2001 June Weekly Bible Message

 2001/6/3 ペンテコステ記念礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきに付いて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。(ヨハネ16:7〜9 )

罪について6
〜聖霊と罪について〜
 

<ペンテコステと助け主>
 今日は聖霊と罪について見ていきましょう。
ペンテコステとはギリシャ語で50をあらわす言葉で、日本では五旬節と呼ばれています。神はモーセの時代に、年に3回の主の祭りをすることが定められ、過越しの祭りから50日目に行う祭りなのでペンテコステと呼ばれます。収穫祭として一般には知られていますが、ただ単なる収穫の祭りとは違う意味を彼らは理解しています。(レビ記23章参照)
 ペンテコステは、アブラハムが受けた約束の地に彼らが入ってから守ることを定められた祭りでした。ですから約束の地にいた短期間だけ守られた祭りです。 
 この祭りの本当の意味はイエス・キリストを受け入れた人々が救われるという魂の収穫を現していて、この日にイエスを信じる人々に聖霊が注がれ、その人を幕屋として内に住まわれるという約束の成就を祝います。(使徒2章参照)聖書の中で、聖霊、御霊とも呼ばれるこの方は、助け主とも呼ばれています。
 (ヨハネ16:7) に助け主の名が出てきます。体を持たれたイエス様は心を通わすことはできても、人々の心の中に住むことはできません。ですから弟子たちは3年間イエス様と共に歩みましたが、霊的に変えられるほどの影響は受けませんでした。
 ところが、そんな彼らが劇的に変化する瞬間が来ます。ペンテコステの日に集まっていると、聖霊がひとりひとりに下り、その時から彼らは想像を遥かに越えて強められ、変えられ、イエス様が語られたすべてをその時に悟ったのでした。つまり聖霊様は、みことばに対する悟りを与える教師として、私たちの内に大きな助けをもたらすお方なのです。ですから、イエス様は助け主が来られた方があなたがたの益になると言われたのでした。

<聖霊の3つの働き>
 (ヨハネ16:8) でイエス様は聖霊の3つの働きについて言われました。この世は、罪、義、さばきについて間違った概念を持ってます。そこで助け主は、まことの神がおられ、罪と義とさばきに対する正しい考えを示し、間違いを指摘し、こころを目覚めさせるという働きをされます。
 (ヨハネ16:9) で罪と聖霊様の関係が書かれています。ここではイエスを信じないことが罪であると言う意味ですが、それがなぜ罪であるのかを明らかにしてくださるのが聖霊様の働きです。この罪はギリシャ語でハマルティアと言い、的はずれな、考え違いをしているという意味で(5/27週報参照)救い主イエスを信じないのは、考え違いをしているということになります。聖霊様はこの罪をこの世の人々に広く示し、またクリスチャンも聖霊様と罪との関係を深く悟るようにしてくださいます。

(1) 聖霊によって罪を知ることができる
 聖霊によらなければ私たちは罪を悟ることはできません。
 一般的に罪とは道徳的な違反や律法や法律上の違反をさしますから私たちは、ゆるせない心や聖書を読まないことなどに責めを感じます。
 しかし、この程度の認識では罪から離れることはできません。罪がどれほど恐ろしいもので、私たちを害するものであるかを理解する必要があります。
 そのために聖霊様を私たちの内に迎え入れ、神と共に生きる人生を考え、きよい生活は実現をめざします。聖書のことばをなかなか実行できないのは聖霊様とともに歩む生活から離れ、自分の知識、経験、体験でみことばを理解しようとしているのです。分からない、できないと放り投げないで、クリスチャンとして完成を目指していきたいものです。

(2) どのように聖霊は私たちに悟りをもたらすか
 知識は理屈の積み上げで理解するのに対し、悟りは理屈を越えた理解です。(ヨハネ6:63) に『いのち』という言葉がありますが、この『いのち』とは、生かされた状態で、本来あるべき状態で人生を歩むことを示します。この状態が悟りです。ですから『いのち』を悟っている者は『いのち』のある人生を生き生きと送れます。
 (ヨハネ6:63) は『悟りを与えるのは御霊です。』と読んでも言い過ぎではありません。『いのち』を与えるのも、『いのち』に対する悟りを与えるのも御霊です。そしてイエスの語られたことばは、『霊であり、またいのちです。』とありますから、御霊はイエスのことばと一体になって、悟りを与えてくださるのです。つまり、イエスのことばが語られるところに御霊が働き、私たちの知識を越えて魂に悟りをもたらすことをあらわします。
 礼拝のメッセージは御霊によって語りますが、聞く側も御霊によって聞くので、それぞれの生活、仕事、信仰の深さに違いがあっても誤差は生じません。
 それは、御霊が、あなたの中で、それぞれに応じた理解ができるようにバランスを取ってくださるからです。ですから、私たちの内に御霊がおられることは、重要なことなのです。
 ここで、律法のあるところに働くもう一つの力を思い出してください。みことばが語られ、御霊が働く時に、みことばを守らせない罪の働きも同時に起こります。たとえば、ゆるせない心は、ゆるせという戒めをもって、更に強く膨らんできます。
 ところが、これらの戒めが働くところに御霊様も働き、あなたに悟りを与えます。同時に2つの力がぶつかり合うのですが、罪に負けるのは聖霊様が共におられることを理解していないか、理解しようとしないからです。
 韓国の教会では毎朝4時から祈祷会、金曜日には徹夜祈祷会が行われていますが、どの教会もそれを祝福と認め、毎朝みんな自発的に何千人もの信者が集まって祈ります。
 このことを聞いて、自分にはできないからクリスチャン失格だという考えを受け入れるならば、不従順(パラコエ)に心を譲ったことになり、信仰の前進を阻む結果となります。しかし、聖霊の働きを認めるならば、祝福だからやってみようという前向きさが与えられるのです。

(3) なぜ意識的に耳をふさぐ(パラコエ)のか(第1テサロニケ4:2〜8)
 罪に負けてしまうのは聖霊の働きを止め、拒んでいることになります。(8節)御霊が共にいれば絶対に罪に勝てます。なぜなら、御霊は死者の中からイエスをよみがえらせたお方で、『・・・御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら・・・あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。』(ローマ8:11) とあります。死ぬべきからだとは自分の欲望を満たすだけの罪の状態ですが、御霊はそんなからだをも神のために良い実を結べるよう用いてくださいます。ですから、耳をふさぐのは御霊と御霊を与える神を拒絶しているのです。
 神と御霊を拒むとは、聖くなること(3節)聖潔を得ること(7節)を拒んでいるという意味になり、罪に同意することと同じです。当然のことながら罪に勝てるはずがないでしょう。『・・私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。』(第一ヨハネ5:4)とありますが、御霊と歩むから勝利ができるのです。すべてはあなたがどちらに耳を傾け、決断するかにかかっています。御霊に聞くなら、誘惑に勝利し、豊かなこころで生きていけます。

<どのような心構えが必要なのか>
 御霊の声と罪の誘惑という綱引きで、あなたはこころに受け入れたほうに引き摺られていきます。では必ず勝利するためには、どの様な心構えが必要なのでしょうか。
 『神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。』(第1テサロニケ4:3)をしっかりとこころに握ることです。生涯の目標として聖くなることを求め続けるなら、御霊は共にいて勝利させてくださいます。聖めることは、あなたのいのちを価値づけることです。
 聖さから焦点をずらしている人は、誘惑に弱く、否定的です。
 どんなに素晴らしいビジョンを持っていても、動機が聖くなることでないならば、それに価値はなく、むなしいものです。
 天地創造の神を否定した人が、どんなに非の打ち所のない素晴らしい人でであっても、神の前に価値は認められません。
 それは、親子関係に置き換えれば理解しやすいでしょう。親を馬鹿にしている子供が、どんなに人間的に素晴らしい事をしても、馬鹿にされている親にとって、そのことに価値を見出だすことができないのと同じです。
 聖めの基本はまず、神の主権を認めることです。神こそ唯一の絶対者であることを認め、へりくだることが基本なのです。聖めに対して自分が持っていた価値判断を吟味し、聖めに対する意識を高めていきましょう。


   



2001/6/10 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。(ローマ 7:9 )

罪について7
〜行いの未熟さから来る罪の責め〜
 

<私たちを殺そうとする罪の働き>
 パウロは律法学者ですが、律法を学ぶ前は律法について細かく考えることなく生活していましたが、パリサイ人として生き始めた時から、律法を学べば学ぶほど罪が自分の内に生きて働き、私を殺していくということに気が付きました。(ローマ7:9) 詳しくは(ローマ7:11) に書かれていますが、罪が私たちの魂を殺すために働いている事が書かれています。 
 当時、鉄砲も化学兵器もありませんから、殺す場合は剣などを使います。そして人は傷付けられると死にます。罪も私たちを傷付けて死に至らせます。私たちが心に痛みを伴う傷を持っていたとします。それに解放されずに悩み続けているとき、あの人から受けた傷だと、人から傷付けられたように記憶します。しかし、傷をもたらす張本人は罪です。では、心が傷付くとはどういうことなのでしょうか。「あなたは愛され、幸せになる資格のない存在です。」など、存在を否定されるような言葉によって心が傷付きます。存在してはいけないという状態に追いやられる時に、心が傷付いていくのです。
<どのようにして傷を受けるのか>(ローマ7:9)
 どのようにして私たちは傷を受けるのでしょうか。まず、律法による「存在するにふさわしい者であれ」という要求がきます。すると罪は私たちのできていない行いを責め、「存在するにふさわしくないでしょう。」と良心のとがめを起こさせます。良心のとがめが積み重なって、傷となってきます。できていないということを強調し、ムチ打って傷を付けてきます。
 律法が私たちの魂に要求をしてきます。その要求に私たちが答えられる状態にあれば、罪からの責めは来ません。しかし、答えられないとき、心が痛みます。それは、できていないことを罪が責め立てるからです。この傷を通して、私たちに痛みが出てきます。罪はできていない部分を必ず責めます。
 責められると人は大きく2つの行動に出ます。1つは自分を責め、悩み、苦しみ、失望し、劣等感を持ち、自己憐憫に陥っていき、病気になったり、自殺したりします。もう1つは、これ以上傷を受けたくないために、自己防衛として偽善を装い、うそや言い訳をする上に、心の傷を、自分以外の人間が苦しむのを見ていやそうとする思いがわき、他者を実際に傷付ける行動に出ます。子供を責めても傷や痛みを残すだけであるのと同じです。
 6/8に起きた大阪の池田小学校の事件の犯人(小学校の1、2年生の教室に侵入し包丁で、教師を含む15人にけが、8人を死亡させた事件)は、自分で死に切れないので死刑にしてほしいと叫んだそうです。彼はまず自分を殺そうと、自分を責めるほうをやってみましたが。自殺に失敗し、もう片方の方法に切り替え、他者の痛みで自分の痛みを紛らわせた上に、他者に自分を殺させようとまで考えました。その原因は、存在に対する痛みです。彼は人々から存在を認められるような役立つような愛される存在でもなかったのです。彼なりに努力しましたが、結果は裏目に出てきました。実際に傷付けられ殺された親の気持ちはどうでしょう。目に入れても痛くない子供を理由もなく殺されたのですから、犯人を恨む気持ちも湧くでしょう。結果、張本人の罪を憎むのではなく、犯人に殺意を抱くほど憎むでしょう。犯人と同様、人を傷付けるのです。心の傷は人を破滅させる力を持っています。これは人ごとではありません。

<クリスチャンはこの心の動きをどう処理するのか> (第一ペテロ2:24)
 これらはすべて、私たちを滅ぼす罪の働きかけによるものです。憎しみや、復讐心を持って平安であるとは言えません。ではクリスチャンはどう処理していけばいいのでしょう。(第一ペテロ2:24) にある通り、十字架の打ち傷によって私たちはいやされていることを、しっかり握ることです。
 罪はできていない行いを責めてきます。責められるのは、私たちの行いが未熟だから、完全に律法に従うことができないためです。そして私たちも「できていない」と罪に同調し、心に傷を受け、痛みを生じます。ここまでは誰でも同じです。
 クリスチャンは神をおそれ、神の約束を信じているので、罪の責めからくる痛みと傷は、信仰によって十字架(十字架の打ち傷によって私たちはいやされていること)にゆだねるのです。あなたが感じる痛みは、傷は、十字架上でイエス様も同じに受けておられるのだと重ね合わせることによって、ゆだねることができます。
 主の苦しみにあずかれて感謝だという言葉は、自分が今受けている試練や痛みは、イエス様が十字架で直接的に受けてくださったと信じられる人が言える言葉です。そういう信仰があれば、罪があなたを責め立て、心に痛みを感じても、イエス様も人から十字架上で責められ、罵倒されたことを思うでしょう。そして、イエス様を責め立てた人々のために十字架に掛かられました。
 罪は私たちのできていない行いを責めますが、神は私たちを罰するのではなく、イエス様を十字架で罰したのです。ですから罪から責められたとき、イエス様の恵みによって、生かされてチャンスを与え続けて下さっていることを知り、罪からの責めはあっても、神から責められることがないので、安心してもっと成長していこうと前進していくことができるのです。自分で痛みを抱え込むと、傷はますます深くなるだけです。
<神の期待と水のバプテスマ>
 私たちは自分の未熟さを自分で償うことはできない力のないものです。ですから、イエス様の十字架は完全な、無に等しいものへの救いなのです。しかし、罪は私たちの信仰に水を差し、十字架と一つにさせないよう働きます。それに対応するために、神様は私たちに水のバプテスマを人生の節目として私たちに与えてくださいました。これはキリストの十字架と一つになったしるしで、不信仰から私たちを守るためのものなのです。
 十字架に痛みをゆだねる実際の方法は、罪に対して死ぬことです。(ローマ6:11) はバプテスマについて書かれています。受洗者は行いの未熟さによる罪の責めは十字架と共に処罰されなくなっているのだから、罪からの責めは無視しておきなさいということです。罪を無視することは罪に対して死ぬことです。
 罪に対して死んでいれば、私たちに残るのは自分たちの未熟さだけになります。ですから私たちは成熟を目指して前進していき、これが信仰生活になっていくのです。私たちの人生は失敗を償う人生ではなく、失敗してもやり直し、少しずつでもゴールに近付くことです。神様は、「償わなくても良いようゆるすから、成長しなさい。チャンスを与えるから、同じ失敗をしないように、もう一度やり直して努め励みなさい。」と言ってくださっているのがクリスチャンの信仰生活です。ですから、前進していくことが神に対して生きることになります。救われたのは神様が私たち一人一人に目的をもってくださっているからです。
 生かされている以上、神様に期待されています。生きているのは、あなたの成長がストップしていない証拠です。これを見失うと罪に誘惑されてしまいます。ですから、私たちはキリストの御姿に近付くただその一つの道を一心に歩んでいくことです。神様は決して私たちを責めません。なぜなら未熟さを良く知っているからです。
 ですから今は恵みの時、救いの日、ゆるしの時です。今の間に成長することが必要でしょう。
 キリストの十字架は私たちを安易な生活に陥らせるためのものではなく、すくすくと成長するために置かれたものなのです。あなたは罪の責めからもう解放されています。あなたの人生は前だけを向いて、前進していくものなのですから。

   




2001/6/17 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
(伝道者の書 12:13 )

罪について8
〜的はずれとは何か 1〜
 

 <何から的がはずれているのか>
 罪の実を以前学び(週報 罪についてNo.5参照)、『的をはずす』という罪の根本的な意味を知りました。今日からは、どのような生き方が的はずれなのかを知り、軌道を修正して、的を得た生き方をしていくための助けとなる学びをしていきましょう。今日からのメッセージによって、やり直しのチャンスをつかんで下さい。
 できていない自分を責め、あきらめるのではなく、的をはずしていたのなら的を得た人生にしていくために前向きにとらえていただきたいのです。私たちの人生は責め続けられつぶされるべきものではなく、完成へと一歩づつ近付くためのものです。気持ち次第で軌道修正でき、取り返すことが可能です。
 『これが人間にとってすべてである。』は口語訳では『これはすべての人の本分である』と書かれ、これ以外にない、人生の根本的なものであることをさしています。
 私たちの存在理由は神を認めるか否かで大きく2つに道が分かれてしまうことを以前お話ししました。
 伝道者の書を書いたのは神の霊を受け、世界一の知恵者となったソロモンです。彼は知恵、権力、財力を持ち、人が人生で経験でき得る限りのことをすべて探究し、神を除いた人生を客観的に観察しました。そして導き出した結論は『空の空。・・・空の空。すべては空。』(伝道者の書1:2)でした。空というほど何がむなしいのでしょうか。そのむなしさの原因が(伝道者の書12:13)だと言うのです。
人生をどんなに追究しても、どんなに快楽を得ても、神を認めない人生は死というものによって、すべてがむなしいものであり、結局のところ人間は神を恐れることを本分として生きることが、一番価値ある生き方であり、むなしさのない人生であるとソロモンは結論づけました。
 『的をはずす』第一は神を恐れない(無視する)ことです。神を認めず、うやまわないのことは私たちの人生を的はずれなものにしてしまいます。進化論は人生の意味を失わせますが、創造論は私たちの存在に意味をもたらします。この様に、神を恐れることは人生の土台となるべきものです。

<神を恐れる者への祝福>
(1) 天使の守りがある(詩篇34:7)

 未開の地に宣教に行った宣教師の先生方が様々の危険から奇跡的に守られるというあかしを聞きます。私たちの日常でも、偶然だと感じるような事故や危険からの守りを体験することがあるでしょう。偶然における奇跡的な守りなどは天使の守りといえます。守りを感じない人は、神を恐れる心を点検すべきなのかもしれません。

(2) 願いが聞き届けられる(詩篇145:19)
 神を恐れる者の願いは神に聞き届けられるとは、願っていることに神様が応答してくださり、結果を出してくださるという意味です。神を恐れる者の願いは神のみこころにかなった祈りができます。(第一ヨハネ5:14) 祈りがきかれない場合、試練のときもあるでしょうが、もう一つ点検しなくてはいけないのは、主を恐れるこころがあるかどうかです。

(3) いのちの泉がわき、死のわなからのがれさせる(箴言14:27 )
 主を恐れることによって、いのちの泉が私たちの内に存在し、わきあがり、死の罠から逃れさせてくれます。泉とは水がこんこんと湧き上がってくるところで、どんなにその水をかきまぜ濁しても、湧き上がってくる水によってすぐきれいになります。同じように、死が私たちの心を汚して来ようとも、いのちの泉があれば、それは浄化されます。試みで、こころが騒いでも、いのちの泉がある限り、元に戻ることができます。いのちの泉を持つために主を恐れることが必要です。

(4) いのちに至り、満ち足りて住み、わざわいに会わない(箴言19:23 )
 いのちに至るとはゴールできるということです。そして満ち足りて住むことができるとあります。満ち足りることは平安で幸せなことです。

(5) 報いは富と誉れといのち(箴言22:4)
 神を恐れることの報いとして与えられるものは富と誉れといのちです。これらはすべて私たちが望んでいるものでしょう。富や誉れやいのちを求めるよりも、主を恐れることで報いとしてこれらは与えられるのです。

<具体的に神を恐れるとは>
(1) 悪を憎む(箴言8:13)

 主を恐れる心があるなら悪を憎むはずです。高ぶり、おごり、悪の道、ねじれた言葉を憎み、拒絶します。これらのことに鈍感になるのは神を恐れる心が乏しいからです。
 人がした悪を通して、その人自身を憎むことがあります。憎しみは人格を変えるほどの大きな力を持っています。憎しみがあふれると、自制心や道徳心を打ち壊し大きな問題を起こしますから、憎しみをためておくことは大変危険なことです。では心にわいた憎しみをどこにぶつければ良いのでしょう。 一つだけ、ぶつけてもいい場所があります。聖書は、罪と悪にそれを向けるよう教えています。過去の経験から心に憎しみが残っている場合、人に対して憎しみを持ってしまいますが、その人に対してではなく内側に働く悪に対して憎しみを持つべきです。詩篇でダビデが詠んだ憎しみは、神が正しく裁いて下さる方である信頼を持って、相手の内在する悪に対してであることを忘れてはいけません。ですから、相手を赦すことができるのです。

(2) 主を恐れる姿勢(詩篇34:11 〜14 )

 悪口や欺きを語らず、悪を離れ善を行い、平和を求めることが主を恐れる具体的な姿勢です。これらのことに心を止めない人は、口先だけで主を恐れているのです。すべてができるわけではありません。しかし、これらを努めて心掛けることはできます。努めていれば、悪口や欺きが語られる機会は減り、悪を警戒し善を行おうとするでしょう。
 悪口は否定的な表現をさします。たとえば、天候に対する不平や否定的な表現も悪口になります。私たちには無駄なことや悪いことが一つもなく、すべてが益となることを神に信頼して生きている者であることを忘れないようにしましょう。生活していく上で建て前が必要な場合があります。しかしこれも行き過ぎると欺きになりますから注意が必要です。 悪を離れ善を行うことは表裏一体ですが、悪を離れたから善を行えるわけではなく、また、善を行ったから悪を離れたわけでもありません。両方行わなくてはなりません。教会で素晴らしく献身的に奉仕するから、夜な夜なお酒を飲んでもいいわけではありません。悪を隠すための善行は欺きです。善を行うなら、悪からも離れる決心が必要なのです。
 平和を求めるとは極力、人とは争わないということです。争えば両方が傷付きます。主を恐れるとは神様に裁き(結果)をゆだねることです。汝の敵を愛せよとイエス様が言われたお言葉は、敵と争って互いに傷付け合わないようにと言う意味もありますが、敵に善で報いた私たちに、さらなる悪で応酬してくる場合に、相手の悪が確実に決定付けられ裁かれることも意味します。争ってクリスチャンも同じ裁きを受けないよう心掛ける必要があります。

(3) 主の恵みを待ち望む(詩篇33:18 )
 神を恐れるとは、神からの恵みを待ち望むことです。恵みとは神からの一方的な恩寵を受けることです。神は決して遅れたり忘れたりする方ではありませんから、神様の愛と恵みは期待に十分に値するものです。ですから待つかいもあります。
 必ず答えられるという期待をどれくらい私たちは持っているでしょうか。信仰の実がなかなか実らない人でも、主を恐れ、忍耐強く待ち望めば、必ず変えられ実は結ばれます。私たちは自分の力や状態を見てあきらめてしまうことが多いのですが、そんな私たちでも神は恵みによって実を結ばせることのできるお方ですから、簡単にあきらめてしまう必要はありません。期待して待ち望み続けていきましょう。

<主を恐れる態度を知って>
 主を恐れることの意味を理解していただけたと思います。これらを100 %行えと言っているわけではありません。けれども、決してこれらを忘れず心掛けていくことが必要です。
 心掛け気をつけて生活していけば、主を恐れる者の祝福が受けられます。主を恐れる謙遜があれば、ストレスがなく、快活さがあります。
 主を恐れ、あなたの生活に主の祝福を受けていただきたいと願っています。

   



2001/6/24日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。 
(ローマ14:23 )

罪について9
〜的はずれとは何か 2〜
 

<信仰から出ていなければ罪(的はずれ)>
 (ローマ14:23 ) は、肉を食べるか食べないかで宗教的な論争になった場面です。聖書の解釈の違いですが、どちらが正しいのかの論争にパウロは、『(信仰から出たことは、すべて正しく)信仰から出ていないことは、みな罪です。』と教えました。今日のポイントは「信仰から出ていないことは的はずれだ」ということです。
 では、信仰とは何でしょう。 言葉の意味としては、信頼、信用、誠実(ギリシャ語から) を呼び起こすものを信仰というのだそうです。
 それは人格的信頼関係が前提になります。日本語では超自然的な力に対して起こる信頼に使いますが、ギリシャ語は神に対しても、人に対しても使います。
 聖書的にこの言葉を説明すると、「聖書に啓示されている神の意志に対する忠実さのこと」となり、心の動機とそれに伴う行動も含まれています。

<的を得た信仰と的はずれな信仰>(マタイ25:14〜30)
 では、的を得た信仰と外れた信仰の違いを(マタイ25:14〜30) のタラントのたとえ話から見ていきましょう。この話の大まかなあらすじはこうです。
 主人が3人のしもべにそれぞれの能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントの財産を預け、旅に出ました。5タラントと2タラントを預かったしもべは、それを元に商売をしてさらに預かった額と同額の利益を上げ倍に増やしましたが、1タラント預かったしもべは、お金を土に埋め主人が帰って来るまで隠しておきました。主人が帰って来ると、商売で成功した2人のしもべは主人から喜ばれ、さらに多くのものを預けようといわれました。ところが、1タラントのしもべは、大事に保管していたにもかかわらず、悪い怠け者と言われた上に預かっていたものまで取り上げられてしまったのです。
 では的を得たしもべと外したしもべの違いは何でしょう。2つ考えられます。
   (1) 主人に対しての動機の違い
   (2) 行動の違い

 このしもべたちは主人に対してどの様な考えを持っていたのでしょうか。24〜25節に1タラント預かったしもべの動機が書かれています。このしもべは非情にも厳しく搾取するひどい主人だと思っていました。
 おそらくこの主人は几帳面で、まじめな正しい主人なのでしょう。主人の細部にいたるまでのきちんとした管理ぶりを見た3人のしもべたちは、同じ主人に仕えていたにもかかわらず、主人への見方は違っていたのです。

 1タラントのしもべは『ひどい主人』といいましたが、これは厳しさを表しています。このしもべは怖さ、つまり裁かれ、悪いところを指摘して懲らしめられるというイメージを主人に対して持っていたために、土に埋めて隠すという、生産性のない否定的な行動に出ました。不信感から出る行動は消極的で、生産性のないものになります。

 20節には5タラント預かったしもべの動機が書かれています。『預けてくださいました。』という表現は、主人は自分を信頼して預けてくれたのだという思いが伝わります。ですから、このしもべは主人の信頼に答えようという思いを持ちました。このしもべが持っていた主人へのイメージは、自分の能力を高く評価し信頼してくれている。もしかしたら自分でも気付かない能力を主人は見抜いているのかもしれない。そこまで期待してくれているのなら是非、期待に答えていきたいという信頼感に満ちたものでしょう。このような発想に立つと、積極的で、大胆な行動に出ることができるものです。

 信頼をもった信仰を働かすことを通して、積極的な行動が生まれ結果が現れるということがこのたとえのテーマで、(ローマ14:23 ) からいうと、主人を信頼しないことから出た考えや行動は、的はずれな(主人の思惑とは違った)結果を生み出すということです。
 すべては私たちがイエス様のイメージをどの様なものとして持ち続けているかが問題になってきます。何ごとも順調な時と、祈りに答えられなかったり試練の時のイメージをコロコロと変えてしまうようでは忠実さがないことの現れで、信頼を持っていないことになります。そのようなままで、信仰生活を続けていれば、的はずれな信仰生活になってしまうでしょう。当然、結果は良いものになり得ませんから、神様に対してみこころを考えない自己中心的な愚痴、不平が吹き出すことになります。

 上司との関係において、信頼されていると強く感じることができれば、大胆で積極的に仕事をすることができ、素晴らしい結果を出すことができます。ここに意地悪な人が居て、上司との信頼関係を絶つよう画策し、結果を出さなければ上司はすぐにでもあなたを首にすると告げたとします。それを聞いて疑いを持ち始めると仕事は消極的なものとなり、成果は出なくなってきます。消極性が目立つと、とうとう首になり、あの忠告は本当だったと思うでしょう。でも、成果が出ていたときと出なくなった時の違いは上司へのイメージの変化によるあなたの行動の差だけで、上司が変わったわけではないのです。
 この様な人格間の関係を信頼関係と呼びますが、神様に対しての信頼を信仰と呼ぶだけで同じものです。イエス様へのイメージをどんなことがあっても良い方だと思い続けることができるか否かが人生の結果を実り多くするか否かを左右していきます。

<主人の思い>
 では、主人はどの様な思いで財産をしもべに預けたのでしょう。(マタイ25:21)を見ましょう。タラントの差は、それぞれのしもべの能力に応じた負担で、責任を伴います。負担を受け止める心の強さの差で、やりとげる力を信じて預けているのです。
 主人は『わずかなものに忠実だったので』といいました。1タラントでも数年は食べていける莫大な金額ですが、主人にとってわずかな額で、5タラント損することも主人にとってはたいしたことではありませんでした。では主人の願いは何だったのでしょう。預けたものをどうにか生かそうとする、しもべの忠実な心を見つけたかったのです。

 これは神様と私たちの関係についてのたとえですから、当然、神様は私たちの失敗や成功といった結果ではなく、忠実に生かしていこうという心を見ておられるのだと言えます。私たちのいのちも、神様から預かったもので、基本的に私たちのものではありません。私たちは神がひとりごイエスをお遣わしになるほどに愛され、罪があるにも関わらず尊いと信頼して下さっていることを忘れてはいけません。そしてその愛と信頼に答えていこうとする私たちの忠実な心を神様は何よりも喜んで下さるのです。ですから信仰から出たことは罪ではないのです。
 主人は5タラントのしもべも、2タラントのしもべも同じように喜び、褒めました。私たちは結果を見て、人のほうが自分より多く神様から愛されているように思うことがあります。それは間違いです。神は結果ではなく、いかに忠実さを持って人生を全うするかを見ておられるので、失敗を恐れず期待に答えていこうという積極性を持って、みことばをとらえていっていただきたいと思います。

<的を外さないために>(エペソ3:12)
 忠実さを持ち続けるポイントは2つあります。
      (1) キリストを信じる信仰
      (2) 大胆に神に近づく

 大胆に神に近づくとは失敗を恐れずに積極的な生き方ができるという意味です。そしてそれほどまでの積極性を持てる大きな要因はキリストを信じる信仰がもととなります。良い主人のイメージを持つための証拠としてイエス・キリストの存在が歴史に刻まれたからです。見えない神を良くイメージするには限界があります。
 しかし、見えない神をイエスは見える形で表された方です。キリストを見れば、神がいかに素晴らしい方であるかを確信することができ、良い方であることを信じることができます。神への信頼があれば忠実さは自然に生まれてくるものです。
 では、キリストを信じることで、なぜ神様の良さがわかるのでしょう。(ヨハネ3:16) にあるように、私たちがひとりも滅びないようにと最も大切なひとりごイエスを与えて下さった方が、私たちを苦しめ、陥れるようなことをなさるでしょうか。それほどに私たちは神から愛されているのだと確信できます。イエス様を信じることは神様の良いイメージを見失わないための動かざる証拠だということなのです。ですから十字架を見上げるとは、苦しんでおられるイエスを眺めるのではなく、それほどまでに愛して下さる神の良さを見ることなのです。「神様は私にとって良いお方です。」と告白していきましょう。そして、十字架を見上げ、自分の忠実さを増し、積極的かつ大胆にクリスチャン人生を前進していきましょう。

 

   



  

JESUS FELLOWSHIP HIROSHIMA