2001 Jun Weekly Bible Message
2001/1/7 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7 )
種を蒔く生き方とその刈り取り
今年の教会のモットーは(詩篇1:2,3 )ですが、何をしても栄えるとあるからには、何かしなくては何もないとも言えます。そこで何をするのかが(ガラテヤ6:7 )のみことばです。私たちが種を蒔くことによって、神はそれを祝福し、すばらしい収穫を得させてくださいます。しかも何をしても栄えるのですから、蒔いた種は必ず大収穫をもたらすという保証付きです。
さて、『その刈り取りもすることになります。』という言葉に注目しましょう。畑仕事の場合、必ずしも種を蒔く人と収穫する人が同じだとは限りませんが、人生においては蒔いた人が必ず刈り取るという法則があるようです。つまり、生きていく道筋に良い物を蒔けば良い物を刈り取り、悪い物を蒔けば悪い物を刈り取ることになるということでしょう。私たちは自分の生き方に責任があります。『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。』とは、「無責任な生き方をしても良いと思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではなく、私たちの生き方の責任は問われるのですから気をつけなさい。」という意味です。<自分で蒔いた種は自分で必ず刈り取る>
このみことばから心しておかなければならないのは、自分で蒔いた種は自分で必ず刈り取るという点です。蒔いた種の収穫は今すぐでなくても、何年後かに必ずやって来ます。 私たちのからだは、そのことを証明しています。毎日する食事は日々の活動エネルギーとして消費されるものと備えとして蓄えられるものの他、新しい細胞を作り出すために使われます。食物は摂取されてすぐにからだの細胞に作り出されるわけではありません。驚くべきことに、今日食べた食事が、新しい細胞として生まれるまでに、体内で骨細胞は2年、血液細胞は3ケ月、肝臓の細胞になるまでに1ケ月を要するのです。つまり今日の食事の結果は、短くて1ケ月以上たたなくては出てこないということになります。日々の食事をおろそかにしていると数か月後のあなたのからだはどうなるでしょう。
私たちのからだが、私たちの責任において維持されているのと同様に、私たちの生き方もまた、日々の歩みによってその刈り取りをすることになることを覚えておきましょう。
<何のために種を蒔くのか>
『自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。』(ガラテヤ6:8 )
私たちは何のために蒔くのかを考えて種蒔きをする必要があります。みことばから2種類の種蒔きがあることがわかります。
(1) 肉のための種蒔き・・・・肉の欲望を満たす種蒔きで永遠の滅びを刈り取る。
(2) 御霊のための種蒔き・・・神の愛に報いるための種蒔きで永遠のいのちを刈り取る。私たちがどちらの動機で種蒔きをするかで何を刈り取るのかが決まります。
たとえばジャザサイズの講師が、生活の安定と自分の健康維持だけを目的として仕事をした場合、この職業は肉の種蒔きをすることであり、自分に都合の良い生徒(リズム感が良く、身のこなしが軽い)は歓迎しますが、運動音痴な生徒が来ると疎んじてしまいます。 しかし、この講師が御霊のための種蒔きに方向を変えるなら、この職業を隣人を自分のように愛するために用いようとするので、運動が苦手で肥満体質な生徒が来ると、生徒の健康維持のために全力をつくそうと、やる気がわいてくるのです。
私たちがするすべての仕事は、助けが必要な人のためにあります。御霊に蒔く人は与える心がありますから、与えることを喜びとして永遠のいのちに至るのです。喜びを感じられない人はどこかで霊的栄養素が不足していますから、点検が必要でしょう。<種蒔きの人生とは、どの様な生き方なのか>
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』(ヨハネ12:24)
私たちは一粒の麦として蒔かれてこそ実を結ぶ人生です。それは神がすべての人を愛しておられるように、私もすべての人を愛するという気持ちを持って自分を捧げ、蒔くということです。自分の善意の行いに対する報いを人に求めるのは、自分の業績を誇り、自分の存在価値を高めようとする意識からで、肉に蒔くやり方です。しかし、御霊に蒔く人は神からの報いを期待しますから、人からの報いがなくても落胆もなく、ゆるすことができます。
イエス様は一粒の麦としてご自分を十字架で蒔かれました。罪人を救ってどれほどの報いがあるでしょう。けれども愛と情熱をもって一粒の麦の生き方を示してくださいました。そして、全世界でキリストの愛のあかしが歴史的事実として輝いています。
イエス・キリストがシャロンのバラであるならば、私たちもバラなのですから、同じ花を咲かせるはずです。同じ花が開くということはイエスのように自分を捧げ、一粒の麦として生きることを意味します。<一粒の麦として生きる>
黒人指導者として有名なキング牧師(マルチン・ルーサン・キング) は、まさに一粒の麦として生きた人でした。彼の信仰理念は『汝の敵を愛せよ』で、非暴力をもって社会的抗議し、黒人の公民権を回復していきました。彼は望んで指導者になったのではなく、牧師として当たり前のことをしただけだったのです。
きっかけとなったのは1955年アラバマ州のモントゴメリーという町で起こった事件でした。一人の黒人女性がバスの座席に座っていました。次の停留所で白人が乗ってきましたが席がありません。そこでバスの運転手が座っていた黒人女性に向かって席を譲るよう言いました。ところがこの黒人女性は席を譲らず無視し、とうとう警察に逮捕されてしまったのです。この州には、黒人は白人に席を譲らなければならないという条例がありました。そこで黒人差別に対する抗議からバスボイコット運動が始まりました。
この時、キング牧師は、いきり立つ黒人たちに「汝の敵を愛しなさい。呪うものを祝福しなさい。暴力で答えるのではありません。差別があるバスならば乗らなければいいのではないでしょうか。」と、おだやかに民衆に語りかけました。
バスの利用者は大半が黒人であったために、この運動によってバス会社はたちまち経営困難に陥ります。キング牧師はこの差別問題を最高裁まで上告し、一年の審議が行われたすえバスの座席に対する条例は廃止になりました。
キング牧師は抗議の方法を教えた指導者ではありません。黒人の間に『汝の敵を愛せよ』というキリストの教えを伝え、実行した指導者です。このようにして次々と黒人の権利を回復していく指導者として立てられ、最後は凶弾に倒れましたが、その生き方は一粒の麦として捧げられたものっだったと言えます。キング牧師は日々、危険にさらされていました。自宅に爆弾を仕掛けられたりもしたのです。それでも黒人教会で『汝の敵を愛せよ』とメッセージをし、身をもってそれを実行していきました。そして残された民衆も神に喜ばれる方法での権利回復に務めていくことができるようになったのです。
キング牧師ほどの働きが誰にでもできるわけではありませんが、私たちはみんな一粒の麦として生きるように造られた者です。人のために生きようと心に決めると、不思議に力、愛、勇気がわいてきます。それがいのちの本質の輝きです。
今年は、皆さんとともに一粒の麦がもたらす大いなる祝福の実を結んでいく誇り高き人生をおくりたいと思います。
2001/1/14 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師) しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1 ペテロ2:9)
クリスチャン人生の魅力
私たちクリスチャンは闇の人生から、驚くべき光の人生に導き入れられた者たちであり、それは天と地程の差があります。
今日私たちは、このクリスチャン人生の魅力を再認識し、そのすばらしさを日々実感する者となりましょう。
その魅力がわからないと、すこしも輝きがない人生になってしまいます。
<クリスチャン人生の魅力>
(1)神が私たちをイエス・キリストとの交わりに入るよう招待してくださった人生(气Rリント1:9)このことがどうして魅力ある人生なのでしょうか。
(ルカ19:1〜10)のザアカイの話を読んでみましょう。エリコは古い商業都市で、ローマが税金を取り立てるのに大変都合のいい所でした。
ゆえに、たくさんの取税人がおりザアカイはこの取税人の頭だったのです。取税人はお金のない人からも無理やりお金を取るということで人々から大変嫌われていました。しかしザアカイは人に嫌われても、お金持ちになる方に魅力を感じたのです。
ここでザアカイはイエスを見たいがゆえに木に登って待ちます。
これはただの好奇心以上のものです。おそらくお金を選んで歩み始めた人生の途上にあって、彼はお金では満たされない孤独を知り始めていたのではないでしょうか。
イエスに突然名前を呼ばれて「今晩あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われた時、大喜びでイエスを迎えたところからもそのことがうかがえます。
さらには、人々の非難に対して「財産の半分を貧しい人々に施します。」と宣言するまでに、彼は突然変えられました。
彼はもはや取税人としての人生に嫌気がさしていたのではないでしょうか。その彼の心に決定的に変化を与える何かが起きたので、彼はその人生観を全く180°変えることになったのです。
その変化をおこしたものは何でしょうか。
それこそがイエス・キリストとの出会いです。
イエス・キリストと親しい関係になること、それ以上のすばらしさはないとザアカイは悟ったのです。
私たちとイエスさまの関係は年に一回の年賀状だけというようなものではありません。自分の心を打ち明けられる本当に親しい関係です。このような方を知ることは人生の大きな価値であり、何ものにも勝ってすばらしいことです。
教会に来る理由も、イエスさまを知るすばらしさを知ったゆえです。
私たちは祈りによってイエスさまと出会うことができます。
「イエスさま」と祈る時、イエスさまはある時はみことばで、ある時は幻で、またはことばにならないことばで魂に直接祈り求めるなら、イエスさまはすぐに近づいてくださいます。(ザアカイにもイエスさまの方から近づかれたように)
(2)代価をもって買いとってくださった人生(气Rリント7:23)
これは「あがない」と言います。
-例- 自分で造った家宝の時計が盗まれた。大きな失望とショックで歩いていて、ある質屋でそれを見つけた。その主人は、これほどの物は300万円と言う。
いくら自分の物と主張しても、何にもならない。その主人に300万円払って買い戻すか、あきらめるしかない。払うかやめるか。
その決断は、その時計にそれだけの価値を見いだしているかどうかによります。300万円払って買い戻される時、その時計は「あがなわれた」のです。
私たちの人生は、神によってあがなわれたものです。
もともと神に似せて造られたものであるのに、自分勝手に生き神から離れてしまいました。しかし神は私たちを見捨てず、探し出し、滅んでも仕方のない私たちを、ご自身のひとり子の犠牲という、余りに大きな代価を払って買い戻してくださったのです。
それほど神は私たちの人生を魅力的な価値あるものと見てくださっています。
それほどのすばらしい魅力が私たちの人生に秘められています。
これは驚くべきことです。この人生をどのように神は使ってほしいと願っておられるのでしょうか。
-例え<与えられた1ミナ>-
身分の高い人=イエスさま
お金=あがなわれた人生
神はひとりひとりに、平等にあがわなれた人生を与えてくださいました。(10人のしもべは1ミナずつもらいました)その人生でどのような結果を出すかはあなた次第です。
神はあなたの手に、もう一度人生をゆだねられました。
先週語ったように、蒔いた物は刈り取ります。しかし、クリスチャンは何をしても栄えると約束されています。
それを信じて積極的に種を蒔けば刈り取れるのです!
なんとすばらしい人生でしょう。しかし、最も悪いのは、与えられた人生を少しも役立てず隠してしまうことです。(1ミナを隠していたしもべ)主人の願いは、役立てることであり、1ミナを生かすことです。
ここで1ミナをなくしてしまった人はひとりもでてきません。
何故なら、失敗はないからです!!
神様は私たちの人生を守ってくださいます。
私たちの人生、いのちは神さまのものなのですから。商売しても、もとだけは返ってくるように最低してくださいます。投資しても投資しただけは返ってきます。使わなかったら、神はそれを嘆かれます。役立てることが大切です。
もし100万円を渡されて、これで商売したら必ず成功すると約束されたらあなたはこれをどうしますか?
神はあなたを信じて人生をもう一度あなたにゆだねられました。
思い切ってこの人生を神のために用いましょう。
2001/1/21日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」(ヨハネ4:28〜29)
積極・大胆さの裏付け
<前向きになれない理由>
今日は、この女性から積極・大胆な生き方を学んでいきましょう。私たちがものごとを積極的に、大胆にとらえられないのは確固たる裏付けがないからです。特に日本では封建社会が長い間基盤となってきましたので、積極的に考えられる人は、ごくわずかです。
前向きにものごとを考えられないのには大きく2つの理由があります。
(1) 比較社会の中で常に優劣をつけられ続けた結果、心に傷を受け、傷が痛む場合。
(2) 失敗の結果、存在価値を否定され、自分の存在理由、価値を見失った場合。
これらの傷は救われていやされるのですが、いやされただけでは大胆にはなれません。積極、大胆になるためのには、そうなれる裏付けが必要です。
<積極・大胆さの3つの裏付け>
(1) 受容の愛に支えられる(第一ペテロ4:8 )
受容の愛とは無条件にそのままの状態で受入れ、愛してくれると言う意味です。みことばでは『愛は多くの罪をおおう』とあらわされています。では多くの罪をおおう愛とはどういうものでしょう。2つの意味があります。
1つめは、おおい隠すこと。罪を犯し、汚れた私たちの上に受容の愛が神から注がれると、その愛は私たちの汚れをすっぽりと包み隠すコートのようになります。
2つめは、身代わりになること。悪い種を蒔くとその刈り取りは自分ですることになりますから、当然、蒔いた者の上に災いや病気がやってきます。そのように攻撃してくるものと、種を蒔いた者との間に受容の愛は立ちはだかり、当然受けるべき悪い報いを身代わりに受けてくれます。それは罪を犯した者がその報いによって滅ぶことのないようにするためのものです。これこそ十字架の愛です。
この『多くの罪をおおう愛』を知っていれば失敗を恐れなくなります。では(ヨハネ4:28〜29)の女性は、この愛をどの様に受け止めたから大胆になれたのでしょう。
彼女はサマリア人でした。サマリア人はユダヤ人と他民族との混血で、神から選ばれた民の血を汚したとしてユダヤ人からは話すことも、一緒にいることも忌み嫌われていました。また彼女には5回も離婚歴があるうえに、一緒に暮らしている男性は正式な夫ではありません。当時は女性というだけで男性よりずっと身分の低いものとされていましたが、離婚歴があると更にその地位は下がり、人前に出るのもはばかられるほどでした。ですから普通の女性は朝早く一日の最初の仕事として井戸に水を汲みに来るのに対し、この女性は、わざわざ人と顔を合わさない時間を選んで水を汲みに来たのです。それだけでユダヤ人であるイエス様と普通ならば声をかけられるどころか目を合わせることすらありえないことでした。サマリア人にとってユダヤ人と会話することさえ恐怖だったのです。
ところがイエス様はこの女性に、「わたしに水を飲ませてください。」と声をかけられました。ユダヤ人どうしで話すように、優しく話しかけたのです。それは対等な立場をとった話し方でした。当時、男性と女性が対等に人目もはばからず話すことは社会的制裁を覚悟しなければならないほどの大変なことでした。しかし、イエス様の優しい語調で、彼女は受容の愛を感じとり、大胆にイエス様と話し続けることができたのです。
(2) 絶えず赦しが与えられる(ルカ7:47)
失敗した時にゆるされなければ、もう二度とやってみたいという気持ちにはなれません。しかし、失敗しても何度でも成功するまでやってみなさいとゆるされ続ければ挑戦する勇気が持てるようになります。
(ルカ4:47)の女性がしたことを現代に置き換えて説明するとこうなります。風俗を職業としている女性が、国会議員の家に招かれ、食卓についておられるイエス様の足にしがみつき涙で御足をぬらし、髪の毛で拭い、香油を塗りました。冷ややかな目で見ている議員達であるパリサイ人に対し、イエス様は「この女の多くの罪は赦されています。と言うのは、彼女はよけい愛したからです。・・・」と言われました。
彼女の行動は普通では考えられない大胆さがあります。赦された感謝をどうしてもイエス様に伝えたいというあふれる感謝からこの大胆さは生まれました。それは自分が赦されているという確信が裏付けとなっているのです。
多く赦されるとは、絶えず赦され続けるということです。1度で成功することは希です。10回で成功する人もいれば1000回やって成功する人もいます。けれども1000回失敗し続け成功した人のほうが、1度で成功した人よりも多く感謝し、愛すると神は言われます。
罪を神が喜ばれないことをクリスチャンは皆知ってます。それでも弱さから罪を犯してしまうのですが、すぐに裁かれないのは赦されているからに他なりません。なぜ赦され続けるのでしょう。それは、失敗を恐れず積極、大胆になれる者に変えられるためなのです。 悔い改めとは、「神様もう一度チャンスをください。」と求め、チャレンジしていくことで、「失敗しました。もう二度としません。」とじっとしていることではありません。チャンスをくださるのですから、時間一杯までチャレンジしていこうではありませんか。
(3) 期待される存在である(ヨハネ15:16 )
私たちは役立たずではありません。神が期待し選び、神の子となるよう任命してくださったからです。任命するとき人の可能性に期待して選びます。神は私たちに、神のご計画の中で素晴らしい働きをすることを期待して選んでくださいました。選ばれたからこそ、教会に集い、賛美し、祈ることができるのです。私たちは心痛み大胆になれないことがあります。そんな時、この3つの裏付けをもって痛みを包み、決断していくことです。どんな自分でも変わりなく愛し続けてくださり、失敗しても赦し、何度でもチャンスをくださる上に、大いなる成功に期待してくださる神がいることを確認することで、積極、大胆な生き方ができる勇気がわきあがってきます。
この3つを裏付け、支えとして用いて、新しい年を前進していただきたいと思います。
2001/1/28 日曜礼拝メッセージ(辻 秀彦牧師)この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰にはいった。(使徒13:12)
主の教えとは 〜主をおそれる〜
信仰が堅く建て上げられるために、今回からシリーズで「主の教え」の土台と骨組みを学びます。
私たちは主の教えを喜びとしなければ、栄えることはありません。
(使徒13:12)から、「主をおそれること」が主の教えの一番目であることが分かります。
ここで、地方総督であったセルギオは、福音を聞こうとしているのに妨げ続ける魔術師エルマを、パウロとバルナバが、神の力と権威を持って退けたのをみて、神をおそれて信仰に入ったことが記されています。
神をおそれることを本当に学んだ人は、その後信仰から離れることはありません。いくら奇跡を体験したからといって、天国にいくことはできません。ただ、神をおそれることによって、私たちは救われ、永遠の天国に入ることができるのです。
この主をおそれることは、(箴言3:6)にも書かれています。
また、このみことばは、(詩篇1:2〜3)にも通じるものです。
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」とは、神の主権、力をおそれ敬う姿勢を人生のどのような場面においても持つことであり、「そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。」とは、まっすぐに全力で走ることのできる道、つまり、栄えることができるという意味になります。
自分の欲のゆえに、神の介入を拒むことがないようにしましょう。受験やリストラにあっても、主を認める姿勢を崩してはなりません。この姿勢の大切さを(ダニエル4:20〜27)のネブカデネザル王の例から学ぶことができます。
【ネブカデネザル王】
ここから、何をしても栄えるというすばらしい約束とともに忘れてはならない重要なポイントがあることに気付きましょう。
彼はアフリカ大陸、ヨーロッパ大陸、中東、アジアにまで至る歴史上類をみない最大の帝国を築いた人です。彼は成功から成功、何をしても栄えるというすばらしい経験をし続けた人です。一人の王が、これほどの広範囲の様々な種族を治められたということは本当に不思議です。
ここで忘れてはならないのは、すべての権威は御子にあって造られており、天が地を治めているということです。この真理は国であっても、家庭であっても同じです。王や家長を立てられるのは神であって、自分がそれを成し遂げるのではありません。
しかしネブカデネザルは、(ダニエル4:30)にあるようにすべての成功は自分の力で成し遂げたものであり、神がそのようにしておられるということを忘れてしまい、高慢になってしまいました。高慢になってしまったらすべては終わりです。
このような権力を与えられている人には、天における見張り人がいます。(ダニエル4:23)
それは、@地上の権威者をおさめる天の権威者がおられるゆえ、A大きな権威を持っているものが間違いを犯すことをさけるためです。
それゆえ何をしても栄えるという大きな約束が与えられている者として、天の見張り人の存在を常に意識する必要があります。そしてこれが主をおそれるということです。それによって、高慢にならないよう気をつけることができます。
〈神が権威を与える条件〉
(ダニエル4:17)ネブカデネザルを神が選ばれた理由は、人間の中で最もへりくだった者であったからです。大きな権威と力が与えられるということは、大きな危険が伴います。神の懲らしめを受けないためには、へりくだることが大切です。ネブカデネザルは異教徒でしたが、へりくだった人ゆえに、神に選ばれました。
「天が地を支配している」ことを悟った時、彼は再び王として立てられたのです。
〈懲らしめを回避する方法〉
神はすぐには懲らしめを与えられません。必ず忠告が事前に与えられます。(ダニエルがネブカデネザル王に忠告したように)
それでは、懲らしめを回避する方法を3つあげます。
1.勧告を快く受け入れること
2.正しい行いによって罪を除くこと
3.貧しい者をあわれんで咎を除くこと
この中で特に重要なのは1.勧告を快く受け入れることです。
高慢な人は、人の勧告を受け入れられません。特に成功している時はそうです。
それゆえ、良い行いと結果を出しているクリスチャンは気をつけないといけません。そういう人は、牧師のメッセージを聞いて受け入れる姿勢がなくなる恐れがあります。
そのような時、ネブカデネザルが受けたのと同じ懲らしめが来ます。
自分が努力してできていることを、「神様、感謝します」という形で現わす時、高慢になっている可能性があります。特に祝福されている時こそ、その点に気をつけましょう。
ルシファーも被造物の中で最高の地位にあった時、彼は心の中で高慢を創造し、それゆえ堕落してしまいました。
私たちはどのような時でも、たとえ相手が間違っていると思える時でも、勧告、忠告を受けることが大切です。高慢さこそが最も危険です。
大きな祝福こそ、天の見張りが厳しくなります。牧師は本当に厳しく見張られます。
勧告を受けた時は、すぐにへりくだりましょう。そして、主を認めましょう。主を認めるということは、自分の上に立てられた権威者を認めるということです。
ヨセフは、へりくだりを多くの苦しみの中に学び、ついに権威ある者として栄えた人です。
「何をしても栄える」ようになるために、すべて上に立てられた人々を(上司や両親、牧師など)受け入れましょう。へりくだる者は栄えます。
人を見るのではなく、主を見上げてへりくだりましょう。
![]()
JESUS FELLOWSHIP HIROSHIMA