2002年3月31日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● キリストのよみがえりの力がもたらすもの
そしてもし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
1コリント15:17〜20
キリスト教にとって、イエス・キリストの復活はとても大切なことです。復活は誰もが信じられない出来事ですが、神はそれを信じるようにと全世界に伝えられたのです。
なぜ復活というあり得ない出来事に信頼を持つことが大切なのでしょうか。
(17節)キリストのよみがえりがなかったら---「クリスチャンの信仰はむなしい、無きに等しい、無意味である」というくらい大切です。
(19節)復活を信じないままクリスチャン生活を送ることは、どの宗教の信仰者よりも哀れな存在となります。
クリスチャンには「まじめできよいイメージ」がありますが、そのまじめさも復活があるかないかで一番幸せか一番哀れかの両極端になるのです。
「よみがえる」とは永遠の世界を語っています。よみがえらなかったら永遠の世界はないということです。
(32節)よみがえりがなければ罪の裁きや地獄を考えず、好きなように生きればいいのです。しかしよみがえりがあるからこれらを考えなければならないと言っています。「獣と戦った」というのはローマ帝国の権力の上に神を認めたクリスチャンたちが政治犯として捕まると競技場でライオンと戦わされ、えじきにされたということです。それでも信仰を捨てなかったのは「復活がある」からです。
イエス・キリストがよみがえったから神の国を信じている
(コロサイ3:1)神の国の存在を信じた者が、天にあるものを求める生活をしなけれは、世の中の人は神の国の存在を信じません。
神の国は魂のふる里であり、魂が一番安心できる場所であり、地上のあらゆる苦難を通り越えて、人生が報われる場所です。
昨日大竹サンビ教会の末宗弘牧師夫人の告別式がありました。
この伝道の難しい地域へ京都から来られ、40年近く伝道に励まれ
ました。大変な苦労の連続であったようですが、なぜこの夫人は仕事をしながらあきらめることなく証しを続けてこられたのでしょうか。それは復活を、神の国に入ることを、どんな苦労も報われることを信じておられたからです。
復活を信じるかどうかで私たちの人生は変わってしまいます。
復活を信じなければ、正しいことを守り通す必要がなくなるわけですから、この世の人々と同じ生き方になります。
神の国は、神に義と認められた者たちだけが入ることが出来、正しいことを行って守り通した人が報われる義人の国です。これを私たちは目指しているのです。
地上で報われることを考えていたら、神の国には入れないかもしれません。
神の国でイエス・キリストが「よく来ましたね。」と地上のすべての労苦に報いてくださるその時を信じることが出来るのは、イエス・キリストが私たちの罪のために葬られ三日後によみがえってくださったからなのです。
この証しをしたのはイエス様のよみがえりを目で見た人たちでそれが2000年間宣べ伝えられてきたのです。
復活を証明することが問題なのではなく、証しを信じるか否かで人生が大きく変わります。
<神の国を求めることは〜自分の純真さを守ること>
(ヤコブ3:17)私たちはこの社会生活の中で自分自身が歪められ傷つけられて、本当の自分が出せなくなっています。
イエス・キリストはそのような私たちをいやし、元々の純粋な新しい姿を与えてくださり、それを守るように教えを与えてくださいました。この純真な心、イエス・キリストの復活によって注がれた新しい心を守り抜くことが神の国を求めることです。
さらに平和、寛容、温順さを身につけるには忍耐が必要です。
忍耐する理由がわからないと自分勝手に生き始めます。しかしクリスチャンは、イエス・キリストがよみがえって神の国があることを証明してくださったので忍耐する理由を知っています。
この忍耐は神の国に入るための宝となるのです。報いがあるからです。
(ローマ6:3,4)そして、キリストの復活と一つとなって新しいいのちの人生を歩むことが出来るようになります。
バプテスマ(洗礼)によってです。私たちの代わりにイエス・キリストは十字架の刑罰と三日間の墓の中に葬られたことを信じたしるしとして水の中に全身をつけられます。
三日後にイエス・キリストがよみがえって輝いた新しいいのちで人々の前に現れたように、私たちも同じように新しいいのちを内側にいただいて、新しい神の国に向かって歩み始めるため水から上がってきます。洗礼を受けるとはキリストのよみがえりのいのちを内にいただくということです。
これは9節にあるように死の力が支配しません。この死は「役立たず」の状態です。人として生きる道から外れた状態です。神の国に入ることを求めない人生を歩む人は目的を外した生き方なので死んだ生き方なのです。
そのような道を外さない人生を歩む力を、イエス・キリストのいのちがもっています。14節にあるようにそのいのちをいただいた私たちも罪に支配されないのです。
(ヤコブ1:14,15)欲が起こると罪からの誘惑が来て実行すると死に至り、人間として生きる姿がなくなってしまいます。
しかし、ローマ6:14にあったように罪が私たちを支配しないので欲望がわいてきても罪からの誘惑に「No!」と言えるのです。
言ったとたん、罪の貪欲さが消えます。これがよみがえりのいのちを持っている者の証しです。
なぜクリスチャンが罪を犯すかというと、口では「No!」と言っても心で「Yes」と同意しており、罪に支配されることを許可しているのです。
「罪に支配されない」という鉄則は、キリストの復活によってもたらされ、クリスチャンに語っておられることです。
復活の力を信じて「罪に支配されることはない」とはっきり態度を決めて、神の愛の中を歩んでいきましょう。
あなたは必ず罪に勝利することが出来ます。

2002年3月24日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 賜物として与えられた苦しみ
〜キリストの受難〜
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。
ピリピ1:29
今週は受難週ですが、キリストのための苦しみを賜っているとはどういうことなのか、なぜクリスチャン生活に苦しみが伴うのかを理解し受けとめていただくためにみことばから語らせていただきます。
キリストのための苦しみとは、キリストに喜ばれる苦しみ、価値ある実を結ぶ苦しみ、キリストと同じ苦しみを味わうという苦しみ等々、いろいろ解釈できます。
イエス様の受けられた苦しみは、私たちの罪の身代わりとしての苦しみだけでなく、神の子として闇の中に輝く光としての苦しみでした。
イエス様が世の光として輝かれたように、私たちも世の光として輝いています。
光として、地上での人生の歩みを全うされたイエス様の苦しみは、世の光として輝く私たちにも、同じようにプレゼントとして賜っているのです。
この苦しみが、私たちにどのような素晴らしいものをもたらすのか見ていきましょう。
クリスチャン生活は、決して楽な事ばかりではありません。
救われたことによって、罪の人生の重荷から来る苦しみは取り去られますが、それ以外の別の苦しみがもたらされます。キリストの元に来るとき、私たちは休みを与えられますが、一方で負いやすく軽い重荷を負うようになります。それは負いきれない重荷ではありません。(マタイ11:28〜30)
神の子として受ける私たちにも負うことの出来る苦しみ、これがキリストのための苦しみなのです。
イエス様の誕生される750年前に、メシヤとして十字架で受ける苦しみがイザヤという預言者によって預言されていました。(イザヤ53:7、8)ピリポという伝道者が、この箇所を用いて(使徒8:32〜36)エチオピアの女王カンダケの宦官にイエス様の救いを証しし、宦官は救われました。
この使徒行伝のみことばから、イエス様の受けられた3つの苦しみを見ていきましょう。
1.黙々として口を開かなかった(マタイ26:59〜63、マルコ15:4〜9)
これは偽証を受けるという苦しみです。ここに預言通りの態度があらわされています。イエス様は律法学者やパリサイ人たちにとって邪魔な存在であり、彼らは何とかしてその存在を消し去ろうとしていました。マタイの箇所はユダヤ人の裁きの場であり、マルコの箇所はローマの総督ピラトの元での裁判の出来事です。
イエス様は、ピラトが驚いてしまうほど何の言い訳もされずに、偽証を聞いても黙々として口を開かれませんでした。明らかに偽りの証言とわかっていることは、ご自分の行ってこられた生活を見れば言い返す必要はないという神の子としての堂々とした姿がそこにあります。
私たちに対してもねたみから言いがかりをつけられているとわかっているならば、イエス様のように黙って聞くことが一番良いのだと悟ることが必要です。なぜなら、あなたに言いがかりを付けてくる相手はイエス様を殺そうとして偽証を立てたパリサイ人たちのように、あなたをどうにかして悪者にしようとしてきているのですから、そういう相手と争って正しい結果を生み出すことは無理な話です。
イエス様が光の子としての歩みに確信をもって偽証を耐え忍ばれたように、私たちもクリスチャン生活の中で受けるこのような苦しみを負ってゆくことがキリストの苦しみを賜ると言うことなのです。
もし私たちが自分は正しいという肉の主張をしてしまうなら、イエス様の忍耐された意図を理解せずそのお気持ちを踏みにじることになるのです。イエス様と同じ姿勢をもって、神の子としての正しさをしっかりと心にもちながら相手の偽証を聞くとき忍耐してゆきましょう。
これはなかなか難しいことです。イエス様はなぜ黙っておられたのでしょうか。なぜそうされたのかが、1ペテロ2章23節にあります。イエス様は正しく裁かれる方にすべてをまかせておられました。
「わたしは神の前に正しい歩みをしているので揺るがされることがない。神は真実で正しい方であり、この天地の裁き主なる神が正しい裁きをなされる」と信じて神にゆだねておられたのです。この忍耐の苦しみがクリスチャンに与えられている賜物であり、わたしたちがキリストの御足の後を歩んでいる光の子としての証明になります。世の人とあなた自身が、キリストと同じ歩みをしていることを知ることができるのです。
2.卑しめられた(ヨハネ19:1〜3、ルカ23:11)
嘲弄するとは、ばかにしてその人の存在を傷つけることです。これは精神的に大きなショックを与えます。イエス様は、正しい事をすることがあまりにもばからしくて価値のないことだと侮辱されて苦しめられました。人間としての誇りを傷つけられる取り扱いを受けられたのです。
しかし、イエス様が卑しめらた精神的肉体的苦しみは、ご自分がほんとうの救い主であるということの証明となりました。750年前の預言がそのまま成就したというしるしとなったのです。
私たちクリスチャンに対しても、まじめさは愚かで価値がなく人生になんの役にも立たないことだとあざけって正しいことを止めさせ、世の中の欲望に引き込もうとする働きかけがあります。
本物のクリスチャンであるが故に卑しめらればかにされるのです。自分が偽りの人生を送っていると知っている相手が、本物であるあなたの価値を引き下げようとして争いをしかけてくるのです。神の目に正しい歩みをしていると確信をもっているにもかかわらず卑しめられるのであるならば、それはあなたが本物のクリスチャンとして輝いた生活を送っているというしるしなのです。
3.さばきが取り上げられた(ルカ23:13〜23)
ピラトはローマの法律によってイエス様を正しく裁こうとしていましたが、イエス様を訴えたユダヤ人たちは正しい裁きをはばみ一方的に十字架につけろと要求しました。ピラトは本来なら正しく裁く力を持っていたにもかかわらず、この騒ぎがローマに伝わって自分の地位が危うくなることを恐れて民衆の大きな声に負け、保身のために妥協して正しい裁きを断念したのです。正しい裁きが取り上げられたのです。
大きな声を出すとは、力によって服させようとすることをあらわします。声の大きい人の意見が通り、正しいとされるのです。
クリスチャンは日本では少数派です。この世は、光の子であるクリスチャンを多数決による力で服させようとしてきます。しかし私たちはその意見に従うのでなく信仰を捨てず正しさを最後まで貫いて、多数決というこの世的な裁きの苦しみを忍耐して受けます。
この苦しみが、イエス様のための苦しみとして与えられているのです。
これらの3つの苦しみは、私たちがクリスチャンであることの証明となります。
この3つのことによって、まちがいなく天国にいけるという確信をもつことができます。100%救われているという自信をもつことができます。決して地獄に行かないという喜びに満たされます。
しかし、もしも妥協してしまうなら確信をもてなくなってしまうでしょう。
苦しみを忍耐することが、私たちにどれほど大きな益をもたらすのでしょうか。ヤコブの1章に、忍耐を働かせると完全な者になるとあります。苦しみは私たちを磨いてキリストの姿へと変える力となり、練り清められて忍耐を働かせる機会となるのです。
約束のものを手にし、永遠の神のご計画の中で神に生かされ用いられる存在となるために、イエス様の受けられた苦しみを共に味わうということを心に留めつつ、与えられたクリスチャン生活をさらに前進していきましょう。

2002年3月17日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 神のみこころを知る
〜主の働き人となる〜
こうしてあなたがたは、地上に残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
第一ペテロ4:2
最近、退職された方の中に、ボランティアをしたいと願う人々が増えています。経済成長の中でばりばり働き、裕福さが過ぎて、人生を改めて考える時、今度は損得ぬきで何か人の役に立ちたいという気持ちが湧いてくるようです。
私たちはクリスチャンとなって、クリスチャン余生、つまり、地上で残された人生をどのように過ごしたら良いのでしょうか。
クリスチャン生活は「神のみこころのために過ごすように」とペテロは言っています。神のみこころとは「人間の自己中心の欲望のためではない」人生にあります。
私たちが救われ、地上に置かれている理由は「みこころのために過ごす」ためなのです。
神を無視して何かを達成することはみこころではありません。人間の欲望は、神を無視した考えになります。たとえ善意であっても、神を無視した善意であるなら空しいものです。私たちは、神の国を信じ、神の国に生きているということを、決して忘れてはなりません。それを忘れてしまったら、クリスチャンとして生きること事態が空しくなってしまいます。
<神のみこころ>
神は私たちに可能性を見い出し、地上に置いてくださっています。
可能性=主の働き人になること
(ルカ10:2)で、イエス様は70人を選んで遣わされました。しかし、その時、70人では少ないと言われました。何故なら今日に至るまで収穫は完了していないからです。
神様が収穫しようとされているのは、この世の終わりに至るまでで、各々の時代ごとに収穫しようとされているからです。日本では特にクリスチャンが少ない状態です。しかし神は働き手を願っておられますが、それは、自主的なものであって決して強制はしようとされてはいません。神様就職する人を神は求めておられます。
人々が救われるための刈り取りの働き人となってほしい、これが神のみこころです。
<働き人の目的>
(ヨハネ6:27)働き人の主任としてイエス様は父なる神に認証されました。人は往々にして、肉を養うために働いています。衣食住はそうです。しかし、もし肉を養う必要がなく、霊の状態であったなら、食べることも、着ることも、住む必要もなくなり、お金の心配は全くなくなってしまうでしょう。肉体のために使うお金は「なくなる食物のため」であり、最後は火葬場で焼かれて灰になってしまいます。
しかし、そのように考えると余りに空しいので、今の快楽を求めて先を考えないで生きている人が多いのです。
しかし、クリスチャンは永遠の御国という結末を知っているのでそのような空しさがありません。
といっても、肉を養うことに心を砕き、悩んでしまっているクリスチャン達がいます。周りの影響を受けてしまっているのです。
私たちは、永遠の命のために魂の収穫のために働いているのだと言うことを、しっかりと自覚するなら、お金の使い方は自然に変わってくるはずです。この考え方からずれると、的はずれの人生になってしまいます。
神は「魂の刈り取り手」としてすべてのクリスチャン達に目的を持っておられます。私たちが人々の救いのためにお金を用いてゆくなら、その働きはなくなる者のためではなく、なくならない食物のためになってゆきます。
〜霊の求人募集!〜
求む、神のための働き人 → 人々の救いのために働こう
求む、悪魔のための働き人→ 人々の滅びのために働こう
<永遠の命のための働きと変えられるために>
(エペソ4:28)盗みをするというのは肉を養うために怒る行動です。今、国会で問題になっている鈴木氏は、自分が正しいと思うあまりに、他の人の証言はすべてウソであると言っています。肉の欲を満たすためなら、不正をも正しいとして大胆に行動してゆくようになります。
(ローマ7:5)から、肉にある人とはクリスチャンであっても、神のみこころからはずれ、自分の好き勝手に生きている人々を指します。
律法的には、救われたのは主の働き人となるためです。
しかし、神は強制をされません。私たちが神のみこころを知り、喜んでその働きを待っておられます。
しかし気付かずに生きていると、私たちはいつの間にか肉の情欲に引っ張られてしまうという弱さをもっています。救われても、何の目的も持たず、神の働き手としての仕事を怠けているならその人生はだらけたものとなり、ついには堕落してしまうのです。
自分の安全のためにも、主の求人に応じて働くことが大切です。
<実際的な働き>
(エペソ4:28)には、「困っている人に施しをするため」骨折って働きなさいとあります。
困っている人‥経済的な面、肉的な面のみでなく霊的にも、精神的
にも困っている状態の人々も含む
人々は真理がどれかわからないために、人生を困っています。あらゆる意味で困っている人々のために、骨折って助けてあげるよう神は願っておられます。余裕があるから手伝おうという程度のものではなく、必死でその人々のために働いて欲しいと言うことです。
イエス様は真に困っている人々の所へ行って、福音を伝えいやしを行われました。イエス様は貧しい人々、罪の奴隷となって救われたいと願っている人々の所へ行かれたのです。
神の働き手とは、世の中の仕事の種類によるのではなく、あなたとつながりがある人々の中で、本当に困っている人々を見出し、その人に福音を伝え、永遠の命の救いに導くことを意味しています。
つまり、あなたと接点のある人々を救いに導いて欲しいと神は願っておられます。主婦でも、学生でも、無職であっても違いはありません。
余裕ができたら助けようと考える人は多いです。しかし、それを言い訳として困っている人々を助けることを怠っていないでしょうか。
あなたも困っていても、あなたよりもっと困っている人々を助けることができます。
〜 例 話 〜
エチオピアの貧しい人々の村に、ある日本人のボランティ アが食糧を配給するためにトラックで行きました。ある村で長い行列ができていたとき、二人の小さな子供が横から突然やってきて、食料の荷物をひったくって逃げたのです。
しかし兵隊はその子達を捕まえ、その小さな荷物を取り上げてしまいました。日本人ボランティ アはそれを見て心を痛めましたが、兵隊は、「この食料はこの村のためであって、隣の村の子供のためでない。」と言い張ります。
悲しい気持ちで、彼は自分の食料をもって、先ほどの二人の子供を探して歩き回りました。その時、この村の男性が二人の子供達に何かを渡しているのを見つけました。この男性は、自分も自分の家族も一日分にも満たない配給の食糧の中から、この二人の子ども達に分け与えていたのです。男性は、「私たちも少なくなります。でも私たち以上に、あの子達の家族は食料を必要としているのなら、そのためにも分けてあげたいのです。」と言いました。
彼は豊かさの中からではなく、むしろ乏しさの中からでさえ、もっと貧しい人々に分け与えたのです。
これが神の私たちに対するチャレンジです。
困っている人を助けるということは、たとえ自分が困っていても、もっと困っている人を助けることです。私たちが自分の生活を守ることにのみ、心を向けているなら、その心は空しくなり、愚痴不平でいっぱいの人生になってしまうでしょう。
しかし、そういうクリスチャン人生はもう卒業しましょう。
私たちは神の働き手として召されています。
これからますます不況という時代に入ってゆくとき、クリスチャンとして、神の子として、神のみこころを行い、闇の中に輝く光としての歩みが試されてゆきます。
主の働き手としての自覚を持ちましょう。

2002年3月10日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 霊的に死んだクリスチャン生活にならないために
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。 ローマ8:13
アダムとエバは肉に従った為に、霊的死人となり、神様の一日(1000年)を生きることができず、死んでしまいました。
私たちも今、キリストのいのちを得て、永遠のいのちの輝きをいただいているにもかかわらず、肉に従って生きているとすれば、霊的には死んでいることになるのです。
それでは、肉に従って生きていると実際にどのような症状がでてくるのか見ていきたいと思います。
<肉的生き方のしるし>
1.(ローマ8:5)
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
信仰生活(御霊に属すること)より社会生活(肉的なこと)の方に気がとらわれて生きるようになります。教会に来てみことばを聞き、頭では理解しながらも、社会生活の方に重きをおいて生きるようになるのです。でもイエス様は言われます。「人は生かすのは霊であって、肉は何の役ももたらしません。」「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのみことばによって生きるのです。」イエス様はまた、マタイ6:28〜32で肉のことを考えるとは、異邦人のような生活を求めて生きることだとも言われます。
肉が必要でないと言っているのではなく、霊があってこそ肉が生かされると言うことを知っていただきたいのです。
私たちは「社会的責任を果たす」と言うことを言い訳として肉的生活を持つことを正当化していないか、今一度自分の心を探ってみる必要があるのではないでしょうか。
2.(ローマ8:7)
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従し ません。いや、服従できないのです。
神様のことばに対し反抗心を持ってしまいます。 神様が永遠のいのちのためにみことばに従いなさいと言われる時、私はまだ未熟ですから従うことができません等と言い訳をして神に対する反抗心を正当化しようとするところがあるとすれば、肉に従っている可能性があります。肉の思いは権威に従うことを拒むという特徴があるからです。
3.(第1コリント3:3)あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間に ねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありません か。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
すべてのことにおいて人と比較してねたみや競争心がおこります。常に人より優れた者でありたいと願い、成功すれば優越感にひたり、失敗すれば劣等感にさいなまれるようになるのです。
4.(エペソ2:3)私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中 に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り を受けるべき子らでした。
すべての基準を自分の思い(欲)として従ってしまいます。悲しみや怒りの中にひたってしまい、人の励ましも受け入れず、自分の考えをゆずらず、感情のおもむくままに身を任せるのです。
以上のような状態を放っておくと霊的死人となってしまい、クリスチャン生活を送る上で大きな妨げとなります。せっかく恵まれているはずのクリスチャン生活が苦しくなり、重荷となってしまうのです。本来クリスチャンにはマタイ11:30にあるようにキリストの重荷が与えられ、心地よく、軽くなるはずなのです。
それでは、どのようにしたら、肉をほうむり光の子としての歩みができるのか学んでいきましょう。
1.(ローマ8:9)けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あ なたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人 は、キリストのものではありません。
御霊とともに歩むことです。使徒2:38でイエス・キリストを信じ、心を開いたなら、賜物として御霊を与えられると約束をされていますが、それをしっかりと受け取る為に私たちはどのようにすれば良いのでしょうか。
(1)悔い改め=方向転換
みことばに従う決意をもう一度することによって肉から切り離 すことができます。
(2)洗礼とは何かをもう一度見直します
イエスの十字架の死と葬りによって、私の肉の人生は終わり、キリストとともに歩む新しい人 生に入ったというキリストとの契約は既に行われているのですから、ごまかされないようにし っかり確認することが必要です。
毎日のデボーションにおいてこの2つの点をし続けるならクリスチャンとしての歩みがさらに力強い者になると思います。
2.(ローマ13:14)主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけ ません。
キリストを着ることによってクリスチャンとしての自覚を持つことができます。そうすれば肉の欲に心を奪われることがありません。クリスチャンとしての自尊心を持つことがキリストを着ることです。
3.(第1ペテロ2:11)愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者 であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
肉の欲をもたらしてくるものを遠ざけます。
救われた直後は、聖霊に満たされている為、肉の欲から心が守られますが、少し時間が立ち、事後とで疲れたり、ストレスがたまってくると心に隙ができ、つい古き人の習慣(肉の欲)に引き寄せられやすくなります。
そのような状態にならない為に、日々祈って、悔い改めをし、霊的力をいただいて歩むことが大切です。
誘惑をもたらすものを自分の身の近くに置かないことなど、環境を整えると共に、肉の思いを遠ざける為、神の前にいつも正直な心を注ぎ出す習慣を怠らないようにしたいものです。

2002年3月3日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 世の光として生きる
わたし、主は、義を持ってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。
イザヤ42:6
<国々の光>
(イザヤ42:6)は、主なる神が、あなたを選び(義を持ってあなたを召し) 、あなたを決して離れず完全に守り(あなたの手を握り)、あなた自身を神と確かに契約を交わした者とし(民の契約とし)、真理についてのあかし人(国々の光)とするという意味で、神の召しに対する証明です。
これはイエス・キリストを信じ、世の光となった人々に対して語られています。このみことばから、世の光として生きていることを自覚し、闇からくる惑わしや不信仰を振り払い、力強く歩むことについて考えていきましょう。
神は私たちに『国々の光』という役割を与えて下さいました。
まず『光』には、どのような意味が含まれていて、神は私たちにどの様に期待しておられるのかを見ていきたいと思います。
<光の意味と役割>
(1) 光の存在価値(マタイ5:14〜16)
『あなたがたは、世界の光です』(14節) とあります。昼も夜も、全く光がなければ、地上の被造物は存在価値を失います。
今、10万年に1秒しか狂わない時計がありますが、光がなく文字盤が見えなければ意味がありませんし、素晴らしいスポーツカーを持っていても光がなければ走れませんから、その能力を発揮することができないのです。同様にすべての物は光があればこそ存在価値があり、能力を生かすことができます。この世のすべての存在を照らし、それぞれの存在価値をもたらすのが光で、かけがえのないものです。
神は、はっきりと光と闇を区別することがおできになります。
(出エジプト10:21〜23) に出てくる神のみわざは、これを示しています。光の周りは明るくなるのが普通ですが、ここではイスラエル人の住むところから周囲には光がいっさい漏れなかったのです。
神の存在そのものをあかしするこの奇跡を通してイスラエルの民は光のない世界のむなしさを教えられました。
光は、まことの神の愛であり、恵みです。この全宇宙は、神の存在がなければ、存在価値を失うのと同様に光の存在は価値あるものです。
『あなたがたは、世界の光です』(14節) のみことば通り、神は私たちに光ほどの存在価値を認め、光として召して下さいました。
世の人々は自分の持ち物によって、存在価値を競い合い、誇ろうとします。しかし、競う合うことも光があるからできることだと、気付いている人はいません。
クリスチャンもこの世では、特別に気にかけられる存在ではないでしょう。
しかし、クリスチャンがいるからこそ、神にとってこの世は、価値あるものとなっているともいえます。『あなたは、高価で尊い』とイザヤ書に書かれていますが、その価値は光と同様なのです。
クリスチャンが、この世にどれほどの影響力を持つ存在なのかを知り、『世の光』といって下さる神に、感謝し、満足すべきです。
神があなたを光とされました。周囲の反応は問題ではなく、たとえ、そしりを受けようとも、光の価値は変わりません。光は、ただ存在しているだけで価値あるものです。なにものにも代えられない存在価値を与えられていることに確信を持ち、「私は世界の光です。なくてはならない存在です」と宣言しましょう。
(2) 光を愛する者と闇を愛する者を区別する(ヨハネ3:19〜20)
光が存在するだけで、悪いことをする者と、真理を行う者とにはっきり分けられます。それが光の働きです。霊的な意味で、この世は闇の世だといわれます。暗闇の中では、真理を行う者とそうでない者とを区別する基準がありません。しかし、光が現れた時、初めて真理を行いたいと願う者が光の方へ集まってくることができます。
あなたはキリストに引かれる何かを感じてここに来たのではありませんか。真理を行うためにという気持ちはなくても、キリストのもとに来ることが自分の本来の生き方であると目覚めたから来たのでしょう。キリストのもとに来るとは、光の下に来ることであり、真理を行う者(真理を行いたいと願う者)
であると証明されているのです。
クリスチャンがこの世界で存在しているだけで、光と同じ働きをします。あなたを見て、光によってくる人々がいるでしょう。あるいは、光を憎む人々が出てきます。つまり神を求める者と、神を憎むものとがはっきり分かれてくるのです。あなたが努力しなくても、光として生きていけば、あなたによってキリストにつながる人があらわれ、あなたに嫉妬心、敵対心を持ち、攻撃的になってくる人や全く無視する人も現れてきます。
『悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。』(20節) からです。この世が神を受け入れないのは、正しい神の前で自分が悪であることが明らかになってしまうので、神を否定し、クリスチャンを認めないのです。光は、それらを区別する存在なのです。
世の人々に比べ、私たちが能力的に及ばない点もあるかも知れません。けれども、クリスチャンは、神をおそれるがゆえに、自分の罪を認め、神の前にへりくだり、悔い改める姿勢によって、光としての性質を現すことができます。悪を行う者は、悔い改める姿勢さえ弱い人間のすることと非難します。しかし自我を通すのが強い生き方であるという考え方は間違っています。それは自分の非を認めたくないだけなのです。
クリスチャンであるあなたが、していることが悪であると指摘され反発を感じるとき、それを素直に受け取れないなら、闇の世界に傾いている可能性があります。自分は絶対正しいとする姿勢があるからです。私たちの光の源は神様ですから、神とのつながりがなければ光が失われる可能性もあります。忠告や叱責を受けるとき、それに背を向けるのではなく、「そうかも知れません」というへりくだった心があってこそ光として輝けるのではないでしょうか。
実際に非がなければ、いずれ正しいことは実を結んでいくものです。神様が源であってこそ私たちが光でいられることを忘れず、光であることの確信を持っていれば、私たちがこの世の闇に倒されることはありません。
私たちは常に心の内の闇と光を感じています。神のみことばが心の内に輝いていれば、闇の力は次第に弱まり、光を持たなければ、逆に闇の存在が大きくなります。指摘に対して反抗心を持ったとき、動機を吟味する必要があるでしょう。もし、神の主権を無視した、自分勝手な考えからであれば、神の前にへりくだり、悔い改めれば良いのです。そのように方向を修正できるのは光を持っている証拠です。
あなたの存在そのものが、すでに光を愛する者と闇を愛する者を区別する光であり、神に選ばれた存在であることを見失うことのないようにしたいものです。
(3) 光としての生き方(第一ヨハネ1:7)
『光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち』とあります。これが闇に輝く光としての生き方で、闇との交わりではなく、光同士の交わりを保ち続けることです。火が束になれば、大風がふいても消えません。闇の風にふき消されないためにも、光同士の交わりを保つことは重要なことです。
集会は、みことばを聞くためだけではなく、光としての交わりの場でもあります。一人一人の輝きは違います。自分にない輝きを必ず、別の人が持っています。互いにその良さと存在を認めあうことが大切です。
私たちが認め合う兄弟愛を持ち交わるとき、光としての存在価値を生み出し、光としての働きができます。個々の伝道も大切な働きです。しかし、光の兄弟姉妹との交わりのない働きは、小さな光でしかありません。しかし、兄弟姉妹との交わりを保っていれば、その光は何倍にも膨れ上がります。なぜなら、交わりのあるここに愛があると言えるからです。こんな愛ある人間関係があるのかと人々は光に寄ってくるでしょう。
(ヨハネ1:12〜13)にある通り、血筋などの肉体的条件ではなく、ただ神によって生まれた私たちは、それぞれに光を持っていても皆が成熟したクリスチャンとは限りません。けれども、家族であるがゆえに、お互いの未熟さをゆるすことができ、受け入れ合うことができます。
光としての交わりの素晴らしさは、人々の共感を得て、今の状態が良くなくても、良い方向に向かおうという希望を与えます。 そんな人間関係、家族愛があるのが教会の交わりであり、光の存在価値を高め、はっきりと光の働きを示していけるものなのです。私たちのすべきことは、この交わりを築き上げていくことです。
神は私たちを光とされました。それはかけがえのない大切なものであるということです。光として生きなければ、私たちのクリスチャン生活はむなしいではありませんか。クリスチャンでありながら、否定的な思いにとらわれ、意欲を失ってしまうのは、自分が光であることを見失っているからです。心を入れ替えましょう。
神が私たちを選び、光として下さったのです。そのことに感謝し、光の生活を歩んでいきましょう。
