9月29日 日曜礼拝メッセージより
● 主イエスの恵み
私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。
使徒15:11

 クリスチャンは最初はユダヤ人だけでした。最初にイエス・キリストを救い主として信じるようになったユダヤ人たちは、神が選ばれたのはユダヤ人であり、救いもユダヤ人のものという昔からの考えにとらわれていたので、ユダヤ人以外の救いに対しては、心が開かれていませんでした。それで神は、イタリア人の百卒長であるコルネリオをご自身が啓示によって召して、ペテロを家に招き入れ、彼の目の前で彼らが聖霊に満たされ、異言を語り始める出来事によって、ペテロの目を開きました。ペテロは、救いがユダヤ人だけでなく、全世界の人々のものであることを悟ったのです。こうして救われてクリスチャンになった異邦人たちに対し、熱心なクリスチャンとなったユダヤ人たちは、自分たちに与えられた律法も与えようとします。しかし、それに対してペテロは、救いは律法を守るという行いによって得られるものではなく、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人に与えられる神の恵みであると説いています。
 今週は、デボーションの箇所を通して、ひとつひとつこの主イエスの恵みについて学んでゆきましょう。

30日(月)<出エジプト記36:1〜2>
 恵みが与えられると自発の心が湧いてきます。聖所の奉仕をしたいと申し出た技術者たちは、皆何かに感動し、心を動かされた人々
でした。
 もし、私たちがクリスチャン生活の中で感動がなくなってしまうとどうなるのでしょうか。教会の奉仕も集会に来ることもいやいやになり、面白くなくなり、ただ回りの人々の手前、仕方なく来たり、強いられるように感じるようになります。そうすると集会に参加しても、何も得ることができません。しかし、私たちは強いられているのではなく、自発的に来ています。それが信仰生活にとっては大切なことです。自発の心は何かに感動することによって生まれてくるものです。
 皆さんは何に感動していますか?(使徒9:31)を見てください。「聖霊による励まし」が感動を受けるという秘訣になります。私たちは聖霊様の励ましによって感動が与えられ、自発の心を持って歩むことができるようになります。
 (例)
 毎週日曜日に集われる多くの兄弟姉妹のひたすら神を求める姿勢が、私の励ましとなり、感動を与え、それが力となって、さらに神の通り良き管となって、皆さんに御ことばを伝えたいという自発の心が湧いてきます。
 私たちは、自分の回りにあるどんな小さなことにも、こういった聖霊様の励ましを見いだしてゆく時に、クリスチャン生活を自発的に歩み続ける持続力がでてきます。
(大自然の中にも見いだせます)

1日(火)<出エジプト記36:3〜7)
 民はあり余るほどささげ、モーセがとどめる必要がでるほどでした。神は何事であっても、喜んで自発的にささげる人を喜ばれます。人目を気にしてささげるのは、本当のささげ方ではありません。    
 日本文化は人の目を気にして、回りに合わせるという考え方があります。献金にしても、失業して収入が無くて前に出られないとみんなにどう思われるかと気になって、仕方なく出ている内に、それが苦になって、教会に来なくなってしまったら意味がありません。 
 神様は無かったらないでいいと思っておられるのに、あなたが人を恐れていたら自発的でなくなってしまいます。(ガラテヤ5:25,26)に、「虚栄に走ることなくのないようにしましょう。」とあります。 
 神様の前には、自分の心をありのままに、真実にあらわしてゆきましょう。それが最も喜ばれるささげ物です。そして自分にできる心のささげ物を(人にわからなくても)神に精一杯ささげ、また多くささげることのできる人々を見て、その人たちのことを喜んであげられる心も、神に喜ばれる心です。
 すべての奉仕もささげ物も、神の前に自分自身を正直にあらわし、喜んで自発の心を持つためにあるのです。虚栄心も競争心も必要ありません。

2日(水)<出エジプト記36:8〜13>
 会見の幕屋のうちの、第一番目の幕のことです。この幕屋は、神とお出会いするための場所であり、私たちにとって神が臨在される霊の部分を象徴しています。
 神は私たちの内に住みたいと願っておられます。神に出会うとは、神とお交わりすることです。願い事をするためではありません。
 私たちは家族的交わりを期待して神をお迎えします。私たちのモットーは(1ヨハネ1:3)にあるように、神との内側での交わりです。
 この最初の幕はイエス・キリストの象徴です。ケルビムは天的存在者であり、神が臨在される所には必ず存在します。このケルビムが幕に織り込まれているということは、神の御座がそこにあるということです。私たちの心に神の御座、聖所をつくり出すための救いが、イエス・キリストの十字架です。この四つのより糸はすべて意味があります。
 白---義なるキリスト
 青---天に属する、神の聖さであるキリスト
 紫---王の王、権威者なるキリスト
 赤---あがないの主なるキリスト
 これらのより糸を通して聖所が私たちの内につくられます。神との交わりの聖所をこれらのことを考えながら、心に保ってゆきましょう。

3日(木)<出エジプト記36:14〜19>
 肉体と精神の間に置かれた赤くなめした雄羊の皮とはなんでしょうか。(ヘブル10:22)で、私たちの心にイエス・キリストの血が注がれ、邪悪な良心がきよめられたとあります。
 赤くなめした雄羊の皮は、イエス・キリストの血潮です。邪悪な心とは、創造主なる神を認めない心、主権、権威を認めない心です。 
 ここからさまざまな悪い思いが出てきます。私たちはこの邪悪な心をイエス・キリストの血できよめられ、主権を認める素直な心が与えられ、保ち続けられています。これが雄羊の皮です。
 愛が注がれると人の心は変わります。私たちはイエス・キリストの血潮、神の純粋な愛が注がれて、神を信じる心が与えられたことに心をとめてゆきましょう。

4日(金)<出エジプト記36:20〜30>
 幕をかける支え、柱の役割が板です。この板はアカシア材が用いられました。(コロサイ1:23)銀の台座の-銀-とはあがないの意味があり、イエス・キリストの十字架のあがないを表しています。
 私たちの神への信仰は、この十字架のあがないの上に堅く立って、決して揺り動かされないように保つ必要があります。聖所が上にもうけられると言うことは、神が私たちと共におられるという良い知らせ(福音)です。なぜそれが良い知らせなのでしょうか。
 神が共におられると言うことが、人間の創造の目的だからです。私たちは神と共にすごすために造られた神の子です。又、私たちの存在の価値は、神があって初めて成り立ちます。神と私たちは、互いに自分たちの存在を支え合う存在です。他の被造物ではできない、互いの愛の交流ができる存在として私たちは選ばれました。
 私たちは神に愛されることによって存在価値がでてきます。これらのことからいかに私たちの内に聖所がもうけられることが大切かがわかります。

5日(土)<出エジプト記36:31〜34>
 5本の横木によって板が支えられていたとあります。「5」とは「恵み」のことです。(エペソ2:8)「恵みのゆえに、信仰によって救われた。」とあります。この「恵み」とは神の主観による選びのことです。選ばれる側が条件を考えても、何の役にも立ちません。
 神の主観によって、アダムの子孫である私たちは全宇宙のあらゆる被造物の中から、恵みによって選ばれたのです。選ばれるほうは文句を言うことはできません。ただ神の主観によるからです。
 一般常識ではとらえられず、特別の好みによって選ばれるのですから、それは恵みによると言えます。私たちはただ感謝すべきです。 
 又、信仰によるとは、この神の選びに対して、私たちが応答することを表します。恵みが来たときに、信じて受けとめるのが「信仰による」ということです。神は人類に比類のない愛を注いでくださっています。この神の恵みについて考える週としましょう。

9月22日 日曜礼拝メッセージより
● 神の愛のうちに自分を保つ
神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
ユダ21節      

 ユダは、ローマ帝国の迫害を受け、社会的にも政治犯として扱われていたクリスチャン達に対して、神の子としていかに人生を歩むのかを教えています。何を信じたらいいのか、何が本当なのか、わからないような状況の中で信じられるのは、すべての人に表わされた神の愛だけではないでしょうか。この神の愛のうちに自分自身を保つ、ということを今週のテーマとして出エジプト記から学びをしていきましょう。

23日(月)<出エジプト記34:28〜32>
 2度目にシナイ山から降りて来たモーセの顔は、はだが光りを放って輝いていました。なぜ1回目ではなく、2回目の時に輝いていたのでしょうか。ヒントとして詩編から見ていきましょう。
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」詩編119:130
 わきまえがないとは、分別がなく、自分の感情のままに行動し、考え表現していくことです。みことばが悟らされると、暗闇で光を見つけた時のように、安心感や希望が与えられ、心が明るくなります。みことばが悟らされると、かしこさと分別が与えられます。その喜びと心の輝きによって、イエス様を信じる前は暗かった顔が、明るく輝いた顔に変わるということは、皆さんも体験されていると思います。もし今、顔の輝きが失われて来て、ぐち、不平、不満、不信仰が多く出ているなら、みことばに対して心を閉ざしているために、みことばの光が、心から消えているのかも知れません。モーセは、失敗を通して、神様のお気持ちがわかり、十の戒めは、神様の深い愛のゆえに書かれたものだということに気が付きました。神様の本質はあわれみ深く、情け深い方だということがわかったので、みことばを悟り、輝くことができたのです。私たちも、自分のいたらなさや、不信仰や、みにくさを通して、みことばを悟ることができるのです。心を開いてみことばの光を受け入れていきましょう。

24日(火)<出エジプト記34:33〜35>
 なぜモーセは顔に覆いをかけたのか、第二コリント3:14〜16からパウロの教えを見ていきましょう。
イスラエルの民の心は鈍くなり、神様のお言葉を正しく受け止められない状態でした。彼らの心は、どうして鈍くなっていたのでしょうか。イスラエルの民は「おいしいものが食べたい、ゆっくり楽して過ごしたい」と肉を楽にすることばかりを考えていたので、神様が魂の幸せを考えて言われている、十の戒めの言葉を窮屈に感じてしまったのです。 
 例えば、私たちも、怒りで心がいっぱいになっている時に、聖書を読む気持ちにはなれません。それは、怒って罪を犯すことは、正しくないとわかっているからです。怒りを正当化しようと、相手の悪い所を並べたてて、自分に怒りを満たしていいんだという暗示をかけ、怒りをぶちまけ、相手を服させたいという欲求が働いているからです。
 あなたが、本当に罪を犯したくなくて、怒りから救われたいと思うなら、主を求め、何とか怒りがおさまるようにして下さいと祈り、みことばを与えて下さいと願い、聖書を開くでしょう。パウロは、神様の心を100%表わされておられるキリストに心が向くときにこそ、心のおおいが取り除かれる、と言っています。
神様は、助けたい、救いたい、癒してあげたい、解放してあげたい、幸せになって欲しい、強くなって欲しいと、私たちを建て上げるために、どんな犠牲でも惜しまずにささげたいという気持ちを持っておられるのです。私たちをどれほど愛し、憐れんでおられるかは、その犠牲の大きさによって知ることができます。
 神は、一番大切な、ひとり子であるイエス・キリストを地上に遣わして下さいました。キリストは、私たちの受けるべき罰を身代わりに十字架で受けて下さいました。このキリストの十字架に表わされた神の愛によって、私たちにもう一度やり直すことのできる人生を与えて下さったのです。それほどまでに、私たちを愛し、あわれむ心で書かれたのが、神様からの手紙である聖書です。 手紙を書いた相手の気持ちを知れば知るほど、その内容は、心に伝わります。神様は、『もぐらたたきゲーム』のように、ほら、罪を犯した、ほら、失敗したといって、頭をパンパン叩いて懲らしめられるような方ではありません。私たちを罰したくないので、罰しなくてもいいようにと、聖書を通して、ルールを与えて下さっているのです。私たちの心が神以外のものに向いているために、心に覆いがかかっていないかどうか、吟味してみましょう。

25日(水)<出エジプト35:1〜9>
 あなたが誰かの為に何かをしてあげたいと思う時、その人との関係はどうでしょうか。誰かに親切を受けたら、お返しをしたいと思いますね。又、尊敬すべき人には、礼儀正しく接しようとします。私たちも、神様
との良い関係を持っているなら、クリスチャン生活は、窮屈なものではなく、楽しいものになります。どうぞ、不満や負担に感じているものがあるなら、神様との関係が礼儀正しい良い関係になっていないのではないか、ぜひ吟味して考えてみて下さい。
26日(木)<出エジプト記35:10〜19>
 神様は幕屋を建てるために、技術を持った者ではなく、心に知恵のある者を必要とされました。心に知恵がないと、良い仕事をし、能力を引き出すことができません。心に知恵があると人とは、仕事のために自分の心をコントロールすることの出来る人です。刺身包丁はなぜ長いのでしょうか。それは、手早く魚をおろし、新鮮なうちに刺身として仕上げるために必要だからです。心に知恵ある職人がそれを使えば、包丁も生きた道具となりますが、心に知恵のない人が、憎しみの心を持って使えば人を殺す道具となります。 あなたも心に知恵がなかったら、あなたの才能、能力は、人を傷つけ、人を引き降ろし、人をダメにして、最後には、自分までも滅ぼしてしまいます。でも、あなたに与えられた神様のすばらしい能力は、人を生かし、人を建て上げ、あなたも建て上げるものだということに気付いて欲しいと思います。

27日(金)<出エジプト記35:20〜29>
 私たちが、神の国として完成するために、3つのポイントをお話しします。
1.)キリストによって新しくされた霊(悔い改めた人)
 私たちは洗礼を受ける時に、悔い改めて、神様に従っていく決心をします。しかし、最初から完全に悔い改めた、神様中心の生活は出来ません。何度も何度も神様に向いたり、世の中に向いたりと、心が定まらずにいます。それがしんどいからと、世の中を向いたまま、クリスチャンをやめてしまっても、心はむなしく、満足しません。信仰の成長と共に、時間はかかっても、心の方向が完全に神様に向くと神様のおことばの祝福を受けていくようになります。
2.)神のみことばに忠実な心
 心の動機が忠実な人は、まだ行ないが出来ていなくても、神様は喜ばれます。神様は心の忠実な人を願っています。私たちを建て上げる技術のもとは、心に知恵があることで、それは忠実な心です。
3.)神様の栄光を表わすためにささげられたからだ
 私たちのからだがこんなに複雑で精巧に造られているのは、なぜでしょう。それは神様のご計画を実行し、完成させるためです。健康を保つのも、腹を満たし、おいしいものを味わうのも、そのために必要だからです。
 以上の3つのポイントを持っている人は、人間関係で最も大切な、人をゆるす心を持つことのできる人です。そして、神の国がその人のうちに実現し、理想的神の国が教会の中に実現するのです。

28日(土)<出エジプト記35:30〜35>
 神様は私たちひとりひとりに、その人にふさわしい知恵と英知と知識を与えて下さっています。世の中には、大きな仕事をする人も、小さな仕事をする人も、必要なのです。世界でも有名な狂いの少ない腕時計も、大小さまざまな歯車が組み合わさって、長時間正確な時を刻むことが出来るのです。神様から与えられた能力によって、自分の出来ることを十分に発揮すれば良いのであって、人と比べるものではありません。自分自身や、人に対して、出来ないことを押し付けて、プレッシャーをかけて、心をゆがめてしまうことのないように気を付けましょう。神様から与えられた才能が、どこまで引き上げられるかは、その人が神様の前に見つけ出していくものです。それを周りが、少しでも手助けしてあげることができたらいいですね。ハレルヤ。私たちの考えや、物の見方が、神の愛のうちにとどまっているなら、聖書のことばの解釈が正しくなされていく、ということに気付いて、あなたの心をよく吟味しながら、神様の愛の中にとどまる一週間を送ってください。




2002年9月15日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦 主任牧師)
● 
誇るものは主を誇れ
誇る者は、主にあって誇りなさい。第2コリント10:17

 <コリント10:17>をデボーションのきっかけとなるように今週のことばとしました。新改訳聖書では『主にあって誇りなさい。』とありますが、口語訳『誇る者は主を誇るべきである。』、新共同訳の『「誇る者は主を誇れ。」』の「主を誇りなさい」が適切に思われます。私達の人生は自分を誇る人生ではなく唯一の正しい神、イエス・キリストを誇る人生でありたいと思います。育ててくれた両親を誇ることは子どもにとって生きる力となります。同じように私達を救ってくださり神の子として育ててくださる真実な父なる神を誇れる毎日ならば、正しい道に歩んでいけるのではないでしょうか。

16日(月)<出エジプト34:1〜4>
 エジプトで四百数十年奴隷だったイスラエルが先祖の神に救いを求め、モーセが遣わされ神がイスラエルに与えるといわれた国(今の中東)に旅立ちました。途中様々な奇跡を見ながらシナイ山のふもとに来た時、神から選ばれた特別な民としての律法をいただくことになりました。モーセが40日後啓示を受けて下りて来たときイスラエル人は待切れず別の神をつくってどんちゃん騒ぎをしていました。「自分達を救い出した全能の神を差し置いて自分達の欲望を満たす神をつくるとは何ごとか。」とモーセは、神からいただいた十の戒めの石の板を打ち砕いて彼らを戒めました。しかし、神はこの「うなじのこわい民」をご自分の民として認めてもう一度モーセに石の板2枚を持たせ、モーセに上って来るようにいわれたのです。

<心に神のみことばを刻むとは>
神の戒め、ルールの本を持っていても全部守れるわけではありません。例えば、最高の水泳選手の泳ぎのテキストを持っているだけで、泳げるようになるとは限りません。その技術を何度も練習し、身につけて初めて泳げるようになります。同じように石の板に書かれた神のみことばが、一人一人の心に刻まれてルールを守れるようになるのです。「刻む」のと「傷を受ける」ことはよく似ています。どちらも痛みます。自然の傷は直ると忘れてしまいがちですが、心の傷は何年経っても忘れない人が多くいます。体に刻んだ刺青は痛みは忘れても生涯残ります。刺青を見るたび思い出します。私達の心には刻まれたみことばが消え、癒されたはずの過去の傷がいつまでも残る不自然な状態が起こっています。心にみことばの刺青をしていただければ、身について、みことばが行えるようになるはずですが、消えていくから行えません。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)
 神のいのちのことばか、闇のことばか、どちらかを心に刻む選択も迫られます。永遠のいのちにいたるための光をしっかり選んで、受け入れていきましょう。
 神のことばを聞けば聞くほど、心は取り扱われ、「刻まれる」という痛みを覚えることが多いはずです。

17日(火)<出エジプト34:5〜9>
 モーセに主が現れてくださった時、その臨在に触れ、神の前に祈った願いごとです。モーセは「あなたのものにしてください。」と神に自分を差し出すほどの良いものに触れたのです。神についていくという時、自分の人生をゆだねることのできる信頼が持てる何かを神に見い出すことが必要です。「うなじのこわい、かたくなな心のある私たちだからこそ、あなたのものとしてください」とモーセは言いました。6、7節には神のご性質が宣言されており、「咎とそむきと罪とを赦す神は、強情な私たちを赦し、必ず神の民としてつくりかえてくださる」と考えたからです。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(第1ヨハネ4:9〜11)
 罰せずに罪を赦すとはあり得ません。罪を赦す人は必ずその負債を身に負います。私たちの犯した罪の処分を神ご自身が身代わりに受けてくださり、私たちを赦してくださったのが、イエス・キリストの十字架の救いの意味です。これほどまで、私たちを赦し、愛され、滅ぼすことを願っておられない神にならついていける、「どうぞ、あなたのものにして下さい」と言えるのではないでしょうか。

18日(水)<出エジプト34:10〜17>
 「エジプトの奴隷から救い出した神によって与えられた自由を、自分の願望を満たすために他の神を拝んではいけない」ということです。
兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
(ガラテヤ5:13)

 キリストが十字架で罪の罰を身代わりに受けてくださったのは罪に縛られた生活から解放されて得た自由は、永遠のいのちに至る道を選べるためのもので、もう一度罪の欲望を満たすためではありません。
 イスラエルの民は他の神々を作って騒げるような身分ではなかった奴隷から、神が自由にしてくださったからこそ、荒野でどんちゃん騒ぎをし神への不敬虔な態度をとることができたのです。神に与えられた自由を大切なもののために使わず、自分の快楽や貪欲のために使うなら、イスラエルの民と同じように恩知らずのものとなるということです。優先すべきことをせず、神に対する感謝と恩を忘れる考え方に陥っていないか吟味してください。

19日(木)<出エジプト34:18〜20>
 これらの儀式の意味は「主は大切なお方」という動機を持っている人には理解できることです。
信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。(ヘブル1:17〜19)
 100才のアブラハムに子を生むことができないサラ(90才)との間に、奇跡的に神が与えてくださったのが、イサクでした。アブラハムにとってイサクは約束の子であり、子孫への望みそのものであり宝のような存在でした。しかし、神はその約束の子をいけにえとしてささげる、つまり殺せといわれたのです。せっかく与えられた、子孫への希望を断つようにと。これはアブラハムの心が試されたのです。イサクの存在はアブラハムにとって自分のいのち以上の宝のような存在でした。しかし、このイサクを喜び楽しめたのは神様の存在があったからです。心からの感謝がイサクの存在と共に薄れてしまい、イサクの存在を喜ぶ方へ心が奪われてしまったのです。
 宗教的儀式の意味は私たちが試されている内容です。今、私たちに罪を犯すことも神のことばを守ることも選べる自由があり、また楽しみも悲しみも味わうことができ、いのちを味わうチャンスが与えられているのは神様がイエス・キリストによって全人類をあがなったおかげです。
 キリストを通して罪のあがないをすることを初めから神は考えておられました。それほどまでに私たちは大切に思われているのです。新約聖書の中にいろいろと教えられていますが、神が私たちの存在の土台であることを忘れないため、心に痛みをもたらすほど厳しいことをいわれているのです。優しすぎると恩と感謝を忘れてしまいます。払われた犠牲の故に、ある時は厳しさも必要です。

20日(金)<出エジプト34:21〜24>
 イスラエルの民は一週間に一日すべての仕事を休んで神のみことばを聞き、教えられ、恵みに感謝する時を持ちました。神のためにだけ時間をとるという安息日のことです。一日は24時間(睡眠時間は8時間とし、起きている16時間×7=112時間のうち7分の1をイスラエルは神のためにとりました。私たちが自分から神のためにとる時間はどのくらいあるでしょうか。
・日曜礼拝に来る人
 第一礼拝だけ2時間 112分の2=56分の1
・日曜礼拝とリバイバル集会に来る人
 合わせて5時間   112分の5=約22分の1
・日曜礼拝、リバイバル集会、ハンナ会に来る人
 合わせて8時間   112分の8=14分の1
 これでも7分の1には達していません。16時間を基準とすると、残り8時間を1日1時間ずつ工夫して祈って、イスラエルの民とやっと同じになります。あと年3回(各1週間)の祭りも含まれます。律法的な面から計算すれば、これ以外は神の家族関係でなくなってしまいます。
 このように神との交わりの時間をとっていれば、神の子として健全な誘惑に負けないクリスチャン生活を送れる目安です。この時間が少なければ信仰が揺れ動いて不信仰になる率が高くて当然です。そんな私たちを神はあわれんでくださっていますが、神の子としてきよさを保つため、このくらいの時間を最低とることが安全だという目安です。強制ではありませんが、なんとか神のために時間をとろうとする気持ちが、罪の誘惑や汚れに触れない守りとにつながります。そうでなければ世と接している時間が多いので、世の楽しみの誘惑に引き込まれ、この世的価値観で人生を判断してしまうようになります。週に2時間しか神と触れ合えなければ、この世の影響を受けて当然です。これでクリスチャンの心を守れるなら、奇跡ではありませんか。なぜ安息日と祭りを守ることを神が言われるのかを考えてみてください。

21日(土)<出エジプト34:25〜27>
「いけにえの血に種の入ったパンをそえてささげてはならない」
いけにえの血→罪のないイエス・キリストの血
種の入ったパン→まざりものがある
 この世的な判断と共に、イエス・キリストのきよい血を神の前に差し出してはならない、純粋な神のみことばに対する幼子のような心でキリストを礼拝し、血潮を感謝することが必要です。神学者のように一宗教としてキリスト教の見解を語るのは喜ばれることではありません。
「過ぎ越しのいけにえを朝まで残してはいけない」
 過ぎ越しの祭りでは、一晩で一頭の小羊を一家族が全部食べてしまわなければなりませんでした。救い主であるイエス・キリスト全部を受け入れなければならないということです。
「最上のものを主にお返しする」
 神は私たちの罪を赦すために最上のもので代価を支払われました。御子という神のひとり子というこれ以上ない尊い存在の血潮で、私たちはあがなわれたのです。神にとっては最高級の値うちで私たちは罪のゆるしを受けました。だから私たちも最上のもので感謝をお返しするのは礼儀です。神に最上のものを献金する時惜しむ心が出て試されることがあります。神も私たちの罪の身代わりにイエス・キリストを殺すことは葛藤があったことでしょう。心が痛む犠牲を払われたのです。
 神は私たちにそれだけの価値はないのに、価値があると見積もって、御子を犠牲にされたのです。だから私たちも自分の持っているもので良いものを神にささげていきたいと思うのではないでしょうか。
「小羊をその母の乳で煮てはならない」
 これは魔術的占いであり、当時地域で豊作を願うために魔術として用いたやり方です。キリストを魔術師の占いのようにして祝福を自分のものにしようとしてはいけません。困った時にイエス様に伺いに行くように占い的になってはいけません。みことばを守っていけば神の計画が人生に一つ一つ成就していくことを信頼することを神は望んでおられます。
 これらを参考にし、さらに神から啓示をいただかれ、みことばを悟らせていただかれたらと思います。




 
 
2002年9月8日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦 主任牧師)
● 肉に従う理由はない
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
(ローマ8:12〜14)


 今週のデボーションのキィーとなるみことばが(ローマ8:12〜14)です。
 これをきっかけに月〜金のみことばの学びをしていきましょう。

9日<月>(出エジプト記32:30〜3) 
クリスチャンの人生に対する神のご計画は、「神の召しに生きる」というのが答えです。すべてのクリスチャンに与えられた共通の神の召しが(ヨハネ15:16)にあります。それは「実を結ぶこと」です。私たちの人生の実とは何でしょうか。(マルコ16:15)にあるように、「魂の救い」が人生の実です。
神はそのために私たちを選び、召し出されました。モーセがイスラエルの民を約束の地に連れて行くよう召し出されたように、あなたも家族や友人、知人、日本の同胞の救いの導き手となるように召し出されたのです。あなたは人々を照らし、行くべき道を照らす光です。この召しのため、自分の置かれた状況、環境の中でいかに生きたら良いか、自分の生活設計を立ててみましょう。

10日<火>(出エジプト記33:1〜4)
 神は、最初はイスラエルの真ん中にご自身の天幕を置かれていましたが、民が余りにうなじがこわく、それゆえに、民を滅ぼしてはならないと、ご自分から身を引かれました。本当は民の中心にあって、民と交わりを持つことを願っておられたのに、あえて民の未熟さゆえに一歩引かれました。このところから「重荷を負われる神」の姿が見えてきます。(ローマ15:1〜3)に、「力のある者は力のない者の弱さを負うべきである」とあります。このみことばの前提は、「すべての人達がひとりとして滅びず、永遠の命を得るため」ということです。この教会のすべての人たちが共にたずさえ上げられ、ひとりとして残されないために、力のある者は力のない者の弱さをになうことが大切です。自分に与えられている富や立場、才能は、自分を楽しませるためではなく、周りの兄弟姉妹を支えるためのものです。神がうなじのこわい民を残し、あえて連れて行かれたのは、ご自身の強さのゆえに、弱い者をになってくださるというお気持ちのゆえです。

11日<水>(出エジプト記33:5〜6)

 飾り物をはずすことと、民の処分とはどう関わるのでしょうか。飾り物を取るとは、「主の御心をかえりみる謙遜さを持つ」という姿勢を表します。民は、神の与えて下さっているあらゆる良いことに対し、ことごとく不平を言い、自分の肉を養うことのみに一生懸命でした。そして、エジプトから持って来た宝(飾り)を身につけることで、自分のストレスを発散させ、肉を喜ばせていたのです。(第一ペテロ3:3〜4)で、ペテロは私たちが心を飾ることを無視して、自分の外側ばかり飾ることに執着していたら、それは本当に空しいことで、神の前に何の価値もないということを教えています。もし内側の品性が劣っていたら、いくら高級な良い物を身に付けても、少しも高価には見えません。むしろ、内側から輝き出る品性が、外側をも美しくします。その美しさのもとは、謙遜さであり、神への敬虔さです。敬虔なクリスチャン生活を自分なりに表現していきましょう。

12日<木>(出エジプト記33:7〜11)
 宿営は「肉」であり、天幕は「御霊」です。モーセはそのどちらも行き来しました。モーセは私たちの「意志」です。彼が民の心も、御霊の心もよく理解していたように、私たちも、肉も欲求も感じれば、御霊の思いも感じます。
モーセは何故、宿営と天幕を行き来したのでしょうか。モーセは民の中に、解決できない問題が起きた時、天幕に行き神にうかがい、神の知恵を得、それから宿営に戻って民に神のことばを語り、神の御心に民を従わせました。私たちも、肉と御霊の間に自分がいます。私たちは肉の欲求が来た時に、御霊のことばに耳を傾け、肉体の欲求に対して、御霊のことばに従うよう、意志をもって自制させることが必要です。

13日<金>(出エジプト記33:12〜16)
 イスラエルの民と他の国民との違いは何だったのでしょうか。ただひとつ、神が共に歩んでおられるかどうかでした。
 同様にクリスチャンと世の人々との違いは、神が共に歩んでおられるかどうかです。洗礼を受けても、あなたの生活の中に、神が共におられるという様子が少しも見られなかったら、その洗礼はむなしいものです。私たちが日曜ごとに礼拝に来るというのは、神が私たちの人生に影響を及ぼして働いておられることの印です。私たちが世の人々と同じ遊興や酩酊に陥らないのは、神が共にいてくださるからです。
(マタイ16:24)に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とあります。私たちはいつも、自分と共にイエス様がついて来てくださっていると思い込んでいます。しかし、私たちがイエス様について行くことが、共に歩むということです。あなたがもし、肉のことばかり考えて、肉の欲求を満たすことが目標であるならであるなら、イエス様の目標とは違う方向に歩んでいることになります(イエス様から離れて)。私たちは、十字架で肉の欲求を殺し、イエス様の目標である永遠の命に向かって歩む必要があります。

14日<土>(出エジプト記33:17〜23)
 モーセは神と向かい合って話しをしましたが、その間には幕がひとつしきりとなっていて、直接神を見ることはできませんでした。それゆえモーセは直接神を見たいと願ったのです。神はその願いを聞き入れられました。これは素晴らしいことです。大会社の社長でさえ、簡単に会うことは出来ません。
 モーセが神に会えたのは、神との間にしっかりとした、個人的なつながり、信頼関係があったからです。神は私たちと直接会いたいと願ってくださり、それを可能とするために、イエス・キリストの十字架のあがないが与えられました。それゆえ主をしっかりと呼び求めるなら、私たちは神に会えるのです。(ヨハネ14:9)で、イエスは、ピリポがイエスの外側のみを見ていて、内側を見ようとしていないことを示されました。
モーセが神の御思い、御心を常に見ていたのとは違って、ピリポはイエスの内側、その心を見なかったため、イエスを通して働かれる御父の心を見ることが出来なかったのです。イエスはそれを悲しまれました。私たちも、周りに起こる現象ばかり見ていて、神の御心を見ないでいたら、不平不満ばかりになってしまい、神様の真実さ、愛の深さがわかりません。神の御心を見ることを求めていくなら、クリスチャン生活はもっと喜びのある、忠実なものとなります。
 日々の出来事の中にあらわされる神の御心を見ることができるようになりますように。もっと、神ご自身に心を向け、求めて行きましょう。




 

2002年9月1日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦 主任牧師)
● 御霊に従う生き方
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
(ローマ8:5)


 私たちの生活の中で、物事の考え方そして決断の仕方には二通りあります。
 一つ目は、人生のすべては自分本位の欲求や欲望を満たす事だという考え方です。それは、肉の感じるまま欲するままに欲望を満たそうとすることで、どうしたら世の中で成功するか、どうしたら幸せになるかといったことによる判断や決断です。又、社会的な肩書きや学歴によって、肉を誇りとするようなことを基準とした決断です。これは肉に従ったもので、肉のもっている罪と共に滅ぼされてしまうものです。
 二つ目は、私たちは肉を持ってはいるが人格者であり神の姿に似せて造られた霊的存在者だという考えです。
神が私たちを目的をもって造ってくださったのだから、神様の与えられたご計画を探し求め見つけだし、悟ってそれに従った決断と判断をしていこうとすることです。それは、御霊に従った永遠の神の国を相続する、神の子としての道を歩んで行くことです。御霊に従い御霊の事を考えていきましょうというのが聖書の教えです。
 旧約聖書のいろいろな出来事から、肉に従う者たちがどういう問題を抱え込み、どういう結果をもたらしていくのかを教訓として学ぶことができます。
 今日は、今週のデボーション箇所(出エジプト記32章1〜29節)から毎日のポイントをお話します。日々のデボーションの参考にして、自分の生活の中にみことばの教えがふくらんでいくように、神様の前に黙想していただきたいと思います。

〈2日(月)出エ32:1〜6〉
 モーセが40日間山で神様からの教えを受けている間に、イスラエルの民が自分たちの考えを優先してまった原因は、彼らの心の中が肉的な欲求で一杯になっていたからです。モーセが山に登っている間、イスラエルの民は身を聖別して節制することが必要でした。しかし、その心の願いは腹を満たしたいという、もっぱら肉的な事でした。それで6節にあるように神の名において肉の欲求を満たすことを求めて、アロンに金の子牛を造らせてお祭りをしたのです。  私たちは祈っていてもなかなかはっきりした答えが神様から与えられない時に、自分で判断することがあります。自分では信仰によって判断したつもりでも、いつも肉的な事を優先しているならば、心が養われていないので神の御心を考え行う事はできません。
あなたの魂が死んでいたなら罪の考え方や行動をしてしまい、いい結果を出すことができません。私たちは肉を養うのか魂を養うのか、どちらを優先していくべきか、いつも心を吟味して判断していかないとイスラエルの人々のように大変な間違いをしてしまいます。
私たちは世の中で生きていますが世の中に従っているのではなく、神のみ教えに従っているのです。クリスチャンにとってこの世は荒野のようなものです。でも、その荒野で神はイスラエルの人々を昼は雲の柱、夜は火の柱で守り、約束の地まで導いてくださったのです。全世界の人々に感動を与えたマザー・テレサも世の中に従ったのではなく、神の御心を大切に生きた人です。
私たちも肉に従っているために、問題を乗り越えることができず荒野でさまようような状態になっていないか、自分を吟味してみましょう。

〈3日(火)出エ32:7〜10〉
 肉を満たそうとするイスラエルの民を見て、神様は「うなじのこわい民」だと判断されました。「うなじがこわい」とは英語では「首が固い」という意味を使っています。それは心の頑固さを表してします。これは月曜日のポイントである、肉の欲求を満たしたいという欲求の強さのゆえにできてしまいます。イスラエルの民は、神様がどんな気持ちで助け救い出したくさんの恵みを与えてくださったのかを考えられない頑固な状態になりました。肉が優先している考え方だと、恵みが与えられなくなり忍耐が必要になった時に、その状態が長引けば長引くほど感情が害され、怒りや憎しみ不信仰がでてきて感謝できなくなります。
私たちも、神様に認めてもらおうと建前や口先だけでいい事を言って、本音の部分では自分の欲求を満たしたいという気持ちが隠れていないか心を吟味する必要があります。
はっきりと自分の心を見分けずにそのまま続けていけば、私たちもイスラエルの民と同じような裁きを受ける結果になるのではないかと恐れなければなりません。

〈4日(水)出エ32:11〜14)
 神の裁きがイスラエルの民に下されようとする時、モーセは人々が滅ぼされないように神様に弁明しとりなしました。イスラエルの人々は罰せられても当然の立場でしたが、モーセのとりなしによって神様は思いなおされました。
とりなしの力は、神様の決断を変えることのできる力があります。私たちのためにも、いつもイエス様が神と私たちの間に立ってとりなして下さっています。私たちはもっぱら肉的な事を考えている者であるにもかかわらず、イエス様は「父なる神様、彼らの罪はわたしが十字架によって身代わりに受けています。どうぞ赦してください。彼らはまだ何をしているかはっきりと見えていないのです。」といつもとりなして下さっているのです。皆さん、私たちは少なくともイエス様にとりなしていただいています。又、指導者や親やあなたの知らない兄弟姉妹があなたのためにとりなして下さっているという事を心に覚えておくと「こんな私のために、なぜそこまで祈ってくれているのだろうか」という謙虚な気持ちを持つことによって、自分の罪を改めていくきっかけが生まれるのではないかと思います。
日本は物質的に繁栄しましたが、もっぱら肉的なことを考えているにもかかわらず、私たちが真に御霊のことを考えて生きることを求めてアルゼンチン・ブラジル・韓国・イギリス・アメリカなどのクリスチャンの人たちが日本のために祈って下さっています。
このことを忘れずに、私たちもとりなされる方からとりなす方へと変わっていきたいですね。

〈5日(木)出エ32:15〜20)
 モーセはイスラエルの人々の目の前で、神様の作品である石の板を投げ捨て砕いてしまいました。それは人々に対する怒りの感情からでしょうか?
モーセは、神の作品である石の板の価値を忘れてしまうほど感情的な行動をするような人ではありません。それでは、どのような考えから石の板を砕いてしまったのでしょうか?
モーセは神様からの戒めを与えられ、これから地上で神様のご計画されたすばらしい生活が始まるところだったのに、もう少し待っていれば…という残念さがありました。神がこれまでイスラエルの民を慈しんで恵みで導いて下さったその恵みを、どんちゃん騒ぎをすることによって踏みにじったのだということを、目の当たりに見せたのです。その様子を見て、イスラエルの民は反省しました。私たちも、永遠の命にとって何の足しにもならないもので自分の肉を満たそうとしてしまって、神様からもっとすばらしいものを受け取れなくなっているのではないか、反省しなくてはなりません。

〈6日(金)出エ32:21〜24〉
 アロンは「私も悪いけれど、悪いことをさせたのは周りの民です。」という言い訳をしました。アロンはモーセのいない間、民を治める指導者として立てられていました。民を治めることのできる立場であったにもかかわらず、彼は神を恐れず、人を恐れて多数決に流されて金の子牛を造りました。それなのに、周りに責任をなすりつけてしまう。それは、肉的な事を考えている人の言い訳の特徴です。私たちもこのようにいろんなことを人のせいにしていないだろうかと、反省していただきたいと思います。

〈7日(土)出エ32:25〜29〉
 この場面はものすごく強烈で、恐ろしい場面ですね。モーセが罪を犯したイスラエルの民の中で「主に従う者は私のそばに来なさい。」と言うと、モーセと同族であるレビ族が集まってきました。モーセは彼らの主に従う決心が本物であるかどうかを試す方法として、肉をたしなんでいた兄弟、友人、知人、親戚の人々を殺せと命令しました。
神は何のためにここで殺せと言われたのか、真意を知らなければなりません。神様が私たちの心に訴えたいことは、罪を満たし罪のことを考えさせ、肉の欲求を満たし肉をたしなむ者へと誘惑して来るものは、全部断ち切れということです。罪はものすごい力があり、私たちを永遠の滅びに至らせてしまう絶対に受け入れてはならない存在です。
イエス様も「あなたの右の目が罪を犯させるなら、それをえぐり出してでも神の国に入った方がいい。全身で地獄に行くよりは、右目をなくしてでも永遠の命に至った方が幸せなのだ。」と厳しいことを言われています。世の中は肉に従う人々がほとんどです。
私たちは多数決の社会で育ったので、影響を受けやすいものです。しかし、そういう人々の意見や考え方に従っていった時に、最後はその人々と一緒に罪のために神から裁かれてしまうことになります。
 神の願っておられるのは、人間を殺すという行為ではなく、肉を優先し肉を満たしていこうとする気持ちを殺すということです。それは、肉親を殺すほど友人を刺し殺すほどの心の痛みとつらさがあるのですよ、ということです。
 以上のポイントを通して、御霊のことを考え優先させることを選び取っていくクリスチャン生活へと導かれていただきたいと思います。