2001 April Weekly Bible Message
2001/4/1 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) 私たちは、神が先祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。(使徒13:32)
福音について3
〜神が約束された福音(良い知らせ)〜
<神が約束された良い知らせとは>
福音について学んでいますが、今回は(使徒13:32 )から神様がどれほど良い約束をしてくださったかを知りましょう。『良い知らせをしているのです。』はギリシャ語のユーアンゲリオンが使われています。
ここでパウロが語っている先祖とはアブラハムを祖とするユダヤ人のことです。ではユダヤ人への約束がどうして私たちに関係があるのでしょうか。それはイエス・キリストを通して救いが全世界に及んだことによります。(ガラテヤ3:29)を見ましょう。キリストのものであるならアブラハムの子孫であり、約束の相続人だと書かれています。
つまり神様の約束とは私たちを相続人としてくださるということです。将来相続できる財産があるというのは心に期待や希望をもたらします。しかもそれは神様が保証してくださり、神様のものを相続するのですから、なおさらです。では何を相続するのでしょうか。多くのものがある中で今日は3つにしぼって見ていきましょう。<1.侵されることのない資産(第一ペテロ1:4 )>
私たちの相続財産は朽ちず、汚れず、消えない資産です。資産とは公に価値付けされた財産をさします。(何を相続するかは具体的には書かれていませんが黙示録の後半を参考にして下さい。)
相続財産の有無が私たちに与える影響はどんなものでしょう。
受け継ぐべき財産があれば将来への不安は減り、安心して日々を送ることができます。しかし、この世の財産は日々、価値が変化します。土地がいい例でしょう。バブルの時は何億円もした土地が、今はその1/3 の価値もありません。
私たちの資産は地上での信仰生活の報いとして天の御国に蓄えられています。しかもそれは価値が減ることのない資産なのです。<2.祝福を受け継ぐ権利(第一ペテロ3:9 )>
私たちがクリスチャンになったのは祝福を受け継ぐためです。実を結ばない祝福は意味がありません。たとえば、牧師からの祝福とそうでない人からの祝福ではどちらが祝福の実は大きいでしょうか。神から与えられた牧師という権威を持った者からの祝福の方がより多くの実を結ぶものです。なぜでしょう。力ある者からの祝福は力を伴っているので祝福の約束の実現性が高いからです。
祝福とは神からたまわる幸福だと辞書に書かれています。ですから神からの祝福とは神ご自身があなたの幸福を宣言して下さるということになります。
(創世記1:28)で神が人を『生めよ。ふえよ。地を満たせ。・・・』と祝福されたので、人類は地上でこれほどまでに増えました。神が祝福されれば繁栄します。それはみこころにかなったことだからです。
神様はあなたを祝福されています。力ある方から祝福されるということは、幸福になる許可を与えられていることになるのです。これはすごいことです。だれがあなたを呪おうとも神が祝福して下さっている以上、あなたの幸福は侵されざるものになるということだからです。ただし、これにはイエス・キリストを信じるという条件が付いています。
この条件は、私たちが様々な惑わしから守られるためです。私たちは神が保証して下さる約束をしっかり知ることが必要です。だれがその約束を価値のないものだと言っても耳を傾けてはいけません。確信と自信をもって自分の人生をチャレンジしていきましょう。<3.神のご性質にあずかる(第二ペテロ1:4 )>
私たちが自己中心的な肉の性質を持って、朽ちない資産と祝福を受け継ぐと、とんでもない罪を犯してしまします。ですから受け継ぐべきものを無駄にしないために神のご性質にあずかる必要があります。神のご性質にあずかれば相続したものをじょうずに運用していくことができます。
朽ちない資産も神からの祝福も与えられているのにうまくいかないのは、あなたが肉の性質で受け継いだものを運用しようとしているからです。うまく使うコツは神のご性質にあずかることです。そして、神はうまく運用できるようにそのご性質まで与えて下さるのです。
あずけるとは任せるという意味が含まれます。お金を銀行に預ける時、その運用を銀行に任せたことになります。神のご性質にあずかるとは、神のご性質を使って受けた資産をうまく運用するように任せられていることも含むのです。人生成功の秘訣は神のご性質にあずかることでしょう。
神のご性質で奥義と言われるものがあります。(第一テモテ3:16)にある敬虔の奥義です。イエス・キリストは神のご性質にあずかって、神からの資産をうまく運用したお方です。彼の人生は私たちの理想であり、神の子にふさわしいものでした。それは敬虔の奥義という神のご性質をもっていたからです。
神は罪人までも大切にされる敬う心を持たれた方です。私たちはだめになったものを簡単に捨てたり、能力のない者を軽んじたりします。神様は能力ではなく存在そのものを尊いとして下さいます。これが敬虔の奥義です。
リサイクルすることは多くのお金と時間と手間がかかる、面倒な作業です。神は私たちを神の似せて造られましたが、サタンによって壊されてしまいました。そんな失敗作を見捨てず、取り戻そうとアダムから始まった人類の歴史が今も続いているのです。
ものを大切にする性質は私たちの人生に祝福をもたらします。人を大切にしないワンマン経営は順調に行っているときはいいですが、逆境に陥った時に破綻します。お互いに大切にしあう性質は神の相続人として成功とおさめる土台となります。イエスさまはそのお手本として地上を歩まれました。
このご性質にあずかると我慢して人を大切にするのでなく、愛を持って心から人を尊ぶことができます。なによりも愛が優先されるから大切にできるのです。<私たちは相続人として選ばれた>
朽ちない資産を受け、神からの祝福を受け、神のご性質にまであずかることができれば、私たちの人生は成功しないはずはありません。それに気付くか気付かないかないかで人生は大きく変わってきます。ですからこれらの神の約束を良く知って、相続者としての権利をうまく活用し、人生に生かしていきましょう。使い方は私たち次第なのです。
うまくいかないとき、逆境の時もあるでしょう。そんな時にも必ず祝福はあります。なぜなら、それを乗り越えることができる力を与えられるからです。かえってうまくいかないときほど、祝福の実感はわくものです。
神は私たちの成長を望んでおられます。そのために様々な困難も乗り越える必要があるでしょう。それは私たちの考え方、価値観などを神と同じくするために必要な過程なのかも知れません。そんな時、素直に神の側に考え方を変えていくことができれば、神からの資産をうまく運用できるようになっていくでしょう。神の祝福は無限です。自分を変えられる人はそれだけ、運用じょうずになれるはずです。
時と場合によって私たちは服装を変えます。神のご性質にあずかるとは神のご性質を着ることです。(コロサイ3:9 〜10参照)新入社員は着なれないビジネススーツを着て出社します。外側は立派なビジネスマンですが、中身はまだまだ学生らしさが残っています。ところが彼らは一年もしないうちに中身もすっかり社会人らしくなってきます。
『新しい人を着る』とは、このように神のご性質を着ることです。また『ますます新しくされ』とは、新入社員が社会人らしく変えられていくように私たちも次第に神のご性質に似せて変えられ、神のご性質に違和感なく馴染んでいくということです。
スーツの価値でスーツの扱い方も違えば、仕事への意気込みも変わってくるものです。私たちがイエスのご性質を着るためにどれほどの代価が支払われたか思い出してください。私たちは与えられたご性質を大切に着ていくことが必要です。そうすればご性質は馴染み、祝福を受け、資産は増えます。資産が増えるとは、クリスチャン人生がやりがいをもって送れるということです。熱心に生きれば生きるほど天に資産が蓄えられるのですから。
信じるものだけが受けることの特権です。相続人としての人生を前向きに歩んでいきましょう。
2001/4/8 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。(使徒2:33)
福音について4
〜父から約束された聖霊〜
今日語る約束は今地上にいる時に手にできる約束です。そしてイエス・キリストを通して全世界のすべての人に与えられます(使徒2:39)
この約束の聖霊がどうして福音(良い知らせ)であるのかを、2つの面から考えます。
(1)魂を安らぎでみたしてくださる(ヨハネ4:14)
この箇所(ヨハネ4:14)は水をくみに来たサマリヤの女に対して、イエスが語られたことばです。イエスはこの女性に会うために、わざわざサマリヤを通られました。それは、あまりにも彼女の渇ききった心の叫びが神の御前に届いたからです。女性にとって結婚とは夫を得ることで安心感を得たいという願いがあります。しかし、この女性は5人も夫を代えてもその安らぎを得ることができず、6人目の男性とはもう結婚をせず同棲をしていました。そういう状況の中で彼女の魂は安らぎを求めあまりにも渇いていたので、その祈りが御父のもとに届き、救い主イエスが遣わされたのです。
19才で私自身イエス様を信じた時は、人生の空しさに心が渇ききっていたときでした。2人のクリスチャンが不思議な方法で導かれて木造の2階建てのひと部屋を訪ねてくれたのです。
神は渇いた者の心の祈りを聞いてくださる方です。私たちの心の願いは「幸せでありたい」ということであり、それは「安らぎを得たい」ということです。私たちの魂は、変わることのない父なる神の愛の中に安らぐこと以上に満たされることはありません。それを人の愛や仕事、趣味にもとめても決して安定した安らぎを得ることはできません。それゆえ、次から次へと求め続けることになります。そして、ある人人はタバコ、アルコール、又、性的罪に引き込まれてしまい、そこから抜け出せなくなっています。イエスが語られた魂をうるおし、二度とくみに行く必要がない水とは、神の御霊なる聖霊のことです。
(ゼパニヤ3:17)に「あなたの神、主はあなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びを持ってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。」とあります。イエス様は御霊として私たちの内におられ、身代わりの愛の十字架によって、変わることのない安らぎを与えて下さっています。親鳥が翼によってひな鳥たちを守るように神は私たちをその愛でおおって下さっています。(マタイ11:29)にも、イエスが私たちの人生のくびきを共に負ってくださっていることからくる魂の安らぎについて書いてあります。この安らぎは聖霊が私たちの内に来られることによって得られるのです。
(2)魂の存在感を満たしてくださる(ヨハネ7:38)
私たちの内側から生ける水の川が流れ出るようになると、あります。それは、聖霊が来られると、私たちの内側からキリストのいのちが川のように流れ出て、人々の必要を満たすということです。つまり、あなたの存在は人々にとって重要な存在となるのです。人々があなたの存在を喜び、尊ぶようになるということです。(イザヤ43:4)にあるように、神は私たちを高価で尊いと見てくださり、聖霊を注いでくださったのです。愛されたい、大切にされたいというあなたの願いがそのことによって満たされます。神があなたを選ばれたのです。(1ペテロ1:2)に選ばれたことが書いてあります。
私たちは御霊の聖めを受けるように、イエス・キリストに従うようにその血の注ぎかけを受けるように選ばれました。なんという光栄でしょうか。あなたの存在は選ばれた尊い者であるということを聖霊が実感させてくださいます。魂の安らぎと、確かな存在感を求めて人々はさまよっています。
しかし、私たちはこのふたつともが聖霊によって満たされます。この真理をしっかりと握って、聖霊をいつも内にとどめておくよう気をつけていきましょう。
私たちはこのような素晴らしいものを奪われないために信仰生活を整えてゆくのです。祈りもみことばの学びも、集会にくることも、この素晴らしい約束をしっかりとつかんでおくためです。
この約束の素晴らしさをさらに実感してゆきましょう。
2001/4/15 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。(使徒17:18 )
福音について5
〜復活についての福音〜
<復活という福音>
今回は福音についての最終回です。今日はイースターですから復活が私たちにとっての福音になるのだということをお話していきましょう。
(使徒17:18 )は、パウロがギリシャのアテネで哲学者たちを相手にイエスと復活とを宣べ伝え、また哲学的問答を論破している場面です。アテネは哲学の都で、ギリシャ神話などがありますが、それらの神々は人間の知恵がいかにすばらしいかを誇るための偶像でした。この状態に怒りをおぼえたパウロは、イエスと復活とを宣べ伝えたのです。
アテネの哲学者たちを相手に律法にたけている知恵深いパウロは、イエスと復活とをもって次々に論破していきました。それで、哲学者たちは「何を言うつもりなのか。」と心閉ざし、彼らにはイエスと復活は福音にはなり得なかったのです。ここで注目すべきは、パウロはイエスだけでなく復活も福音として宣べている点です。ですから、イエスの存在とともにイエスの復活も私たちの心を喜ばす良き知らせ(ユーアンゲリオン)であると言えます。
では復活はどのような良い知らせなのでしょう。3つのポイントをあげてみましょう。
<1.信仰による義が得られる(ローマ4:24〜25)>
復活のキリストを信じた者は義とみなされ、キリストが復活された理由は私たちが義と認められるためです。神の前に義を得ることはどれほど良い知らせとなるのでしょうか。親子関係で子供が義と認められるときは、親のしつけに従えているときです。しかし、違反すると親は子を正すために懲らしめを与え、効かなければ刑罰が伴います。その時、子供は親の前で神の前にいる罪人の状態と同じ愛されない存在です。つまり義を得られないと罰せられる対象になるということです。それで、子供は愛される存在であり続けるために親の前で義であり続ける努力をします。
同じように、私たちも神様の前に愛される大切な者となりたければ、神様のみことばに心から従っていこうという気持ちが出てきます。しかし行いによって義と認められる生活は容易ではありません。神様のみこころは痛みました。
どんなに努力しても、やはり罪に負けてしまう弱い私たちに救いをもたらして下さったのがイエス・キリストです。では、どのように私たちは救われたのでしょう。
イエスさまが十字架にかかられたことで、私たちの罪は十字架とともに罰せられました。ところが、それでもなお私たちは、日々の歩みの中で罪を犯し続ける罪人には変わりありません。どうしても行いによって義であり続けることが人間には無理だということを、神様はご存じです。
そこでどうにか義人であるとするために、信仰による義を認められたのです。
信仰によって心が正しいとみなされ、私たちは神の前で義とされます。けれども、その信仰はただ単に神の存在を認め信じるだけでは不十分です。義とみなされるために、イエスが私たちの罪のために死に、復活されたことまで信じることを条件とされました。
では復活を信じることでなぜ義とされるのでしょう。あがない主であり、救い主である方を一度死に渡されますが、神はこのお方をよみがえらせました。それほどの力ある神が私たちの神です。もし復活がなければ、だれを信じているのかわかりません。なぜなら、にせキリストも現れるからです。けれども復活をとげたキリストは歴史上ただお一人です。この唯一無二の復活のキリストを信じる者だけが義とされたのです。それは能力によらず、人格があれば誰にでも可能なことです。誰にでもできるように神はして下さいました。
<2.いのちにあって新しい歩みができる(ローマ6:4)>
イエスさまの復活によって私たちは、よみがえることへの希望が持てます。しかし、それは復活した姿に左右されるでしょう。
もしイエス・キリストの復活の姿が、十字架につけられた時のままであるならば失望しないでしょうか。肉体を持つ人生は不便です。働くためには食べる必要がありますし、休息も必要です。健康を維持する配慮もいります。
しかし、復活のイエスさまの姿は触れることのできる体をお持ちなのに、その体は時間と空間を自由に行き来でき、食べることもできれば食べなくても困らない、栄光で光り輝いたものでした。そのような栄光の体によみがえることが私たちの希望です。明確な希望があれば努力できます。スポーツ選手が並々ならぬ節制と鍛練に耐えられるのは、メダルが取れるかも知れないという希望があるからです。
復活を信じた者は誰でもイエス・キリストと同じ姿でよみがえります。平坦ではない人生の歩みの中で、神のみことばを選び取っていく力の根源として、キリストの復活は不可欠です。目標となり、希望の持てる姿を神様はあかしして下さったのです。ですからイエスさまの復活のお姿と自分を重ね合わせて、楽しみに人生を歩みたいものです。
<3.死ぬべき体が生かされる(ローマ8:11) >
復活によって、罪に縛られ汚れ貪欲に満ちた滅びるべきこの体を、私たちは、神のために生かすことができるということです。すばらしい希望があっても、実際の生活の中で勝利を実感できなければ、希望はしぼんでいきます。神様は復活できるための信仰を与えて下さり、さらに聖霊によって肉体をコントロールできる力をも与えて下さったのです。
これはよみがえりがなければ私たちは受けとることのできなかった恵みです。イエス・キリストをよみがえらせたのは父なる神ですが、直接その働きをされたのは聖霊さまです。聖霊さまは死を制し、罪に打ち勝たれました。その聖霊さまが私たちの内におられるということは、私たちを縛る罪の力に打ち勝つことができるということでしょう。このことをキリストの復活を通してあかししてくださいました。
負けると思って背中を見せると、次々押し寄せる罪の誘惑に負けるでしょう。戦わずに逃げ回っていては、せっかく与えられた聖霊さまの力を無駄にすることになります。御霊によって肉の思いを殺すことです。御霊と共に立ち向かうのです。死ぬべき体を生かされるのは聖霊さまだけです。
ところが、どん欲を押さえようとすると葛藤が起こり、苦しむ場合があります。たとえば、ゆるそうとしても葛藤が起こり、心が重苦しく感じるのは、古い自分と新しい自分が同居している上に、がっちり手を結んでいるからです。ですから、古い自分は誘惑する力が強いと引きずられますが、新しい自分は制止しようと良心に訴え、改心するとその逆が起こります。そのシーソーゲームが繰り返されていると葛藤に苦しみ続けることになります。
このような関係を断ち切ることが必要です。(ヘブル4:12)を見ましょう。神のみことばは、たましいと霊の分かれ目さえも刺し通すほどの分別をもたらす力があります。肉の思いと霊の思いを同居させ、どの道クリスチャン生活は苦しいと、ストレスをためている私たちに解放をもたらすのは、神のみことばです。肉の思いと新しい自分との一線を引くためには神のみことばが不可欠なのです。
その時々に適格に一線を引ける後ろ盾となるみことばを、日ごろから聖書をできるだけ読み、自分の内に蓄えておく必要があります。みことばの役割を良く知って、楽しんで聖書を読んで、ストレスのないクリスチャン生活を送っていきましょう。
2001/4/22 日曜礼拝メッセージ(辻 百合子牧師)すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28 )
自由意志という恵みを生きる
<選択し続ける人生>
『実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。』(伝道1:18)は現代社会の状態を言い表しています。知恵が多い者は先々のことを深く考えますが、不況で先行きに明るさがなければ当然、悩みも多くなるでしょう。また、知識を増すものは、知識欲という好奇心から良いものも悪いものも知ろうとします。人間は知ると試したくなるもので、経験することによって痛みや傷を受け、悲しみを増すことになるのです。 この様に、思い悩み、傷付き痛むのは自分たちの選択によります。前向きに、希望を見出だして生きるか否かで、人生は正反対になるのです。しかし次々と誤った選択をし続け、現実に疲れはて、重荷を負った状態になってしまったすべての人(クリスチャンに限らず)に対して、イエスさまは招いて休ませて下さいます。それは、その人らしく精一杯幸せに生きてもらいたいという神様の愛に他なりません。こんな話があります。(実話ではありません) 光にあたると3日で皮膚が腐りだし死にいたる奇病を持った男の子が生まれました。父親はどうにか病気を直そうと奔走しますが、治療法は見付かりません。子供の全身を特殊な服で覆い、生きるためには服を脱げません。彼が20才になった時、特殊な服で頭の先から足の先まで覆われた孤独の中で、「僕は何のために生きているんだ!」と叫びます。自分の病気が父を苦しめ、母を精神異常に陥れ、自分らしく生きることさえままならない苦しいうめきでした。そんな折、彼に若い女性の友達ができます。彼女は彼との静かな心からの交流に安らぎをおぼえ、彼を愛します。父親は彼女もそのままで愛してくれているのだから覆いの服を脱がず、生き続けることをすすめますが、彼は「彼女まで家族と同じ苦しみを味合わせることはできない、一生このままならば、神様が下さった3日を精一杯自分らしく生きたいんだ!」と服を脱ぐ決断をしました。3日間彼は20才の人生を謳歌しようと同じ年頃の友達をつくり、様々なことを体験します。2日目には皮膚に異常が出始め、3日目に死の陰が見え、家族に別れを告げ、走り去っていく精一杯生きた彼の後ろ姿に父親は「お前はチャンピオンだ!」と叫びました。
生死を分けるほどの選択を日々していると感じる人は少ないでしょう。しかし、神様につくられた、本当の私らしく生きることがどういうことなのか、日々選択し続けていく必要はあります。そのような選択をした先人がいます。(ヘブル11:23〜27参照) モーセはエジプトの王子という豊かな環境を捨て、神が望まれた神の民と生きることを選びました。神様はたくさんの中からより良いものを選ばせるために私たちに選択の自由を与えられたのです。しかしその自由は罪によって歪められたものになってしまいました。
<罪の実態(創世記3章)>
ではいつから罪は人に入り、罪とはどの様なものなのかを見ていきましょう。
(1) サタンの惑わし
a.みことばへの疑いと惑わし
『神は、ほんとうに言われたのですか。』(創世記3:1)とみことばの真実性を疑うように揺さぶりをかけてきます。
b.サタンの嘘、偽りを自分の考えや行動の基盤として選び取る
『(食べても)あなたがたは決して死にません。』(創世記3:4)とサタンは肉欲に働きかけ、それを受け入れた時から、それが死をもたらす誘惑の窓口になりました。罪を犯した魂は『罪の奴隷となって死に至り』(ローマ6:16) ます。そして、誤った選択により、神への忠実さと信頼を失ったのです。
(2) 自己中心的な価値観
a.自分の価値観
『まことに食べるのに良く、目に慕わしく、・・・いかにも好ましかった。』(創世記3:6)これは神の目から見たのではなく、自分の価値観からの判断であり、限りない美への追求を表しています。完全な美を人は慕いますが、地上では永遠の幻想です。追求すればするほど、条件付きの価値に苦しみます。神の価値観を受け入れず、自己中心の価値観を貫くことはごう慢の現れです。どこかで、神様より、自分の方が正しいと思っているのです。
b.支配欲
『神のようになり・・・』(創世記3:5)常に一番でありたい、自分が支配者でありたいという欲求は警戒すべきです。
c.好奇心
『・・・目が開け、・・・善悪を知るようになる・・・』(創世記3:5)知りたいと思う気持ちが正しい方向に向いていれば問題はありませんが、好奇心は悪いものを含めて何でも知りたいという欲求です。それは知識に止まらず、体験も欲しがり、当然痛みを伴います。<罪の結果>
罪が入った結果、人はどうしたのでしょうか。創世記をもとに見ていきましょう。
(1) うそで罪をごまかそうとする。(創世記3:7)
裸であることを知り、いちじくの葉で腰のおおいをつくりました。これは自分がだめな者であることを他の方法でごまかそうとする行動です。罪を認めたくないのです。
(2) 神様から隠れる(創世記3:8)(ヨハネ3:19〜20)
神に自分の罪を見抜かれることを恐れたふたりは、木の間に隠れました。ふたりが本当の神様のご性質を知っていれば、素直に謝ったに違いありません。しかし罰せられると思ったのです。この時から神と人との関係は愛の関係から恐れの関係に変わりました。
明るみに罪が引き出されるのは恐ろしいと感じるのは間違っています。神様は罪を明らかにすることで、それをきよめてくださいます。そしてきよめられた罪は、神様に二度と思い出されることがないことをしっかりと覚えておきましょう。
(3) 責任を他に押し付ける(創世記3:12〜13)
『これこそ・・・私の骨からの骨、肉からの肉・・・。』と愛したエバに対し、アダムは『この女が・・・』と言い、女は『へびが・・・』と言いました。人は責められると逃げたくなります。責任を転嫁する原因は、失敗した自分を認められず罪の傷や痛みから自分を守ろうとすることにあります。(マタイ11:28)の通り、人のそんな弱さを神様はご存じです。イエスさまは十字架と復活のみわざをもって、私たちをすべての罪からあがない、やり直すことができるチャンスを与えてくださいました。取り返しがつかない失敗も、すべてをつぐない正しい状態に戻して下さるのです。すべては信じるか否かにかかっています。
<人間とは>
ではこの様な弱さを持つ人間とは本来どの様なものとして神につくられたのでしょう。(1) 神のイメージを形造り(創世記1:26〜27)(2) 人は自由意志を持つ神の子として造られた(創世記2:16〜17)のです。人形やロボットとしてではなく、「人格者」としてです。それは選び取ることによって神の子として形造られ、成長していくために与えられた恵みです。
少年院から出てきた弟を完全に更生させたいと陸上選手だった兄が弟とトレーニングを重ねました。次第に弟は幾つかの困難を乗り越えながら大会に出るまでになります。ある大学の奨学金がかかった大会で、この兄弟は対決することになりました。家が貧しく奨学金で大学に行くことを夢見ていた兄は全力で走りますが、予選は通過したものの弟に負けました。そのことで兄の生活は荒れていきます。母親は心痛め弟に、来年もう一度チャンスがあるのだから、今回は兄に譲るように言いますが、ようやく光のあたる場所に踏み出そうとする自分を母が喜んでくれないことに怒りを覚え譲らないと宣言します。本選当日二人は全力で走り、結果は予想外の兄の勝利でした。勝利に上気する兄に一人の友人が「どうして弟は急にペースダウンしたのだろう」と言います。弟は自己達成よりも兄への愛を選び実行したのでした。その時、兄は弟の愛を知り、奨学金でしっかりと勉強してくることを誓います。
愛の関係において自由意志は不可欠です。なぜなら愛は強要して生まれるものではないからです。愛はそれぞれの心が選び取っていくものです。
神様はアダムとエバに善悪の木以外は園のどの木からでも食べて良いと言われるほどの選択の自由を与えられました。ところがサタンのあざむきによって、たった一つの禁止に注目させられ、神様との約束を窮屈なものに感じる方を人間は選び取ってしまいました。 しかし、神様は昔も今も変わらず愛の神様です。失敗してもがく私たちにさえ、重荷を置いて休息を与え、正しい道に軌道修正して下さるお方です。
すべての解決はイエスの十字架と復活にあることを常に心に握ることです。いかに過去の記憶があなたを苦しめようとも、新しくされたことを堅く信じ、正しい選択をしていくことが必要です。平安を歩くためにはこの選択が大きな鍵となるのです。そして、神様の愛を選び取っていきましょう。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことを行っているからです。もし、自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私の内に住みついている罪なのです。(ローマ7:15〜17)
〜罪について1〜
私たちは「罪」について知らないと、救いのすばらしさがわかりません。今、世の中は罪に対して鈍くなり、罪に対する意識が余りに薄くなっていて犯罪もますます低年齢化してきています。
こういった世の中の風潮に流されてしまうと、クリスチャンとしての罪に対する意識も薄くなり、罪から救われるという救いの重要性がわからなくなり、信仰生活が弱々しいものになってしまいます。(ローマ:15〜17)でパウロは神の御霊に導かれて、クリスチャンである私たちの心の葛藤の原因が実は「罪」という私たちとは違った存在によるものによることに気づきました。「罪」とは行いを指すのではなくひとつの存在者です。
今日はこの「罪」が私たちの内に存在している、私とは別の存在者であるということを知っていただきたいと思います。
<例>
昔話によくあるようなヘビや妖怪にのりうつられた人とか、現代版ではエイリアンにのりうつられ、その人がその人とは違った存在者に支配されて、その意のままに動かされ、遂にはその人自身も食いつぶされてしまうというのが、「罪」を知るのにいい例話です。あるいはコンピュータウイルスというのがあります。これは正常な働きをしているプログラムをこわし、今までのすべてのデータをだめにしてしまい独自が破壊という働きを行ってゆきます。罪も同じように私たちの心の中に入り込んできて、私たちが願うこととは別のことを勝手してしまうのです。このように罪を知ることによって、私たちは自分の心を整理してゆくことができるようになります。
<罪の7つの働きと力>
(1)私たちを奴隷とする(ヨハネ8:34)
世の中の人々は自分が罪に操られていることを気づいていません。罪を行うことに対しては自由ですが、神の御教えの中を歩むことはできないのです。罪に逆らう行動をしないよう罪が支配しているからです。クリスチャンは、罪を犯すこともできますが、神の正しさを選び取ることもできます。どちらも選び取ることができる自由があるのです。
(2)罪の欲情で支配する(ローマ7:5、6:12)
欲情→感情にもたらされる欲求
罪の欲情は悪いものであり、神からくる正しい欲情とは異なります。(愛するという) 罪からくる欲情は私たちがコントロールできないように支配してきます。(ねたみ、悲しみ、怒り、劣等感等)
(3)私たちを欺く(ローマ7:11)
罪の存在を意識せず、自分が願っているかのように思い込ませます。
(4)私たちを殺す(ローマ7:11)
罪が完全に支配し、自分が自分でないようになります。その人の良さがまるでなくなり、罪そのものの働きをするようになります。(5)私たちの内に住みつく(ローマ7:17、7:20)
いつの間にか罪に抵抗しなくなり罪と同棲生活するようになることです。それは操られていることに他なりません。罪は出たり入ったりするものではなく、内に住みついて生涯支配してゆくのです。
(6)私たちと戦争する(へブル12:4)
罪は簡単には退きません。生きるか死ぬか、倒すか倒されるかしかないのです。それは血を流す程の戦いです。
(7)死を生み出す(ヤコブ1:15)
罪が熟することによって、私たちの心は完全に支配されて、子供の時の純粋さはなくなってしまいます。死という実が支配し、魂のみならず、肉体をもむしばんでゆくのです。
罪が住みついているというのが私たちの根本的問題です。ア VI5:M^( `