
■2003年4月27日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
心の底から新しくされる
またあなたがたが心の霊において新しくされ、
(エペソ4:23)
「罪過のいけにえをほふって主の御前でゆり動かしなさい」「いけにえの血を右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りなさい」とありますが、これは何を意味しているのでしょうか。これらはひとつひとつ、クリスチャン生活で犯した私たちの罪が、どのように聖められるかを象徴しています。らい病は、クリスチャン生活で犯す罪を象徴しており、それを放っておくと、最後は死に至ります。それゆえ私たちは必ず悔い改めをする必要があります。この悔い改めをくり返してゆくことで、滅びをまぬかれ、永遠の御国に入って行くことができるようになります。今週のレビ記は悔い改めが中心であり、悔い改めこそが、心の底から新しくされるということが実現されてゆくステップです。それゆえ一度では不完全であり、私たちは何回でも悔い改めることで、ひとつひとつ罪から離れてゆくことが大切になります。
そのことを表しているのが、「罪過のいけにえ」です。
●4/28(月)(レビ記14:9)
「七日目にもう一度」(マタイ18:21,22)
7という数字から、「悔い改め」「罪の赦し」について考えてみます。
聖書の教える完全数は「1,3,7,10,12」があり、「7」は創世記の天地創造の御業を神が完成されて、7日目に休まれたというところから、1つのサイクルの終わりを示し、又、そこから新しい繰り返しが始まることを意味しています。1週間が7日であるというのも、聖書からきています。「7」とは繰り返しの完全数であり、罪を繰り返すことから、完全な聖めを受けるようにと、レビ記では7日目にもう一度毛をそり落とすように命じられています。
聖めを受けるとは、ゆるされて、神に受け入れられるようになったということです。ペテロがイエスに、人をゆるすのは、ひとりの人に対して7度までかとききました。しかしイエスは、7を70倍するまで、つまり、ひとつのゆるしの過程である7回をもう70サイクルするようにと言われたのです。この目的は、レビ記のらい病人の聖めの儀式の目的と同じです。そこにこめられた神の御心は何でしょうか。それは、どうしてでも、罪から離れて聖くなってほしいという神の私に対する切実な愛の表れなのです。あなたが相手をゆるす時はどんな時でしょう。「もう二度としませんから、ゆるしてください」という相手の態度があって初めてゆるすという気持ちがでてくるものです。
そして、「もう二度と同じ罪をくり返さないでほしい」という気持ちでゆるすはずです。
このゆるされる方とゆるす方の気持ちが互いにあってこそ、ゆるしという行為が成立します。
この罪から完全に手が切れるようになってほしいという神のお気持ちに対して、私たちは「二度と罪を犯しません。」という心でのぞむべきです。しかし私たちは7回悔い改めゆるされても、なかなか罪から離れられないという弱さがあります。この時点でペテロの言うように7回で充分と神が私たちを裁かれたとしたら、いったい何人の人が残るでしょうか。私たちは、7を70倍するほどの神のゆるしの愛をしっかりと受け止めることが大切です。この恵みがあまりに大きいために、ともするとそのゆるしの大きさを私たちは実感できなくなってしまうことがあります。
●4/29(火)(レビ記14:10)
「八日目に持ってくるささげ物」(ヘブル10:20)
8日めとは、新しいサイクルの始まりです。新しいスタートに際して、私たちは悔い改めだけではなく、十字架が必要です。(ヘブル10:20)の肉体という垂れ幕とはいけにえを表しており、このいけにえ(小羊なるキリスト)を通して新しく生きる道を神は用意してくださいました。新しい道とは悔い改めによって、十字架を通して与えられた新しい出発であり、これはキリスト教にのみ与えられた道です。他の宗教は、苦行やお金、あるいは慈悲によって与えられるとしていますが、罪のゆるしをとり扱っているのはキリスト教のみです。ひとつひとつの罪に対し、そのゆるしの方法として、十字架の「あがないの御業」が与えられています。
人生すべての罪に対して十字架は解決を与えています。
一回一回の悔い改めがとても大切です。一度にまとめて悔い改めれば済むというのではありません。イエス様は、ひとつひとつの罪の賠償金を十字架で払ってくださっているのですから。
●4/30(水)(レビ記14:11)
「主の御前である会見の天幕の入り口」(ヨハネ10:7,9)
救いやゆるしの入り口は、イエス・キリストです。
ここでわざわざ「会見の天幕の入り口」と記してあるのは、私たちが幾度罪を犯しても、あきらめたり、怠惰になることなく、いつもイエス様のもとに来て、罪を悔い改める必要があるからです。イエス様のもとに来ずに、単に、犯した罪を悲しんでいても、何の解決にもなりません。罪の力からの解放は、イエス・キリストのもとに来る以外にはありません。これは他の何によっても変わることのない霊的原則です。私たちの罪の賠償金を払ってくださっているのは神です。旧約時代に、羊一頭はどれほど高価ないけにえだったでしょう。しかもそれを罪を犯す度にささげるとしたら、とうてい払い切ることはできません。この価値の大きさに気付かないといけません。自分のためにどれだけ大きな代価が払われてるかに気付くなら、罪を犯すことに慣れてしまうということはあり得ません。もし慣れてしまっているなら、それこそ大きな不敬虔です。恩知らずになってはなりません。
毎週礼拝に来て、賛美をしていても、賛美の曲が同じだったとかすぐ不満を感じたり、周りのミスに目がいって裁いてばかりいるとしたら、その人の心は罪ゆるされて、礼拝に来られているという感謝もない、高慢な不敬虔なものになっているということです。
キリストという門の前に来るとは、どれだけ大きな代価が払われているかを悟り、感謝してへり下ることを意味しています。
●5/1(木)(レビ記14:12)
「罪過のためのいけにえ」(エペソ2:5)
イエス・キリストのキリストとは神が油注がれた方という意味です。
そして、この方が私たちの罪過のいけにえとなられました。罪過は必ず、償われなければならないものです。そしてゆるす痛みを神はもち続けておられます。その痛みが一杯になった時、裁きが下されます。この裁きをとどめるのがなだめの供え物です。それは、神の痛みをいやすいけにえです。神はご自身の心をなだめるためのいけにえとして、イエス・キリストを遣わしてくださいました。いけにえを「ゆり動かす」とありますが、このゆり動かす行為は、頭の上でゆり動かすことで、罪過のいけにえとなってくださったイエス・キリストを敬う心を表しています。このイエス様を大切に思っているかどうかで、神の御心がなだめられるか、逆に痛むかが決まってきます。感謝の心を込めて、賛美しましょう。
●5/2(金)(レビ記14:13)
「いけにえをほふった聖なる所」(ガラテヤ6:14)
いけにえがほふられた聖なる所は、カルバリの十字架と重ね合わせられます。実際にそこに行かなくても、私たちが十字架を思い起こすなら、聖なる所が私たちの内にもたらされます。又、心の中に聖なる領域をもつために、十字架を思い起こすことが大切です。何故なら、世界は私に対して十字架につけられたからです。つまり、十字架によって、この世のあらゆる誘惑は処刑され死んだものとなり、私にとって無意味で、むしろ無価値な恥ずべきものとなりました。又、世の中から見るとクリスチャンであるあなたは、いくら誘惑しても、応じてこないつまらないものとなったのです。
つまり、十字架を思い浮かべると、心の中に、この世との境界線ができるということです。私たちは心の中に、いつも聖域をつくり出すために、心に十字架をもち続けましょう。そのための工夫が日常生活の中でいつも必要です。(もし、お酒を飲んで乱れている時、十字架を思い起こしたら、あなたは尚も乱れ続けることができるでしょうか。むしろお酒が冷めてしまうでしょう。)
●5/3(土)(レビ記14:14)
「罪過のためのいけにえの血を塗る」(气eサロニケ5:10)
右の耳に塗るとは、神の言われることには何でも聞き従うという印であり、右手の親指とは、すべての仕事の主権は神にあり、すべての自分の業は神の愛に報いたいという願い、感謝の心からでているという印です。又、右足の親指に塗るとは、人生の歩みにおいて、常に主と共にあり、神の愛の心をバネにして、いつも前向きに進んでゆくという印です。
目覚めていても眠っていても主とともに歩むことこそ、罪過をあがなってくださったイエス様への私たちの気持ちであるはずです。今日、今から、悔い改めて、主と共に歩む人生を始めてゆきましょう。

■2003年4月20日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
生ける望みを与えるイエスの復活

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
(第1ペテロ1:3)

人の一生は、すべて死で終わります。死は人生の最終的な問題であり、どの時代にも考えられてきましたが、この問題に対する解決はなく、ヒューマニズムの考えによって、死のむこうには何もないという考え方が世界中に広まってしまいました。
しかし、死のむこうに何があるかをはっきりと証しするために、神は、イエス・キリストという人の姿となって、人生を歩まれて、永遠の御国について、お示しになりました。
それは、もし人が神を認めずに死を迎えたら、その先は罪のための裁きを受けなければならない。しかし、神が与えて下さった救いの道を選ぶ人は、死のむこうには、永遠の御国があり、そこに導かれるということです。
本来、私たちは、自分の罪のために滅んでしまうという絶望的な存在ですが、それでは何のために生まれて来たのか、意味がありません。
それで、神は私たちにやり直すチャンスを与えるために、私たちの受けるべき罪の刑罰を十字架で身代わりに受け、黄泉に下り、3日間苦しんで下さり、永遠の御国があることを証明するためによみがえられました。価値なき私たちのためにこれだけ大きな犠牲を払われたということは、神がどれほど私たちを大切な存在として愛して下さっているかという証しです。この神の愛に触れるなら私たちの心は変えられます。
神を信じ、与えられた人生を神の子として歩む時、神は私たちが永遠の御国へゴールするために必要な助けを与えて下さるのです。
先週に引き続いてレビ記14章のらい病人のきよめを通して、日々罪を悔い改めて、きよめられることをあきらめずに進んでいく生活へと変えられるように、今日も学んでいきましょう。
●「21日(月)レビ記14:8」
「きよめられる者」新約聖書より气yテロ1:3
死んだ行いとは、神様に喜ばれることより、自分の欲望を満たすことを優先して、神を畏れずに生きていくことで、聖書ではそのような人を死んでいる人と言います。
このような死んだ行いから、神様に従っていきたいという心に自ら進んで改心することが、悔い改めといえます。
この悔い改めは神様にしていただくものではなく、本人がするものとして「衣服を洗う」「その毛をみなそり落とす」「水を浴びる」という行為を通して表されています。
心の底から改心するには、自分から進んで心を変える以外にはありません。
エリコの町の税金取りであったザアカイは、イエス様を家にお迎えして話を聞くうちに、イエス様のやさしさに触れ感動して自ら進んで改心しました。そしてそれまでに不法にとりたてた税を4倍にして人々に返します、貧しい人々にほどこしをします、と喜んで約束するほどに変えられたのです。ザアカイは地獄の話などでおどされたり、恐怖を与えられて改心したのではありません。おどしや恐怖心から一時的に従ったように見えても、それは表面的なものなので、後で気持ちが変わってしまうことがあります。
神の愛に感動し、自ら進んで全く心を変えてこそ長続きするのです。クリスチャン生活は失敗が多いものです。悔い改めなくして成長はあり得ません。神の愛とぬくもりと力強さに触れ感動している人は、自分の生きる道は、イエス様だけだ、と、神の愛とあわれみにすがって生きることを心から望むので、もう一度やり直させて下さい、と悔い改めて、進んでいくことができます。
「きよめられる」とは何度でもあきらめずに神様の愛に答えたいという心で悔い改めていくことです。
●「22日(火)レビ記14:8」
「衣服を洗う」新約聖書よりガラテヤ1:10
衣服は、私たちの心や価値観、生活スタイルを表しています。私たちクリスチャンは、人の目を気にし、人に良く見られたいという心からではなく、神様が私の生活をどう見ておられるかを気にして自分の生活スタイルを変えていくことが大切です。
世の中の一員としてわからないように生活していたのでは、あなたを見てキリストを信じたいという人は現れないでしょう。それは、周りに合わせた生活スタイルをしているからです。
神様に喜んでいただきたいということを意識した生活スタイルであれば、あなたを見て魅力を感じて、救われる人が出て来るのです。神様に喜ばれるような、あなたらしい生活スタイルを築いていきましょう。
●「23日(水)レビ記14:8」
「その毛をみなそり落とす」新約聖書より气Rリント4:7
「毛をみなそり落とす」とは、全身の毛を一本残らず、うぶ毛までそり落とすことです。髪の毛をそるだけでも、大きな決心がいりますが、とくに中東などでは、ひげは男性のシンボルとして、力強さや繁栄を表していましたので、これをそり落とすことは、とても恥ずかしいことでした。
このことは私たちの素肌をそのまま出すということで、造られたままの姿、被造物のひとつとしてのへりくだった心を表します。
私たちは、人からすぐれた者と認められたくて、いろんな事をしますが、そのことで自分を誇ることは恥ずかしいことです。又、神はいないとか、神は何もしてくれないなどと文句や愚痴をいうことはみっともないことです。
「あなたは何かもらってないものがあるのですか」气Rリント4:7という言葉をぜひ悟りましょう。
私たちが自由意志を持って生きていくために必要なものはすべて、神が用意して下さったものです。このからだと命・空気・水・太陽の恵みなど、何一つ自分で造り出したものではありません。私たちはそれを使って何かをしているだけなのですから、神様に感謝を忘れてはいけないと思います。
このような謙虚さが、悔い改めの心として生み出されることが大切です。
●「24日(木)レビ記14:8」
「水を浴びる」新約聖書よりエペソ5:26
キリストがきよめをされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、とあります。これは「みことば」と「水」と分ける場合と、「みことばによる水の洗い」…みことばと水が同じものとして、みことばで水のように洗うという意味のとり方があります。
私たちは、イエス様の愛に感動して、心を入れ換えますが、以前の古い考えや、価値観を持っていると、イエス様に対する純真な愛の気持ちが汚される場合があります。
悔い改めで大切なことは、心を変えるだけではなく、古い価値観を新しい価値観に入れ替えていくことです。
神様のみことばの教えを思いの中に受け止めながら、古いものを洗い流して新しい心を持つことが必要です。
●「25日(金)レビ記14:8」
「宿営に入ることができる」新約聖書よりコリント7:10
宿営に入ることは、神様の恵みと守りの中に入ることを意味します。
イスラエルの民が40年間、きびしい自然環境の荒野で生活をすることができたのは、昼も夜も神が宿営を守られたからです。
私たちも悔い改めをすれば、神の恵みと守りの中に入ることができます。
この悔い改めの心として、神様が願っておられるのは、コリント7:10にあるように神様のお心に気づき、神様の心を痛めてしまったことに対して、心から悪かったと悲しむことです。
放蕩息子の話を思い出してみましょう。弟息子は、父親の反対や忠告を無視して、財産を分けてもらい家を出ていきました。財産を全部使いはたし、豚のえさにまで手を出すほど落ちぶれて、みじめな状態になった時、はじめてお父さんの言っていたことを思い出しました。自分のしたことで父を悲しませ、心配かけて苦しませてきたことを心から悔やみ、恥をしのんで、父の待つ家へ帰っていったのです。
このように私たちも、自分のした失敗だけを悲しむのではなくて、神様がどんなに悲しんでおられるかに気を配れるようになりたいものです。「神が、私の罪を赦すために大きな愛の犠牲を払って下さったことを軽んじて罪を犯してしまった。それなのに神は待っていて下さる。ああ私は何ということをしてしまったのだ」と神様の心に対して思いやりを持つことが神の心に添った悲しみといえます。
●「26日(土)レビ記14:8」
「自分の天幕の外に七日間留まる」新約聖書よりヤコブ2:14
悔い改めても、はっきりした悔い改めの実がないなら、本当の悔い改めとはいえません。だから宿営の中には入れても、天幕での家族の交わりには入れませんでした。それで、悔い改めの実を見るという意味で「7」という完全数が使われています。実を見ることができれば家族との交わり、すなわち教会での兄弟愛の交わりができるようになるのです。
神様が、らい病という罪から完全にきよめられることを願っておられるのだから、求め続け、あきらめずに悔い改めの実を結ぶようにチャレンジし続けようではありませんか。

■2003年4月13日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
キリストの受難

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、
長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、
殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを
弟子たちに示し始められた。
(マタイ16:21)

イエス様が救い主として働かれた公生涯が終わりに近づいた頃、あがないの御業について話をされましたが、弟子たちにとってイエス様は奇跡を行われる力強い方だったので、苦しみを受けて殺されるということを受け入れることが出来ませんでした。
しかし、旧約で預言されたキリストの受難こそが、私たち罪人が本心に立ち返るために必要な御教えなのです。
十字架を忘れたクリスチャン生活は、せっかく罪から解放され自由にされた者が再び罪の束縛の中に引き込まれて重い信仰生活を送ることになってしまいます。そんな状態にならないためにレビ記にあるらい病人の聖めを通して、受難週にちなんでもう一度深くイエス様の十字架にあらわされたあがないの御業を学んでいきたいと思います。
レビ記14:6の「生きている小鳥」とは私たちの罪の身替わりとなり、十字架にかかって死なれたキリストと、死からよみがえられたキリストをあらわしています。また、「杉の木と緋色のより糸とヒソプ」はイエス様の人生全て(力強さと正義を持ち、ねたまれしっとされ迫害を受けながらも罪に染まらず、義をつらぬき歩まれた完成された人生)をあらわしています。イエス様は小鳥のように自由で独立した人格を持っておられたのに、聖霊の導きにより十字架にかかってくださいました。
●4月14日(月)「ほふった小鳥の血」
(レビ記14:6、エペソ1:7)
神は罪の赦しという豊かな恵みを私たちに与えてくださいましたが、そための犠牲(ひとり子イエスの十字架の死)が、どんなに大きな愛から出たものかを知り、心にふれられるとその神の愛に報いたい(みことばに従いたい)という気持ちが自発的にわいてきます。神は命令的に従わせるのでなく気持ちを受け止め、自発的に応えてほしいという願いを十字架に込めておられるのです。
●15日(火)「生きている小鳥と杉の木と緋色
のより糸とヒソプ」
(レビ記14:6、ローマ5:19)
義人として行いをも伴った罪を犯さないイエス様の完全な人生を象徴し、完全なイエス様に従えば、今未熟な私たちでも必ず完成した神の子になれることが保証されます。アダムに従う者は自分の欲のままに生きるので、罪のために裁かれなければならないのですが、イエス様をお手本として従っていけば必ず完成されて救われるのです。そして未熟な者が完全になるまでの途上で犯してしまう罪までも十字架でになってくださいます。
●16日(水)「それらを浸す」
(レビ記14:6、ローマ6:3)
バプテスマという言葉は「バプト」という浸すという意味のギリシャ語からきています。内も外も浸透し、包まれて完全に染まることを意味します。
私たちが洗礼を受ける時、それはキリストの死と葬りと復活にあずかったものとみなされ、イエス様と一つになることができます。イエス様の人生はあがないの御業そのもので私たちが罪赦されて救われるためのものです。洗礼を受けることのよって、正式に神の前に義人として歩むことができるのです。
●17日(木)「らい病からきよめられる者」
(レビ記14:7、气ハネ1:9)
イエス様の愛に触れ感動することにより、罪から離れる強い力が起こってきます。イエス様は私たちの内にある罪(らい病)を無力なものにする力を持っておられるので、私たちが罪人であることを認め言い表すならば罪が赦されます。そして親の愛を感じて親孝行ができるのと同じで、神の愛に感動するならば神に喜ばれる者として生きることができるのです。
●18日(金)「七たびふりかける」
(レビ記14:7、ヘブル9:22)
「罪は血を流さなければならない」という律法に型どってほふった小鳥の血を七たび振りかけることによって、全身が真っ赤に染まり血を流したように見られます。
それは肉体に振りかけるのではなく魂に振りかけるのです。血は神の愛の証しなので、自分が罪深い者であることを知り悲しんでいた時、十字架にあらわされた神の愛に感動するなら、その時こそ魂に血が振りかけられたことになります。私たちは毎日イエス様の血を心に浴びて生きることが必要です。
●19日(土)「小鳥を放つ」
(レビ記14:7、ガラテヤ5:1)
私たちの心は血の痕跡を残したまま放たれるので、神の愛にとどまって生きることができ、罪に束縛されない自由な人生を歩むことができます。神の愛に感動しなければクリスチャン生活を持続することはできませんし、みことばを実行することもできません。毎日デボーションをすることで心に血を浴び、水の中から引き上げられ自由に生きる者として神に喜ばれる毎日を生きることができます。
特にこの一週間は、是非とも何らかの形で、イエス様の十字架を通して神様の愛に感動していただきたいと思います。

■2003年4月6日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
私たちが救われる名
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
(使徒4:12)

ペテロとヨハネが大胆にイスラエルの指導者に、キリストが唯一の救い主であることを証ししたことばです。罪人のために罪の赦しの贖いをなされた神は聖書の神以外にはない、キリスト教のイエスだけです。自信をもって私たちの罪の赦しのための救いのみわざをもたらされたお方はこのイエス・キリスト以外にはないと大胆に言えることが出来、説明もできます。レビ記を詳しく学ぶことによって、いかにイエス・キリストの十字架がことこまかくあらゆる罪に対して救いをもたらすものであるかを悟ることができます。
今、らい病について学んでいます。らい病という言葉は差別用語ですが、聖書の言葉上らい病と語らせていただきます。らい病は罪の象徴とされ、いろんな形がありますが、皮膚に出来る病気なので接触ということが大切なポイントです。接触とは交わりを意味します。旧約では霊的な交わりを自然な形(らい病)と現しています。交わりに気を付けないと罪(らい病)に汚染してしまい、自分の罪もありますが相手の罪も移ってしまうのです。
●7日(月)「かいせん」
レビ記13:29〜37 ヤコブ1:14〜15
皮膚に起こるかゆみ=欲望をかきたてる=貪欲
欲望というかゆみは、罪という霊的らい病に変わりやすいのです。かけばかくほどかゆくなる、かゆみと罪は良く似ています。
かいせんとは、心の面でいうと貪欲という病気なのです。貪欲は罪を生み出すとヤコブは教えています。かいせんに出来るらい病とは、欲に欲がのめりこんで節度を越えた段階から罪という段階に入るのです。欲望を一つ満たすと次の欲望が出てきて自制出来なくなってしまう状態これが霊的かいせんです。
●8日(火)「湿疹にできるらい病」
レビ記13:38〜46 第1コリント15:58
湿疹、小さなでき物の先端に水ぶくれや膿が出来たりするもので、そこには、毒素がもうすでに入っているのです。
免疫が弱ってくることによって起こりやすい病気。
あらゆる罪の菌が満ちているこの世で生きるためには、免疫力を 高めておく必要があります。
罪の誘惑に対してはっきりノーと言えない、なぜ免疫力の弱い気持ちになってしまうのか、その理由の一つとして「あなたがたは、自分の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」と。クリスチャン生活は「むくわれるということを忘れてはいけません」と語っています。人間やる気が無くなって自由奔放に好き勝手に生きたいと自己中心に考えてしまう理由は「正しいことを選んでやり通うしったて何になるんだ〜。」という気持ちになるからです。それだったら、自分の好きなように生きたら満足出来ると考えてしまうことが多々あります。(世の中の考え)
クリスチャンとしての歩みの中で何の為にやっている〜、と報われない気持ちが強いと、不平として出てきたりします。どのように欲望に対して節制するのか聖書に「主にあってなした苦労は決して無駄にはならない、神が報いてくださる」と言っています。これが私たちの神に対する信頼です。湿疹とは、気力を弱らせるところから来る罪に対する誘惑の抵抗力がなくなるということを意味しています。報われるということを信じることによって罪に対する免疫力をつけることが出来るのです。
●9日(水)「衣類などに出来るらい病」
レビ記13:47〜59 第1ペテロ3:3〜4
衣類などに出来るかび(らい病)。衣類に出来るらい病はどのような意味をもたらすでしょうか。
外側を美しくすることに気を取られて、内側を美しくすることを おろそかにするなら、罪という霊的らい病に蝕まれてしまいます。内側を美しくすることに心を向けないで、外側を飾ることに気を取られていると内側の服装がらい病に蝕まれると言っています。衣服につくらい病とは私たちの内なる人を着飾ることに心を留めるようにという意味で教えられています。(みことば)
「ブタに真珠」という言葉がありますが、心の品性の部分が罪という泥に汚されているのに、外側をどんなに高価な服装を着ても似合わないということです。「外側ばかり気をとられていると本当に大切な内側を罪で駄目にしてしまいますよ」ということです。
●10日(木)「らい病のきよめ」
レビ記14:1〜2 ルカ5:12〜13
きよめの儀式の中で、らい病で無くなったことを祭司が認めたらこの人はきよいと宣言するだけでなく、きよめの儀式をしなければきよいと神の前に受入れられなかったのです。このことを理解するためにルカ5:12〜13を見てみましょう。旧約聖書のらい病のきよめかたとイエス様のきよめの違いがあります。旧約聖書のらい病はひどくなるかどうかはその人にまかされていました。罪を止めるかどうかはその人にまかされていました。律法を守るか守らないかで罪人であるかどうか判断されていました。
イエス様はさわって「きよくなれ」と宣言して、らい病が消えたというのです。(罪の力がその人から消え去った)罪(らい病)が私たちから無力になって消えてゆくためには、イエス様にふれられてきよくなってゆくのであって、私たちの努力や行いによってらい病(罪)は消えるものではないのです。どうしてイエス様は「私の心だ」と言われたのでしょうか。親しい関係、心を通じ合いたいと願う気持ち、友情、心のつながりをイエス様は持ちたいと思われたのです。イエス様のお心にふれなければ罪から離れることは出来ないのです。人は相手の気持ちが伝わった時に心が揺り動かされます。神の愛が個人的に触れられる時、罪から離れることができるのです。
●11日(金)「きよめのために必要なもの」
レビ記14:3〜4 第2コリント1:30
ニ羽の生きたきよい小鳥=すずめか鳩J私たちの身代わりであるキリスト
杉の木=レバノンの杉は世界一の木J人として完全なイエス
緋色のより糸=えんじ虫から作る緋色(高級品)の糸Jイエスの愛の苦しみ
ヒソプ=どこにでもある雑草J忍耐強いキリスト
キリストの犠牲こそ私たちを神に属する価値をもたらすものです。 二羽の小鳥の意味はイエス・キリストを現しています。
一羽の小鳥は十字架にかかって私たちの罪のために死なれたキリスト。もう一羽は死からよみがえられたキリストを表現しています。
レバノンの杉は世界で一番高級な杉です。大木でまっすぐ伸びます。これはイエス・キリストの義、誇り、力、高貴な人として完全・を表現します。
緋色のより糸は、えんじ虫(樫の木に寄生する昆虫)から鮮やかな赤色の色を取って染めたもの。一般の人では手に入れることの出来ない高級な色。(王が身に付けるもの)
緋色=赤=罪のないキリストの血=十字架によって流された血、その血は神の愛が動機となって流された血。
イエス様の人生はこの罪の世の中にあってつぶされるような人生でした。最後はゲッセマネの園で血の汗をしたたらせながら祈られた。ゲッセマネそこはオリーブの油を作る場所でもありました。オリーブはつぶさなければ油は出来ません。イエス様は楽な人生ではありませんでした。
ヒソプ(植物)中東のどこにでもある雑草です。ヒソプは贖いの御業の時用いられました。(出エジプトの時かもいに塗った)
雑草のように生命力が強く踏みにじられてもなお、そこに根を伸ばしてゆく(忍耐強いキリストの姿)
このようにイエス・キリストを象徴した全ての用意すべきものを整えてきよめの儀式はなされました。ですから、私たちが神に受け入れられるために必要なものは、キリストの人生全てということなのです。
●12日(土)「湧水の上で小鳥をほふる」
レビ記14:5 ヘブル9:14
神の御霊に導かれ、従われた生き方は、人々にとって掛け替えのない永遠のいのちをもたらすものです。
御霊によって(御霊に導かれて)イエス様は十字架におかかりになりました。
湧水とは、いのちの水なる聖霊様を象徴される用語です。湧水のほとりで小鳥がほふられるとは、イエス様は聖霊によって十字架におかかりになり血を流されたということを意味しています。導かれるとは、教えられついてゆくことです。自分の考えがあったとしても導いて下さる方の意見に従ってゆくことが、導かれるということです。イエス様は十字架にかかられる時、血の汗を流すほどの戦いがありました。しかし、父なる神の計画であり、願いであることを悟り「御心のままになりますように」と告白されました。イエス様は聖霊様に導かれたので十字架にかかる決心をされたのです。
私たちの人生も聖霊に導かれてゆくならば、多くの人々に影響力を与える人生となってゆくのです。キリストと共に御霊に導かれる人生を歩んでまいりましょう。

■2003年3月30日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
気をつけていなさい

気をつけていなさい。
もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。
そして悔い改めれば、赦しなさい。
(ルカ17:3)

ここでは、罪に対して、それも自分自身だけでなく、兄弟姉妹の罪に対しても、戒め気をつけるようにすすめられています。
レビ記を学ぶ中で、自分のことだけを守ればよいのではないことが、罪の性質を通してわかってきます。「戒める」とは、感情的に叱ることではなく、どこで、どのように間違って、どのようにすれば元に戻るのかを教え悟すことです。私たちは自分の考えを通すために、つい感情的な力で相手を従わせようとしてしまいます。
危険が迫っており、戒める時間がない時は、感情的に叱らなければならない時もあるでしょう。しかし、いつも正当化して、うっぷんをはらすような叱り方はよくないです。そのまま放っておくと傷ついてしまいます。必ず、その後、戒める必要があります。
神様の怒りは裁きですから、もし、神様が私たちを感情的に叱られるなら、私たちの命はいくつあっても足りません。神様は、私たちをいつも悟し、戒めてくださっていることを感謝することが必要です。
●<31日・月>「らい病」
(レビ記13:1〜3)
レビ記13章からは、らい病について書かれています。現在、らい病という言葉は差別用語として扱われており「ハンセン病(らい病菌を発見したノルウェーの医学博士ハンセンの名前)」が通称です。今日はこのらい病という記述のままお話させていただきますのでご了承ください。このらい病は罪の働きかけとよく似ており、罪の象徴としてとらえることが出来ます。「接触を通して皮膚感染する」という特徴があり、潜伏期感が長く増殖も非常にゆるやかで進行も時間がかかります。平均4、5年。早くて1、2年。長い人は20年位の潜伏期間なので、子供のころ感染したものが大人になって出てくるように、神経をむしばんでいく菌なので、感覚がなくなり、化石化していき、突然組織ごと崩れ落ちることもあります。
私たちが罪を犯している人と交わると、その罪にあずかるという状況が、すぐでなく後になって出てきます。罪がじわじわと信仰生活をむしばみ気がつかないうちに、罪の力が新しく造られた心を支配していき、何かのきっかけで、したこともないような罪を犯すこともあります。
(テモテ3:1〜5)より
終わりの時代には、これらの霊的らい病にかかっている人々と交わりを避けるようにと忠告されています。接触する交わり、深いつながりのある人に隠れた罪の習慣がないか、吟味しておかないといつのまにか汚され、菌が移り、何かの拍子に出てくることがあります。患部にふれねば感染しないので、ある程度距離を置くことが大切です。油断して世の中の人を信頼すると、その人の悪いものに影響されることもあります。例えば、中学生になって級友が親を罵倒する言葉を使っていて、それに合わせるために級友との中で使っていた言葉を親とのなにがしかのいざこざで、急に発してしまうとき、明らかに感染しています。まわりにこの聖書の箇所のような人がいるなら、ある程度の距離をもって交わり、感染に気をつけていただきたいと思います。
●<1日・火>「らい病の見極め」
(レビ記13:4〜8)
初めは純真に神に喜ばれることを求めていたのに、それを自分の願望を満たす言い訳としてしまい、罪に鈍感になってしまわないように気をつけましょう。
(エペソ5:9〜11)より
らい病の初期は見極めにくいものです。見極めの期間が1週間か2週間定められており、放っておくとむしばまれてしまうので、早く発見し、処理することが大切です。罪も同じでクリスチャンは、はっきり分かる罪は犯しませんが、罪かどうか微妙なところへの受けとめ方が問題です。例えば、スポーツ自体は罪ではありませんが、「スポーツがなくてはならない重要なもの」と受けとめたときは、罪になります。私たちにとってなくてはならないものは一つだけ--優先すべきものは、神との関係です。優先順位を迷うと、的外れなクリスチャン生活を決断してしまうことがあります。これは非常に見分けにくいものですから、罪をはっきり認める勇気が必要です。
指摘されたなら吟味し、反省することが大切です。らい病と分からなければ何の手立てもしないし、治療が嫌だと手立てしません。
罪と分かっても認めないで隠していると、らい病が潜伏して何年か後に発病するのと同じです。罪を認めたなら、悔い改められ神の言葉に従えます。罪を認めないで悔い改めることは出来ません。
聖餐式でも、悔い改めずして、罪を隠したまま受けると、イエス様の血潮に対して罪を犯すことになり、血潮の守りから出てしまい、罪の赦し、きよめ、罪の力からの守りからはみ出してしまいます。そうするとらい病が放置され、広がっていくので、聖餐式を受ける効力がなくなります。ですから、聖餐式を受ける前に自分の罪の部分をしっかり認めて悔い改めていくなら、らい病はいやされ罪がきよめられます。(气ハネ1:9より)罪を認めることの大切さを覚えてください。
●<2日・水>「生肉状態のらい病」
(レビ記13:9〜17)
生肉状態のらい病〜半分赤身かかった中途半端な状態は、汚れていると判断されます。
(ローマ7:5)より
肉の感覚が生きているとは、罪の欲情を起こさせる部分が残っていることです。罪の情慾は欲望の強さを意味しますが、願いが起こってきた時、みことばの裏付けをもって言い訳をし、神の前に罪を犯さずに願いを果たせるとします、神との関係をしっかり持っていると言いつつ、みことばを占いのように用いるなら自分の欲望の正当化のためにみことばを捜しているようなものです。 罪の欲情が働いており、肉の思いを離せず御霊の思いとしてしまう位、鈍くなっています。ですから注意を受ければ、反抗したり怒りが出たりして悪い態度が表われます。これが肉の欲情に動かされて、らい病であることが認められず、肉の欲情を優先させてしまう赤身がかった生肉状態のらい病人です。これらがないか吟味してください。
●<3日・木>「白く変わったらい病」
(レビ記13:9〜17)(ガラテヤ2:20)
らい病が全身をおおっても生きています。
(ローマ7:23〜24)はまるでらい病が全身をおおって生きている意味がないと思わせるような言葉です。そんな死んだ状態の自分はキリストと共に十字架につけられ、私は、キリストを信じる信仰によって生きているとパウロはキリストの救いを通して魂の救いに目覚めるわけです。25節は体が罪に支配されて神の前に役立たない自分であっても、神は信仰の故に魂を救ってくださる感謝.....だと。しかしイエス様を知らなかったら、まるで全身らい病でおおわれている状況で、五感がないので生きている楽しみを感じることが出来ません。クリスチャンでなかったら、むなしい存在です。ローマ8章ではさらに死からよみがえらせた神の御霊が死ぬべき、らい病の体をも生かされる完璧な救いを神は与えてくださっていると書かれています。要するに白く全身をらい病がおおうとは、肉の感覚が全くなくなって魂によっていきることに徹することです。「肉の生活をやめました」と宣言したのが洗礼です。長く信仰生活を続けると、つい肉の楽しみを優先させがちになり乱れが来て、らい病のこわさを知らずして、小さな罪を犯し続けることになります。肉に死んでる自分を黙想してください。
●<4日・金>「腫物の後にできるらい病」
(レビ記13:18〜23)
腫物は皮膚に急激な衝撃をもたらすもので、ここでは交わりによるトラブルと受けとめます。人間関係のトラブルは感情の行き違いがほとんどで、冷静になればすぐトラブルになりません。
(エペソ4:26)より
怒りの感情が出ても行動に出してはいけません。その日の内に怒りの原因を取り除いておかなければ、必ず怒りによる罪を犯してしまいます。この腫物に出来たらい病とは、人間関係で持った嫌な気持ちをぶつけることのないようにしないとらい病になり、罪を犯すことになることを表しています。怒りの感情は自己義からくるものが多く、自分の正しさを押しつけて相手を滅ぼそうとする罪の誘惑から来ているのではないかと吟味してください。そして怒りは十字架につけ、とらわれないことを決心したことを認め、神と交わることを心がけてください。怒りをおさめるためには、聖霊に満たされて神の臨在に触れることです。人間的方法は、一時的な解決にしかなりません。神と交わると問題が小さくなって、心が大きくなり、怒りがなくなります。このように、人間関係のトラブルによって生じる感情の乱れによってらい病に至らないように気をつけましょう。
●<5日・土>「やけどに出てきたらい病」
(レビ記13:24〜28)
弱っている皮膚にらい病菌がつくと繁殖します。
(气eモテ5:22)
行き過ぎた親切は押し売りになり、干渉し過ぎると相手は不快感を持ってしまい、悪口が広がって大やけどをすることがあります。
その時、信仰が弱って裁きや怒りがやってきて、らい病という罪を犯してしまうのです。親切心の欲求を満たすために、相手の気持ちを考えず押し切ってしまうことがあります。相手に与えた断われない圧迫が否定的に親切を表現することもあります。ですから信仰
の力に応じた親切や、思いやり、仲介をすることです。
以上の点を通して、今週もらい病である罪に気をつけてください。
罪は思わぬところに働きかけてきます。

■2003年3月23日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
場所を備えられる主

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
(ヨハネ14:2〜3)
イエス様が天に帰られた理由のひとつは、私たちのために天に住まいを設けてくださるためです。それも、私たち一人一人に合った部屋をつくってくださるのです。それは、神と共に住む家です。そこに住むのにふさわしい者となるために、私たちはレビ記からいろいろ学ぶことができます。
●3/24(月)「自分自身を忌むべき者としてはならない」
(レビ記11:39〜43)(ローマ6:19)
この3日に車を買い替えました。今までのと同じディーゼルエンジンです。以前の車は性能が良く26万。も走ってくれました。今回もディーゼルエンジンの同じタイプの車を希望しましたが、このタイプは平成11年で製造を中止していました。公害問題で、だんだんニーズが減ってきたからです。それでめったに無い同じタイプの中古車でありましたが、大変安く手に入れることができました。存在価値というのは、どれだけその存在が役立つかによって決まります。必要とする人にとっては、その価値は高く評価されるのですが、必要としない人はどんなに安くてもほしくないものです。
「忌むべき者とならないように」と神が私たちに言われているのは、あなたが神の価値基準から見て、存在価値のない者とならないようにという神からの注意です。しかし、あなたが誰にとって価値ある者となりたいかによって、折角のこのみことばも受けとめ方が変わってきます。神以外のものから、評価されたいと願っているなら、このみことばは無意味なものとなり、神から評価されることに価値を見い出せません。
学校の友達、あるいは職場の上司等に認めてもらうことに気をとれれているなら、このみことばは少しも心に残らないでしょう。世の中で評価されたいのか、神ご自身に評価されたいのか、それを決めるのはあなた自身です。しかし、もし神以外の前にへつらってゆくなら、あなたは神に忌み嫌われる者となってしまいます。
●3月25日(火)「聖なる者となりなさい」
(レビ記11:44〜47)(第2コリント3:17)
私たちは神の神殿なので、「聖なる者となりなさい」と言われます。神殿とは神が住まわれる家という意味です。神は私たちと一緒にいて安心できる間柄でありたいという願いをもってくださっています。こういう神との平安な一時を持つというのは、聖なる時であり、それゆえに休みとは神聖な時です。しかし、もしお互にいがみ合い争っていたら、せっかくの家も居心地悪くなってしまいます。教会の中に争いをもったら、神殿をこわすことになります。心に平安をもつようにしましょう。
神と共にいることの素晴らしさに目覚めるなら、自分で節制し始めます。スポーツ選手として真の自覚のある人は、タバコなどは決して吸わないものです。同様に、私たちも神の神殿として平安を保ちたいと願うなら、自分を節制して聖く保ちたいとつとめるはずです。共にいて安心感のある関係は素晴らしいものです。そう願ってくださる神のお気持ちを大切にしましょう。
●3月26日(水)「出産の苦しみ」
(レビ記12:1〜3)(第1ペテロ4:1)
レビ記12章は、出産について述べていますが、子供のいない方も霊的な意味としてとれえてください。
イエス様が、苦しみを受けられたのは、聖書のことばよりも、自分たちの考えを大切にしたユダヤ人たちの習慣に従わず、決して妥協されなかったからです。イエス様はそのことによって、体に大き
な痛みを受けられました(十字架)。罪と妥協せず、罪との関係を断ち切られたゆえの痛みです。苦しみを受けるとは、罪との関係を断ち切る重要な時となります。(苦しみは良い方に向くなら心からの悔い改めになり、悪い方に向くなら恨みと怨念になります。)
出産の苦しみ・・・女性が犯した最初の罪、エバの罪を、再びおかすことのないよう、教訓として与えられたもの(創3章)。
エバは安易な気持ちで、神のみことばに違反しました。女性は惑わされやすい弱さがあります。その安易な惑わされやすい性質を戒め、同じ罪を犯すことがないよう出産の苦しみによって神は女性に教えておられます。
女性も男性も安易な考えでは、罪を離れることはできません。しかし、苦しみ痛みを受けるとき(迫害とか)はっきりと罪との関係を断ち切る決心ができます。それゆえ迫害されるほどクリスチャンは強くなりふえ広がるのです。
●3月27日(木)「出産のきよめの期間」
(レビ記12:4、5)(第1ペテロ4:2)
聖書には、男の子を生むと、きよめの期間として33日間必要であり、女の子だと66日間必要であるとあります。これは産後の休養です。休養は何故大切なのでしょうか。それは、神の恵みを感謝する安息の時であると同時に、回復の時だからです。この回復の時に女性は、生命の神秘にふれ、神への感謝で心があふれます。
安 息・・・魂、霊の安らぎ
霊の安らぎは、精神も肉体もいやします。このような神との霊的な親しい交わりの時は、私たちの人生にとって大切なものです。人生において様々なものを築き上げ、産み出してゆくために、この神との安息の時は欠かすことができません。この安息を得ないでいたら、私たちの魂は枯れてしまい病んでしまうからです。それゆえ、毎週の礼拝の安息のひと時は、素晴らしい魂のいやしと回復の時となるのです。ただ、この安息を趣味や他のものに求めても、一時の肉体の休息にはなりますが、本当のいやしにはなりません。神の安息の素晴らしさを味わうなら、他の何物にも変えがたいものとなるのです。
●3月28日(金)「出産の全焼のいけにえと罪のためのいけにえ」
(レビ記12:6)(hペテロ1:8)
出産後、きよめの期間が終わったら、いけにえを捧げます。私たちはイエスを直接見ていませんが信じ愛しています。しかし、踊るほどの栄えに満ちた喜びは経験しているでしょうか。
聖書の書かれた時代は、子供が生まれるということは家庭の将来が約束され保障されることでした。アブラハムも、ひとり子イサクが生まれた時「あなたの子孫は砂のようにふえ広がる」という約束をしっかりと信じることができました。この栄えに満ちた将来を保障された喜びは、イエス様の十字架の救いがあって初めて得られる
ものです。何故なら十字架の救いが無かったら、子孫がいくらふえても滅びに向かうだけで空しいばかりだからです。キリストのない子孫の繁栄は滅びだけです。
クリスチャンに例えるなら、教会は女性の型です。私たちが神の子達を産み出してゆくのです。教会に新しい人々が救われてくるというのは、教会の将来の繁栄が見えるということです。新しい人々が救われてこなかったら、教会の人々は老齢となり亡くなる一方で将来はありません。あなたの人生で肉の子供を産むとか産まないとかにこだわるよりも、もっと大切なことは、あなたを通して神の子として新しく産まれ変わる人々が起こされることです。
●3月29日(土)「出血からのきよめ」
(レビ記12:7、8)(マタイ26:28)
出血とは、罪が赦されることの証しでもあります。出産の時の多くの出血は、昔から死にいたることもありました。私たちは毎日罪を犯してしまいます。もし、その度に血を流していたら私たち自身死んでしまいます。しかし、イエス様は身代わりに血を流してくださいました。そして、私たちの出血を止めてくさったのです。出血が止まるというのは、神の恵みです。
長血の女性の話が聖書に出てきますが、彼女はイエス様の衣の裾にふれて癒され、完全に出血が止まりました。この世の中の人々は血を流しながら、イエス・キリストにふれられることを魂の奥で願っています。もし、キリストにふれられなかったら出血多量で滅びてゆくのです。クリスチャンの立場は本当に責任があります。滅びようとしている魂を、イエス様のもとに連れてゆきましょう。

■2003年3月16日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
悪に対しては幼子

兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。
悪事においては幼子でありなさい。
しかし考え方においてはおとなになりなさい。
(第1コリント14:20)

「幼子」ということばを通して、幼子の持っている特徴を使って私たちに真理を語ってくださっています。
聖書の中で、「神の国は幼子のような者達のものである」と、幼子の素直さ、純真さをさして例えている箇所もありますが、悪に対して「幼子」とは、幼子の、無知である、何も知らない、分別を持たない、という特徴をさしています。知らないがゆえに無関心でいられるということもあるわけです。知ったがゆえに興味を持って誘惑されるということがあります。つまり、悪に対しては無知でありなさいということです。
この世は罪の世界です。悪がはびこっています。罪(悪)を知ることは大人になるという価値観があり、罪や悪や欲望に対して何も知らないのは子どもであり愚かなことであるというイメージを与えています。
間違ってはいけません。分別のまだしっかりできず、自制心の弱い者が、まず、良いことも悪いことも一度に学び取ることはとんでもない間違った教育です。まず良いものを教えて、悪いものもあるということを教え、誘惑されないようにしっかり土台を築いてあげることが必要です。
私たちはイエス様によって罪から聖められました。神に対する聖い心を新しく与えられたわけです。これを汚してはいけません。罪は犯してしまうかも知れませんが、キリストに対する気持ちだけは失ってはいけません。それを妨げる悪の知識を無理に知る必要はありません。
●17日「はね足を持ち飛び跳ねるもの」
レビ記11:20〜23 ヘブル10:22
「はね足」飛び跳ねるための足を持っているのは昆虫の中のバッタやいなごやこおろぎ等です。
4つ足で地をはう動物は汚れています。これは地に属し、世の中に歩んでいることを表しています。その中で、はね足を持っているものは聖いとされます。何とかしてこの地上から神様に近づこうとし、永遠の御国に向かおうと進む、前向きな姿勢を持った人々は聖いということを表します。神様は私たちがキリストと同じ姿になることを望んでおられます。
私たちはクリスチャンとしてこの世に汚されず神の前に聖い心と良心を持ってその若々しい輝きを持ち続ける努力をするべきです。意欲的な姿勢がはね足の象徴です。無限である神様に無限に近づいていきましょう。
●18日「足の裏のふくらみで歩くもの」
レビ記11:24〜28 エペソ6:15
汚れた動物の特徴は足の裏のふくらみで歩くものです。これは素肌が直接地につくということです。はだしという意味で、これは汚れているというわけです。動物の中で蹄があって2つに分かれているものは聖いとありましたが、これは地に直接肌が触れず守っているから靴をはいているのと同じとみなされます。
(エペソ6:15)足には平和の福音の備えをはきなさい。
靴をはくことによって、長く歩み続けることができるように足を守り、色々な状況の道に耐えられるような効果が得られます。人生に当てはめると、素足で世の中を歩んでいたら汚されてしまうのは当たり前です。
福音とは十字架を表し、十字架は罪のためのいけにえ、神との和解、イエス・キリストのいけにえです。この福音を足にはくとは、どんな悪い道(人生)であっても歩んでいくことができる、どんな状況でも前向きに歩んでいけるということです。神様が私たちを愛してくださっているという福音が私たちの考え方、人生を前向きにします。
●19日「偽装する動物」
レビ記11:29〜31 ヤコブ1:22
この動物に共通するのは、どれも自分の身をごまかすということです。それらは汚れているとあります。
これを私たちに当てはめると、私たちはクリスチャンであり、神の子であり、人格者であり、人間であるということをごまかして偽りの自分を出し続けている生活は汚れているということです。自分を表現することは問題ありません。ただ自分をごまかし周りにあわせることが問題です。私たちはどこにいってもクリスチャンであり、神にかたち造られた人間であり、神に愛されている者です。あなたの心の中にごまかしはありませんか?
ごまかしを持つと、そこに暗闇を持ちます。本当の自分が出せなくなり、心を圧迫し、ストレスがたまり、辛くなります。そして、そのエネルギーをどこかで発散しなければ持ちきれなくなり、そうなると病気、事件、問題、災難を招くという悪循環になってしまいます。
私たちはこれでもクリスチャン。はね足でもっと前に進もう、という気持ちで、与えられたいのちを生きていくことを忘れないようにしましょう。
●20日「汚れた物に触れたものは汚れる」
レビ記11:32〜35 第1コリント15:33
心に触れあう友達関係のつながりの中で、私たちは触れるものに影響されます。あなたが持っている良いもの、良い習慣、即ちクリスチャンにとって最も価値あるものとは神に対する素直な純真な心です。この神に対する姿勢、良い習慣を失わせてしまうようなそんな友達は、本当の友とはいえません。私たちは純真さを保つためにどのように心を開いていくかということに気をつけなければいけません。
私たちは一人になりたくないという弱さがありますが、純真な心をささえてくださるのはイエス様だけであることを覚えて、何かに汚されていないか自分を吟味し、本当の意味で自分を守っていきましょう。
●21日「泉や水ためはきよい」
レビ記11:36 ヘブル10:22
水=聖めの象徴 儀式としては洗礼です。
洗礼の意味は、イエス・キリストが私の罪のために身代わりに十字架で刑罰を受けてくださって古き人生の終わりを告げてくださって、新しい神の子として生きるために3日目によみがえられたことを象徴します。私たちの身代わりになられたキリストと1つになるという実感を持つために、この洗礼式があります。水の中に立ち、しずめられ、そしてそこからあがるという、死と葬りと復活というイエス様が体験されたことを私たちが洗礼式を通して同じような状況に置かれることで、自分の罪を十字架におきます。
この洗礼を受けた人は新しく生まれ変わったと神様はいわれます。霊であるいのちは新しくされます。このいのちは神様に対する素直な純真な心です。神を求め、愛を求め、真実を求めるその心は新しくそこに生まれるのです。洗礼を受けてから与えられたこの思いは、罪や悪に立ち向かってそれを受けつけない強さがあります。これは洗礼を受けて実感していくものです。
このキリストの十字架を象徴する水を私たちは汚したり、軽んじてはいけません。いつも心に思って自分の身を聖くしておくことが必要です。
●22日「水がかけられた種」
レビ記11:37〜38 第1テサロニケ1:6
「水がかけられた種」は水を吸収するので活動をはじめている状態です。影響を受けやすい状態なので、死骸を置くとそのバクテリヤの悪い影響をも受けて種は腐ってしまいます。だから、水がかけられた種は聖く守らなければなりません。
ここで、水は聖霊のいのちの水、種は神のみことばの種をあらわし、この種と水は切っても切れない関係があります。水だけでも種だけでも実りません。これが1つになって芽が出て実がなります。私たちも同様です。みことばが心にとどまっていなくて聖霊様にだけ触れられ、聖霊の満足感だけ得ても、すぐに枯れてしまいます。逆に聖霊を体験として受け入れず、神のことばだけを重視する教会はかたくて成長しません。
みことばがあなたのうちにあると、そこに聖霊の臨在と喜びがやってきてみことばが色々な形を変えてあなたの心を満たします。悟りを与え、啓示を与え、あなたの心は家に帰っても感謝の気持ちが湧いてきます。
みことばが心の中に成長するということは、あなたの生活にみことばが実行されていく力となっていくということです。
みことばに聖霊の水が入るとできないと思っていたこともやってみようという気持ちに変えられます。みことばと聖霊、この両方があってこそ私たちは神の子としての心が成長していきます。このバランスが大切です。

■2003年3月9日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
聖書は神の霊感による

聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
(第二テモテ3:16)

聖書は神の霊感によって書かれたものですが、それは神の愛に感じて書かれているので、私たちを教え戒め矯正して義の訓練の為に役立つのです。聖書は愛を動機として、私たちを神の子として成長していくように導いて下さっている神様からのガイドブックですから、愛に感動して読みとっていけば、神様が何を言わんとされているか、御言葉にあらわされている神の心を正確につかむことができます。今週もレビ記の出来事を通して、神様の霊感をもって、真の愛を読み取っていきましょう。
●10日(月)「祭壇のそばで食べる」
<レビ記10:12〜13、ガラテヤ5:6>
祭壇は十字架を、穀類のささげ物は神の御言葉を象徴しています。イエス様が十字架の上で、私たちが受けるべき罪の裁きを受けて下さったことにより、確かに神様が私たちを愛して下さっていることがわかります。聖書の中には、文字だけではあらわすことのできない神の気持ちがたくさん含まれているので、しっかりと神の愛を信じて読む事が必要です。もし批判的な思いで読めば、せっかくの御言葉をゆがんで受け入れるという危険もあります。旧約時代、神は「アマレク人を聖絶せよ!」とイスラエルの民に命じられました。「愛なる神がなぜ?」と思われるでしょう。しかしアマレク人は、神の再三にわたる忠告を無視して、自分勝手な道を歩み続けたので、これ以上この民族を生かすことは、滅びる魂が増え続けることになると、最終的な決断をされて、全ての命を絶たれたのです。しかし、悪のはびこるニネベの人に対しては、ヨナをつかわし「このままでは神の裁きがくだる」と忠告された時、彼らが断食をして悔い改めたので、滅ぼすことを思いとどまられました。神の目的は全ての人が救われることですから、常にその為の働きかけをし、神に立ち返るチャンスを与えておられます。その上でのアマレク人に対する決断だったので、ここにも確かに神の愛があらわされていることがわかります。
●11日(火)「和解のいけにえから受け取る分」
<レビ記10:14〜15、コロサイ1:22>
第二次世界大戦で敗戦国になった、日本は滅ぼされても仕方のない国だったのに戦利国である連合軍がキリスト教思想に基づいた「汝の敵を愛せよ」というみことばにより、日本をゆるし、国連の仲間入りをさせて下さいました。国連とは和解を条件として、色々な問題を武力を用いず、話し合いによって解決しようとする立場をとるもので、その中に加盟させていただいているという事は、和解が成立しているという事なのです。そのおかげで国連の守りの中、日本は戦後、急激な経済成長を遂げることができました。同じように、神様は罪人である私たちの罪を赦し、私たちとの間に和解を成立させて下さいました。それは、私たちがわがままをやめ、神の愛に感動して悔い改めをし、成長する事を願ってのことです。ひとり子を十字架につけるほどに私たちを信頼して下さっている神様との和解の関係を破らないよう生きていきましょう。
●12日(水)「罪のためのいけにえを食べる」
<レビ記10:16〜20、ローマ2:4>
アロンとその家族が祭司としての務めに失敗した時、神は祭司をやめるのではなく、続けるようにと励ましておられます。私たちも何かで失敗をしたからといって、クリスチャンでなくなる事はありません。ただ、私たちは注意を受けた時、「プライドを傷付けられた」とか「自分はダメだ」とゆがんだ心で受け取り落胆してはいないでしょうか?それは古き人の心なので捨てなければなりません。注意をするということは、「合格者になってほしい!」と願ってのことなので、神の愛を信じて冷静に聞き、前進するために正しい受けとめ方をしていただきたいと思います。そのために、罪のためのいけにえを食するのです。
●13日(木)「反すうし、ひづめが分かれているもの」
<レビ記11:1〜8、第二コリント2:14>
聖い動物とは、反すうし、ひづめが分かれているものであると語られています。反すうするとは、食物をよく噛み砕き、吸収を良くすることであり、ひづめが分かれているとは、バランスの良い歩みをする事です。クリスチャン生活の聖さを保つために、この二点が大切です。御言葉をただ聞くだけではなく、黙想し、その深みを味わい、その中で悪い事が示されれば悔い改めをし、少しずつ成長していくのです。また、みことばを自分の経験だけに基づいて勝手な解釈をしたり、人の考え方に振りまわされるのではなく、神の霊感を受けて、神のみこころをしっかりと理解して、バランスのとれたクリスチャン人生を歩みましょう。
●14日(金)「ひれとうろこのある魚」
<レビ記11:9〜12、ローマ13:12>
魚のひれは方向やバランスを調節し、うろこは身を守るものです。私たちの信仰生活も、バランスのとれたものであり、信仰を保つための武具を持つことが必要ですが、自分勝手な持ち方はよくありません。神の霊感により、その愛に感じて、神の心で、また神の目で、人を信じたり判断したりできる者となりましょう。
●15日(土)「鳥類のけがれたもの」
<レビ記11:13〜19、エペソ2:3>
肉食雑食をする鳥類は汚れていると語られていますが、これは私たちの肉欲を満たそうとする生き方をあらわしています。神の愛により、肉を養うことの重きをおいてしまうことは、汚れに似た状態であることを、私たちに教えているのです。肉を養うこと以上に大切なもの、それは私たちの心を養うことです。どんな時も、神の愛に感動して、神を第一として歩みたいものです。

■2003年3月2日日曜礼拝メッセージより(主任牧師 辻 秀彦師)
驚くべき光の中に招かれた
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
(第1ペテロ2:9)

クリスチャン生活は、神様の驚くべき光の中に招かれて、その中で歩む人生です。私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって、王である祭司としてのクリスチャン生活を送ることができる者とされました。レビ記の祭司の務めを通して、神のすばらしい光の中での生活があることを、人々に証しすることができるようになるために学んでいきましょう。
●3/3(月)「神に近づく者に聖を現す」
( レビ記10:1〜3) ( ヘブル11:6)
アロンと4人の息子達は祭司として任命され、天幕で務めをしていました。ところがナダブとアビブは、主に命じられたとおりの方法でない自分勝手な方法で香をささげてしまったために、汚れたものとみなされて火で焼かれて死んでしまいました。
なぜナダブとアビブはこのような失敗をしてしまったのでしょうか。(ヘブル11:6)には「信仰がなくては神に喜ばれることはできません・・」とあります。信仰とは神を心から敬い信頼することです。ナダブとアビブは神に対する不敬虔さのために安易な考えを持ち、祭司の務めを完全に行なわなかったので裁かれてしまったのです。私たちは自分勝手な方法では神に近づきたくても近づくことのできない罪人です。神の方法によってのみ救われることができるのです。私たちは、この当時のように命を断たれてしまうことはありませんが、神を敬う心がないと神の臨在の中に入ることができません。神の臨在の中に入ることができないと祈っても聞かれないし、集会もつまらないと感じたりします。このような不敬虔でおろかな態度は自分中心の考えから出て来ます。神の存在を認め畏れと心からの尊敬をもってこそ神が近づいて下さり臨在の中に入ることができるのです。
●4日(火)「家族の死にさいして」
(レビ記10:4〜6) (第1 コリント10:11)
2人の息子が神の裁きを受け死んだことで、アロンは複雑な心境であったと思われます。神様の無慈悲とも思えるほどの厳しい罰に対して言い訳や抗議をしたい気持ちもあったでしょう。しかし、神様は、抗議を一切受入れられませんでした。もしアロンの抗議の意見が通ってしまったら息子達の安易な心も通ってしまうことになるからです。神様は一つのミスもなく命じられたことに従わなければ、聖なる務めはできないことを示しておられます。又、神様は「息子達が主によって焼かれたことを悲しみなさい」と言われました。それは、息子達が神に対して安易な考えを持ってしまうような未熟さのゆえに死んでしまったことを悲しみなさいということです。本当の意味で悲しむことによってのみ、二度と同じ失敗を繰り返さないための教訓と戒めとすることができるのです。
アロンは指導者として、子供達に祭司職を間違いなく伝えていく責任ある立場にありました。この出来事によって、アロンは祭司の務めを厳格に行うことを身につけ伝えていきました。それ以後自分勝手な方法で祭司職を行い失敗をすることは二度とありませんでした。このことを通して私たちも、自分勝手な方法で神に近づくことは出来ないことを学ぶことができます。私たちはキリスト以外の方法で神に近づくことは出来ないのです。
イエス・キリストを救い主と信じ、バプテスマを受けて賜物として聖霊をいただく以外の方法でクリスチャン生活を送ることはできないということを肝に命じなさいと語っておられます。又、私たちは多くの罪を犯す者ですが、赦されるからという安易な心になり同じ失敗を繰り返して神様の心を踏みにじることのないように気をつけたいものです。自分のいたらなさを悲しみ(真の悔い改め)二度と同じ失敗をしないための教訓と戒めにすることが大切です。
●5日(水)「油注ぎを受けた者は天幕から出てはいけない」
(レビ記10:7) (ヘブル 6:4〜6)
クリスチャンは罪人でありながら、天からの油注ぎを受け、驚くべき神の光の中に招き入れられた神の子であり、祭司の務めをする者です。驚くべき光の中とは、想像もできないほどの神の栄光に満ちた超自然的な聖霊の力を体験することのできるすばらしい霊的環境のことです。このようなすばらしい恵みの中に入れられたのは、神様の大きな犠牲があったからです。この恵みの中から出て再び世の罪の世界に戻ってしまうなら、神の支払って下さった代価は無駄になってしまいます。
これから神様が、日本中の教会にリバイバルを注がれると、教会が社会的に霊的な頂点に立つ時がやって来ます。その時には、イエス様が地上でされたより、はるかに大きなみわざが教会によってなされ、神の栄光の力を最高に味わうことができます。(ヘブル6:4〜6
)で言っている堕落とは、そのように神様の賜物を最高に味わい頂点に到達した人が不信仰を持ち続けるなら、二度と神のもとに戻ることはできないと言っているのです。ですから私たちは成長途上にあり、頂点に達していると言えない状態なので、堕落という言葉は当てはまりません。世の誘惑に負けて信仰の成長がないように思えてもあきらめないで下さい。
●6日(木)「ぶどう酒や強い酒を飲まない」
(レビ記10:8〜9) (エペソ5:18)
祭司はなぜ酒を飲むことを禁じられていたのでしょうか。(エペソ5:18)は「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです」と言っています。放蕩とは、快楽と欲望にのめり込んで、後先考えられなくなり自分の楽しみを止めることの出来ない状態です。
祭司がもし酒を飲んで放蕩をしてしまったら、神様の前に汚れた者として打たれてしまいます。私たちクリスチャンも、お酒は肉の欲望を制御できない放蕩の入口となるものとして一切飲まないように心がけることが基本です。肉のストレスや罪を犯したことによる心の咎めを、酒やタバコや賭け事でごまかそうとしても何の意味もありません。かえって汚れたものとなり、神の臨在から出されてしまいます。そうなると賛美しても恵まれない、聖書を読んでも何も示されるものがない、祈っていてもしんどいだけというような状態になります。お酒を飲んだらクリスチャンになる資格がないのではありません。クリスチャンになってもお酒を飲んでいたら、神の臨在の中に入るための条件が整っていないということです。神のすばらしい栄光の中から出されてしまうことのないように、酒ではなく聖霊に酔うことで神に近づいていただきましょう。
●7日(金)「区別するため」
(レビ記10:10〜11) (第2コリント 6:14〜16)
世の中は、区別することは差別であると受け取る人が多くいます。しかし、神は区別と差別は違うと言われています。
ここで区別と差別の違いをしっかり身に付けましょう。差別とは、どちらが優れているか劣っているかを比べ合い差をつけることです。しかし、区別は種類によって分けるもので、比べることはしません。光と闇は絶対に交わることのできないものとして区別されるべきものです。同じように信者と未信者も区別されるべきです。ここで、信者が優れていて未信者は劣っているという考えは差別です。差別はしてはいけません。しかし、区別をしなかったら不公平と無秩序が生まれます。正しい者が罪人と同じように扱われることは不公平であり、正しさが報われなかったら意味がありません。
義人は永遠の御国に入り、罪人は地獄に行くということは当然のことであり公平なことなのです。
●8日(土)「教える者」
(レビ記10:10〜11) (第1コリント9:27)
祭司は世の中の人々に対して、神のみことばを証しし、教える立場の者です。私たちクリスチャンも本物の救いがあることを世の中の人々に教えるために区別されて驚くべき光の中に入れられているのです。しかし、語っている本人が世の中と同じ生活をしていては意味がありません。そこで、パウロは(hコリント9:27)で「自分のからだを打ちたたいてでも自分が悟り宣べ伝えている言葉どおりに従って生きていきます。」と言っているのです。教えるとは、ただ知識を与えるだけでなく、自分の体験を通して神様のすばらしさを伝えていくことです。車の運転でもペーパードライバーで運転したことのない人に教えてもらうことはできないように、体験のないクリスチャンに教えられても実感がありません。実際の生活の中から「このように教えてもらったのでこうしてみたらこのようになりました。」という体験と生活の変化を語ってこそ人々を教え導くことができるのです。私たちは驚くべき光の中の生活があることを世の中の人々に胸を張って紹介することができるようになるために、神様のすばらさをもっと体験できるような生活をしていきましょう。
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