2002年6月30日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦 主任牧師)
● 目 覚 め よ (2)
 〜たゆみなく祈る〜
目をさまして、感謝をもってたゆみなく祈りなさい。
コロサイ4:2


 
先週から目を覚ますことについて語っていますが、このことを数回にわけてお話ししていこうと思っています。
 目覚めよ。世の終わりがくる前に。私達の人生の終わりも、突如としてやってきます。ある程度予測できることもありますが、感心を持っていない人にとっては突然のことに思えるのです。聖書の言う世の終わりとは、神の裁きの時でありその時各々の行いに応じて報いを与えられるのだから目覚めていなさい、と言うのが先週のポイントでした。
 一般的に「起きなさい」と言われるのはどのような時でしょうか。
・起きるべき時に起きていない…仕事中や学生なら授業中
・緊急な出来事がおこった場合…火事等の危険が迫った時
・何かをしている途中…運転中や集中力のいる作業をしている時
 などの状況があります。
 
 今日は、なぜ目を覚ませと言われるのか、神が私達に目を覚ますようにと与えておられる忠告を聖書から見てゆきましょう。

〈誘惑に陥らないように祈る〉(マタイ14:38)
 このことばは、イエス様が十字架に架かる前夜に語られました。この日は過ぎ越しの祭りという、イスラエルの民がエジプトの奴隷生活から神によって救い出されたことを記念して行われる祭りの夜でした。イエス様は、ご自身が過ぎこしのいけにえの子羊のように、明日は全人類の罪の身替わりとして十字架にかかるという神の御計画の実行を目前にして、ゲッセマネの園で心を注いで祈られました。弟子たちは、今がどのような時かを感じつつも疲れ果て眠りこけていました。戻って来られたイエス様が、そんな弟子たちを見て語られたのが38節のみことばです。イエス様は、どのようなお気持ちで語られたのでしょうか。「わたしはあなた方の為に苦しみを受けようとしているのに、なんで眠っているのか!」と怒りを向けて眠っていることを注意されたのでしょうか。イエス様はそんな方ではありません。
 眠り込んでいる弟子たちに「誘惑に陥らないように…」と、眠気に耐えきれず寝てしまうことは大変な状況をもたらすのだということを忠告されたのです。
 聖書で言う誘惑とは、罪の誘惑、サタンの誘惑を意味します。誘惑とは、正しい者を悪い方向へ誘い込み悪を行わせることです。まるで、眠気にあらがいきれずに引き込まれてしまうような状態に似ています。
 だから「目を覚まして誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われたです。これは弟子たちを通して、後にこのことを聞く私たちへの教訓として与えられているのです。心が燃えていても肉体は弱く誘惑に陥ることがあるのです。クリスチャンとして信仰に燃え、神からいただいたビジョンや、人生の目標に向けて歩んで行こうとしている人であっても睡魔には勝てません。罪の誘惑に対して備えをしていなければ、いつのまにか眠ってしまいます。
 肉体の弱さとは、肉体の限界のことでしょうか。誘惑に対しての肉体の弱さとは、肉体に宿っている罪ゆえの弱さです。誘惑がやってくると私たちの内にある罪が働きはじめます。
 あの木の実を食べてはいけません、人をさばいてはいけませんといわれる時、欲望が押さえきれなくなり神の教えに反発しはじめます。ダメだと言われれば言われる程かえってそれを達成したい、欲望を満たしたいという強い思いが貪欲となるのです。これが私たちの内に働く罪が引き起こす状況です。クリスチャンであっても、肉体は誘惑に弱いということを知っておかなければなりません。肉体には様々な欲望がありますが、健全な欲望は自制心と摂生をもって保たれます。しかし、その基準を超えた時に貪欲という罪の領域に入ります。このような罪の誘惑に陥らないために「祈っていなさい」とイエス様は言われたのです。
 では、目覚めることと祈りにはどのような関係があるのでしょう。

〈祈りによって目を覚ます〉
1.意志的に心を神に向ける(マタイ6:6)

 私たちが祈る時、祈ろうという意志を働かせなければ祈ることはできません。6節でイエス様は、祈る時には奥まった部屋で祈りなさいと教えておられます。すなわち、祈りに集中できる環境を作り意識的に心を神に向けることが必要だということです。これは神との交信を始めることであり、その手段が祈りなのです。
 使徒8:18〜24の出来事をみるとこの事がわかります。シモンという人が神の賜物をお金で買えるものと勘違いして、ペテロにこの賜物を願いました。彼の心構えは間違っていましたので、その間違いをゆるしてもらうために主に祈りなさい(交信をもちなさい)とペテロは戒めました。しかしシモンは、あなた方から言ってもらったほうが効果がありますから私の替わりに祈って下さいと頼んだという出来事です。
 このように祈りは神との関係をつなぐ手段です。
 ここで皆さんに一つ注意としてお話しておきたいことがあります。クリスチャンはイエス・キリストという神に向かって祈りますが、祈りそのものはどの宗教にもあるものです。見えない世界(霊界)に対して手をさしのべて霊の世界に存在するものと交信する方法が祈りなのです。
 ですから、交信すべき相手と正しくチャンネルを合わせなければ大変な罪を犯してしまうこともあり得るのです。黙想や瞑想は霊の世界に心を開くことでり、そこには天使やサタン等いろいろな霊的存在者がおり、あなたに語りかける可能性がいつもあります。神からの働きかけかそれ以外のものからの働きかけなのか、間違わないように私たちは常に心を守っておかなければなりません。
 ですから、「イエスキ・リストの名によって祈る」ことはとても大切なことなのです。神との交信・交わりによって心が目覚めていることができます。つながりを持ち続けることによって、善悪を見分けもできるわけです。

2.意識的に神の前に出る(マタイ6:9)
 これは主の祈りの最初の部分です。目の前に父なる神がおられるがごとくはっきりと意識するのです。神を目の前に置く時、私たちは眠りこけることはありません。私たちの肉体が罪に弱くても、罪に打ち勝つ神イエ・スキリストが罪の誘惑とという眠気を追い払ってくださいます。

3.神とのつきあい(1コリ15:33)
 神と交信し、意識的に目の前に置いて、親しいつきあいがはじまります。つきあいが始まると私たちはつきあう相手から影響されます。あなたと関わりをもつ人とあなたとは、お互いに影響を与えあう関係なのです。友だちが良ければ相手の良い習慣が自然に身に着きます。つきあう相手が悪ければ悪い価値観が身に着いてしまうでしょう。多くの時間を神様とのおつきあいである祈りにあてるなら、良き神様から良い影響を受け目覚めることにつながるのです。このように、目を覚まして感謝をもってたゆみなく祈ることが大切です。

〈熱心になることへの反発がある場合〉
 世の中の人は熱心すぎることは危険だと思っています。熱心さがなぜ自爆テロなどという問題を起こしてしまうのでしょうか。そのような人は、一体どんな神と交わっているのでしょうか。
 良き神と交わり熱心になればなるほど、私たちにはキリストのような素晴らしさが身についてくるはずです。すると良い実があなたの生活の中にあらわれてきますし、敵を愛するまでになれるのですから熱心になることは大切です。
 もしあなたが、イエス・キリストに祈っているといいながらも、自分の心の中にある「欲望」という神に祈り願いを実現しようとするならば、そこには人をさばいて傷つけたり憎しみや復讐心などが出てくるでしょう。
 人からいろいろな事を言われたとしても、良き神とおつきあいをしているなら「神は私の事を理解してくださっているのだから満足だ。争わなくてもいいのだ。」と否定的な気持ちを抱くことなく、神から慰められ癒されて楽になるはずです。しかしそうならないとしたら、あなたは誰に向かって祈っているのでしょうか。
 祈りは熱心なクリスチャンの信仰の姿勢ですが、祈っても願い通りにならないと反発している人は自分の欲望を神として祈っていながら、良き神が自分の欲望を満たしてくれないとつぶやいているのです。
 悔い改めなければなりません。眠ってしまい誘惑に陥って罪とともに滅ぼされないために。
熱心になることへの反発は危険です。強いられての形だけの祈りや貪欲という自分の神にではなく、救い主イエス様に向かって「私の心を守ってください」と祈りましょう。このような祈りが目覚めた者の祈りです。
祈りは目覚めていることのしるしなのです。



 
2002年6月23日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦 主任牧師)
● 目 覚 め よ (1)
 〜世の終わりが来る前に〜


 この手紙は、神がパウロを通してコリントの教会に与えられたメッセージです。大変厳しいことばで書かれています。
 パウロは「わたしはあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。」と書いてあるように、そこまで言わないと目を覚ませないほど、彼らは眠った信仰生活を送っていたと言えます。彼らは「罪がゆるされる」という福音を、自分勝手に解釈して、平気で罪を犯すようなクリスチャン生活を送っていました。
 こういう人々を、パウロは「眠った人々」と呼んでいます。
 日本は道徳的水準が高く、治安が保たれている国ですが、それは建て前で、誰も知らない所では、平気で悪いことをしたりしています。
 クリスチャンにもそのように、建て前と中身が違っている人々がいるのではないでしょうか。

<眠った状態とは>
 意識がなく無感覚です。
 意識がない……自分というものがわからない。意見がない。多数決に左右されたり、強い意見の人にふりまわされる
 もし、あなたの信仰生活が、多数決に左右され、強い意見の人にふりまわされたり、周りばかり意識して、クリスチャンが何者かわからない状態であるなら、その人は眠った状態です。
 クリスチャンとは何者でしょうか。自分なりにクリスチャンとしての自覚がなく他人ごとのように考えているなら、やはり眠った状態です。
 自分は何者であるかという意識をはっきりと持てば、その意識に従った生き方をしてゆきます。
 どういう時に人は眠くなり、どういう時に眠くならないのでしょうか。それは私たちの関心があるかないかによります。
 クリスチャンであることに関心がなかったら、私たちは眠ってゆきます。
 そして無感覚になってゆきます。
 無感覚……見分けられない。わきまえられない。判断ができない。
 つまり、クリスチャンとして、良いこと、悪いことの判断ができなくなってゆきます。特に若い人々が、「どこが悪いの?」「どうしてやったらいけないの?」と言い始めるなら、その人は罪に対して全く無感覚になっている証拠です。
 眠っている時には、たとえゴキブリが顔の上を這い回っても気づかないように、私たちの心が眠った状態であるなら、罪に対して何とも思わなくなってしまいます。さわっていても汚いとも思わなくなります。
 先日、7、8人の高校生が高1の少年を二時間にわたって暴行をし殺してしまいました。彼らの言い分は、彼が千円を返さなかったからと言うことです。彼らは殴られて死んだようになっている少年を平気で公園に置き去りにして去ったのです。罪に対して無感覚になるなら、殺人も平気になるでしょう。
 もしクリスチャンも、みんながやっているからと同じようなことをし、自分がクリスチャンであるということに無感覚であるなら、恐ろしいことです。
 しかし眠っている状態で、知らず知らずのうちに罪を犯してしまっていたのならば、目覚めることができます。
 けれども起きている状態で罪を犯しつづけるなら、もはやそこから目覚めることはあり得ません。
 コリントの人々は、神への知識の不足から、知らず知らずのうちに、罪を犯していました。

<眠りつづけた後の結末>
 (マタイ24:34〜51)42節に「だから目を覚ましていなさい」とあります。これは、世の終わりがやって来るからと、イエス様が言われたことばです。
 聖書でいう世の終わりとは、「神のさばきの時」のことです。
 神は地上のすべての罪をさばく時を定めておられます。それは、ノアの箱舟の時のように、突如としてやってきます。しかしノアだけは突如としてではなく、神によって前もって教えられ、準備ができていました。
 しかし周りの人々にとっては、ノアがどんなに言っても信じなかったので、大洪水は突如としてやってきたのです。
 クリスチャンも眠っているなら、世の終わりは突如としてやってきます。
 自分の罪はまだまださばかれないと、安易に罪を犯しつづけているなら、その結末は悪いしもべとして、歯ぎしりして悔しがるような結末になるのです。
 忠実なしもべは、いつ主人が帰ってきてもいいように、きちんと仕事をしている人で、悪いしもべとは、主人はいつ帰るのかわからないからと自分の権威を利用して、自分の貪欲を満たすような人です。この二人のしもべの結末は、忠実なしもべは主人の全財産が任され、悪いしもべは厳しい罰、偽善者のようなさばきが与えられて、泣いて歯ぎしりするような結末となります。
 起きているのに歯ぎしりするとは、よほど悔しくてうらめしい時です。
 自分が悪いことをしているのに、突然主人が帰ってきたことにうらみを持つのです。
 たとえ、世の終わりが来なくても、突如としてあなた自身がこの世から去るということがあるなら、その時にはもう悔い改めるチャンスはありません。
 やり直すチャンスがなくなるのです。つまり、クリスチャンでも、眠っている状態であるならば、ノンクリスチャンと同じように、滅びるということです。
 それゆえ、目覚めていることが大切です。
 私たちは時々、周りのクリスチャンの言動をさばいてしまうことがあります。それは自分の理に、相手がかなっていないと判断するからです。しかし、私たちにはそのように相手をさばき、強制する権利はありません。
 それができるのは神様のみです。
 忠告することは必要です。本当の忠告とは、相手のクリスチャンが眠ったまま滅んでしまうということを悲しみ、それゆえに注意と叱責を与えることです。これが動機です。
 自分の理にかなわないことに対し怒りをぶつける叱責の仕方と、その人が滅んでしまわないようにという愛とあわれみを持ってする叱責とでは、相手の受ける傷は全く異なります。
 人から傷つけられるとは、強いられ、従わせられるというところからくる痛みです。こういう傷はいやされないとなりません。
 私たちは、神の愛に何とかして答えたい、報いたいという心で、クリスチャン生活を送ることが、目覚めた生き方です。
 あなたのクリスチャン生活は、忠実なしもべでしょうか。それとも、まだ、大丈夫と罪を犯すことに平気で油断している悪いしもべでしょうか。
 どちらもあるかもしれません。もしそうであるなら、悪いしもべの状態の時に病気になったり事故をおこさないよう気をつけないとなりません。もし、そこで死んでしまったら、それで決定なのです。
 それではあまりに残念ではないでしょうか。

<心の目標>
 (1テモテ1:5)「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を、目標としています。」
 私たちの心を、このみことばの目標に定めましょう。この愛を目標にして、眠らない、正しい目覚めた信仰生活を送りましょう。
 自分の志を、闇の世界を歩んでいる99%の人々に合わせないようにしましょう。
 イエス・キリストを神が人となられた唯一の神であると信じている私たちが目覚めて生きることによって、人々は神を知るようになります。
 今、目覚めましょう。




 

2002年6月16日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦 主任牧師)
● 神の国のサポーター
 〜御国が来ますように〜
だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。』
マタイ6:9,10


 サッカーのワールドカップで日本がベスト16に入り、日本中が盛り上がっています。サッカーでは応援する人たちを、補助する人、選手たちの志気を高め、力を与える者という意味で“サポーター”といいます。数年前までの日本のサッカーは技術がまだ未熟であまり面白くありませんでしたが、ワールドカップの試合を見ると技術が高く、見ているだけで楽しむことができます。
 今までサッカーに関心のなかった人までも関心を持ち、勝ち負けが気になるのはどうしてでしょう。それは、日本の国を代表したチームが出ている、という「つながり」を知ったときに、関心を持ち、応援するようになるのです。
 例えば、チュニジア戦で、一点目を入れたのは、広島県出身の森島選手です。それだけで、同じ県人という共通点を感じると、それはすごい!と関心を持つのです。私たちは、何らかの自分とのつながりを知り、感じると、関心を持つようになります。

<神の国のサポーターとして>
 今日は、『御国が来ますように。』というところから、もっと私たちは御国に関心を持ち、御国のために、という志を強く意識し、連帯感を持ってこのみことばの実現に協力していくことに心を燃やしていきたいと思います。あなたは、神の国のサポーターです。この言葉に納得できる人は、神の国と自分とのつながりを意識できている人です。私たちは、神の国の盛り立て役です。キリストの証し者とはそういう意味です。
  神様をどうして私たちが応援するのでしょう。賛美は応援と一緒で、神様を盛り立てることです。神様は、ただ賛美を聞いておられるだけでなく、立って、事を行なわれる方です。神様は、お互い気持ちの通じ合う関係の中で、永遠という世界を造り上げようとされているのです。
 サッカーの選手達は、サポーターがどれだけ歓声をあげて応援してくれるかで、励みとやる気が違ってきます。応援する人と連帯感を持って一つとなれるのです。サポーターも、試合をしていなくても、自分たちが勝利したような気持ちになれるのです。それはつながりがあるからです。
 私たちが人生に勝利するということで、聖書はイエス様が勝利してくださったと言っています。主が勝利をしてくださったから、私たちは勝利者です!といいますが、あまりピンと来ないのはなぜかというと、連帯感がないからです。イエス様は試合をしている選手で、私たちはサポーターです。イエス様が勝った!死からよみがえった!最高!と言えるのは、私は試合をしていないけど、イエス様と同じチームだという共通性とつながりがあるから、応援をすることによって同じ勝利を味わい、喜ぶことができるのです。
 もし、私たちがサッカーの相手チームと戦っても勝てるはずがありません。しかし代表の選手が代わりに戦って勝ってくれました。それと同じように、イエス様は、私たちに代わって戦って勝ってくださいました。私たちが戦えば負けるのはわかっています。死の力、罪の誘惑に対して弱い者です。でも、イエス様が戦ってくだされば、勝てる!それで、喜ぶことができるのです。この勝利をもたらしてくださる、イエスを死からよみがえらせた聖霊が、信じる私たちのうちのおられるのです。あなたが戦うのではありません。内なる聖霊様が戦ってくださるのです。
 では、私たちは何をしたらいいのですか?
 応援したらいいのです。
 私たちのために戦って下さっているのにあなたが無関心なら、聖霊様は悩まれます。人格者は人格者との交わりによって、心が強くも弱くもなります。その交わりによってその人の能力が引き出され、その逆はふたをされてしまいます。良い人と良い交わりをするとあなたの能力は引き出されます。内なる聖霊様と、連帯感を持って人生を送っていくなら、私たちは楽しくてしょうがないのです。あのサポータ−たちのように。応援していただいた聖霊様は人格者なので、私たちのために罪の誘惑を断ち切って、勝利をもたらしてくださいます。私たちが「やったー!今日も罪に勝利できたー!」と喜ぶなら、聖霊様はとても感激されるのです。感謝と勝利の叫びをもって、サポーターとしてもっと声援を送ったら、神様は喜ばれるお方です。喜びは解放をもたらします。全能の神の力が引き出されて、ますますやる気をおこされ、私たちが思いもよらないようなことまでもして下さる、それが神様です。
 ワールドカップで日本中が沸き立っている状態はとてもいいことです。人々はこの暗い世の中で純粋に勝利を喜んで、それを様々な形で表現しています。たくさんの人が道頓堀に飛び込みました。イエス様があなたのために十字架にかかって死なれ、死を滅ぼすためによみがえられた!と言って、私たちも川に飛び込んでもいいくらい、それ以上にものすごいことです。そのくらい喜びましょう。神様は喜ばれ、もっともっと私たちの心に、家庭に、地域に、会社に、御国を広めてくださるのです。私たちが御国を喜ばなければ、神様もやる気がでません。
 信仰生活は戦いです。その最前線で戦って下さるのが、神の御霊です。その方が、私たちの人生の道を先導して下さっている助け主です。その方をバックアップし、サポートし、してくださったことに対してもっと喜んでお祝し、聖霊様がもっとその働きを大きくしてくださるように、私たちが応援するのです。賛美し、主を喜ぶことは、あなたの力ですというのは、そういう意味です。
 また、私たちはそれぞれにつながりをもっていることを決して忘れないでください。御国が来るように、という同じ信念を持って、協力し合っていく人生ということを覚えてください。
 あなたがどんな立場であろうと、どんな種類の仕事をしていようと、神様は、あなたを通して御国が来ますようにと祈るように、あなたのもとに御国が存在して、その御国によって世界の人々が本当に幸せになるようにと神が願っておられるのです。

<私たちの共通の本音>
「御国が来ますように」のあとに、「日ごとの糧を今日もお与えください」と、私たちの生活のために祈ることをあげておられます。この世の人々なら、御国の前にまず今日の食物を、経済の安定を求めます。それから御国が来ますようにと。そのように祈りたくなる人もいると思います。経済の安定を求める理由は、平安で、いきいきとした、幸せな生活を求める心があるからです。しかし、神様は御国のことを先に言われました。それは、私たちの本音は、「御国が来ますように!」だからです。お金が本当の幸せをもたらすのではありません。
 (ローマ14:17)で、神の国は、飲み食いにはよらないで、義と平和と聖霊による喜びであるとあります。経済によって、飲み食いは満たされていきます。ある人は、いい家に住み、いい物を着、いい物を食べ、いい環境の中に住むことが幸せだと思っています。しかし、幸せは環境によってもたらされるものではなく、心の中で感じ取るものです。この幸せを「神の国」という言葉で聖書は表しています。「神の国」は、人間の思う一番の理想の国、ユートピアです。私たちの本心は、この矛盾した世の中で、もっと理想的な、神の国の実現を願っています。本当の幸せの条件は、「義と平安と喜び」です。この3つが私たちの内にあると、私たちは幸せ感を持つことができます。
 一切れのパンしかない家族であっても、秩序が守られ平安であるなら、高級な肉を食べる家族の中で争いがあるなら、一切れのパンの方が幸せであると箴言は言っています。
 義とは、神が認められる秩序です。それが平安と喜びをもたらすのです。この神の国の実現のために、クリスチャンはこの地上にいるのです。あなたの心に、教会に、家庭に、会社に、地域に、この義と平和と聖霊による喜びの、神の国がきますように。これが私たちの人生の目的です。私たちの能力も才能も全て、御国がこの地に来るために用いられるものです。この共通性をもって、私たちはお互いにサポートし合うのです。全て、神の国の実現のために、前向きに考えれる力を与えられるのです。

<御国に入る素晴らしさ>(マルコ9:43〜47)
 このみことばは、神の国とあなたとの関連性の大切さを言っています。神の国に入る条件のじゃまをする、片目、片手、片足があったとするなら、それを切り捨ててでも、神の国に入るほうが、あなたにとっては大切なものであるということです。
 私たちはサポーターとして、神の国の素晴らしさを、とどめておけない感激をもっと大胆にあらわしていきましょう。一番困難なわざをイエス様がして下さいました。あとは私たちは応援していくだけです。神の国が来るために、この私たちの人生を神の御前に差し出しましょう。やりがいがあります。あなたのためだけではなく、全ての人の幸せにつながるこの信念を持って、一緒に与えられた人生を進んで行きましょう。




 

2002年6月9日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦 主任牧師)
● 


SORRY,NOW READY... (v _ v) ...
ただいま準備中です。





















 

2002年6月2日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦 主任牧師)
● 闇のわざを打ち捨てる
あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
ローマ13:11〜14


 ローマ人への手紙は、約1900年前にパウロが神に啓示された内容を、ローマの教会にあてて書いたものです。そしてこの内容は、今の私たちにも語られています。
 「眠る」とは、正しいことを行わず、罪を行っていることを表わしており、「夜」は、罪の生活を示しています。
 今日、私たちは「眠りからさめるべき時刻」、罪を捨てて昼間の正しい生活を送るべき時が来ているので、暗闇のわざを一つでも捨てるよう勧められています。

<闇のわざを捨てる理由>
^闇が滅ぼされる時が近づいている
_救いが近づいている→永遠の神の国に入る時が近づいている
`今の時代は、神のさばきの時が近づいている
 神はご自身の怒りを実行する時を、「怒りの鉢が一杯になる時」と語られてきましたが、この鉢がいっぱいになるほどに罪が満ちた時、神のさばきが下されます。
<今日、罪が満ちてきている様子>
 約10年前(1994年)に、アメリカで一日に行われている事柄を、あるクリスチャン団体が調査しました。日本は、アメリカで行われていることが10年後に行われるようになるといわれています。(そろそろ10年経つ頃です)

〜1日で行われていること〜
・1000人の10代の女の子が未婚の母になっている
・1106人の10代の子が中絶している
・4209人の10代の男女が性病に感染している
・500人の青年が麻薬をはじめている
・1000人の青年が初めてお酒を飲みはじめている
・13万5千人の子どもたちが武器をもって学校に行っている
・3610人の10代の男女が暴行されている
・その内80人の女の子がレイプされている
・6人が自殺している

 これらは明らかにされた分だけです。隠れて行われているものを入れると倍くらいになるでしょう。こういったことは日本でも行われています。人々が気付かないうちに、闇のわざは隠れて行われているのです。親も知らないうちにです。
 今の若者たちは道徳的基準を持てないほどに良心が麻痺しているのです。

<例>あるクリスチャンホームで起きた事です。母親が買い物から帰り、10代の娘の部屋を除くと、男の子が娘と一緒にベッドに入っていました。母親の悲鳴で男の子は逃げ去りましたが、娘は開き直り「愛し合っているならなぜ悪いの?」と母親に突っかかってきました。その時母親は何も答えることができなかったのです。あなたならどう答えますか?
 どこがおかしいのでしょうか。私たち大人は道徳的に悪いという感覚をもっているのに、子どもの世代にはそういう考えすらありません。それは親が正しく基準を教えることができてなかったからです。そして罪を犯してもとがめすら持たない、善悪の基準ができないほど世の中に罪が満ちあふれています。

<経済の破綻>

 今日、世界的大恐慌が日本から始まろうとしています。日本人一人一人が(赤ちゃんからお年寄りまで)500万円ほどの借金を持っているといわれています。国と地方公共団体の赤字総額は、少なく見積もっても、800兆円といわれています。1日に100億のローンをくみ(毎月3000億円のローン)をくんで、この800兆円の借金は何年で返せると思いますか?灼く220年かかるのです。これはもう返せないということです。
 そしてこういう赤字の国のお札を私たちは持っています。確かに国はお札を刷りさえすれば国民が使ってくれます。しかし、それを始めると信用がなくなってゆき、世界で円安が起こり、輸入食品、原料がすべて値上げし、円では買えないのでドルで買うようになります。(しかし日本にドルは約100兆円しかありません)石油がちょっと上がっただけでも、ガソリンはこの6月から100円を越えるようになってしまいました。いつ国が倒れ、超インフレがおきてもおかしくない時代なのです。今トルコで1年間に80%〜100%のインフレが起きています。それは1万円が10年後に10円の価値になってしまうということです。
 今、日本はデフレの限界に来ています。これがつぶれると円に価値がなくなってしまい、世界中の日本企業がつぶれはじめます。そうなると、世界に不況が及んでゆくのです。まるで第2次世界大戦前のドイツと同じ状態になるといわれています。ドイツでは1年に1兆%のインフレがおき、1ドル4.2マルクが4兆24マルクになったのです。1ドル130円が130兆円になるということです。誰も何も買えなくなります。2010年には日本の国が破たんするといわれています。
 その時に世界を統一するために、力強いヒットラーのような独裁的英雄を人々が求めはじめるようになるでしょう。その時に聖書に書かれている「反キリスト」666という数字におきかえられる名前の者が世界を征服するのです。
 明日倒れても不思議でない日本の経済です。
 それゆえ、そういうことが起き、神のさばきの時がくる前に、闇のわざを打ち捨てて昼の光のわざを行うようにパウロは勧めています。

<捨てるべき闇のわざ>

^遊興…遊びが中心で限度をわきまえない(かけ事に夢中になり、借金がどんどん増えていっても 止められない等)
 健全な遊びは自制心を働かせることができますが、不健全な遊びは貪欲にとらえられ、自制心を働かせることもできなくなってしまいます。
_酩酊…お酒にひどく酔い、お酒に逃げ込んでしまい、お酒なしには何もできなくなってしまいま す。私たちの教会では、お酒を飲むことを基本的に禁じています。なぜならお酒が様々な罪の誘 惑に対し、自制心を働かせなくさせるからです。これは誘惑に対し弱さを持った私たちにとって の安全のためです。
`淫乱…性的道徳の乱れ。性行為は夫婦のみに認められたものです。結婚という神の前に結ばれた 契約を持って誓いあったからこそ、自分の大切なもの、貞操を相手に与えることができます。貞 操を守るとは、男女とも清さを保つことで、愛の価値を示すことになります。婚前交渉は結婚と いう大切な契約の意味をなきものにしてしまい、その夫婦の価値を卑しめ、動物並みに引き下げ ることになってしまいます。私たちは結婚によってその貞操を唯一の愛する相手にのみ与えるの です。夫婦とは、キリストと教会の関係を示す奥義です。
a好色…男女間の恋愛感情を、たくさんの異性との間に持つことです。これは淫乱にくっついてい るものです。結婚と恋愛を分けて単に恋愛感情を楽しんで考えてはいけません。
b争い
cねたみ
 このような6つの罪が今世の中にはびこり、正しいかのように思われています。こういう罪に満ちた時代だからこそ、私たちは闇のわざを「打ち捨てる」必要があります。
 「打ち捨てる」とは、捨てたくないという気持ちがある時こそ、捨てる決心をすることです。
 罪を楽しんだり、偽りの悔い改めの祈りはなんら効果はあがりません、クリスチャンが罪を打ち捨てる決心をしないなら、イエス様の十字架は何の意味もなくなってしまいます。私たちは天国で最高の心を満たす、素晴らしいものを得るために、今は肉を自制し、耐えましょう。最も素晴らしいものは天国でこそ味わえるからです。
 楽しみは後に残されています。イエス様もカナの婚礼で、最も良いものを最後に与えられました。今、罪を打ち捨て、天国の素晴らしい喜びを手に入れるために、クリスチャンとして神の前にきよい歩みをしてゆく決心をしましょう。