2002年4月28日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● えこひいきのない神
〜心の動機を見る〜
艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。
ローマ2:9〜11
今日は、ローマ書2章11節の神にはえこひいきなどないという箇所からお話します。神には、ある特定の人や国に対する特別なえこひいきはありません。
悪を行う者には艱難と苦悩が下り、善を行う者の上には栄光と誉れと平和が与えられる。そこにはユダヤ人とギリシャ人の差別はありません。このユダヤ人とは神に特別に選ばれた選民という意味があり、ギリシャ人とは人間の手で作ったたくさんの偶像をお拝む人々を表しています。ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、各々に差別無く神の報いが下されるのです。
それでは、クリスチャンに対してはどうでしょう。クリスチャンは、神に特別に愛されひいきされている人々というイメージがあります。信じない人々にとってはこれがえこひいきに見えてしまい、信じない者は愛されていないのかと感じてしまいがちです。確かにイエス様を信じる者は神に愛されていますし、それは事実です。けれども、神の基本的なお考えはクリスチャンと一般の人々に対する差はなく、6節にあるように一人一人の行いに応じて報いをお与えになるのです。
だとすれば、クリスチャンとしてイエス様を信じている私たちにとって、信じていることにはどのような意味があるのでしょうか。私たちは神がえこひいきをされないということについて、内面的に見ていく必要があります。
私が神を信じた理由のひとつに、神にはえこひいきがないことがあります。
信じるまでの私は表面的な結果や行いによって評価されて心の内面的な動機を見てもらえず、一生懸命努力しても結果が出なければ低い者劣った者と判断されてしまう世の中の基準に失望し悲しんでいました。人間のある一面しか見ずに差別されて心の姿勢は認められず、結果を出すまでいかに努力したとしても結果が出なければ認められないのが世の中です。しかし神のお考えは、結果が他の人より低くてもその人の心の姿勢と動機を見て評価してくださり認めてくださるというものです。そこに希望を持ったのです。
50点の結果でも100点であっても、50点の人が自分に与えられている力を出しきったなら100点をとった人と同じように評価してくださるのです。
これを証しするたとえ話しとしてタラントのたとえがあります。
僕に1タラント、2タラント、5タラント預けて旅に出た主人が帰って来てその働きを聞きます。世の中的に考えるなら5タラント儲けた僕が主人の心にかなう者でしょうが、主人は2タラント儲けた僕にも5タラント儲けた僕にも良くやったと喜んでほめます。二人の僕は金額の差はあっても各々主人のの心にそう働きをしました。与えられたものを100%生かしたからです。
これが、えこひいきのない神の、僕に対する報いの仕方です。努力しても良い結果の出せない人にも、イエス・キリストによって 栄光、誉れ、平和というえこひいきのない神の愛を注ぎ全人類に救いを与えてくださったのです。
イエス様は行いの結果を通してさばかれるのではなく、行いをするための動機を見てさばき・報いを与えてくださるのです。
これが信仰による義です。もしも神様が結果だけを重視されるような方だとしたら、私たちは罪深い弱い者ですからどんなに努力しても神の基準のレベルを守ることができませんから誰も救われません。神様の公平さ、えこひいきのない正しい価値判断、それはイエス・キリストの十字架を通してもたらされたものなのです。
神は外側ではなく心を見られる方です。神の前に心の姿勢をごまかすことはできません。ですから、神のえこひいきのないさばきが一番正しいのです。クリスチャンだから、イエス様を信じているからと安易に考えて救いに安住するのではなく、心を見られる神の前に善を行うという正しい動機をもって歩まなければ、どんなに良い結果を出しても報われないということが起こり得ます。
〈心の動機を判断するには〉(ローマ2:1)
善を行うときに神の前に正しい動機をもっているかどうかは、他人をさばいているかどうかを見て判断できます。さばくとは、決めつけてしまうこと、結論づけることです。私たちは日本の憲法のもとで裁かれます。その裁きは国の権威によって任命された裁判官が行うのであって、裁判官の個人的な考えで裁くのではありませんが、正しい裁きを行おうとしても人間ですから限界があります。しかし、すべてのことを正しく決断し結論づけることができる権威者は神お一人です。にもかかわらず、一番の権威者である神よりも自分の考えを第一として神の権威を無視し、自分をさばく立場に置くことは最も大きな罪なのです。
私たちはよく「あの人はダメだ」と人をさばいてしまいます。逆に人ではなく自分をダメな者だとさばいてしまうこともあります。
さばく立場にはない私たちが相手をさばいてしまったら、今度はあなた自身がさばかられる立場にたたされることになり、それが罪人としてのしるしになってしまうと言われるのです。
人をさばいてしまう心の動機はどこにあるのでしょうか。
人生の中でえこひいきされてきたという心の痛みが無意識の内にあって、そこから出てくる問題が人をさばくという行いに現れてきます。自分が悪いと言われたくない失格者だと言われたくないために、自分を守ろうとして先に相手をさばいてしまします。
争いが起こる原因は、互いに相手を悪者としてどちらが正しいか強いか支配者かを主張し合うところにあるのです。争い合う両者の上には、悪を行う結果としての艱難と苦悩とがもたらされてきます。
もし、あなたの人生に苦悩と艱難が続いていて感謝することができないでいるなら、行いの前に動機が間違っていないかを吟味する必要があります。神様に従っていると思っていても、自分の考えに合うからということで一致している部分にだけ従っていることがあるかもしれません。とても従うことができないと思えるみことばに従ってこそ、一番の権威者である神様に従っているといえるでしょう。
もし一つでも従えないのであれば神にではなく自分自身に従っているのであり、神に従っていない自分のかわりに人をさばいてしまうのです。
神は心を見抜かれて各々の行いに応じて報いられるということを忘れないように気を付けましょう。この世でえこひいきされて痛み傷ついてきた心がが正しい動機をもてなくさせ人をさばいてしまいますが、どのようにすれば正しい動機をもって善を行い神に従っていけるのでしょう。
〈正しい動機をもつためのいやし〉(ローマ2:4)
神は、慈しみの愛を十字架によって示してくださいました。私たちを宝のように大切な存在として、瞳を守るように守ってくださいます。私たちが未熟さのゆえに出してしまったどんな結果であっても、将来に希望を抱いて育ててくださっています。これが神の慈愛です。神の慈しみが注がれているゆえに、この世界はまださばかれずあなたは生かされて神の前に善を行うチャンスが与えられているのです。神の忍耐と寛容が示されているのです。このような深い神の愛にふれる時にえこひいきされ傷ついてきた心の痛みはいやされていくのです。私たちは互いに迷惑をかけたりかけられたりしている者です。そうでありながらも自分のことを省みず他人をさばいてしまうような者です。イエス様は、私たちが自分でも気付いていない人をさばく心や、自分は正しいと主張し続けるかたくなさを知りつつも、十字架の上で「彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」ととりなしてくださいました。慈しみと忍耐を示し続けて、悔い改めの機会を与えてくださっているとは、なんとすばらしい恵みでしょう。
イエス様のお心にふれる時、私たちのかたくなな心が溶かされて真の悔い改めができるように変えられます。もしあなたが悔い改めたくないなら、神の愛を信じることはできないでしょう。神の愛を信じたなら悔い改めなければならないと考えてしまうでしょうから。しかし、悪を行う者には艱難と苦悩が下りその身を滅ぼしてしまうことになります。
人をさばくことがいかに危険で、永遠のいのちから遠ざかることになるかをしっかりと理解しなければなりません。神の慈愛が注がれて自分もゆるされているのだから、人をゆるしていこうと決心して隣人を愛する愛を持つ者へと変えられることを望んで悔い改めましょう。
神にはえこひいきがありません。この神への信仰を強めて栄光と誉れと平和を受ける者として歩んでゆきましょう。

2002年4月21日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 人生最高の友
〜キリストを最高の友として歩む〜
喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者と一緒に泣きなさい。
ローマ12:15
<素晴らしい友の関係>
これは、ローマの教会に対して語られた神の家族として互いにこのような関係でいなさいという教えです。これを別の言葉で「素晴らしい友の関係」と表現できます。
先日、アーサー・ホーランド師の集会がありましたが、彼の考えの中心、ポリシーは「ハートを大切にする」でした。人は外側の格好を見て、いろんな誤解をしますが、本当に心をわかってくれる人は、その外側の状態を正しく理解してくれます。クリスチャンだからといって、型を作らなくてもよいのです。イエス様が大好きならそれがクリスチャンである、というのが彼のメッセージです。
<心をわかってくれる友>
なぜイエス様が大好きになれるのでしょう。それは「自分を一番わかってくれるから」「気持ちを理解してくれるから」すなわち、「友」だからなのです。多くの中途半端な友を持っているより、一人の素晴らしい友を持つほうが幸せです。アーサー師も「多くの人にわかってもらうより、一人の人にわかって欲しい」と語られていました。
しかし私達は、できるだけ周りにあわせて問題を起こさないようにと、自分らしく生きていないことが多くあります。この「自分らしく生きていない」ということが、罪であるということを、多くの人はわかっていません。
「罪」とは「的外れの生き方」をしているという意味であり、あなたがあなたでない生き方をしていることは「罪」であるといえます。では、どれが自分なのかというと、わからない人が多くいます。本当の自分を出してしまうと嫌われる思って出せなかったり、悪い自分を出してしまったりします。しかし、本当に心をわかってくれる最高の友と共に生きる人生は幸せです。その友が、イエス・キリストです。
<最高の友のしるし>
(ヨハネ15:13)
ここでは、一番素晴らしい愛とは「友のために命をすてること」だと語られています。最高の友とは、この愛をあらわすことの出来る人だと言えます。自分の楽しみ、喜び、利益を犠牲にしても、友の楽しみ、喜び、利益を優先するのが本当の友です。
(ローマ5:6〜8)では、私たちがまだ罪人であった時に、キリストが私たちのために十字架で死なれたとあります。利害関係ではありません。「友」だからという、ただ一つの理由で、命を捨ててくださったのです。それは、神が私たちを、命を捨てることのできる友として受け入れてくださっているという証しなのです。
こんなに素晴らしい方を友としなければ、大きな損です。
「イエス様を信じたら便利」といって信じるのは、友ではなく利用する関係です。本当の友は、利害関係ではなく、気持ちをわかってくれる関係ではないでしょうか。
<十字架でのとりなし>
(ルカ23:34)
イエス様は十字架上で、私たちの気持ちを理解しているよと語ってくださっています。イエス様はねたみによって十字架につけられましたが、自分を罵倒する人々に対して「彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と祈られました。友として受けとめない限り、そんなとりなしはできません。悪口雑言を吐く言葉に耳を傾けるのではなく、それを言っている人々の心の中の本音を見抜いて「何をしているのかわからないでしているのです。裁くのを待ってください。」と、その本音と弱さを理解し、友としてとりなしてくださいました。
10代の反抗期の若者達が、反社会的行動をとりますが、心理学者は「心の痛みがあのような形で現れている」と言います。また、同じような仲間から見ると「気持ちがわかる、赦せる」と言うそうです。
心を理解すると、その人の表面的な悪い行動よりも心の理解のほうが強くなり、その人を赦せるようになります。赦せない気持ちを持つなら、もはや友ではありません。イエス様の言葉は、私たちを命を捨てることのできる友として一緒に歩みたいという気持ちのあらわれです。
<イエス様を最高の友とする>
私の一番の問題は人間関係でした。表面的なことでその人を判断し評価され、気持ちを無視される世の中に出ていくのがいやでした。しかし、イエス様を信じて楽になりました。教会に行き十字架のイエス様の姿勢を通して、この方に私の信頼の全てを賭けてみようと思えたのです。イエス様は私の唯一の友です。そのイエス様は全人類を友として十字架におかかりになりました。すなわち他のクリスチャンたちは、私のイエス様の友達であると言えます。だから、どの人とでも、イエス様を通して友達になることができます。理解してもらえない人でも、イエス様を通して理解できるようになります。何か問題が起こっても、イエス様が間に入ってとりなして下さいます。例え被害者となっても、友であるイエス様に免じて赦すことができるようになります。もしあなたが、人につまづいたり、赦せない心があるなら、イエス様を一番の友としていないのではないでしょうか。
人のためなら限界がありますが、私のために命を捨てて友となってくださったイエス様のためなら、無理難題でもきくことができます。
(ローマ14:8)の「主」を「友」と置き換えてみましょう。
「もし生きるなら友のために生き、もし死ぬなら友のために死ぬのです。ですから、生きるにしても死ぬにしても、私たちは友のものです。」
このように言える友がいるなら、人生は最高です。イエス様は命を捨てることのできる友として受け入れて下さいました。イエス様は最高の友です。このようなイエス様に対する姿勢を持つなら、クリスチャン生活にもっと変化がでてくるでしょう。
例え、みことばが実行できなくても、クリスチャンとしてふさわしくないとても、イエス様だけは、私たちの弱さや本音をわかってくださいます。その関係を利用するのではなく、私を命を捨てることの友として選んでくださったその愛に応えて、私たちも命を捨てることのできる友として、イエス様を信じていきましょう。

2002年4月14日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● イエス様の願い求めておられる平和を得るために
わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
ヨハネ10:34-39
この御言葉を読んだとき、平和の神であられるイエス様の口から出たとは到底思えないような言葉だと感じられる方が多いのではないでしょうか。
以前、共産主義の思想を喜んで受け入れた学生達が家庭や学校、社会に対し大きな問題を起こしたことが
あります。
表面的に平穏な状態を保っているように見えるときに、突然ちがう考え方が入ってくると混乱を起こすことがあると思います。
イエス様がこの所で言わんとしておられるのはそういうことなのです。
現在パレスチナとイスラエルとの紛争が世界的な問題となり、心痛めてらっしゃる方がたくさんおられることと思いますが、彼らはなぜ自爆テロを繰り返しそれに対し報復をし、血を流し合うのでしょう。パレスチナもイスラエルもそれぞれの立場から自国の民族と子孫を守り、将来の平和を勝ち取るために戦っています。
それぞれの立場からすると自爆テロも、それに対する報復も正しいと信じているので、自国の民族を守るために他者を征服することは当然の行動なのですが、結局は自己中心的な考えからきています。
世の人は罪の奴隷となっていますから、力の強い者が弱い者を征服し、そのことによって一見平和に見えるような状態をつくりますので、イエス・キリストのルールで平和をつくろうとすると当然世の人は反発するのです。自分よりちがう力(考え方)が出てきたとき争いをしてしまうという偽りの平和に私たちはだまされてはいけません。それは本当の平和とはいえないからです。
闇の世界の平和に光の世界の平和(働きかけ)がやってきたとき、闇の世界の平和は乱されます。私たち全人類はイエスの愛と正義と公平の教えに従うか、神を認めない自己中心の力の強い者が世の中を征服していくという考えに同意していくか、二つに一つの選択をせまられています。
光の国の証しのため、イエス・キリストは神であることを捨て、人の姿をとって地上に来られ、神は私たちを御自分の姿に似せてつくられ、御自分の子として愛してくださいましたが、自由意志を与えられていたため欲望が私たちの心を惑わしてしまい、神を認めることをしなく
なり自己中心の歴史を築き、大きな罪を犯してしまいました。
しかし、神は、まだ私たちを滅ぼすことをせず、イエス・キリストの救いの御業を信じる者は、神に対する今までの全ての罪を赦すと宣言されて、一人でも多くの人が神に立ち返るようにと、忍耐と赦す心をもって待ち続けておられるのに、人々は(ヨハネ3:19-21)のようにそれを拒絶したのです。なぜなら、今まで慣れ親しんできた罪の世界の生き方(自己中心)を変えたくなかったからです。
このことを次の例話を通してわかりやすく説明したいと思います。永遠の滅びに至る滝つぼに向かってたくさんのボートが流されています。不思議なことにこのボートはエンジンが動いていないので、流れに身をまかせ滅びの中に入って行くほかないのですが、その中で一人の人がこのボートにはエンジンがあるということに気付き、そのかけ方を知ってエンジンをかけます。
彼が滝つぼ(永遠の滅び)に落ちないように流れに逆らって逆方向(救いの道)に向かって走り出すと、流れに身をまかせている人にとってはじゃまになるので、その人を憎み拒絶するのです。
私たちは人生の中で、神の愛というエンジンに動かされて流れを変える必要に迫られるのですが、光を愛するという覚悟をしっかり持たないと途中で挫折してしまって、全てが中途半端に終わり、結局は何の益ももたらさないということになってしまうのです。
(マタイ10:38)でイエス様は「十字架を負って従わない者は、わたしにふさわしくない。」と語られていますから、私たちはしっかりと十字架を負わなければなりません。
それはパレスチナの人々が自爆テロを実行に移すほどの覚悟ではないでしょうか。イエス様の時代、十字架とは最高に厳しい処刑方法でしたから、中途半端な覚悟では、闇を愛する人々から来る圧迫に耐えることは到底できません。
十字架を負うとは、たとえ無実であっても処刑されることを覚悟するほどに(イエスさまがそうでした)きびしいものですが、当時の社会でクリスチャンを圧迫してきたローマ帝国に対し、血を流し殺し合いをすることをせず、ただ正義と公平を持って抵抗したので、ローマ帝国はゆさぶられクリスチャンの立場を認めざるを得なかったのです。
私たちは、肉体を滅ぼす者を恐れるのではなく、魂をも滅ぼす方を恐れるべきです。
十字架を負って生きるとは、(ローマ8:13)でさらに肉(罪の力)を殺し、神の御言葉に生きることだと教えています。
ペテロが人間をとるため全てを捨ててイエス様に従ったように、私たちもイエス様を心から愛し、信頼して従う必要があります。
中途半端な信仰では人々の心を動かし、クリスチャンの本当のすばらしさ魅力を証しすることはできません。
イエス様が預言通り十字架にかかってくださったすばらしい歴史的事実を信じている私たちクリスチャンは、共に十字架を負う覚悟をしっかりして、正義と公平の道を歩み、一人でも多くの魂が救われるために、イエス様の願い求めておられるクリスチャン人生としたいものです。

2002年4月7日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 誰に気に入られたいのか
〜神の前に生きる人生〜
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
ローマ8:10
このみことばは、私たちはまだ未熟であって、罪からくる肉の欲望を完全には拒絶しきれないクリスチャンですが、神に役立つ存在として生かされているという意味です。
神はあなたのことをすべてご存知であり、なかなか肉に勝利できない状態であることも承知の上で、キリストがあなたの内におられるゆえに、あなたに希望を持っておられ、義のゆえに生きていると見てくださっています。
今日私たちは、このみことばから、「キリストと共に生きる」ということを確認し、もし自分の中に間違っている点があることに気付いたならそれを正し、もう一度、キリストと共に生きることの素晴らしさに目を向け直していきましょう。
本論に入る前提として、私たちは、自分のいのちの評価を誰にしてもらうのかということをはっきりさせる必要があります。
なぜなら、人は誰でも周りの人に価値ある者とみられたいものですが、すべての人に良い評価をしてもらうというのは不可能だからです。クリスチャンは誰に認められたいのでしょうか。もちろん私たちの主なる神様です。このことがしっかりしていないと、今日のメッセージは少しも理解できません。
<神はどんな人を気に入ってくださるか>
神は私たちの存在そのものを、無条件で気に入ってくださっています。
実は問題なのは、私たち自身が神様を気に入っているかどうかなのです。(ローマ8:10)で「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら」の「もし」とは、あなたが気に入ってキリストをあなたがたのうちに迎え入れているならということです。
<神は何を気に入ってくださっているのか>
(ローマ3:28)で、神が気に入ってくださる人とは、行ないによるのではなく、信仰、つまりあなたの心そのものを気に入ってくださっているのです。正しい心があれば、あなたにとって神の存在は素晴らしい輝かしい存在となり、正しくない心を持てば、神はあなたにとって、憂鬱な存在となります。
神と私たちの正しい関係をわかりやすく説明するために(ルカ5:1〜11)を読んでみましょう。
気に入るとは、受け入れることです。ペテロはイエスを気に入ったのです。それは信仰であり、その信仰がイエスに義と認められました。あなたがイエス様をどのように気に入っているのかを、この場面から2つあることがわかります。
<ペテロはイエスをどのように気に入ったのか>
1.(ルカ5:4〜5)尊敬と好意を持つ
ペテロは、なぜ、イエス様のおことばに、無駄だと思いつつも従ったのでしょうか。それはイエス様を気に入ったからです。
彼は漁師のプロでした。しかし漁に対しては無知と思える彼のおことばに従ったのは、イエスを心から「先生」と思い、敬う心を持っていたからです。
私たちは、気に入った人、尊敬できる人のことばは信用するものです。こういう心、信仰を持つ人を神は正しい者と見てくださいます。
2.(ルカ5:6〜7)人間以上、神としてみる
ぺテロはイエスのことばに従って、漁師として考えられないような奇跡を見ます。それで「主よ、私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」とひれふしました。
どのような人に対して、このようなことばが出るのでしょうか。神のように思える人に対してです。神のように聖く偉大な方の前に立った時に、私たちはそのように思えます。
<気に入った結果の行動>
そして彼らはそれほどイエスを気に入った結果として、「何もかも捨てて、イエスに従った」のです。その日のうちに舟も家族もみんな捨てて従っていくとは、よほどの感動を受けたからです。
あなたが今日すぐに牧師になる(例)決断をするには一体どんな大きなしるしが必要でしょうか。
会社をやめ、家族を養うという責任も神にゆだね、社会的地域的な信頼も捨て、人間関係も断ち切り、牧師としての道を歩む決心を、今この場で決断するには、どれほど大きなしるしが必要でしょうか。イエス様がこの場に現れてもできないかもしれません。
ペテロにとっては、「不可能な状況下で大量に魚が取れた」というしるしは、それほど大きな出来事だったのです。
ローマ帝国の圧政下、不自由な中でユダヤ人達は自分達の国をしっかり建てたいと心から願い、そのためになら何もかも捨てようというくらいの愛国心がペテロにもありました。
それゆえ、イエス様の力ある業を見た時に、すべてを捨てて、イエス様についていこうという決心がすぐについたのです。
私たちは神の国の愛国心を持っており、神の国の実現こそ私たちの理想です。この愛国心を強く持っているなら、そのために立ち上がる指導者が出てきたなら、心を合わせてゆくことができるはずです。その指導者とは、イエス・キリストです。
そのしるしとして私たちは十字架で現わされた神の真実な愛を見ることができます。罪の囚人となっている私たちをご自分の神のいのちで買い取ってくださり、神の国の民としてくださったのです。
これはペテロが見たしるし以上の大きな出来事です。私たちが知らなかった天地創造の神が、聖書に書かれているように存在し、救い主イエス・キリストがこの地上に来られたということ、この事実に私たちは本当に驚かなければなりません。気が狂ったひとりの人がメシアと名乗ってユダヤ中を回って教えを広げたというようなことではありません。
神が永遠の昔から計画されていたことが実現した事実なのです。キリストの歴史的存在は、天地創造の神の存在のあかしです。あなたが神を否定するなら、キリストの歴史的存在の事実も否定することになります。十字架はそれぐらい驚嘆するしるしであり、何もかも捨てて、従っていこうという決心を生じさせるほど大きなしるしなのです。
ペテロは何もかも捨てて従いたいと願うほどにイエスを気に入り、心の王座に自分を支配してくださるお方としてイエスを受け入れました。それゆえイエス様はペテロの持っているあらゆる才能と賜物を生かして、人間をとる漁師としてペテロを用いられました。
(ルカ9:24)のことばがペテロの人生に成就しました。
もしペテロが自分の漁師という自然の仕事を捨てて、イエス様に従わなかったら、人をとるという神の仕事をすることはできず、神にとって役立たない人生を送ってしまったことでしょう。
しかし、彼は自分の自然の仕事を捨てることによって、人間をとる、つまり、魂の救いという神の願う働きに用いられました。これこそペテロが神の前に、100%生かされる人生を歩めたということです。
私たちも自分の才能、持ち物、自分に関わるすべてのものを神にゆだねるなら、神はあなたを用いてくださり、あなたの100%の持ち味を生かせる役立つ者としての人生を歩ませてくださいます。
「私を用いて役に立ててください」という心をもう一度神の前に持とうではありませんか。神の愛のコントローラーで喜んで動く者となりましょう。
