
■2003年6月29日 日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 秀彦 主任牧師)
聖なる者であれ

ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。
(レビ記19:1〜2)

今週は「聖なる者とならなければならない」というみことばの理由を、6つのポイントから考えてみましょう。「しなければならない」というのは強制ではなく、それだけ重要であるということを示しています。「私たちの存在そのものは聖なる者にならなければならないものである。」ということを強調されているのです。律法にある神の戒めで「〜ねばならない」とあるのは、私たちの存在がそのような状態であることが健全な状態であるということを、強調されたいが故であるということを、覚えておいてください。強制ではなく、選ばせたいと願っておられるのです。
●6/30(月)(レビ記19:1、2)(使徒17:26〜29)
「神の子孫だから」
実際の両親を大切にするのと、両親の写真を大切にするのとどちらが正しいでしょうか。本当に大切にするべき両親を放っておいて、写真だけきれいに飾って、それを毎日拝んでいても少しも親孝行にはなりません。私たちは写真の子孫ではなく、写真に写っている方の子孫です。神に対して、世の中がとっている誤ったやり方に影響されてはなりません。
子孫…血を受け継ぎ、遺伝子を受け継ぐ者
子孫は、親のもっているものを受け継ぎます。物質的なものでなく、人格的、性格的なもの、つまり、本質的なものを親から受け継ぎます。私たちは神の本質である「愛」「永遠」「聖さ」等を受け継ぎます。しかし、これらの本質を拒絶していたら、例え血のつながりがあっても、本当の子孫とは言えません。私たちの霊には神の本質を受け継ぐ種がありますが、自由意志によってその種にある「愛」や「聖さ」等を捨てて、別の者を選ぶこともできるのです。世の中の人々は、神の子孫であるのに、別のものを選んでいます。しかし、私たちはイエス・キリストにより、神の本質を受け継ぐことを学び始めています。クリスチャンは神の子孫として歩むことを決心した人々です。神の子孫なのですから、「聖」なる者でなければならないというのが一番目のポイントです。
●7/1(火)(レビ記19:1、2)(ローマ8:17)
「神の国を相続する者だから」
神の子供であるから、神の国を受け継ぐ相続人でもあります。それは神のもっておられる財産を意味します。しかし相続者が、神の国の本質を嫌っていたら、その人は正しい相続人とは言えません。もし「聖なる者」でなかったら、神の財産を賢く使っていくことはできません。良いものを受け継ぐために私たちは良い者でないとなりません。それゆえ、「聖」でないとならないのです。
●7/2(水)(レビ記19:1、2)(エペソ5:1)
「神が愛される者だから」
どのように愛されているのでしょうか。それはどんなことがあっても変わることなく、あきらめずに支え励まし、助けを与え続けてくださるという愛です。その愛の目的は、最後まで、完成にいたる者とするためです。この世の就職試験、入学試験は、何人かを選ぶために、他の人たちを落とすためにあります。しかし、神が私たちに与えられる試みはこの世のものとは異なります。むしろ、全員が天国に入れるように、あらゆる方法をもって支え、育てるためのものです。
ですから決してあきらめずに、「聖なる」者となりたいと願い続けましょう。神は私たちを愛し、決してあきらめない方だからです。
●7/3(木)(レビ記19:1、2)(テモテ2:11、12)
「キリストと共に治める者だから」
「耐え忍んでいるなら、彼と共に治めるようになる」とあります。私たちは、この世の不敬虔な人々の考えや生活に影響されず、自分を聖なる者として保つよう耐え忍んでいます。それは、キリストと共に治めるようになるからです。先日早稲田大の学生5人が一人の女子学生を強姦するという恐ろしいニュースがありましたが、そのことに対してある国会議員が「強姦するのは元気なしるしだ」という暴言を吐きました。
なんという非道徳的な情けないことばでしょう。そのような議員を選んだ人々は一体何を考えているのでしょう。こういう人が国を治め憲法を変えていくとしたら、この国の行く末が心配でなりません。政治倫理の著しい低下は今までも取り上げられていますが、ひどいものです。
もしあなたを、神がキリストと共に治める者として選んでおられるとしたら、あなたはリーダーとして地を治める者としてふさわしいでしょうか。もっと聖なる者としての自覚と実力が身につけられなければ、地を理想的な形で治めることはできないでしょう。それゆえ私たちは聖なる者となる必要があります。
●7/4(金)(レビ記19:1、2)(气Rリント6:17)
「キリストと一つとなる者だから」
神と交われば聖くなります。神の聖さは私たちがいくら汚れていても決して汚れることのないものです。ただ、神は余りに聖い方なので、直接触れてしまうと私たちは死んでしまいます。神の聖さは汚れを浄化し、滅ぼしてしまうからです。それゆえ、汚れたままで神に近づくことはできません。イエス・キリストが仲介者として私たちを聖めて、聖なる者としての立場を与えてくださったからこそ、神と交わることができるようになったのです。このことを忘れてはなりません。キリストを信じて、聖なる者としての立場を与えていただいて、神に近づいて行きましょう。
●7/5(土)(レビ記19:1、2)(黙示19:8)
「聖なる者としての価値」
私たちは聖なる者とならなければならない程に価値がある者です。(黙示19:8)に、花嫁は光り輝くきよい衣を着ることを許可されたとあります。つまり、その花嫁は処女であり、純白の衣装を着る価値があると認められたということですが、それはクリスチャンである私たちは、処女のように聖な者になる価値があるということを示しています。それなのに、その価値を捨てて、自分勝手な生き方をしていないでしょうか。処女として純白の花嫁になれるのは一度限りです。
これは霊的な心の面における例えです。キリストに対する純真な乙女のような心を、しっかりと持ち続けましょう。それが私たちの価値です。それを奪われないよう、私たちは日々信仰の戦いをしています。そのために神は聖霊様を送って、私たちを助けてくださり、血潮によって守ってくださっています。神はそれほどにあなたを価値ある者として見てくださっているのですから、日々、聖なる者としてしっかり歩む必要があります。神に属する者は聖なるものを選びます。選ばない人は属さないことを選んだことになります。この2つのうちのどちらかを、私たちは選び取ることになります。
キリストの花嫁として、聖なるものを選び取っていきましょう。それを手放してはなりません。

■2003年6月22日 日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 秀彦 主任牧師)
身を汚す交わり

また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。
(第1テモテ5:22)
「按手」とは、その人に触れ、手を置くことですが、特別な、神に委ねられた権威を持っている人が行います。持っているものが相手に移されるという意味があり、上の立場の者が下の立場の者へいろいろなものを委ね渡すとき、強い者の力が弱い者へ依託され、たくさん持っている者が持っていない者へ分け与えるときに、目に見える形で手を置いて祈るというものです。ここで「軽々しく手を置く」ことには危険が伴うと、パウロはテモテに言っています。何の注意もせず軽々しく手を置くとは水が高い所から低い所へ流れるように、さわった相手の何かが自分に流れるか、自分の持っているものが相手に流れるかのどちらかです。「按手」は触れることを意味しており、交わりを持つことにつながります。「他人の罪に関わる」とは、気づかずに他人の罪に関わる交流を持つと、表面的には分かりませんが、その罪の汚れを持ち込み、汚れてしまいます。触れるものに影響されるので、よほど注意して神の前に心を正して聖霊の力と血潮の守りをもって、触れていく(手を置いて祈る)必要があります。「信じる者が病める者に手を置けばいやされる」とは、神に対する強い信仰を持っている者が手を置けば、信仰の力が病人に流れていやしが実現しますが、逆に信仰が弱くて、病気の症状が強すぎると、その病にかかるということも起こりうるのです。軽々しく扱ってはいけません。何の罪も犯していない人が、罪を犯している人との関わりによって、罪を犯してしまう危険性もあります。今週は触れること、関わりを持つこと、すなわち交わることを通して身を汚してはならないということをレビ記18章から学んで参りましょう。
●6/23(月)(レビ記18:1〜5)
「風習に従って歩んではならない」
いろいろな神々を拝み、風習を守っているエジプト人やカナン人のやっていることを、よいように見えてもまねてはならないと言っています。彼らは「宗教的淫行」を行っており(聖書の神以外を拝むことは汚れた行為であると先週お話しました)、ヘブル人は一人の神しか拝めないが、私たちは何十という神々を拝め祝福されている、奥さんを一人とせず、いろんな女性と関係を持てば幅広くなると言っているようなもので、彼らの判断基準に誘惑されてはいけないと神は特別に注意しています。
(气eモテ6:3〜6)未だに葬式時の規模を競わせて利益をつり上げていく例もあるようですが、「敬虔を利得の手段とする」エジプト人やカナン人の考え方に影響されてはいけません。特に日本は建前社会でまわりに合わせるのが良いこととされ、クリスチャンにとって信仰の戦いが大きい国です。彼らをまねると、私たちの良心が不敬虔でおおわれ鈍くなり、神に喜ばれるものか、人に喜ばれるものか、分からなくなります。汚れた生活となり、せっかくイエス様を信じて救われたのに、身を汚してまた滅びに行ってしまうことのないように神は忠告されています。妥協しても表面的には分かりませんが、見えない魂が汚されしみがつきます。(神だけが見えるしみです)私たちの良心が神と一つとなって、少しのしみも気になり、すぐに悔い改めたくなるほど敏感であればいいのですが。世とのつながりの多い職業の方は極力注意して、この世の風習に従って歩んではならないという忠告にしっかり心を開いて悟っていただきたいと思います。
●6/24(火)(レビ記18:6〜18)
「近親相姦の罪」
血のつながった家族や法的な家族と性的な交渉をしてはならないという当然のことを、レビ記の時点で神は忠告しておられます。モーセによってレビ記が書かれた3400年前にすでに今の世の中と同じ淫らな性的行為がなされていたとは驚くべきことです。しかし私たちはみな罪人であり、同じ罪の性質をもっており、何十年たっても結果的に同じことをします。
この「近親相姦の罪」は何を表すのでしょうか。ユダ13節によると、不敬虔な者は海の荒波のように自分の恥を泡のようにわき立たせ、何の恥じらいもなく大っぴろげにします。風俗産業の映画や美術に携わっている人の目的は、法的に表現の自由を建前にして、本当の目的は人々の内に潜む罪の欲望を引き起こして金もうけをすることです。彼らは平気で近親相姦の映画や小説を作って真理だと言わんばかりに強調します。無知な若者は、純真な良心でそれらを見聞きし、刺激を求めてそちらへ流れてしまいます。自分の欲望を満たすためのあらゆる不道徳を承認する考え方をする人と、絶対交わらないようにしてください。不道徳な愛は愛ではなく単なる欲望です。愛と欲望を間違えてはいけません。人間としての尊厳をなくしてしまうことのないように、神はここで強く語っておられます。
●6/25(水)(レビ記18:19〜23)
「神の御名を汚す」
レビ記18:19〜23の記述の中で、異常な性的行為の羅列に21節の「偶像礼拝にかかわること」という異質な内容が入っている文章の流れは興味を引きます。レビ記18章の中で「他宗教と関わりをもつな」というのはここだけです。神さまが文脈を間違えられるはずはなく、偶像礼拝は異常な性的行為と等しい宗教的関わりだとはっきり示しておられるのです。自分の子をいけにえとして他の神々にささげるのは、無秩序な性的行為と同じ位破廉恥な道ならぬことをしているのです。今の時代、日本では例を見ませんが、世界のどこかには潜んでおり、サタン礼拝を行っている団体はし続けています。偶像と関わるとは、動物と性行為をする位、ぞっとするおぞましい異常な感覚なのです。私たちはこのことを世に対してもっとはっきり宣言する必要があります。
(ローマ2:23、24)ローマの人々は説教を聞いて「律法を行います」とアーメンといいつつ、神を侮る生活をしていました。今の教会に人が救いを求めて来ないのは、私たちクリスチャンの故に神の名が侮られているとも言えます。知識は持っていても、行いが伴っていなければ、教えに対する尊敬はなくなります。私たちは淫らな罪は犯していなくても、神の御名を汚す行為に気をつけなければなりません。人々が神への尊敬を持つのは、@みことばを完全に行うA罪を犯したとき心からへりくだり悔い改める、のどちらかです。私たちには悔い改める方がやりやすいと思いますが、私たちがプライドを持って隠してしまい、自分の罪を認めないので、世も尊敬しないのです。隠すことが問題です。罪を光にさらし、不道徳な罪は犯していなくてもそのような罪を犯しうる罪人だとへりくだり、謙虚に認め受け入れることが、キリストの救いの美しさを人々に伝えることになるのです。自分も罪を犯しやすい者で、淫らなことをする人と変わりない罪人だからこそ、イエス・キリストの救いが必要で、神の愛の力によって悔い改め、罪の力から解放してくれるキリストに望みをおいて改善されていく人生を送っており、あなたも罪に負けない力強い人生を歩めますと、本音で言えないなら、その裏には隠した罪があり、自分を偽っていることになります。私たちは何かのきっかけでどれほどみにくい考えが出ることか、悩み悲しんだからイエス・キリストに救いを求め、いやしときよめとゆるしを求めるわけです。このような話は「真剣に生きる」ことを考えている人でなければ関心がありません。しかし、どこかに求めている人がいます。その一人のためにキリストは十字架で命をささげ、罪に勝利する救いの道を用意されたのです。私たちはその先駆けとして、その途上にある者としてこれから救われてくる人の励ましとなるのです。今あきらめたら、これからみな滅んでしまいます。証し人がいなければ、誰も信じることはできません。神の御名が汚されないように勇気をもって罪を認め、罪人の正直さを持ちつつ悔い改めてキリストの姿に変えられることにチャレンジしていきましょう。
●6/26(木)(レビ記18:24〜26)
「地が住民を吐き出す」
(エペソ5:5)
御国を相続できないとは、相続地から追い出されることです。いったん神の国に入れられたクリスチャンでも、不品行、汚れ、むさぼる者は神の国から追い出されます。汚れた住民の故に、地が受け入れられないからです。彼らは自分の欲望を満たすために畑は荒れ放題となり、転々と居を変えることになります。神の国でみことばの種をまき、収穫を
地を相続できないのは、いばらやあざみがますます増え広がり外注が生まれ、地に人々が住めなくなります。住民が汚れたことを行ったので、地が人々を吐き出す、ということです。当時、快楽にふけって農耕しないと荒れ地となり、今はよくても次の年は収穫ができなくなり、その土地を離れて実のなる土地へと移らざるを得なくなりました。クリスチャンは神の国のものですが、神の国という大地が私たちを吐き出すことのないように、気をつけなければなりません。この世の人々と調子を合わせて同じように快楽にふけっていれば、神の国での収穫をおろそかにすることになり、収穫できなくなり、地を離れて別の地で収穫を得るしかなくなります。生活の中に神の国の実を結ばせるものがなかったら、教会に来ることがむなしくなります。メッセージを聞き、賛美をし、祈ることの意味を疑っている人は大地を耕し、種をまき、収穫するという仕事をしないため、収穫が得られず、むなしくなり、祖国を離れてたやすく中に入る方法を見つけて、世の中の快楽へ行ってしまうのです。神の国に留まろうとするならまくべき種があり、そこから永遠のいのちに至る御霊の実を収穫していくのですが、それをせずむさぼり、汚れたこと、不品行というこの世の喜び、価値観に合わせるなら、神の国に留まることはできず吐き出されてしまいます。種まきは楽ではありませんが、収穫は労苦の報いです。神の国から吐き出されることのないように、心の中の神の国の土地を耕し、みことばの種をまいて聖霊の実を結んでください。
●6/27(金)(レビ記18:27)
「地が汚れる」
「地が汚れる」とは、健全でなくなり、規則正しい営みが地上で行われず、以上が起こり、災いが起こることです。それは住民によって汚れるのです。地球の様々な自然的災いは、私たちの汚れによって健全な自然環境が崩されたためです。私たちの不道徳が自然界の秩序を乱しています。「秩序」は霊的存在であり、健全な状態を保つためのルールです。人が守らなくなると、影響は自然界に及びます。交通事故にあう確率は、ルールを守らない自己中心な安易な考えと判断から生まれる不道徳によって上がっていきます。
(气Rリント11:29〜30)の「みからだをわきまえない者」というのは「キリストのからだの秩序を乱し、自分さえ腹一杯になりさえすればよいという者なので、教会の中に弱い人や病気で早死にする人が出ると、パウロは言っています。不道徳・無秩序な考え方は全体に影響します。全うされるべき天命も短くなることすらあるということです。私たちの不道徳の積み重ねが何の罪もない小さな子供も禍の中に引き込むこともあるのです。
●6/28(土)(レビ記18:28〜30)
「忌み嫌うべき風習」
神は再度エジプト人の「忌み嫌うべき風習をまねないように」と強調しておられます。偶像に関わるか、神に喜ばれるかを判別できないのは、みこころに対する知識の薄さにより、知らず知らず汚れた者と交わり、身を汚し、災いを招くことがあります。
(气Rリント5:11)パウロは神が旧約時代、しつこいまでに汚れた者と交わって身を汚してはならないと言われていることを悟っているパリサイ派で、きよめへの知識は深かったのです。実際に私たちが身を汚してしまう交わりは、クリスチャン同志の中で起こりやすいのです。クリスチャンだからといって安心してはいけません。この教会では世とのつながりに注意するようにしっかり教えています。テレビ雑誌、マンガ、コンピューターゲームへの制限がある理由を悟ってください。汚れる者は秩序を乱す者であり、まわりを災いに引き込むのです。だから兄弟と呼ばれる人で、秩序を乱す信仰生活を送っている人とは交わるな、つき合うな、一緒に食事をしてもよくない、そばに寄るなと厳しく書かれてあるほど、汚れることの恐ろしさを理解する必要があります。例えば陰でタバコを吸っても迷惑にはなりませんが、「たばこを吸いたい」気持ちが、キリストのからだの秩序を乱す罪を犯す欲望の始まりであることに気づいていないことが問題です。「これ以上きよくなれない、これ位で落ち着こう」と平気でタバコを吸い、お酒を飲むクリスチャンの話を聞くと、きよめの意欲が低下し、「放縦でいい」という感覚さえ持ってしまうと汚されたことになり、秩序が乱され、すぐではありませんがどこかに問題が起こってきます。私たちのまわりには、神に忌み嫌われる風習がたくさんあります。世の中には私たちがきよめられるために見習うものは何一つありません。私たちがきよめられるために見習うべきものはみことばであり、イエス様です。神が特に交わりに注意を与えておられることに心を留め、この一週間気をつけていきましょう。

■2003年6月15日 日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 秀彦 主任牧師)
神を間違えてはいけない

彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
(ピリピ3:19)
人間の一番の欲望は、「腹を満たしたい」というものです。良い学校に行き、良い会社に行き、老後を安心して暮らしたいというのは、すべて「腹」を中心に考えたものです。いかに平安に食べられる生活を送れるかということのために、私たちは働いているとも言えます。しかし、物質が豊かでこれだけ「食」に恵まれた日本に住んでいても、本当に幸せとは言えません。世界で一番心を病む人々が多いのも日本だからです。
私たちもいつの間にか真実の神にではなく、腹を満たすこと、つまり欲望に仕える生活を送っているなら、欲望が満たされないとすぐに不満を言う、幸せとは言えないクリスチャン生活になってしまいます。自分は果たしてまことの神に仕えているのか、腹に仕えていないかを、今週は吟味する一週間とするために、レビ記17章から6つのポイントを学んでいきます。
●6/16(月)(レビ記17:1〜5)
「自分勝手なささげ方をしない」(第2ペテロ1:20)
神が示された通りにささげるのが大切で、自分勝手にささげてはなりません。そのために、神は事細かに、旧約でささげ方について言及されています。何故なら、決められた通りにささげなかったら、そこに約束されたことが実現しないからです。そういうことを通して、新約に書かれている教えのルールを、自分勝手に解釈し、生活に適応してはならないということを教えています。最近いろいろな宗教団体が、勝手に聖書のことばをとって、自分たちのやっていることを正当化しようとしています。聖書のことばを私的解釈して用いるとは、神に対して本当に失礼なことです。聖書の権威を認めるのなら、真剣に学ぶべきです。私たちクリスチャンもみことばを自分勝手に都合のいいように解釈していないか、しっかり吟味しましょう。
●6/17(火)(レビ記17:6〜7)
「宗教的淫行」(エペソ5:31〜32)
淫行とは性的罪の事です。人々が自分の神以外の偶像につながりをもつことを、神は性的に汚れた行いをしたことと同様に見られるということです。日本では、宗教はいいことなので、いろんな宗教に関わってもいいと考える人が多いようです。(競争で神社のお守りを買ってみたり、お寺巡りをしたり)
エペソ書から考えてみましょう。神はアダムの骨の一部をとって女性を造られました。男と女はもともとひとつなので、結婚とはひとつになることだというのが聖書の教えです。この結婚の教えは神の奥義であり、大変神秘的なことであり、大切な教えです。夫と妻は又、キリストと教会を象徴しているとも言われます。人はもともとキリストの一部をとって造られたものなのです。私たち人は、創造主なる神とのみ、一体となることができ、他の神々とは決して一体となることはできません。
一体となるべき神は唯お一人なのに、他の神々を求めるような行為は淫行に等しい、汚れた罪であると、神は嫌悪されるのです。神は私たちを妻として深く愛してくださっています。この教えを、クリスチャンでない人々は理解できないので、排他的とか非難します。しかし自分が信じてもいないのに、どんな宗教にも合わせるという考えの方が、単に人目を気にした、神に対し誠意のない態度ではないでしょうか。私たちと神との関係は夫と妻としての強い絆であり、決して他のものを入れてはならない神聖なものなのです。
●6/18(水)(レビ記17:8〜9)
「贖いのいけにえは主にのみささげられる」(使徒4:12)
私たちの救いのために、犠牲を払い、代価を払ってくださった神は、イエス・キリストしかおられません。世界中のどの宗教にも、神自身がいけにえを用意して、人々を救われるという教義をもったものはありません。神がこのことを全く他の宗教に許されなかったのは、キリスト以外、救い主はいないという真理を証しされるためです。
私たちの罪の罰を肩代わりしてくださった方は、イエス・キリストお一人しかおられません。
●6/19(木)(レビ記17:10〜11)
「血は罪の贖いのために与えられている」(气yテロ1:18〜19)
血を食べてはいけないというのは、聖書に何度も出てきます。神にとって最も価値があるのは「愛」であり、決してお金では買えません。真実な愛はお金ではつくれません。人間は神の純真な愛に背き、傷つけました。この傷をいやせるのは「愛」のみです。日本でも多くの犯罪が起き、殺人がなされていますが、殺人を犯した人間は、その遺族の心のいやしがたい大きな傷のために、一生涯かけて労して賠償金を払い続けるべきだと思います。
自ら汗水流して労働して償っていく、その誠意が必要ではないでしょうか。金額の大きさではなく、その行為、誠実さが少しでも被害者側の心をいやすのではないでしょうか。
神の心の傷を、人の不完全な愛でいやすことはできません。神の心をいやすのは、神御自身の完全な愛によるしかありません。神御自身自らが、ご自分の愛をもって、妻として選ばれた私たちの罪を身代わりに負われ、愛を示されました。私たちは自分の力で救われることはありえません。ただ、この完全な愛を示されたキリストを信頼するしか、救われる方法はないのです。レビ記で多くの動物の血が流されていますが、それは命は命によってしかあがなえないことを示しています。人の命は人の命によってのみあがなわれます。まして、尊い神の子の血は、人類全ての罪をあがなえないはずはありません。
●6/20(金)(レビ記17:12〜14)
「血を大地に注ぐ」(ルカ22:20)
ここでは、食べるための動物の血について書いてあります。ルカ22:20は、イエス・キリストが十字架刑の前に、弟子達にぶどう汁とパンを与えられた場面です。ぶどう汁は契約を象徴しています。十字架で、キリストは全身の血を流されました。その血は、「新しい命を私たちに与える」という契約の血です。イエス・キリストの血は、十字架の杭を通して、地上に全て流れました。そして、三日後に死の中からよみがえられたのです。それは、私たち信じる者も同じように新しい命を持つ者として、よみがえることを示しています。食べるための動物の血を全て流しきり、血を食べないようにするのは、大地が血を再生し、再び実を結ぶことを期待することを表しています。
戦いの中で、敵に囲まれた故郷の井戸の水を飲みたいと切望したダビデのために、三人の勇士が命をかけて井戸の水を手に入れて来ました。その時ダビデはその水を飲まず、感動して大地に注ぎました。それは、この水に彼らの命の価値を見いだし、自分が彼らの命を飲むことなどはできない、神にお返しします、ささげますというダビデの敬意を表しています。
大地に注ぐとは、神にお返しし、再生を望むことを表すのです。
●6/21(土)(レビ記17:15〜16)
「死骸の肉を食べる者のきよめ」(第2コリント8:2)
自然に死んだものや、獣に殺されたものの肉を食べると汚されると言っています。普通の人々はそのような肉は食べません。しかし、そのような肉でも食べざるを得ない貧しい人々がいます。神は彼らをあわれみ、思いやっているのです。それゆえ「食べるな」と言われずに、食べた後のきよめられる方法を教えられました。私たちも罪を犯さずにはおられない者です。それで、神はその弱さを思いやって、きよめられる方法を与えられたのです。マケドニヤのクリスチャンたちは、大変貧しい人々でした。しかし自分も貧しかったのに、同じように貧しい教会の人々を助けたくて、ない中からも必死でささげました。自然的極度の貧しさの中にあっても霊的に豊かさがあったといえるでしょう。同じように、あなたは自然的に貧しさがあったとしても、ささげたい、きよめられたいという願いがわき上がってくるなら、霊的豊かさの中にあるといえるのです。
私たちの心は、がつがつと食べるようなみにくさと、それでもささげたい、きよめられたいという2つの面が共存しています。その中で、あきらめずに、きよめられたいという心を選び取っていきたいものです。神の愛が、その選び取る決心をさせてくださいます。きよめられることを嫌がっていると、肉の方に心が占められていきます。神の愛は、私たちの心をきよめ、いやし、力づけてくださいます。人の愛は不完全であり、一時的なものですが、神の愛は完全であり、永遠のものです。この神の愛こそ、欲望に勝る強い力です。自分の欲望を神とするのではなく、神の愛にしっかりと信頼していきましょう。

■2003年6月8日 日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 秀彦 主任牧師)
力と愛と慎みの霊

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
(第2テモテ1:7)
「ペンテコステの日」神の御霊が、この力と愛と慎みの霊を一人一人に遣わされるという約束の日です。この約束は今も成し遂げ続けられています。私たちは先に水のバプテスマを受けます。これは神様、そして救い主イエス・キリストに対する信頼の意思表示です。
<水のバプテスマ>
水に浸かるのは、水の中に沈められてキリストの死と葬りに同一化されることです。そしてキリストが三日の後に肉体をもってではなく、永遠の命のからだをもってよみがえられたように、私たちも新しく神と共に人生を歩むための命をいただいて水から上がって来るという手続きをふむことです。神様が手順をふんだ正式な法的権威をもって私たちを救って下さるというしるしです。神の子としての権利をいただきました。
<聖霊のバプテスマ>
権利をいただいただけでは誘惑に弱く、力が必要です。神様は助け主として聖霊様を送ってくださり、御自身の霊で満たしてくださるということです。聖霊様は私たちに助言を与え、導いてくださる方です。
聖霊に満たされたしるし
賛美…神様を誉め称える言葉があふれてくる
預言…神が人の舌を用いて御自身の御心、御計画を語らせる
異言…他国の言葉で神の御言葉の奥義を語る
教会によってはそれぞれ受け止め方がありますが、私たちの教会は聖書(使徒)に書いてある現実的な聖霊のバプテスマの体験を受け入れ、目指し、求めている段階です。今日は、聖霊のバプテスマによって私たちの内に与えられる5つのポイントを挙げていきます。
●6/9(月)「力を受ける」使徒1:8
この力とは神の権威、権力です。キリストの証人とは代理者と同じ意味なので、この権威を私たちが地上で現すことができたら、それはキリストを証ししているということです。
聖霊を受けるとは、この神の主権を私たちも手にするということです。
創世記で神はアダムに「地を治めよ」と言われました。人間の存在の目的です。神様は今、これを回復してイエス・キリストの救いを通して、私たちを用いて、神の国の秩序をこの地上に広めることを実現されました。ただ、この力は闇、悪を支配する力です。あらゆる悪意に対してそれを縛り、治め、服させる力、これが神の権威です。この力を受けているということを信じているかいないかで、私たちの生き方も変わってきます。
●6/10(火)「愛が注がれる」ローマ5:5
人間には愛が必要です。愛は私たちの生きるための動機付けを与えます。心のエネルギーを起こさせるということです。どのような愛に動機づけられて生きていくかによって影響されてくるわけです。
<聖書の中にある愛>
エロス…動物的愛…肉体的な愛、気持ちで変化
フィレオ…精神的愛…気持ち、条件で変化、不安定
アガペ…神の愛…約束は必ず守る(気持ち、状況の変化にともなわず)忠実、信頼
世の中には動物的愛が多くあります。しかし私たちは神の愛をいただいて、それを動機付けにしてクリスチャン生活を送っています。それはこの愛こそ自分が一番求めている命の源、これをなくしては自分はあり得ないという、それほどに大切なものと決心をしました。だからとことん神様に義理立てをするわけです。
私たちと神様との永遠不滅の命がけのこの愛の動機付けは、不可能を可能にするエネルギーを私たちにもたらします。
●6/11(水)「解放が与えられる」ローマ8:2
人間にとって罪と死ということが人生最大の問題です。私たちはこの罪と死という原理に縛られた生活を送っているわけです。私たちは滅びにいたる原則の中にいましたが、聖霊を受けると永遠のいのちに至る原則に変わるということです。
もし解放されていることを信じなければ、誘惑がやってきます。誘惑されるということは解放されている証です。誘惑を感じない人、自分本位に動く人はすでに罪に陥っている人、束縛されている人、奴隷になっている人です。
誘惑されて良心が痛むということは、解放されているしるしですから、心を強くしてください。
●6/12(木)「神の子の身分が与えられる」ローマ8:15
身分を与えられるということは、社会的に安定し、安心感を持ち、何者であるかということの確信を持つことができます。それは国籍であり市民権です。
神の子の身分が与えられるということは、永遠の神の御国における身分が保証されるということであり、安心すべき魂の平安を得る条件だということです。この身分は何かをしたからというのではなく、神が一方的に私たちを愛して身分を授けられたわけです。私たちはそれを信じて受け止めただけです。
ただ、あなたが聖霊様が嫌われるようなことをすると、この身分を与える聖霊様が退いてしまいます。神様が一番心を痛められるのは、神様を愛したくない、嫌いだと思う人です。すなわち聖霊様を嫌いだと言うことが一番聖霊様に嫌われることです。罪を犯すことは神様は認めてくださり、赦してくださっています。私たちが完全でないことはご存知ですから。行いの善し悪しではなく、神様を敬い尊ぶ心を失わないように気をつけてください。
●6/13(金)「望みを与えてくださる」ローマ15:13
失望に砕かれてしまうような希望は本物の希望ではありません。希望は失望に打ち勝ちます。この希望は他者からもたらされるものが一番強いです。自己啓発というものがありますが、これは自己暗示をかけることです。それによって自己破壊してしまう人がいます。自己啓発は良心の咎めを完全に壊してしまいます。欲望のかたまりになってしまいます。成功する人はほんの一部であり、本当の自分をなくしてしまった人がたくさんいます。神はそんなことを望んではおられません。神は一人一人のそのままを活かして成功へ導いてくださる方です。そのことを語り、励ましてくださるのが聖霊様です。この励ましは失望で終わることはありません。聖霊に満たされて希望を心に持っていると、大きな偉業を成し遂げることではなく、いかに悪に打ち勝ち、罪の誘惑に打ち勝って善をやり通すかという、そこにせいこうの根本の目標があります。私たちの心を何に向けるかということです。
●6/14(土)「御霊を受けるためには信仰を持って聞く」ガラテヤ3:5
ここでパウロは、御霊はもちろん行いではなく、信仰を持って聞いたから与えられたということを語っています。一般的な道徳心として何か良いことをしないといただけないと思いがちですが、神様の聖い御霊を私たちに迎え入れるためには、私たち罪人がどんなに良いことをしても、罪がある以上は本来は来てはもらえません。
不可能なこと、それを可能にした奇蹟は、イエス・キリストの十字架の身代わりです。ここにキリストの救いの偉大さがあるわけです。
今でも私たちは瞬間瞬間罪を犯す可能性を持っている罪の性質を持っている汚れた者です。キリストの十字架は、私たちが生きている間の全ての罪を十字架で代わりに苦しまれたのです。あなたの今の瞬間の汚れさえも十字架で身代わりに苦しんでくださったので、罪があってもないもののようにみなされ、聖霊が私たちの内に来られるということです。それほどキリストの命の力はすごいということです。このことを信じますと言った時、聖霊が下るわけです。
あなたの罪のためにキリストが一瞬一瞬苦しんでおられる。あなたに良心、愛、善意の心があるならば、イエス様の苦しみを一つでも少なくすることができたらどんなにいいだろうと思うのが健康な心です。そのために、罪から離れる良心的な決意を持つのが、あなた自身の本来の姿だと思います。そういう人に聖霊はお下りになるのです。
今日、一緒に「主よ、それほど私を愛してくださっているならば、あなたのお言葉を素直に信じます。」とご一緒に聖霊の満たしを受けて参りましょう。

■2003年6月1日 日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 秀彦 主任牧師)
全く聖なる者とされる

平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
(第1テサロニケ5:23)

「大贖罪の日」は、イスラエルで1年に1度、1番大切な儀式を行う日として定められています。日頃の罪のためのいけにえのささげものとは別に、祭司とその家族、民全体の罪のため(覚えていない罪、ハトさえも買えない貧しい人々の罪も含め)聖めをする日です。
イスラエルにおいては、汚れたものを取り除いて、完璧に聖められるという一瞬の時で、それは私たちが全く聖められた状態になれるキリストの再臨を象徴しています。今私たちは信仰によって霊とたましいは聖められていますが、肉体にはまだ罪が宿っていて、信仰生活においてたましいと肉体の思いがぶつかりあう葛藤の苦しみがあります。
しかし、1年に1度行われる「大贖罪の日」の儀式を通し、キリストは必ず再臨され、私たちを全く聖めてくださるという希望を持っていただきたいのです。
その思いをもってレビ記16章から聖めに関する教えを見て参りましょう。
●6/2(月)レビ記16:16〜17
「汚れとそむきとすべての罪の贖い」ヘブル1:3
キリストの十字架の死には、贖えない罪は何一つありません。なぜならキリストは神の本質の完全なあらわれであり、神の栄光の輝きであるからです。そのように価値ある方の命をもって罪のための代価とし、「完全な聖め」をなしとげてくださったのです。ですから汚れとそむきと全ての罪のためにキリストは贖いの代価となられた事をもう一度確認して「私は必ず聖められる」と信じ、罪から離れる決心をして不信仰な感情に勝利していきましょう。
●6/3(火)レビ記16:18〜19
「祭壇の角に贖いの血を塗る」气eモテ2:1
「角」とは主権、国家、治める力を表しています。高い地位にある人達が国を治める時、力だけで治めようとすると必ず争いが起こり、無駄な血を流すという結果を招いてしまいます。神が私たちを愛とあわれみをもって生かして下さっているように、指導者(高い地位にある人)が神の愛とあわれみをもってその主権を行使できるよう、私たちはとりなしの祈りをする必要があります。
その事によって私たちは敬虔に威厳を持って平安で静かな一生を過ごすことができるのです。
●6/4(水)レビ記16:20〜22
「全ての罪の告白」ヤコブ4:9〜10
「大贖罪の日」とは、今まで自分の罪を認めて毎日いけにえをささげ、贖いをしていた人でさえ、罪を告白しへりくだりなさい、という日です。罪は自分の行いによっては赦されず、いけにえ(キリストの十字架)によってのみ赦されるという事、私たちは生まれながらの罪人なのだという事をいつも思い起こす必要があります。
数年前、大阪で一人の男が8人の小学生を殺したり、神戸では少年が小学生の男の子を殺し、その遺体の一部を人目にさらすという残酷な事件がありました。「そんなひどい事を自分はしない!」と思われるかもしれませんが、私たちは罪人なので、その犯罪者と同じ罪の根を内に持っているのです。
神の前に傲慢になると、滅ぼされても仕方もない者が罪赦され生かされている事を忘れ、恵みを感謝できない者になってしまいます。
神の前にいつもへりくだった心を持つ時、神が聖めてくださいます。
●6/5(木)レビ記16:23〜26
「自分の衣服に着替える」ピリピ2:6〜7
大祭司が聖所に入る時は、白い亜麻布を着て務めをするのですが、全焼のいけにえをささげる時は自分の服を着て務めをします。この事は何を意味しているのでしょうか?
キリストは神の子であられるのに、人の気持ちを理解するために、肉体(=自分の服)に留まり、肉から来る欲求や制限(人と同じ条件)の中で、神に喜ばれる全き人生を送られ、十字架の贖いを完了されました。聖い神の子にとってそれはとてもつらい事だったと思いますが、それほどまでに私たちを愛してくださっているのです。私たちはそのキリストの愛がどれだけ深く大きなものであるか感じ取る事が必要です。
●6/6(金)レビ記16:27〜28
「宿営の外で焼く」ヘブル13:11〜13
イエス様はご自分の民であるイスラエルの人々の罪を赦すために十字架にかかられたのに、その真理が悟られていなかったからとはいえ、その姿に「救い主」という力強さは見えず、むしろあまりにみじめな状態であったので、彼らはイエス様をあざけり、はずかしめてしまいました。しかし、そんな姿をさらさなければ、「十字架の贖い」は完了しなかったのです。
これは実際にあった事ですが、一人の中学生が暴走行為をして警察に検挙され、未成年者という事で親が呼び出されました。少年の父親は全く反省の様子もみえない横柄な態度の息子を目にしながらもその場で地べたにひざまづき、頭をこすりつけて「親として息子のしつけが十分できていなかったため、多くの人に迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした。」とあやまりました。
そばで見ていた息子は、その場ですぐに態度を変えることはありませんでしたが、本来なら自分が受けなければならない忠告やはずかしめをかわりに父親が受けてくれた事で心が動かされたのでしょう…。
その日から息子の態度に少しずつ良い変化が表れてきたという事です。
私たちが受けなければならないはずかしめを、キリストが代わりに受けてくださった。その行為の中にキリストの愛を感じ取ることができたなら、私たちも軽々しく罪を犯すことはなくなっていきます。同じ罪を繰り返すのは、キリストの愛を充分に感じ取っていないからではないでしょうか?
心に感動をおぼえない人生はむなしいものです。
キリストが私たちの罪のために宿営の外(はずかしめを受けること)で十字架にかかってくださった事に深く感じて、罪から離れる強い決意をしていただきたいと思います。
●6/7(土)レビ記16:29〜34
「年に一度の贖い」ローマ8:23
私たちが「聖められる」とは霊とたましいとからだが聖められる事です。しかしまだ、からだだけは聖められていないので、パウロは(ローマ8:23)で「心の中でうめきながら、からだがあがなわれる事を待ち望んでいる」と告白しています。
年に一度やってくる「大贖罪の日」はイスラエルの民にとって全ての罪が清算され、完全に聖くなれる一瞬の時で非常に待ち遠しいものです。それは私たちがキリストの再臨を待ち望むのと同じ事です。
大贖罪の日が年に一度あるように、再臨は必ずやってきて、神の子として全く聖い者(復活のキリストと同じ姿)に変えてくださいます。
肉体の中には過去に受けた心の痛みや傷、悪い習慣が記憶されていて、罪との戦いを続けていく時、つらい事もあると思います。
しかし神の御霊が罪を犯そうとする肉体を征服してくださいます。失望しないで、期待と飢え渇きをもってクリスチャン生活を送って行きましょう。

■2003年5月25日 日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 秀彦 主任牧師)
父なる神への感謝

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、
知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、
詩と賛美と霊の歌とにより、
感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
(コロサイ3:16)

感謝にあふれ、賛美が出てくるほどの父なる神との関係は、大変親しく近い関係だと言えます。このような状態であれば、思い煩いもなくなり、どれだけすばらしい一週間を送れることでしょう。
このように神との近い関係をもつためにはイエス様の十字架の救いが必要です。この救いをレビ記から学ぶことができます。
レビ記16章は、イスラエルで最も大切であり、一年の内で一番重要な儀式について説明しています。これは「贖いの日」「大贖罪の日」と言われ、一番聖なる日です。
大祭司が聖所の一番奥、至聖所に一年に一度、自らの罪と、民の罪の贖いのため入ることができる日です。
入るためには香の煙を満たし、いけにえの血を持つことが条件でした。この儀式が、今の私たちの信仰生活にとって何を意味しているのかを今週は学んでゆきましょう。
●5/26(月)レビ記16:1〜2
「神の臨在が現れるところ」(ヘブル4:16)
私たちは神から既に「あわれみ」と「めぐみ」を受けているゆえに、おりにかなった助けを受けるために、大胆に神に近づくことができるのです。
神に助けを求められるのは、神に向かって声をかけ、自分の心の内を親しく語れる関係だからです。しかし親しい関係でもないのに、権威のある人に気安く何かを頼むということはできません。(例:小泉首相に、ちょっと近所の溝の掃除をしてほしいのですがなどと、気安く頼めるはずがないように)
同様に、神に罪人である私たちが、自分の個人的なことを相談するなどということは本来考えられないことです。神は裁き主であり、私たちは罪人だからです。普通罪人が裁き主の前に出られるのは、裁かれる時のみです。もし、裁判の時以外に合って話せるとしたら、それは、裁き主の「あわれみ」と「めぐみ」のゆえです。
私たちが神の前に出て、賛美と礼拝を捧げることができるのは、神の「あわれみ」と「めぐみ」のゆえであるということに、しっかりと心を留めてください。私たちは生まれながらの罪人であるということを忘れてはなりません。今、神は「あわれみ」と「めぐみ」のゆえに、私たちに執行猶予を与えてくださり、キリストの身丈にまで成長するよう待っていてくださっています。それゆえ、もしそのあわれみを無視して神に対し不遜な態度をとり続けるなら、そのような人は遂には滅びてしまうしかありません。
●5/27(火)レビ記16:12〜13
「香を聖所に満たす」(エペソ5:18〜19)
香を聖所に満たしてから至聖所に入らないと、祭司は神に打たれて罪人として裁かれてしまうという厳粛な事実がありました。
神に本当に近い、親しい心の距離感をもてる人の心の状態は、救われ、罪赦された喜びと感謝が心に燃え(聖霊に悟らされる)その燃えた心から神への賛美と感謝があふれてくる状態です。
神に近づくことを求める人は、ますます心が燃えて、賛美のことばをたくさんささげるようになります。賛美のことばがあまり出てこない人は、神と距離感がある人です。
人間関係においても同様のことが言えます。心からほめる、つまり、相手のすべてを前向き肯定的にとれるような人間関係は、大変近い関係であり、深い信頼関係によって結ばれています。このような心からの賛美を神に捧げている人は、例え罪人であっても滅びることはありません。何故ならそこに大きなあわれみが注がれるからです。互いにほめ合うことのない人間関係はいつしか壊れてしまうでしょう。同様に私たちと神との関係の深さも、賛美によって測ることができます。賛美は神に近づくために、絶やすことのできないものです。
●5/28(水)レビ記16:3〜4、6、11
「祭司のための贖い」(コロサイ4:1)
祭司は、人々のために罪をとりなす務めをしていますが、「贖いの日」には、自分と自分の家族の罪のためにも、いけにえを捧げなければならないと決められていました。祭司でさえ、罪人としていけにえを捧げなければ至聖所に入ることができないほど厳粛なものでした。
祭司は人々の上に立ち、神と人々との間でとりなしをする人でしたが、すべての権威は(どんな肩書きの人でも父親という立場にいたるまで)すべて神によって定められた権威であり責任でもあります。立派であってもなくても子供が産まれれば必然的に親になり「親」という権威が生まれてきます。神があなたをそのように責任ある者として置かれたのです。
しかし、そのことをわきまえずに、その立場を利用して、例えば家族を自分の思い通りに動かしたり、気のすむまでコントロールしていたら情けないことです。
実は私たちはそういった誘惑に陥りやすい罪人です。そのような罪に陥らないために、十字架の前でへりくだり、自らは罪人にすぎないのに、ただ神のあわれみによって今の立場があたえられたのだとへりくだらなければなりません。そのへりくだりがここで教えられているのです。
●5/29(木)レビ記16:5、7〜10
「二匹のヤギ」(气ハネ3:16)
ヤギとは人間性を表します。二匹のヤギとは、人となられたイエス・キリストの人間性を象徴しています。二匹はイエス様の人間性の肉体の部分と、魂の部分を意味しています。魂とは人格全体を意味しています。金曜日のポイントとも重なりますが、このヤギの一匹は殺されますが、それは十字架を意味し、荒野に解き放たれるヤギは黄泉に下ったイエスの魂を意味しています。
イエスは、私たちが行かねばならなかった黄泉の暗やみの苦しみを受けてくださったのです。「アザゼルのために捧げられるヤギ一頭」のアザゼルとは、ユダヤの人々に語られる荒野に住む悪霊のことであり、闇、死の力を意味しています。ヤギが荒野に一匹でさまようのは、大変な恐怖と不安です。黄泉の暗やみの中には死の力が支配しています。その死の力にイエス・キリストの魂はとらえられ、三日三晩苦しまれたのです。これほどの苦しみをイエスは義務ではなく、自らすすんで受けられました。ここに大切なポイントがあります。(气ハネ3:16)で、ヨハネはこのイエスの十字架の御姿に「愛がわかった」と告白しています。
義務で育てられた子供は、親に恩を感じられませんが、心から、自分を犠牲にする愛で育てられた子供は親の恩を忘れません。
十字架は、イエス様が自らをヤギのいけにえとして捧げられ、黄泉にまで下られるほどに私たちを愛してくださっているという愛の証です。この愛を是非感じ取ってください。
●5/30(金)レビ記16:21〜22
「荒野に放たれたヤギ」(ヘブル2:14〜15)
世の中には、自分の罪ぐらい自分で負えると言い張る人がいます。それは、今の環境だからこそ言える傲慢さです。
黄泉の世界は、神のめぐみとあわれみが一切届かない場所です。そこには太陽の光も、空気も何もなく、ただ闇の恐怖に囲まれた所です。そのような状況で自分の罪は自分で負えると言える人は一人もいません。神との関係があるからこそ与えられている環境であるということを知らないので、そのように人々は高ぶることができるのです。神はどのような人々にも、地球のよい環境を与えてくださっています。神から全く遮断された世界は本当に恐ろしい世界です。
このことが少しでもわかれば、神に顧みていただくことの喜びがどれほど大きなものかがわかるはずです。この全き闇の世界に、イエスの魂は、私たちの身代わりに行ってくださったのです。そして罪のための裁きを、肉体のみでなく、魂までも受けてくださったのです。
●5/31(土)レビ記16:14〜15
「贖いのふたでの血のきよめ」(ヘブル10:22)
至聖所は新しい天と地、永遠に続く神の国を象徴しています。
私たちの人生の歩みはそこに向かっており、私たちはそこで神と共に永遠を過ごし、そこには充実した自分を最高に生かせる神のプランが待っています。クリスチャンは聖霊のめぐみを受け、天幕の中で生活しています。そしてさらに、神と近くなりたい、親しくなりたいと思う人は、もっと奥へと入ってゆきます。そして様々な体験を通して、ますます徳の高い人間に成長してゆきます。
しかし、私たちはまだまだ不完全であり、罪人でありながら義人とされているという不可解な状態です。私たちは肉体にある限り罪人であり、裁かれないのは、イエス・キリストが今も私たちの裁きを代わりに受けてくださっているからです。神に近づけば近づくほど、裁きの危険はついてきます。それゆえ賛美をいつも満たしていないとなりません。
この賛美はイエスの十字架、血のふりかけがなければ湧いてきません。東側に血をふりかけるとは、神の愛によって過去を見て、受け入れられないような辛い過去もすべて、神の愛によっていることを悟り、感謝をもって賛美することであり(過去に対する処分)さらに、贖いのふたに向かって血をふりかけるとは、これから先、さらに神に近づき、神とひとつとなるという、未来に向かって、あらゆる思い煩い、心配を取り去り、どんなことも神の愛のゆえに受け入れるということを意味します。つまり、過去も現在も未来もすべてキリストの血潮、愛によって受け入れ、その愛に満たされて心から神に感謝し、賛美するのです。これが神に近づく唯一の方法です。
私たちは罪人である自分を知り、そのような自分をも愛してくださる神の愛に感動して心から賛美してゆく時、どのような災いも感謝して受け止められるようになります。
何故なら全てのものは神が与えてくださったものであり、自分の存在そのものを感謝することができるようになるからです。そのようになればあらゆる災いは望みへと変えられてゆきます。あなたの周りの問題に目を留めることをやめ、今まで導いてくださった神の愛に目を留めて、賛美を始めてみてください。
あなたの中に、勇気と力が湧いてくるはずです。

■2003年5月18日日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 秀彦 主任牧師)
生まれながらの罪人

私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
(エペソ2:3)

私たちは、生まれながらの罪人であるにもかかわらず、神は私たちをきよめて神に愛される子として受け入れて下さっています。罪人であるということは、私たちをへりくだらせて、神の前に謙虚な姿勢を持つことができます。罪人である私たちをきよめて下さる、イエス・キリストの十字架の救いを象徴しているのが、今学んでいるレビ記のユダヤ教の儀式です。今週は、レビ記15章の生殖器官に限定されたきよめの儀式を学びます。隠しどころ(生殖器官)からの分泌物は汚れているということの意味と、性的な罪からきよめられることの大切さを悟ることができるように学んでいきましょう。
●5/19 月 レビ記15:1〜15
「病気などによる漏出」 新約聖書より气Rリント1:9
聖書では、男女の性交は神の前に結婚を誓い合った夫婦にだけ認められる、唯一の交わりであり、貞潔を厳守することを強調しています。夫婦の性交はただ欲求を満足させるためだけのものではなく、聖い厳粛な交わりであり、これは、神と私たちの正しい関係の真理を表しています。
神はご自身の栄光を捨てて人となられ、命をかけて私たちを救って下さいました。これほどまでに愛して下さる神はおひとりであり、私たちと人格的交わりをすることができる神様はキリストおひとりです。
この愛なる神・キリストだけに心を向ける交わりに入れられたのが、クリスチャンです。(气Rリント1:9)
私たちは、自分の願望や欲求を満たすために救われたのではなく、永遠という神のご計画の人生を達成するという目的のために夫であるキリストと共に交わりを持つ者とされたのです。
ですから、キリスト以外の神々といわれるものに願いごとをすることは、何人もの夫や妻を持っているようなもので、貞操のない不倫の状態です。イエス様は、実際に姦淫をしていなくても、情欲を持って女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのですと言われました。
イエス様以外のものに心を向け、交わりを持ちたいという誘惑の思いがあるなら、きよめられる必要があります。
それは、唯一の神以外のもので欲求を満足させようとする思いが、病気による異常分泌として表されている罪からの影響力であり、本当に罪を犯してしまう可能性があるからです。
●5/20 火 レビ記15:25〜30
「病気などによる漏出のきよめ」 新約聖書より黙示録2:22
唯一交わっても良い相手以外のものと交わろうとする誘惑の思いがやって来る時、どのようにしたらきよめられるのでしょう。
私たちは、結婚していても、妻や夫以外の異性に目がいき、誘惑の思いが出てきて、いやになることがあります。そのような時、「これは良くないことだ」と心の思いを変える必要があります。そうしなければ、欲求と欲望が溜まってきてストレスとなり、何らかの形でそれを実行したくなるからです。実際に姦淫をしていなくても姦淫をする要素を溜めないようにするために、心の思いを変えていく必要があるのです。
神はテアテラの教会への黙示を通して、罪に誘惑する女(地上の快楽や欲求、東京などの都市を表す)から離れて悔い改めなければ大患難が襲ってくると言われています。
誘惑の思いが起きた時、神様が自分をどのように愛しいつくしんで下さったかという神の愛に心を向けると、肉の思いは冷めていきます。私たちの心をきよめるのは、神の愛に対する感動だけです。 病による漏出物(罪からの誘惑)はそのたびごとに、神に心を向けるという悔い改めによって、心を方向転換し、きよめていただく必要があります。
●5/21 水 レビ記15:15〜16
「生理現象も汚れている」 新約聖書よりエペソ2:3
健全な漏出物である月経や精液、男女の性的交わりさえ汚れていると神が言われるのはなぜでしょう。
パウロは、私たちもクリスチャンになる前は生まれながら神からの裁きを受けるべき罪人であったと言っています。(エペソ2:3)
なぜ私たちは生まれた時から罪人なのでしょう。
神はアダムを創造された時、神に似せて彼を造られました。しかしアダムは神の命令に従わず、自分の欲求を満たすという自己中心の罪を犯してしまったので、それ以後アダムはアダムに似たアダムの子を生むことになりました。それで、アダムの子であるカイン、アベル、セツも自己中心の罪を受け継ぎ、私たちにも自己中心(自分の欲求を満たす)という罪が宿っているのです。
だから自分中心の価値観によって、人を傷つけ、人を支配し、人をないがしろにし、人をねたんだり、反対に自分をみじめに思ったり自分を責めたり、いつも自分、自分で神が中心ではないのです。 アダムの自己中心という性質を受け継いだ私たちは、神の祝福を受けることのできない、汚れたものとみなされた罪人であることを理解することが必要です。悪い事をした時だけきよめを受ければ良いのではなく、四六時中きよめを受けなければならない存在なのです。
5/22 木 レビ記15:19〜24
「生理現象の汚れからのきよめ」 新約聖書よりヨハネ17:17
生理現象の汚れからは、水を浴びるという簡単な方法できよめられます。旧約聖書では、みことばと聖霊様を水に例えています。神様のみことば以上に正しくすぐれたものはないという、尊敬とへりくだった思いをもって、みことばを受け入れていく時、私たちの心はきよめられます。神のおことばは生きていて力があり、私たちの良心に働きかけて思いを変えることができるからです。ごうまんな心から神のみことばを否定することのないようにしたいものです。
●5/23 金 レビ記15:31
「汚れから離れさせよ」 新約聖書より黙示録21:27
「きよい」とは神に属することで、「汚れ」とは神から心が離れていることです。悪いことをしたり、思ったりすることが汚れているのではなく、根本的には神様から心が離れているので悪い思いを受け入れてしまうのです。神様と心がつながっている人は悪い思いを無視することができます。私たち罪人が救われるのは信仰によってであり、信仰とは心を意識的に神様に向けていく心の動機のことです。
現実に悪習慣が抜けていなくても、それから離れようと努力し、神の助けを求める人の心は神様とつながっているのできよいのです。しかし、罪人だから少しぐらいいいじゃないかとあきらめている人は、汚れる方向に行くことを決断することになります。汚れた者は、神の国に入ることはできません。(黙示録21:27)
私たちの心を決して神であるキリストから離さないようにしましょう。あきらめずに、私にはできないけど神にはできると思う人は、そこから神の力が働いて、助け、いやし、解放して悪習慣から完全に切り離して下さいます。
●5/24 土 レビ記15:32〜33
「漏出からのきよめの教え」 新約聖書よりコロサイ3:10
私たちクリスチャンは、神との交わりの人生の中で、アダムのかたちにではなく、造り主神のかたちに似せて造り変えられていきます(コロサイ3:10)
しかし、神様との交わりの中に人間的な考えを入れてしまうと、造り主のかたちではなく、アダムのかたちに変えられてしまいます。
人間的考えは神様との純潔を守る交わりを妨げ、汚してしまう悪い影響力(漏出物)となります。
人間的な考えが浮かんでもみことばと、神の愛の象徴であるイエス様の十字架(いけにえ)を通してきよめられた人生を送っていくことができます。毎日、みことばを読むのは、水の洗いを受けきよめられるためであり、私たち罪人として生まれた者には、大切な働きがあります。聖書は神との唯一の来よい交わりを守り続けるための書物です。レビ記に書かれているユダヤ教の儀式も、私たちが具体的に汚れを恐れ、汚れを受け入れないことを悟らせるために象徴していることがわかると、旧約聖書のおもしろさもわかります。
私たちは貞潔を守ることの大切さを理解し、自分と神様との良い関係を保ってまいりましょう。

■2003年5月11日日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 秀彦師)
欲からの滅びを免れる

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
(第2ペテロ1:4)

聖書には死に至らない罪があります。これが悔い改めればもう一度やり直すことができる罪であり、らい病の聖めにあたる部分です。
死に至る赦されない罪もあります。それは聖霊様に逆らうことです。
私たちはこの地上にいる限り、この世の欲の誘惑があり、つい霊的らい病、小さい罪を犯してしまいます。それがいつの間にか私たちのクリスチャン生活を蝕んで、クリスチャンとは名ばかり、世の中の人と同じまたはそれ以上になってしまう恐れがあります。
世の中の人はこれを偽善と呼びますが、クリスチャンの偽善は少し違います。もしあなたが、まだ聖められていない性格の部分があり、そのことのゆえに良心が痛み、神の前に苦しい思いを持っているなら、それは本来偽善ではありません。正直です。
偽善とは、罪であることを分かりもって平気でその罪を犯し、自分の利益のために人を利用していくやり方のことです。このような偽善の生活から救われ聖められ、そして神の御性質にあずかる者となれるという約束をイエス・キリストの十字架は私たちに宣言しています。これを象徴しているのが、レビ記のいけにえの制度、儀式です。私たちがこの世の欲の滅びから免れて、神の御性質にあずかるための聖め、悔い改めをしていくということをレビ記から学んでいきましょう。
●5/12(月)レビ記14:15〜16 「油を七たび主の前に振りかける」
新約 黙示録4:5
7つの御霊ー神の前に燃えている7つのともしび
油ー神の御霊→御霊は1つ 御霊の働きに関連
7ー1つのパターンの繰り返しの完全数
御霊の7つの働き=信仰生活を常にキリストの姿へ変えていくパ
ターンを与えられている
炎=聖め
火の聖め=不純な物を取り出す。(水の聖めは洗い流す)
「聖霊の聖めの働き」
神様に近づいて御言葉に熱心に取り組んでいくと自分の罪深さが示されます。御言葉を通して私たちの良心に働きかけて、気付かなかった罪を意識させ悔い改めることができます。
聖霊様は、あなたの神を愛する心に働きかけ、自ら罪から離れたいという思いを起こさせます。私たちの新しい心は、御霊の働きに従順で素直に受け入れたい、罪から離れたいと思う心です。
●5/13(火)レビ記14:17〜18 「きよめられる者の上に油を塗る」
新約 ローマ8:14
らい病のきよめ=神の民に回復される
私たちが罪から聖められてキリストの十字架を感謝して見上げることによって神の子として歩む人生に立ち戻ったわけですから、御霊に導かれて生きるのが神の子供です、とパウロは言いました。
御霊に導かれることが、この耳と手と足に油を塗るということの意味です。そして頭にもその残りを塗るということは、私たちの思いも考えも導きに同意していくということです。
聖霊様はまず私たちの良心に働きかけます。私たちは素直に聞き従いましょう。それが神の子であり、油を塗るということです。
●5/14(水)レビ14:19〜20「罪過のいけにえの後に全焼のいけにえ」
新約 ヘブル12:2
罪過のいけにえである、イエス・キリストの十字架を感謝して見上げ、賛美のいけにえをささげると共に、今度は同じ賛美をする中においても全焼のいけにえとしてのイエス・キリストを賛美することが必要です。
御霊の導きによる私たちのゴールはイエス・キリストの御姿です。
キリストの人生は、全焼のいけにえのように香りよきささげものでした。ですから賛美する時、十字架を感謝するだけではなく「主よあなたの御姿に変えられていく私の新しい神の子としての人生を感謝します。私の先がけとなってくださった主よ、あなたを誉め称え、私はあなたに従っていきます。」という賛美をささげていくことが全焼のいけにえに値するということです。
●5/15(木)レビ14:21〜32「貧しくていけにえを手に入れられない者」
新約 ガラテヤ2:10
神様の全ての人に対する道徳性は、ユダヤ人だけの律法ではなく、全世界の人に共通して貧しい人をかえりみるということを必ず付け加えられました。これは神様の御心であって大切な働きです。なぜかというと、私たちも貧しかったからです。その私たちも神様に助けられて神の相続者、富める者となりました。
もう一つ、「心の貧しい者は幸いです」心の貧しい者とはギリシャ語で、心砕かれた、へりくだった、心弱らせた、という意味も含まれています。だからもし悲しんで心弱らせている人がいれば、その人をもかえりみてあげなさいということです。
「なんじの敵を愛せよ」という心もこの道徳からきています。
私たちはもともと迷える羊でした。私たち、信じるか信じないかわからない者のために、神様は大切な御子イエス・キリストをあなたの罪の刑罰の身代わりとしてこの地上に遣わされました。
このような神様のお気持ちを受け止めることのできる者に変えられたいと私たちは願います。この心を忘れないために、貧しい人、心弱らせている人々への配慮をこころがけましょう。
●5/16(金)レビ記14:33〜42 「家にできるらい病」
新約 第1コリント5:6〜8
家ー教会ー神の住まいー聖霊の宮
ー人々は生ける石
パン種=罪=らい病
古いパン種=この世の価値観、滅びに至らせるこの世の欲
悪意不正のパン種ー自分の利益を考えて兄姉、教会を利用する
悪意、不正
私たちは神様の御言葉を曲げたり、自分の利益のためにいいわけをして神様の言葉を用いるような考え方のクリスチャンに対しては、パン種の影響を受ける危険性があるので気を付けなければいけません。
よく聞き分ける心をメッセージ、祈り、御言葉を通して持っておきましょう。
また、らい病ができてからの処分は、患部の石を取り除き、宿営の外に捨て、その周りの石も表面をけずらなければいけませんでした。
教会においてその悪意や不正を持った考え方に影響を受けてないか、よく心を吟味して、悔い改めてそのような感情を取りのぞく必要があります。教会全体の悔い改めが必要となってきます。
●5/17(土)レビ記14:43〜57 「家のらい病の再発ときよめ」
新約 コロサイ3:16
まず、教会を健全に維持していくためには、キリストの御言葉を豊かに住まわすことが必要です。御言葉を体験を通して悟らせると、心に宿すようになります。知識の暗誦ではなく心に覚えます。刻まれた神の御言葉を通して知恵が与えられ、お互いの徳を高め合うために分かち合い教えができるようになります。
次に神に礼拝し賛美します。そのためには動機が必要です。御言葉の理解がなければ、神様の前に香り良き薫香とはならないことがあります。
最後に「互いに戒め」とあります。
私たちは「戒め」に対して、多くが傷があるのでいやな気持ちを持ってしまいます。否定されたという思いが働き、心をかたくなにし、抵抗し、反発してしまいます。
戒めの目的はそこでやめさせる、そのためには悟らせる必要があります。そして強い決心を持たせることです。そのためには大きな寛容な心を持って、妥協点がなく御言葉を率直に悟らせることです。深い御言葉の悟りがなければできないということです。
戒めは教会の中でらい病を防ぐ方法です。互いに戒め合えるほどの御言葉の体験が私たちには必要です。まず、人を戒める前に自分を御言葉から戒めることです。そうすれば自分自身も守るようになり、またそれは自分を通して他の人にらい病が伝わらないということにもなるわけです。
自分自身をよく戒めておくことが必要です。

■2003年5月4日日曜礼拝メッセージより(牧師 辻 百合子師)
神の備え
5/5(月)
1.私たち人間とは(ヘブル2:6)何者なので、罪に汚れた私たちなのに、御心にとめ、顧みられるのでしょうか。
1(創世記1:27)人は神の形に似せて創造された。人を男と女に創造された。
男と女がそろって、各々特有の表れが必要。互いに愛し合い手を取り合っていく時、神の姿が正しく現されます。
2(气eサロニケ5:23)人は霊・心・体で造られている(創世記2:7)(ヨブ記33:4)(ヨブ記34:14〜15)(詩篇139:13〜16)
神は霊であり、見えない神の形が人間にどのように現れているか〜霊的存在者として、人格(神の心)を持ち、人間のような体をもって現されています。神の最高のイメージが人の姿なのです。神が人となられたときイエス・キリストの姿、つまり人の姿となって来られたことからもわかります。
5/6(火)
2.私たち人間はいつ存在し始めたか
私たちは、この世に生まれる前から、神のイメージの中に存在していたのです。
1(エレミヤ1:5)神は、私たちを母の胎内に造る前から、霊的存在者として一人一人を知っていてくださいました。
2(エペソ1:4)私たちは世界の基が置かれる前から、キリストの内に選ばれており神に知られていたのです。創世記1章にあるように、地球、太陽、月、星と造られた神はイメージを持っておられ、人の住みかとしてすべてを整えられました。すべてのものを調和をもって、秩序をもって、最終的に人間のために造られたのです。
3(エペソ1:5)神は御心のままに、私たちをイエス・キリストによって、御自分の子にしようと愛をもってあらかじめ定めておられた。
4(ローマ8:29)あらかじめ知っておられる人々を御子の形と同じ姿にあらかじめ定められた。どのようにしようという神の計画があり、私たちは偶然に進化してきたのでもなく、人間として、神の形を持って生まれてきました。
(あらかじめ定められた人々はどうなるのか)
5(ローマ8:30)より、神はあらかじめ定められた人々をさらに召してあります。「召された」ーイエス・キリストのもとに来たとき、教会に来たとき、みことばをきいて心からひかれて神のもとに来たときに、十字架によって召されたのです。「義と認める」とはイエス・キリストを救い主と信じたとき、義(罪のない者、罪を犯したことのない者)と認めてくださることです。
*より 神の召しはすべての人にかかっており、分け隔てされません。しかし人格を持ち、自由意志を持った者として造られた私たちは、その召しに応答も拒否もできます。(神が自発的に愛を持って神のもとに帰ってくることを願っておられるので)ある人は召しに応答して教会に来られ、ある人は神でなく他の偶像のもとに行ったり、罪の人生を歩んだりする人もおられます。
そして召された人々は主のもとに来て罪を悔い改め、イエスを救い主として信じて、罪なき者と認められました。その人々には栄光(→聖霊のバプテスマ)を与えられます。主によってきよめられた人はすべて聖霊のバプテスマを受けることができます。聖霊に満たされることができます。聖霊が私たちの中に住みたいと願っておられます。ぜひ聖霊のバプテスマ(ずっぽり浸るの意)を求めていただきたいと思います。
5/7(水) 3.人間の存在の目的
1ヘブル2:10 神御自身が万物の存在の目的であり、原因である方です。万物とは、宇宙も地球も、私たち人間もすべてのものが含まれます。
私たちは神がおられてはじめて存在の目的が成り立ちます。もし神の存在がなければ人間の存在はあり得ません。
2コロサイ1:15〜17 万物は御子にあって造られ、御子のために造られた。
・天にあるもの
・本来、自分のために願うのは神が望まれるところではありません。神が目的です。私たちは御子のために造られました。御子は見えるものだけでなく、見えない4次元の世界もすべて造られたのです。見えるものは一部で、見えないものからすべて表れてきています。
・御子は
・世の裁きの時まで宇宙の秩序、すべての調和は、御子にあって成り立っていると聖書に書かれています。
(御子はどのような方か)
(コロサイ1:5)御子は見えない神の形そのものです。
(ヘブル1:3)罪のきよめをされたイエス様は十字架にかかられ、万物を神と和解させるという仲介者の役割をしてくださいました。死んで葬られ、よみがえられ、神の右の座(最高主権者)のところについておられ、この宇宙をすべて支配する権威を持っておられます。
3私たち人間の存在の目的
A(エペソ1:4)御前で聖く傷なき者となる
B(ローマ8:19)御子の形と同じ姿になる
C(エペソ1:5)御自分の子となるために、罪、汚れ、悪の心、反抗的な者でなく、きよく傷のない者、御子の姿と全く同じ心、姿をもつ者です。私たちは神の子となったとき、キリストと共同の相続人(新しい天と地の相続)となります。
D(エペソ1:3、創世記1:28)すべての祝福、繁栄を受けるもの〜神のためにそれらを用いることができるためです。
E(創世記1:28)この地の支配権を持ち治める者となる
「地を従えよ」@争いが絶えない状況は私たちの心からきており、一人一人が自分の心を支配できていないところに問題があります。完全に心を治めるとは「罪、肉の欲、わがまま、貪欲…」を支配し治めること〜そうすれば争いは起こりません。
A空中の支配権(霊的支配権)〜今、空中はサタンの支配下にあります。罪がはびこっているのは悪霊が世を支配しているからです。もともとは人間に与えられていた権利です。(空中を支配し、暗やみを支配し、悪霊を縛る権威が与えられていた)
F(創世記1:28)この地上を治め守る者として、人は置かれました。
G(黙示録21:3)創世記で人が神と共に生きていたように、もう一度なされるようになると教えています。
H(イザヤ43:7)神の栄光をあらわすために、私たちの体をもって表す。
5/8(木) 4.サタンの妨害と人間の堕落によりもたらされるもの
1人間の存在の目的が狂わされてしまう
神から離れた的外れの生き方をするようになりました。
霊的死=神と交わり神を知ることができる霊の能力が全くつぶされてしまい、生きる目的が分からなくなってしまうこと。
存在の目的であり、原因である方=神から離れ各々自分勝手な道(自己中心的な道)に歩み、知性(この世の知性でなく神を恐れる心)がなくされてしまい、目的を失い、むなしい心で人が歩み生きているのです。
2神の言葉でなく、サタンの言葉に従った結果、神の性質でなく罪の性質(憎しみ、赦せない心、怒り、自分が正しいといってゆずらない、傲慢、自分を主と偽りごまかす心)が私たちの中に入り込みました。
神は目的をもって造られたのに、生まれながらみ怒りを受けるべきものとなってしまいました。それはアダムが罪を犯したとき(ローマ5:12)罪によって死が入り込み、全人類に広がり、罪の呪いが肉体の中に入り、すべて罪の子として生まれてきます。
戦争があるのも、全世界の人々が悪魔の性質を持っているからです。
3神の祝福、繁栄を、肉の欲、貪欲(偶像礼拝)に変える。(体は罪と肉の欲により汚される)(ローマ1:29〜30)
神以外のものにひれ伏すと悪霊を礼拝することになり、罪の呪いがくる足場を与えることになります。偶像を拝まなくても…貪欲〜物質への所有欲に明け暮れるなら偶像礼拝をしているのです。また体も神に仕えるはずが罪の奴隷となって不品行、汚れ、暴力…罪を行う者となり、まちがった方向で使うようになったのです。
4サタンに従うことにより、人間に与えられていたこの地上を治め支配する霊的権威をサタンに奪われてしまい、人は、サタンの奴隷、罪と罪の貪欲の奴隷として、この空中の権威を持つサタンとこの世の流れに従って歩むものとなる。(エペソ2:1〜3)
戦争、病、問題…なぜ罪の状況がひどくなるかというと、地上をサタンが支配しているからです。人がサタンの奴隷となってやめたくてもやめられない状況となっています。
5この地を治める権威がサタンに奪われ、この地の秩序が乱される。自然、環境全て破壊。(ホセア4:1〜3)
人間の欲望によって自然環境を破壊されています。
人間が神の子と変わらない限り解決できません。神は最後に審判を行い、公正な裁きをなさるときがくると聖書で教えています。
5/9(金) 」神の回復の備え
人間がどうすることもできなかったものを、神御自身がイエス・キリストという人間の姿をもってこの地上に来られ、代価を支払ってくださり、悪魔のものになっていた私たちを自分の血潮を流すことによって買い戻してくださったのです。
レビ記の学び(1〜7章)をしっかり思い起こして神の前へ出てください。
5/10(土) 、サタンの手より回復されるべきもの
1霊的回復(エペソ2:5、ヨハネ3:5、ヨハネ1:12〜13)
A人間存在の目的である。神に立ち帰ることにより、死んでいた霊が生かされる(新しく生まれる)
B神を知り交わる生活、神と共に歩む生活が回復される
イエス様を信じた人は義認といって罪を犯したことのない者と認められます。
2心の回復
十字架で流されたイエス様の血潮への信仰によって、その血潮の力によって闇の働き、悪霊の働きが出ていきます。邪悪な心がきよめられ続けています。イエス様のもとに来るたびに心に血が注ぎかけられもっと浄くきよめられていきます。
死んだ行い〜罪と欲望の生活から離れる力を与えます。大事なのは離れたいという深い願いです。キリストを信じても、少し位と罪との妥協をしては働きません。「こんな生活はこりごり。きよめてください。」と主の前にひざまづき求めるなら、死んだ行いから離れる血の力を与えます。永遠に一度捧げられたイエス・キリストの血潮の力は過去・現在、そしてこれから犯すかもしれない罪のためにも効力があります。血潮の力をもっと信じ恐れあがめてまいりましょう。
B罪がきよめられ、聖霊様が来てくださる。モーセの幕屋の至聖所で神と大祭司が年一回出会ったという、その最もきよい愛が来てくださり、人を赦し続ける愛を求めてまいりましょう。
C(追加)(エペソ4:11)五役者を教会に賜物として与えられたとあります。五役者の教え、訓戒、助けによって聖徒たちの心を神に対して準備させ、奉仕のわざをさせ、真理、知識の一致に到達するようになり、キリストと同じ姿に到達させるのです。
3体の回復
A(气Rリント6:19〜20)現在:聖霊の宮、神の御住まいとなり、体をもって神の栄光をあらわす。
キリストが地上で神御自身を現して生きていかれたように私たちもこの体をもって人々を愛していくことにより、神はどんな方かを表していくことができます。
B(ローマ8:23)未来:体のあがなわれることを待ち望んでいる(再臨の時、死人の復活の時、新しい霊の体が与えられる)
体があがなわれるとは、新しい霊の体が与えられること。御国に今の血と肉の体では入れません。(气Rリント15:35〜57)参照。キリストが来られる前に死んで肉体は焼かれても、霊に、世の終わりに新しい体が与えられ、この体をもって永遠に神と共に生きるのです。
4相続人となる資格
未来ー神の子となる立場の回復(成長をとげた神の子となる・キリストと共同の相続人)(ガラテヤ3:29、ローマ8:17、使徒2:32)
イエス様を信じたときは霊的には生まれたばかりの赤ちゃんです。まだ弱さをもった、罪に時々負けてしまう肉の人です。しかし成長をとげると罪の欲望に打ち勝ち、従わせ、神の御心に従順な人となります。私たちはまだ途上にありますので、あきらめずに戦い抜いていくことが大事です。血潮の前に悔い改めること、みことばへの信仰、御霊の助けなど神は助けを送ってくださっていますから、あきらめずに求めていってください。
5
A神がもともと人間に与えられていたこの地の支配権を「キリスト御自身によって」さたんの手から奪い返してくださった。また、その権威、力を持たれるキリストを頭として教会に与えてくださった。(教会はキリストの体である)(エペソ1:20〜23)
すべての主権は頭にあります。この主権であるキリストの権威を体(=教会→共に呼び集められた者の集合体)に与えられました。
キリストの権威〜すべての権威を悪魔の手から奪い返してくださいました。
Bそのため神は私たちを、キリストと共に、合わせられ(死、葬り、よみがえりの真理に)神の右の座の所(主権、力をもつもの)に共に座らせてくださった。(エペソ2:4〜6)
この「合わせられ」が大事です。キリストが私たちの罪のために死なれたとき、私も共に死に、また墓に葬られたとき私たちも罪を犯す体は完全に葬られたことを水のバプテスマによって信じることが、合わせられることです。キリストがよみがえられたように、私たちも水から出てくるとき、キリストと共に生きる決心をもって新しいいのちに生きるのです。
そして、神の右の座である最高主権者の座に一緒に座らせてくださったとは、キリストがサタンから奪い返しになった権威を私たち教会にも戻っているという真理を知ることが大事です。
神が生きて十二分に支配され、権威を十分用いられるためには、教会が一人残らず真理と知識の一致に到達し、罪に打ち勝っていくとき、教会は強いものとされ、闇の力にすばらしい権威を行使するものとなります。*勝利するために「(ポイント)私たちの従順が完全になる時(※古き肉、自我、この世の考え方をみことばに従わせるとき)頭なるキリストの主権が体なる教会と一つとなり現れる。」をくださっています。
Cそして死人がよみがえり、すべての病がいやされ、奇跡が起こり…悪霊をイエスの御名によって縛り、聖書通りの教会の出現となります。こうして教会に神の臨在と力があふれるとき、その町中に広がり、人々が教会に流れ込んでくるのです。広島の十万人が勝ち取られ、神をほめたたえる町となり、市政が変わり、神の栄光が流れ始めるようになると聖書は約束してくださっています。
*より
私たちの従順が不完全なら、頭としっかり結びつくことができないため、キリストが勝ち取られた権威が私たちに流れてきません。
霊の戦い〜肉の罪との戦いです。パウロ先生すら毎日戦いがあるといわれています。終わりによみがえる神の子ですからあきらめず、戦いをしていきましょう。
まとめ
神はあなたを御子と同じ姿にまで成長させたいのです。
一人一人の個人の戦いの人生の中で、肉を従わせることをあきらめずに戦い抜き、また主に求めてください。
イエス様も従順のために涙をもって叫ばれたとあります。
祈りなくして、叫ばずして、どうして神の姿に変えられていくでしょうか。決してあきらめないでください。主はあらかじめ私たちを神の子と定めてくださったからです。
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