11月24日 日曜礼拝メッセージより
●主なるあなたの神を愛せよ
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。
マルコ12:30
イエス様が「あなたの神である主を愛せよ」とお語りになったこの当時の神のお言葉とは、私たちでいう旧約聖書の部分であります。この旧約聖書が教えているのは、まず第一に『神を愛する』こと。それと同じくらい大事な戒めとして『あなたの隣人を自分と同じように愛しなさい』この神を愛し人を愛するということが、旧約聖書の中心主題であって、これを目的に神様は書かれたわけです。ということは、この主題を中心に旧約時代の色々なことをひもといていくことが出来ます。同じようにレビ記の難しいと思えるようなささげものについての細かい規定がありますが、それら一つ一つ、神を愛し、隣人を愛するという観点からひもといていくと非常にわかりやすくなります。あなたの神、主を愛しなさいというテーマで、レビ記を学んでいきましょう。
25日(月)(レビ記1:9)「内臓と足を洗う」
新約聖書より(ヨハネ13:3〜15)
これはキリスト教で言う洗足式として教会で行なわれているセレモニーです。『足を洗う』とは、聖める、それから関係を切るという意味を持っています。足とは毎日の歩みを表します。人生の歩みを表しています。内臓というのは、内面的な心の部分を意味しています。毎日の歩みの聖めは、心の面とともになされていかなければ出来ません。足だけ洗っても心を洗わなければ意味がありません。内臓と足とは一緒で、その人自身が洗うべきものです。イエス様は弟子たちの足を洗うことによって言葉ではなく態度で表されました。この当時の足は、乾燥地帯なのですぐほこりだらけになります。その足を洗うのは僕がするべき仕事であって、主人がすべきものではありません。それを主人であるイエス様が、弟子たちの足を洗われたのです。どのようなお気持ちでしょう。それは尊ぶという気持ち、自分よりも未熟な者を尊ぶ。それは愛の表われ、信頼のしるしです。失敗が多く、負担をかけることの多い弟子の足を洗うということは、弟子たちの行ないや才能や能力を尊敬したのではなく、存在そのものを心から尊んでいるということです。すなわちそれは愛するということです。『愛はすべてのとがをおおう』とあります。罪で汚れたものを愛によって洗い流すとは、赦すということです。イエス様は弟子たちのさまざまな失敗を赦し、愛する者として心からその霊を、命を尊んで足を洗い、赦したのです。『師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いにそのようにしなさい』今、私は説教によって言葉で表現しました。でも弟子たちは説明を一つも受けずに学んだのです。そこで大切なことは、イエス様と弟子たちの関係は、それだけ密接だったということ。言葉はいらない、行動を通して知識ではなく心にメッセージを残しました。心で理解したのです。イエス様の愛に触れたことによって、かたくなな心が癒されて、柔らかい心で「お互いそうしよう」という決心が持てた状態になりました。この足を洗い、内臓を洗うというささげ物は、罪を赦す毎日の歩みを表しています。それが神に喜ばれるいけにえになるのです。『主の祈り』にもあります。私たちは罪を犯します。だからこそ赦されたい、それならば、赦してあげなさい、ということです。
26日(火)(レビ記1:9)「なだめのかおりの火によるささげ物」
新約聖書より(ピリピ4:18)
ピリピの人々は、パウロがテサロニケに教会をつくるために働いていた時に、援助をしました。ピリピの人さえも貧しいのに、神の働き人、聖徒であるパウロに生活に必要な物を送りました。その贈り物が、神への香ばしいささげ物であるということです。それは、クリスチャンを助けなさいということ、クリスチャンたちは神のために生き、働いています。お互いに自分の働きをもって、お互いに足らないものを満たし合っていくという、愛の贈り物をするということが、香ばしい神へのささげ物になります。罪を赦すということだけではなく、さらにそれを形として贈り物を実際にしていくという行為も、神を愛することにおいて大切なことです。だから私たちは献金をします。神様はお金は必要ありません。しかし、この地上で福音を伝えていくために、キリストの証しをするために、私たち全ての人々は支え合う必要があります。私たちの中で一人でも、何らかの問題を通してその生活に大きな負担を受けたならば、私たちが神の愛をもってその人を支え助けます。それを通してまわりの人々は、神の家族の中にある私たちの行為を見て尊敬すると思います。神の愛の証しにつながるわけです。あなたの仕事が、神の働きの役割を支える働きとつながっていく、そのようなささげる愛の行動が二番目のポイントです。
27日(水)(レビ記1:10〜13)「羊またはやぎのささげ物」
新約聖書より(ヤコブ4:8)
二心について書いてありますが、これは羊とやぎの部分です。二心とは両方欲しいという思いです。神様を愛しているけれど罪も愛したい。でもこれは相反するもので良くありません。二心はなぜ起こるかというと、私たちの心の二面性、良いものと悪いものとの部分、すなわち羊とやぎの心、この二つがあるがゆえに起こってくるわけです。神様はこの二つをささげなさいと言われます。なぜやぎをささげるのでしょうか。羊のほうがいいじゃないかと思われますが、やぎと羊をささげるとは、心をささげるということです。どちらでも神は受け入れて下さるということなのです。神様への純真な心があれば、良い心でも悪い心でもどちらでも神様のためにささげることは喜んでくださいます。例えば小さな子供が、純真な心で迷惑をかけたとしても、その子を大切に思っているなら受け入れられます。それくらいの犠牲は何でもありません。神様はなおさらです。自己中心の愛だったら喜べません。けれども自分よりも愛してくれる相手を重んじる心の人は、その気持ちを受けとって、じっと忍耐するのです。その負債を自分で受けとめるのです。神様はそれぐらい私たちを愛して下さっています。私たちもそのように、お互いに足らないところがありますが、イエス様を信じるもの同士として赦し合い受け入れ合い、ささげ物をしていきましょう。
28日(木)(レビ記1:14〜15)「山鳩と家鳩のささげ物」
新約聖書より(ルカ23:46)
「父よ、わが霊を御手にゆだねます」これはイエス様の最後の十字架上でのお言葉です。この言葉と鳩のささげ物とどう関係があるのでしょうか。鳥には翼があり、空を自由に飛びかうことができます。イエス様はこの霊について風のようなものだと言われました。すなわちその人が神の国に新しく生まれるというのは、風がどこから吹いてどこへ行くのはわからないようなものであり、その人の霊が造り変えられるというのは、そのように目に見えない部分があるということです。風は、空気が動いているということを感じます。要するに風や息というのは霊なのです。霊とは風や息という言葉からきています。これまで三種類のささげ物が出てきました。牛は働きである体を表わし、羊とやぎは精神を表わし、鳩は私たちの霊を表わします。霊と心と体、全体をもって神を愛すること。『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして主なる神を愛しなさい』これを表現しているのが三種類のささげ物になります。
29日(金)(レビ記1:16)「餌袋を取り除く」
新約聖書より(ローマ8:3〜4)
鳩のささげ物の時に、餌袋を取りなさいとあります。餌袋とは鳩の胃袋です。羊、やぎ、牛は反すう動物です。反すう動物は、食べたものをくり返し噛み砕いて、さらに消化の良いものにしていきます。これは霊的な意味で言うと、私たちの霊の食物である神の御言葉を聞いて何回も思い起こし、黙想し、デボーションをくり返すことです。その中で、神様の御霊によってさらに御言葉の味わい深さをうけて心の糧としていく、これを象徴しているのが反すう動物です。しかし鳥は違います。聞いても右から左という感じですね。もう一つの意味として、腹というのは肉の象徴、肉欲の象徴ともいえます。神様のことを考えずに、「人間、人生の目的は何ぞや」聞かれた時、最終的には「食べるため、胃のために生きている」という答えしか返ってきません。貪欲というのは、食欲に象徴されて、食べ過ぎ、満足を得てもそれ以上にもっと満たされたいという感じでどんどん食べてしまう状態です。この貪欲は偶像礼拝だとパウロは言っています。腹を満たすということは腹に仕えるということで、お腹を満たすことに奴隷になってしまうことです。その腹の中心である胃袋を捨てなさいということも含まれています。霊のささげ物をするのに肉を一緒にささげてはいけません。
30日(土)(レビ記1:7)「つばさを引き裂く」
新約聖書より(ローマ6:16〜19)
いけにえの制度はむごい内容です。このつばさは空を自由にかけめぐるために必要なものです。自由を得た姿がこのつばさです。神様は私たちに、罪からの解放として自由を与えてくださいました。私たちは神様を愛するがゆえに、この自由を取るのです。肉の痛みがあります。それはまるで引き裂かれるような痛みです。そういう時がやってきます。自分の自由にできるものを、愛する者のためにささげる、これがつばさを引き裂くとくことです。愛するものの奴隷となるというのが、神の愛の性質です。ですからお互いに愛し合えばお互いのために奴隷になるのですから、これは一番良い関係です。しかし従わせる愛はどちらかが必ず傷付き、問題を起こします。一方が征服されるからです。みずから進んで束縛の中に入っていくことが愛です。自由のつばさをあなたみずから引き裂いて、神様に自分の人生をささげることを象徴しています。
以上6つのポイントが、この高次元に愛になるわけです。私たちはそれを目指し、それに近づいて高貴な愛に私たちの生活が満たされるように、これらを一つの目標としてぜひ進んでいただきたいと思います。

11月17日 日曜礼拝メッセージより
●霊的な礼拝
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
ローマ12:1
今週からレビ記に入ります。レビ記はユダヤ教の細かい宗教的儀式の規定が多く書かれており、なかなか読み辛い書ですが、共に学んでゆくことで、私たちの信仰との関連がわかり、興味深く読めるようになるはずです。
レビ記のテーマは「霊的な礼拝」です。このテーマを中心に学ぶことによって、私たちの信仰生活の送り方、神との関係の素晴らしさを知ってゆくことができます。
礼拝とは、神にささげることであり、神に贈り物をする時です。
霊的礼拝とは形以上に、礼拝を受ける方と自分との関係を重んじて、心を込めて仕えてゆくことです。つまり、最高の霊的礼拝は自分自身の心をささげ、仕えてゆくことです。
〈18日(月)レビ記1:1〜2〉
「ささげ物」新約聖書よりエペソ5:2
贈り物をする目的は、相手を喜ばせることです。同様に、神にイエス・キリストがご自身をささげられた目的は、神を喜ばせるためです。それ以前の人々と神との関係は問題があり、人々は神の怒りをなだめるために、絶えずいけにえをささげる必要がありました。しかし、イエス様がその問題を解決し神の怒りを永遠になだめてくださったのです。その問題とは、人間が神の前に犯した「罪」のことです。
イエス・キリストの十字架は、神の怒りをなだめるため、私たちを愛してご自身をささげられた「ささげ物」の究極の姿です。ささげものは価値ある物でないと意味がありません。相手にも伝わるような価値のある物をささげた時に相手にささげた人の気持ちが伝わります。
怒りをなだめるほどの価値あるささげ物とは何でしょうか。そういうささげ物をするには、相手が何を喜ぶかを知る必要があります。
神は「愛」に価値観をもっておられます。イエス・キリストは私たち罪人のためにご自身の命を捨てることによって、最も最高の愛をささげられました。それゆえ、神はそれを心から喜んで受け入れられたのです。
これがレビ記のささげ物のポイントです。
「香ばしいかおり」とは、相手の価値観に合わせるということです。私たちは、愛なる神にささげる時、愛のこもったささげ物を考えてゆくことが大切です。
〈19日(火)レビ記1:3〉
「牛の全勝のいけにえ」 新約聖書よりiテモテ2:15
いけにえの種類や目的は各々異なります。しかし、すべてイエス・キリストに関係しており、私たちにも関係します。
牛は畑を耕す労働力であり、また、貴重な食料でもあるので、ささげ物の中でも高級であり、皆がささげることのできるものではありませんでした。牛は労苦を意味してしていますから、私たちの人生の労苦を意味します。つまり、私たちの人生の働きを全焼のいけにえとしてささげなさいという意味です。
私たちは皆各々違った持ち場立場があり、様々な働きをしています。その働きをただ自分の腹のために行うのであれば、本当に空しいものですが、そのすべての働きを、神が御国の実現のために、各々に与えて下さった天職であるととらえて心から喜んで、神に仕える思いで、日々生活してゆくなら、それが、「牛の全焼のいけにえ」になります。
イエス様は、ご自身そのように人生を歩まれました。(ローマ15:3)イエス様の人生はご自分を喜ばせるためでなく、ただ父なる神を喜ばせるための人生でした。そして、父なる神が喜ばれることが、ご自身の喜びだったのです。愛する人のためにささげる人生はなんと素晴らしい人生でしょうか。人が幸せになること程、私たちの心が満たされることはありません。この愛の喜びこそ大切にすべきものです。
〜 牛の全焼のいけにえとして大切なもの3つ 〜
ささげて行く人生の考え方の基準です(第1テサロニケ1:3から)
(1)信仰の働き…疑わず神を信頼し、前向きに積極的に進む。
(2)愛の労苦…自分が貧しくても与えてゆく、報いを求めず与えてゆく。
(3)主イエスキリストの望みの忍耐…この地上は永遠のものではなく、
永遠の神の国こそ望みであるという思い。
〈20日(水)レビ記1:4〉
「いけにえの頭に手を置く」新約聖書より 第1ペテロ2:24
イエス様は私たちの罪を背負って死なれました。罪を持っているなら罰せられます。イエス様は、私たちの代わりに罪を持って下さり、神の罰を受けて下さったのです。この罪をイエス・キリストに手渡す儀式が、「いけにえに手を置くこと」です。私たちは、洗礼によって、イエス様とひとつになり、十字架と復活とひとつになることによって、この「いけにえに手を置く」のと同じことをするのです。
洗礼を受けないと、罪の移行がなされません。(受けたくても受けられずに亡くなった方は、神の愛によって許されるでしょう)
洗礼の大切さがここにあります。
〈21日(木)レビ記1:5〉
イエス様は脇腹にヤリをつき刺され、傷口から血と水が流れ出ました。何故ヤリをつき刺されねばならなかったのでしょう。
それは、罪の許しのためには、血が流されなければならないという規定があったからです。十字架刑で血にまみれて死なれたのは、イエス様お一人でした。青銅の祭壇は十字架を表しています。
〈22日(金)レビ記1:6〉
「皮をはぐ」新約聖書ヘブル12:2
一般的に「皮をはぐ」とはずかしめを意味しています。
インディアンは勝利のしるしとして敗者の頭の皮をはぎました。それは相手をはずかしめるためでした。イエス様は十字架の上ではずかしめを受けられました。何一つ悪いことをされなかったのに、
あらゆる人をいやし、愛され続けられたのに、誰一人イエス様を助
けようとはしませんでした。それどころか、まっ裸で人々の前にさらし者にされ、悪口雑言を受けられたのです。神の子である方がです。
「皮をはぐ」というのは、イエス様のはずかしめを受けられた苦しみをも表しています。
〈23日(土)レビ記1:7、8〉
「部分に切り分ける」 新約聖書hコリント12:27
何故部分に切り分けたのでしょう。この部分には各々独立した働きをしています。足は足として、手は手として。それは、イエス・キリストの教会の一人一人は各々の部分として存在しており、又、私たちと頭なるキリストが共にいけにえとして十字架に焼き尽くされ、罪の赦しを受けたという印です。
各肢体と頭と脂肪と一緒に焼いたというのは、体である私たちと頭なるキリストとの一体化を示しています。
レビ記はあなたをキリストと父なる神との関係を表しています。
今週もレビ記を通して十字架の恵みにふれてゆきましょう。

11月10日 日曜礼拝メッセージより
●神と私たちが一つとなる
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
(ヨハネ17:23)
私たちが一つとなるということは、イエス・キリストと一つになることであり、又、神と一つになることです。チームプレーでスポーツをしたり、バンドで演奏をしたり、数人で何かを創り上げるという時に大切なのは、いかに全員が目的達成の為に一致するかという事です。その中で一人でも和を乱す人がいると、心が痛んで良いものを創り上げる事ができません。それだけ、私たちの心は一致するということに価値があることを知り、求めているということなのです。
それでは、チームを組む時は、どんな人と組みたいでしょうか?自分にとって魅力があり、友と呼べる仲間と一緒にチームを組みたいと望んでいるとすれば、神様と一つになり、一緒に何かするということこそ、最高の仲間作りになるという事に気付くべきです。
神様は、最も素晴らしい信頼できる仲間となって下さる方であり、それを証しして下さったのが、イエス様です。地上において人となられたイエス様が、神と一つになって生活しておられる様子(愛をもって率先して弱い人に手を差し伸べておられる姿…)を見て、神と共に生きる事の素晴らしさに人々は感動したのです。これを、神は会見の幕屋で私たちに啓示して下さっていますので、エジプト記の中から見ていきましょう。
11月11日(月)出エジプト記40:9〜15
「油を注いで聖別した(1)」
聖別の油注ぎは特別な任務につくために、特別に選ばれる事を意味しています。
一つ一つの器具に油が注がれたということは、その一つ一つに特別な意味があり、世の中のものと一緒にしてはいけないという事で、神の子としての象徴が現わされているのです。
私たちは御国が来るため、特別な働きをするのですから、すみずみまで聖別される必要があります。
ヨハネ15:16で、「神が私を選ばれた…」とありますが、それは私たちを一番素晴らしく生かすためであり、私にしか出来ない働き(役割)をさせたいと願われての事なので、最高の選びといえるのです。
11月12日(火)出エジプト記40:9〜15
「油を注いで聖別した(2)」
私たちは、御国が来るために聖別の油を注がれ、特権をも与えられたのですから、自分の欲望のために用いるのではなく、ルカ4:16〜21にあるように、貧しい人々に福音を伝え、盲人の目が開かれ、しいたげられている人々を自由にするために用いるべきです。
11月13日(水)出エジプト記40:16〜33
「主が命じられた通りに実行した(1)」
このところでは「主が命じられたとおりに行なった」という言葉がくり返し使われています。ピリピ2:2では、「生きるのも死ぬの全て主のため…」と、主のためになす全ての事に喜びと生きがいを感じていたパウロが、「主のために一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を一つにしてほしい」と強い願いを現わしています。「主の為に!」という気持ちが一致を生み出す条件であり、全ての民(技術者)の心を一つにして幕屋を完成させ神の臨在が下ることが実現したのです。
11月14日(木)出エジプト記40:16〜33
「主が命じられたとおりに実行した(2)」
与えられた特権は忠実で従順である事を通して有効になります。ヘブル5:8〜10では「イエス様は御子であられるのに多くの苦しみを受けられ、完全な従順を行なったので、救い主としての力を行使し、大祭司としての地位まで与えられ偉大な方となった」とあります。私たちも神に選ばれた者ではありますが、従順でなければせっかくの力を発揮する事はできません。
11月15日(金)出エジプト記40:34〜38
「幕屋に神の臨在が現われた(1)」
主が命じられたとおりに行なわれた結果として、幕屋に神の臨在が満ちたのですが、それは地上でのキリストの生涯が完全であったので、私たち罪人の中に聖霊が宿られることが可能となったということです。ローマ5:19に、「ひとりの人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり(イエス・キリスト)の従順によって多くの人が義人とされる」とあります。「インマヌエルなる神=イエス様の中にまことの神がおられる」とは、罪人の人生をあがなうほどのキリストの人生の完璧さをあらわしています。これが、臨在を通して証明されたのです。
11月16日(土)出エジプト記40:34〜38
「幕屋に神の臨在が現われた(2)」
何が神の臨在を生みだすのでしょうか。神が用意された天幕が完全に整えられた時、すなわちイエス・キリストと私たちの心が完全に一つとなると、臨在は満ちるのです。それはまた完全にキリストにゆだねることです。ゆだねるとは、一人一人が今の生活環境の全てが主の為であると一生懸命になれる事であり、御言葉によって導かれたならば、素直に聞き従う事、それが主に全てをゆだねていることの印です。ヨハネ6:63で「いのちを与えるのは御霊で、肉は何の益ももたらしません」と語られながらも、私たちが肉体にとどまっているのは、肉体にとどまるという不自由さの中で、イエス様の素晴らしさを体験するために訓練される必要があるからです。私たちは、聖霊の油注ぎにより、聖別された一人一人なのですから、忠実さと従順さを保ち続けて、特別な神様の選びが無効になり、神様を悲しませることのないように歩みたいものです。

11月3日 日曜礼拝メッセージより
● 新しい創造
割礼を受けているかいないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
ガラテヤ6:15
自分の人生や、自分自身に満足できず、人生をやり直すことができたらいいのにと思ったことがあるでしょうか。神は、イエス・キリストを通して私たちに新しい人生を与えて下さいました。この新しい人生は、人との比較ではなく、あなたの力を100%発揮することのできる成功しかない人生です。新しく創造された私たちは、神と共に新しい人生を歩むことができるのです。今週は「新しい創造」ということについて、よく理解できるように、大祭司の衣と会見の天幕から学んでいきましょう。
11月4日(月)出エジプト記39:30
「聖別の記章」新約1コリント6:11
大祭司は額に「主の聖なるもの」と刻まれた金の板をつけました。
「主の聖なるもの」=「聖別されたもの」=「神に属するもの」という意味です。神は、私たちをご自分のものとするために、イエス・キリストという代価を払って、買い取って下さったのです。これが神に聖別されたということです。
神はなぜ私たちを聖別して下さったのでしょうか。
例えば、飼い主のない野良犬を考えてみましょう。野良犬には自由はありますが、試練を受けていないので人に迷惑をかけるし、食べ物を得るために一生苦労して生きていきます。野良犬には人生の目的がありません。反対に飼い犬の場合はどうでしょうか?御主人様から目的に添った訓練を受けて、犬としての能力を発揮できますし、食べ物を与えられて、毛づやも良く、りっぱな犬として生活できます。
私たちも、神様から離れてしまうと、人生の目的を失い、自分の存在価値がわからず、むなしい人生となります。私たちは、霊の父親である神様のもとに帰ってこそ、安心した生活を送ることができるのです。神様は、私たちを神の家族として迎えるために、聖別して下さったのです。神様は、私たちが神の子として成長するために必要なすべてのものを備えて「いつでも帰っておいで。」と待っていて下さいます。神様の子どもとして、神から訓練を受け、しつけされてこそあなた自身の能力を十分に発揮できる価値ある人生を送ることができるのです。私たちは、神に聖別された神の子どもなんだということをしっかりと心に留めていただきたいと思います。
5日(火)出39:31
「額の上に青ひもで着けられた」新約ローマ8:6
聖別の記章は、祭司の額に青ひもで着けられました。
額=思い 青ひもの青=天に属するもの(御ことば、聖霊)を意味します。
自分の思いは意識することができます。新しく創造されるためには、意識して思いを変える必要があります。
心の思いは、行動や人生に大きな影響を与えるからです。ではどういう思いを持つべきでしょうか?あなたが御ことばを読み、メッセージを聞いている時、聖霊様が働いて「あなたにとって御ことばが必要だよ。」と教えて下さいます。しかし、せっかく御ことばの種が蒔かれても、その御ことばをもう一度、聖書を開いたりして、意識の中にとどめなければ、その種は枯れてしまい何の役にも立ちません。
私たちの思いには、この世の価値観と考えがたくさん入っていますので、意識していないと今までの習慣で行動してしまいます。
聖書を読みたくない、説教を聞きたくない、御ことばに関心がない等は、肉に属するもので死に至らせる思いです。私たちは自分の思いを聖霊様によって、聖めていただく必要があります。何とか工夫して御ことばに触れる機会を持つようにしましょう。聖書をじっくりと読んだり、聞いたりして、思いの中に御ことばが入ってくると、御ことばの力が働いて、私たちの心は聖別され、神に属するものとなるのです。
6日(水)出39:32〜43
「主が命じられたとおりすべてがそろう」新約ヨハネ19:30
ピリピ2:8
イスラエルの民が神と共に歩むために必要な幕屋の材料と祭司の服はすべてそろえて一度に集められました。(神様から示されたすべてのものが完全に集められた)イエス様も、私達が神の子として、神と共に歩むことができるためにすべてをなしとげて下さいました。
イエス様は、神の御こころに100%従順な人生を送られ、最後は十字架の死にも従って下さいました。一つも罪をおかさない完璧な人生を送られた ので、ご自身の中に神の臨在が下る天幕として完成されたのです。
イエス様は十字架で「完了した」と宣言されました。イエス様が、信仰の完成者となって下さったので、私達は不完全であっても、イエス様を信じるだけで神が臨在して下さるのです。私達は自分の信仰を不十分だと考えてしまいがちですが、中途半端なクリスチャンというのはありえません。信じているか、信じていないかのどちらかです。イエス・キリストを単純に信じることで、祭司の服を完全に身に着けていることになり、幕屋に入り、神との交わりを持つことができるようになるのです。
7日(木)出40:1
「第一の月の一日に幕屋が建てられる」新約ローマ1:17
イスラエルの民はエジプトを出てから、ちょうど一年目の一月一日に幕屋を建て上げ、神の臨在される幕屋で、神との交わりを始めました。一月一日は誰でも決意を新たにして、今年こそはという気持ちでスタートします。そのように私達も、神の子とされていることを信じて神の子として生きることを意識して生活し始めることが大切です。
神の子が、こんな汚い言葉を使っていいんだろうか?
神の子が、こんなものを見ていていいんだろうか?
神の子が、こんな争いをしていいんだろうか?と神の子である自分を意識していれば、反省する気持ちが湧いてきます。反省する気持ちがあるからこそ、それをやめようと戦っていくことができます。
神の子として戦っていくから勝利できるのです。戦う前から、どうせダメだと思うなら、乗り越えられない自分を信じているので力が出ないのです。私達は自分の考えだけで生きていた時は、むなしくてつまらなくてどうにもならない問題を起こすので、もういやだと思うことがありました。しかし、神の子という自分を信じるなら、信仰が働くので、誰でも例外なく、キリストの御姿にまで成長することができるのです。イエス・キリストの救いが完全だと信じるなら、そのことを信じて毎日をスタートすることが必要なのです。
8日(金)出40:2〜8
「所定の位置に置かれた」新約气Rリント12:18
幕屋の中で、器具が所定の位置に置かれたということは、何を意味しているのでしょうか?私達はキリストのからだとして誰とも比べることのできない唯一の存在であるということです。
世の中で植えつけられた、人と比べて生きるという習慣を早く改めなければいけません。人と自分を比較することによって、ねたみ、しっと、競争心が出てきて、自分を卑下したり、人を批判したりするようになるからです。人と比べたら落胆するだけです。それは人と自分は違いすぎるからです。違うからこそ全体としてのバランスがとれているのです。
神様は比べるという基準は持たれていないので、教会こそ比較社会から解放された場所となるはずです。それぞれ神から与えられた分を認め合ってゆきましょう。
9日(土)出40:2〜8(金)と同じ
「所定の位置に置かれた」新約へブル13:5、1テモテ6:6
私達は神様に愛されているだけで大満足するべきです。ぐち、不平があるのは今の自分の置かれた状況に感謝できないからです。
自分の生まれた場所や、親や、育って来た環境は、すべて神様が用意して下さったのです。あなたに歩んで欲しい唯一の道を神様が用意して下さったのだから安心していいのです。自分の人生や環境を人と比べることのないように、神は、私達を所定の場所に置かれました。そのことを信じ、神の子としての今の自分に感謝して、堂々と生きてゆきましょう。
