローマ6:13
私たちの手足、すなわち人生全てを意味しています。手というのは仕事、業、足は人生の歩み。これをパウロは義の器として神様にささげなさいと言っています。器とは、その働きをするもの、もしくは入れる器ですから、悪いもの、罪を持ち込むのではなく、義を受け入れていく人生であるようにと教えています。そのことを今日もレビ記から学んでいきましょう。

●9/1(月)(レビ記22:17〜25)(气ハネ5:15)
「誓願のささげ物」
私たちは、どうしても応えて欲しい気持ちの表れとして、自分から条件をつけて願う場合があります。一つの例として、サムエル記のハンナの祈りです。ハンナは子供が産めない体でした。当時は妻として一番大切な働きができないということで、離縁されて家に帰されることがありました。彼女は神様に、「最初に生まれてくる子供はあなたに差し上げます。」と約束し、その誓いを果たしました。ハンナのこの確信は、神様の祝福の一つである、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」という言葉からきていて、感情ではなく、必死にそれを求めたものです。
この誓願の祈りを私たちのクリスチャン生活の日頃の祈りの姿勢として、神様は教えておられるわけです。神様が私の願いを聞いてくださると知ったならば、もう「お願いします。」ではなく「与えてくださることを感謝します。」に変わっていきます。
誓願の祈りとは、強い決意、確信を意味しているわけです。こうした成熟した祈りに変えられていくためには、神様との関係がしっかりと強く結ばれていくことが必要ですね。

●9/2(火)(レビ記22:17〜25)(ルカ12:57)
「自発のささげ物」
イエス様が群衆に向かって、時を悟るようにと教えられるところですが、群衆というのは群集心理が働いて周りに合わせようとします。善悪の正しい判断ではなく、多数決に意見を合わせようとすることです。イエス様はそのことを注意されたわけです。
私たちの信仰の決断は、自分自身が正しい良心を持って決断する。これが自発のささげ物、行動、信仰、ということを悟る必要があります。
教会では今、月に2回昼食の奉仕をしてくださっていますが、始めた時の動機を覚えておられますか。新会堂を建てるために月々のローンに少しでもプラスになるようにというものでした。それから16年、色々な問題を時間をかけて話し合ってきました。その中においても基本的にはすべて自発の心です。自発の心を忘れかけでしまう時に問題が起こります。私たちは初めの動機に立ち返って何度も討議しました。そして色々な努力と工夫をしてきました。
会堂、駐車場、献金、全てにおいてこの自発性というものが、神様に対して最も価値あるささげ方ですから、ルールはなるべく決めません。そしてこの自発性は、人と比べるものではありません。

●9/3(水)(レビ記22:17〜25)(ヤコブ1:6〜8)
「ささげ物の条件の違い」
足の長さが違うということは、人生の歩みに大きな揺れが生じるということです。そういう人は二心のある人で、安定に欠いているとヤコブは表現しています。そういう人は信じ切れない、疑う心を持っているので、結局は願いが聞き届けられても、受け止める姿勢ができていません。ですから、誓願の祈りの場合、足の長さが違っていては良くないということです。しかし、自発のささげ物では受け入れられます。私たちには良い所も悪い所もあります。神様は私たちの悪い部分は、将来造り変えられていくという期待を持ちつつ、今の良い部分に目を留めてくださって喜んでくださるお方です。起伏の激しい私たちの信仰生活をも、神様は喜んで受け入れてくださっておられます。

●9/4(木)(レビ記22:26〜28)(マタイ27:46)
「母子関係」
羊、やぎ、牛、鳩といういけにえの動物がいますが、一日に本当に何十頭という動物が殺されていきます。それも生まれて一歳のの動物が中心にささげられていくわけで、それは大変なことです。これだけでもかわいそうなことです。まして、ささげる動物がいないということで、生まれて8日も経たない動物を代わりにせざるを得ない状況もあるかもしれないわけです。その場合、8日間は絶対に母親から離してはならないという条件を、神様は置かれました。それは母親の子供に対する愛着は8日間が一番強く、お乳をあげる一番大切な時だからです。
あなたが動物にさえ、かわいそうだという気持ちを抱くならば、父なる神様が私たちのためにイエス・キリスト、一人子を犠牲にされたことにどうして同情を向けないのか…。
このいけにえの母子関係を通して私たちは父なる神様、そして御子イエス様のお気持ちを思いみることが大切です。

●9/5(金)(レビ記22:29〜30)(ルカ2:38)
「感謝のささげ物」
和解のいけにえには誓願のささげ物、自発のささげ物。そして感謝のささげ物の三つがあります。このいずれも相手との和解が成立していなければ、意味のないものになります。受け入れてもらえないということです。
この和解とは、イエス・キリストの十字架のことです。
あの長崎の幼児殺害事件で、いくら加害者が反省して色々手をつくしても、その度に被害者は頭にくるし、怒りは燃えるし、赦せない気持ちがもっと高まると思います。加害者の手からいくら和解のための方法や犠牲を払っても、被害者に受け入れる気持ちがない限り、それは無意味なものになってしまいます。被害者の方から条件が出ない限り、和解は進みません。
神様と私たちの間における和解は、私たちの方から条件を出したわけではありません。そのようなことで償えないほどの大きな罪を犯した加害者です。
神様の方から条件を出してくださいました。それは「救い主、イエス・キリストを信じなさい」これだけです。こんなに最高の条件はありません。私たちはこの神様からの和解によって、人生全てに価値を回復されるようになったのです。どんな人生であっても感謝できるようになるはずです。

●9/6(土)(レビ記22:31〜33)(ガラテヤ3:1)
「エジプトから連れ出された方」
レビ記の方では神様は「エジプトから連れ出した神は私である」と語られました。これは忘れないようにということです。
ガラテヤ書では「あなたがたを救ってくださったのは、イエス・キリストなのに、どうしてあなたがたは正しい行いによって救われようとしているのか」とパウロが間違った考え方に行っているガラテヤ人に忠告しています。
現在の私たちには、代わりに罪の誘惑があります。神様の恩を忘れさせるような楽しみがたくさんあります。
一つ歴史上のすばらしい人間関係があります。明治時代の日露戦争の時の陸軍大将であった(乃木希助)将軍と明治天皇の関係です。明治10年の(西南の役)の時、乃木大将は連隊長として戦いに行き、相手に勝利したにも関わらず、軍旗を奪われ戻ってきたという、これは軍人にとって大きな恥でした。この軍旗は天皇の権威を表し、天皇から預かったものだったわけです。乃木大将は死ぬ覚悟をしていましたが、天皇の言葉は「忠良な市民の命と軍旗とどちらが大切か」というもので、「死ぬなよ」と声をかけられました。
乃木大将は天皇から大変な信望を得、命を救っていただいたその恩義に報いようと必死に自分の恥をもいとわないで、信頼に応えようと大役を果たしていきました。
もし、私たちの天皇であるイエス・キリストが、一兵士である私たちの罪のために十字架で苦しんでくださって、命を捨ててよみがえってくださったならば、私たちはその方のために、命を捨てること、これを覚悟できないのはおかしいのではないか…。
戦後生まれの私たち、恩というものの大切さを忘れさせられたような物質主義社会の中で育ったことは、これは大変な霊的損失です。今、私たちは、全人類が神様に大きな御恩寵を受けたことに対して義をつらぬいて、正義を愛して、公平を進めていく、そういう人生を命がけで守り通す覚悟が必要だと思います。あの純真な正義を愛する気持ちをもう一度、人々の心に回復するために、まずクリスチャンである私たちが、神様の前にその志を守るべきではないでしょうか。

  

 

 



 
2003年8月24日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)

  祭司としての自覚
  

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
(第1ペテロ2:5)



「祭司」とは旧約聖書の中で、神が選ばれた、神に奉仕する特別の人々の事です。
ですからペテロは、「クリスチャンは聖なる祭司としての自覚をもって神に喜ばれる者になりなさい」と勧めています。
クリスチャンが祭司としての自覚を忘れると、大変な問題を引き起こし、力の弱いクリスチャン生活になってしまいます。
そうならないため、レビ記22章から、祭司は神の前にどのような姿勢で生きるべきか、御一緒に学んでいきましょう。

●8/25(月)(レビ記22:1〜3)(テトス1:15)
「汚れた祭司」
レビ記22:3で神は「汚れたままで神に近づくと断ち切られてしまう」と語られています。この箇所で「断ち切られる」という点だけに注意を向けると、恐い裁かれる神をイメージしてしまいますが、神様はそれほどまでに聖くなる事が大切だと自覚をうながすために語られているのです。
私たちは信仰によって神に赦されました。何ら努力はいらず、誰でも受ける事のできる恵みです。
しかし赦されたからといって今までと変わらない罪の生活をし続けるなら、天国に入ることはできません。
今の私たちは、キリストの聖さに近づく途上にあり、完全に聖められてはいませんが、大切なのは罪から離れる事に対し、あきらめないで少しでもキリストの聖さに近づきたいという願いをもって祭司としての自覚を持ち続けることです。
罪から離れるために悩み苦しんだエネルギーを聖められるための望みへとつなげてください。神はその心の姿勢を見て喜んでくださいます。
私たちが罪を犯したとしてもすぐに裁かれないのは、聖さに近づくためにやり直すチャンスを与えてくださっているのですから、その神の寛容な心に感謝をし応答して行きましょう。

●8/26(火)(レビ記22:4〜9)(气Rリント15:34)
「聖食の禁止A」
コリントの教会は、聖霊様の奇跡的な働きがなされていたにも関わらず、十分な祭司としての聖めがなされていない、不完全な教会でした。人々は罪を犯し続け、祭司は祭司としての特権を受ける事のできない状態にありました。
「らい病、漏出がある」とは自分で病が自覚できる事で、罪を犯していることが自覚できる状態を表しています。
私たちが、罪を赦してくださる神様の大きな心に甘んじて、いつまでも罪を犯し続けていると、罪から離れ聖められたいという意志がない(=信仰がない)とみなされ、キリストの恵みを受けられなくなってしまいます。私たちが罪から離れたいと願い、悩みながらも信仰を働かせ続けていれば、神の聖めを受けるチャンスがありますが、あきらめてしまうと信仰が働かなくなってしまうので、罪から離れることはできません。
しかしレビ記で「聖められたら食べることができる」とあるので、神を信頼すれば必ず罪から離れることができるのです。
サタンは罪から離れようとしている人の心に働きかけ「どうせできやしない」と誘惑してきますが、どうかあきらめないでください。
どんな事があっても「罪から離れる」という強い決意をもって生きてください。
それが神に対する私たちの信仰です。

●8/27(水)(レビ記22:4〜9)(コリント4:16)
「聖食の禁止B」
私たちの肉体は日々衰えていきますが、クリスチャンの内なる人は日々新たにされます。それはキリストの姿(人としての完全な姿)に近づく事ができるということを意味しています。
私たちは一日の歩みの中で多くの汚れたものにふれる機会があり、避けて通ることはできませんが、水をあびる(=聖霊とみことばに触れる)ことによって聖めていただくことができ、次の日に持ち越されることはありません。
一日の始めにデボーションをして神と交わる事は大切ですが、一日の終わりにも心を神に向け、聖霊様とみことばによって感謝の祈りをする事によって、クリスチャンとしての自覚をよりうながし、私たちの信仰生活はもっと充実したものへと変わっていくことができます。

●8/28(木)(レビ記22:4〜9)(ローマ8:13)
「聖食の禁止C」
「自然に死んだものや野獣にさき殺されたものを食べる」とは、世の中の考え方や価値観を受け入れる事を意味します。
経済的な考え方において聖書では「1/10を神に捧げなさい」とありますが、世の中の考え方は、生活のために多くの必要があるのだから捧げることができないといいます。
神は、私たちが捧げるお金が欲しくて「捧げなさい」と言われているのではなく、神を信頼し、畏れる心をもって信仰を働かせた時、天の窓を開いてあふれるばかりの恵みを注ぐことを見て欲しいと願っておられるのです。神は私たちに1/10も返すことのできないような悪い経済状況をいつまでも許されるはずがありません。神は私たちが何よりも神に対する信頼と愛を優先する生活の姿勢を見たいと願っておられるのですから、「望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させる」という信仰をもってチャレンジしていきましょう。

●8/29(金)(レビ記22:10〜13)(使徒13:2)
「祭司以外は食べられない」
パウロとバルナバは新しい教会を建てるために任命され、アジア・ヨーロッパ方面で宣教の働きをしましたが、彼らを通してすばらしい奇蹟としるしが現され、力強いメッセージにより多くの魂が救われ、喜びにあふれました。しかしその反面、数多くの災難にも出会いました。これは彼らの務めに対する神様からの報いです。それが祭司として食べる「聖なるパン」です。
神様は、私たち一人一人の人生にも祭司としての計画をもっておられ、聖さを保つための信仰の戦いの中で、神の栄光も現してくださり、苦しみも味わいます。
それが私だけが味わう事のできる「聖なるパン」です。
私たちはなるべく苦しみは味わいたくないと願いますが、苦しみがあるからこそ、喜びの恵みを感謝できるし、私たちが罪人だから、神の愛を味わうことができるのです。
神様が与えてくださるものは、全て感謝に受け取れる心を持ちましょう。

●8/30(土)(レビ記22:14〜16)(ローマ12:10)
「あやまって聖なるものを食べる」
私たちは人が賞賛されるのを見ると、うらやむ気持ちが起き、自分もほめられたいという気持ちがわいてきます。
人の賞賛を横取りすることは、クリスチャンとして良くない事ですから、つぐない、賞賛を受けた人に1/5多くのほめ言葉を足して返しなさいと聖書は言っています。その事により、人をうらやむという汚れた気持ちが聖められるのです。ローマ12:10にあるように、「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっている」と思う事によって、もっと良い人間関係を保つことができます。
祭司としての自覚を失わないよう励まし合って、共に天の御国への道を歩んで行きましょう。



 
2003年8月17日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)

  角笛を吹き鳴らせ
  

剣がその国に来るのを見たなら、彼は角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えなければならない。だれかが、角笛の音を聞いても警告を受けないなら、剣が来て、その者を打ち取るとき、その血の責任はその者の頭上に帰する。角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する。しかし、警告を受けていれば、彼は自分のいのちを救う。しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。
(エゼキエル33:3〜6)



《復習》
心(セルフイメージ)…知性、感情、意志
肉体の欲求…食欲、性欲、睡眠欲、活動欲
精神欲求…安心感、幸福感、存在感(心に漂う感覚)

良心…善悪を判断(意識し、自覚する今の自分)
罪…肉体に宿り、全体を支配している力(的をはずす力)
第汾ケ会1.古き人の壁を打ち砕く…セルフイメージのゆえに自分で自分を縛っている。
第聖会2.欲求の壁を打ち砕く
第。聖会3.解放を知らせる角笛…罪の奴隷から神の権威を用いて解放される
第「聖会4.戦いの角笛…戦うべき敵がいる。サタン、悪魔、闇の力を打ち砕く。
第」聖会5.賛美の角笛…賛美の力強さ、角笛…十字架の成就、神の権威を満たした歌を歌うことによって、私たちは解放され、変えられてゆく。
 
〜警告としての角笛〜
剣…裁きを表す→滅ぼすもの
目的:的はずれの人生を送っている人にやってくる
角笛…警告のため→滅ぼされようとしている悪人を救うため滅びから救われるための福音を聞く
裁かれて当然の悪人に対し、裁きの剣が来た時、角笛によって警告を与え、裁きを受けて滅ぼされないようにせよとエゼキエル書は言っています。角笛はイエス・キリストの十字架が成就して、救いが完成したことを知らせるものです。つまり、罪人を救う警告の角笛です。「剣で裁かれる前に、キリストの福音を信じて救われなさい。」という警告です。
神はむやみに人を殺されるような方ではありません。旧約聖書で「殺せ」と言われる時は、その人々がもはや決して神の愛を受け入れず、あとは裁きしか残ってないという場合です。
罪を犯し、滅びるばかりの人が、さし出された救いの愛を受け入れることを拒んだなら、あとは裁きしか残されていません。仲介者としてとりなしてくださるイエス・キリストの愛を拒んだら、後は裁きしかないのです。
また、警告としての角笛が吹き鳴らされるのは、罪人を逃がすためではありません。知らせを聞いて悔い改めるなら殺されずにすむということを知らせているのです。この警告は、イエス・キリストの十字架の福音です。
この警告を受け入れた人は、福音の約束に基づいて、自分の命を救い、受け入れない人は福音の約束に基づいて、命を失います。
警告…危険を知らせ、その危険からの回避の仕方も教える
例えば大雨警報で、非難することと、その場書も告げられます。しかし、それに従わずに残っているなら、洪水が来た時その家は流され、命を失ってしまうのです。
<受け入れる人と受け入れない人との違い>
受け入れた人…良心を重んじる人
受け入れない人…良心を重んじない人
良心の役割の大切さを知ってください。「良心」とは善悪を判断し、意識し自覚するところです。善いか悪いかの情報は知性がもっており、感情はそれにプラスされ、意志は反応します。
しかし、それらすべてをまとめて、善か悪かを判断するのは「良心」です。
その基準は何でしょうか。もし、神に型どられた良心なら、正しく判断できます。例え神を知らなくても、良心を重んじる人々は罪を犯すことに対しては、恐れを感じ、一般的には悪から遠ざかります。
しかし、良心の善悪の判断を重んじない人は、感情が欲求を満たすことだけを求めていきます。
不倫も道徳的には悪です。しかし、皆がやっているから悪でないと言えるでしょうか。良心は、愛する妻がいるのに、妻を裏切って他の女性に心を向けることはしてはならないことだと感じ取ります。しかし、それを無視して生きる人と、重んじて生きる人とに分かれてきます。そこで、神の罪のゆるしの警告を聞いた時、良心を重んじ、その判断に従って生きている人は、そんなありがたい話はないと反応しますが、良心を軽んじる人はそんなことは自分には関係ないし、どうでもいいと感じます。キリストの福音を聞くと、例え他宗教の人でも、感銘を受ける人がいます。その人の良心が目覚めているからです。
宗教を持つことは、良心が目覚めるためには大切です。
日本は戦後、宗教の自由によって(これ自体はいいことですが)、道徳心が低下してしまいました。それに、人の弱みにつけ込んで金もうけをするいろんな宗教が出てきたので、人々はますます宗教に対して心を閉ざし、良心を重んじて生きることを空しく感じるようになり、むしろそれを「悪」というようにイメージづけられてきています。それで、真剣にイエス・キリストのことを語っても、宗教は嫌だという顔をされることが多いのです。宗教に対する悪いイメージがついてしまっているからです。しかし、宗教を重んじなかったら「良心」は狂ってしまい、「欲求」によって生きるか、「セルフイメージ」によって生きるか、「罪」によって生きるかのどれかになってしまいます。
心の咎めを感じるのは感情ではなく、良心が咎めて感情に伝わるからです。「良心」を取り去ったら、人は欲求のまま感じるままを生き、聖書はそれを思慮のない生き方と呼びます。
思慮深い生き方とは、「良心」に問いながら、最終的決断を出していく生き方です。この良心に語りかける警告のことばが、イエス・キリストの十字架の福音です。それは十字架が成就してから今日に至るまで、ずっと鳴り続けています。
この角笛を現在鳴らすのは私たちクリスチャンたちです。
この角笛はイエス・キリストの十字架から、その弟子達に受け継がれ、さらにそれが彼らの弟子達にという風に現在まで受け継がれてきました。日本ではザビエル宣教師が初めて福音を携えてやって来ました。彼は当時、日本の人たちの道徳心の高さを、他の国に類を見ない程だと賞賛しました。その証として、数年の間にクリスチャンとなる日本人が何万人にも出たのです。余りの勢いでクリスチャンが増えていくので、秀吉と家康は恐れて、迫害をし始めました。
もし私たちがこの角笛を吹いて、人々に知らせなかったら、その人々は咎のために死に、その血の責任が私たちに問われることになります。
クリスチャンは、自分が救われるだけでなく、人々に福音を知らせる役割が与えられています。人々の前で「私はイエス・キリストの十字架によって罪赦されたのです」と伝える必要があります。告げ知らせなかったら、滅んだ人の血の責任を負うことになります。するべき事をしなかったら、それも「的はずれ」という罪になってしまいます。
(ヨハネ3:20、21)に、真理を行う者は光の方に来るとあります。キリストの光をもっているクリスチャンがその光を出さなかったら、真理を求めている人はどこへ行ったらよいかわからなくなります。私たちがキリストの福音を生きる人生を光として、しっかり歩んでいるなら、良心を重んじて生きる人々は必ず光を求めてやって来ます。この世界は罪のしがらみがあらゆる災いが起きる状況になっています。どんな災害にいつ巻き込まれるか私たちにはわかりません。それゆえいつでも良心の咎めなく、神の前に立てるよう、いつも福音を告げ知らせていきたいものです。
この角笛はイエス・キリストの再臨まで鳴り響き続けます。さらに、私たちの心の中でも、鳴り響かせる必要があります。恋人がくれた手紙を何度も何度も読み返し、読み返すほどにその心がわかってくるように、イエス様の福音も、心の中に響かせ続けてゆくなら、神様の御心がわかってくるようになります。
神の御心を大切にし、人々への光としての角笛を鳴り響かせる人生を送っていきましょう。

 

 

 



 
2003年8月10日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)

  多く与えられる者
  

しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。
(ルカ12:48)


 多くを与えられた者は、多くを要求されるということは、神が造られた霊的原則です。ルカ12:48においても、主人の全財産としもべ達の管理を任されていた管理人は、多くを任されていたので、不忠実であったことに対して、厳しく罰せられました。
 クリスチャンでない人々でも、多くお金を持っている人は多く寄付をすることが求められ、親は子供に対する多くの権威を与えられているので、多くの愛といつくしみと寛容な心で子育てをすることが要求されます。
私たちクリスチャンも、イエス様の救いによって多くの良いものを与えられているので、多くのものを要求されるのは当然のことです。その中でも特に、神のきよさ(聖潔)を求められている理由を今週のポイントとしてレビ記21章から学んでいきましょう。

●8/11(月)(レビ記21:1〜5)(第2テモテ1:14)
「祭司が守る聖潔」
レビ記の祭司は、聖潔を守るために、親類の葬儀に出てはならないとされていました。死体に近づくと汚され、祭司の権威が失われてしまうからです。
現代のクリスチャンは、葬儀に出席したり、死体に近づくことに関して、何ら規制はありませんが、霊的な意味においては、同じような厳しさが要求されます。それは私たちに神から与えられている良いものが失われることのないためです(テモテ1:14)私たちは神からどのような良いものを与えられているかがわかると、それを失わないために聖さの中に留まるための努力をします。
私たちクリスチャンはみな神の祭司であると、ペテロの手紙にあるように、クリスチャンは神と一般の民との仲介者として、神様からの権威と神の力が与えられています。この権威は、人々を自由にあやつるためのものではなくて、悪魔や悪霊や罪と闇の力に対して、命令し、縛り、コントロールするための権威です。
日本社会は縁故関係が重んじられる社会なので、悪く思われたらいけない、迷惑をかけたらいけないと、ついつい親戚縁者に同意してしまうことがあります。しかし、あなたが神の力に従っているから、悪魔はあなたを恐がり命令に従うのであって、他の人と同じように数珠を持って、手を合わせて偶像を拝んでいたのでは、悪霊はあなたを恐れず、あなたの命令に従わなくなります。
せっかく与えられている悪の力に対する権威が弱まったり、失われたら、あなたにとっても、親戚の人たちにとっても、大変な損失となります。
クリスチャンは自分のためだけに聖さを守るのではありません。親戚縁者をも悪の力から解放し、救いだし、迷わされている心の目が目覚めていくために、光のことばを語っていくという、祭司としての権威が与えられているのです。
非難され、誤解されたとしても、それは一時的なものです。親戚縁者の言葉に左右され、影響を受けないように気をつけましょう。

●8/12(火)(レビ記21:6)(ヨハネ4:34)
「神のパンをささげる務め」
神のパンとは、神が心を満足されるということの象徴です。神が心を満足されるのは、神のみこころが成し遂げられることによってであり、それは祭司の務めであり、私たちクリスチャンにも求められていることです。
多くのおことばの中でも聖くある、聖くあり続けることは、神が喜ばれ、満足されることで、祭司としてのクリスチャンの務めでもあります。クリスチャンが聖くあることを、世の中の人も期待しています。自分たちは今はできなくても、いずれはその中に入っていけるという希望となり、証しになるからです。

●8/13(水)(レビ記21:7〜9)(ピリピ2:1〜2)
「汚れの関係を断つ」
祭司は、結婚相手や自分の娘の不道徳な行為に関わり、祭司としての聖さを汚され、権威を失くしてしまうことのないように、ときびしい命令を守っていました。
結婚しようとする相手に対する情や、自分の娘に対する情は、親戚縁者よりもさらに強いものです。
私たちは情に流されて、自分の祭司としての聖さを汚してしまわないようにということです。
クリスチャン同士の結婚が最善だというのも、世の中の汚れた価値観を持っている人と一緒になることは、神に対する純真な価値観が汚され、影響を受けてしまう結果になるからです。
 どんなに好きでも、愛していても、情に流されて、あなたの聖さをくずしてしまうことのないようにと神は心配してくださっています。なので、できるならば、結婚前に相手がクリスチャンになることを望むわけです。
しかし、結婚してから、自分が先にクリスチャンになった場合は、相手が信仰を持つことを願って神に祈り求めることが大切です。情に流されて、相手に合わせてクリスチャンらしくないことまでしてしまっても、相手は救われるでしょうか?
かえって、霊的権威がなくなり、遠回りしてしまうことになります。力がなかったら動かせないのです。私たちクリスチャンに与えられている権威は、闇に打ち勝つ力で、どれほど未来を切り開く力があるかということを悟って欲しいと思います。
あなたが祭司として、この権威を使って神の前にとりなし、闇の力と祈りの中で戦っていけば、未信者の夫・妻・子供たちは必ず救われます。
これは霊的権威を持っているからこそ実現する神の約束です。どうぞ、身近な人の情に負けて、汚れを受けないように気をつけてください。

●8/14(木)(レビ記21:10〜15)(マタイ10:37)
「大祭司が守る聖潔」
大祭司はさらに厳しい条件があり、近親者である父・母・妻・子・兄弟が死んでも、その死体に近寄ってはならないとされていました。モーセの十戒では、父母を敬いなさいと言われているにもかかわらず、このように矛盾することを要求される理由は何でしょう。
イエス様はわたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません(マタイ10:37)と言われています。
このところで、イエスと神は同等の存在であり、イエスは神が人となられた方だということがわかります。
すべての存在は、神様あってのもので、両親も神様あっての存在です。ですから、神よりも、父・母を優先させてはならないのは当然ですが、神を敬う者が両親を軽んじることもないのです。また、両親を敬う者は神をも敬うというのが律法の教えです。
大祭司の聖さを維持する理由は、さらにもっと神様との近い関係を持つために必要だからです。
もしも大祭司が、父・母・妻・子の葬儀に出てしまい、神の前に出るなら、大祭司としての権威が失われているので、打たれて、死んでしまいます。
私たちは、死ぬことはありませんが、中途半端なクリスチャンでは、力が表れません。祈っても聞かれないのは、普段から聖さを保っていないために、大祭司としての霊的な権威がないからです。聖さの結果として、イエス・キリストと同じ、力あるわざが表されるのです。

●8/15(金)(レビ記21:16〜24)(マルコ10:21)
「身に欠陥のある者」
祭司の家族の中で障害のある者は、祭司のつとめをすることはできませんでした。
このことは障害のある人を差別しているのではなく、霊的権威を失うことの象徴です。
信仰姿勢が不十分で中途半端なクリスチャンは、神のみこころを行うことはできません。
中途半端なクリスチャンがいっぱいいます。だから中途半端な結果しか出ません。
神への信仰は、完全・完璧であるべきです。
この方以外に救いはないという神への絶対的な信頼と、神の立場を絶対的なものとして認めることによって、神を恐れ、自分の古き人も悪い性格も自制していくことができるのです。

●8/16(土)(レビ記21:16〜24)(コリント6:2)
「神のパンを食べることができる」
中途半端なクリスチャンでも、神の家族として認めてもらえ、神のパンを食べることができます。(神の恵みによって養われる)神のいやしのパンによっていやしを待ち望み、回復されて欠陥がなくなれば、祭司としての務めをすることができます。
多くの人は自分でできないのでダメだと思い、あきらめてしまう人がいますが、それはもったいないことです。神の務めをするために欠点となっている心の信仰姿勢を悔い改めて、いやしを与えられ、もっと厳しく聖さを守っていこうという決心のもとに、祭司として健全なクリスチャン生活をすることが神のみこころです。


 



 
2003年8月3日 日曜礼拝メッセージより(辻 秀彦 主任牧師)

  善と悪とをはっきりする
  


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聖書は神を父親的存在として表す事が多いのですが、母親的な愛も兼ね備えた方で、子である私たちを生み育てる事において、地上の親以上に命がけで多くの犠牲を払われています。
ですから神様に対し、生みの親として、育ての親として、母として父としてどれほど多くの愛を注いでくださっているか、もう一度思い起こしていただきたいのです。
 
●7/8(火)(レビ記19:3)(ルカ15:20)
「常に子供をあわれむのが親」
(ルカ15:20)は有名な放蕩息子のお話ですが、親には子供がどんなに親不孝な事をしても助けずにはおれないというあわれみ深さがあります。社会的には兄息子の主張(ルカ15:29〜30)が正しいのですが、しかし、今弱り果て困っている子供が回復し立ち上がるためには、親のあわれみの愛が優先されるのです。ですからなおさら父なる神の私たちへのあわれみが深いわけがわかるでしょう。
サタンは罪を犯したために永遠の裁きを受ける事が定められていますが、人間は罪人であるのに、神の形に似せて創られた神の子であるがゆえに、赦しのための贖いのみわざ(十字架)まで備えて私たちを救ってくださるのです。「何をさしおいても救いたい!」という親バカの心をもってあわれみは裁きに打ち勝つと語られ、罪人の身代わりとなり十字架で地を流してくださったのです。
親は子供が自分の思い通りになるからかわいいのではなく、自分の身から出た、我が子だからかわいいのです。
私たちは神からそのような親心をもって愛されているのですから、あわれみの心を失わないよう気をつけたいものです。

●7/9(水)(レビ記19:3)(ヨハネ15:1)
「精魂込めて育てるのが親」
(ヨハネ15:1)でイエス様は「父(神)は農夫である」とたとえておられます。農夫はどのような自然の厳しさの中でも、あきらめずに作物が実を結ぶために働き続けます。同じように、親も精魂込めて子育てをし続けるのです。
昔、一人の娘さんが嫁に行き、姑から着物を一枚仕立ててくれるよう頼まれました。お嫁さんは頑張って一晩で仕上げましたが、その着物がすばらしくきれいに仕上がっていたので、姑は近所の人に見せてまわるほど喜びました。
その様子を見ていたお嫁さんは、実家の母親を思いだし、思わず涙があふれてきたそうです。嫁ぐ前、母親は娘が一人前の嫁として恥ずかしくないようにと、着物の仕立て方を教えました。しかし、あまりの厳しさに、時に憎む気持ちさえ持つほどだったのですが、そのおかげで姑に喜ばれるほどに良いものを仕立てる事ができたので、厳しさの中にある母の愛に気づき、感謝があふれてきたのです。優しくするだけが親ではなく、子供が一人前になるためには厳しさも必要です。
神も同じように、あわれみ深い中にも、時には厳しさもあらわされます。ですから私たちが祈り願った事がすべて聞かれるとは限りません。しかし、神は誰一人として見捨てる事をなさらず、私たちに対し一人一人にあった方法で愛情一杯の子育てをしてくださっている事を信じましょう。

●7/10(木)(レビ記19:3)(マルコ2:27)
「安息日は誰のため」
ユダヤの世界では「安息日には何も仕事をしてはならない」という戒めがあってイエス様は安息日に病人をいやしたという事で訴えられました。しかし(マルコ2:27)で「安息日は人間のために設けられたのです」とあります。イエス様は安息日の主人で、私たちは安息日の主役なのです。誕生パーティーは誕生者のために設けられたもので、パーティーのためにその人が生まれたのではありません。
イエス様が主催者(=親)私たちが誕生者(=子供)とたとえればわかりやすいでしょう。安息日とは私たちが休むため、私たちのために創ってくださった日なのです。

●7/11(金)(レビ記19:3)(ルカ6:5)
「安息日の主人」
イエス様は安息日の主人(主催者)で、私たちが安息日の主役となるために十字架の御業をなしとげてくださいました。神が私たちを安息の中に招き入れ、よきいやしの神との交わりの時を持てるように、主催者として全ての準備を整えてくださいました。
私たちが神の前に礼拝をする時が安息の時で、時と場所は限定されません。神は私たちと一緒に過ごす事を何よりも喜ばれ、私たちにとっては大変益になるすばらしい時であるのですから、「安息日」を備えてくださった神に心からの感謝をささげましょう。
 
●7/12(土)(レビ記19:3)(ルカ6:9)
「安息日の趣旨」
(ルカ6:9)で神は安息日にいのちを救うためには善を行っても良いと暗示しておられます。クリスチャンが1000人に8人しかいないような日本社会の中で、私たちは日ごろ世の光・地の塩として証をし、福音を伝えるため、いのちを費やしていますから当然疲れてきます。そのために神は7日に1度休むようにと、安息日というパーティーを用意してくださいました。その中でみことばなる神と私たちの霊が交わって(=人格的交わり)いのちが力づけられ、世の中のあらゆる闇の力に妥協せず、光の子としての輝きを増し加えていくのです。
人は安心できる人と共に過ごす事により、心に力を得ることができます。誰でも家庭は一番安心しくつろげる
場所ですが、神はクリスチャンにとって家庭のようなものである教会に皆が集うことが大切で、親と子であれば当然楽しみになると語っておられます。
一週間の歩みでの疲れをいやし、新たな一週間を歩むために、神の家族が一堂に集まり、喜んで賛美をし、みことばを楽しみましょう。