2001 February Weekly Bible Message

 2001/2/4 日曜礼拝メッセージ(小栗 恵子伝道師)

主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリパでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならい。(詩篇95:7〜8 )

イエスはわが神、私たちは御手の羊
  

 今日はこのみことばから3つのことを学んでいきたいと思います。
<(1)主は私たちの神>
 私たちの信じているイエス・キリストは全能の神です。また聖なる方であり、全く罪のないお方でもあります。この聖いお方が罪人をお救いになられました。(ヘブル7:25) にはその救いは完全であると書かれています。
 神は罪をお嫌いになられますが、罪にしばられている私たちには目を止めてくださいます。神の救いは、罪という穴に落ちている私たちを上から引き上げるのではなく、穴に降りてきてくださり、背負い時には抱きかかえるようにして共に穴の底から光の中に移し出してくださるのです。
 努力して、それが報われている時には、自力で生きていける気がしますが、努力が報われなかったり、努力しようにも病や災いによってできなくなったとき、自分の存在価値を見失い人は失望します。どんなに努力をしても人は自らを聖くすることはできませんし、神に近付くことすらできないものです。
 ところが私たちの行いではなく、イエス・キリストの救いを信じることで、そのままの自分が存在していることに価値があることを知り、イエス・キリストを通して神に近付くことができるようになります。神に近付くとは神の支配下に移し換えられることを意味します。イエス・キリストは私たちと父なる神との唯一の仲介者だからです。
 旧約時代、神との仲介者は罪人である人間の祭司でした。祭司は命に限りがありますから当然、交替をします。けれどもそこにイエス・キリストという永遠の祭司がたてられ、自らの償いの血潮をもって神との仲介を今もしてくださっています。どんなにサタンが罪を読み上げようと、完全なる祭司であるイエスの血潮によって、すべては赦され、大胆に神に近付くことができるのです。
 素晴らしいイエス・キリストが私たちの神であることに感謝し、神への信頼を持ち続けていきたいものです。

<(2)私たちは主の羊>
 神は私たちを羊だといわれます。では羊とは、どの様なものでしょう。羊はおとなしく、素直で従順です。その反面、力が弱く、愚かで、方向音痴で迷いやすいので群れから離れると帰ってこれません。また、その毛は非常に汚れやすく、伸ばしほうだいにしているとごみが付き、虫がわいて病気になってしまうのだそうです。視力も弱く、毛で目が覆われると前が見えなくなってしまいます。羊は良い性格を持っていますが、その弱さゆえに狙われやすいものです。
 そんな羊である私たちについてイエスさまは(ヨハネ10:27)でこの様に言ってくださいました。
 『わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。』同じに見える羊でも、羊飼いは、自分の羊の名前を正確に呼ぶことができ、羊のほうも、自分の羊飼いの声を聞き分ける力を持っています。
 ここで気をつけたいのは耳にするものです。耳に入ってくるものはいつも好ましいものばかりとはいえません。静けさを好む人が騒がしい所にい続けると苛立ってきますし、常に叱られ続けている子供は落ち着きを失います。そのように耳に入ってくるものは人に大きな影響を与えるので警戒が必要です。
 明らかに良くないものに対して私たちはしっかり拒絶することはできます。では、判断しにくいものではどうでしょう。実はサタンはこの手をよく用います。エバをだました時もサタンはエバの判断に揺さぶりをかけ誘惑したのです。やさしく声をかけられれば警戒心はゆるみますし、その人がはっきり知らないことは揺さぶりの的となります。
 常に神は何と言われているのか確かめながら、神の声を聞き分けるセンサーを鈍らせない努力をしていきたいものです。

<(3)御声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない>
 これは神様が禁止の命令で語られています。心をかたくなにするとは心を頑固に閉ざしている状態です。神が私たちに語っておられるのに心を別のもので満たしていれば、受け入れることはできませんし、自分の都合で聞き入れたくないこともあるかも知れません。 『あのとき、あなたがたの先祖たちは・・・わたしを試み、わたしをためした。』(詩篇95:9)とあるのは旧約の出エジプトのできごとをさしています。奴隷生活に苦しめられていたイスラエルの民にモーセという一人の指導者が与えられ、奴隷から解放されました。エジプトから出た直後から危機的状況を幾度も経験しながらも神はそのつど大いなる御手のわざによって奇跡をおこし、民を助けられます。
 紅海を歩いて渡るという驚くべき奇跡を体験し、賛美まで捧げた民はすぐ水が飲めない、肉が食べたいなどとつぶやき、神に恨みごとをいい、エジプトを恋しがることを止めません。それでも神は民を見捨てず、要求を満たし、昼の陽射しから守り、夜の寒さからも守り続けられたのです。イスラエルの民が荒野を通らされたのは神への信仰を増すためでした。ところが民は神のみこころに反して、つぶやき続けました。私たちも祈って結果が得られないとき、毎日が単調にすぎていっているように感じるとき、同じようにつぶやいてはいませんか。過去の栄光をしっかり握って、あの頃は良かったと思うことはないでしょうか。
 ギリシヤ語で不従順を意味する「パラコエ」という言葉は、意識して聞かない状態を現しています。まさに神が語っておられるのに、心をかたくなにしている状態でしょう。
 神は言われるでしょう。『どうしてわたしの愛を疑い、わたしを試そうとするのか。』と。つぶやきは、恐れや不安がなくなったときに出てきます。それは神の守りを内側から破っていくようなものであり、サタンは決してそのすき間を見逃しません。神様がすっぽりと守ってくださっている状態を壊してまで、サタンに機会を与えて良いでしょうか。
 イエスさまは神の一人子でありながら、当時の極刑である十字架で惨めな姿をさらされることを選ばれました。それは一人も滅ぼしたくないと願う愛の証しであり、救いの完成そのものです。十字架こそすべての解決の道なのです。
 心をかたくなにして、つぶやきたいとき、十字架の愛を思い起こしてください。これほどまでに愛してくださる主のみすがたを思い起こすことができれば、あなたの持つ問題の解決を主が与えてくださることがわかるはずです。そして主を信頼する心を持ち続けていきましょう。信頼の心を主に開いた時に、神はあなたにゆっくりと語り始められるのですから。

   



2001/2/11日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。(創2:1〜3)

主の教え2 〜休みについて〜
  

「休み」とは「安息日」のことであり、「やめる、休む」というヘブル語からきています。「休み」は主の教えの中でも、とても大切なものであり、十戒にもでてきます。この十戒の最初の3つは「主を恐れること」についてであり、次の4つめが「休み」についてなのです。
 私たちの人生にとっても「休み」は大切です。人生に疲れている人は、世の中にたくさんいます。しかし、休日があっても休めない、すっきりしないのは何故でしょう。それは、重荷を負ったまま休んでいるからです。休むとは、荷物を降ろすことなのです。

重荷……人生の目的を達成することであり無駄なものではない。

 この重荷は人生で負って行かなければならないものです。しかし、休まずに負い続けてゆくなら倒れてしまいます。高速道路にあるたくさんのパーキングエリアは、なんの為にあるのでしょうか。それは、休まずに運転し続けるなら緊張しっぱなしで、大変危険な状態になるからです。
 人生をゴールまで全うするために、神は安息日を設けてくださいました。

〈休みについて〉
(1)休みは私たちの益のために設けられた(マルコ2:27)
 律法学者達はこの日を大切にする余り、安息日をルールとして守るため、大変細かく規則をつくりました。彼らは安息日の本当の意味を悟っていなかったからです。
 イエス様は彼らの間違いを正し、安息日の真の意味を教えられました。安息日は私たちの為につくられたのです。
 礼拝も安息日です。しかし、守らなければならないから来ているのであったら、少しも安息になりません。しかし、人生が長くなるほど、休みをとる必要がでてきます。この安息日(礼拝)を生かさなければ、人生にとって大きな損失になってしまいます。

(2)休みの起源…神が休まれたから(創2:1〜3)
 神は6日働いて1日休むという7日間のサイクルをつくられました。このサイクルを、私たちも生活習慣として適用することを神は望んでおられます。6日を一区切りとし、その最後に休むのです。今の、週に一度の休みは、聖書の教えからでています。

〈安息を体験する条件〉
(1)完成したと認める(創2:2)
 神が完成を告げられたとはどういう意味でしょう。それは、すべての仕事に区切りをつけ、やり遂げたと認めることです。
 やり遂げた、完成したという時、満足感を得ることができます。安息は、すべてが落ち度無く成された、OKだったと認められなかったらきません。
 あなたはこの一週間、いろんな重荷を負ってこられたことでしょう。それが解決しなっかたら、安心して荷物をおろしていなかったら、礼拝に来てもすっきりせず、かえって心が重たくなってしまいます。
 6日間の出来事すべてを、これでよかったと受け取れていないからです。すべてのことには感謝できないからです。
 しかし、クリスチャンにとっては、すべてが感謝となりえます。
(气eサ5:23,24)に、その秘訣があります。それは、神が私たちの人生を完成してくださるという約束です。イエス様の再臨までに私たちの人生が全うされるよう、神はすべての日程を備えてくださいます。
 過去の出来事は変えることはできません。しかし神を信じている私たちには、すべてをプラス、益と変えてくださいます。そのしるしとして十字架があります。この十字架によってわたしたちは神の愛を知り、その愛のゆえに神はすべてをプラスとして、私たちの人生を完成してくださると知るのです。それゆえ、神を信じ満足して礼拝を守ることができます。

(2)神が7日目を祝福された(創2:3)
 祝福とは喜び祝うことです。
 日本人は喜びを表現することがヘタです。ハワイの人々は、喜びを表情や動作、行動すべてをもって豊かに表します。
祝福を受けるとは、それを喜ぶ、表現をすることです。仕事でも完成パーティーや打ち上げがあります。これがあるので、次の仕事にとりかかる気力がでてきます。
 休みを得るためには、(1)の終わったという満足感と、この喜び祝うことが条件となります。
 
 礼拝で賛美をするのは、そういう6日間への満足と喜びの表現です。しかし、その満足と喜びはあなたの心次第です。すべてをプラスに変えるために、(ヨハネ14:1)「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」のみことばがあります。
 私たちが安息を得る基本は、いかに神を信じ、イエス様を信じているかにかかっています。それは理屈や理論ではなく、ただ神への信頼と感謝の心です。
 そのような心をもてると、安息が得られ疲れがとれて、次の仕事にかかる意欲が湧いてきます。
 
 神は必ず、私たちを完成させてくださいます。
 しっかりと安息を得ましょう。

   




2001/2/18日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。(マタイ23:23 )

主の教え3 〜誠実さについて〜
 

 今日は主の教えの3つめは『誠実さ』です。誠実さは人間の根本的な性質だと私は考えます。なぜなら人は神に似せてつくられたものだからです。
 誠実さという言葉には、敬う心、忠実、従順な態度、素直さ、正直などの意味が含まれます。そしてこの誠実さは信仰、信頼をともないます。誠実な人は相手に絶対的な信頼をおいているからです。

<誠実という教えの大切さ>
(1)マタイ23:23
 律法を守ることは大切なことだが、もっと重要なことがあるとイエス様は語られました。それは『正義、あわれみ、誠実』の3つです。聖書の表記方法はもっとも重要な事柄を3つめに置くので、この場合大切なのは誠実であるといえます。
 私たちがここにいるのは、育ててくれた親か親代わりになってくれた人がいるお陰です。感謝できれば、親を敬う誠実さが身に付きますし、感謝できなければ、誠実さを自分から捨てているのです。誠実さを保つか捨てるかは私たちの選択に任されています。

(2) ホセア6:6
 神に捧げる時、規則だから捧げるのではなく、まごころから捧げなければ、神を喜ばすことはできません。そのまごころは誠実さの現れだからです。

(3) ミカ6:6
 神が私たちに求められることは、誠実を愛すことです。それは誠実さを心の宝として大切に守ることを意味します。これこそ私たちの本音です。ところが、人生を歩んで行くうちに、本音である誠実さは傷付けられ、結果として本来素直に出てくるはずの誠実さは、おもてに出にくくなってきます。

<誠実さがもたらす良いもの>
(1) 詩篇31:23
 誠実さのない愛は偽りです。神は、神を愛するという私たちの心の内の誠実さを見出だされて喜ばれます。誠実さは結果によりません。なぜなら、誠実さは私たちの心の姿勢だからです。誠実さがあれば、どの様な愛し方であっても神は喜ばれるということです。
 誠実な愛し方は決して傷付けるようなことをしません。そして神は、その誠実さに喜びを見出だされ、その人を守り、堅く保たれるのです。

(2) 箴言11:3
 誠実さによって良い人生へと導かれます。裕福で温和な両親に育てられたが不良になった息子と、不品行な親に育てられたが、正直で、誠実な息子がいるとします。どこが違うのでしょう。親に対する心の誠実さのちがいが問題となります。環境が整っていても親に対する誠実さを捨て去れば、道から外れていきますし、環境が悪くても、親に対する誠実さを保つことができれば、道は整います。それは本人次第です。周囲の圧迫によって誠実を捨てるのか、それでも宝として保つのかが、人生の分かれ道となっているようです。

(3) 箴言21:21
 ここでも3つめにある『誉れ』にウエイトが置かれています。人々から誉れを得て喜ばない人はいません。みことばは、誉れを得たければ、誠実さを追い求めよとあります。みことば通り、誠実な人は、自己アピールしなくても人が、賞賛をもって寄ってきます。

(4) 箴言14:25
 誠実な証人は、人の良い面を見ていくのでその人を救い出すことができます。裁判を思い浮かべてください。誠実な証人は、犯した罪はありのままに、また決してその人が必要以上に悪く見られないように肯定的な面も交えて証言するでしょう。そのような証言を取り上げてもらえれば、罪を犯した人の刑は適切なもので確定するか、少し軽い刑でおさまる可能性もあります。けれども、個人的な恨みなどによって偽証されれば当然、刑は重くなります。私たちにはイエス様という、最も誠実な証人がいてくださいますから感謝です。

<誠実さの結果〜2つのあかし>
(1) 京都の伏見工業高校ラグビー部
 不良の集まりとなっていた京都の伏見工業高校ラグビー部はラグビー部とは名ばかりの部でしたが、ある時、転勤してきた体育教師が顧問となりました。この先生は、もともとラグビー選手で、過去によい成績も残していました。そこで、この部の立て直しに立ち上がったのですが、部員が練習に出てくることもなく、八方塞がりの状態です。
 そんなある日、先生はインターハイ優勝校との練習試合を取り付けてきました。練習しなくても勝てるとたかをくくっていた部員たちでしたが結果は、112 対 0で惨敗でした。うなだれて帰ってきた部員たちに、先生は「よくがんばった!」とねぎらいました。すると、部員の一人が涙をこぼしたかと思うと全員が大泣きをしたそうです。
 このことがきっかけで、彼らは練習をまじめにするようになり、一年でインターハイ優勝の栄冠を手に入れました。卒業後の活躍も目覚ましく、会社を起こし社長になっている人もいるそうです。一人の先生のひたむきな誠実さが、多くの学生達の人生を良い方向に導いたのでした。

(2) 東京・渋谷の忠犬ハチ公
 JR渋谷駅の前に忠犬ハチ公の銅像がたっています。この犬は東京大学農学部の上野博士の飼い犬で、犬好きな博士は他にジョン、エスという2匹の犬も飼っていて、3匹はいつも渋谷駅か東大の校門まで博士を迎えに行くことで有名でした。
 ところが博士が突然急死してしまい、事情を知らないハチ公は納屋にまとめてあった博士の持ち物と共に3日3晩飲まず食わずで過ごした後、渋谷駅で博士の帰りを10年間待ち続けました。ある日、駅の片隅で死んでいるハチ公が発見されました。3年しか主人とすごしていなかったのに10年も主人を待ち続けたハチ公の姿は渋谷中の人々の感動を呼び、ハチ公の上には花束の山と子供達の捧げたおやつの山ができ、僧侶がお経をあげに来たほどでした。そのうち銅像をという声が上がり、多くの人の寄付によってあっという間に銅像がたったのです。
 ハチ公の受けた愛を忘れない誠実さに人々は心動かされました。犬でさえ人から受けた恩を忘れないのです。私たちはイエス様にどれほどのことをしていただいたのか思い起こしてみてください。

 私たちは、子供の頃から誠実さをもって人と接しているものです。けれどもそれが不意に裏切られることがあります。子供であれば、「うるさい」と突き放されたように親からいわれた時に、受け入れられなかった痛みを覚えるでしょうし、大きくなってくれば、示した誠実さを利用された傷を持つこともあるでしょう。そんな経験をしていくうちに、傷の痛みから誠実さをうまくおもてに出せなくなってきます。
 けれども歴史的事実である十字架のみわざは、私たちに誠実さを取り戻すきっかけを与えてくれます。神がまごごろから愛を示してくださったあかしが十字架であり、十字架を受入れ、信じるには、誠実さが必要だからです。利害関係で十字架を信じても救いは成就しません。誠実さをもって信じたときに初めて十字架の素晴らしさや神の愛が見え、すべてのことが益とされ、神をおそれるという信仰もわいてきます。
 十字架を信じてみようと心動かされた時、聖霊様はあなたの心に触れてくださいます。そしてあなたの素直な誠実な心が、次第におもてに現れてくるようになってきます。誠実に十字架を見上げるとき、神の愛、みこころがあなたにも分かってくるはずです。
 今一度、自分の心を振り返り、痛みから一歩踏み出して、イエス様に誠実をつくし、主をおそれつつ歩んでいきましょう。

   




2001/2/25日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)

あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。(マタイ5:7 )

主の教え4 〜あわれみについて〜
 

 神をおそれることから始まり、安息、誠実と主の教えを学んできましたが、今日はその4つめとして「あわれみ」について学んでいきましょう。このみことばは「神からあわれみを受けたい人は、あわれみ深い者となりなさい。」という意味です。では、あわれみの大切さから見てみましょう。

<あわれみの大切さ(エペソ2:8 )>
 私たちが救われたのは、神様の一方的なあわれみの恵みによります。神のあわれみによって、イエス様が私たちのあがないとなってくださり、日々犯してしまう罪で即座に地獄に落とされることなく、やりなおしの機会が与えられています。神のあわれみなしに人は生きていけません。ですから神にあわれまれる者となるように、私たちもあわれみ深い者になる必要があります。

<神があわれみを注がれる目的(マタイ9:12〜13)>
 みことばに健康な人のためのあわれみではなく、病人のためにあわれみが必要なのだとあります。ユダヤ人の習慣にいけにえを捧げる儀式があり、それは罪が赦されるために重要なものでした。神がモーセに告げたこの儀式を神の民として選ばれたユダヤ人は罪を犯したら、いけにえを捧げればいいと安易に形式的に守り続けました。
 天地を造られた方が、牛や麦などのいけにえを必要とされるでしょうか。この儀式は、罪人が救われるためにという神様のあわれみの表現でした。ですからイエス様はイスラエルの指導者たちに『いけにえは好まない』と言われたのです。私たちは義人ではなく罪人であるからあわれみが注がれているのだということを忘れて、あわれみの心を持つことはできません。あわれまれていることを神様に感謝していきましょう。

<実際にあわれみを注ぐには(ルカ10:25 〜37)>
 では実際にどのように私たちはあわれみを注いだらよいのでしょうか。よきサマリヤ人のたとえからそれがわかります。当時ユダヤ人とサマリヤ人は同じ場所にいることも話をすることさえもしませんでした。ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑しきっていたのです。軽蔑されれば傷つきます。瀕死のユダヤ人を見てもサマリヤ人なら気にも止めないでしょう。ところがこの話のサマリヤ人は自分の受けた心の傷に目もくれず、一人の人間としてユダヤ人を助けたのです。ただ医者に連れていったのではありません。傷の手当てをし宿屋に連れていき介抱し、回復するまでの費用を全部負いました。
[真実のあわれみ]
 (1) あわれみを必要としている人に、いついかなる時にも人間関係を考慮に入れず手をさしのべる。
 (2) 相手の回復を目的とし、自分を犠牲にする。

 神と私たちの関係はどうでしょう。神の良さだけを利用しようとする人にでも、イエスの御名によって願うものを神は与えてくださいます。神様のおこころをいかにふみにじっていることでしょう。そうなることがわかっていても、父なる神はイエス様を与えてくださいました。あわれみには犠牲がともなうものなのです。

<あわれみを受けた者の責任(マタイ18:33 〜35)>
 多額の負債を主人から免除されたしもべが、友人に貸していたお金をゆるしてやることをしないで、友人を牢に入れてしまいました。そのことを知った主人はしもべに対して『私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』と言いました。あわれみを受けたのだから、同じようにあわれみを必要としている人に対して、あわれみを注いでいくというのが、私たちのはたすべき責任です。
 私たちはイエス様によって罪が赦されました。ですから人に対しても赦していかなければ、同じように測り返されるのですから、赦されたはずの罪まで自分に戻ってきます。だからこそ、あわれみをもって人に接し、赦していくのです。
 誰でも、あわれみの心をふみにじられた経験を持っています。その痛みから、あわれむ心が衰え、軽んじられます。けれどもそれはあわれんだ報いを相手に求めた結果です。それは本当のあわれみではありません。何かを求めるとしたら、あわれんだ相手が次に誰か助けを必要としている人に対して、同じようにあわれみを注ぐことを望むべきでしょう。それを望むことができれば、傷付くことはありません。
 私たちは自分で決して返すことのできない罪という負債を抱えていましが、神様のあわれみによって、その負債を帳消しにしていただきました。ですから友人をゆるさなかったために牢に入れられたしもべのようにならないために、私たちはゆるされた者らしくあわれみを注ぎ続けるのです。多くをゆるされたのですから、人間関係からくるゆるせない心は小さなものではないでしょうか。神様からのあわれみを失わないために、私たちもあわれみ深いものとなっていきましょう。神様の大きなあわれみを思えば、できるはずです。

<あわれみを受けた少年の夢>
 インドのカルカッタに「死にゆく者の家」というマザー・テレサのつくった施設があります。ここは死を待つだけで回復の見込みのない人々を収容する施設です。そこにある日一人の母親が運ばれてきました。苦しい生活を支えるために働き詰めに働いて体をこわしたのです。この母親には幼い一人息子がいたのですが、まもなく母親は死に、息子はマザー・テレサの孤児院で生活が始まりました。
 幼なかった息子は成長し、一つのビジョンを持ちました。それは司祭になることです。世話をしていたシスターたちは驚き、理由を尋ねると、少年は「マザー・テレサが僕にしてくれたことを司祭になって他の子供達に今度は僕がしてあげたいんだ。」と答えたそうです。
 あわれみを素直に受けとると、人は自然にあわれみを注ぎ出すようになるのです。そうなれるためのいやしと解放を祈りつつ、あわれみ深い者となることを目指していきましょう。


   



  

JESUS FELLOWSHIP HIROSHIMA