2002年2月24日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 神の完全な守りの内にとどまるために
苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。
詩篇119:67
<試練と苦しみ>
人生には様々な苦しみがあります。神が私たちに与えて下さった試練は、私たちを練りきよめるためのもので、私たちの益となる苦しみです。ところが(詩篇119:67)にある『苦しみ』は、意味のない無駄な苦しみを示します。
『苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。』とありますから、無益な苦しみに会う前に、み教えにそむくことをしていたことがわかります。そしてその続きは、みことばに従って歩む今は、苦しみに会うことがありませんという意味になります。
神に従う決心をしたにもかかわらず、以前と同じ苦しみを引きずっているということはないでしょうか。特に信仰生活が長くなれば、その苦しみが当たり前のように受け止められ、パウロのとげと同じものだと勘違いしている場合があります。パウロは様々な試練を通り、99点の信仰生活を送ってきた人です。それだけに傲慢にならないための肉体のとげ(サタンの働き掛け)だけは、取り除かれなかったのです。みんながパウロのようではありません。 神は私たちに、勝利あるクリスチャン生活を送ってほしいと願っておられます。パウロほどの信仰生活を送っているわけでもないのに、様々なわずらいから解放されないのは、なぜなのでしょうか。信仰を持ったばかりの時に味わった解放を次第に失ったように感じるのはなぜなのでしょう。
<神の守りは常に完全>
神は完璧なお方ですから、私たちへの守りも完全なものであるはずです。ところが実際は、恵みを感じつつ生活はするものの、どこか守りの壁が破れているような気がすることがあります。
神様の守りは自動的に常に私たちにあるのではありません。神様の守りは、神と私たちとの間に結んだ契約によってもたらされているものです。契約は、お互いが契約内容の条件をすべて満たしてこそ成就するもので、内容の条件に違反すれば契約は成り立ちません。 イエス様を信じる時に私たちは神と契約を結びます。創造主なる神を信じ、私の人生の主権者として神を敬い従いますという内容です。この契約によって神は溢れんばかりの恵みを私たちに注がれ始めます。ところが、与えられる恵みに心奪われ、私たちが契約の条件を満たしていないことがあるのです。
契約は私たちのほうから破ることによって無効となります。神の守りに疑問を持つとき、問題が私たちの側にある場合もありえます。私たちがイエス様と結んだ契約は、ひとことで言うと『神をおそれる』ということです。神は私たちの罪を赦し、完全に安全な守りの囲いに入れて下さいます。私たちは神の羊となる契約を結ぶことができました。囲いの中は安全で、狼に襲われる心配はありませんし、たとえ病気になっても、イエスの御名によって癒され、貧困からも解放されます。
これは(詩篇145:17〜20、箴言29:25) の成就です。それはイエス・キリストの救いによってもたらされたものです。このみことばの成就を自分の生活に見るためには、神に信頼し、敬い、おそれることが必要です。もし、守りの壁の破れを感じているならば、神をおそれる心を点検すべきでしょう。あなたが神を敬っていることを他の人に、どの様な点で伝わっているでしょうか。主を敬い、おそれる3つのポイントをお話ししましょう。
<1.教会を大切にする(エペソ5:29) >
28節には夫が自分の体を愛するように妻を愛するようにとあります。イエス様は教会をそのように愛されました。私たちは自分の身を守るために反射的に行動します。車が近付いて来れば避けますし、転びそうになれば、手を出して体を支えます。そのように自分の体を愛しみ、常に守ろうとするでしょう。そのようにキリストは教会を愛されたのです。 イエス様が、ご自分のいのちをかけてでも守ろうとなさった大切な存在が教会です。それほどまでに神が大切になさっているものを大切にしなければ、神を敬い、おそれてはいないということになります。
聖書を欠かさず毎日読み、良く祈り、集会に休まず出席したとしても、あなたが兄弟姉妹を非難し、裁き、協力をしないならば、教会を大切にしていると言えるでしょうか。欠点があり、自分と違うことも、信仰の差も、すべて当たり前のことです。様々な人が集まっている教会を神は宝のように大切になさっていることを忘れてはいけないのです。
親友の大切なものを借りたとします。ところがあなたはそれを不用意に汚し、ろくに謝りもしなかったとしたら、親友は激しく怒るでしょう。それは親友なのに自分と同じ様に大切に取り扱ってくれなかったということへの怒りです。もし、汚しても誠実に謝ってさえいれば、親友ですから許してもくれるでしょう。それは誠実な態度から、故意でなかったことが伝わるからです。
神はお怒りにはなられませんが、私たちが教会を大切にしなかったなら、同じ様にこころに痛みを感じられます。教会は赦された者同士が集まっている所です。感情的には赦すことができなくても、イエス様が大切にされているのですから、主のために赦し、愛していこうではありませんか。これが主を愛し、敬い、おそれることになるのです。
<2.指導者を敬う(使徒23:5)>
これは、議会でパウロがキリストについて立証しているときに、大祭司アナニヤが感情的にパウロの口を打てと命じました。反射的にパウロが律法で裁くと言いながらやり方が間違っているとアナニヤを非難した後、周囲の者からアナニヤが大祭司であることとを知らされ、パウロが言った言葉です。
パウロの非難は的を得ていましたし、間違ったことを言っていません。ところが、パウロは、この発言の動機が悪いことを認め、反省しました。どんなに問題ある指導者でも、神が立てられた権威と秩序を乱すことは、みこころではないことをパウロは良く知っており、これほどまでに神を敬う姿勢があったことを示しています。
非難したくなる指導者がいないとはいえません。ここで大切なのは、指導者の資質がどうであれ、神はその人に指導者としての権威を与えられ、指導者は神の代理人であり、指導者を非難することは神を非難することになるということです。このことを深く理解し、指導者を敬う姿勢を忘れなかったことはパウロの伝道活動の大きな守りとなりました。(第二コリント11:23〜33参照) 神が立てられた権威や秩序を軽んじないこと、軽々しい批評から裁かないことを心掛けたいものです。
<3.什一返金を守る(マタイ23:23)>
これはイエス様が指導者たちに言われたことばです。律法を表面的には守っているが、神に対する正義、人々に対するあわれみ、みことばに対する誠実も同様に大切であると言われました。これはユダヤ人のルールを守る生活に対する忠告です。
ここで、注意したいのは、正義、あわれみ、誠実をつくしているから什一返金をしなくて良いと判断するのは間違いだという点です。『他のほうもおろそかにしてはいけません。』とイエス様が言われています。なぜ、什一返金は重要なのでしょうか。
人は金銭の誘惑に非常に弱いものです。神様はお金を必要とされているのではありません。什一返金をおろそかにしないようにという最大の理由は、経済においても神の主権を認め、信頼するという点にあります。結果として神の完璧な守りの内にとどまることができるのです。神はただただ、あなたに守りの囲い内にいてほしいと願っていられます。主に信頼して什一返金を守るものには天の窓を開いて祝福を与えると約束されています。(マラキ3:10)
経済に関しては、個々に事情もあり、簡単に什一返金ができないことも考えられます。しかし、いつまでもそれに甘んじるのではなく、什一返金を喜んで守れるようになるよう、祈り求め、できるようになることが必要です。神を主権としない金銭感覚は、次第に使うべき優先順位を間違ってしまいます。什一返金は、先に述べた教会を大切にすること、指導者を敬うことと同様、神をおそれることの表現方法の一つです。神は決して強要されませんし、捧げられるようになれることを待っておられます。なぜでしょう。これを守れないがために、あなたが囲いを出てしまい、守りたくても守れない状況になっているからです。
私たちは、都合よくみことばを解釈してしまう弱い心を持っていることに気付く必要があります。そして、その弱さに付け入られることのないよう、心の点検をし、主をおそれることを表明し、神の完全な守りの内にとどまっていきましょう。

2002年2月17日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 聖霊によって潤うために
イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
ヨハネ6:35
イエス様はご自身をこのように表現しておられます。これは、イエス様を信じたらずっと満腹になれるという意味ではなく、飢え渇くことのないように、パンと水が供給されるということを意味しています。食べ物や水は、私たちが働き続けることができるように、与えられるのです。でも、働かないと、そのうち違うものが欲しくなります。
イスラエルの民は、エジプトで四百数十年間奴隷であったとき、とても貧しい生活をしていました。神はモーセという指導者を送り、数百万という民を引き連れ、先祖アブラハムの約束の地に導こうとエジプトを出ましたが、彼らの罪により、四十年間も荒野で過ごさなければなりませんでした。その間、人間が生きる為に必要な全ての栄養素を含んだ、天からのパン、マナによって養われました。しかし、荒野で仕事もせずに同じものばかり食べていると、飽きてしまいます。
クリスチャン生活も、働かないと、神様のみことば、聖霊の水に飽きてしまい、違うものが欲しくなってしまいます。クリスチャンというハードスケジュールの中で、当然エネルギーが必要となるのですが、イエス様のもとに来る者は、決して飢えることがなく、渇くことがありません。それなのになぜ、不平不満を言ってしまうのでしょうか。それは、正しいクリスチャン生活を送っていないことに、原因があります。
クリスチャン生活の仕事とは、キリストが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことです。これをしていると、赦せない人を赦し、敵を愛せよというのですから、相当のエネルギーがいるので、求めずにはいられなくなります。
もし、人ではなく、神に求めているのなら、神は御霊を通して必要なものを与えてくださいます。なぜ、飢え渇くのか、何を求めているのだろうかと、考えたことがありますか。
私は、クリスチャンになってしばらく、飢え渇きがなくなったことがあります。神様を信じて、良かったと安心しきってしまい、求める気持ちがなくなり、迷い始めました。すると、何を中心に生きていけばいいのか、なぜクリスチャンでいるのか、意義がわからなくなってしまいました。
満足感というのが、かえって私たちの心を惑わせてしまいます。しかし、私に神様から与えられた人生、仕事があるということに目を向け始めると、飢え渇きが出てきました。
私たちは、自分のいのちを輝かせる、やりがいのあるものを見つけていないために、何か満足しない人生を送ってしまいがちです。
クリスチャンは、神様によって自分の問題が解決し、平安になり、それで終わっていれば、イエス様を知らない人と同じ人生の迷いを持ったままクリスチャン生活を送ることになります。
クリスチャンであってもなくても、目的を持った人は、自分の生き甲斐を見つけることができ、それに心を燃やすことができます。しかし、この世のものに目標を持ち、成功をおさめても、それを手にすると、これは違うと思いまた別の目標を立てる、仕事も家庭もうまくいっても何か足りないという気持ちになるそうです。全部手に入れた人も、むなしいのです。
それでは、私たちの魂の飢え渇きは何なのでしょうか。そして、それを満たすのは何なのでしょう。
<渇きを満たす聖霊のうるおい>
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(
ヨハネ7:37〜39)
生ける水とは、神の御霊のことです。
イエス様は十字架にかかられ、よみがえられて後神の栄光を受けられ、信じる者に神の御霊を与える権威を携えて、今、天におられるのです。だから、「わたしのもとにくる者は、決して飢えることなく渇くことがない」と言われるのです。
また、神の御霊が私たちの魂の根本的な渇きを満たすものだと語っておられます。この地上の様々な業績や能力、快楽などでは満たしきれないのです。神の御霊が私たちの内にあるなら、すべての価値観、楽しみが本当の意味で、目覚めてきます。
クリスチャン生活に、不平不満が多く、祈りが答えられないのは、神の御霊以外のもので心の渇きをうるおそうとしている結果として、満足できない不満を神に祈ってしまっているのではないでしょうか。私たちの魂をうるおすことのできるのは、神の御霊だけです。私たちを創られた神ご自身の愛が注がれて、私たちの魂は満足するのです。
すべてを満足できる御霊のうるおいが与えられているにもかかわらず、それから目をそらし、別のもので渇きを満たそうとするとき、クリスチャン生活の意味と意義、そして価値さえも分からなくなります。
クリスチャン生活の迷いの根本は、あなたの魂が、御霊によって満たされていないことかもしれません。私たちの心を吟味する必要
があります。
「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ16:13)
私たちが、魂のための食物、水に満足していれば、私たちが体験している人生のすべてが見えてきます。真理の御霊によって、今の自分がどうしてあるのかを納得でき、受け入れることのできる悟りが与えられます。疑問に対しての答えが得られます。すべての真理、すべてのことが明らかにされる悟り、このように心に悟りをもたらすのは、神の悟りによります。
「彼らと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなた方は聖霊のバプテスマを受けるからです。』」(使徒1:4〜5)
私たちが御霊を受けることができるために、まず、罪のゆるしが必要でした。そのために、イエス様がご自身を十字架にかけられ、葬られ、よみがえられて、罪のゆるしを与えてくださいました。このイエス様が、約束を受けるまでエルサレムを離れないように、と言われたのです。約束、すなわち聖霊のバプテスマを受けなければ、どんなにイエス様を信じていても挫折してしまいます。心に水の源をいただくまでは、とどまって、与えられるまで求め続ける必要があります。
<聖霊のうるおいを受けるために>(使徒2:38)
1.悔い改め
悔い改めるとは、考え方を変えることです。神を認めないできた生き方から、神を認める生き方に方向転換することです。クリスチャンは、神の主権を受け入れていない部分があるかどうか点検が必要です。
2.バプテスマ、洗礼
洗礼とは罪のゆるしのしるしです。洗礼を受けなければ、まだ罪のゆるしを受けていないことになります。クリスチャンは、罪のゆるしを覚えていなければなりません。聖餐式は、この罪のゆるしを思い出すためのものです。
考え方をしっかり変え、罪のゆるしを心に信じて、御霊を受け止めましょう。しるしとして、異言、夢、啓示が与えられたり、みことばが心で理解できるようになります。神のご計画に対しての興味や、人をゆるす勇気、善に対する飢え渇き、平和を創る意欲がわき上がります。御霊を受けると、いろんな形で心に、生活に変化がでてきます。
また、受けたにもかかわらず、それがなくなっているクリスチャンは、何で心をうるおそうとしているかを吟味しましょう。また、与えられた御霊に関心を向けなければ、効果は出ません。賜物としていただいても、使わなければ意味がありません。
私たちの心を満たすのは、御霊の水以外はありません。それは、体験しないと分かりません。しかし、求めてみれば分かります。この御霊にうるおされるように求めましょう。
また、この御霊以外のもので自分のクリスチャン生活をうるおそうとしていないか、私たちの心を吟味していきましょう。

2002年2月10日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 原点に帰って
〜神の和解のメッセンジャーとしての使命〜
主は、ある人達がおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
第二ペテロ3:9
<裁きの日とは>
(第二ペテロ3:9)に神様の全人類に対するお気持ちが書かれています。神は最後の裁きをいつでもおできになられます。しかし裁きの日は、いまだに来ていません。それである人々は、裁きの日とは神話であって、人々の道徳心を支えるための教えにすぎないと考えました。 裁きの日は世の終わりであって、その先はありません。神様が簡単に裁きの日を来させないのは、もうそこですべてが終わってしまうからです。終わりとは今までのことをすべて精算するということですから、慎重にしなくてはならないでしょう。
終末論は未信者の方でも論じられますし、宗教者が終末の日を断定しておきながら実際に来なければ、不信感が募るのは無理もありません。けれども裁きの日は一度だけです。一度来たら、すべてが終わってしまい、やり直しはできないのです。
この世は、いつかは処分されるものですから、その中がどうなるかが問題ではありません。神様は処分品の中から神に立ち返ろうとする魂を探しておられます。ですから、もうこれ以上、一人も救われないと神が判断された時こそ終わりの日なのではないでしょうか。 神はエデンの園をゴミ置き場に造ったのではありません。神が人を造られた本来の目的は園の管理者としての存在でした。けれどもアダムとエバは自らがゴミになる方を選びました。この一度の失敗で人類を滅ぼすのは惜しいとお考えになられた神は、今なお神に立ち返る人を求めて、終わりの時を延ばしておられるのです。神は何とか人を生かして救いたいと切に願っておられます。そして、神のこの切なる思いを伝えるのが私たちクリスチャンの役目なのです。この役目は強いられてするのでも、義務でも、責任でもありません。
<神の恩義に報いる使命感>
(第一コリント9:19〜22) でパウロは、あらゆる人々の環境に自分を合わせて福音を伝えたとあります。それはあらゆる人々の気持ちを理解し、一人でも多くの人が救われてほしいと考えたからです。それは利害関係などではなく、強い使命感からでした。
幾人かでも救われて欲しいという熱い情熱が彼の中になければできない働きです。この情熱、使命感が彼の地上の歩みの原動力でした。中東からヨーロッパにまで伝道していく間、彼は幾度も災難や拷問にあい、死にかけました。では、どうしてこれほどの強い使命感があったのでしょう。
受けた恩義に報いたいという愛の使命感を人が持つ時、その情熱と使命感は尽きることがありません。自分で決めた使命感が独りよがりで、長続きしないのとは対称的です。パウロは神から受けた恩義に報いたいとい愛の使命感を強く持っていたと言えます。
昨年ミッションバラバの吉田芳幸さんと真島創一さんがいらした時に、いろんなお話しをお聞きしました。このお二人のイエスさまに対する気持ちは、ヤクザの親分子分の関係でしょう。ヤクザの世界は、恩義をうって、その恩義に報いるのが筋という世界です。ですから恩を受けた組のためなら、悪いことだと分かっていてもやりぬいていきます。ヤクザのときは、悪を行う親分のためでしたが、救われた後は親分の席が、そっくり一点の曇りもない善なる神さまにとって代わったのでした。
彼らは信じたからといって、すぐに変われたわけではありません。何度も悪の道に行きつ戻りつしながら立ち直って行ったのです。麻薬中毒を克服するために信仰にたって、幻覚と戦い勝利するという壮絶な所も通りましたし、十字架行進でメディアに取り上げられると、何度も殺されそうになったりもしました。挫折しそうになる度に、クリスチャンの妻の信仰によって、こんな私でも愛してくださる神の愛をひしひしと感じて、立ち直っていったのです。それは真似できないほどの強い決心で、自分を生かしてくださる神の愛に報いたいという使命感を持っておられ、全国の刑務所などであかしをなさるほどになられています。
映画が公開になったとき、新宿の映画館にかつてのお仲間たちがいらしたそうです。どうなることかと思いつつ、イエスさまに祈り、家路につくと、「俺もそうなりたい」と電話がかかって来たそうです。その時に神様に心から感謝を捧げ、心癒されたのを感じたそうです。
私たちは、弱く、すぐ挫折しそうになります。とても彼らのようにはなれません。けれども、パウロやミッションバラバと同様に神はこの弱い私たちにも神のメッセージをたくされたのです。
<私たちは神のメッセンジャー>
(第二コリント5:19〜20) を見ましょう。私たちの地上の歩みは、神の和解の使者という役目のためにあります。そっぽを向いている人々と仲良くなるために、手を差し延べておられるのだということを知らせてほしいと、クリスチャンたちの願っておられます。
伝道者という肩書きではなく、それぞれの持つ社会(職場や近所の人間関係など)で、その中に入って神のみこころを伝える様々な立場の人が必要なのです。なぜなら神はひとりも滅ぶことを望んでおられないのですから。
NGOなどの活動で、一歩間違えば命を落とし兼ねない状態の中で、神のメッセンジャーとしての働きをしている方もいれば、主婦として伝道していく方もいます。それぞれの立場で、精一杯、神の恩義に報いていこうとする態度を、忘れないでいたいものです。
それは実際的な伝道でなくても、伝道活動を支える献金を捧げていくことも伝道の一つといえます。私たちの人生には、神のメッセンジャーとしての使命があり、できることから精一杯その使命に生きていくことで、更にいのちを輝かせてほしいと神は願っておられます。それを意識して、毎日を大切に歩んでいきましょう。

2002年2月3日 日曜礼拝メッセージより (辻 秀彦
主任牧師)
● 神の国の素晴らしさを伝えるために
〜3つのポイント〜
もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ばさないでください。ですから、あなたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認めらるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
ローマ14:15〜19
先日結婚式があり、ご両家の親類や友人の方々が初めて教会の結婚式とレセプションを経験されました。こういったイベントには、多くの教会の方々の奉仕が必要になります。そういった奉仕は大変ですが、その奉仕を通して教会に初めて来られた方々が深い感銘を受けて帰って行かれるのを見る時、本当に報われる気持ちがします。
「今日のレセプションは、本当に良かったです。」と言われた人々は、一体何を良いと感じられたのでしょうか。アルコールも、何万円もするような豪華な料理もありませんでしたが、そこに集い喜んで奉仕しているイエス様を中心としたクリスチャン同志の愛の交わりにひきつけられたのではないでしょうか。こういったクリスチャン同志の集まりに、世の中の人々は他では感じられない魅力を感じ、教会に集うようになります。
今日は、神の国のすばらしさをかもし出す、3つの条件をお話ししたいと思います。
〈神の国のすばらしさを伝える3つの条件〉
神の国は、イエス様を信じ神の愛を大切にしている人々の集まりの中に存在します。ですから、この神の国の存在を証しする、さらにすばらしい集まりとなってゆくために、3つのことを心掛けていただきたいと願います。
(1)愛を動機とする(ローマ14:15)
当時、教会の中で肉を食べていいかどうかという議論がありました。どちらが正しくて神の戒めに近いか、私たちは自分の意見が一番いいと信じて、相手に押しつけてしまう傾向があります。
しかし、どちらが正しいかということでクリスチャン同志が争い、傷つけ合うことは、神の御心にそぐわないことだとパウロは忠告しています。
神の国のすばらしさは愛によってなされる行動です。
私たちが何かを話し合い、一つの決定をなそうとする時、とても苦労します。運営委員会でも、そこが問題になります。
たとえベストの意見があっても、そう決まらない時もあります。そしてある人から見れば能率的とは言えない話し合いが延々と続くことも度々です。
何故でしょうか。それは、愛によって行動するということを考えているからです。時間がかかっても、なるべく多くの人々が心を痛ませることなく快く奉仕できるようにしたいと考えるからです。
愛による行動こそが、あらゆる意見の違いの溝を埋める最高の解決策です。夫婦や家族であっても、そこに愛があるからこそ、共に居て幸せなのです。「愛はすべてを完全に結ぶ帯」だからです。
それでは、私たちがイエス様から引き継いだ「愛」とはどういったものかを見てゆきましょう。
〜〈愛について〉〜(1ヨハネ4:10、11)
1.まず、自分の方から愛していこうとする愛
相手の態度や状況を見るのではなく、こちらの方から心を開いてゆく愛です。義理ではなく、 自らすすんで愛してゆく愛です。
2.自分に関係のない損失を埋めてあげる、与える愛
見返りを期待せず、相手が必要としているという理由で与える愛です。
神は、全世界の人々の救いのために十字架のあがないをされました。その愛に応えない人も多くいるということをご存知の上で、それでも必要であるゆえに、これ以上ない犠牲を払われたのです。
私たち人間は、いくら愛しても期待した応答が得られないでいると心が弱ってゆきます。
しかし神は、たとえ応えてくれる人がただひとりであっても、十字架で死なれることを喜びとされます。百匹の羊のうち、一匹でも迷い出たなら、その羊のために命をかけるとおっしゃられました。神様の愛は、枯れることがありません。
何故なら神ご自身が愛の源であるからです。
もし私たちがこの神に期待し、人間に期待しないなら、報われなくても愛し続けることができます。
(2)飲み食いで楽しむのではなく、聖霊の喜びで楽しむ(ローマ14:17)
世の中はお酒が中心になっているので、お酒なしにどうして宴会が楽しめるのかと考えます。しかし、教会では神の御霊による感動の喜びを味わうことができます。ただし、愛の行動が土台となっていないと、それを感じることができません。
今回、学生の方々が二人の結婚を祝って応援団のようなことをされました。元気がないし、技術的には不足したものでしたが、それにも関わらず回りの人々はすばらしと感じられました。それは、彼らの愛の行動からかもし出された聖霊の喜びが伝わったからです。技術でなく心が伝わったのです。
今回のレセプションの料理も大変だったでしょう。疲れていやになる気持ちも出てきたかもしれません。しかし、そこに愛による動機があったからこそ、最後まで喜んでやり抜くことができ、しかも楽しい暖かい雰囲気を回りの人々に与えることができたのです。
同じ奉仕でも、何をしたかしないか、どれだけ犠牲したかしなかったかは問題ではありません。
すべては、聖霊による喜びをもってなされたかどうかが大切です。
(3)お互いの霊的成長に役立つことを追い求める(ローマ14:19)
「自分が自分が」という考えをもち続けると、失敗した時に一番みじめな気持ちになります。自分の存在をアピールし、自分の存在感が大きくなることを求めての奉仕は、神の国を表すことができません。互いの成長に役立つようにという心をもつことが、神の国のすばらしさを人々に伝えることになります。むしろ、自分よりも他の人が成長するようにという方が正確な表現でしょう。これは世の中とは全く異なります。世の中の成功の道は、相手を引きずり落としても自分がチャンスをつかむというやり方で得てゆきます。
しかし、神の国では、回りの人の成長のために、あなたがどれだけ手がけたかということが、成功の道なのです。たとえば、自分がやればこれぐらいはできるとわかっていても、あえて他の人の成長のために、その人に任せて自分は一歩引くということもすばらしいことです。
これが神の国のすばらしさを人々に感じさせる三番目の秘訣です。
今日のこの3つのポイントは、教会の行事だけに当てはまるのではありません。
皆さんの家庭やクリスチャンの集まりの中で、心にとめて実践していただきたいものです。そうしてゆく時に、多くの人々が神の国のすばらしさを知ってゆくことができるようになります。
