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12月29日 日曜礼拝メッセージより
●罪の赦し
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、
と言ってよいでしょう。
また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
ヘブル9:22sorry now ready...
12月22日 日曜礼拝メッセージより
●信仰による救い
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
エペソ2:8
レビ記4章は罪過のためのいけにえ、罪のためのいけにえについて書かれてあります。罪過のいけにえに対して解く鍵として信仰による救いという点において解き明かしていくことができます。(エペソ2;8)私たちのこの救いは神様からの賜物です。この賜物をいただくのに私たちは信仰(信じる心を開く)が必要です。罪のゆるしのプレゼントを受け入れるためには、神に対して心を開く思いを持ってその言われたことをそのまま信じること、これによって救われるのです。信仰のことばとは、レビ記4章よりの学びになるのです。罪過のいけにえ、これを信じることによって私たちは救われるのです。
【23日(月)レビ記4:1〜2】
「罪過のためのいけにえ」 新約聖書ヤコブ5:15
罪過のいけにえとは、過って罪を犯した場合にささげるべきゆるしのいけにえです。過ってとは、故意的にではないのです。聖書では故意に人を殺したり、姦淫をした場合は石打ちの刑に処せられました。罪過のためのいけにえは、過って罪を犯した場合にささげる罪のゆるしのためのいけにえです。
「神様は罪を許して下さる」「イエス様の十字架があるから」と安易に考え、とらえてはいけません。
信仰による救いとは、救い主の私たちに対する愛を大事にし、もう二度と罪を犯すまいと決心している心がけの中で、なお自分の弱さや状況の中で罪を犯さざるを得なかった場合の罪のゆるしのいけにえなのです。
罪過のいけにえを理解して祈る時、人は癒されその人の罪までもゆるされるのです。【24日(火)レビ記4:3】
「油注がれた祭司の罪過のいけにえ」 新約聖書ローマ8:13
これは雄牛をささげなければなりませんでした。雄牛=働き、労働を意味していましたが、罪過のいけにえの雄牛、山羊等は責任の大きさに比例して大きな犠牲を罪のためのいけにえとしてささげなければならないということを語っていると思われます。
イスラエルの集団のため、上に立つ者のため、一般の人の罪のため、個人のためと種類によってささげるいけにえが違っていました。油注がれた祭司は雄牛を一頭ささげなければなりませんでした。とても高価なものでした。大きな心の痛みをもってしなければ私たちは罪に対して自制心が働かなくなってしまうのです。肉に従って生きる者は死ぬと書かれています。
もし、御霊によって従ってゆくなら生きる。生きるか死ぬか、肉に従って生きるなら死ぬ、けれどもどうして御霊の導きに従って生きることができるのか…。
ここに罪過のいけにえがささげられる理由があります。祭司は、神と民をとりなす働きをする者ですから、聖さにおいて真剣でなければなりません。魂の救いに対する重要な位置を築かなければなりません。私たちは良いことがあった時、感謝のささげものはいたしますが、罪過のささげものはあまりしていません。レビ記からいうと罪をゆるしていただいたから感謝献金、とならなければなりません。一回罪を犯す度に○円と決めていたらそうたやすく罪を犯すことはできなくなります。
罪とのかかわりをそのくらいに考えた方が罪から守られるのではないでしょうか。私たちは「神様、罪をゆるして下さってありがとうございます。罪がゆるされる犠牲など払えません、でもあなたが十字架で身代わりに払って下さいました。その感謝の気持ちを私はあらわします。」と。
このことは罪から離れるという敬虔な姿勢があらわれていると思います。信仰の力量に相応しくささげることが大切です。
聖書の中にひとりのやもめが銅貨2レプタをささげた時、イエス様に喜ばれました。彼女は持っている全部をささげたのです。神のあわれみの中でゆるしていただくことを感謝して、明日は神のもとに召されよう、とやもめはささげました。そこに敬虔な信仰深さを見ることができたのです。金持ちはまだ次の日も楽しめる財産を持っているのです。罪過のいけにえ、罪のゆるしのいけにえはただ一つ、イエス様だけですけど、私たちは罪をゆるしていただいたことに対する神への悔い改めの実として、ゆるしていただいた感謝を現わすことはもっと罪から離れることのできる大きな力となるのではないでしょうか。【25日(水)レビ記4:4】
「雄牛の頭の上に手を置く」 新約聖書使徒2:38
ペテロの周りに人々は「救われるために私たちはどうしたら良いのでしょうか。」といった時、ペテロは「罪をゆるしていただくためにバプテスマを受けなさい」と答えました。罪をゆるしていただくためには罪の告白が必要です。動物の頭に手を置く時、自分の罪を告白します。私たちが水のバプテスマを受けるときイエス様に対して私たちの罪をゆだねました。もし、私たちの内に告白していない罪(隠されている罪)を持っているなら、イエス様に罪を移行しないということになります。 どの罪をイエス様に移したでしょうか。一つ一つの罪に対して神に告白すべきです。【26日(木)レビ記4:5】
「聖所に血を持って入る」 新約聖書ヘブル9:12
罪のための贖いのみわざはイエス・キリストが死んでよみがえって天の聖所に入らなければ完成されませんでした。
イエス様が天の聖所に入られたからこそ、私たちは悔い改めの祈りをすることによってゆるされるという道ができたのです。イエス様が聖所に入られてのつとめは、ご自分の血をもって神の前に私たちのために罪過のいけにえとしてとりなして下さるということです。
とりなすとは悪い人(問題をこうむった人)を良いように伝えることです。これはとてもしんどいことです。苦痛です。すなわちその人の罪がゆるされるために産みの苦しみをするようなものです。
イエス様は神の右の座で私たちのために取りなしの祈りをしていて下さるのです。【27日(金)レビ記4:6】
「血を7度振りかける」 新約聖書ヘブル10:19
キリストの血は神のあわれみを引き起こす力があるのです。罪を裁く神が、罪をゆるす神としてあらわれて下さるためです。
どうして垂れ幕の前で7度血を振りかけるのか、罪ある者が神の前に出たら裁かれます。義なる神が私たちをゆるすためにはあわれみの心をもたなければなりません。そのあわれみの心がわいてくるためには、私たちのために罪なきお方が苦しんで犠牲を払って罪のゆるしの訴えをして下さっているという状況が起こらないと、神様の愛の心がわいてこないからです。
神のみ座の前で「ゆるしの神、あわれみの神よ」と、神様のあわれみの心を引き出すためにイエス様の血を象徴した動物の血が七度聖所で注がれるということです。
私たちが「愛である神様、素晴らしい天のお父様」と、祈りの度に告白するのであるならば、まず十字架を通して自分の心を神様の前に聖めて、あわれみの心をもってあなたを見ていただけるように、イエス様の十字架に感謝を捧げることが必要です。【28日(土)レビ記4:7】
「血を金の香壇の角に塗る」 新約聖書ローマ8:34
神の右の座についてとりなしていておられる。金の香の壇とは、祈りであり、賛美であり、神の前にのぼる祈りを象徴しています。
祈り=権威、力を象徴しています。権威、主権を現わす角が金の香壇の4隅に取り付けられています。その角に血を塗る。神の右の座とは、神の主権の座にイエス様がいてとりなしておられるのです。イエス様がとりなして下さっている場所は権威ある場所なのです。この権威ある場所を象徴した角には血を塗りなさい、すなわち救い主イエス様は血まみれのとりなしてとして父の神のみ座にあって私たちの罪のためにとりなしていて下さるのです。この血は神様のあわれみの心を引き出す血です。権威あるものとして神にとりなすこと、また神のあわれみを引き起こす愛をもって祈っておられる、これは必ず聞かれるということです。
イエス様にとりなしていただいた祈りが絶対に聞かれるということです。
罪過のいけにえを神様が用意して下さったならば、私たちはその罪過のいけにえに対する敬意と尊敬をもちましょう。そして悔い改めの実としてゆるしていただいた感謝を、形あるものによって神の前におささげ致しましょう。
12月15日 日曜礼拝メッセージより
●神との平和〜和解のいけにえ〜
さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすれば幸いが来よう。
ヨブ22:21
イソップ物語の「キツネとツル」というお話は、やったらやり返すというお話です。きつねがツルを食事に招待しますが、ツルはお皿なので食べられず、怒って帰ってしまいます。そこで今度はツルが仕返しをするという話なのですが、ここでもしキツネがツルと仲直りをしたいと願ったらどうなるでしょうか?キツネはツルのために高価な置き時計を売り、自分では使うことのないつぼを買ってきて、もう一度ツル招待し、和解をするというお話になります。
聖書では、幸いになるために、神との関係を平和に保ちなさいと言っています。平和がなくなる一番の原因は、自分の思い通りに相手を動かそうとするからです。私たちは従うべきものなのに、神様を私たちに従わせようとするから平和がなくなってしまうのです。神様との間に平和を持たない限り、人類の本当の幸いはやってきません。神様は私たちとの大きなみぞを埋めるために、自ら救いを与えてくださいました。 レビ記1、2章では全焼のいけにえとして、怒りをなだめるためのいけにえについて学びました。3章では、二つ目のいけにえといて、和解のいけにえについて学んでいきます。
【16日(月)レビ記3:1】「和解のいけにえ」
新約聖書より コロサイ1:22
和解のいけにえ=贖いの血の注ぎによって回復された神との友情、平和、交わりを意味している。神様との関係回復がどれほど私たちにとって重要なことは考えてみましょう。
イエス・キリストはこの地上に現れて、神様の怒りをなだめるだけでなく、神様と私たちとの関係を回復されました。神様はご自分の方から犠牲をして私たちと和解をしてくださいました。なぜここまでして、私たちとの関係の回復を望んでおられるのでしょうか。
イスラエルに、ベドウィンというテント生活をしている放牧民がいます。彼らが自慢して「私たちは、あなたがたと同じ文化的な生活をしている」と言って、冷蔵庫と洗濯機を見せてくれるそうです。しかし彼らは放牧生活なので、電気も水道もありません。これでは意味がありません。神様と私たちの関係は、電気と電気製品のようなものです。電気製品は、電気が通らなければ役に立ちません。電気もそれだけでは意味がありません。両方が存在していても、関係が結び合わされていなければ役に立ちません。神様は私たちを必要としておられるのです。電気の通った製品は、その造られた目的に従った働きが出来ます。私たちも神様と結び合わされて、目的に従った人生を歩みましょう。
【17日(火)レビ記3:2〜5】「牛の和解のいけにえ」
新約聖書より 气Rリント6:20
牛=肉の力、労苦 肉の働きが神に喜ばれるものとなるために、キリストによる和解が与えられた。
神様は、罪の宿っている肉体をも栄光のために用いて下さいます。罪を犯す私たちをも、御子イエスの和解のいけにえのゆえに受け入れてくださるのです。そのいけにえは、私たちが罪から離れるために、神様が愛をもって与えて下さったということへの、感謝の心を忘れてはいけません。罪を行なって神の栄光をあらわすということは出来ません。和解のいけにえであるイエス様を尊んで、罪から離れて神の栄光をあらわしましょう。
【18日(水)レビ記3:2〜5】
「和解のいけにえの脂肪をささげる」
新約聖書より へブル11:6
脂肪=最も富んだ最善のものを象徴している。神に喜ばれる最善のささげものとは、神への信仰。神への信仰による歩みこそ、いけにえのすべての脂肪を神にささげること
脂肪は、最高ではなく、最善を意味しています。キリストは神の子として、罪を一つも犯さない最善の歩みをされました。私たちも私たちなりに、最善を尽くすことができます。2レプタのやもめは彼女の最善をしました。神様はあなたの行ないの結果ではなく、最善の信仰を見て喜ばれるのです。
【19日(木)レビ記3:6〜11】「羊の和解のいけにえ」
新約聖書より 使徒24:16
私たちの良心をきよめるために、和解のいけにえとなられた方に最善をもってつかえましょう。
羊は良い部分、私たちの長所をあらわします。良いところを更にひきのばし、あなたの長所を神様におささげしていきましょう。
【20日(金)レビ記3:12〜16】「やぎの和解のいけにえ」
新約聖書より へブル10:22
罪の世界でゆがめられた邪悪な良心でさえ、受け入れてくださる神の和解を忘れないようにしましょう。
やぎは短所をあらわしています。邪悪な良心、ゆがめられた部分をも、和解のいけにえによって聖められ、受け入れて下さっています。短所を捨てるのではなく、愛によって聖められ、生かし用いて下さることを期待して、前向きに神の前にささげていきましょう。
【21日(土)レビ記3:17】
「脂肪も血もいっさい食べてはならない」
新約聖書より エペソ5:21
血→罪を贖う代価→神だけが罪の贖いのための代価を準備できる方→唯一の救いを尊ぶ
脂肪→最良のもの→救いを与えて下さった神を畏れ敬う証しとしてささげるもの
血は命の象徴、罪を贖う代価です。罪の無い神の御子の血潮を軽んじてはいけません。脂肪は最も良いものを意味します。最も良い高価なものは、尊ぶべきお方にささげるべきです。血潮に対する尊ぶ心と、神様に対する畏敬の念を失うことのないように、歩んでまいりましょう。
12月8日 日曜礼拝メッセージより
●キリスト
女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
ヨハネ4:25
上記の言葉は数回の離婚を繰り返した挙げ句、同棲生活をするという堕落した生活を送っている女性が、口にした言葉です。
この女性はサマリヤ人の血が流れていてユダヤ人には忌み嫌われている血筋の者ですが、人生に失望し堕落した生活の中で、キリスト(=神が権威を授けた油注がれた者)と呼ばれるメシヤが来られることに対する期待する心を持っていました。最終的な人生の救いは何百年も前から語り継がれてきた救い主が来られるという希望にあったのです。
しかし、ユダヤ人たちは大工の息子として生まれたイエスをメシアと受け入れることができず、十字架に追いやってしまうという結末となってしまいました。
私たちはイエス様という方をどのような方として捕らえているでしょうか?ご一緒にレビ記の中から見ていきましょう。
9日 レビ記2:11「パン種と密を入れてはならない」
新約聖書より 使徒4:12
キリストは全く罪を犯したことがない方なので私たちを救うことのできる唯一の完全な救い主です。
その事の象徴としてパン種も密も入れて焼いてはいけないと定められたのです。
地上の人(=罪人)の血の流れていない処女マリアから生まれたキリストだけが罪の代価として、神の怒りの裁きをなだめる事のできる唯一の方、神の任命した唯一の救い主です。
10日 レビ記2:12「焼かない初物のささげ物」
新約聖書より ローマ6:13
私たちは地上にいる間は、罪の宿った肉体から離れる事はできず、汚れていますが、義の器として神にささげると神は価値あるものとして喜んで受け取り使ってくださるのです。キリストの代価としての十字架ゆえに、神をおそれ、神を第一とする敬虔な心さえあれば、その心を見て神は価値あるものと認めてくださいます。
11日 レビ記2:13「契約の塩を必ず入れる」
新約聖書より ヘブル13:8
『塩』とは非腐敗性、不変、恒久性を象徴していて生ものが腐るのを防ぐ働きがあります。
キリストは私たちの罪深い心ゆえに、私たちの内で塩となって、神に対する純真で幼い信仰が腐らないよう守ってくださいます。
また、神の約束は永遠に変わらないという意味をも表しています。
12日 レビ記2:14〜16「初穂のささげ物」
新約聖書より コロサイ1:15〜18
昔、家庭でお風呂を湧かしたとき、その家の家長(家族の中で最も尊ばれる人)が一番最初に入るという習慣がありました。
それは尊敬している心のあらわれです。
「初穂」とは、尊ぶべき方にささげられる大切なものを表しています。神にとって最も素晴らしいささげ物は「御子ご自身のいのち」であったので、キリストは初穂のささげ物となられたのです。
13日 レビ記2:14〜16「種を火にあぶって砕く」
新約聖書より マルコ10:45
イエス様が地上に来られたのは「仕えられるためではなく仕えるためである」と語られています。罪の全くない方が罪人に仕えるには心が砕かれなければなりませんでした。
イエス様は地上の生活の中で多くの試練にあわれ、ねたみと嫉妬で打ちたたかれて罪の身代わりの責任をおわれたのです。
14日 レビ記2:14〜16「初穂の穀物のささげ物」
新約聖書より マルコ4:28
キリストは初穂のささげ物としてこの地に蒔かれました。
芽が出てー12才の時、神殿において律法について論じー、
穂がつきー30才で公の働きをされー
穂の中に実が入るーメシアとして聖霊を受け3年間の働きの実である魂の救いが実現し、熟した人生を送られたー
そして、最後に十字架で刈り取られたのです。
イエス様の人生は、神が決められた成長の段階を全て通られて、完成されたのです。
神様は初穂であるイエス様が完全であるので、その後刈り取られる私たちまで完全なものとみなしてくださいます。私たちは信じて後に続くだけで神が喜んで収穫してくださる尊い人生を送る事ができるのです。「キリスト」は私たちにとって本当に素晴らしい存在で「小麦のささげ物」として表現しているのがレビ記です。是非、心におぼえて、キリストの存在を感謝して、自分の人生を神に喜ばれる義の器としてささげていただきたいと思います。
12月1日 日曜礼拝メッセージより
●いのちを与えるもの
わたしは、天から下って来た生けるパンです。
だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。
ヨハネ6:51
人間をはじめ自然界のすべての動物たちは他のいのちある生き物を食べて生命を維持しています。私たちのからだだけでなく、心と霊を生かしてくださるのが、いのちのパンであるイエス・キリストです。
今日はレビ記の穀物のささげ物について学び、いのちを与えてくださるイエス・キリストについて理解を深めていきましょう。2日 レビ記2:1〜3「穀物のささげ物」
新約聖書よりマタイ4:4
イエス様が40日間断食した後で、空腹を覚えられた時、サタンが誘惑してきました。その時、イエス様は申命記の「…人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる…」ということばを告白して、肉の誘惑に勝利されました。
私たちも人生において、いろんな楽しみがありますが、肉の欲求だけを満足させている場合があります。これから、忘年会のシーズンですが、その内容によっては愚痴不平など、心の中の悪いものを発散させるだけの会もあるでしょう。それでは自分の存在そのものである霊にとって、プラスにはなりません。
イエス様は人間にとって、肉を養うことが中心ではなく、霊を養うことが中心なのだといわれました。
穀物の中で、小麦粉だけが、神へのささげ物としてゆるされていたのは、小麦粉が主食となるパンの材料だからです。主食は毎日欠かさずに食べるものです。イエス様は十字架で私たちの罪をあがない私たちの霊の主食であるパンとなってくださいました。
霊の糧である神のみことばを、毎日食することによって、霊が生かされ、養われていくのです。みことばをクリスチャン生活の中心として日々いただいていきましょう。
3日 レビ記2:1〜3「油を注ぎ乳香を添える」
新約聖書よりエペソ1:20〜21
乳香は乳香樹の幹に傷をつけて出てくる乳のように白い樹液です。乳香の煙には強い殺菌力があり香料としてとても貴重なものでした。これは神への誉れと賛美を表すものとして、主に宗教儀式のときに用いられました。人間で使うことのできるのは、王である支配者だけでした。
イエス・キリストの誕生のときに乳香がささげられたのは、イエス様が世界を治める天地の支配者なる王であるというしるしです。「油を注ぐ」とは神から任命された王という意味があるので「小麦に油を注ぎ、乳香を添える」とは、神から王として任命されたいのちのパンであるキリストを表しています。
王の働きは様々な悪と罪を正しく裁き、民を治めることであり、乳香のもつ強い殺菌力とも共通しています。
私たちの心を王なるキリストに治めていただくと、みことばの殺菌力によって、いろんな誘惑や罪汚れから、心と生活が守られます。
みことばを聞いたら、それを何度も繰り返して心にとどめ、悟ることによってみことばが働いて、私たちの心を治めるようになります。
神のみことばを中心に生きることは素晴らしいことです。辛いことや苦しいことがある時ほど、みことばが心の支えとなり、自分を生かしてくれることを体験することができます。
私たちの心の王座に、いつも、イエス・キリスト(神のことば)に座っていただくことによって愛に支配された、神に喜ばれる生活を送ることができるのです。
4日 レビ記2:1〜3「記念の部分として」
新約聖書よりマルコ14:9
小麦のささげ物は、一部分を取り分けて、記念としてささげるという規定がありました。
私たちは、忘れたくないことや、残しておきたいものは記念として大切にします。そのようにイエス・キリストが私たちのためにしてくださったことを忘れずにいつも覚えておくことが大切です。
マルコ14:3〜9で、ひとりの女性がイエス様に高価なナルドの香油を注ぎかけました。イエス様は、この行いはいつまでもこの人の記念として語られるでしょうといわれました。それは、6日後に十字架にかかり葬られるイエス様に対してふさわしい心の表現であったからです。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって、十字架で罰を受け、死んでくださったことにより、私たちにいのちが与えられました。
このキリストの十字架のあがないを記念として、いつも忘れないようにしましょう。
5日 レビ記2:4〜10「かまどやなべで焼いた」
新約聖書よりヘブル5:8〜10
小麦粉をパンとして焼いて捧げる場合の規定をみていきましょう。かまどやなべは神の裁きや試練を表しています。
イエス・キリストの地上での人生は貧しさと苦しみの連続でした。それは、かまどで焼かれるような火のような試練でした。しかし、様々な試みを受けても神に対する愛と信頼を失わず、全き信仰をあかしされたので、完全なものとされ、神によって大祭司に任命されました。大祭司は神と罪人とのとりなしてとして全き聖さが必要でした。
イエス様は神に従順であったがゆえに苦しまれ、その苦しみの中で、きよめられたのです。
私たちもイエス様を信じる時に喜びや楽しみもありますが、苦しみも伴います。その時、私たちの歪んだ心や、間違った心が粉々に砕かれます。しかし、あきらめずに神に従ってゆく時に、神のみことばによって練られて、聖霊の火で焼かれて神に喜ばれるパンとなって焼き上がるのです。
6日 レビ記2:4〜10「パン種を入れてはいけない」
新約聖書より第1コリント5:7
パンを焼く時は、パン種を入れてはいけないとされていました。パン種は小さいものですが、パン全体を膨らませるほどの影響力をもっています。
同じように、小さな不信仰な思いも、信仰生活全体に悪い影響を与えます。神様に対する全き信頼を失わないように、パン種のないクリスチャン生活を送りましょう。
7日 レビ記2:4〜10「粉々に砕く」
新約聖書よりルカ22:19
私たちが毎週聖餐式でいただくパンは、ひとつのパンから少しずつ裂いて砕かれたパンをいただきます。
これは、イエス様が私たちのために砕いてくださった心を表しています。イエス様は私たちひとりひとりのために心を粉々に砕いて十字架にかかってくださいました。心を砕き、へりくだりの心がないと、人のために犠牲をすることはできません。イエス様は私たちを愛するがゆえに痛み苦しみながら心を粉々に砕き、ご自身をささげてくださったのです。イエス様が苦しんでくださった素晴らしい愛があっての私たちであることを感謝して、この愛の中にとどまり続けましょう。