10月27日 日曜礼拝メッセージより
● 天にあるものを思う
あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
コロサイ3:2

 私たちは今は地上に生きていますが、天に属する神の子です。
「神の子として天にあることを思いなさい。この地上のことを思っていると、いろいろな思い煩いがあります。つらいと思える人生でも、私たちの行くべき所、神の国があることに心を向けて、希望で満たすように。」と勧めておられます。
イスラエルの民をとおして、神は私たちに、天国で家族として、神と共に交わりを持つという象徴としていま学んでいます。会見の幕屋と祭司の服装をとおして語られていることを今日も学んでいきます。

28日(月)出エジプト39:22
「エポデの下に着る青服」新約聖書よりローマ8:14
「エポデ」は服というより大切な務めのしるしとしてのもので、本来の服は下の青服から始まるものです。(亜麻布、青服、エポデと着ていきます)青服は頭からかぶって着るものです。
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。(ローマ8:14) 聖霊様は私たちの心の中に住み、語りかけて下さいます。それは聖書の言葉が基準として、以前聞いた御ことばが浮かんできたり、また夢、幻をみたり、いろいろな形で聖霊様は私たちに語りかけて下さるのです。語られた御言葉に従っていくなら、その人は神の子であると言われています。御霊に導かれている神の子としてのしるしが青服であり、青服を着るとは神の御霊に導かれている者の象徴です。青服は青だけの縒り糸で織られた服、青は天に属するものであり天的聖さを意味するものであります。
青は水 水は聖霊の生命の水、御言葉の水 水は聖めを意味します。 全身を青い服でおおわれるということは、神の御霊に導かれている、神の子であるということの証しです。
私たちは「アバ・父よ」と呼ぶ御霊を受けました。(ローマ8:15) 神の霊が私たちに触れられることによって、神の子としてあまえることができるのです。親しい気持ちでお父さんと呼ぶことができるのです。

29日(火)出39:23
「真中にあけられた青服の口」 新約聖書よりルカ24:49
青服だけは服の中央に穴を開けて、よろいのえりのようにその口の周囲には縁をつけてありました。すなわち青服だけは頭からかぶるように神は印象づけられています。
「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられる
までは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)
父が約束してくださったものという言葉がしるされてあります。ルカと使徒行伝は同じ医者であるルカが聖霊によってしるした書物ですので、ルカから使徒に続けて読むとき初代教会の歴史的部分を読み取ることが出来るのです。使徒1:8 に「父の約束であるバプテスマを受けなさい」とあります。聖霊を受けるとは、いと高き所から力が着せられるという表現があります。
 青服の口とは聖霊様を迎え入れる時、服を頭からかぶるような姿勢をもって青服を着ることです。頭からかぶるということは委ねるという象徴があります。(へりくだる、受け入れる、委ねる、頭を下げる)神の子の特権をいただく私たちはへりくだった心をもって、神の御霊を迎え入れるということが青服の口を意味しています。

30日(水)出39:24〜25
「青服の裾につけた撚り糸のザクロと金の鈴」
             新約聖書より エペソ5:18〜19
  青服の裾に撚り糸で撚ったザクロと金の鈴が交互に付けられていました。エペソ5:18〜19に「酒に酔ってはいけません。・・・御霊に満たされなさい。」と。すなわち青服をしっかり身に付けて御霊の満たしをもって詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに神の愛、慈しみを語り合い主に向かって心から賛美しましょうということです。
奇跡を体験するよりも、聖霊様を迎え入れて、聖霊様の交わりによってもたらされるほうが深く神の素晴らしさを知ることができます。神の心の部分にふれるとは、神のお心そのものである霊、聖霊様にふれることです。そうすると私たちはさまざまな矛盾や疑問に対して前向きにとれ、考えていくことができるようになります。
聖霊様と交わることを忘れないようにしましょう。

ザクロ=実りの象徴
金の鈴=神の喜ばれる賛美
神を象徴している金、「金の鈴が鳴る」とは「神の愛を歌うこと」歌を歌うための心のうちにわきあがる神様に対する良い実(ザクロ)この2つが聖霊様の象徴である青服の裾につけられていた、これは「御霊に満たされて詩と賛美と霊の歌をもって主に歌う」ということを意味しています。
 聖霊によって御名をたたえるくちびるの果実を神に絶えづささげましょう。(ヘブル13:15)

31日(木)出39:26
「仕えるための青服」 新約聖書ローマ7:6
神様の心の深い部分である聖霊様によって、私たちは仕える者となりました。すなわち神様の心にふれて反応し仕えていく者のです。神様との関係を聖霊によって与えられた人は、良い心にふれると何かしてあげたくなります。
イエス様の十字架をとおして何かお返ししたい、仕えたいと思うようになります。聖霊に満たされ、ふれられると仕える気持ちがわいてきます。損得ではなく与える愛が生み出されてくるのです。青服の性質=仕えるためのもの
 青服を身にまとわれたイエス様は「・・・仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」(マタイ20:28)と。
私たちは愛をもって互いに仕え合うことをすすめられています。(ガラテヤ5:13)「・・・目に見え
る兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(hヨハネ4:20)
神の愛はアガペーの愛J「仕える」ことです。

1日(金)出39:27〜28
「アロンとその子らのための服」新約聖書ローマ4:5〜8
「アロンとその子らのための服」は大祭司の服ではなく、地上で務めをする祭司の服です。
ローマ4:5〜8 「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。・・・」「不法を赦され、罪をおおわれた人は、幸いである。主が罪を認めない人は幸いです。」
 「アロンとその子らのための服」が関係あるのかというと、亜麻布とは神の義、聖められた者の義を表します。
 亜麻布の白い服を身に付けているということは、内側は肉であっても外側は神の義でおおわれているということです。神は私たちの肉の部分を見るのではなく、キリストを信じることによって義とされている心を見られるのです。
 旧約聖書にナアマンという立派な服を着た将軍が出てきます。彼はらい病でしたが鎧を着ていましたので外側はわかりませんでした。服は内側の醜いものを全部おおってしまいます。祭司の服の白とは神の愛によって与えられた義人としての姿を現しています。
 私たちが十字架を思い浮かべ、神様の愛に心をさらに開いて、キリストへの信頼を深めていくと、私たちの身に亜麻布の服をまとうような状況が神の前に見えるのです。

2日(土)出39:29
「4色の刺繍でできた飾り帯」 新約聖書ガラテヤ6:14
白い(亜麻布)の服の上に飾り帯(4色J白色、紫色、緋色、青色)がありました。エポデにも帯(5色)がありました。エポデには金の色が使われていました。金は神の栄光を現します。
天におられるイエス・キリストは甦られて、霊のからだをいただいた栄光のからだをもって務めをしておられました。大祭司の衣には金の糸が使われていましたJ完成された者の意味
しかし、アロンの帯には金の糸が使われていませんでした。それは、アロンはこの地上で務めをしていたからです。まだ天に行くことが出来ていないのです。地上にいる私たちも、アロンとその子等のように、地上で神に仕えているので、まだ肉体をもっていてイエス様と同じからだに変えられていないので(からだが贖われていないので)金の糸がないのです。 
飾り帯J権威  能力の象徴J誇り
ガラテヤ6:14に「十字架以外にほこりとしてはいけません」とあります。飾り帯はその人にとって権威、誇りを表します。
 神の子としての特権は、キリストによって与えられたことを忘れないように、十字架を誇りとすべきです。「どこに行っても私はクリスチャンです。」というクリスチャンとしての自信が持てるほどのイエス様に対する深い理解、神の愛に対する深い意味を持てば、人生に迷いはなくなるでしょう。十字架に現された赦しの愛を身に付けてクリスチャンとして歩んでいきましょう。


10月20日 日曜礼拝メッセージより
● 栄光のイエス・キリスト
私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。
ヤコブ2:1

 
今週から大祭司の衣、服について聖書に語られています。
 ここに記されている「エポデ」は、大祭司だけが着ている服装です。
エポデの上に胸当て、その上に帯、その下に青服、その下に長服を身に付けていました。この形はイエス・キリストが、今よみがえられ、本当の天幕である天に昇られ、神の御座で大祭司の働きをしておられるということです。
『栄光のイエス・キリスト』とは、十字架にかかり、そしてよみにまで下って三日間苦しみを受け、その後に死を打ち破ってよみがえられた復活のイエス・キリストのことです。私たちはこの『栄光のイエス・キリスト』を信じる信仰を持ち、見上げていけば、人と比べて生きる、えこひいきの人生から解放されます。
 なぜ解放されるのでしょうか?
 私たちはお互いに、よみがえりのイエス・キリストを通して、同じ神の子であり、神様の目には神の子として高価で尊い存在です。
イエス様のとりなしによって、私たちは天の領域の心に変えられていくのです。その段階に私たちが変えられていくことは、大祭司の服装に現わされている教えを受け入れることによって実現されていくのです。

21日(月)出39:1〜4
  「祭儀服エポデ 1」 新約聖書より コロ3:12
 よみがえりのイエス・キリストを象徴しているエポデを着た大祭司、これは私たちとどのような関係があるでしょう?
すなわち、このイエスキリストの姿に私たちは変えられていくという約束です。
エポデの意味 (コロ3:12)
 イエス・キリストが身に付けていたエポデとは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容という人格に関する着物です。これは、その人の人格の品性の美しさを現わします。私たちは、このイエス・キリストの姿に日々変えられていくクリスチャン生活を歩んでいます。このエポデを身に付けることが私たちには必要です。失望しないで下さい!。これは神様が与えて下さるもので、イエス様との関係のつながりによって自然に身に付いてきます。
〜5つの品性〜
深い同情心…感情的な面における共感を持つ→平和がもたらされる
慈   愛…道徳的基準にのっとった親切、善良な行為→病んだ心がうるおされる
謙   遜…自分を低くするのではなく、相手を自分より高く評価する→美しい心
柔   和…温厚でやさしい
寛   容…忍耐(積み重ねた結果生まれる実)→人を完全にする
 毎日神様を敬い、恐れかしこむ心から生まれてくるこの5つの品性があなたがたのうちに着せられ、エポデの輝きを増し加えていくのです。〈コロサイ3:9、10〉

22日(火)出39:1〜4
「祭儀服エポデ 2」 新約聖書より ヘブル7:26〜27  
大祭司はどのような働きをしたのでしょうか?
どんな宗教にも、神様と一般会衆の間を取り持つ宗教行事をする人がいます。大祭司は、イスラエルの民の罪を神様の前に赦していただくためにとりなす働きをしていました。このとりなしの働きがイエス様の働きです。イエス様は神様の前でエポデを身に付けて私たちのためにとりなして下さっているのです。
この5つの品性(深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容)
イエス様は完成されたこの5つの品性を通して、神様の前に、御心にかなった完全なとりなしができるものを持っておられます。これがエポデの象徴です。

23日(水)出39:5
「エポデの上で結ぶあや織りの帯」 新約聖書 コロ3:14
帯とは、結びの帯として完全なものです。愛は結びの帯です。
人間関係における結びつきのための最も完全な結びつきをもたらすのは愛です。
帯=工夫した業→仕える
聖書の愛は得ようとする愛ではなく、与える愛、すなわち仕えていく愛なのです。神様の愛は私たちに注ぐ愛、私たちに仕える姿勢を
もった愛なんですね。すなわち相手の気持ちを考え、良く見極めて、相手をどのようにしてあげればその人が高められ、良い状態に保たれるかという工夫をした業、行いをするのが仕えるということです。神様は私たちに仕える愛を与えて下さいました。
 イエス様は十字架の贖いによる犠牲によって、私たちが滅びに行かないようにと、私たちに命を与えて下さる仕えかたをされました。これが一番大きな愛の現れです。私たちはこの帯を身に付けましょう。(コロ3:12)
このエポデの上に(コロ3:14)すなわち帯をしめるという形です。私たちが互いに愛する愛は、『キリストが私たちを愛して下さったように互いに愛し合いなさい』です。(ヨハネ3:34)
エポデ(5つの品性)…帯を付けていないとくずれてしまいます。5つの品性を生かすためには、その人のことをとことん赦そうとする愛を持って向かわなければ働かすことは難しいのです。
 赦す心を持って、この5つの品性を輝かしていくことが必要です。赦しの愛の帯を最後に付けるです。
 イエス様は私たちの夫として、罪深い姿を受入れ、赦しつつ、私たちを抱きしめて整えて下さるお方です。私たちも赦されている者として、互いに赦し合うことが最後にしめるべき帯として身に付けるものです。

24日(木) 出39:6〜7
「記念の石」 新約聖書より  1ペテロ5:7
エポデの肩に付けられた宝石に12部族の名前が刻まれていました。 肩に付けられた意味
肩=重荷を担う=力の象徴=権威=私たちを持ち運ばれる
名前が刻まれた宝石=宝の民を神は肩に乗せて担われる(イザヤ46:4、 詩篇68:19 )肩には軽いものは乗せません。重いものを運ぶ、
すなわち肩の力とは支えるための力、負担を担うための力です。神様が私たちを肩にかつぐということは、私たちの重荷を支えられるということ、私たちを「肩にかついで休ませてあげよう」と言ってくださるのです。
 失われた1匹の羊に対するイエス様の取扱いが語られています。迷った羊を見つけたイエス様は肩に乗せて帰って下さるのです。
(ルカ15:3〜6)迷っていた、失われていた私たちも、イエス様の肩に乗せられて永遠の神の御国に帰っていっているのです。子供の肩ぐるまは親を信じていなければ落ちてしまいます。私たちもイエス様を信じる時に、自分の人生をイエス様に委ねる気持ちで信じることが大切です。

25日(金)出39:8〜14
「12の宝石がはめこまれた胸当て」 新約聖書 1ペテロ2:9 
宝石には、イスラエルの12部族の名が刻まれた=宝の民(申命7:6 )
 神様は、世界の中からイスラエルの民を、ご自分の宝の民として選ばれました。私たちも同じように、キリストによって神様に選ばれた宝石の民です。それはなぜでしょう?。
 胸にその宝石は置かれたのです。胸に物を持つというのはどのような感じを受けますか?、胸ということはどれだけ大切に扱っているかということの現れです。神様の胸に宝石の民として刻まれている自分ということを思い出すことがポイントです。

26日(土)出39:15〜21
「エポデに固定された胸当て」 新約聖書より ローマ8:38〜39
胸当ては、エポデに金の環(輪)にとおして固定されていました。私たちの内にある神様の愛と天におられる栄光のキリストのうちにある神様の愛は聖霊様によって結ばれています。(ロマ8:38〜39 )
結婚式の時に指輪を交換します。これは愛の契約を結んだしるしです。その時に「これは丸い輪であって、 あなたがたの愛が永遠であることを象徴しています」とよく言います。これが金で造られているわけですから、神様の愛を象徴しています。地上にいる私たちを、天で仕えておられるイエス様とつないでいるのは聖霊なる神様です。青ひもが使われているのはそのためです。
このように、私たちの信仰生活の歩みの中のすばらしさを、この大祭司の衣によって神様は表現しておられます。これを私たちが知ることによって、心に力をいただくことを通して、さらに栄光から栄光へと、キリストの姿に近づけられていくこと、変えられていくことをあきらめずに求めていきましょう。

 
10月13日 日曜礼拝メッセージより
● 新しい自分
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
第2コリント5:17

 クリスチャン生活の始まりは、新しい自分の出発です。神と共に歩む新しい人生を与えてくださったのがイエス・キリストの救いです。イスラエルの民はモーセに与えられた指示に従って天幕を造り、その中で神様と深く交わり、礼拝をささげました。
 先週はこのモーセの幕屋の聖所、至聖所について学びました。今日は、聖所に入るまでに祭司がどのようにしていたのかを知ることによって、イエス・キリストの救いについて理解を深め、新しい自分に生きるという意味を考えてみましょう。

14日(月)出エジプト38:1〜7
 青銅の祭壇 新約聖書より ローマ6:6/ガラテヤ2:20
 祭司は罪をゆるしていただくために小羊などの動物のいけにえをささげました。血は祭壇の下に振りかけ、体は火で焼かれました。青銅は聖書的には神の裁きを意味しています。
 イエス・キリストは十字架で私たちの罪の身代わりにいけにえの小羊となって裁きを受けてくださいました。ですからこの祭壇は、キリストの十字架の死を意味しています。私たちは自分の罪をゆるしてもらうために自分がいけにえとして裁かれたら人生をやり直すことができません。
 私たちがやり直すことができるようにとキリストが身代わりになってくださいました。そのことを信じて、水のバプテスマを受ける時、私たちの罪のからだも、キリストの十字架と共に裁かれ、死んで無力となるのです。肉からの働きかけにより罪の奴隷となり、怒り、悲しみ、落胆、失望など自分の感情をコントロールすることができなかった古い人もキリストと共に十字架につけられ、死にました。罪は力を持たなくなったので、罪の働きかけが来ても無視することができます。私たちは古い自分と上手につきあっていくのではなく、古い自分は死んで裁かれたと考えることが必要です。この考えは、イエス・キリストの十字架の死という歴史上の事実に基づいているので根拠のない自己暗示とは違います。
 神を認めない自己中心と自我は、キリストと共に十字架で死んだので、今、生きている自分は神のものであり、神を敬い、神を愛する者に造り変えられた新しい自分です。
 古い自分に戻ってしまうことのないように、自分を惑わす考えは十字架で死んだ!!と告白してください。
 これがクリスチャン生活の出発点となります。自分の心をよく吟味してみてください。

15日(火)出エジプト38:8
 青銅の洗盤 新約聖書より 第1コリント6:11/ヨハネ3:3〜8
 罪をゆるされた祭司は、神の臨在される聖なる場所に入っていく前に青銅の洗盤で手を洗い、自分の姿をうつして身を整えました。これは聖霊によって洗い聖められることを意味しています。
 神の国に入るためには聖い者として新しく生まれなければなりません。私たちは悔い改めて洗礼を受けます。
 洗礼は全身が水の中に浸って出てきます。水の中に入ることは、古い自分が葬られることです。そして、全身が神の聖い御霊によって洗い聖められて水から出てきたとき、新しいいのちとして生まれてくるのです。これが水と御霊によって生まれるということです。
 赤ちゃんが母の胎内から生まれて出てきても、赤ちゃん自身には生まれたという自覚がないように、神の子として生まれた私たちにもあまり自覚がないかも知れません。しかし、神の子として新しく生まれたのだということを忘れないで毎日思い出してください。お祈りができるのも、みことばを悟ることができるのも、神の国に入れる者とされているからです。

16日(水)出エジプト38:9〜17
 庭の掛け幕 新約聖書より ガラテヤ3:27/第1コリント1:30
 クリスチャンは御霊によって洗われて聖い者とされましたが世の中で生活しているので様々な汚れや罪の誘惑があります。
 イエス・キリストは私たちの裸のたましいを服のようにおおって守ってくださいます。イエス・キリストは決して罪に染まらない義なる方なので私たちを罪汚れから守ることができるのです。私たちは自分の正しい行いによって正しい者とされたのではなく、キリストを信じたのでキリストの正しさによって義なる者とみなされているのです。
 キリストの義の衣を着ていると自覚するとき、決して罪の誘惑に入っていくことはありません。どこにいくときも、キリストを着ていることを意識していきましょう。

17日(木)出エジプト38:18〜20
 庭の門の幕 新約聖書より ヨハネ10:7〜9/マタイ7:13〜14
 イエス・キリストは神の国に入るための門です。イエス様は狭い門から入りなさいといわれました。
 キリストを選ぶという道は、決して楽をすることではありません。この世の常識や多数の意見や安易な考えでは入ることができません。
 スポーツする人でも良い結果を出そうと思う人は、自分から厳しいトレーニングをします。楽して適当にトレーニングする人とは結果に差が出てきます。
 キリストの教えに従っていく人も将来素晴らしい結果が与えられることを信じて、キリストという狭い門から入りましょう。

18日(金)出エジプト38:21〜23
 幕屋を建てあげる 新約聖書より ヤコブ2:21〜23
 神様との親しい交わりを持つためには心に幕屋を建てる必要があります。心に幕屋を建てるための条件を考えてみましょう。
1.心から神を信頼し、愛する動機を持っている
 アブラハムが神からの声を聞き、啓示を受けることができたのは、神様との深い愛の関係を持ちたいという心があったからです。私たちも、神様との人格的な関係を持ちたい、より親しく身近に感じるようになりたいという気持ちを大切にしていきましょう。
2.心に知恵があり、聖霊の教えに従順な心を持っている
 心に知恵のある人とは、他の人の意見や忠告や教えを受け入れる気持ちのある人です。人や神様からの教えを受け入れる柔らかい心がないと、心に幕屋を建てあげることはできません。
 アブラハムは、イサクを捧げなさいといわれたとき、悩んで心の葛藤はあっても、不信仰にはなりませんでした。自分中心にばかり考えていたら、不信仰になったでしょう。しかしアブラハムは神様に対する信頼を失わず、神様の考えは絶対に正しいと思える心の柔らかさと知恵がありました。それで聖霊様からの啓示によって、神様は死んだイサクをよみがえらせることのできる方だと悟り、イサクを捧げる決心をすることができました。自分の考えや経験体験からは神様の臨在を心に持つことはできません。新しい教え、新しい考えが必要です。新しいものを受け入れる心の知恵と心の広さを持つことが必要です。
3.信仰に伴う行動をする
 あなたのうちに神の臨在があらわれて神の友と呼ばれる関係を結ぶためには、新しい教えを生活の中に行動を通して適用していかなければなりません。神様は「祈りなさい」といわれるので祈ってみる。結果が出なくても「祈り続けなさい」といわれるので祈り続けるというように敬虔な心を持ってみことばにたよって、行動してみることを神様は喜ばれます。

19日(土)出エジプト38:24〜31
 金属は金銀銅が使われた 新約聖書第1コリント13:13
 1.金=神聖=愛
 愛は神ご自身しか持たれていないものです。愛は神聖なものであり永遠の昔から永遠に至るまで存在し続けるものです。最も大いなるものは愛であり、創造主なる神様です。私たちは神から愛を注がれたので愛を感じるものになり、分け与えられたので愛を持つことができたのです。
 2.銀=あがない=希望
 私たちが希望をもって生活することができるのは失敗してもゆるしてもらえることによります。失敗がゆるされずチャンスが一度しかないなら、将来に対する希望は湧いてきません。イエス・キリストは私たちの人生の失敗を十字架であがなってくださいました。あがないとは赦すということです。赦す人は相手に希望を与えますが、相手の損失を受けなければなりません。イエス様は一度だけでなく何度でも私たちが成功するまで赦し続けてくださっています。人には限界がありますが、神様には限界はありません。神の子として成功するまでやり続けることができます。
3.青銅=神の裁き=信仰
 救い主イエス・キリストを信じることによって、私たちの罪は裁かれて、神の前に正しいものとされました。
 これは、信仰による義であり、永遠に残るものです。
 金(愛)、銀(希望)、銅(信仰)を最後まで心に残しておきましょう。天国にもっていくことのできるのはこの3つだけだからです。
 皆さんの心をこのようなもので造り上げていくことのできるように吟味してください。




 

10月6日 日曜礼拝メッセージより
● キリストのあがない
キリストは、すべての人のあがないの代価として、ご自身をお与えになりました。これが、時至ってなされたあかしです。
1テモテ2:6

          
 
 イエス・キリストの十字架は、全人類に与えられた罪をあがなうしるしです。血潮は、地上だけでなく、ルシファーによって汚された天をも聖めることの出来るものです。モーセの天幕は、内なる臨在の幕屋と、天の幕屋をあらわしています。
       
10/7(月)【出エジプト記36:35〜38】
    聖所の入り口の幕(第1の垂れ幕)  
    至聖所の垂れ幕(第2の垂れ幕)=キリスト  
    (新約聖書より:ヘブル10:19〜20、ヨハネ14:6) 
 神との交わりに入るには、第1の垂れ幕である[肉体をもって来られたキリスト]を信じること(2ヨハネ7節)イエスの肉体の中を流れているきよい血潮が十字架で流されたことによって聖所に入ることができる。更に、第2の垂れ幕である[死からよみがえられ][神の右の座に着かれた]贖い主であり主であられるイエス・キリストを信じることによって、主なる神の臨在に[直接触れることが出来る交わり]となる。
※罪を贖うためと幕屋を聖めるために、血は絶対に必要でした。キリストは私たちと同じ肉体と血をもって来て下さったゆえに、私たちが救われたのです。神様の臨在に触れるこつは、『イエスが主である』と悟ることです。

10/8(火)【出エジプト記37:1〜5】
     契約の箱=キリスト・イエスの神聖なる契約
     (新約聖書より:マタイ26:27〜28)
 聖書では[特別な関係をお互いに結ぶしるし]として契約を交わした。互いの関係が[永遠に変わらない]ことのしるしとしてである。救い主イエス様を信じるとは、[契約を結ぶ]ことである。その契約の中に留まるしるしとして私たちは[神の命令]を守るのである。(1ヨハネ3:23、4:12)主イエスが私たちを愛してくださったように互いに愛し合うとき[契約の箱は私たちの内]に存在する。
※イエス様を信じることは、契約書にサインすることと同じです。この契約に留まるとは、神の命令を守ることです。互いにゆるし合い、愛し合うとき、愛なる神様が見えてきます。
 
10/9(水)【出エジプト記37:6〜9】
     贖いのふた=キリストの十字架
    (新約聖書より:ローマ3:24、エペソ1:7、ガラテヤ4:5)
 神との契約は[贖いのみわざを成して下さった]イエス・キリストを信じることによって成立する。父なる神からの[恵みの契約]である。それは、契約の箱と贖いのふたは切り離すことのできないもの。神の愛を信じる契約関係の決意を持ちましょう。
※信じるという心の中の出来事だけで契約が成立するということは、相手を全く信頼しているということです。神様は罪人である私たちを、尊んで、信用して下さったのです。私たちの契約(箱)は、キリストの贖い(ふた)があって初めて成り立つのです。
 
10/10(木)【出エジプト記37:10〜16】 
     パンの机=食卓=交わり
    (新約聖書より:第一コリント10:16〜21)
 キリストは天から下ってこられた[いのちのパン]。[神の言葉]であられるキリストを互いに食する。私たちの交わりは、[みことばによって、互いに養われる]ことである。5千人が5つのパンで満腹したとき、パンはどんどん増えていった。マ[みことばを分かち合うことの大切さ]。
※聖餐式は交わりを意味します。当時の食卓は、親しい者たちの交わりの場、契約の場でもありました。神のみことばを分かち合う交わりは、私たちの魂を元気づけ養います。みことばがあなたを成長させるのです。

10/11(金)【出エジプト記37:17〜24】
     燭台=聖霊の油とみことばの光
     (新約聖書より:1ヨハネ2:27)
 聖霊の油は[真理]について教えるマ[キリスト]について教える。[油を絶やす]と真理である神のことばが悟られなくなってしまう。その結果として[キリストのうち]に留まらなくなる。つまり、その[戒めを守らなく]なる。(ヨハネ15:10)自分勝手な解釈や人間の考えに真理を縛ってしまい、神学にとらわれてしまう。マタイ25章の愚かな5人の娘マ祭司や律法学者たちはイエスをメシヤとして認めなかったのは、油注ぎが絶えてしまっていたからである。
※燭台は、油の中に芯を入れ、その芯に火をともすと燃えて光を放ちます。みことばは聖霊の啓示によって光輝きます。みことばを拒絶することは油注ぎを拒絶することになり、聖霊様との交わりをしなないなら、みことばを悟れなくなり、キリストの内にとどまれなくなってしまいます。みことばと聖霊を大切にしましょう。

10/12(土)【出エジプト記37:25〜29】
     金の香の壇=とりなしの祈り
     (新約聖書より:黙示録8:3)
 金の香炉に入った香は[聖徒たちの祈り]。それを御座の前にある金の祭壇に捧げられ、煙が立ち昇る。ヘブル7:25=聖徒たちの祈り(金の香炉)は、[キリストによってとりなされ](金の祭壇)、香の煙りとして立ち昇る。私たちの祈りは、金の祭壇であるキリストの執り成しによって[香り良き香]となり、神に喜ばれる。
※私たちの祈りは、それ自体は神に受け入れられるものではありませんが、イエスの名によって祈るなら、イエス様がとりなしてくださり、神様に喜ばれるみこころにそった祈りとしてくださいます。金の祭壇に、香が降り注がれなければ意味がありません。私たちは、イエス様にとりなしていただいているという謙虚な思いをもって祈っているでしょうか。
これらのポイントをもってこの一週間、更に深くみことばを悟らせていただきましょう。