2001 March Weekly Bible Message
2001/3/4日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示してきたのです。」(使徒20:35)
主の教え5 〜与える〜
神は与える神です。そして、私たちは神のご性質を受け継ぐ神の子として、育てられています。
[与えることの大切さ]
◇使徒20:35◇
「受けるよりも与える方が幸いである」とイエス・キリストが教えられたことを、パウロは自分が建てあげたすべての教会で、大切なこととして教えてきました。イエス様ご自身が地上で与えることを実践され、私たちが罪の力から立ち上がることができるようにと、ご自分のいのちを代償として与えられました。イエス様はその人生を自分を楽しませるためでなく、病んでいる人、貧しい人へ与え尽くされました。それを受け継いでパウロも与える人生を送ってきました。
与えることを教えることは、愛を教えるのと同じくらい大切な教えです。
この世は受けることが中心ですから、人間関係がまずくなり、争いが起きます。自分に取り込む考え方が国どうしのけんかとなり、戦争となっていくのです。私たちの人生でも与えることを中心に物事を考えていくと良い人間関係が作れます。これは神が作られた秘訣です。人生の成功者の多くは「与えることの法則」を見い出しています。「与えることが成功につながる。投資をしなければ実を刈り取れない。与えること、まくことが先である。」という考え方から出発しているようです。これは神が教えておられる法則です。
教会の地上での目的は「与えるためにある」といっても言い過ぎではないほど、大切な教えです。神が作られたこの法則を、しっかり信じて行動を取り始めると、結果を得ていくことができます。与える人生であることを受け止めてまいりましょう。
[与えることによって もたらされる喜び]
(1)与えることの喜びは天に宝を積むことである −マタイ19:21−
「天に宝を積む」とは現実的でないように思われます。
死が近づくと、この世に富をためようとする気持ちが薄らぎ、地上のものに執着しなくなってきます。この世を去っていくのなら、この世にものを残しておいてもしかたがない、これから行くところに宝をおいておきたい、去りがいのあるものを残しておきたい、という、これが天に宝を貯えることの意味です。天に宝を積むことの喜びに早く目覚めて、地上の富を貯えることにあくせくするのではなく、この地上の富を用いて、天に宝を貯える喜びを楽しんでいただきたいものです。
天国には通帳がないので貯えが増えたのがわかりにくいのですが、私たちの魂に感じてくるものがあります。天に宝を積んでくると、心が豊かになってきます。お金がたまってくると何となくゆとりが出てきますが、金銭以上に価値がある天国の富がふえてくると、寛容と柔和さが出てくるのです。
人が許せなくなるのは、心にゆとりがなくなるときです。天に宝を貯えていく人は、心が豊かになり、許す心も出てきます。人に与えていくことによって、心が豊かになるのを感じたとき、天に宝を貯えているしるしとすることができるでしょう。
(2)お返しの出来ない人を招き、祝宴をする −ルカ14:13,14−
人に与えるとき、お返しを期待することが多いものです。親切も与えることのひとつですが、ここは、祝宴というお祝いの場所に、招かれてもお返しのできない人を招くように、そうすれば義人の復活のときにお返しがしてもらえるという内容です。
義人の復活とは神の最後の裁きにことで、すべての罪が裁かれるときのことです。ですからクリスチャンは、正直に忠実に誠実な人生を歩もうと努力するのです。神を恐れない人は隠れて罪を犯し、安易な生き方をしていきます。この最後の裁きのときに、お返しを神様から受けるというものです。与えた本人でなく、神様からお返しがくる、これが与える喜びです。
本人に返す力がなくても、主人に返す力があるので、行った親切に対して、何十倍にもして感謝をあらわしてくれるというのが、義人の復活のときにお返しを受けるということです。神様の最後の裁きのときに、私たちがした正しいことに対して、報いではなく、お返しをしてくださるというものですから、すごいことです。だから、返されなくても感謝し、主が覚えてくださっていることを信じて、人生の最後の評価として神様がお返しをしてくださることを楽しみにしていきましょう。
(3)「与えれば与えられる」法則
1.ルカ6:38
この法則は種まきの法則と同じで、まず与えることが先です。与えることの喜びは、刈り取りの喜び、収穫を期待したものです。与えることを惜しむことがあったり、相手をみて、惜しんでしまったりすることがあります。
また、与える力には限度があるので、自分の力に応じて、与えることが大切です。
「多くの人に与えたい」と思っていくなら、ますます与えられ、それを用いてさらに与えていくと、だんだん与えられていくことでしょう。しかし、いつまでも与える量が増えないならば、与えられる量も増えることはないでしょう。「人は人を量る量りで自分も量り返される」と書いてあるので、その心の量りが他の人の量りとして、自分が量られます。惜しむ心をもって与えていると、同じようにまわりの人もあなたに惜しむ心をもってみられるということです。
惜しみなく与える人には、惜しみなくお返ししたいと思いませんか。けちな人には、喜んで与えにくいですね。私たちの心そのままが、人々からそのようにみられるということを通して、与えるときには、心から与えていきたいものです。
2.良い働きは良い結果を受け取る −マタイ25:29−
与えることは良い働きです。この良い働きの結果として良い報いを受けていきます。タラントとは、賜物、能力、才能等にも受け取れる原語です。
この例え話のタラントを億に置き換えると、
・5億+5億→ 10億
・2億+2億→ 4億
・1億 → 隠した
1億円を隠した人は取りあげられて、その1億円は4億円を持っている人ではなく、10億円を持っている人に与えられました。なぜでしょうか。
神様は数字を見る方ではありません。残りの1億円を効率よく使える人は、2億円をもらった人か、5億円をもらった人かを量られたのです。ここで、多くのことを用いることのできる人は、多くのものが与えられるということがわかります。だから、私たちは自分の程度を認め、わきまえることが必要です。しかし、感謝なことに、2億円の人は、2億円もうけて4億円となり、さらに8億円にする可能性もあります。しかし、4億円に1億円足して、5億円にして10億円にすることができるかどうかも考えられます。同じ1億円をもらっても、2億円の人と5億円の人では力の差があり、2億円の人の方が負担が大きいのです。
たとえば仮に、「奇跡としるし」という聖霊の賜物を求めて祈っても与えられないのは、今は負担が大きいか、責任が重すぎるのです。今与えられているものを用いることをせずして、より大きいものを求めても神様がお任せになるだろうかということを考えてみてください。
まず、与えられているものを十分に用いて、与えていくときに次に進みます。そして、いずれ増えていき、才能が引き出されていきます。今あるものをどう用いるかです。上手に用いれば、良い結果を生み出します。
(4)貧しさにとどまらないために −箴言28:27−
貧しいとは、何ももっていない、自分の手でどうすることもできない状態の人のことです。与える楽しみは、不足という気持ちから解放されます。与えるのを惜しむときは、自分が足りなくなるという気持ちがあります。与えることのすばらしさは、与えたら与えられるので、「不足しない」という心のゆとりが出ます。これは体験しないとわかりません。誠実なのに貧しい状況にいる人、まじめなのに環境によって追い込まれた人等に誠意をもって施しを与えていくなら、私たち自身も貧しさから守られていきます。
貧しさにとどまらないために、与える豊かさを神の前にもっていきましょう。
2001/3/11日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。
( 第一テサロニケ5:16〜17)5つの教えから 〜あなたの人生に表れるもの〜
<復習>
先週まで主の教えを5つ学んできました。それを是非覚えて毎日の生活に用いて下さい。
1.主をおそれ
2.休みを重んじ
3.誠実さを保ち
4.あわれみ深く
5.与えることを----楽しみとする。
これをひとつの文章として覚えることができます。この5つを実行すると、信仰生活にどんな結果が表れてくるのかを今日はまとめとして語ります。(この5つは毎日全部生かすことが大切です。一日にひとつずつというのではありません。)
<どんな結果が表れるのか>
(气eサロ二ケ5:16〜18)のみことばが結果として表れてきます。
(A)いつも喜べる
強制的に喜べるものではなく、動機があって自然に湧き上がってくる喜びです。この動機が主の教えです。特に、主をおそれ、休みを重んじることから喜びが湧き出てきます。
主をおそれる----神は私たちを、天国を相続するという目的で造ら
れました。そしてその目的のもとに、私たちの人
生を完成させたいと願っておられます。それを知
ると喜びが沸いてきます。
休みを重んじる--神は一日一日を区切りをつけて、創造の業を見
届けられ、6日ですべてを造られて休まれました。
ひとつひとつの完成が全体の完成とつながった時
休まれたのです。もし6日間の創造の御業でひと
つでもやり残しがあったら、神は休めなかったで
しょう。
私たちの人生もイエスさまを信じることによって
やり残しのない人生となります。過去の痛みや傷
も、これで良い、OKと認めて休みを得、さらに
前向きに次の仕事にとりかかることができるよう
になります。休むことによって喜びが来、次の新
しい段階に進むことができます。
この2つが心に成就するためのポイントは
心を入れ替えること
ポイント....悔い改め
否定的な心を入れ替えましょう。
・すべてのことで主を認め、OKと認める
・どうしょうもない過去の問題は、イエスを信じて捨て去り、
次に進む強さを得る。
・私たちの喜びは、明日に希望をもてるからと知る。(B)絶えず祈る
誠実を保ち、あわれみ深い者であるためです。これらを保つためには祈りが必要です。みなさんが教会に礼拝するために来られるのは、家でひとりで礼拝するより、もっとすばらしい豊かな神の臨在にふれることができるからではないでしょうか。
私たちはふれるものから影響を受けます。そして、神と出会い、ふれることができる唯一の方法は祈りなのです。誠実さとあわれみの源は神の内にあります。私たちは祈りの中で誠実さとあわれみをいただきます。
祈り方・・・誠実→神の前に心をすべて見せる
神の前に、すべて自分の心を明らかにするということはとても辛く感じるかもしれません。それは悪いことをしたのがわかると説教されるという恐れがあるからです。それは両親のしつけや環境によります。(一方的に叱られると隠すようになります。)
しかしイエスさまは、あなたの心全体を照らして、一緒に片づけてくださる方です。決して責められません。それゆえ、神の前に正直に心を見せることができます。
あわれみ → 十字架を感謝する大きなあわれみを受けた人は、後々あわれみを与える人に変わってゆきます。
しかし、あわれみを受けたことのない人はあわれみを与えることができません。
私たちは十字架をもっとリアルに感じる必要があります。理屈ではなく、ビデオなどでもっと十字架を身近に、具体的に知ることができるでしょう。この2つをデボーションの中で、毎日少しでもいいから行ってみましょう。必ず変化がでてきます。(C)すべてのことに感謝する
これが、与えることを楽しみとすることの秘訣です。すべてのことは神から与えられました。しかもこのすべてというのは、非常に大切な、貴重なものを与えられているということです。
人生が与えられているとは、本当にすばらしいことです。以前は苦しみと辛さばかりでしたが、イエスさまに出会ってから、人生は、苦しみも辛さも楽しみも喜びもすべて生きているからこそ体験できるすばらしものだとわかったのです。
存在していること自体のすばらしさです。私たちの存在自体、神の賜物です。このようなすばらしいものを与えてくださっている神さまを知る時、少しでも感謝の心を伝えたくなって、回りの人々に与えることが楽しくなるはずです。神さまが与えてくださった程の大きなものは与えられません。けれども、感謝の気持ちがあふれる時、自分にできる何かを与えたくなるはずです。
惜しむ心は、それが自分のものなので、勝手に 使われたくないという思いからきます。しかしすべては神から与えられたものです。その一部を神にお返しするかわりに、他の人々に与えるのです。これが神さまの御心です。これはあくまで自発の心、喜んでささげる心からきます。
もしあなたの生活の中で、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する」という心がどれか欠けているなら、これらの5つの教えのどれかが欠けているのではないか、まず点検してみてください。そして主の教えを喜びとする人生を歩んでゆきましょう。<まとめ>
(主の教え) (結果)
1.主をおそれ いつも喜ぶ
2.休みを重んじ 〃
3.誠実さを保ち 絶えず祈る
4.あわれみ深く 〃
5.与えることを楽しみとする すべてのことを感謝する
主の教えを喜びとするなら何をしても栄える。
2001/3/18日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。(使徒8;35)
福音について1 〜イエスについての福音〜
<福音という言葉>
福音は英語でgospel(ゴスペル)で良い知らせというギリシア語から来ています。語源となったギリシア語(ユーアンゲリオン)の本来の意味は戦争の勝利を告げることをさし、他にお祝いごとなどの良い知らせを告げるときにも使われる言葉です。
この言葉は次第にキリスト教の専門用語のように使われるようになり、現代では人類に救いをもたらすイエス・キリストの良い知らせに限定して使われるようになりました。
今回はイエス・キリストについての福音を中心に学んでいきましょう。(使徒8:35)は、ピリポが聖霊の導きでエチオピアの宦官と馬車を並べて走らせていた時、宦官がイザヤ書53:7〜9を読んでいた声が聞こえたので、「意味がわかりますか」とピリポが尋ねたところ、教えてほしいと宦官に請われ、ピリポが語りだした場面です。
ここでは宣べ伝えたとありますが、英語の聖書ではgospel(ゴスペル=福音)という名詞が入ります。ギリシア語のユーアンゲリオンは「福音を告げ知らせる」という動詞で使われます。つまり正確には「イエスの福音を彼に宣べ伝えた」となり、ギリシア語を訳した新共同訳では「イエスについて福音を告げ知らせた。」とあります。
福音とは聞く者が喜びを感じる知らせです。ユーアンゲリオンという言葉が使われるとき、語った言葉を聞いた人が喜びを感じた結果をも含んでいます。ですからこの宦官は喜びを感じたのです。あなたはどうでしょう。イエスについての福音はあなたにとって喜びですか。
路傍伝道でイエス・キリストは私たちの罪のために十字架にかかり、葬られ、3日目によみがえられたと語っても、聞く人が喜ばなければ福音ではありません。ですから全世界に福音を宣べ伝えよとは、聞く人にとって喜びとなるような良い知らせとして語れということなのです。はたして私たちはそのように語っているでしょうか。では現実の中で、私たちはどのように理解すれば、イエスについての福音が喜びとなるのでしょう。イエスとは誰で私たちとどのような関係があるかをはっきり理解していなければイエスについての福音は語れないでしょう。
今、私利私欲だけを追及する政治家ばかりの日本で、企業は利己主義経営が目立ち、学校は子供が素直に尊敬できる教師が少なく、子供が安心して頼れる親も少ないというのが現実です。今の日本はリーダーに失望しています。裏切られ続ければ、不信感が募りイエスについての福音が信じられず、歴史的人物以上のものにはならないのも無理はありません。
私の田舎は三重県伊賀ですが、小学生の頃この村を天皇陛下が通過されることになり、村人は大喜びをしました。それは天皇の通られる道はすべて国がきれいに舗装してくれるからです。地方自治でそこまでできない町村はこのような計画を歓迎しました。つまり、このことは村人にとって福音となったのです。このように聞こえなければイエスのことは福音にはならないのではないでしょうか。現代においてイエスを福音として伝えるためのポイントを3つあげてみました。
<1.リーダーとしてのイエス・キリスト>
ルカ19:1〜27の「ミナのたとえ話」を見ましょう。身分の高い人はイエスです。遠い国は天の御国で、全世界の支配権を受けるために天に行かれ、必ずここに帰ってくると約束しておられます。ところが彼が王位を受けることを望まない国民がいて、その人達は最終的に死刑にされました。ではこの話の中で、王位を受けて帰ってきた主人を福音だと受け止めた人は誰でしょう。しもべたちです。
この話から、誰もがイエスを福音として受け入れるのではないことが分かります。福音として受け入れるのは、身分の高い人としもべの関係を持った人達だけです。国民は良い王が治めてくれるのを願うものです。善良な王を喜ぶ国民は善良な国民で、憎む国民はそうではありません。つまり、善良な王を求めている人にとってイエスが帰ってこられるという知らせは福音になります。ここでイエスが福音であることを伝えるポイントは、イエスはあなたが願うリーダーシップのとれる力強い王であり、その方が必ず帰って来られる点です。
神の子、神の国を伝えていると拒む人も多いでしょう。けれども、
その人達を無理に説得する必要はありません。私たちの伝えるべき人は、王を求めている人だからです。
<2.あなたの存在の保証となるイエス・キリスト>
マタイ25:1〜13の「十人のおとめ」のたとえを見ましょう。
ここで花婿は誰にとって福音なのでしょう。婚宴に招かれている誰よりも喜んだのは花嫁です。では花嫁にとって花婿とはどのような存在かを考えてみましょう。
女性が自立できない社会だった当時、夫は自分の人生をまるごと預ける存在であり、生活を保証してくれる存在でした。ですから自分を支えてくれる存在を求めている人、人生の意味、自分の存在価値などに悩み、不安を抱いている人に、キリストはあなたの存在を支える夫のような方であることを知らせることは福音となるのです。自立し、自分の力ですべてを切り開いていける人にとっては福音にはなり得ません。しかし、自分を支えてくれる大きな存在を求め、魂の叫びに震えている人もいるのです。
<3.公平に報いて下さるイエス・キリスト>
ルカ12:42〜48の「目を覚ましているしもべ」のたとえを見ましょう。管理人に任せてでかけた主人はイエスです。では、主人の帰りが福音となったのは思慮深い忠実な管理人と、不忠実なしもべのどちらでしょう。
思慮深い管理人は主人のいない間、ぬかりなく忠実に家を管理しています。彼はいつ主人が帰ってくるかを知りませんから、緊張し責任を感じながら仕事をしていることでしょう。そこに突然、主人が帰ってきます。管理していたしもべは、管理の重荷をやっと降ろすことができるのでさぞかしホッとすることでしょうし、誠実に仕事をしてきたので心から主人の帰りを喜ぶのではないでしょうか。
他にもいます。不忠実な管理人の下で嫌々従っていたしもべとして決して不忠実な管理人に従わなかったしもべです。彼らは多少ムチ打たれたとしても主人の帰りを喜んだでしょう。
この世の中は不忠実なリーダー達がたくさんいます。ローマ13:1にこの世の権威で神によらずに存在する権威は一つもないとあります。それはクリスチャンか否かによりません。公平と義を求め、神を敬う敬虔な人は、悪い指導者には従いません。そのような人にとって、イエス・キリストは福音です。私たちはイエスだけが、この世を最も公平に義をもって治めるお方であることを力強く、確信を持って語るべきです。
<3つのたとえの共通点から>
3つのたとえの共通点は、どの話も主人が出かけて帰ってくることにあります。つまりすばらしいリーダーシップを発揮できるイエス・キリストは帰ってこられるということが福音なのです。
2000年も帰ってこないじゃないかと思う人もいるでしょう。イエスは神です。神は生きておられ、このように多くのたとえを語られた上、必ず帰ってくると言われているのです。一度地上に現れたイエスは、天にあがられ今見えない所におられます。それは再び、地上に帰ってこられるために他なりません。
心の正しい人は、神がすべて新しくつくり直されることを望みます。それは神の国が地上に現れることです。私たちが誠実に「主よ来て下さい。」と一心に願う姿こそ、悩み苦しんでいる人に対する生きたあかしとなります。そして私たちが本当に心から待ち望むことが必要です。確信を持ち、期待して待ち望んでいきましょう。
イエスは きっとまたくる
八木 重吉
きりすとが
うそをつくものか
またくるという
こないことがあるものか
2001/3/25日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)しかし、ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。(使徒8:12)
福音について2
〜イエス・キリストの御名についての福音〜
ピリポがサマリヤで、イエス・キリストの名前についての福音を語った時にその地域の人々が信じました。
今日は、イエス・キリストの名前についての福音を中心に語りたいと思います。
イエス様が地上に帰ってこられるまでの間、私たちはそのお名前をいただいて、それを信じ受け止めて使うことによって喜ばしいことが実現されるという事についてのお話です。3つのポイントを上げてお話ししましょう。
まず第一にヨハネ20:31から
イエスの名によって生命が与えられるということが、私たちにとって福音であるという事です。聖書でいう生命とは、単に生物学的な生命にとどまらず深い意味があります。私たちがイエスの名によって生きる時、神様にとって私たちの存在が有益な存在となる。これが生命を得るということです。
今の時代は、一人一人が心にしっかり頼れるもの(真理)を持っていることが必要です。
天地創造の神、公平な正しい神に尊ばれることは、何にも増してうれしいことです。ですから、ローマ帝国から迫害され退けられたサマリヤ人やユダヤ人にとって、イエスの御名は自分たちの存在を高く持ち上げてくださるお名前だったので「ローマ帝国は私たちを捨てた。しかし、イエス・キリストは私たちを捨てない。」と喜び、それが福音となったのです。彼らは迫害され軽んじられたからこそ、キリストの御名が「私たちの存在を価値付けてくれる」ということが理解できたのです。
第二にヨハネ14:13〜14
イエスの名によって求める事は何でも与えられる、という福音です。神のために有益な存在として生きている私たちが求めるものは、神に喜ばれることをしたいという気持ちですから、祈り求めれば必ず与えてくださるのです。
お母さんが幼い子どもに用事を言いつけようとするとき「〜しなさい!」と命令口調で言うのではなく、子どもが自発的にしてくれると嬉しいものです。その為には、お母さんにとってその子どもがいかに大切で価値があり有益な存在であるかということを印象づけることが大切です。そうすれば、子どもは親に喜ばれたいと思い喜んで用事をしてくれるので、親も子どもがその用事を達成するための助けを与えます。
それと同じように、神は私たちが神の為に働くのに必要なものを、必ず与えてくださるのです。そればかりか、愛する子どものために個人的な必要をも満たしてくださるのです。
御名を使って求めることは、その御名を敬うということであり、それは決して利用することではありません。自分の存在を尊いと言ってくださった神様の気持ちに応答して信頼関係がつくりあげられることでもあるので、人生が楽しくなり、祈りが長く答えられないことがあったとしても、喜んで忍耐できるのです。第三に 第1ヨハネ2:12
イエスの御名によって罪が赦されるということです。
聖書でいう罪の赦しとは、罪を犯して裁かれたとしても、もう一度成功するためにチャンスが与えられるということなのです。神は私たちの数々の失敗を、成功するまで赦し続けてくださるのです。そこには、徐々に成長してくれるという期待があるので、失敗した時に放任せずにしつけ(教育)をしながら同じ失敗を繰り返さないよう成功へと導いてくださるのです。そして失敗するたびに生じる損失は、イエス様が負ってくださるのです。これら3つのポイントを、大金持ちのドラ息子とすばらしいビジネスマンである父親との関係にたとえてお話ししましょう。
ある時、父親が旅に出るので息子にすべての仕事をまかせました。しかし、その家で働いている使用人は息子の未熟さを知っていましたから、不安な気持ちでいました。息子は自分でもダメな人間だと自分を低く見ていましたが、父親はこんな自分を信頼して全てをまかせてくれたのだからと、一生懸命に期待に応えようとします。それが生命を得るということです。
そして、自分の名前で何かをしても使用人は働かないけれど、父親の名前の権威を使うと働いてくれるということも体験します。息子にとって父親は、失敗をしたら絶対許さないという心の狭い人ではなく、心の広い寛容な人であると知っていたので、失敗を恐れず仕事を引き受けチャレンジできたのです。神は私たちの内側を見てくださり、隠れている才能を引き出そうと、この人生を与えてくださいました。
罪の赦しと、チャンスを与えてくださったのです。
これは全て、イエス・キリストの御名によってもたらされる福音なのです。ですからクリスチャンとして、イエス・キリストの御名を尊ぶ人生を真剣に生きる時「主の教えを喜びとする者は、何をしても栄える」というとおり、人生の成功をおさめることができます。
そして、御名を尊び義と公平を愛する人々が増え広がることによって、神様が望まれているように日本の国を変えることができるのです。
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JESUS FELLOWSHIP HIROSHIMA