2002年7月28日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 目 覚 め よ (6)
〜偶像礼拝を避けなさい〜
ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
(使徒20:31)
パウロは地中海の地域に教会を建て上げて3年間神の言葉を教え訓練し、そこを去る時にこの言葉を語りました。なぜ、パウロはこの言葉を語ったのでしょう。それは29、30節にあるような問題がこれから起こってくるからです。外側からは、この世のいろんな働きかけを通して、神の言葉を純粋に信じる愛している人々をの心を汚し荒しまわり、つぶそうとする働きが入り込み、内側からも、教会の一致、神への信仰を崩してしまうような働きが起こってきます。これらの問題に巻き込まれないように、目を覚ましていなさいと語ったのです。29、30節をまとめると、「キリストから引き離す働きがやってくるので、目を覚ましていましょう。」となります。
キリストから心を引き離すもの<第一コリント10:13、14>
毎日の生活の中の一番の戦いは、神様から心が離れてしまうことに対する戦いです。いろんな戦いの根本は、私たちを限りない愛で愛してくださる神様の愛に留まり続ける戦いです。キリストから心が離れてしまうことを、偶像礼拝と位置づけています。パウロはイスラエルの歴史を振り返って、イスラエルの人々の心が神様の愛からずれてしまった失敗を通して、教訓を得なさいと教えています。
(1) <第一コリント10:7> → <出エジプト記32章>
イスラエルの人々がモーセを通してエジプトの奴隷状態から救われました。そして、神様は民に十戒を与えられたのですが、それを頂くためモーセはシナイ山に40日間登っていました。モーセは水も食料も持っていません。下で待っている民は、モーセが死んでしまったと思い、自分たちの欲望を満たすための言い訳として、金の子牛の偶像を造りました。子牛が自分たちをエジプトから導き出した神だと言って、我慢していたやりたいことをし、飲んだり食べたり戯れたとあります。
神様の働きかけの結果は、自分の都合のいい時に出されるのではなく、全て神様側の判断です。しかし神様は、約束を必ず守ってくださり、実現してくださる方です。それを待ち望む、これが一つの試練です。この試練に対してあきらめてしまう時に、神様に対する尊敬の心が、自分の欲望を満たす方に向けられてしまい、民は飲み食いし戯れたという、神様の心から離れた状態を起こしてしまいます。こういう考え方が、教会の中にも入って来ます。すなわち、宗教とは心の中の問題で、それぞれの道徳心に従ってその人が良いと思う事を行なって生きたら、それでいいじゃないかと、神様の存在を否定し、自分なりに清く正しく生きたらいいんだよ、という考え方が教会の中に入ってきて、形だけの信仰、文化の一つのように死んだ宗教になってしまいます。その危険性があるから、私たちは神様の約束を忍耐強く待ちましょう。そうしなければ、あきらめてしまった時にはイスラエルの民のように、自分の欲望を満た方向に走ってしまうからです。
神以外のものを大切にしようとする心が、偶像礼拝の中心です。私たちは、自分の願望を達成するために神様に祈るということをします。これは、自分の都合の良いように神様を動かす考えであり、これが偶像礼拝の共通点です。しかし神様は私たちの思い通りにはなりません。なぜなら、神は真実で正しい方です。全宇宙を支配して秩序を保たれる神様が、一人一人の身勝手な願いに全部応えていたら、秩序が無くなってしまいます。正しい神様のお考えを無視し、自分の欲望を優先して神様に願いを持っていくことは、かえって神様の名によって偶像礼拝をしていることにつながります。イスラエルの民は、私たちは主の名によって飲み食いをしようと言って、偽物の神様をつくって自分の欲望を達成しようとしました。こういう考え方に陥らないように気を付けていきましょう。
(2)<第一コリント10:8> → <民数記25章>
荒野から、パレスチナ地方にイスラエルの民が移動して来ました。ミデヤンの地を通る時、そこの王様は気に入りませんでした。自分達が支配されてしまうのではないかと恐れて、よく当たるという預言者バラムの所へ行き、イスラエルの民を呪ってくれと頼みました。しかし、イスラエルの神はバラムの仕えていた真の神様が祝福していた民だったので、呪うことは出来ませんでした。そこでバラク王は、イスラエルの民が神様から呪われるように罪を犯せばいいと考え、ミデヤン人の女性たちをこの民の幕屋に送りました。神様のルールとして、祝福を受けるためにイスラエル人以外と交わってはいけない、縁結びをしてはいけないという戒めがあったからです。民はまんまとひっかかりました。それだけではなく、女性たちはミデヤン人が拝んでいる神様に捧げものをするように誘惑し、宗教的にも道徳的にも姦淫を犯させたという事件が起こりました。イスラエルの民は罪を犯して呪われる民になってしまい、神の裁きがくだり、一万三千人の人々が殺されたのです。この中で誰も悔い改めなかったら全部の民が滅ぼされるところでしたが、ピネハスという祭司が奮い立ち、ミデヤン人と交わっている人々をみことばに従って裁いたときに、天罰がやみました。
教会にも、神様に対する純粋な信仰を汚すものが入り込んでくる、もしくは自分の自己中心の願いを達成するための言い訳として、神様のみことばを用いて、他の人々にも同意させ、正当化しようという考えを教会の中に持ち込む人や、教会の中からそのような考えを生み出す人々が現われて来るので、気を付けましょう。これらのことは、自分の自己中心の貪欲から出てくる考えであり、偶像礼拝です。神以外のものに心とらわれていくことが、偶像礼拝です。
(3)<第一コリント10:9> → <民数記21章>
イスラエルの民は、エジプトから出てくる時には食物を沢山持って出てきましたが、当然それらはなくなります。最初に食物や水がなくなった時に、民はつぶやきましたが、神様は裁かれませんでした。当然だからです。神様は天からの食物マナを毎日降らせてくださいました。それは、それだけで健康を維持出来るというすごいものでした。その神様の天的食物をずっと食べている中で、民はつぶやきました。もうこのパンには飽き飽きした、もっと他のものが食べたいと。だから、神様の天罰がやってきて、荒野の毒蛇に民が噛まれて死んでいきました。この時、悔い改めた者達が癒されるために一つの方法が与えられました。旗竿に青銅の蛇を引っ掛けてかかげ、その蛇を見上げたものは癒されるのです。青銅の蛇を見たものは癒されましたが、見ただけで癒されるわけがないとテントの中に留まっていた人たちはそのまま死んでいきました。
神様が与えて下さる救いはに対する信頼を持たなかった人は、自分の考えで自分を滅ぼしていきました。でも、真に悔い改めた人は、神様の救いの原理がどうであろうが、そうなると言われたら単純に信じて、青銅の蛇を見上げたら直ったのです。これはキリストの十字架の予表です。どうして蛇を十字架にかかげられたのでしょう。創世記には、蛇のかしらを打ち砕くと預言されています。それは、私たちを滅ぼすサタンは、キリストの十字架の死によって打ち砕かれ、私たちを永遠の死の恐怖から救い出してくださることを表わしています。民はそれを見上げたときに救われました。
私たちも、神様からの多くの恵みを頂いているのに、今の恵みではつまらない、もっとああしてくれ、これが欲しいと、求めるものが大きくなり、わがままになってきます。私たちは、与えられたもので感謝すべきです。その感謝を忘れて、こうならなかったらもう神様を信じない、というような、横柄な心に変わってしまう、そのような考え方に引き込まれないように、注意しなくてはなりません。その考え方の根本は貪欲です。この貪欲が偶像礼拝を生み出すので気をつけましょう。
(4)<第一コリント10:10> → <民数記16章>
一番大きな神様の怒りにふれたつぶやきです。、コラという祭司アロンの親戚にあたる人々が、どうしてアロンやモーセだけが神様に用いられて、支配者のように私たちに命令するのかと、神様が選んだ指導者に対して不満を言ったことです。このコラの人々は、祭壇から火が出てきて滅ぼされ、又、地面がさけて、生きたまま地獄に行ってしまいました。そのような状況をイスラエルの民は見て、非常に驚き、あくる日、モーセとアロンの所に「お前達は、神様の民を殺した!」と文句を言って来ました。彼等もモーセとアロンに不満を持っていたのです。コラの民が滅ぼされたのを見ていたのに、なおもモーセとアロンに詰め寄って来ました。そのとき、神の神罰がくだり、文句を言った人々が病気で死んでいきました。神が秩序を造られたことがはっきりとわかっているのに、なおも自分の自己中心を実現するために逆らうという態度に対して、神が神罰を下されたのです。
私たちも、神様の成されている御業に対してつぶやくということは、大変な間違いを犯すことになります。神様を動かそうとする欲求、支配されるよりは支配する者になりたいと思うこと、これは大変危険なことです。「弟子たちを自分につけようとする人々が起こってくる」とありますが、神様に心を向けようとするのではなく、自分に心を向けさせようとする、分裂分派をつくろうとする人々が教会の中に起こってきます。この世の価値観や才能を見て宗教をやっているのか、それとも、みことばに書かれてある神様をしっかりと見て、永遠のいのちを全うしようとしているのか、気をつけなくてはなりません。立派な人の仲間になりたい、そうすれば自分の立派になったような気になるから。そういう欲求も一つの貪欲であり、偶像礼拝、神以外のものに心が奪われていく状況を起こしてしまうから、気を付けなさい、とパウロはコリントの教会に語っているのです。
このような4つの例を通して「ですから偶像礼拝を避けなさい。」と、パウロは語っています。これらは、貪欲から来た罪の現われであり、偶像礼拝につながった行為です。すなわち、私たちの内にある何かを達成したいという気持ち、これが行き過ぎると神様の権威や秩序を無視して、自分の願いを優先させようとする状態が、不健全な欲望、貪欲になるのです。創造主なるお方が宇宙の秩序をたてられました。その秩序を超えて、自分の願いを満たそうするとき、それはまことの神以外の神をつくることになり、自分の願望を達成するための別の秩序をたてることになります。だから偶像礼拝なのです。イエス様を信じて聖く正しく生きていこうという気持ちを崩そうとする、いろんな欲求がでてくるでしょう。その欲求をなくしてしまいなさいと言っているのではありません。健全な欲求でおさめておくべきなのです。その基準は、神の秩序に合わせて欲求を満たすなら、罪にならないということです。秩序正しい神の教えの中で、健全な生活をしていくことを神は求めておられます。世の中の多数決の考えに惑わされて、心の目が神様以外のものに向けられてしまうのことないように、気を付けましょう。多数決の考えに惑わされて、心の目が神様以外のものに向けられてしまうのことないように、気を付けましょう。

2002年7月21日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 目 覚 め よ (5)
〜神についての正しい知識を持ちましょう〜
目を覚まして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。わたしはあなた方をはずかしめるために、こう言っているのです。
(第1コリント15:34)
コリントの教会の人々は、神の奇跡や恵みを受けた事で、自分たちの信仰生活が神様の前に100%きよめられていると思い違いをして誇っていました。しかし、実際には道徳的に大変乱れた状態にあり、罪を罪とも思わず自分たちの悪い生活をも正当化してしまうような、盲目の信仰生活を送っていました。
それでパウロは、彼らをはずかしめる為に「目を覚まし正しい生活を送り、罪をやめなさい。」と語ったのです。
なぜ、彼らはクリスチャンなのに神の前に喜ばれない信仰生活を送っていたのでしょうか。それは彼らが神に対する正しい知識を持っていなかったからです。この事を歴史的事実を通して皆さんに理解していただこうと思います。
明智光秀が、主君である織田信長を暗殺した「本能寺の変」をご存じだと思います。
この事件はなぜ起こったのでしょうか。明智光秀は大変すぐれた能力の持ち主だったので、織田信長は彼を非常に信頼して近畿地方の総督として任命し、家臣の中で一番多い六十四万石という広大な領土を与え、さらに中国地区の軍司令官として毛利との戦いでも指揮をとらせるなど、数々の重要な場面で重宝に用いていました。
しかし、途中から織田信長が豊臣秀吉を家来にして奇想天外な発想をする秀吉を用いだして、百姓出身の彼が異例な出世をしてきた事に嫉妬し、本当はNO、2の存在として光秀の事を高く評価し信頼し続けている信長の本心に目を留めないで、秀吉の用い方を見て表面的な部分にのみ心奪われて、光秀は信長に対する正しい知識を捨ててしまったのです。
「本能寺の変」は、正しい知識を捨てたがゆえに間違った決断をしてしまった結果、引き起こされた事件でした。
私たちが光秀のように、主君(=神様)に対して間違った決断を下さないで神を信頼し喜んで従う為に、神についての正しい知識を 3つのポイントから見ていきたいと思います。
1.神は愛です
〜私たちの存在を価値づけてくださる方〜(1ヨハネ4:16)
ヨハネはイエス様が十字架に架かられる時、イエス様亡き後の母マリアの世話を直接託されたほどにイエス様の一番身近にいたと言われる弟子ですが、その彼が語っている言葉です。
私たちは罪人でありそのままでは何の価値も無い者ですが、神の愛が注がれているので、価値ある者として生かされています。
私たちの人生に何が起こったとしても、価値無き者を価値ある者として愛してくださっているすばらしい神の愛を私たちは知っているのですから、それを信じ続けることが大切だと説いています。
2.神はすべての事を働かせて益としてくださる(ローマ8:28)
私たちは人生において、様々な苦しみ悲しみ理不尽な事に出会いますが、神を信じるならば神がすべてのことを働かせて益と変えてくださるのです。
先日、上原令子さんがコンサートの中で証しされました。彼女はアメリカ人の父親とのあいだにハーフとして生まれ、しかも父親の事は全く知らず、産んでくれたお母さんも生後4ヶ月の時に彼女を里子に出しました。彼女はその生い立ちのゆえに友達にいじめられ、ずいぶん荒れた生活をされた時期もあるようですがイエス様に出会い神様は良い方であるという正しい知識を得たことにより、産んでくれたお母さんに出会ったときに「わたしを産んでくださってありがとう。」と心から告白することができたのです。
ジグソーパズルの一つ一つのピースが合わさって、一つの完全な形を作り上げるように、私たちの人生に起こる一つ一つの出来事がすべて合わさって一人の人の人生を完成するので、神様は良き神様であると信じ続けるならば何一つ無駄なものはないのです。
3.神は天地の主であって、善悪をさばく方である(使徒17:24、31)
この世は正しい人たちの行為がなかなか認められなくて悪がはびこり、ずるがしこく生きる人の方が用いられ成功しているように見えることがあり、時として善を行うことをむなしいと感じてしまうことがあるかもしれません。
しかし、天地を創られた神が正しい裁きをされる最後の審判の時がやってくるのです。
この世のすべての罪が神の前で明らかにされて、罪を犯しても悔い改めをしない人たちが全て滅ぼされるのです。その事のゆえに私たちは信仰を持ち続けることができ、あくまでも神の前に悪であることには同意しない勇気を持つことができます。
神に対する正しい知識をしっかり持って、神の子としての歩みを確立して参りましょう。
そうする事によって決して眠ることがありません。
以上の三つのポイントをしっかり心に念じて信じ続ける事により、全能なる神に希望をもち、つらい事、失望や落胆をり越える力を得ることができると信じます。

2002年7月14日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 目 覚 め よ (4)
〜サタンの餌食にならないために〜
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
(第一ペテロ5:8)
今「目を覚ます」ということでシリーズでお話しさせていただいています。今日は、第4回目『目を覚ましていなさい』ー目を覚まし続けていることがどうして必要なのかーについて考えていきましょう。第一ペテロ5:8では、『サタンはほえたけるししのように食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っています』とあります。ペテロはサタンを、ライオンがえさを求めている状況に例えています。その事を通して私たちはサタンがどのように私たちを餌食にしようとしているのかを知ることができます。「ほえたけるしし」とは、えものを求めている姿を現しています。
自然界でライオンたちがどのように獲物を捕るかということを考えてみたら、私たちがサタンに狙われている状況に当てはめることが出来るんです。
ライオンは遠くから全体を見回して、ある一点に的を絞ります。そして草むらに隠れて、チャンスをうかがい、一匹に的を絞ったら、他のものには決して目をうばわれず、決めたものを最後まで追いかけて餌食にします。これが、ライオンの習性です。
あなたが悪魔に餌食として狙われたら、逃げることができない状態になるということです。サタンは、狙ったら必ず獲得するという考えを持っているということです。
では、サタンはどういう理由で私たちを餌食として決定するのかを見ていきましょう。
『怠惰は、人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。』
<箴言19:15>
自分のたましいを育て、養うことに対して怠惰な人は、霊的に深い眠りに陥って、サタンの餌食になるということです。霊的に眠るということは神を敬う心が薄れるということで、神の国に対する意識が薄れていくことなんですね。私たちのたましいは、神の国に生きるということが、私たちのたましいの生き方であります。アーメン。現実はこの世界に生きているけど、たましいは神の世界に生きているんですね。たましいを養うとは、神の国に生き続けることを意識している人です。それが無くなっていく人は肉に生きるようになり、肉を養うことだけに意識が向けられます。肉を養うとは、この世だけで生きていくということです。すなわち、永遠に対する意識が全く無くなってしまう。この世が全てだから、神の裁きがあるなんて考えられなくて、良い事、悪い事を区別しなくても、適当にうまいこと生きて、ある程度幸せに、成功した生き方ができればいい、というような考え方が出てくるわけです。これは、この世的な生き方です。
しかし、神の国に生きる者は、神の子として、神から与えられた環境の中で、どう生きるかが問われるわけです。神が与えられた能力、才能、地位、名誉、富を、あなたはどう用いていくかを考えていただいたら、輝いた人生を送ることが出来ると思うんですね。
今あなたに与えられた環境は、あなたのたましいが、キリストのような素晴らしい品性と人格に到達するために神が与えられた最善のものなのです。神の国と、その義を第一に求める心を怠けさせる、怠惰な生活が、サタンの餌食となる条件だということです。
今、日本の経済は不況の中にあります。経済には、地上経済と地下経済がありまして、地上経済は、公に税務署に届けをし、きちんと経済報告をしたお金の流れですが、地下経済とは、公にできないお金の流れです。それは、脱税、麻薬取引によるお金、風俗関係、わいろなどのお金の流れです。この地下経済が、地上経済を支えている部分があると言われています。具体的に言いますと、例えば、援助交際(お金をもらって男性とお付き合いすること)が、女子中・高生の中で増え広がっていると言われています。東京都内で、公共機関が調査したアンケートによりますと、援助交際の経験のある女子中・高生が、17万人いるということです。なぜでしょうか? その中・高生は、お金が必要な状態にあるということです。携帯電話のシェアは、10代の人々が最も多いそうです。最近の携帯電話は、カメラ付きのものや、インターネットを通して好きな曲や写真を取り込める機能もあり、料金を考えず使う学生達は、請求書が来てびっくりすることになります。親に出してやれる額ではありません。親に出してもらえないとなると、自分で稼ぐことになり、ついつい稼ぎのいい仕事に誘惑されていく。援助交際をしている学生達のアンケートでは、全国平均、一回で稼ぐ額は、5〜6万だそうです。これはもう普通のおつき合いではないわけです。この援助交際による一年間の市場流通金額は、低く見積もっても500〜600億円と言われています。このお金が、NTTやDDIや高級ブランドブティックなどの地上経済を支えているわけです。
政治家がわいろを取ったり、暴力団が麻薬などで得たお金は、高級ナイトクラブで、一日に200〜300万使うわけですね。そのお金は、酒の会社や、クラブの女性達が洋服を買いに行くブティックなどに流れていき、その業者がそのお金で潤っているわけです。この地下経済から出て、地上経済に流れているお金は一年間で、なんと23兆円だそうです。国家の一年間の予算が90兆円くらいですから、ものすごい影響力を持っているわけです。だから道徳的には悪いとわかっていても取り締まりが徹底できない、結局は自分の給料に関わっているという可能性も秘めており、警察も見て見ぬふりをする、といった矛盾が起こります。そういう世界の中で、サタンは餌食にする人々を捜しているのです。
サタンは、そんな世界の中で、まじめに生きることにむなしくなり、怠惰な生活へとおちていくクリスチャンをも餌食にしようと待ちかまえています。2度と悔い改めることのできない、罪のどろ沼の中に引き込もうと、あなたはサタンに狙われています。
だから、私たちはどうしたら良いのでしょうか?
ヘブル章12:2〜3をお読みしましょう。
『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』
わたしたちが、闇の世界の価値観に流されて、眠ってしまわないように、イエス・キリストをいつも見上げていなさいというのです。
イエス様はよみがえられて、天に昇られたので、現実に見ることは出来ません。イエス・キリストを見るということは、神のみことばにいつも関心を持つということです。イエスは神の言葉である、言葉は神であった(キリストであった)と書かれています。神のみことばをいつも私たちの心を見分けるための基準としなさい、ということです。みことばが私たちの人生の土台である、基準である、支えである。その土台の上に立った信仰生活、それがイエスに目を注ぐということですね。
私たちは、一人だけだと疲れてしまいます。会社で、クリスチャンとしての良い証しをしようと、まじめに働き、良い事を続けたとしても、人に認めてもらいたいという気持ちがあったら、やがてむなしさがやって来ます。善い事をし続ける秘訣は、自分が神の国に生きる者として、たましいを冷静に保っていくために、周囲の環境に気を配り、自分の奉仕することで、少しでも人々の気持ちが安らぎ、良い人間関係ができていくために、と考えてすることです。みことばからはずれた価値観を持ち始めるとき、、むなしくなって、いやになって、それが、クリスチャンとしてまじめに生きることに疲れてしまうところまでいってしまうのです。そうなったら、サタンの餌食として狙われてしまいます。そうならないために私たちは、神のみことばを瞑想する、黙想することが必要です。みことばはイエス様ですから、みことばを瞑想することは、イエス様と交わることです。皆さんにお渡ししている月一度のデボーションノートですが、決して難しいと思わないで下さい。読んだ箇所と、私の言っている質問とを黙想して下さい。何とか考えて、心の中に何か浮かびあがらせてください。それが神との交わりです。毎日することはつらいかも知れない。毎日出来なくてもいい。でも、定期的に神の前にみことばを黙想して、心の中をみことばで洗い聖めていただく。そんなひと時を持つように心がけて欲しいと思いますね。アーメン。それが、イエスから目を離さないこと、それが、怠惰に陥らないこと、怠惰にならないことは、悪魔の餌食にならないということです。アーメン。
<お祈り>
天のお父様。私たちは、ひとつひとつの神のお言葉を聞いている時に、つらいなあ、しんどいなあ、いやだなあ、この暑さの中で、責められるようなお言葉を聞いて、余計に心が疲れてしまう。そんなことさえ感じてしまう愚かなところがあります。もしそのような状態にあるならば、すでにその人のたましいは目がふさがれ、眠りの中に入りかけているのかも知れません。どうぞ、私たちはこの世で人生を全うするのではなく、永遠という人生の中の、ほんのひと時である地上の人生を送っているにしか過ぎません。その永遠の人生の土台となるのが、この地上での人生です。神の国で生きるその生き方をこの地上で実践するために、私たちをきたえる神のお考えをもって、おひとりびとりの人生が与えられています。どうか、サタンの餌食になることのないために、今日ひとりびとりの心に御霊様とみことばによって語りかけて下さった事を信じますから、ひとりひとりが良く反省し、自分を省みて、眠った状態から目覚めることができ、目を覚まし続ける歩みへと導かれていきますように、尊き主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

2002年7月7日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
●
SORRY,NOW READY... (v _ v) ...
ただいま準備中です。
