2001 May Weekly Bible Message
2001/5/6 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。(ローマ7:8 〜11)
〜罪について2〜
<罪の性質を知っておく>
今回は罪の性質を知ることが中心となります。戦うためには相手の性質を知らなければ、作戦の立てようがありません。ですから罪の性質も知っておくべきです。(ローマ7:8〜11) は罪の性質について書かれていますが、要約すると「罪は律法によって生きてくる」となります。律法は本来、人を良い方向へ導くための戒めですが、それがなぜ罪を生き返らせるのでしょう。まずは罪の3つの性質から見ていきましょう。
(1) 罪は戒めによって機会を捕らえる。
戒めが来たときに罪はチャンスを見逃すことなく姿をあらわし、働き始めます。
(2) してはならないことを引き起こす
私たちには何が正しいのか、悪いのかが判断できる良心と道徳心があります。けれども、してはならないとわかっていることを心の中に引き起こしてくるのが罪の性質です。たとえば、盗みは悪いことだと知っているのに、万引きをしたくなる衝動を起こさせるようなものです。
(3) 律法を用いて私たちを欺く
悪いと知っていることを行動に移させるためには、判断を鈍らせ、悪さを見せなくする必要があります。そこで律法を用いて私たちを欺こうとします。「本当に悪いことなのかしら?」「あなたの欲求を満たしたらいいのよ」などと、みことばと反対の感情を湧き立たせてきます。アダムとエバが罪を犯す以前から罪の性格は同じです。つまり『善悪の知識の木からは取って食べてはならない。』(創世記2:17) という戒めが置かれた時、食べてみたいという欲をもって実を眺めていたエバに対し、罪はチャンスを逃さず近づき「(食べても)死にません。・・・目が開け、あなたがたが神のようになり・・・。」とささやいて、してはならないことをするよう感情を掻き立て、欺きました。これが罪の性質の基本です。
この様につねに罪との交信をしている意識のある人は少ないでしょう。なぜなら普通は罪の奴隷となって、無意識の内に動いてしまうからです。しかし、良心に敏感な人は常に「したい。・・・したくない。」と葛藤が起こります。
私たちの身近なところで親子関係においてしばしば、この罪の性質を感じることがあるでしょう。親は子供を正しい方へ導こうと躾をし勉強させようとします。それが律法です。ところが、勉強ができていない子供は勉強しなさいという律法に対し、できていない自分を自覚しているので心に痛みを感じ、「うるさい!」と反抗的な態度に出てきます。
この反抗心は律法によって生きてきた罪のあらわれで、その顕著なものです。罪はあなたを滅びへと導くための力なので勉強し栄えていくことは罪にとって居心地が悪くなります。ですから反抗心が出てくるのです。反抗心のない人は自分を必要以上に責めて自分を傷つけていきます。いずれにしても滅びに向かわせる心の動きを罪はするのです。
反抗心は不信感、怒り、攻撃性を生み出します。罪は傷つけるという行動をとり、してはならないことを引き起こすのです。だれも傷付けたり、傷を負ったりしたくないでしょう。けれども傷付け、傷付くのは罪の力に引き込まれているからです。そして経験からみことばを測り、不信感を持ち始め神の存在まで否定するようになってくるのです。ではこのような罪をどの様に対処したらよいのでしょうか。
<罪への対処>
(1) 罪に機会を与えない=言葉の使い方
罪が機会を得るのは律法が与えられたときですから律法的に聞こえないように言葉遣いに気をつけることです。「・・・しなさい。」ではなく、するべきことを自発的にできるよう励ましの暖かいことばをかけてあげましょう。
(2) 罪に対して死んだものとして対応する=心の使い方
理屈でわかっていても、なかなか難しいのですが、イエスの死と葬りと復活を通して私たちにもできます。つまり、罪を無視し、反応しないことです。
反りの合わない人がいるとします。面と向かうとけんかになるので、けんかを避けるために相手を無視するというのは良くある場面でしょう。同様に罪にもするのです。このとき大切なのはあなたと罪は別のものであると、しっかりと認識することです。また、罪を無視することは心が平安であるというのとは違います。それは反りの合わない人を無視しても心に平安がないのと同じです。では心をどうすればいいのでしょう。
私たちには現実に罪に死んだものであるという事実があります。イエスの十字架と共に私たちの罪も十字架につけられたので、私たちに罪に対する責任はありませんが、私たちは二千年前に戻ることはできません。そこで、神は私たちにもイエスの死と葬りと復活を体験させるために水のバプテスマを設けられました。水の中で死と葬りを、水から出て神に対して生きた存在であることを体験するのです。この体験を裏付けとして、私たちは罪に対してすでに死んだものであり、神に対して生きた存在であることを自覚できます。心の整理だけでは惑わされてしまうので、神はこの体験を与えて下さったのです。この2つに気をつけて、さらにイエス・キリストを復活させた聖霊があなたの内に宿っていれば、罪に完全に勝利できます。イエス・キリストは復活によって死に勝利されました。死とは罪の力です。死に打ち勝たれたならば、あきらめずに罪に立ち向かえば必ず勝利できるということです。私たちは一瞬一瞬を選択し続け、罪は常にあなたに戦争を仕掛けてきます。
この世の人は罪に踊らされているだけですが、クリスチャンは罪に支配されることのないものとされています。ですから罪を犯すこともできれば、犯さないでいることもできる自由があります。
では、罪を犯してしまうのはなぜでしょう。罪を支配したいのか、罪の奴隷となるのかはあなたの選択と意志決定にかかっています。
そして、罪の奴隷となってしまうのは、あなたが罪に付け入る許可を与えたからであり、その責任はあなたに問われるのです。
神は一人の滅びも望まれませんから、だれでも救われる道をつくって下さいました。
自己憐憫や自己義に凝り固まることなく、私たちは罪を犯してしまう弱さを持っていることを認めることです。
認めれば罪の力は弱まります。そして罪の性質や対処法を使って、罪に対して賢く振る舞っていこうではありませんか。
2001/5/13 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたは自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6:16)
罪について3
〜クリスチャンに与えられた選択権〜
パウロは、イエス・キリストが与えられた自由を、クリスチャン達が勘違いしないように願ってこの手紙を書きました。
イエス・キリストの救いは、罪を犯しても赦されるものです。それは大きな恵みです。しかし、それに甘んじて罪を犯し続けてはなりません。
クリスチャンが自由を与えられているというのは、その自由意志で、罪の奴隷となるか、義の奴隷となるか、どちらかを選べる選択権が与えられているということです。そのどちらかを選ぶことによって、人生は2つの全く違った方向に向かって行きます。
<人生における4つの基本的質問>
この質問を通して、罪の奴隷を選ぶのと、義の奴隷を選ぶのとの違いを見てゆきましょう。
質問 (1)私はどこから来たのか?
(2)私は何故ここにいるのか?
(3)私はどのようにして生きるべきか?
(4)私はどこに行くのか?
これらの4つの質問に対する2つの全く違った立場からの答えを見てゆきます。
神に従う者 罪に従う者 (1)神から来た
(神によって創造)(1)自然発生
偶然に生まれた(2)神のご計画によって
ここにいる(2)何の目的、意味もなく
ここにいる(3)神の秩序に従って
生きる(3)強い者が力によって
秩序の基準になり生きる
(弱肉強食)(4)永遠のいのちに至る (4)どこにも行きつかない
この2つの答えは全く違っています。そして人生の方向も全く異なります。そのどちらに服従するかは各自の自由意志によります。
<クリスチャン生活が空しく、疲れている場合>
そういう人は気をつけないとなりません。何故なら空しいということは、何の目的も意味もなく人生を歩んでいることになるからです。
又、教会の中には自分の力を生かす場がないと言う人や、用いられている人をうらやむ人は、(3)で強い者が力によって秩序の基準となり生きるという、罪に従う者の基準によって歩んでいることになります。
神の不公平…いろいろな環境がある
神の平等……報いは各々に応じてある
自分が基準となって物事を判断し始めると、罪の奴隷となっていることになります。クリスチャンは神に従う者として(1)〜(4)の答えをしっかりと心に刻み、そこからはずれないように気をつける必要があります。罪に従い始めると、空しさがきますから、もし空しいと感じ始めたら、それは危険信号です。
(ヨハネ3:20、21)で、一般的に罪の奴隷となる方を好む者は、義の奴隷を憎むとあります。それは自分の悪を指摘されたくないからです。「自分の方が正しい」と強情に言い張る時は、自分の心に闇を引き入れてしまっているのです。真理を知りたい、と願っている人は、光を求め、必ずキリストに出会います。
「空しい人生を送るか」「意義ある人生を送るか」
神を信じるものにとって、この地上は永遠のいのちに至る基礎づくりです。それゆえ、クリスチャン生活を、私たちはもっと真剣に生きる必要があります。
人生という一日の労働時間は、仕事をする時間であって、決して休みの時間ではありません。この時間をさぼってしまったら報いはないのです。「永遠のいのち」という給料を手にし、神の誉れをいただくことが、私たちの人生の目標です。
できないという心の弱さは、罪の奴隷となっているゆえです。例え健康であっても、もし甘えて仕事を避けているなら、良い報いは得られません。どんな人生であっても、キリストに従順に全うすれば、必ず永遠のいのちという報いが与えられます。
「価値ある報いは、価値ある労働」これこそ神の平等です。今日、悔い改めて歩み始めるなら、神は必ず報いてくださいます。あなたの人生を、一体何にささげているのか、的を得た人生を選びとっていきましょう。
(例えあなたの意志は弱くても、神の意志は強いですから、神に信頼しましょう。)
2001/5/20 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。(ローマ 7:9 〜10)
罪についてNo.4
〜罪に欺かれないために〜
<罪の欺き>
戒めによって機会を捕らえた罪は欺きという形で私たちに働きかけてきます。欺きとはだまし、惑わし、偽ることです。正しいことを悪とし、悪いことを正しいとするのは欺きです。どこかで私たちは欺かれて、罪を犯し、縛られ、罪から逃れられないと信じこまされています。そして私たちは罪から離れられないと錯覚してしまうのです。
罪は私たちとは別の人格で、裏で私たちを縛ろうとします。正体を見せずに律法の形を使って私たちを欺き、縛ります。律法は本来、私たちが良い生活を送り、私たちをいのちに導くための教えです。しかし、罪はこの律法を用いて欺き、死に至らせてしまいます。こんな話があります。ある貧しい男性がいました。彼は会う人、会う人に自分の腕時計を自慢しました。時計は高価な品ではありません。何がそんなにすごいのか尋ねると、彼はこう答えました。「まず、どの時計より静かだ。」確かに音はしません。止まっているのです。壊れているんじゃないかと言うと彼は「動いている時計は早くなったり、遅くなったりするが、この時計は一日に2度、7時半という時刻にぴったり合うんだ。一度も正確に時を知らせない時計より一日2度も正確に時を知らせる方が素晴らしい!」なんとなく、理屈が通ってるように感じますが、変な話です。欺きはこの様にやってきます。また時計の文化のない国では、そういうものかと思うでしょう。
ではどの様に罪は欺くのかを3つのポイントに絞って、(創世記3:1〜6)のみことばから見ていきましょう。ここでエバはサタンに欺かれて罪を犯しました。クリスチャンがエバのようにサタンに欺かれるのを見てきたパウロは心配していると言っています。(第二コリント11:3)
(1) 欺きの質問(創世記3:1 )
『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』なぜサタンは神様が言われたことと全く逆のことを質問したのでしょう。
あえて間違っている質問をすることによって、どれくらい正確に律法を悟っているかを量り、間違いを告白させるためです。間違いを告白させるとは、自分なりにみことばを解釈していることを告白させて、間違っている部分を訂正させないことをさします。
欺くためには、相手がどれくらい詳しく知っているかをまず試します。この欺きの質問によってエバは、どれくらいみことばを重要視しているかを量られました。
(創世記3:2〜3)のエバの答えから、サタンはエバがどれほど悟っているのかを見抜いたのです。神は『それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』(創世記2:17) と強く言われたのに対し、アダムから伝え聞いただけのエバは『死ぬといけないからだ。』と自分なりに解釈した言葉で返事をしました。これは違反に対する恐れや死への恐れのない表現です。これを見抜いたサタンは次の段階に進みます。(2) 偽りの確信(創世記3:4 )
未熟な悟りに対して強い確信を持って間違っていることを押してくることによって、偽りを真実のように確信させるのです。事実がそうでなくても確信の強いほうを人は真実だと受入れ、信じてしまうものです。
そこでサタンは『・・・決して死にません。』と答えました。未熟なエバの悟りに対して、サタンはチャンスだと感じたのです。そして第三番目に発展していきます。(3) 信仰への惑わし(創世記3:5 )
神様との信頼関係があれば、未熟な悟りでも「神様が言われたのだから」と自制することができます。そこでサタンは神様との関係に不信感を抱かせるために、律法を否定することによって、神への信頼をも惑わしてきます。
『・・・あなたがたの目が開け』これは本当にそうなりました。蛇はどうなるかを知った上で、死への恐怖はいっこうに与えません。『・・・神のようになり、善悪を知るようになる』では、神になるとは言いません。ある部分神のようになると、おいしい話を持ち掛けます。さらに『神は知っているのです。』と告げます。神は知っているのになぜ食べさせないのでしょうかと神への疑いを起こさせたのです。神の存在を認め、律法の言葉を用いて、疑わせるやり方です。神への不信感が生まれれば、後は簡単です。
律法を無視させ、神に対して不信感を抱かせることによって、留めていた関(自制心)が外され、欲求を満たすために罪を犯すからです。欲求を止める理由を失い、裸の心になったエバは行動するほか、道は残っていませんでした。『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』(ヤコブ1:14〜15)とある通りです。クリスチャンが罪を犯すのも、自制心がきかないのも、欺かれています。悔い改めは、罪を犯す言い訳のためではなく、今から方向転換して、やり直すためにあります。罪を犯しても後で悔い改めればいいから、今は安心して罪を犯すのとは違うことを知り、欺かれないように注意してください。
エバの失敗は、みことばを正確に受け止めていなかったことにあります。<欺きに対応するには>
(マタイ4:1〜11) にイエス様が示してくださったお手本があります。これはイエス様が洗礼を受けた後、聖霊に導かれ荒野で40日間の断食をして、どれくらい正確にみことばを悟っているのかをサタンに試された場面です。
(マタイ4:3〜4)を見ましょう。エバは自分の解釈した言葉でサタンに答えたのに対し、イエス様は聖書に書かれている言葉そのままを使いました。状況は一緒です。
40日40夜断食して、イエス様は空腹でした。神の子であり、奇跡を行う力を持つ方だと知っていたサタンは、石をパンに変えるよう誘惑してきます。石をパンに変えることは罪にはなりません。ではここでサタンは何を欺こうとしているのでしょう。
人は肉体を中心とした存在でなく、霊を中心とした存在であることをしっかりと悟っていなければ欺かれてしまいます。イエス様は確かに空腹だったから誘惑されました。しかし、肉体の乾きを霊の満たしで補っていたのです。一見何の欺きか分からないほど巧妙にサタンは誘惑してきます。ですからみことばの深い悟りが必要なのです。みことばの深い悟りがあれば、適切なみことばを持って、サタンに答えることができます。
あなたの内にある罪は、あなたがどれほどみことばを悟っているかを知っています。だれでも弱点がありますし、それが甘えの元になり、そしてみことばへの悟りを妨げます。みことばを聞いて悲しむのは罪で、本当のあなたではありません。みことばによって、痛んでいるのは罪であって、あなたでないことをしっかりと知り、欺かれないでください。 (ヘブル4:12) にある通り、みことばは霊の思い(私たちは霊的存在です)と魂(知、情、意)の思いとの分かれ目さえも刺し通す、つまり見分けて判別することができます。そして、魂が正しい方向に向くようにみことばは働くのです。みことばなくして、自分の心を見分けることはできません。みことばがなければ、人は感情に支配され、自分さえも見失うことになります。
みことばを軽視する態度を悔い改め、一つでも多く、深くみことばを悟ることができるよう励んでいきましょう。一つのみことばは、すべてのみことばに通じています。一つを深く学べば、ほかのみことばも学ぶように自然になっていくものです。だれに何を言われても揺るがない確信の持てるみことばが、あなたの中にあるでしょうか。それがあれば、いのちの道を外れることなく歩んでいくことができるのです。
2001/5/27 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
(ヤコブ1:15)罪について5
〜熟して死に至る〜
欲求(生理的欲求等)自体は罪ではありません。しかしこれが貪欲となると罪になります。そこに律法(躾)が必要となり、今度は律法によって罪が引き起こされます。そしてその罪が熟すると死にいたり、神の前に、何ら役に立たない生きたしかばねとなってしまうのです。
今日のメッセージは、あなたを責めるのではなく、むしろ罪の実が熟さないために早く悔い改めて取り除き、代わりに、聖霊の実を内に実らせるようにするためです。
<罪が結ぶ9つの実>
(ギリシャ語の言葉の意味から説明します)
(1)罪( ハマルティア)
的をはずす、考え違いをしている。
射撃からきたことばで的をはずすことを意味する。
「自分は何故ここにいるのか」という意味を、みことばからしっかりつかんでいないと的をはずし、罪に陥ってしまいます。
存在の目的----神の子として造られた
それゆえ、神の子としての存在からはずれるような生き方をすると的はずれの人生になってしまいます。罪は神と私たちとの父と子としての関係を切り離し、的をはずした人生へと誘惑してきます。例えば、神の願っておられる生き方に反発をもたらしてきたりします。その反発はあなた自身からではなく、罪からきているのです。この(1)は、後の8つの罪の根本となります。
(2)悪(カコス)
腐った、堕落した、よこしまな、道徳的に悪いこと。
おもに、人間の道徳的相互関係において使われる。
聖書においては、神と人との関係においてよく使われる。
悪は良い人間関係をくずそうと働きかけてきます。
例えば、牧師と信徒は各々務めが違い、みことばを教える者と教えられる者ですが、それを快く思わなかったり、神に対してもうらんだり否定的になったり、関係をくずすような考えをもつのが悪です。この悪が熟すると、誰も信じられなくなり、互いに悪を思う人間関係になってしまいます。
(3)邪悪(ポネリア)
心に悪い素質があること、悪意、うらみ。
正義、義、真理、名誉、徳を精神的に無視すること。
良いものを素直に受けとれず、精神的に無視して悪くとること。嫌味、皮肉等、邪悪さが心にある。
(4)違反(パラバイシス)
わき道へそれること、逸脱、法律違反。
人が越える権利のない線を越えてしまうこと。
正しいことと悪いこととの垣根を意識して横切ってしまうこと。
例えば、悪いと知っていて堂々と交通違反をしたりすることです。
規則がないと違反は存在しません。分をわきまえないことです。
旧約聖書で、コラがモーセを指導者として認めず、自分の分を越えたために、神はコラを生きたままよみに下らせるという罰を与えられました。自分の分を越えた批判や判断を人に対してしていないか気をつけましょう。
(5)不義(アデキヤ)
不正、まちがっていること、虚偽、あざむき。
人が神と他者に当然与えるべきものを与えないこと。
例えば、親切をするべき状況の時にしなかったとか。他の貧しい国の人々に、豊かな国が援助をしないことも不義です。又、感謝や礼も当然与えるべきことです。十分の一献金も、これは神のものであって与えるものではなく、むしろお返しするべきものです。
(6)不信心(アセベイヤ)
よこしま、不正直、不敬虔。
神が存在することを知りながら、神をまったく無視すること。
神を信じ、神の存在を体験しながらも、神を無視する考え方や生き方をすること。(いやしを受けたり、祈りがきかれたり---)神が自分の思い通りのことをしてくれないと、やけくそになってはいけません。神はチャンスを決して逃さず、失敗のない方だと信頼しましょう。
(7)不法(アノミア)
法に従わない、法のない、無法の罪を故意に犯す点を強調、
正しいと知っていながら、あえて悪いことをする。
これは法に対して、故意に罪を犯すことです。これをし続けると違反や悪をすることに良心のとがめもなくなり、鈍感になり、自分が善意の判断の基準になってしまいます。
(8)不従順(パラコエ)
誤って聞く、又は聞きそこねる。後に耳をふさぐように、
意識して聞かないという意味を持つようになる。
最初は聞き間違ったりで聞かなかったことが、後にあえて意識して耳をふさぐようになる。アダムとエバはこの罪を犯しました。自分に都合のいいことは聞こえても、嫌なことは聞こえなかったりします。みことばを正しく受けとめなくては、不従順を引き起こすことになります。その場合、勘違いだったとか、よく聞いていなかったからというのは言い訳にならず律法では罰せられます。(イエスさまは許してくださるが---)
(9)罪過(パラプトマ)
わきにそれる、気をつけていない時、行き先を見ていない時、
目標から目をそらした時にする失敗をあらわしている。
罪を犯してしまった結果のこと。不注意で犯してしまった違反や失敗などは、すべて罪過です。私たちの受ける災いや苦しみは、すべてが試みではなく、この罪過のゆえであることがあります。
この9つの実が熟してくると、永遠の滅びにいたります。しかし、私たちは別の良い実を結ぶ生き方ができます。
<聖霊の9つの実>
(ガラテヤ5:22,23)に、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という聖霊の実が書いてあります。
悪い実を取り除こうとすることばかり考えていたら辛くなりますが、聖霊の9つの実を結ぶことを期待をもって、目標としてゆくなら、楽しく歩むことができるようになります。
罪の実は放っておいたらいくらでも勝手に実を結ぶようになりますが、聖霊の実はちゃんと世話をしてゆく必要があります。
しかし、世話をしてゆくうちに、豊かに刈り入れる楽しみがあるのです。
どちらの実を結ばせますか?
罪の実を捨て去り、聖霊の実を求めてゆきましょう。
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JESUS FELLOWSHIP HIROSHIMA