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2002年5月19日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったか(2)
〜愛されていることを感じない病いからの解放〜
神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3:16
私達のために全宇宙を造り、罪をゆるし、善を行なう力を与えて下さっている神様。
この神様のために、少しでも役に立つことがしたいという心を育てるために、聖書からイエス様の歩みを通して学んでいます。今日は、どれほど神は私達に素晴らしい愛を与えてくださったかという事の2番目のお話しをさせていただきましょう。
ヨハネ3章16節は神の愛の証しとして、特に有名な神様の言葉のひとつですね。皆さんは、自分が愛されているというのを感じとるのは、どんな時でしょうか。
マザーテレサは、現代の病んでいる社会を見て「愛されていることを感じることのできない恐ろしい病気にかかっている」という言葉を残しています。それは、どういうことかというと、みんな愛されているにも関わらず、愛されたい愛されたいと求めて、愛されているという事の喜びと平安に到達していないということです。
彼女の施設の中にある日、ぐてんぐてんに酔って路上に倒れていた人が運ばれて来ました。シスター達は、愛情を込めて、親切の限りを尽くして介抱しました。2週間口をきかなかった彼が突然シスター達に語りかけました。「シスター、私はあなた方の親切を通して、神が私を愛しているということに初めて気付いた。私は家に帰ろうと思います。」と。お酒に頼り、希望のなかった彼が、シスター達の自分を大切にしてくれる愛に触れて、神の愛に目覚め、愛されている事に気付かない病気から癒されたのです。
このような体験を通して、マザーテレサは、奉仕をする親切な手(直接その人に手の届くようなちょっとした親切)と、まごごろから惜しみなく与える心、この2つがあれば、この愛を感じない病気にかかっている人々が癒されるということを、神から教えられたのです。
しかし、彼女がそれを始めたのではなく、神様はこのことを、イエス・キリストを通して、罪人である全人類の私達にお示し下さいました。
その出来事を、マルコ2:14〜17より、一つあげてみましょう。
イエス様はユダヤ人の社会において、ユダヤ人達がきらっている罪人と言われる人々との交わりを、あえてしていきました。ここでも、お金をむしり取っていく、どん欲で愛も憐れみも慈悲もなく、罪人の代名詞のような職業の取税人に声をかけられたのです。
イエス様が取税人マタイの家に行かれるのを町中の人々は見ていました。イエス様は周りがどう見ようと、罪人である人々と食事をしました。そして、周りの人に聞こえるように言われたのです。「私は義人を招くためではなく、罪人を招くために来たんだよ。それは、健康な人に医者は必要ではなく、いるのは病人であるからです。」
イエス様は、人は一緒にいたくないと思うような貧しい人やみなしごや、やもめ達と交わりを持ち、一緒に度をされ、町から町、村から村へと神の国を伝えられていきました。それこそ、本当に神様の私達に対する親切な手ですよ。
皆さん!私達の奉仕する親切な手っていうのは、何も大きな事をするのが親切の手じゃないんですよ。親切の手って皆さん小さい事じゃないですか?親切というのは、その人がちょっと困っていることに対して手を貸してあげる、何かちょっと淋しそうにしている人に声をかけて、勇気を与えてあげる、ですから見も知らぬ人であっても、ちょっと視線が合うと、ニコっとほほえんであげる、そんな事が親切ですよ。声をかけ、あいさつすることも。親切のひとつじゃないでしょうか。アーメン。
いろんな、教会の中での奉仕の働きがありますが、これは義務でやっているんじゃない、律法でやているんじゃない、親切でやっているんですよ、皆さん。
惜しみない与える心を持った親切、それってもし言われなかったならば、私達は気付かない。気付かなかった、感謝も出てこない。感謝が出てこなかったら、つぶやきが出てくる。自分の事しか考えなくなってしまう。どんなに大きな親切を受けているか、気付かない為に、恥ずかしい愚痴、不平をもらしてしまうことも、私達は愚かにも、あるわけですよ。愛されていることを感じない病気に私達はかかっているかも知れません。イエス様に癒していただきましょう。
それでは、どういう時に愛されているという事を私達は一番感じるのだろうか、箴言10章12節には、「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう」とあります。
聖書が言っている、そむきの罪をおおうという愛の本来の性質を知るために、ルカ7章の中に出てくる罪深い女性の話を思い出していただけるでしょうか。
この女性は男性を誘惑して生活している社会的に認められない汚れた人でしたが、イエス様の話を聞いて、自分の罪を赦すのは、この方だと気付いたのです。だから、その喜びと感謝を表すため、パリサイ人の家にいるイエス様のところに行きました。彼女は多く赦されたので、涙を流し、イエスの足に口づけして、多く愛することができたのです。
私達は、そんなに大きな罪深い者であるとは、気付いていないかも知れないですね。でも、たくさんいろんあ所で、私達は、愛されているということに気付かないで、当たり前のように受け取って今日まで生活してきたかも知れない。みんなここまで生きてくるのに、何らかの誰かの助けによって生きて来たわけです。
例えば、1才くらいの離乳食の時期に、子供が自分でスプーンを持って食べるなら、あちこちこぼして大変ですね。初めから上手に食べる赤ちゃんはいないし、いたらおかしいですね。それなのに、こぼしたといって、厳しく叱ったり、たたいたりするとしたら、それは愛のない育て方といえますね。
私達も神様に対して、天から雷を落としてでも、もしくは災いによって、懲らしめるような方だって、かん違いしている人が多いんですよね。今は、恵みの時、救いの日であると神様ご自身が言っておられますよ。
私達は未熟で、決して神様の前に、100点満点の生活をできる者じゃない。神は赦してくださる。赦すというのは、口だけじゃなくて、後始末もしてくれるということで、初めて、赦すというのが完成するんですよ、アーメン!
神は、私達が守れなかった違反に対して、私達に責任を負わせるのではなく、みずから人となってこの地上に来られて、私達の身代わりに、十字架で刑罰を受けて下さった。これで、本当に赦した、ということを証明して下さっています。神は、そのひとり子をお与えになったほどに、私達を愛してくださったということです。
こんな私のために、何という大きな犠牲を払われたことだろう。そう思うようになると、ちょっとでも神様のお気持ちを喜ばせることができたらという思いで、神のみこころを行なわせて下さいという気持ちになるんじゃないかと思うんです。
しかし、どうしても神様に愛されていることがわからない人がいるかも知れない。けれども神様は、みんなに同じように、雨と太陽を注がれ、大自然の恵みを与えて下さっている。そして、愛されていることを感じない病いから、早く癒されるようにと、医者として私達の真ん中に来て下さった、イエス様の救いを受けるようにと願っておられます。
<お祈り>
愛する天のお父様。愛されているということが、本当にわからないで、私達は育って来たと思います。愛されているということに気付きますが、もっと愛されたいと、私達の自己中心の考えが強く心の中に起こってどれほど愛されているかということに気付かないで、私達は愚痴、不平を言ってきたかも知れません。神様の責任にしてしまって、自分の人生の不幸を恨む、そんな愚かなことさえも、して来たかも知れません。感謝できるような人生でなかったと、本当に苦しみの連続であった方々もいるでしょう。それを、すべて神様の責任にしてしまわざるを得ないやり場のないそんな心傷んだ人も、この中におられることでしょう。又、あまりにも恵まれすぎて、愛されていることが当然のごとく受けとめ、当然であるならば感謝する心さえ湧いてこないという、そのような若い世代の人々もいるかも知れません。どちらにしろ、愛されている事に気付かない、感じない病気を私達の魂は持っているかもしれません。この朝、どうぞ十字架の愛を通して、その流された御血潮によって潔め、癒してください。どれだけ神は私達を愛して下さっているか。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

2002年5月12日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったか(1)
私たちが神の子どもと呼ばれるために、--事実、いま私たちは神の子どもです。--御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
第1ヨハネ3:1
私たちは、神のみこころを行うために創造されました。それは、イエス様を見本として、自分の楽しみはいっさい求めず、自発的に、神に喜んでいただきたいという願いを持って、神に捧げる人生を歩むことです。
しかし、現実はどうでしょうか?私たちは神の願いを行うことよりも、自分の願いをかなえてくれることを強く望む者であるような気がします。最近の世の中の風潮として、相手の気持ちをくみとるよりも、自分の願望を成し遂げようという思いが強く、若い人達の間では、愛=セックスだと勝手に思いこんで、好きだと思うと、すぐそのような関係を持ってしまいます。
人を理解しようとせず、自分のことばかり理解させようとする心の動きが強いので、すぐに離婚をしたり、家庭内暴力(争い)が起こったりします。
真の愛は人格的関係によって生み出され、目には見えないけれども、心に感じることのできるものです。
「自己中心」→「争いのもと」→「罪」=「的外れな人生」となりますが、的を得た人生とは、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」という聖書の一貫した神の愛の御教えに従った生き方をすることです。
そのために、神の気持ち(みこころ)をつかんでいくと、自分は何のためにどの様に生きるべきかということが、はっきりわかり、品性(人格)によって、神の前に価値あるものとされるということがわかります。
神はそのような社会を回復させようと、今もキリストを通して与えられた福音を、全世界に伝えておられるのです。
ですから、聞いた私たちは、神のその願いを実現させるために、地上に置かれているのだということがわかると思います。
私たちが、神のみこころに喜んで従っていくということは、神(父)との人格的信頼関係(愛の関係)によって、自然にわき出てきて、自分の願いよりも父の願いを優先したいと思うほどのものです。それほどの信頼関係を持つために、どれだけすばらしい愛を、神が与えてくださったかを<ヨナ4:10〜11>から見て行きましょう。
ヨナは、神から御ことばをいただいて、イスラエルの民にメッセージを伝える預言者です。普段は自分の国(イスラエル)に務めをするのですが、神は、ニネベに行って滅ぼされることを免れるために、悔い改めを促しなさいと命令されました。
しかし、ヨナは神の命令に従わず、あえて反対の方向の町へ行ってしまいました。
なぜなら、ニネベの人達はかつてイスラエルを襲撃し、人殺しをしたり、略奪を繰り返してきたので、ヨナは「こんな人達に福音を伝えたくない!」と快く神の命令に従えなかったのです。しかし、神は嵐を起こし、強引にニネベに行くよう導かれ、その結果ニネベの人達は救われました。ニネベの人達は確かに悪い人達でした。
ヨナが行きたくない気持ちもわかります。しかし、神は、御自分の姿に似せて造られた全世界の人々(良い人達だけではなく、ニネベの人々のように罪深く、神にとって何の役にも立つこともできないと思える人でさえ)を滅ぼすのを惜しまれたのです。
神が私たち(罪人)をまだ地上に置いておられるのは、一人でも多くの魂が救われるようにと、わずかな可能性にかけておられるからです。その神の慈しみの心は、十字架という形に現され、罪のない御子が人となって地上に来られ、私たちの罪の身代わりとなって、罪の刑罰を受けてくださるということを実現してくださり、罪人が心を入れ替え、正しい道に入れるよう、道ぞなえをしてくださいました。
私たちが少し成長してきて、人の心をつかめるようになると、少しずつ親の気持ちがわかり、神の気持ち(みこころ)がわかるようになります。そうすると、神のために何かしてあげたいという気持ちが自然に湧いてくるのです。
そして、どんな不可能なことも乗り越えていこうという力も湧いてきます。
神がどれだけ私たちと良い信頼関係を持ちたいと願っておられるか、ヨナの話を通して、もう一度、神の愛を考えていただきたいと思います。
そこでわたしは言いました。「さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。」
ヘブル10:7
みこころを行なう人生
〜神の愛に応えるために〜
<人生の目的>
多くの人が、人生の目的や自分の存在の意味、価値がわからないでいます。人生は何のためにあるのでしょうか。何のために人間は生まれて来るのでしょうか。
その答えとして、救い主イエス・キリストは身をもってこの地上で、人生とは何かを証しされました。「さあ、わたしは来ました」その目的は「神よ、あなたのみこころを行なうために」です。なぜ、神のみこころを行なうために人生があるのでしょうか。
キリストは、父なる神との深い関係があるからこそ、地上に来てみこころを行なうという目的を理解されていました。人生の目的、自分の存在の意味を見出すためには、どうしても神の存在が必要です。
神の存在が無いということは人生の目的が無いということになります。進化論では、私たちの人生の目的はありません。全てのものの存在は、何らかの意志が働かなければ造られることはありません。しかし、宇宙や人間の起源に関して進化論では「偶然に出来た」といい、非科学的です。
<神がおられる証明>
では、神様がいるということはどうしてわかるのでしょうか。基本的には、あなたがここに、知性をもって存在している、ということが神の存在の証しです。
そして、イエス・キリストの存在と、十字架に架かられたという歴史的事実が、何百年も昔から預言されていたことの成就として、まことの神がおられることを証しされています。
これを信じるか信じないかは、それぞれの自由意志ですが、もしおられるということを信じるなら、あなたの人生は変わります。なぜなら、あなたのいのちの存在そのものの目的が明らかになるからです。目的が明らかになるということは、自分を生かすことが出来るということです。
例えば、スピーカーは空間でいい音が出るためのもので、海に沈めてもいい音がでるかというとそうではありません。造られた目的に従って使われるということがその存在を生かすことです。
私たちも、もし造られた目的があるなら、その目的に従って自分の人生を生かすことが出来れば、一番喜びと充実感を持つことができます。人生の空しさが解消されます。目的があるとどんな困難も乗り越えることができる力が与えられます。
キリストは、私たちのお手本として、この地上に来てくださいました。
結論は、私たちは、神のみこころを行なうために生まれてきました。
しかし、生まれてきても、災いにあう可能性もあります。神が守ってくれないのでしょうか。神様の守りと、私たちのミスは、すれちがうことがあります。神様は守ろうとされていても、私たちがその守りを無視していけば、守られないということもありうるのです。
神様は全能ですが、私たちが人格者として生きている以上、神のご意志から外れてしまうときに、自分勝手な行動による災いを受けてしまうこともあります。全能とは、人の心を自由にするという意味ではありません。それをすると、人間が人間ではなくなってしまいます。神は、ご自分の形に似せて私たちを造り、自由意志を与えられました。
<キリストの人生>
「さあ、わたしは来ました。」
イエス・キリストがこの地上に来られたのは、義務や責任を感じて来られたのではありません。神の義をたてるために義理で来られたのでもありません。自ら進んで、何とか神様の願いを実現するための手助けとして、「わたしをどうぞ使ってください」という自発的な気持ちがあらわれています。私たちの人生も、強制されたり、いやいやしたのでは、たとえみこころを行なったとしても意味がありません。イエス・キリストの人生は、生まれた時から十字架の死に至るまで、苦しみの連続でした。良いことをすればするほどねたまれ、裏切られました。それでも、神様の願いを実現するために、私たちの刑罰を身代わりに受けられ、十字架で苦しんでくださいました。それも喜んで。義理や義務でしたのなら、意味がありません。どんな理由があるのでしょうか。
<父なる神様との人格的関係の中で>
(ヨハネ15:9、10)
イエス様は、父なる神様との深い関わりがあるので、この地上に来られました。父を心から尊敬し、信頼し、愛していたから来られたのです。「お父さん、あなたの願いを実現するために、わたしを使ってください。わたしが行きましょう。」と。
イエス様は、全てを愛ゆえに行なわれました。神の愛にとどまり続けるために、キリストは神のおことばを守り続け、信頼関係を保ち続けられました。父なる神様との関係を切り離したくないと思われていました。だから、義理でも義務でもなく、ただ父なる神様の愛に応えたいという気持ちで来られました。
私たちも、神がどれほど愛して下さっているかがわかれば、自分の人生が神様の願い、みこころをあらわすために与えられたものであることがわかります。その考えをもとに、人生設計を立てていくことが出来ます。
<創造主なる神のおこころ>
創造主なる神様が、全世界を造られ、ご自分に似せて私たちを生み出されたということは、どれだけ多くの精神力と犠牲と熱意があったのか、それは子供を産むときの母親の苦しみを見て知ることができます。神様は、私たちが住むために、天地万物を非常にバランスよく造られました。どんなに私たちのことを思ってくださっているのでしょうか。
その私たちが、神様の思いを無視して、自分の願いだけを実現するために生きていくという姿をみていくとき、神様はどれだけ心を痛めておられるでしょう。親の思いは、子供が幸せになることです。神は全能なので、子供の失敗をおおうことが出来ます。そんな大きな愛をもって、私たちの自由意志を生かしつつ、失敗を重ねる中で成功に達するようにと見守り続けて下さっているのです。
<神の愛に気付く>
ある作家が、「1から1をひいたら0だ。人間から愛を引いたら何が残るか。土地から水を取り去ってしまった砂漠のようなものだ。」と言っています。人の心に愛がなければ、本当に意味がありません。なぜなら人間は、愛なる神様に似せて造られたからです。愛を大切にしなければ砂漠のような人生になってしまいます。
私たちは、愛の源である神様の愛を、一番素晴らしい、価値ある大切なものとして生きていきましょう。あなたが神のみこころを行なう人生へと気付くために、神があなたにどんなに素晴らしいことをして下さっているかということに気付くことです。
(詩篇103:1〜5)
ここではダビデが人生体験を通して、神の愛の大きさを表現しています。
彼は熱狂的な神様のファンでした。それは、ダビデの大きな罪を神様が赦してくださったからです。ダビデは罪を預言者に指摘されたとき、神の前にへりくだり、、悔い改めました。悔い改めたからといって、悪いことがおこらないかというとそうではありません。スピード違反をして、悔い改めたからもう罰金が来ないかというと、そうではありません。
悔い改めとは、二度と同じような失敗はしませんということで、犯した罪の償いはしなくてはいけません。しかし神様は、悔い改めたことに関して祝福してくださり、償いのための手助けもしてくださいます。罪を赦してくださる神の寛容を感謝する必要があります。
神のみこころを行なうとは、神様の気持ちをくみ取って、その素晴らしい愛に少しでも報いたいという気持ちのあらわれとして、行なうものです。
神のみこころを行なう、という姿勢が、お互いの気持ちを大切にする生き方に変わるのです。これが私たちに与えられた人生の目的です。私たちの気持ちをくみ取って大きな犠牲を払ってくださった神様の大きな愛にお応え出来るような人生を選び取っていきましょう。